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琉球人は沖縄の先住民なのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/704.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 11 月 02 日 17:47:29: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 風俗嬢に沖縄出身女性が多い理由 投稿者 中川隆 日時 2019 年 2 月 08 日 09:18:43)


琉球人は沖縄の先住民なのか?


日本人の遺伝子の 90% は朝鮮からの渡来人で、縄文系は僅か10%
琉球人の遺伝子の 30% は縄文系
アイヌ人の遺伝子の 70% は縄文系


縄文人の起源、2〜4万年前か 国立科学博物館がゲノム解析 2019/5/13
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44722870T10C19A5CR8000/


東京でサンプルを取った本州の人々では縄文人のゲノムを約10%受け継ぐ一方、北海道のアイヌの人たちでは割合が約7割、沖縄県の人たちで約3割だった。


国立科学博物館の神沢秀明研究員らは13日、縄文人の全ゲノム(遺伝情報)を解析し、縄文人が大陸の集団からわかれた時期が今から約2万〜4万年前とみられることがわかったと発表した。日本人の祖先がどこから来たのかといった謎に迫る貴重なデータとなる。詳細を5月末にも学術誌で発表する。

国立遺伝学研究所や東京大学などと共同で、礼文島(北海道)の船泊遺跡で発掘された縄文人女性の人骨の歯からDNAを取り出して解析した。最先端の解析装置を使い、現代人のゲノム解析と同じ精度でDNA上の配列を特定した。

特定した配列を東アジアで現在暮らす人々の配列と比べた結果、縄文人の祖先となる集団が東アジアの大陸に残った集団からわかれた時期が約3万8000年前から1万8000年前であることがわかった。

縄文人は日本列島に約1万6000年前から3000年前まで暮らしていたと考えられている。3000年前以降は大陸から新たに弥生人が渡来し、日本列島に住む人々の多くで縄文人と弥生人以降のゲノムが交わったことがこれまで知られていた。

今回の解析では、国内の地域ごとに縄文人から現代人に受け継がれたゲノムの割合が大きく異なることもわかった。

東京でサンプルを取った本州の人々では縄文人のゲノムを約10%受け継ぐ一方、北海道のアイヌの人たちでは割合が約7割、沖縄県の人たちで約3割だった。

ゲノム情報からは船泊遺跡で発掘された女性がアルコールに強い体質であったことや、脂肪を代謝しにくくなる遺伝子の変異を持っていたことなどもわかった。現代人の様々な疾患について、今回の縄文人のゲノムから説明できる可能性があるという。

古代の人類のゲノムを解析する試みは欧米を中心にネアンデルタール人などで進んできた。縄文人の全ゲノムが読まれたことで、アフリカで生まれた人類集団がどのように東アジアの各地に広がったか研究の進展が期待される。

今後、研究チームはさらにデータの解析を進める。配列を公開して海外の研究機関との共同研究も検討していく。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44722870T10C19A5CR8000/


▲△▽▼

現代琉球人 Y-DNAハプログループ比率

D1a2--45.1% : 縄文系
O1b2-23.3%(旧表記O2b) :長江系稲作民
O2---18.9%(旧表記O3):漢民族系
C2----1.5% :縄文系
C1----6.8% :縄文系
O1b1--0.8%(旧表記O2a) :長江系稲作民


現代日本人 Y-DNAハプログループ比率

D1a2a--32% :以前は縄文系だと言われていたが否定された、四川省の焼畑農耕民の可能性が高い
O1b2-32%(旧表記O2b) :長江系稲作民
O2---20%(旧表記O3):漢民族系
C2----6% :縄文系
C1----5% :縄文系
O1b1--1%(旧表記O2a)
O1a---1% : 長江系稲作民
N1----1%
D1a,Q1--1%未満
(2013 徳島大 佐藤等 サンプル数2390)


現在の台湾の先住民系民族のY-DNAハプロタイプの出現頻度

O2 11.7% : 漢民族系
O1 :80.3% : 長江系
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-2.htm


現在の中国の自称漢民族のY-DNAハプロタイプの出現頻度
O2 53.3% : 漢民族系
O1 24.5% : 長江系稲作民
C2 7.8% : モンゴル・ツングース系
N 6.9% : トルコ系
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-16.htm

現在のアイヌ人のY-DNA出現頻度調査まとめ

D1a2* 81.25%: 縄文系
D1a2a1 6.25%: 和人系
C2 12.5%: オホーツク文化人系


韓国人のY-DNAハプロタイプの出現頻度

O2: 43.3% : 漢民族系
O1:30.0% : 長江系稲作民
C2: 11.3% : モンゴル・ツングース系

▲△▽▼


琉球国王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E5%9B%BD%E7%8E%8B


琉球国王は、1872年(清: 同治11年、日本: 明治5年)まで沖縄県に存在した琉球王国の君主及びその外交称号であり、明及び清に貿易上の理由から朝貢した際に授けられた封号もそれに含まれる。琉球国内では御主と呼ばれた。外交上、ならびに正式名称は琉球國中山王(りゅうきゅうこくちゅうざんおう)。

本項目では、琉球王国成立(1429年)より以前に琉球に君臨し、または君臨したとされる王統についても併記する


一般に王または王号は、由来が諸説あるため、明確な起源は明らかではない。琉球国王の場合にも、その王または王号の起源の一つが、明に貿易上の理由から朝貢して冊封を受けてからと言われているが、文献ではそれ以前の時代の王についての記載もある。明時代には、1404年(明: 永楽2年)2月、察度王統の二代・武寧(1356年 - 1406年)の時、明の永楽帝が冊封使を派遣し、武寧を中山王(ちゅうざん おう)に冊封した。これが琉球最初の冊封である。武寧の父・察度が1372年(明: 洪武5年)に初めて朝貢した際、冊封を受けたとの説もあるが、琉球側の史書『球陽』および中国側の史書『明実録』を見る限り、皇帝から様々な品物を下賜されたとの記述はあるが、冊封を受けた、もしくは王爵を授与したとの記述は見あたらない。武寧王が冊封を受けた2ヶ月後の同年4月には、山南(南山)王国の汪応祖も冊封を受けて、山南王に封じられた。

後世の史書では、察度王統以前にあったといわれる舜天王統や英祖王統の歴代君主にも王号が用いられている。これは史書編纂の折などに王に相当する人物という意味であり、実際には、某按司を王とみなしたとの記載であるという意見もある。


琉球国王

天孫氏王統

『中山世鑑』によれば、琉球最初の王統は天孫氏王統(天孫王統)であったと伝えられる。天帝の使として下界に降った女神アマミキヨは三男二女をなし、長子及びその子孫が歴代の国王になったという。天帝の子孫にあたることから天孫氏と呼ばれる。

天孫氏は25代17802年にわたって続いたが、最後の王(思次良金あるいは思金松兼王という。『椿説弓張月』には尚寧王)が重臣の利勇に殺されて断絶し、その利勇もやがて舜天に誅殺された。実在したかどうかについては神話・伝説の域を出ない。

舜天王統

源為朝の落胤とも伝えられる舜天の立てた王統が舜天王統である。 琉球王国の正史『中山世鑑』や、『おもろさうし』、『鎮西琉球記』、『椿説弓張月』などでは、12世紀、源為朝(鎮西八郎)が現在の沖縄県の地に逃れ、その子が琉球王家の始祖舜天になったとされる[1]。

この王統も伝説的な意味合いの強い王統だと考えられる。


真偽は不明だが、舜天王統は正史として扱われており、この話がのちに曲亭馬琴の『椿説弓張月』を産んだ。

日琉同祖論と関連づけて語られる事が多く、この話に基づき、大正11年には為朝上陸の碑が建てられた。表側に「上陸の碑」と刻まれて、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した東郷平八郎の名が刻まれている。

『中山世鑑』を編纂した羽地朝秀は、摂政就任後の1673年3月の仕置書(令達及び意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、王家の祖先だけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている

(真境名安興『真境名安興全集』第一巻19頁参照。元の文は「「此国人生初は、日本より為レ渡儀疑無二御座一候。然れば末世の今に、天地山川五形五倫鳥獣草木の名に至る迄皆通達せり。雖レ然言葉の余相違は遠国の上久敷融通為レ絶故也」)


なお、最近の遺伝子の研究で沖縄県民と九州以北の本土住民とは、同じ祖先を持つことが明らかになっている。

高宮広士札幌大学教授が、沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降である為、10世紀から12世紀頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと指摘(朝日新聞 2010年4月16日)するように、近年の考古学などの研究も含めて南西諸島の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E5%9B%BD%E7%8E%8B  

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コメント
1. 中川隆[-11077] koaQ7Jey 2019年11月02日 17:54:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1815] 報告
日本人のガラパゴス的民族性の起源
19-12. 石垣島で国内最古の全身人骨発掘
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-4,16-5,19-12,19-13.htm#1-4


  関連の学会や研究機関では大変話題になっている報告です。紹介するのは2017/5/21の朝日新聞の記事です。

沖縄群島が日本人の「先祖の系統の一つ」を考察するうえで非常に重要であることがまた裏ずけられました。

1.オーストラロイドでしょう。

  縄文草創期の港川人はオーストラロイド似(恐らくY-DNA「C1a1」)であることは既に研究機関の復元顔が報告されていますが、 弟遺伝子亜型と考えられるオーストラリアのアボリジニ(Y-DNA「C1b2b」)は50,000年前には既にサフール大陸 (ニューギニア島とオーストラリア大陸が一つの大陸に繋がってころの大陸名)に上陸していたことは 欧米の研究で報告されています。

  つまりニューギニア高地人(ラニ族やダニ族など:Y-DNA「C1b2a1c」)やオーストラリア・アボリジニ(Y-DNA「C1b2b」)より古い 兄Y-DNA亜型を持つ縄文人の一系統である海洋性ハンターのY-DNA「C1a1」は 少なくとも同じころにはヤポネシア列島に上陸していてもおかしくはないのです。

Y-DNA「C」系統の中で最も古い亜型が日本列島から検出されているのです。 日本列島は少なくとも数万年以上まえから、遺伝子の吹き溜まり(最終到達地)となり 極めて古い亜型がそのまま残っている希少な価値を持つ唯一の「先進国家」なのです。


2.主要な遺伝子亜型の入れ替わりがあったようです。

  今回の発掘の価値は、遺伝子亜型入れ替えの可能性が求められることにあります。

  これまでの国内のY-DNA調査では現代石垣島はY-DNA「O1b2」つまり弥生農耕民亜型が60%近くを占める弥生系世界のようです。 日本列島の中で最も弥生度の高い地域と思われるのです。

  ところがもっと古い時代は沖縄本島と同様の縄文系の世界であることが今回判ったのです。

  縄文系精神風土の石垣島に、南下してきた稲作農耕民が移住し多数派になり精神風土が弥生系に変わったと考えられます。 沖縄の中でも独特な石垣島の精神風土は支配層の遺伝子亜型の違いによるものかもしれません。 沖縄群島は縄文でひとくくりにされる単純な文化/精神風土地域ではないのです。

  かと言って台湾との接点は現在全く検出されていません。台湾の先住民の遺伝子型はY-DNA「O1a1a」で楚系の集団と考えられます。  この楚系遺伝子亜型は石垣島では検出されず、むしろ本州の中国地方で高頻度で検出され、中国地方が日本の中でも 特異な地域(吉備氏が代表か?)であることが判っています。

  石垣島の農耕民遺伝子は現代のY-DNA調査では、台湾からではなく朝鮮半島から九州経由で南下してきたと考えるのが妥当です。

  但しこの調査研究報告は若干古く、報告された弥生系の亜型は満州、朝鮮半島や日本の一部でも検出されるオリジナル 呉系のY-DNA「O2b2」か、 縄文と交配し分化した日本独自のY-DNA「O2b2a1a1」かどうかまでは踏み込んではいません。 つまり水田稲作農耕文化民が満州から朝鮮半島経由で南下し一気に石垣島まで移住してきたのか、九州で独自亜型に分化してから 南下してきたのかはまだわからないのです。
  新しい研究が進む事を期待します。

関連論文と記事

16-5. 30,000年前〜35,000前に遡る沖縄の漁労技術
14-4. 42,000年前のホモサピエンスの外洋漁撈と海洋技術
30-12. 石器晩期−縄文草創期の港川人はオーストラロイドのようだ


http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-4,16-5,19-12,19-13.htm#1-4

2. 中川隆[-11079] koaQ7Jey 2019年11月02日 18:10:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1813] 報告

 現在沖縄・港川で発掘される遺骨から復元再現される顔は完璧にオーストラロイド゙の顔です。 と言うことは、スンダランドから北上の途中沖縄に定住した「D」と「C」の混成集団がその後の琉球列島人の母体になり、 サハリンから南下した「D」集団がのちのアイヌ人の集団になった可能性が極めて大と推測できます。

スンダランドから琉球列島を北上した集団(Y-DMA「D1b」とY-DNA「C1a」は、一部は琉球列島に留まり、琉球人の母体となった


____


日本人のガラパゴス的民族性の起源
0-2. 日本人の源流考
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-2,0-5,15-28,18-2.htm#0-2

しばらく情報収集をさぼっていたら、新しいDNA分析技術が登場し、デニソワ人の歯の化石からDNA解析ができるようになっていました。 記事「1-19.メラネシア人のデニソワ人度」を調査の中で、縄文人の中の海洋性ハンターY-DNA「C」がポリネシア人のコアの祖先Y-DNA「C」と 同じ祖先である知見が得られましたので、Rev.Upしました。また高地適応形質の知見も加えました。

0.はじめに

  当ガラパゴス史観が、Y-DNAとmtDNAの分化のツリー調査を進めて行く中で、ホモサピエンスの歴史自身をもう少し深堀したい疑問が生じてきました。

●何故、ホモサピエンス始祖亜型のY-DNA「A」やY-DNA「B」はその後現代にいたるまで狩猟採集の原始生活から前進せず、ホモエレクトスの生活レベルのままだったのか?

●出アフリカを決行した結果、分化した古代4亜型の中でY-DNA「D」、Y-DNA「E」やY-DNA「C」などの、オーストラリア、ニューギニアやアンダマン諸島、アフリカなどの僻地に残った集団も、現代に至るまで何故「A」,「B」同様、狩猟採集から抜け出せなかったのか?

●彼らは本当にホモサピエンスになっていたのだろうか?我々解剖学的現代人類はアフリカ大陸でホモサピエンスに進化してから出アフリカしたと思い込んでいるが、もしかすると出アフリカ後に、ネアンデルタール人との遭遇で現代型に進化  したのではないか?


1.ネアンデルタール人の出アフリカから始まったようだ。

  ネアンデルタール人は、ホモサピエンスの亜種か異種と議論されています。 最新の知見では、80万年前頃にホモエレクトスから、ネアンデルタール人とホモサピエンスの共通の祖先と考えられる草創期のネアンデルタール人 (旧ホモハイデルベルゲンシス)が出現し、60万年ぐらい前には出アフリカし、先輩人類としてユーラシア大陸に拡がったらしく、 そして40万年前頃にネアンデルタール人の東アジア型のデニソワ人が地方型として分化し、遥か後の時代に ホモサピエンスY-DNA「K2」と交雑しY-DNA「K2b1」に分化し出アジアしてメラネシアに拡がったようなのです。 しかしシベリアに居住していたデニソワ人と交雑したY-DNA「K2b1」が何故海に漕ぎだしたのかは全く謎のままです。 古代に海の民だったのはY-DNA「C」で、現在のポリネシア人の先祖とほぼ判明した海洋性ハンター遺伝子集団です。 しかしY-DNA「C」がサフ-ル大陸に到着したのは5-6万年前と考えられており、Y-DNA「K2b1」が出アジアを行ったのは遥か後の時代です。 遭遇したのはニューギニア島についてからのはずです。Y-DNA「K2b1」がどのように渡海技術を習得したのか全く推理が働かない状況です。

注:ホモエレクトスの進化型古人類と思われていたホモハイデルベルゲンシスが最新技術による遺伝子解析の結果、草創期のネアンデルタール人とほぼ判明しました。このためネアンデルタール人の出現が、ホモハイデルベルゲンシスの出現年代とされていた80万年前頃に一気に遡りました。

注:デニソワ人はあくまでネアンデルタール人に包含される地方型というのが極最新の見解のようです。

  そして草創期の原ホモサピエンスも50万年前頃には既に出現していて、30万年前頃にホモサピエンス最古のコイサン集団の祖先が出現し、 その後何度か出アフリカを行っていたが、6-7万年前頃の最後の出アフリカが、 我々を含む解剖学的現代人類(Anatomically Modern Human)を形成したようです。 そしてネアンデルタール人は、10-3万年前頃にホモサピエンスと各地で交雑し、3万年前ぐらいには絶滅した、という見解になっています。 デニソワ人の絶滅時期はまだ解明されていません。

この2種類の人類種の分類の見解は研究者によって異なり、亜種扱いの場合は、

  ホモ・サピエンス・サピエンス<===>ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシス、と分類され

あくまで別種と考える場合は、

  ホモ・サピエンス<=========>ホモ・ネアンデルターレンシス、と分類されます。

  いずれにせよ最新の遺伝子解析技術は、現代人類の遺伝子の2−4%はネアンデルタール人から受け継いでいることを解明しました。 東アジア人の比率が最も高く、次にヨーロッパ人で、東南アジア人は意外に低いそうです。 その後、現生人類の先祖が、スタンフォード大学の研究では2000人程度の規模で、出アフリカしユーラシアに拡がるまでに、 ネアンデルタール人の歴史は既に60万年程度は経過しており、 その間にネアンデルタール人はユーラシア各地で亜種に近いぐらい分化していたと考えられ、 アジアで発掘されたデニソワ人はネアンデルタール人の東アジア型と考えられ始めています。 しかも研究ではデニソワ人の遺伝子がメラネシア人に6%も受け継がれている、ことまで判明しています。

  またネアンデルタール人にはホモサピエンスの遺伝子が20%も含まれていた、と言う報告まであります。

  これはつまり現代人類は既にある程度の高度な文化を築き上げていたネアンデルタール人との亜種もしくは異種間交雑の結果、 進化の爆発が起こり現ホモサピエンスとして完成したのではないかと考えるのが妥当なのではないかと思われます。

  また大きなトピックスとして、解剖学的現代人類のY-DNA分化ツリーにネアンデルタール人とデニソワ人の亜型がとうとう組み込まれました。 一方、ネアンデルタール人とデニソワ人のmtDNAは解剖学的現代人類には受け継がれていないことも判明しました。

  つまり、ネアンデルタール人、デニソワ人と解剖学的現代人類はY-DNAで完全に直列で繋がっている、と言うことになりますが、 女系を表すmtDNAでは断絶している、と言うことになります。

  ネアンデルタール人とホモサピエンスは異種か亜種かという問題に対し、ネアンデルタール人のY-DNAの変異型も特定され ホモサピエンスのツリーとつながったということは、少なくとも異種ではないという結論になります。 あえて言えば、ネアンデルタール人とデニソワ人の男性はホモサピエンスの男性と亜種ほどの違いもなく、 「頑丈型」と「華奢型」の違い程度に過ぎないため交配しても子孫を残せた、ということになります。

  一方女性に関しては異なり、進化は女性から始まると考えられるため、ホモサピエンスの女性はネアンデルタール人とデニソワ人の女性とは 異種ぐらい異なる進化段階に進んでしまっていたのでしょう、だからホモサピエンスの男性とネアンデルタール人とデニソワ人の女性の組み合わせでは 子孫が残らなかったのだろうと欧米の研究者は考えているようです。 うがった見方をすればネアンデルタール人とデニソワ人の女性達はホモサピエンスの男性を受け入れなかったということも考えられます。

いやはや遺伝子解析の技術の進歩は目覚ましいものですね。当ガラパゴス史観がRNAとリボソームの研究をしていたころとは 全く時代が変わっています。

2.原ホモサピエンスから現ホモサピエンスへ脱皮したのではないか!

  我々現代人(解剖学的現代類)の祖先は、共通の祖先である草創期のネアンデルタール人からネアンデルタール人が先に進化し 出アフリカした後も進化に出遅れアフリカ大陸に残存していた草創期のネアンデルタール人の中で、 50万年前頃にとうとう草創期のホモサピエンスが出現し、30万年前頃には原ホモサピエンスであるコイサン集団が出現したようです。

  しかも出アフリカは20数万年前頃には既に行われ遺跡が発掘されています。 また最近の発掘調査では、10万年前ごろにはすでにレバント地域に定住していたらしく、8万年前頃には中国南部に到達していたと報告されています。 以前の5−6万年前頃に最終出アフリカしたのではないかという見解が、今は6-7万年頃と遡ってきているのは 今後まだまだ新しい研究報告がある予兆と思われます。

  いずれにせよ、80万年前に現れた草創期のネアンデルタール人(旧ホモハイデルベルゲンシス)が共通の祖先となり、 60万年前頃にネアンデルタール人が先に出アフリカし、50万年前頃に原ホモサピエンスが現れたのだろうと考えられます。

  最新のY-DNAツリーは、

Y-DNA「Adam」からY-DNA「A0000」(デニソワ人)が分化し、
Y-DNA「A000」(ネアンデルタール人)が分化し、
Y-DNA「A00」(コイサン集団)が分化し、更に「A0」、「A」と分化が進み、
Y-DNA「A1b」からY-DNA「BT」が分化し、
Y-DNA「BT」がY-DNA「B」とY-DNA「CT」に分化しましたが、
  この「A」と「B」は原ホモサピエンスの始祖亜型と考えられます。
Y-DNA「CT」が出アフリカし、Y-DNA「DE」とY-DNA「CF」に分化しました。

  これは中近東あたりで先住ネアンデルタール人との交雑の結果と考えられます。

  この「C」、「D」、「E」 は古代性を強く残した狩猟採集民として、近年まで残ってきました。

  注:デニソワ人がネアンデルタール人の地方型として分岐したのは40万年前頃と解析されていますが、 解剖学的現代人類に組み込まれたネアンデルタール人の遺伝子はもう少し後年の10〜3万年前頃の集団からと考えられているようです。

 つまりY-DNA「A」と「B」はホモサピエンスではあるが完成形ではない原ホモサピエンスと言っても良いかもしれません。

 西欧列強が世界中を植民地化するべく搾取活動を続けているときにわかったことは、 アフリカ大陸やニューギニア・オーストラリアやアンダマン島の先住民は、 何万年もの間、古代のままの非常に素朴な狩猟採集民の文化レベルにとどまっていた、ということでした。

  研究調査からかなり高度な文化・技術レベルに達していたと判ってきているネアンデルタール人と比べると、 分類学的な現代人類/ホモサピエンスに進化したというだけではホモ・エレクトスとさほど変わらない文化レベルだったという証明でしょう。 つまり脳容積がホモエレクトスより大きくなったり、会話が出きるようになったレベルでは、同時代のネアンデルタール人より華奢な、 しかし可能性は秘めている後発人類に過ぎなかったようです(しかし体毛は薄くなり、前頭葉が発達し、見た目は多少現代人類的 になっていたと思われますが)。

  では一体、なぜ解剖学的現代人類は現代につながるような文明を興すほど進化できたのだろうか?大きな疑問です。 一部の王国を築いた集団を除いた、古ネイティブ・アフリカンは大航海時代になっても、狩猟採集民でしかなかったようです。 その後西欧列強と出会わなければ、今でも狩猟採集のままのはずです。

  このことは、文明と言うものを構築するレベルに達するにはホモサピエンスになったというだけではなく、 何か決定的なブレークスルーのファクターがあったはずです。

  ネアンデルタール人と原ホモサピエンスの亜種間交配の結果、進化の爆発が起こったと推測するのが今のところ最も妥当です。

  出アフリカした先輩人類のネアンデルタール人と交雑し、ネアンデルタール人がすでに獲得していた先進文化を一気に取り込むことに成功し、 恐らく人口増加率(繁殖力)が圧倒的に高い原ホモサピエンスの中にネアンデルタール人が自然吸収される形で統合化されたのが 完成形の現ホモサピエンスと考えるのが最も妥当性が高いのです。 (この繁殖力の高さが解剖学的現代人類の勝ち残った理由なのではないでしょうか、想像を逞しくすると、 交配の結果ホモサピエンス側のみが得た後天的な獲得形質かもしれません。)

  もし出アフリカせずネアンデルタール人とも出会わずアフリカの中に留まっていたら、 人類は相変わらず19世紀ごろのサン族やピグミー族のように素朴な狩猟採集段階に留まっているだろうと容易に推測できますが、 北京原人やジャワ原人などのホモエレクトスも出アフリカし、ネアンデルタール人も出アフリカしたということは、 ホモサピエンスが出アフリカしたのは人類の遺伝子が導く宿命ではないかとも思われる。 つまりホモサピエンスが出アフリカし狩猟採集文化から脱し、現代文明にまで至ったのは必然だったということかもしれませんね。

注: 記事「18-4. ホモサピエンスとは人類学上何者なのか」で触れたように、最新の研究で、ネアンデルタール人とデニソワ人のY-DNAの変異型が同定され、恐らく80万年前頃と考えられるようになったY-DNA「Adam」に続き、デニソワ人とネアンデルタール人が分化のツリー上に配置されるようになったのですが

(「1-1. Y-DNAハプロタイプ 2019年6月版 ツリー」を参照ください)、...
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-1.htm


注: 一方mtDNAツリーでは、デニソワ人とネアンデルタール人のmtDNA変異型は全く検出されず、おそらくデニソワ人女性とネアンデルタール人女性とサピエンス男性との交配では恐らく子孫ができなかったか、出来ても生殖能力が無かったのだろう、と欧米の研究者は考えています。

  これはサピエンスとネアンデルタール人の男性は「華奢型(きゃしゃ型)」と「頑丈型」の違いくらいしかなく、亜種ほどの違いもなく、 せいぜい地方型の違いくらいで同種であったと考えるほうが最も合理的です。一方進化は女性から始まるので、ネアンデルタール人の女性と サピエンスの女性は異種と言ってよいほど分化し、子孫を残せなかったのだろうと推測できます。


3.日本列島への最初の到来者は、古代遺伝子集団:Y-DNA「D」と「C」

注:実はまだ残っている疑問があります。古代性を近代まで残していた古代遺伝子Y-DNA「C」、「D」、「E」も現ホモサピエンスの段階に至っておらず、原ホモサピエンスの段階に留まっていたのではないか、後に様々な遺伝子亜型と交雑することで何とか現代性を身に着けることができたのではないか?

  そしてY-DNA「F」のみがインド亜大陸周辺でネアンデルタール人やデニソワ人と交雑し、現ホモサピエンスの段階に進化したのではないかという疑問です。これは極めて大胆な推測ですが、これに関する知見、否定する知見はまだ全く報告されていません。


  Y-DNA「D1b」(旧「D2」)を主力とするY-DNA「C1a1」(旧C1a」との混成部隊である。

  写真は記事「30-11. 縄文遺伝子Y-DNA「D2」」、および「30-12. 縄文ハンター遺伝子Y-DNA「C1a」,「C3a」」でご紹介したものです。 残念ながら現在Wikipediaでは写真は削除されていました。

  Y-DNA「D」が100%の純系子孫のOnge族です。白黒写真なのでわかりませんが Onge族やJarawa族は世界で最も黒い(ネイティヴアフリカンより黒い)と言われているそうです。Y-DNA「D」が日本列島に 渡って来たのは、オーストラリアのアボリジニは5−6万年前頃には既に到達していたらしいので、日本列島にも恐らく遅くても 3−4年前頃には渡来していたと考えるのが妥当でしょう。その当時のY-DNA「D」集団は黒かったのか既に黄色くなっていたのかは 全く情報がありません。しかし確かなのは鯨面文身であったことでしょう。Y-DNA「D」が85%を占める子孫のアイヌが鯨面文身だったのは、 子孫として数万年にわたり正しく文化を残してきたことになります。 Jarawa族やOnge族は現代でもネグリートなので、当然縄文人も小柄なネグリートつまり、 「倭」人であったことは間違いないでしょう。


  Y-DNA「C」が100%の純系子孫のニューギニアのLani族です。濃い褐色で彫深のソース系になります。Y-DNA「D」のJarawa族や Onge族同様ネグリートです。恐らく古代遺伝子のY-DNA「D」、「E」、「C」、「F」は全てネグリートだったと思われます。 日本人は近代になっても男一匹五尺の体、と言われていた通り、日本人の男性人口の約50%を占める縄文系Y-DNA「D」と「C」は 戦前までネグリート形質を維持してきたのです。戦後の食糧事情や衛生環境の圧倒的な改善で日本人の身長は伸びてきましたが、 記事「19-14. 縄文遺伝子Y-DNA「D2」のネグリート(倭人)体質」でご報告した通り、戦後一気に伸びた身長も男女ともに 1980年代でピタッと止まりました。女性の縄文系の割合はほぼ67%です。ネグリート形質は強固で、 食糧事情や衛生環境の圧倒的な改善にも打ち勝ち、日本人の身長を抑え込んでいるようです。 イタリアやスペインなどのラテン系の人々の低い身長もY-DNA「E」の持つネグリート形質の特徴でしょう。 欧米人の高身長の源は、ヨーロッパ中に拡散した北欧系の高身長遺伝子によるものです。

  というわけでY-DNA「C」もやはり鯨面ですが、文身はしていないようです。 Y-DNA「D」とは明らかに異なる集団だということがわかると思います。 同じY-DNA「C」のアボリジニの祖先は沿岸でマグロのような回遊魚を漁していた渡海技術を持つ技術集団であることが判っています。 このY-DNA「C」集団は一時はニューギニア全島に分布していたと思われますが、かなり後代にY-DNA「S」と「M」のデニソワ系 メラネシア人が移動してきたときに押し出されたと思われ、ポリネシア全域に拡大し現在のポリネシア人のコア遺伝子となっています。 渡海技術を持っていたため、出ニューギニアできたようです。Lani族やDani族、Tehit族等純系部族は取り残されたのか、 やや内陸に居住しているので内陸適応したのかもしれません。

ニューギニアに移動してきたデニソワ系集団Y-DNA「S」と「M」はニューギニア高地人部族として現在もデニソワ人から受け継いだ 高地適応形質をチベット人同様維持しているようです。また恐らくY-DNA「C」から習得したのではないかと思われる渡海技術を持って メラネシアに拡大したと推測できます。ただし元々は高地適応部族だったので、近海のメラネシアが移動の限度だったのでしょう。

注:標高の高い高地に適応しているチベット人の高高地適応獲得形質は、欧米の研究者はデニソワ人との交雑で得た後天的獲得形質と考えているようです。

  2019年度のノーベル生理学賞「細胞が低酸素を検知し応答する仕組みの発見」だそうです。低酸素状態になると「エリスロポエチンが増えて赤血球が多く作られ酸素を確保する」仕組みだそうですが、負の問題として赤血球が増えるとドロドロ血になり、高地では心臓への負担が大きくなるという高血圧症や新生児の低体重、死亡の原因になるのだそうです。特に妊婦さんの負担は極めて大きいのだそうです。

  その血液に酸素を供給するヘモグロビンの生成を調節するのがEPAS1遺伝子だそうです。チベット人は高地になってもヘモグロビンの過剰生成を抑えられるように変異しており、標高4000mを越える高地でも低酸素症の発症を抑えることができているのだそうです。このチベット人のEPAS1変異が解読されたデニソワ人のEPAS1の変異と同じだったのだそうです。この研究結果は2014年にNature に発表されていました。

  ところがデニソワ人の遺伝子を6%も受け継いでいるメラネシア人にはこの遺伝子変異が受け継がれていないのだそうです。これは調査不足の可能性が大です。通常メラネシア人と言うとメラネシアの島々に点在する人々を言いますが、ニューギニア高地人も同じY-DNA「K2b1」(「S」と「M」)を持って高地に居住しています。高地人にも当然高地適応形質が受け継がれていると考えるのが当然でしょう。

  Y-DNA「K2b1」が出アジアを行い移動したのは遥か後の恐らく7000-8000年前頃ではないかと言われています。デニソワ人が生きていたのは少なくとも数万年前と考えられるため、交雑はその頃のはずですが、まだ研究報告はありません。となるとY-DNA「K2b1」はどこでデニソワ遺伝子を獲得したのでしょうか?

  手持ちの情報だけで無理やり推測すると数万年前に交雑していたが、数万年の平地居住で高地適応形質を失ってから移動した。もしくは高地適応形質が消えずに持っていた小集団がニューギニア高地に残った。あるいはニューギニア高地に到達したら、高地適応形質が復活した。...ぐらいです。

  アンデスのマチュピチュなど先住民文化はY-DNA「Q」のはずですが、「Q」は「K2b2a1」なので「K2b1」の兄弟遺伝子亜型です。いずれにせよ高地集団の遺伝子調査が重点的に行われると判別しそうですね。

  さて戻って、移行亜型Y-DNA「DE」はさらに古代遺伝子Y-DNA「D」とY-DNA「E」に分化したが、Y-DNA「D」がインド洋沿岸に沿って東進したのに対し、 Y-DNA「E」は逆に西進し地中海南北沿岸に定着し、地中海南岸(アフリカ北岸)に移動した集団はさらにアフリカ全土に展開し、 始祖亜型である原ホモサピエンスの先住民の中に入り込み、始祖亜型Y-DNA「A」と「B」のネイティヴ・アフリカン集団の中に 古代亜型Y-DNA「E」の遺伝子が混在するようになっています。

注:現ネイティヴアフリカンのコイサン集団にもピグミー集団にも、Y-DNA「A」と「B」の純系部族は存在していません。

  このため原ホモサピエンスのイメージは推測の範囲を出ません。
注:アフリカ大陸にはその後Y-DNA「R1a」と分化したY-DNA「R1b」(後代のケルト系遺伝子)集団がアナトリア、中近東から南下してきて、更に新しい集団として現在のカメルーンあたりを中心にネイティブアフリカンの一部を形成しています。

  しかし出戻りアフリカしたY-DNA「E」は進化の爆発が進む前にアフリカ大陸に入ってしまったため、また周囲の始祖亜型の部族も同じレベルで、 基本的に狩猟採集のまま刺激しあうことがないまま、ユーラシア大陸で起きた農耕革命など進化の爆発に会わないまま現代に至っているのでしょう。

  ところが地中海北岸に定着したY-DNA「E」は、その後ヨーロッパに移動してきたY-DNA「I 」などの現代亜型と刺激しあいながら 集団エネルギーを高め、ローマ帝国やカルタゴなどの文明を築くまでに至りました。要するに自分たちより古い始祖亜型との遭遇では埋もれてしまい、 文明を興すような爆発的進化は起こらなかったが、より新しい現代亜型との遭遇が集団エネルギーを高めるには必要だったのでしょう。

  一方、Y-DNA「D」は、欧米の研究者の考えではY-DNA「C」と共に、現代より120m〜140mも海面が低かったために陸地だった インド亜大陸沿岸の大陸棚に沿って東進しスンダランドに到達し、そこから北上し現在の中国大陸に到達したようです。 その時にY-DNA「C」集団の本体は更に東進しサフール大陸に到達したようです。このY-DNA「D」と「C」の移動は、Y-DNA「C」が 習得した沿岸渡海技術で思いのほか早く5万年前にはサフール大陸に到達したと推測できます。

  その時に大陸棚だった現在のアンダマン諸島域に定住したY-DNA「D」集団は、その後の海面上昇で島嶼化した現アンダマン諸島で孤立化し 現代までJarawa族やOnge族などの絶滅危惧部族として古代亜型Y-DNA「D」を伝えてきています。研究者によっては中国大陸−インド亜大陸 経由で南下してきた、とする説もありますが、納得には至りません。

  Y-DNA「D」は基本的に古代性の強い狩猟採集民と考えてよく、日本人の持つ古代的なホスピタリティの源泉であることは間違いないです。

  Y-DNA「CT」から分離したもう一方の移行亜型Y-DNA「CF」は恐らくインド亜大陸到達までに古代亜型Y-DNA「C」とY-DNA「F」に分離し、 Y-DNA「F」はインド亜大陸に留まりそこで再度先住ネアンデルタール人と交雑した結果、 Y-DNA「G」以降の全ての現代Y-DNA亜型の親遺伝子となったと推測できます。 こうしてインド亜大陸は現代Y-DNA亜型全ての発祥の地となったと考えるのが今のところ合理的です。

  もう一方の分離した古代亜型Y-DNA「C」は、欧米の研究者の説明ではY-DNA「D」と行動を共にしたらしく東進しスンダランドに入り、 一部はY-DNA「D」と共に中国大陸に到達し、本体はそのまま更に東進しサフール大陸に到達した。 サフール大陸に入った集団はサフール大陸内で拡大し、海面上昇後分離したニューギニアとオーストラリア大陸に それぞれTehit族、Lani族やDani族などニューギニアの先住民集団やオーストラリア・アボリジニ集団、 つまり共にオーストラロイドとして現代まで残っています。 そして5万年前にはオーストラリアに到達していた集団の遺跡から回遊魚のマグロの骨が東海大学らの調査により発見され、 Y-DNA「C」は沿岸を船で移動できる海洋性ハンター集団だったと考えられます。 従ってサフール大陸に到達したY-DNA「C」集団は更にそのまま船で海に漕ぎ出し、ポリネシア全土に拡大していったようです。 ポリネシアのY-DNAの主要亜型として検出されるY-DNA「C」は、実は縄文の海洋性ハンターY-DNA「C」と同じ亜型です。 つまり日本列島で検出される海洋性ハンター遺伝子Y-DNA「C」亜型は、現代ポリネシア人と同じ先祖を持つことになります。

  ところがオセアニアの遺跡の年代はそれほど古くはないようです。海面上昇で当時の陸地は全て水没し遺跡も当然海中です。 海中考古学が進歩すれば、Y-DNA「C」集団がポリネシアに漕ぎ出したのはかなり古いという事が判るのではないかと期待しています。 しかし現状の情報のみだと、ポリネシアに漕ぎ出したのはデニソワ系Y-DNA「S」と「M」がニューギニアに到達し押し出された結果と 考えるのが妥当です。

注:一部の日本人の持つ海洋性気質は、このポリネシア人と共通の祖先Y-DNA「C」から受け継いだ気質と言っても差し支えないでしょう。

  スンダランドから北上し現在の中国大陸に入ったY-DNA「D」とY-DNA「C」の混成集団は中国大陸の先住集団として拡大しました。 この時に混成集団の一部の集団は中国大陸には入らずにさらに北上し、当時海面低下で大きな川程度だった琉球列島を渡ったと思われます。 集団はそのまま北上し現在の九州に入った可能性が大。また一部は日本海の沿岸を北上し当時陸続きだったサハリンから南下し 北海道に入り、当時同様に川程度だった津軽海峡を渡り本州に入った可能性も大です。 つまりもしかすると日本本土への入り方が2回路あった可能性が大なのです。

  現在沖縄・港川で発掘される遺骨から復元再現される顔は完璧にオーストラロイド゙の顔です。 と言うことは、スンダランドから北上の途中沖縄に定住した「D」と「C」の混成集団がその後の琉球列島人の母体になり、 サハリンから南下した「D」集団がのちのアイヌ人の集団になった可能性が極めて大と推測できます。

  さて中国大陸に展開したY-DNA「D」は残念ながら後発のY-DNA「O」に中国大陸の中原のような居住適地から駆逐され、 南西の高地に逃れY-DNA「D1a」のチベット人や羌族の母体となったようです。 欧米の研究者はチベット人の持つ高高地適応性はデニソワ人との交配の結果獲得した後天的な獲得形質と考えているようです。 そして呪術性が高い四川文明はY-DNA「C」と「D」が残した文明と考えられます。 このため同じY-DNA「C」と「D」遺伝子を50%弱も持つ日本人には四川文明の遺物は極めて親近感があるのかもしれません。

  日本の民話とチベットの民話には共通性がかなりありますが、これらはY-DNA「D」が伝えてきた民話と考えて差し支えないでしょう。

  しかし一緒に移動したと考えられる-DNA「C」の痕跡は現在の遺伝子調査ではチベット周辺では検出されていません。 どうやら途絶えてしまった可能性が高い、もともと海洋性の遺伝子なので、内陸の高地は居住適地ではなかったのかもしれません。。 縄文時代に火炎土器のような呪術性の強い土器を製作したと考えられるY-DNA「C」なので、 四川文明の独特な遺物類はY-DNA「C」が製作した可能性が極めて高いのですが、Y-DNA「D」のようにデニソワ人から チベット高原のような高高地適応形質を受け継がなかったため途絶えてしまったのかもしれないですね。 チベット人の高高地適応がデニソワ人から受け継いだということは、 四川文明もデニソワ人が加わっていた可能性はあります、Y-DNA「C」とデニソワ系Y-DNA「D」との合作かもしれません。

  一方スンダランドから琉球列島を北上した集団(Y-DMA「D1b」とY-DNA「C1a」は、一部は琉球列島に留まり、琉球人の母体となった。 しかし、そのまま更に北上し九州に到達したかどうかはまだ推測できていない。 しかし日本各地に残る捕鯨基地や水軍など日本に残る海の文化は海洋性ハンターと考えられるY-DNA「C1a」が そのまま北上し本土に入った結果と考えられます。

  オーストラリアの海洋調査で、数万年前にY-DNA「C」の時代にすでに漁労が行われ、 回遊魚のマグロ漁が行われていたと考えられる結果のマグロの魚骨の発掘が行われ、 当時Y-DNA」「C」はスンダランドからサフール大陸に渡海する手段を持ち更に漁をするレベルの船を操る海の民であったことが証明されています。 このことはスンダランドから大きな川程度だった琉球列島に入ることはさほど困難ではなかったと考えられ、 Y-DNA「C」と交雑し行動を共にしていたと考えられるY-DNA「D」も一緒にさらに北上し本土に入ったことは十分に考えられます。 すべての決め手はY-DNA「C」の海洋性技術力のたまものだろう。

  一方日本海をさらに北上した集団があったことも十分に考えられます。 この集団はサハリンから南下し北海道に入り、更に大きな川程度だった津軽海峡を南下し、本土に入ったと考えられ、 サハリンや北海道に留まった集団は古代アイヌ人の母体となったでしょう。 Y-DNA「C1a」は北海道に留まらず恐らく本州北部の漁民の母体となり、Y-DNA「D1b」は蝦夷の母体となったでしょう。

  このY-DNA「D1b」とY-DNA「C1a」が縄文人の母体と言って差し支えないでしょう。 つまり縄文人は主力の素朴な狩猟採集集団のY-DNA「D1b」と技術力を持つ海洋性ハンターのY-DNA「C1a」の混成集団であると推測できます。 この海洋性ハンター遺伝子が一部日本人の持つ海洋性気質の源流だろう。日本人は単純な農耕民族ではないのです。

  ところがサハリンから南下せずにシベリヤ大陸に留まり陸のハンターに転身したのが大陸性ハンターY-DNA「C2」(旧「C3」)です。 この集団はクジラの代わりにマンモスやナウマンゾウを狩猟する大型獣狩猟集団であったと思われます。 ところが不幸にもシベリア大陸の寒冷化によりマンモスもナウマン象も他の大型獣も少なくなり移住を決意したのでしょう。 一部はナウマン象を追って南下し対馬海峡を渡り本土に入りY-DNA「C2a」(旧C3a」)となり山の民の母体となったでしょう。 また一部はサハリンからナウマンゾウの南下を追って北海道、更に本土へ渡った集団もあったでしょう、北の山の民の母体となったと推測できます。

  この山の民になった大陸性ハンターY-DNA「C2a」が縄文人の3つ目の母体と考えてよいでしょう。 つまり縄文人とは、核になる狩猟採集民のY-DNA「D1b」と海の民のY-DNA「C1a」及び山の民のY-DNA「C2a」の3種混成集団と考えられる。

  このY-DNA「C2a」が一部日本人の持つ大陸性気質の源流と考えられる。 Y-DNA「C1a」は貝文土器など沿岸性縄文土器の製作者、Y-DNA「C2a」は火炎土器など呪術性土器の製作者ではないかと推測され、 いずれにせよ縄文土器は技術を持つY-DNA「C」集団の製作と推測され、Y-DNA「D」は素朴な狩猟採集民だったと推測できる。

  この山の民のY-DNA「C2a」が南下するときに、南下せずY-DNA「Q」と共に出シベリアしたのがY-DNA「C2b」(旧「C3b」)の一部であろう。 このY-DNA「Q」はヨーロッパでは後代のフン族として確定されている。このY-DNA「Q」はシベリア大陸を横断するような 移動性の強い集団だったようだ。 シベリア大陸を西進せずに東進し海面低下で陸続きになっていたアリューシャン列島を横断し北アメリカ大陸に到達し Y-DNA「Q」が更に南北アメリカ大陸に拡散したのに対し、

  Y-DNA「C2b」は北アメリカ大陸に留まりネイティヴ・アメリカンの一部として現代に遺伝子を残している。 最も頻度が高いのはTanana族である、約40%もの頻度を持つ。 北アメリカや中米で発掘される縄文土器似の土器の製作者はこのY-DNA「C2a」ではないかと推測できる。

  またそのままシベリア大陸/東北アジアに留まったY-DNA「C2」はY-DNA「C2b1a2」に分化し、 大部分はモンゴル族やツングース族の母体となった。 また一部だった古代ニヴフ族は北海道に侵攻しY-DNA「D1b」のアイヌ人を征服しオホーツク文化を立ち上げた。 本来素朴な狩猟採集民だった原アイヌ人は支配者の古代ニヴフの持つ熊祭りなどの北方文化に変化し、 顔つきも丸っこいジャガイモ顔からやや彫の深い細長い顔に変化したようだ。 現代アイヌ人の持つ風習から北方性の風俗・習慣を除くと原アイヌ人=縄文人の文化が構築できるかもしれない。

4.長江文明系稲作農耕文化民の到来

  さて、日本人は農耕民族と言われるが、果たしてそうなのか?縄文人は明らかに農耕民族ではない。 狩猟採集民とハンターの集団だったと考えられる。ではいつ農耕民に変貌したのだろうか?

  古代遺伝子Y-DNA「F」から分化した現代遺伝子亜型群はY-DNA「G」さらに「H」、「I」、「J」、「K」と分化し、 Y-DNA「K」からY-DNA「LT」とY-DNA「K2」が分化した。 このY-DNA「LT」から更にY-DNA「L」が分化しインダス文明を興し、後にドラヴィダ民族の母体となったと考えられている。 Y-DNA「T」からは後のジェファーソン大統領が出自している。

  Y-DNA「K2」はさらにY-DNA「K2a(NO)」とY-DNA「K2b」に分化し、Y-DNA「NO」が更にY-DNA「N」とY-DNA「O」に分化した。 このY-DNA「N」は中国の遼河文明を興したと考えられているらしい。 このY-DNA「N」は現在古住シベリア集団(ヤクート人等)に濃く70-80%も残されており、テュルク族(トルコ民族)の母体と考えられている。

  しかし現代トルコ人は今のアナトリアに到達する過程で多種のY-DNAと混血し主力の遺伝子は Y-DNA「R1a」,「R1b」,「J2」などに変貌している為、東アジア起源の面影は全くない。 唯一タタール人に若干の面影が残っているが、今のタタール人もY-DNA「R1a」が主力に変貌してしまっている。 Y-DNA「N」はシベリア大陸の東西に高頻度で残りバルト3国の主力Y-DNAとして現代も40%以上も残っている。 やはり移動性の強い遺伝子のようだ。

  さていよいよ日本農耕の起源に触れなければならない。Y-DNA「NO」から分化したもう一方のY-DNA「O」は、 中国の古代遺跡の発掘で、古代中国人は現在のフラットな顔つきと異なりコーカソイドの面影が強いと報告されている事は研究者の周知である。 つまり本来の人類は彫が深かったといってよく、現代東北アジア人のフラット/一重まぶた顔は 寒冷地適応に黄砂適応が加わった二重適応の特異的な後天的獲得形質と言って差し支えないでしょう。 (余談ですが、人類(動物)は体毛が減少する方向に進んでいるので、実は禿頭/ハゲ頭も「進化形態」である事は間違いない。)

  この東北アジア起源のY-DNA「O」は雑穀栽培をしていたようだ。東アジア全体に拡散をしていった。 日本列島では極低頻度だがY-DNA「O」が検出されている。陸稲を持ち込んだ集団と考えられる。 東北アジアの住居は地べた直接だっと考えられる。主力集団は黄河流域に居住していたため、 長年の黄砂の負荷で現代東アジア人に極めてきついフラット顔をもたらしたのだろう。

  一方南下し温暖な長江流域に居住した集団から長江文明の稲作農耕/高床住居を興したY-DNA「O1a」と「O1b」が分化し、 更にY-DNA「O1b1」(旧「O2a」)と「O1b2」(旧「O2b」)が分化し稲作農耕は発展したようだ。 このY-DNA「O1a」は楚民、Y-DNA「O1b1」は越民、「O1b2」は呉民の母体と推測できる。

  長江文明は黄河文明に敗れ南北にチリジリになり、Y-DNA「O1b1」の越民は南下し江南から更にベトナムへ南下し、 更に西進しインド亜大陸に入り込み農耕民として現在まで生き残っている。 ほぼ純系のY-DNA「O1b1」が残っているのはニコバル諸島 (Y-DNA「D*」が残るアンダマン諸島の南に続く島嶼でスマトラ島の北に位置する)のShompen族でY-DNA「旧O2a」100%の頻度です。

WikipediaのShompen族の写真

  真ん中の人物は近藤正臣かキムタクか、日本に普通にいる風貌である。稲作農耕民の典型と考えてよいでしょう。

  また南インドのドラヴィダ民族中には検出頻度がほとんどY-DNA「O1b1」のみの部族もあり、 越民がいかに遠くまで農耕適地を求めて移動していったか良く分かる。 カースト制度でモンゴロイドは下位のカーストのため、他の遺伝子と交雑できず純系の遺伝子が守られてきたようだ。 この稲作農耕文化集団である越民の子孫のドラヴィダ民族内移住が、ドラヴィダ民族(特にタミール人)に 長江文明起源の稲作農耕の「語彙」を極めて強く残す結果となり、その結果、学習院大学の大野教授が 日本語タミール語起源説を唱える大間違いを犯す要因となったが、 こんな遠くまで稲作農耕民が逃げてきたことを間接証明した功績は大きい。

  一方、呉民の母体と考えられるY-DNA「O1b2」は満州あたりまで逃れ定住したが、更に稲作農耕適地を求め南下し朝鮮半島に入り定住し、 更に日本列島にボートピープルとして到達し、先住縄文人と共存交雑しY-DNA「O1b2a1a1」に分化したと考えられる。 この稲作農耕遺伝子Y-DNA「O1b2」は満州族で14%、中国の朝鮮族自治区で35%、韓国で30%、日本列島でも30%を占める。 この満州族の14%は、満州族の中に残る朝鮮族起源の姓氏が相当あることからやはり朝鮮族起源と考えられ、 呉系稲作農耕文化を現在に残しているのは朝鮮民族と日本民族のみと断定して差し支えないだろう。 この共通起源の呉系稲作農耕文化の遺伝子が日本人と朝鮮人の極めて近い(恐らく起源は同一集団)要因となっている。 北朝鮮はツングース系遺伝子の分布が濃いのではないかと考えられるが、呉系の遺伝子も当然30%近くはあるはずである。 過去の箕子朝鮮や衛氏朝鮮が朝鮮族の起源かどうかは全く分かっていないが、呉系稲作農耕民が起源の一つであることは間違いないだろう。

  長江流域の呉越の時代の少し前に江南には楚があったが楚民はその後の呉越に吸収されたと思われる、 しかしY-DNA「O1b1」が検出される河南やベトナム、インド亜大陸でY-DNA「O1a」はほとんど検出されていない。 Y-DNA「O1a」がまとまって検出されるのは台湾のほとんどの先住民、フィリピンの先住民となんと日本の岡山県である。

  岡山県にどうやってY-DNA「O1a」が渡来したのかは全く定かではない。呉系Y-DNA「O1b1」集団の一員として 混在して来たのか単独で来たのか?岡山県に特に濃く検出されるため古代日本で独特の存在と考えられている吉備王国は 楚系文化の名残と推測可能で、因幡の白兎も楚系の民話かもしれない。 台湾やフィリピンの先住民の民話を重点的に学術調査するとわかるような気がしますが。

  台湾のヤミ族の正装です。なんと東国原氏に瓜二つですね。女性も普通にいますね。

  日向は薩摩とも異なる独特のネーミングが残る土地柄ですが、辿ると吉備と似たような土地柄だったのかもかもしれませんね。 因幡の白兎伝説に似たワニが出てくる民話でもあれば間違いないでしょうが。果たして?

5.黄河文明系武装侵攻集団の到来

  狩猟採集と海陸両ハンターの3系統の縄文人と、長江系稲作農耕文化の弥生人が共存していたところに、 武装侵攻者として朝鮮半島での中国王朝出先機関内の生き残りの戦いに敗れ逃れてきたのが、 Y-DNA「O2」(旧「O3」)を主力とする黄河文明系集団だろう。 朝鮮半島は中華王朝の征服出先機関となっており、 長江文明系とツングース系が居住していた朝鮮半島を黄河系が占拠して出先機関の「郡」を設置し、 韓国の歴史学者が朝鮮半島は歴史上だけでも1000回にも及び中華王朝に侵略された、と言っている結果、 現代韓国は43%以上のY-DNA「O2」遺伝子頻度を持つ黄河文明系遺伝子地域に変貌してしまった。

  朝鮮半島での生き残りの戦いに敗れ追い出される形で日本列島に逃れてきた集団は、当然武装集団だった。 おとなしい縄文系や和を尊ぶ弥生系を蹴散らし征服していった。長江系稲作農耕集団は、 中国本土で黄河系に中原から追い出され逃げた先の日本列島でも、また黄河系に征服されるという二重の苦難に遭遇したのだろう。
  この黄河系集団は日本書紀や古事記に言う天孫族として君臨し、その中で権力争いに勝利した集団が大王系として確立されていったようだ。 この黄河系武装集団の中に朝鮮半島で中華王朝出先機関に組み込まれていた戦闘要員としてのツングース系の集団があり、 ともに日本列島に移動してきた可能性が高いY-DNA「P」やY-DNA「N」であろう。 好戦的な武士団族も当然黄河系Y-DNA「O2」であろう。出自は様々で高句麗系、新羅系、百済系など 朝鮮半島の滅亡国家から逃げてきた騎馬を好む好戦的な集団と推測できる。

  この黄河文明系Y-DNA「O2」系は日本列島で20%程度検出される重要なY-DNAである。韓国では43%にもなり、 いかに黄河文明=中国王朝の朝鮮半島の侵略がひどかったが容易に推測できる。 日本列島の長江文明系Y-DNA「O1b2」系と黄河系Y-DNA「O2」系は合計50%近くになる。韓国では73%近くになる。 つまり日本人の約50%は韓国人と同じ長江文明系+黄河文明系遺伝子を持つのである。これが日本人と韓国人が極めて似ている理由である。

  一方、韓国には日本人の約50%を占める縄文系Y-DNA「D1b」,Y-DNA「C1a」とY-DNA「C2a」が欠如している。 これらY-DNA「D1b」,「C1a」とY-DNA「C2a」は日本人の持つ素朴なホスピタリティと従順性と調和性の源流であり、 このことが日本人と韓国人の全く異なる民族性の理由であり、日本人と韓国人の近くて遠い最大の原因になっている。

  一方、日本人の持つ一面である残虐性/競争性/自己中性等は20%も占める黄河系Y-DNA「O2」系からもたらされる 特有の征服癖特質が遠因と言って差し支えないような気がする。

6.簡易まとめ

  日本人の持つ黙々と働き温和なホスピタリティや和をもって貴しとする一面と、 一方過去の武士団や維新前後の武士や軍人の示した残虐性を持つ2面性は、 日本人を構成するもともとの遺伝子が受けてきた歴史的な影響の結果と言えそうだ。

  日本人の3つの源流は、

  ・日本列島の中で約1万年以上純粋培養されてきた大多数の素朴な狩猟採集民と少数のハンターの縄文系、

  ・中国大陸から僻地の日本列島にたどり着き、集団の和で結束する水田稲作農耕民の弥生系、

  ・朝鮮半島を追い出された、征服欲出世欲旺盛な大王系/武士団系の武装侵攻集団系、


  個人の性格の問題では解説しきれない、遺伝子が持つ特質が日本人の行動・考えに強く影響していると思える。 世界の技術の最先端の一翼を担っている先進国で、50%もの古代遺伝子(縄文系、しかも女系遺伝するmtDNAでは何と約67%が 縄文系のmtDNA「M」系なのです。)が国民を構成しているのは日本だけで極めて異例です。 もしこの縄文系遺伝子がなければ、日本列島と朝鮮半島及び中国はほとんど同一の文化圏と言って差し支えないでしょう。 それだけ縄文系遺伝子がもたらした日本列島の基層精神文化は、 日本人にとって世界に冠たる独特の国民性を支える守るべき大切な資産なのです。

7.後記

  これまで独立した亜型として扱われてきた近代亜型のY-DNA「L」,「M」,「N」,「O」,「P」,「Q」,「R」,「S」,「T」は、 現在、再び統合されてY-DNA「K」の子亜型Y-DNA「K1」とY-DNA「K2」の更に子亜型(孫亜型)として再分類される模様です。 つまり独立名をつける亜型群として扱うほど「違いが無い」ということなのです。

  ところがこのY-DNA「K」は、我々極東の代表Y-DNA「O」や西欧の代表Y-DNA「R」や南北ネイティヴアメリカンの Y-DNA「Q」等が含まれているのです。とても遺伝子が近いとは思えないのです。では何故これほど外観も行動様式も異なるのだろうか?

  これらの亜型群は、何十万年の歴史でユーラシア大陸の各地で亜種に近いほど分化していたと考えられている ネアンデルタール人やデニソワ人のY-DNA亜型を受け継いだだけの可能性も十分にあるのです。 西欧と極東であまりにも異なる外観や行動様式などの違いの原因を亜種間の接触に求めるのは荒唐無稽とは言えないでしょう。

  何しろネアンデルタール人もデニソワ人もホモサピエンスも元をただせばホモエレクトス出身で当然Y-DNAもmtDNAも 遺伝子が繋がっているのだから。Y-DNAではホモサピエンス、ネアンデルタール人やデニソワ人は既に1つのツリーに統合され始めています。 しかし、mtDNAは母系の断絶が確認されていて、ホモサピエンスとは繋がっていません。もしネアンデルタール人との接触がもっと遅く、 ネアンデルタール人男性の分化も進んでしまっていたら、Y-DNAの断絶もあったかもしれません。

8.余談

  (極めて余談ですが、北方系極東人の多くは寒冷地適応や黄砂適応を受け、フラット顔になってはいますが、 中国で発掘される古代人骨はほとんどコーカソイド顔であり、フラット顔は後天的獲得形質であることは研究者達が認めています。 日本人にはこの後天的獲得形質を獲得してから日本列島に渡ってきた集団が多かったことを示しています。 日本人の胴長短足は、高身長の弥生系と武装侵攻系の上半身と小柄な縄文の下半身の交雑の結果に過ぎず、日本人に意外に多い反っ歯や受け口も 弥生系の細身の顎に縄文系のがっしり歯列が収まりきらず前に出てしまっただけであり、親知らずは逆に出られなかっただけです。

  また日本人固有の古代的なホスピタリティは、縄文系である古代亜型Y-DNA「D」と「C」(合計で日本人男性の出現頻度約45%を占める) 及びmtDNA「M」(合計で日本人全体の約67%を占める)の固有の特質であり、近代亜型群の特質ではありません。 つまり特に日本人と他の民族との違いのほとんどは、この縄文系遺伝子の伝えてきた極めて古代的な、 狩猟採集民やハンター民の持つ行動様式や思考回路のもたらす結果に帰することは疑いようがありません。

  もし、天孫族や武士団族が朝鮮半島から負け組として追い出されてこなければ、日本列島は徳川時代の高度な文化もなく、 当時世界最大の都市だった江戸もなく、容易に西欧列強の植民地になっていたでしょう。つまり極めて残念なことですが、 日本人の世界に冠たる高度な技術力や文化性は、日本列島の3重遺伝子構造を構成する遺伝子の中で最後にやってきた Y-DNA「O2」(旧O3)がもたらしてきたものなのです、中国や韓国と支配階級が同じY-DNA「O2」遺伝子なのに結果が異なってきたのは、 常に外敵との抗争や侵略に脅かされ、技術や文化の熟成が近代までに確立「出来なかったか/出来たか」の違いなのでしょう。)

9.時代の趨勢

  3.3 Y-DNA「R1b」に書いた文章を復誦します。

  極めて明らかなことは、国・国民が先進的になるには純系民族では無理なのです。辺境民化してしまいエネルギーが低すぎるのですが、 競う共存遺伝子の種類が多ければ多いほど集団エネルギーが高くなり、国の活性度が上がり、覇権に向かうのです。 アジアの中で唯一近代化に成功した日本は縄文系−弥生系(長江文明系)−武装侵攻系(黄河文明系)が交雑し、 武装侵攻系が核になり集団エネルギーを一気に高め、一時はジャパンアズNo1と覇権を握るかもしれないほどの勢いを手に入れました。

  しかし日本が高止まりしてしまった間に中国が、日本以上の複雑な遺伝子ミックスにより集団エネルギーを高め、近代化らしきものに成功し 対外的には日本に取って替わりアジアの覇権を握ったように見えるレベルに達しました。しかし国民一人当たりの生産性があまりにも低く、 日本の1/4以下程度しかなく真の覇者には恐らく永久になれないでしょう。

  その中国も恐らく近いうちに日本同様高止まりするでしょうが、東アジアには日本、中国に代わる国はもはや存在しません。 南アジアのインドはロシアのスラブ系と同じインド・ヨーロッパ系遺伝子が支配する国ですが、中国同様あまりに国民一人あたりの 生産性が低すぎ日本の1/20程度しかなく覇権には届かないでしょう。
  当分の間はY-DNA「R1b」のアメリカとY-DNA「O2」(旧「O3」)の中国が覇権争いを続けるでしょうが、中国も日本もアメリカに 対する輸出で生産性を上げてきたので、アメリカにとって代わることは逆に自滅に向かうためまず不可能でしょう。

  非常に残念ですが、現代世界の構図は、世界の警察官であり輸入超大国のアメリカが太陽として中心に存在し、世界中から生産物を 買いまくり、そのおかげでアメリカの周りに各国が衛星のように回っていられるだけなのです。 水星、金星はEU諸国、地球は日本、火星はロシア、木星が中国、土星がインドという感じでしょうか。


v.1.6  国立遺伝学研究所教授で著名研究者の斎藤成也氏が、2017年10月に核-DNA解析でたどる「日本人の源流」本を出版しました。 その中でやっと海の民にも焦点が当たり、当ガラパゴス史観の「縄文人の一部は海のハンター」史観が 間違ってはいないかもしれない雰囲気になって来ました。 そろそろ時機到来の様相になって来ましたのでガラパゴス史観を総括し、日本人の源流考をまとめてみました。 これはY-DNA及びmtDNAの論文104編を読み込みメタアナリシスした結果得た、アブダクション(推論)です。 追加の着想がまとまる都度書き足します。

  枝葉末節は切り捨て太幹のみに特化して組み立てていますので、異論・興味のある方は、 当史観が集めた論文や、その後に発表されている新しい論文をじっくり読んで是非御自分で源流考を組み立ててみてください。

http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-2,0-5,15-28,18-2.htm#0-2

3. 中川隆[-11084] koaQ7Jey 2019年11月02日 18:34:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1808] 報告

琉球民族
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E6%B0%91%E6%97%8F


いわゆる琉球民族の先住地は、現在の沖縄県全域と鹿児島県の奄美群島であり、言語学的に琉球諸語と総称される言語の分布とほぼ一致する。

歴史的には沖縄県は琉球王国の領域を踏襲しており、奄美群島は、尚徳王による制圧(1466年)から薩摩藩への割譲(1613年)まで琉球王国による支配を経験している。


琉球王国領域の言葉は言語学的に日本語であるが、独自の琉球語であると主張する者もあり、その場合でも日本語と共に日本語族に属する。一般的には琉球方言とする主張が多く、それ以外の日本語を本土方言と分類し両者をあわせて日本語とする見解が主流である。どちらの主張でもこの地域の言葉は日本の言語を構成する二大要素といえる。

琉球諸島の言語も相互での意思疎通が困難なほど地域差が大きく、諸言語の集合と捉えることもある。ただし、エスノローグでは喜界語、北奄美大島語、南奄美大島語、徳之島語、沖永良部語、与論語、国頭語、中央沖縄語、宮古語、八重山語、与那国語として分類し、それぞれを別言語とみなしている。


いわゆる琉球民族はアマミキヨとシネリキヨという女男2柱の祖先神をもち、これをもって日本神話とは神話体系が異なるとし、民族としての文化面の大きな相違点だと主張する者もいるが、日本神話における国産みや神産みのイザナギ・イザナミという夫婦神、アマテラスとスサノオという姉弟神との共通点・類似点も多く、こちらも多くの議論の対象となっている。


遺伝的系統

九州以北の本土の住民とは同じ祖先をもつことが最近の遺伝子の研究で明らかになっている。

また、中国南部及び東南アジアの集団とは地理的には近く昔から活発な交易がおこなわれていたため九州以北の日本本土住民と違いその影響があったと考えられていたが、遺伝子の研究から中国や台湾の集団とはかなり離れていることが判明している。

九州以北の日本本土住民との近縁性と共にそれを介して北海道のアイヌ民族との近縁性も指摘されている。

父系遺伝子Y染色体ハプログループD1a2を持つのは世界で本土日本、アイヌ民族、沖縄だけであり、お隣の台湾や中国、韓国には全く見られない。むしろ中国、台湾とは非常に離れている。

世界的にも珍しいY染色体ハプログループD1a2系統を日本人では30%〜40%、アイヌでは90%、沖縄本島では50%もの人が所持しており、日本本土との関係は切っても切り離せない。

高宮広士が、沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降であるために、10世紀から12世紀頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと指摘[9]するように、考古学などの研究も含めて南西諸島の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測され、それまで居住していた奄美・沖縄諸島と先島諸島の2グループの先住民に取って代わったと考えられている。これらのことから九州以北とは遺伝的・人類学的にみても明瞭な境界線を引くことは難しい。


政治的な人種論に対する批判として指摘されることは、日本列島の住民は複数の人種の混血であり、その混血度は地域によって異なることである(沖縄県民を含めた日本人は他国に比べれば混血度は少ないとされる[10][11])。


2008年に理化学研究所ゲノム医科学研究センターが、日本全国(含沖縄県、除中国四国地方)7000人のゲノム中にある14万箇所の一塩基多型を統計的に解析したところ、ゲノムの特徴の点で7000人分の標本は「本土クラスタ」と「琉球クラスタ」に明確に分かれることがわかった[12]。

特に3番染色体の組織適合抗原(HLA)の遺伝子に大きなちがいがみられ、ゲノム医科学研究センターは、その違いの原因が両人類集団のいずれかが過去に経験した何らかの感染症の有無ではないかと推測した[12]。

さらに2012年ごろには、日本列島人類集団遺伝学コンソーシアムが、北海道平取町在住、沖縄在住、東京在住、北京在住の漢族、イバダン在住のヨルバ族、ユタ州在住の西欧系といった複数の人類集団にそれぞれ属する人々のゲノム、100万箇所の一塩基多型を統計的に解析したところ、アイヌ人からみると琉球人が遺伝的にもっとも近縁であり、両者の中間に位置する本土人は、琉球人に次いでアイヌ人に近いことが示された[13]。

また、本土人からみると琉球人が遺伝的にもっとも近縁であり、日本列島人(アイヌ人、琉球人、本土人)は、現在の東アジア大陸部の主要な30の人類集団とは異なる遺伝的構成であることも示された[13]。

琉球弧を含む日本列島人のルーツを説明する仮説としては、ベルツなどが提唱した「もともと縄文系の人々が住んでいたところに、弥生人が後から大陸経由でやってきたが、沖縄や北海道(アイヌ)の人々は本土の人々とあまり交流がなかったために異なる集団となった」とする二重構造説が存在するが、21世紀前半に比較的新しい研究手法を用いてなされた研究によるこれらの結果も、二重構造説と矛盾しない[12][13]。

2014年9月17日、琉球大学大学院の研究グループが、琉球列島(沖縄本島だけでなく、八重山・宮古地方も含む)の人々の遺伝情報を広範に分析した結果、台湾や大陸の集団とは直接の遺伝的つながりはなく、日本本土に由来する事がわかったとモレキュラーバイオロジーアンドエボリューション(英語版)に発表した[14]。

また、いわゆる琉球民族にはATLのレトロウイルス(HTLV-1)が日本列島内でも高頻度で観察される事から、縄文人の血が濃く残っていると考えられる[15]。

2018年に国立遺伝学研究所が発表した核DNA分析における遺伝子研究による民族の遺伝的分布において、アイヌ・本土・沖縄は共に父系を縄文人に持つ同一円内と判明し、他の東アジアとは別種であることが確認された[16]。

琉同祖論

九州以北とその起源を同じくする、同一民族の支族であるとする考えを日琉同祖論という。いわゆる琉球民族論にとっては対論と看做せる論であり、沖縄県における日本復帰運動では思想の根幹となった。

歴史的にはいわゆる琉球民族論よりもはるかに古いが、1609年の薩摩侵入を経て、実質その支配下において書かれた史書などを出所としており、この説には薩摩の意向が反映されている疑いを排除できないと否定する者もある。 

しかし、中国の歴史書である「隋書」において、607年に煬帝は朱寛を琉球を送り込んだ際に、「琉球人とは全く言葉が通じず、朝貢を拒んだ」と報告がある一方、日本書紀には616年から少なくとも5回は琉球からの自発的な朝貢が記録されており、続日本紀では698年から少なくとも4回は朝貢した琉球人に位階を授けた記録が残っており、これを証明するかように「大和船で大極殿に上り、瓦や手土産を買った」という歌が『おもろさうし』に掲載されている。

これをもって古代琉球人は少なくとも中国よりも日本に対して帰属意識があったと見ることが可能である。

薩摩支配下での琉球王国で正史とされる『中山世鑑』や、『おもろさうし』、『鎮西琉球記』、『椿説弓張月』などでは、12世紀、源為朝(鎮西八郎)が現在の沖縄県の地に逃れ、その子が琉球王家の始祖舜天になったとされる。

真偽は不明だが、薩摩支配下の琉球では正史として扱われており、この話がのちに曲亭馬琴の『椿説弓張月』を産んだ。大正11年には為朝上陸の碑が建てられた。表側に「上陸の碑」と刻まれて、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した東郷平八郎の名が刻まれている。

摂政羽地朝秀は、摂政就任後の1673年3月の仕置書(令達及び意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、王家の祖先だけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている[17]。

17世紀、羽地朝秀が編纂した『中山世鑑』においてこの説は展開された。明治以降も沖縄県の一部の文化人らの間で展開された論であり、伊波普猷の沖縄学もその流れにある。

瀬長亀次郎は、返還運動のさなか、その著作として、民族三部作の一つ『民族の悲劇』をあらわしているが、そこでの「民族」は明らかに日本民族であって、沖縄県民を異民族支配の下に置かれた日本民族の一部と表現している[18]のも、同じ流れにあると言えよう。沖縄返還後は沖縄県の独自性たる芸能の保護などについても運動しているが、ここでも彼は、沖縄県の芸能は「日本の宝」と表現した[19]。

民俗学

初期の民俗学者は南西諸島の文化について九州以北との近縁性をとらえ失われた習俗などが残されているとして重視していた。

柳田國男は『海上の道』で黒潮の流れから着想を得て沖縄県との類縁を論じ、その弟子の折口信夫もまれびと論・他界観で沖縄県周辺の宗教から多くの論拠を引いている(『古代研究I』[20]など)。

昔からあった日琉同祖論の影響もあろうが、地に足の着いた現地研究の成果も見逃せない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E6%B0%91%E6%97%8F

4. 中川隆[-11089] koaQ7Jey 2019年11月02日 19:02:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1803] 報告

縄文時代の沖縄は、縄文文化ではなかった? 2009-04-23
https://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/8d567d1420c1ad5ccb5965c173e2ac03

先日の新聞にあった記事です。

沖縄の文化は縄文時代と弥生時代という分け方はしないで、そのころの古い時代を「沖縄の先史時代」と言うそうです。

縄文時代にあたる時代を「貝塚時代前期」、弥生時代にあたる時代を「貝塚時代後期」と言うそうです。

縄文土器などが出土しないので、沖縄に縄文時代があったかどうかは意見が分かれるところのようです。

貝塚が多く出土するので、縄文時代の人々の血を引くと思われる人々は「先史時代の貝塚人」と言われます。


沖縄で稲作がはっきり始められたのは12世紀になってからであるということで、弥生文化の影響は受けることが少なかったと言われています。

しかしだからと言って、そこにいた人々が「縄文人」であったということは確定していなくて、「縄文人」の子孫であろう、と考えられているわけです。


「港川人」という18000年前の人骨が発見、確認されていますが、その後稲作がはじまる12世紀まで、誰がなにをしていたのか、あまり判然としないようです。

「先史時代」と呼ばれるその期間について研究がされているようですが、まだまだ謎は解けないようです。


沖縄本島には日本本土より古い文化が残されており、先島(さきしま)諸島(宮古・八重山諸島)には沖縄本島より古い文化が残されており、、となり、先島諸島の文化の研究が待たれているようです。

以下読売オンラインから転載します。


       *****


「先史沖縄人、縄文人と一線 より小顔傾向・食は魚介類中心」


 沖縄諸島で11〜12世紀まで狩猟・採集文化(沖縄貝塚文化)を営んだ先史時代の沖縄人(貝塚人)をめぐる興味深い研究が進んでいる。

縄文人の“直系”と考えられてきた貝塚人が、身体的にも文化的にもかなり異質で多様性のあることが、出土人骨の多角的な分析などで明らかになってきたのだ。

 沖縄貝塚文化は、縄文土器を共有する縄文文化の一地域圏として成立したとされている。

弥生時代〜平安時代相当期(貝塚時代後期)になっても、水田稲作が定着しなかったため、縄文文化の伝統が色濃く引き継がれ、貝塚人には小顔で彫りの深い縄文人の一般的な特徴がそのまま残ったと見られてきた。

 先月、沖縄県西原町の県立埋蔵文化財センターで開かれた研究発表会では、こうした貝塚人に対する見方に疑問を呈する報告が相次いだ。

土肥直美・琉球大准教授(形質人類学)は貝塚人の身体的形質について発表。

頭部の奥行きや顔の長さが著しく短いという、本土の縄文人に見られない傾向を指摘し、「縄文人の地域性というだけでは説明しきれない」とした。

 文化的な観点からも貝塚人の特徴が語られた。

竹中正巳・鹿児島女子短大准教授(骨考古学)は縄文時代後・晩期の風習である抜歯について、「奄美諸島以南では対象が下あごの歯に限定されており、上下の歯を対象とする本土とは異なる」と指摘した。

 米田穣・東大大学院准教授(先史人類学)は、人骨のコラーゲンに含まれる炭素と窒素の同位体比からみて貝塚人の食生活は貝や魚が中心で、漁労を営みながらクリやドングリなどの炭水化物も摂取した本土の縄文人とは違うと見る。

「炭水化物であるコメを受け入れなかったのは、もともとの食性の違いからではないか。

沖縄も含めた日本列島全体に通底する縄文文化、という先入観は見直されるべきだ」と言う。

 遺伝子分析の結果を紹介したのは、篠田謙一・国立科学博物館研究主幹(分子生物学)。

県内3遺跡の人骨20体からミトコンドリアDNAを抽出し塩基配列の型を比較したところ、多様な型が混在する中に、具志川グスク崖下(がけした)(うるま市)で縄文系とされる型、大当原貝塚(読谷村)では台湾の先住民につながる型を確認。

遺跡によって構成が異なることから、「貝塚人は遺伝的には均一でない可能性がある」と述べた。


 こうした集団の遺伝的ルーツや、本土との交流の濃淡などを反映したのか、貝塚文化の葬送習俗はバラエティーに富む。

縄文文化で一般的な埋葬と、岩陰に遺体を安置する崖葬(がいそう)墓に大別されるが、後者の場合でも近世沖縄の洗骨に似た風葬後の集骨のほか、火葬骨、焼骨などもあり、精神文化の多様性がうかがえる。

 こうした問題に関して、土肥准教授は「まだ見つかっていない先島(宮古・八重山諸島)の先史人骨が鍵になる」とみている。

縄文人との関係だけでなく、沖縄諸島とは異質な東南アジア系文化を育んだ先島人との関係も視野に入れるべきだと言う。


 沖縄といえば縄文人の祖先とも言われる化石人骨・港川人(1万8000年前)が知られるが、貝塚人とは1万年以上の開きがあり、また現代の沖縄人は貝塚人よりも本土の日本人に近いことが知られている。

「貝塚人」はどこから来たのか。
彼らは消えたのか。
日本人の起源や琉球王国成立の謎の解明にとっても、研究の深化が待たれる。

          (読売Online 2009年4月3日 )
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/bunkazai/904/bu_09040301.htm  

            *****


「港川人」の登場が18000年前のことで、それ以降12000年間の遺跡がないとすると、その間にどんなことがおきていたのか、知りたくなります。

その後の6000年前からの遺跡も貝塚が主であり、縄文文化とも言い難いとすると、南方の人々が来て、そして立ち去ったのでしょうか。


葬送儀礼がいろいろと確認されていることには、特に興味をひかれました。

土葬と、風葬と、洗骨と、火葬と、、ずいぶんいろいろあるのだと思いました。

日本本土では、火葬は浄土真宗とともに広まったとされています。

火葬は世界的に見ると、珍しいのです。
仏教と関係なく、沖縄の先史時代に火葬があったとすると、興味深いと思いました。

洗骨、風葬なども、日本人の魂について、多くのことを語っているように思います。

また改めて書きたいテーマです。


参考サイト「考古学オンライン・港川人」
http://www.amy.hi-ho.ne.jp/mizuy/hito/minatogawa.htm

wiki「沖縄県の歴史・先史時代」より


沖縄県には縄文時代、弥生時代のような区分は行わない。

先史時代は土器出現以前の後期旧石器時代と土器出現後の貝塚時代(縄文時代 - 平安時代)とに分けられる。

旧石器時代

沖縄県にいつ頃から人類が現れたのかは明らかになっていないが、現在の南西諸島は、最終氷期にはアジアと陸続きであり、その頃に様々な動物と共に移り住んできたものであろう。

県内最古の人骨は那覇市で見つかった山下洞人で、今からおよそ3万2千年前のものだと推測されている。

また、1967年に具志頭村(現在の八重瀬町)で発見された港川人骨はおよそ1万8千年前のものとされ、日本で初めて見つかった完全な形に近い旧石器時代人骨として有名である。

しかし、県内からは確実な「旧石器」の発見はない。

一部に旧石器らしき石器はあるが、研究者の間で評価が定まっているとは言いがたい。

港川人の年代から、続く貝塚時代までの約1万2千年間は遺跡が全く見つかっておらず、空白の時間となっている(ただし、上部港川人は1万2千年前とされる)。
https://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/8d567d1420c1ad5ccb5965c173e2ac03

5. 中川隆[-11094] koaQ7Jey 2019年11月02日 19:42:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1798] 報告

先史時代の沖縄


先史時代

二億五千万年前頃から一億三千万年前頃まで

二億五千万年前頃から一億三千万年前頃までの琉球列島は海底に位置していまたが、

千五百万年前頃から千万年前頃に陸地化し、中国大陸・九州と繋りました。
千万年前頃から二百万年前頃にかけて再び切り離されますが、

アジア大陸や日本列島に住む動物の化石が沖縄で発掘されたことから、

陸続きになっている間にシカ・ゾウ・ヤマネコなどが移ったことがわかります。

現在沖縄県に生息するイリオモテヤマネコもその例の一つですね。

その後、百五十万年前頃に再び中国大陸と繋がり、二万年前に三つの島嶼群に分かれ、

氷河期の終了により海水面が百メートル上昇した末に、現在の姿に至ったと考えられています。


後期旧石器時代と貝塚時代

沖縄県の先史時代は土器出現の前後で後期旧石器時代と貝塚時代とに分かれています。

人類がいつから沖縄に生息していたかということは定かではありませんが、三万二千年前頃には、那覇市内で発見された山下洞人、一万八千年前頃には具志頭村の港川で発見された港川人の出現がみられます。いずれも中国大陸から移ってきたとされています。

港川人は日本で最初に発見された完全体に近い旧石器時代人骨として有名です。ちなみに県内から正式な旧石器は発掘されてません。
港川人の年代以降は遺跡が全く発見されない空白の一万数千年を経て、七千年前頃に貝塚時代が始まります。

貝塚時代前期は本土の縄文時代、後期は弥生時代から平安時代にかけての時期です。

前期の遺跡が見られるようになったのは縄文時代中期頃の物からであり、土器を使用した狩猟採集経済の様子がうかがえます。

後期には海岸砂丘上に遺跡立地が移動し、漁労経済に変わります。
農耕は後期の末まで行われず、弥生文化の影響を受けるより独自性を高めた時期であると言えるでしょう。

3つの文化圏

貝塚時代の文化には三つの文化圏がります。

薩南諸島の北部文化圏、沖縄諸島と奄美諸島の中部文化圏、宮古・八重山諸島の南部文化圏です。

北部文化圏には縄文土器に類似する土器を使用するなど九州の縄文文化の影響が見られます。それが南下して中部文化圏において独自の発展をとげているのです。

一方南部文化圏は日本本土の文化とは異質で、台湾やフィリピンなどの南方諸島との関わりが深いことから、南方一帯を起源としていると考えられています。

北部・中部文化圏と同様に縄文相当期には土器の使用が見受けられるものの、南部で使用されていた土器は台湾先史時代の土器に近い物でした。またシャコ貝で作られた貝斧は九州や奄美・沖縄諸島にも見られず、東南アジアや南方の島々から入ってきた物とされています。

その後、八百年前頃になると鍋型土器やカムイ焼きの使用など、本島地方に近い文化が見られるようになっていくのです。
http://okinawanorekishi.net/prehistoric.html

6. 中川隆[-11093] koaQ7Jey 2019年11月02日 19:45:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1799] 報告

南西諸島には水稲耕作は伝わりませんでした。

海の幸に恵まれたこの地域では、漁労活動を中心とする貝塚文化が続いたのです。

この地域はまた、豊富に採取できるゴホウラ・イモガイなどの貝を、北九州の米などと交易していたようです。これらの貝は、加工されてブレスレットになりました。福岡県の立岩遺跡からは、ゴホウラ製貝輪を14個も腕にはめた男性の遺体が発見されています。
http://www2.odn.ne.jp/nihonsinotobira/sub4.html


●貝塚文化


竪穴(たてあな)式住居のあとなどが発見された,沖縄貝塚時代中期の仲原遺跡。

 沖縄諸島では,今から6600年前に九州・奄美(あまみ)からやってきた人々によって縄文文化が伝えられ,その影響で貝塚文化が生み出されました。

 日本本土では,紀元前4世紀ころになると,縄文文化にかわって水稲農業と鉄や青銅器を使用する弥生(やよい)文化がはじまります。しかし,奄美・沖縄諸島では,海や山の産物にたよる生活が10〜12世紀ごろまでつづきました。

 貝塚時代に使われた土器の形や作りかたなどは,縄文土器とよく似ていますが,石器などの種類や形にはちがいがあります。

 また,縄文人の精神文化をあらわす土偶(どぐう)なども沖縄では見つからず,かわりにジュゴンの骨や南方産の貝で作ったかざりなどが,発見されています。
 このようなことから,沖縄の貝塚文化と本土の縄文文化には違いがあることがわかります。沖縄の先史文化は,本土から伝わった縄文文化が土台になったものの,しだいに沖縄独自の発展をしたということができます。
http://rca.open.ed.jp/city-2001/homehistory/con1/card02_1.html

7. 中川隆[-12834] koaQ7Jey 2020年3月11日 19:25:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[723] 報告

2020年03月11日
沖縄と台湾とハワイの違い


日本時代の高砂族、既に琉球の人口の半分しか居なかった。
布衣族人(3)
引用:https://s-media-cache-ak0.pinimg.com/736x/fa/fe/9d/fafe9d6ab49515b55ee9811b02368951.jpg


台湾先住民

2016年に台湾総統に就任した蔡英文は16の先住民族代表を総統府に招き、過去400年の権利侵害を謝罪しました。

唐突な行動に見えたが、後からやってきた華人が先住民から全てを奪ったと説明しました。

蔡英文の母方の祖母は少数民族の出身とされ、父方は中国系の豪商で、裕福な家庭で育ったとされています。




台湾には中国大陸からいわゆる中国人や漢民族が渡ってくる前から、先住民族が暮らしていました。

日本列島にいわゆる縄文人が暮らしていた頃、琉球、台湾、北海道、千島、樺太などでも同じような人々が暮らしていた。

縄文人は人種の名前ではなく、種々雑多な部族や人種が多くの島で混在していました。


これらの島々に最初に住んだ人々は、氷河期に地続きだったので、歩いてやってきたと言われている。

氷河期が終わり島々は海で区切られたが、木製の船で断続的に渡ってきた人々が加わって、多様な人種が混ざり合った。

こうして同じ島でも別な民族が同居するようになり、台湾でも多くの部族あるいは民族が存在している。


大陸では秦の始皇帝以降、大陸を統一する国家が出現し、そうした大国は台湾島にも政府機関を置いた。

だがそれは自国の一部という事ではなく、今で言う領事館のようなもので、台湾における権益確保が目的だった。

台湾島を最初に領有した国家はオランダで、1624年から1662年まで領有していた。

平地から追われた台湾先住民

外国に占領される事で初めて台湾にも国家意識が生まれ、中国系の鄭成功が占領したが20年ほどで滅んだ。

その後は清国が政府機関を置いていたが、「化外の地」と呼び自国の領土ではないとわざわざ宣言していた。

日清戦争で清国から日本に帰属が移り、日本は敗戦で領有権を放棄し、現在は中華民国が占領している。


この間の台湾先住民の生活はどうだったかというと、先史時代の人口は良く分かっていません。

台湾先住民の人口調査を初めておこなったのは日本帝国で1905年に戸別調査を実施している。

1905年の台湾全体の人口は約303万9千人、高山族は76,443人と記されていました。


現在の台湾先住民の人口は約48万人で、台湾の人口の約2%を占めています。

1600年以前の台湾島では、この立場が逆で、先住民が圧倒的多数だったと想像できる。

1632年、江戸時代初期の琉球の人口が約10万人、一時18万人に増えたが地震と津波で江戸末期には13万人でした。


中世以前の琉球の潜在的な人口が10万人程度とすると、台湾島はずっと大きいので、元々40万人くらい住んでいた可能性が高い。

台湾先住民は島の大部分を漢民族に取られ、高山族の呼び名の通り、限られた高山で暮らしている。

これを琉球、つまり沖縄やハワイと比べると興味深い事がわかります。

台湾先住民と琉球人の違い

先ほど書いたように江戸時代以前の琉球の人口は10万人という所で、江戸末期には13万人でした。

もっとも琉球では王に収める税金を逃れる為、住民の人数を少なく申告するのが一般的だったとする説があります。

ともあれ、琉球人の子孫である直系の沖縄人は現在の沖縄県人口の80%以上を占めています。


沖縄県に住んでいる琉球系の人が約100万人、本土に住んでいる人が120万人と言われ、合計220万人まで増えています。

人数が増えれば発言力も増すわけで、最近沖縄県が基地問題などで強気なのは、偶然ではありません。

琉球人の人口は140年で15倍以上に増え、基地が在るとはいえ沖縄の大半を「所有」しています。


現代の沖縄人はヤマトがいかに横暴に、琉球を搾取し弾圧したかを言いたがるが、事実はまるで逆だと分かります。

江戸時代に薩摩と幕府が「人頭税」など苛烈な搾取を行ったというのは沖縄で定説に成っていますが、これも事実ではありません。

幕府や薩摩が琉球に税を課した事は無く、琉球王が独自にやっていた事です。


それどころか幕府と薩摩は琉球が破綻するのを防ぐ為に、物資や資金や人的援助を行って、幕末まで助けていました。

もう一つの孤島の先住民、ハワイ先住民と比べると、ヤマトの琉球人への優遇ぶりは一層はっきりしてきます。

ハワイには数十万人の先住民が住んでいたが、1778年にキャプテンクックがハワイを「発見した」と称してから侵略が始まった。

ハワイと沖縄の違い

最初西洋諸国は少人数で小さな船だったため、国交を結んだり交易したりしてハワイは栄えた。

だが小船が大型船になり蒸気船に代わると、大勢の宣教師や移民や軍隊が移住してきてきて、伝染病を持ち込みました。

ハワイ先住民は人口が10分の1程度に減ったとされ、これ幸いとアメリカは「住民投票」でアメリカに併合しました。


先住民が減少したことで白人が多数派になり、白人は銃を持っているので、先住民を支配できたのです。

現在純粋なハワイ先住民は僅か8000人で、混血を含めて24万人がハワイに居住しているとアメリカ政府は発表しています。

自分の土地というものは持っておらず、厄介者のような存在になっている。


離島に限らず、世界の多くの先住民はこんな感じで暮らしていて、元の居住地にそのまま住んでいる琉球人は世界でも稀有な例外なのです。

アメリカ先住民のいわゆるインディアンとか、アジア諸国の先住民の多くも、先祖の土地を追い出されています。


追い出されたからこそ「先に住んでいた人」と呼ばれるのですが、琉球人は「今も住んでいる」ので先住民ではない。

http://www.thutmosev.com/archives/64595428.html

8. 中川隆[-13110] koaQ7Jey 2020年4月02日 12:21:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1796] 報告
関東人と関西人は遺伝子から違う?日本人は8つの遺伝的グループに分かれているという研究 2020/03/31
https://nazology.net/archives/55425


私たち日本人は8つの遺伝的な亜集団にわかれていることがわかった/Credit:Nature Communications
point

日本人は8つの遺伝的に異なる亜集団にわかれている
地域的な遺伝差は身長や薬の効き目に影響する
8つの亜集団の全てが沖縄にルーツを置いている

これまでの研究によって、人種間の遺伝子には少なくない違いがあることが明らかになってきました。

熱さへの耐性、寒さへの耐性、渇きへの耐性、低酸素環境への耐性など、様々です。

医薬品の効き目などもその一つであり、人種によってかなり効果が異なることが明らかになりつつあります。

しかし最近の研究により、同じ国に住む同じ民族でも、地域によって薬の効き目などが異なることがわかってきました。
そのような地域差は文化に由来するものだと考えられてきましたが、十分な科学的根拠は存在しませんでした。

そのため今回、日本人の研究者によって国内における、大規模な地域間の遺伝子の差が調べられることになりました。

予想が正しければ、地域間の遺伝子差は(人種程ではないにしても)身体的な差にも大きく影響しているはずです。

ただ地域差は人種差に比べて違いがわずかであり、これまでのような人間の認識力だけでは区別できません。分析にあたってはAIによる機械学習を応用することになりました。

その結果、日本人は遺伝的に8種類に及ぶ多様な遺伝的グループに分かれていることが判明しました。

日本人は思ってたよりずっと、単一ではないようです。
研究内容は大阪大学の坂上沙織氏らによってまとめられ、3月26日に権威ある学術雑誌「nature/communications」に掲載されました。

Dimensionality reduction reveals fine-scale structure in the Japanese population with consequences for polygenic risk prediction
https://www.nature.com/articles/s41467-020-15194-z

AIによって判明した8つのグループ

関東人と関西人は微妙に遺伝的に異なっているが、沖縄人との違いはさらに際立っている/Credit:Nature Communications

私たち人類はアフリカで誕生した後に、地球上の様々な場所に移住し、その地域にあわせた遺伝的特質を獲得してきました。
そのため、ある人種に効果があった薬が別の人種では効果が薄い、ということが少なくない頻度で起こりました。

しかし近年になって、日本の中でも薬の効果が地域によって僅かに異なることがわかってきました。

これまでは、そのような些細な地域間の医療効果の差は、主に食文化をはじめとした文化的な要因のためとされてきました。

ですが今回、17万人にもおよぶ遺伝データを、AIによる機械学習を応用して調べた結果、同じ日本人の中にも8つの異なる亜集団が存在すると判明したのです。
またこれらの差を二次元の画像に落とし込んで可視化した結果、九州と北海道の一部、及び沖縄の方々の遺伝子が、特にユニークな遺伝子集団を築いていることが判明しました。

地域的な遺伝差が身長差と同じ比率で影響を与えている/Credit:Nature Communications

さらに遺伝的な差が身体においてどのように影響するかを測定した結果、遺伝的な地域差が平均身長の地域差とも一致することがわかりました。
地域の遺伝子の差は確かに僅かですが、それでも身長差のような明白な違いをもたらしていたのです。

このことから、疾患リスク及び薬の効き目の違いが必ずしも、文化的な影響に支配されているのではなく、地域ごとの遺伝的な差にも影響されていることが示唆されました。

日本人の起源解明:8つのグループが全て沖縄の島々に濃縮されていた

沖縄人の詳細な分析を行った結果、8つのグループ全ての遺伝痕跡が内包されていた/Credit:Nature Communications
また、さらに詳細な分析を沖縄グループに対して行った結果、8つのグループの全てが、沖縄の島々に濃縮されていることがわかりました。
これは日本人の8つのグループ全てが、何らかのルーツを沖縄に持つことを示唆します。

これは既存の説、つまり、まず縄文人が南アジアを経由して日本に入り、その後、弥生人が入って全国に拡散したとの説と矛盾しません。
私たち日本人は複数のルーツと、その後の遺伝的な適応の結果、さらに複数の亜集団にわかれていきました。

これらの遺伝的な差は、地域に住む人々の気質にも影響している可能性があります。

関東人と関西人のノリが合わなかったり、旅先でアウェーになったりするのも、遺伝子の違いによる気質差が混じっているのかもしれませんね。

https://nazology.net/archives/55425

9. 中川隆[-4243] koaQ7Jey 2021年6月15日 06:58:00 : BsjI37zTPI : c2ZHUHFuMmFlQTY=[2] 報告
2021年06月15日
港川人のミトコンドリアDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_15.html

 港川人のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析結果を報告した研究(Mizuno et al., 2021)が報道されました。ユーラシア大陸と北アメリカ大陸と太平洋とフィリピン海プレートの境界に位置する日本列島は、1500万年前頃までにアジア大陸から分離して形成されました。考古学的証拠からは、4万〜3万年前頃に日本列島に最初の人々が出現した、と示唆されます(関連記事)。旧石器時代後の日本列島の先史時代は、一般的に対照的な時代である縄文時代と弥生時代に区分されます。縄文時代は1万年以上続き、狩猟採集民の生計により特徴づけられます。

 一方、弥生時代は水田稲作農耕により特徴づけられます。稲作はアジア本土からの移民により日本列島にもたらされた、農耕移民は日本列島に弥生時代以降に到来した、と考えられています。19世紀半ば以降、現代日本人の人口史に関していくつかの仮説が提案されてきましたが、現在一般的に受け入れられている見解は、現代日本人が少なくとも2つの祖先系統(祖先系譜、ancestry)から構成され、一方はアジア南東部起源の「縄文人」、もう一方はアジア北東部起源の「弥生人」である、というものですが、旧石器時代人に関してはほとんど知られていません(関連記事)。

 日本列島は火山灰の酸性土壌に広く覆われており、古代DNA研究は困難です。本論文は、日本列島における旧石器時代人のミトコンドリアゲノム配列を初めて報告し、旧石器時代と縄文時代と弥生時代と現代の日本列島の人々の完全なミトコンドリアゲノム配列を用いて日本列島の人口動態を調べ、ハプログループ多様性の観点から、母系遺伝子プールにおける連続性を明らかにします。日本列島の2000個体以上を用いての人口統計分析を通じて、狩猟採集から農耕への文化的変化における劇的な人口爆発が観察されます。これは、温度が短期間で急激に変化したことで知られている時期です。最終氷期(LGP)から完新世の移行期において、ヤンガードライアスとして知られる氷期への一時的な揺り戻しもありました。この急速な気候変化は、大型動物の広範な絶滅と強く関連していることが示されています。

 ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)Mは、現代のアジア人口集団において高頻度で観察されますが、現代のヨーロッパ人口集団では見られません。しかし、最終氷期前となる後期更新世のヨーロッパの人類遺骸では、複数の個体がmtHg-Mに分類されています(関連記事)。これは、母系遺伝子プールにおける劇的な変化を示唆します(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。完全なミトコンドリアゲノム配列を得ることにより、旧石器時代とその後の狩猟採集の縄文時代および農耕の弥生時代の人々における遺伝的関係が調べられ、さらには現代日本人集団の過去の人口史が明らかになります。現代アジアの人口集団では見られないmtHgが見つかった場合、ヨーロッパで観察されたように、母系遺伝子プールの劇的な変化の可能性があります。しかし、現代アジアの人口集団で見られるmtDNAと密接に関連する配列のmtDNAが見つかった場合、母系遺伝子プールの劇的な変化の可能性は低くなり、つまりは人口集団の連続性が示されます。


●旧石器時代の人類遺骸のミトコンドリアゲノム

 本論文は、おそらく日本列島最初の人類の直接的子孫であろう、沖縄県島尻郡八重瀬町の港川フィッシャー遺跡で発見された2万年前頃の港川1号の完全なミトコンドリアゲノム配列結果を報告します。港川1号の発見場所は、以下の本論文の図1で示されています(図1の1)。
画像

 港川1号のミトコンドリアゲノム配列の平均深度は52倍で、mtHg-Mに分類されましたが、既知のmtHg-Mの下位分類を定義する置換は見つかりませんでした。mtHg-Mは、現代のアジア人とオーストラリア先住民とアメリカ大陸先住民で高頻度です。港川1号で見られるmtHg-Mの祖先型の配列は、本論文で新たに決定された現代日本人2062標本、既知の現代日本人672標本、中国の漢人21668標本(関連記事)では見つかりませんでした。以下の図2では、日本列島の古代人18個体と現代人171個体のミトコンドリアゲノムのベイズ系統樹が示されています。
画像

 以下の図3では、日本列島の旧石器時代1個体(港川1号)と縄文時代13個体と弥生時代4個体と現代2062個体のミトコンドリアゲノムのMDS(多次元尺度構成法)プロットが示されています。
画像

 これらの結果は、港川1号が他のどの標本とも明確なクラスタを形成しない、と示しており、港川1号が縄文時代と弥生時代と現代の日本列島の人々とは直接的に関連していないことを示唆します。しかし、港川1号のmtHgはMの基底部近くに位置します。これは、港川1号が現代日本人の祖先集団だけではなく、アジア東部現代人の祖先集団にも属していることを示唆します。同様の事例はアジア本土で報告されており、北京の南西56kmにある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体(関連記事)は、4ヶ所のシングルトン(固有変異)を有する祖先型のmtHg-Bと報告されています。つまり、現代人のmtHg-Bの共通祖先というわけです。

 地球規模の気候変動のため、旧石器時代の最終氷期は生存困難な時期と考えられており、遺伝子プールの変化は世界中のさまざまな人口集団で起きる、と予測されています。しかし、港川1号と田園個体を含む系統発生ネットワークの結果(図4a・b)から示唆されるのは、最終氷期における母系遺伝子プールの劇的な変化はアジア東部では起きなかった、ということです。なぜならば、港川1号と田園個体が母系ではアジア東部現代人の祖先集団に属するからです。以下、本論文の図4aおよび図4bです。
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●縄文時代狩猟採集民のミトコンドリアゲノム

 さらに、8300〜3700年前頃の縄文時代6遺跡の10個体(図1)の完全なミトコンドリアゲノム配列が決定されました(網羅率の平均深度は11〜1577倍)。縄文時代の個体は全て、系統発生ネットワークと系統樹とMDSプロットにおいて現代日本人と同じクラスタに収まりました(図2・3・4)。これは、日本列島における縄文時代から現代までの人口集団の継続性を示し、旧石器時代から新石器時代の日本列島の人類集団における母系遺伝子プールでは劇的な変化がなかったことを意味します。この結果は、本論文の縄文時代個体のほとんどがmtHg-MもしくはNに分類され、その多くは下位区分ではmtHg-M7aもしくはN9bとなることも示します。これは、PCRに基づく以前の結果と一致します。mtHg-M7aとN9bはともに現代日本人でも見られ、その割合は、mtHg-M7aが7.9%、mtHg-N9bが1.3%です。


●弥生時代農耕民のミトコンドリアゲノム

 弥生時代の人類遺骸4個体(佐賀県神埼町の花浦遺跡と山口県下関市豊北町の土井ヶ浜遺跡から2個体ずつ、図1)の完全なミトコンドリアゲノム配列が決定されました(網羅率の平均深度は13〜5891倍)。弥生時代は、移民が日本列島にもたらした水田稲作農耕生活様式により始まりました。弥生時代の4個体はmtHg-D4に分類されました。mtHg-D4は現代日本人では最も一般的で(34.3%)、アジア東部全域でも一般的です(関連記事)。

 縄文時代の個体群と同様に、弥生時代の個体は全員、系統発生ネットワークとMDSとベイズおよび近隣結合系統樹のクラスタのいずれかに収まり、そのクラスタは現代日本人とともに構築されますが、縄文時代と弥生時代の個体群はそれぞれに特徴的なmtHgの下位区分を有します(図2・3・4)。港川1号と縄文時代の標本群の結果を組み合わせると、日本列島では後期更新世から現代の人口集団で少なくともある程度の連続性がある、と示されます。


●過去の人口動態傾向の推定

 本論文の結果は、旧石器時代に始まり狩猟採集の縄文時代と農耕の弥生時代を通じて1万年以上にわたり、日本列島の人々の遺伝的多様性の全てを飲み込み、現代日本人の遺伝子プールが確立されてきたことを示します。現代日本人2062個体を用いてのベイジアンスカイラインプロット(BSP)分析では、45000〜35000年前頃と15000〜12000年前頃と3000年前頃となる、3回の大きな人口増加が明らかになりました(図5)。これらはそれぞれ、後期更新世における気温上昇、アジア東部における農耕の始まり、弥生時代の開始と対応しています。

 アジア東部に関する最近の研究(関連記事)では、現代中国の漢人21668個体のミトコンドリアゲノム配列から人口史が推測され、最終氷期末に向かって45000〜35000年前頃に人口が増加し、その後、別のより急速な人口増加が15000〜12000年前頃に起きた、と推測されています。本論文の分析で示された最初の2回の人口増加は、現代の日本と中国(漢人)の人口集団で共通していますが、3番目の人口増加は現代日本人に特有です。この3番目の人口増加は弥生時代開始後に起きており、現代日本人の人口規模に大きく寄与しました。

 この知見と組み合わせると、現代日本の人口集団で見られる最初の2回の人口増加は、おもに弥生時代以降に農耕民が日本列島へと移住してくる前に起きた人口増加を反映しているはずです。容易に予測できますが、水田稲作農耕を日本列島にもたらした弥生時代以降の移民は、日本列島における人口およびその構造に大きな影響を及ぼしたはずです。2800年前頃もしくは4200年前頃に起きた完新世の気候変動が朝鮮半島の人口集団に影響を及ぼし、日本列島への移住を促進した、と示唆されています。

 その後のさらなる人口増加は、日本列島への鉄器導入と関連している可能性があり、鉄器導入はより効率的な水田稲作農耕とより安定した食料供給を可能としました。得られた全ての知見を踏まえると、本論文の結果から、現代日本の人口集団の遺伝的構成は、弥生時代の農耕民の移住事象と、その後のアジア本土からの複数の移住により作られた、と示されます。しかし、現代日本の人口構造への縄文時代の人々の寄与は無視できません。

 本論文が示すのは、mtHg多様性の観点から、旧石器時代の日本列島への最初の移住の波以来、母系遺伝子プールにおける連続性があったことと、現代日本人の祖先は3回の大きな人口増加を経たものの、最初の2回はおもにアジア本土で起きた、ということです。3番目の人口増加は比較的短期間で起きた急激なもので、縄文時代狩猟採集民の遺伝子プールは、弥生時代に農耕をもたらした移民の到来と、それに続く人口爆発の後でさえ生き残ってきました。以下は本論文の図5です。
画像

 弥生時代の移住後の各段階で、縄文時代からの在来狩猟採集民と日本列島に移住してきた農耕民が混合したのかどうか、もしそうならば、どのようなものだったのか、といったヨーロッパでは明らかになりつつあるような(関連記事1および関連記事2)重要問題は未解決です。本論文にはミトコンドリアゲノムのみが含まれており、その標本数は限定的です。したがって、より明確な結論に到達するには、古代人のより多くのゲノム情報を明らかにする必要があり、そうすれば、縄文時代の狩猟採集民と弥生時代の農耕民との間の友好的関係の存在に関するより明確な証拠を得られます。他の旧石器時代の人類遺骸のさらなるミトコンドリアゲノム調査と港川1号の核ゲノム分析は、日本列島の人口史解明のためのより多くの手がかりと詳細を与えてくれるはずです。


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、日本列島の旧石器時代の人類遺骸では初となるDNA解析結果を報告しており、たいへん意義深いと思います。港川1号はmtHg-Mで、Mの基底部近くに位置します。mtHg-Mはユーラシア西部現代人には基本的に見られず、ユーラシア東部やオセアニアやアメリカ大陸(先住民)の現代人にのみ存在します。本論文は、この新たな知見から、最終氷期における母系遺伝子プールの劇的な変化はアジア東部では起きなかった、と指摘します。確かに、更新世には存在したmtHg-Mがその後消滅したヨーロッパと比較すると、日本列島、さらにはアジア東部では母系遺伝子プールにおける劇的な変化は起きなかった、と評価できるかもしれません。

 しかし、本論文が示すように、港川1号のmtHg-Mは本論文で取り上げられた古代人および現代人のmtHgとは直接的に関連しておらず、消滅したようです(今後現代人で見つかる可能性は皆無ではありませんが)。さらに、43000年以上前のブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)の現生人類のmtHgでは、Nの基底部近くに位置したり、Nの下位区分であるRに区分されるものも確認されています(関連記事)。また、44000年前頃と推定されるチェコのコニェプルシ(Koněprusy)洞窟群で発見された現生人類女性個体「ズラティクン(Zlatý kůň)」のmtHgはNで、基底部近くに位置します(関連記事)。

 確かに、ヨーロッパでは後期更新世の最初期現生人類に存在したmtHg-Mがその後消滅しましたが、一方で最初期現生人類においてmtHg-Nも確認されています。本論文の基準に従えば、ヨーロッパでも後期更新世からの母系遺伝子プールの連続性が確認される、と評価できるのではないか、との疑問が残ります。ヨーロッパの最初期現生人類ではmtHg-Mしか確認されていないのだとしたら、ヨーロッパの現生人類における母系遺伝子プールの劇的な変化との評価も妥当だとは思いますが。

 そもそも、本論文も指摘するように、遺伝的連続性の評価も含めて人口史の解明には、核ゲノムデータが必要になると思います。本論文は、田園個体もアジア東部における母系遺伝子プールの連続性の証拠としますが、田園個体的な遺伝的構成の集団は、北京近郊だけではなくアムール川地域からモンゴルまで4万〜3万年前頃にはアジア東部において広範に存在した可能性があるものの、現代人には遺伝的影響を残しておらず、3万〜2万年前頃に異なる遺伝的構成の集団に置換された、と指摘されています(関連記事)。

 ヨーロッパでも、ズラティクン的な遺伝的構成は、どの現代人集団とも近縁ではなく、現代人には遺伝的影響を残さず絶滅した、と推測されています。バチョキロ洞窟個体群は、ヨーロッパ現代人よりもアジア東部現代人の方と遺伝的に近縁ですが、現代人には遺伝的影響を残さず絶滅した、と推測されています(関連記事)。mtHg-L3から派生した、MやNといった大きな基準では、母系遺伝子プールに限定したとしても、遺伝的連続性を評価するのはあまり適切ではないように思います。

 これら最近の古代ゲノム研究から示唆されるのは、現生人類がアフリカから拡散した後、アフリカ外の各地域で初期に出現した集団がそのまま同地域の現代人集団の祖先になったとは限らない、ということです(関連記事)。これは現時点では、ヨーロッパとアジア東部大陸部だけで明確に示されていると言えるかもしれませんが、他地域にも当てはまる可能性は低くないように思います。日本列島も例外ではなく、後期更新世の最初期現生人類集団が、縄文時代、さらには現代まで遺伝的影響を残しているとは、現時点ではとても断定できません。本論文も指摘するように、日本列島は動物遺骸の保存に適していないので、更新世の人類遺骸はほとんど見つかっておらず、古代DNA研究での解明は絶望的かもしれませんが、最近急速に発展している洞窟の土壌DNA解析(関連記事)が進めば、日本列島における人口史の解明は劇的に進展するかもしれない、と期待しています。

 現時点では、港川1号の日本列島、さらにはアジア東部の人口史における位置づけは困難ですが、本論文とアジア東部の古代ゲノム研究の進展(関連記事)を踏まえてあえて推測すると、港川1号も含まれる港川フィッシャー遺跡集団は、古代人ではアジア南東部のホアビン文化(Hòabìnhian)集団、現代人ではアンダマン諸島人と遺伝的に近いかもしれません。これらの集団は、おもにユーラシア東部沿岸部祖先系統で構成されています。これに対して、アジア東部現代人はおもにユーラシア東部内陸部祖先系統で構成されています。ユーラシア東部内陸部祖先系統は北方系統と南方系統に分岐し、アジア東部でより強い影響を有するのは北方系統で、オーストロネシア語族集団では南方系統の影響が強い、とモデル化されています。

 縄文時代個体群は、ユーラシア東部沿岸部祖先系統(44%)とユーラシア東部内陸部南方祖先系統(56%)の混合とモデル化されています。港川フィッシャー遺跡集団は、おもにユーラシア東部沿岸部祖先系統で構成されているか、ユーラシア東部内陸部南方祖先系統との混合集団で、現代人にはほとんど遺伝的影響を残していないものの、縄文時代個体群の直接的祖先とは遺伝的に近縁かもしれません。もちろん、これは特定の研究のモデル化に依拠した推測にすぎないので、今後の研究の進展により、さらに実際の人口史に近いモデル化が可能になるのではないか、と期待されます。


参考文献:
Mizuno F. et al.(2021): Population dynamics in the Japanese Archipelago since the Pleistocene revealed by the complete mitochondrial genome sequences. Scientific Reports, 11, 12018.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-91357-2

https://sicambre.at.webry.info/202106/article_15.html

10. 中川隆[-15325] koaQ7Jey 2021年11月12日 15:27:15 : JZhKWZY5ss : emliVkpFYTd6RU0=[28] 報告
宮古島の先史人は北方の縄文系 DNA100%一致、従来の「南方説」覆す 英ネイチャー誌論文
2021年11月12日
宮古島市の長墓遺跡周辺の発掘調査で出土した人骨=2008年7月

 宮古島市平良島尻の長墓遺跡周辺から出土した先史時代の人骨と、日本の縄文時代の人骨はDNAのゲノム(全遺伝情報)が100%一致するとの結果を含む研究論文を、ドイツのマックス・プランク人類史科学研究所を中心に沖縄を含む日本や韓国、中国、米国などの研究者42人が共著で11日までにまとめた。従来、宮古島の先史時代の人々はフィリピンや台湾など南から渡ってきたとする「南方説」が有力だった。今回のゲノム解析結果は沖縄島など北から渡ってきた可能性を示しており、今後の研究の進展が注目される。

 論文名は「トランスユーラシア言語が農耕と共に新石器時代に拡散した―歴史言語学、考古学と遺伝子の学際的研究成果」。日本語、琉球語、朝鮮語、モンゴル語などを使う人々の移動経路を研究し、英科学誌ネイチャーで発表した。

 長墓遺跡は2005年から発掘調査を実施して、先史時代の人骨や装飾品などが見つかった。出土した人骨のDNAを解析し、今回の論文にまとめた。

 論文は新石器時代に中国の西遼河地域でキビやアワを栽培した農耕民を起源に、農耕や言語が朝鮮、九州を経て沖縄へ伝わったことを想定する。論文共著者の鹿児島大学国際島嶼教育研究センターの高宮広土教授=那覇市出身=は「琉球列島の方言と人の起源が明らかになり、農耕の変遷時期も分かった。人骨や農耕による穀類などデータをさらに蓄積することも必要だ」と指摘した。

 同じく共著者で、宮古島市教育委員会文化財係の久貝弥嗣さんは「宮古の先史時代の人骨をDNA分析したことはなかった。日本の遺跡から出た人骨のDNAと比べる新しい視点が入ってきたことは大事なことだ」と指摘した。

https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1422520.html

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