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内田樹 嫌韓の構造
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/664.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 10 月 13 日 11:44:01: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 韓国輸出規制の目的 _ 韓国企業に渡してたフッ化水素(ウラン濃縮素材)の3割は北朝鮮に流れていた 投稿者 中川隆 日時 2019 年 7 月 09 日 07:51:46)

嫌韓の構造 - 内田樹の研究室 2019-10-13
http://blog.tatsuru.com/2019/10/13_0715.html


 今月号(2019年11月号)の『潮』に「嫌韓言説の構造」について一文を寄せた。もう出てだいぶ経つからブログに採録する。前半はこれまで書いたことの繰り返しなので、途中から。


 (前略)日韓の対立を煽る仰々しい大見出しが週刊誌や月刊誌の表紙に印刷される状況が続いている。記事そのものを読む人は数十万でも、新聞広告や電車の中吊り広告を目にする人はその何十倍にもなる。これらの広告は「今の日本では『こういうこと』を言っても構わない」という印象を刷り込んでいる。同型的な言葉づかいが繰り返されるほど「嫌韓を語ることが日本の常識である」という心証が形成されてゆく。

 私はテレビを観ないので伝聞情報だが、民放のワイドショーや情報番組でも、連日韓国についてのニュースが長時間放映され、韓国を口汚く罵るコメンテーターがさまざまな番組で重用されているという。

 だが、仮にも「隣国と断交も辞さず」というような危険な言葉を口にするのであれば、メディアも発言者も、それなりのリスクを背負う覚悟を持つべきだと思う。


「これはできるだけ多くの日本人に周知させるべき知見である」と本気で信じているならば、「ネットで炎上」くらいのことで謝罪すべきではない。

「国交断絶が国益を最大化する唯一の政策だ」と信じているなら、謝罪も釈明も要らない、そう言い続ければいい。

「50万人の在日コリアンが日本から出てゆく方が国益にかなう」と本気で信じているなら、そう言い続ければいい。

職を賭しても、社会的制裁を受けても、それでも言い続けねばならないと思うなら、言えばいい。そういう言葉のせいで失われるものがあり、傷つく人がおり、恐怖を感じる人がいても、それでも「韓国と縁を切ることが日本のためだ」と本気で思っているなら、謝罪も釈明もするな。

『新潮45』のときにも言ってが、非常識で、挑発的で、攻撃的な言葉をあえて発信するなら、編集者も書き手もそれなりのリスクを負うべきである。

『新潮45』では新潮社の社長名で「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現が見受けられ」という指摘がなされた。編集者はこれに一言の反論もせず、事実上の廃刊を受け入れた。

 だが、それでいいのか。仮にも自分の責任で公にした文章である。自分自身と書き手の名誉を守るために、編集長は社長に辞表を叩きつけて、「新潮社の偏見と認識不足と戦う」と宣言すべきだったのではないか。だが、彼らはそうしなかった。ということは、それらの言説は彼が「職を賭しても伝えたいこと」ではなかったということである。身体を張って、身銭を切ってでも「言いたいこと」なら言えばいい。社長に一喝されたら引っ込めるくらいの言葉なら、はじめから言わない方がいい。

 だが、今の日本のメディアで行き交っている嫌韓言説の大半は「言っても今なら処罰されなさそうだから」というぼんやりした期待のうちに口にされている。だから、処罰のリスクがあったら、たちまち撤回して、謝罪するということが起きる。そして、そのような覚悟を持たない人々のまき散らす嫌韓言説によって、現実の日韓関係は後戻りできないほどに傷ついている。

 政府の対韓国強硬姿勢とそれに追随した嫌韓言説のせいで、韓国人観光客は激減した。韓国人観光客は日本全体では前年同月比で48%減である。九州や対馬の観光事業は壊滅的な打撃を受けた。日本製品の不買運動も始まった。日本車の販売台数は57%減、食料品は40%減、日本産ビールに至っては97%減を記録した。日本政府が外交的カードのつもりで切った半導体原料の輸出規制は、韓国国内での原材料調達システムへの切り替えを後押ししただけで、日本企業はたいせつな顧客を失って終わった。

 実体経済へのこの負の影響について、政府もメディアも一言の弁明もしていない。韓国市場に依存するようなビジネスモデルを採択した事業者たちの「自己責任」だと言ってつっぱねるつもりだろうか。

 嫌韓言説を私はきわめて危険なものだと思っているけれども、それは「覚悟がないまま発信されている」とか「実体経済に影響が出ている」ということだけに基づくものではない。わが国の安寧を損ないかねない「病的なもの」をそこに感知するからである。

 嫌韓言説は表向きは「政治的メッセージ」として発信されている。自分たちの言葉は国益を最大化するために発されているという「愛国的言い訳」がまず用意されている。

 だが、「失われた国益」については先に上げたようなデータがすでにあるが、嫌韓言説によって「日本が得たもの」については誰からも教えられた覚えがない。誰でもいい、誰か「嫌韓のおかげで「現に『こんなにいいこと』があった」という実例を知っているなら、ぜひ教えて欲しい。海外メディアを徴する限り、日本政府の対韓政策によって東アジアの地政学的安定が崩れることを危惧する声はあっても、「よくやった」という言葉は見たことがない。

 さて、国益増大のためでなく、国威発揚にためでもないとしたら、いったいそれは何のための言葉なのか。

「金儲けのためだ」という言い訳が次に出て来る。

「読みたいという人がいるから『心にもないこと』を書き飛ばしているのだ。リアルでクールな需要供給の原理に従ってしていることについて、『覚悟』だの『国益』だの、大人げない批判はやめてくれ」と。これが言い訳の第二層である。

 本気で書いているわけじゃない。金になるから書いているんだ。そう言うと、批判をかわせることを彼らは知っているのである。

 私たちは「どうしてそんなことをするんだ」と問い詰めたときに、「金のため」と答えられると「なんだ、金のためだったのか」とあっさり追及の手を止めてしまう。「そうか、金のためか。だったら、しかたがない。誰もみんな金のために生きているんだから」という妙なもの分かりのよさをみんな発揮して、一気に批判のテンションを下げてしまうのである。

「金のために」というのはある意味最強の「言い訳」である。これは「誤解されかねないことを書いたことを謝罪する」という言い訳とよく似ている。

「誤解」なら、悪いのは「書き手の意図を誤解した読者」である。読解力の低い読者に責任が転嫁され、書き手は免罪される。

「金のため」も言い訳の構造は同じである。ジャンクな商品を欲しがる消費者がいるから、こちらもジャンクな商品を売っているのだ。悪いのは「欲しがる方」ではないのか、と。

「金のため」であることを誇示するために、発信者は意図的な「手抜き」を行う。

 売れ筋の嫌韓言説をもとに「嫌韓テンプレート」を作って、それをなぞって書くのである。新味のない論理、手垢のついた語法、定型的な比喩、何度も孫引きされたデータ、そういう「ありもの」だけで文章を綴ると、そこには「固有名を持った書き手がどこにもいない文章」が現れる。

 以前、担当だった若い女性編集者が「おじさん週刊誌」に転属になったことがあった。「記事書くの、大変でしょう」と同情したら、「簡単ですよ」と言われた。「おじさん読者が喜びそうな書き方のテンプレート」というものがあるのだと言う。それに合わせて書けば、「おじさんが書いたような文章」が出来上がると言われて、びっくりした。そこには厳密な意味での「書き手」がもはや存在しない。テンプレートやアルゴリズムのような「作文機能」だけがあって、それが人間のような顔をして文章を製造しているのである。

「出版人としての覚悟があるのか」と私が力んでみても、薄笑いでかわされるのはそのせいなのである。「職を賭して言いたいこと」なんか彼らにははじめからなかったのである。

「自分が言いたいことでもない言葉」のために、なぜに職を賭したり、社会的制裁を受けなければならないのか? 「文句があれば謝るからさ、いつまでもうるさく言うなよ」と彼らがしかめっ面をするのもなるほど当然なのである。書いたのは「定型文を量産する」テンプレートで、読むのは「誤解する読者」なんだから、「文責を負う人間」なんかどこにもいなくて当然である。
 
 と「種明かし」をされたところで嫌韓言説をこれ以上批判する意欲が失せてしまう。でも、それがこの「金のため」という第二層の言い訳のねらいなのである。「金のため」は隠された本音から私たちの目を逸らすための目くらましなのである。

 嫌韓言説の一番奥にあるほんとうの動機は「おのれの反社会的な攻撃性・暴力性を解発して、誰かを深く傷つけたい」という本源的な攻撃性である。

「ふだんなら決して許されないふるまいが今だけは許される」という条件を与えられると、いきなり暴力的・破壊的になってしまう人間がこの世の中には一定数いる。ふだんは法律や常識や人の目や「お天道さま」の監視を意識して、抑制しているけれども、ある種の「無法状態」に置かれると、暴力性を発動することを抑制できない人間がいる。

 私たちの親の世代の戦中派の人々は戦争のときにそれを知った。ふだんは気のいいおじさんや内気な若者が「今は何をしても処罰されない」という環境に投じられると、略奪し、強姦し、殺すことをためらわないという実例を見たのである。戦中派の人たちは、人間は時にとてつもなく暴力的で残酷になれるということを経験的に知っていた。

 私も60年代の終わりから70年代の初めに、はるかに小さなスケールだが似たことを経験したことがある。大学当局の管理が及ばない、あるいは警察が入ってこないという「保証」があるときに、一部の学生たちがどれほど破壊的・暴力的になれるのか、私はこの目で見た。

 最初に驚かされたのは三里塚の空港反対闘争に参加したときに、学生たちが無賃乗車したことである。数百人が一気に改札口を通ったのだから、駅員には阻止しようがない。切符を買っていた私が驚いていたら、年長の活動家が笑いながら、「資本主義企業から搾取されたものを奪還するのだ」という政治的言い訳を口にした。

 しかし、降りた千葉の小さな駅で、屋台のおでん屋のおでんを学生たちが勝手に食べ出したのには驚いた。「やめろよ」と私は制止したが、学生たちはげらげら笑って立ち去った。おでん屋は別に資本家ではない。ただの貧しい労働者である。その生計を脅かす権利は誰にもない。でも、学生たちは「衆を恃んで」別に食べたくもないおでんを盗んだ。今なら盗みをしても処罰されないという条件が与えられると、盗む人間がいる。それもたくさんいる、ということをそのとき知った。

 学生運動の渦中で多くの者が傷つき、殺されたが、手を下した学生たちにも、その人を傷つけなければならない特段の事情があったわけではない。ただ、政治的な大義名分(「反革命に鉄槌を下す」)があり、今なら処罰されないという保証があったので、見知らぬ学生の頭を鉄パイプで殴りつけたり、太ももに五寸釘を打ち込んだりしたのである。その学生たちはそののち大学を出て、ふつうのサラリーマンになった。今ごろはもう年金生活者だろう。

 私はこういう人たちを心底「怖い」と思っている。こういう人たちを「大義名分があり、何をしても処罰されない」という環境に決して置くべきではないと思っている。だから、できるだけ法律や常識や世間の目が働いていて、「何をしても処罰されない」という環境が出現しないように久しく気配りしてきたのである。

 嫌韓言説に対して私が「怒り」よりもむしろ「恐怖」を感じる理由はそこにある。今なら、韓国政府と韓国民を批判するという大義名分さえ立てば、どんなに下品で暴力的な言葉を口にしても、どんな無根拠な暴言でも許され、処罰されることがない。人々はしだいにそう思い始めている。だが、「処罰されない」という保証があれば、要らないものを盗み、ゆきずりのものを壊し、恨みもない人間を傷つけるということが平気でできる人間を私たちの社会は一定数抱え込んでいるという事実を忘れてもらっては困る。その数は皆さんがたが想像しているよりはるかに多いのである。

 嫌韓言説をドライブしている人たちは固有名において、オリジナルな政治的知見を述べたいわけではない。その人が口を噤んだら、もう誰も彼に代わって言う人がいない言葉を語っているわけではない。彼が口を噤んでも、誰か他の人が一言一句同じことを繰り返すことができるような言葉ばかり語っていることからもそれは知れる。

 彼らは金が欲しいわけでもない。「金のためだ」と仮に言ったとしても、それは本音ではない。そう言うと、みんなが「安心」するから、それ以上の追及を止めるから、そう言っているだけである。

 彼らがほんとうにしたいことは他の人がたいせつにしているものを、意味もなく盗んだり、壊したり、傷つけたりすることである。そして、そのような邪悪な衝動に動かされているということに本人も気づいていない。

 いずれ、嫌韓ブームが去れば、彼らはまた「ふつうの人」に戻って、韓国のことなど何も口にしなくなるだろう。そもそもどうして自分があれほど熱心に韓国のことを罵倒していたのか、その理由すら思い出せまい。彼らは別に韓国に用事があったわけではないからだ。中国大陸に攻め入った兵士たちが個人的に中国人に恨みや憎しみがあったわけではないのと同じである。

「大義名分」と「処罰されない」という条件に自動的に反応する人たちがいる。同じ条件が別の国や集団やあるいは個人を相手に成立したら、そういう人たちは同じことを繰り返すだろう。

 日本には言論・表現の自由がある。だが、それはすべての人々にはひとしく極論や暴論を述べる権利があるとことと解してはならない。言論の自由を行使することを通じて対話的で豊かな言論の場を創出しようと願っている人もいるし、言論の自由をもっぱら人を傷つけ、人を恐怖させ、たいせつなものを踏みにじるために道具的に利用する人もいる。そして、残念ながら、その二者を識別できる外形的な指標はない。「ふつうのおじさん」がいつ「非道な刑吏」に変貌するかは事前には予測がつかないのである。私たちにできることは、法律と常識と世間の目と「お天道さま」にきちんと機能してもらって、「今なら何をしても処罰されない」と思い込む人間の出現をできる限り先送りすることだけである。
http://blog.tatsuru.com/2019/10/13_0715.html  

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コメント
1. 中川隆[-10926] koaQ7Jey 2019年10月13日 12:07:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1909] 報告

サンデー毎日「嫌韓言説について」 - 内田樹の研究室 2019-09-24
http://blog.tatsuru.com/2019/09/24_0939.html

嫌韓言説について『サンデー毎日』に寄稿した。言いたいことはだいたい前にブログの『週刊ポスト問題について』で書いた。紙数を多めにもらったので、そこでは書ききれなかったことを書き足した。だから、最初の方はほぼブログ記事のままである。二重投稿するなというご意見もあると思うが、ブログに書いたものは「原稿」ではないのだからその辺はご勘弁願いたい。

『週刊ポスト』9月13日号が「『嫌韓』ではなく『断韓』だ 厄介な隣人にサヨウナラ 韓国なんて要らない」という挑発的なタイトルの下に韓国批判記事を掲載した。新聞広告が出るとすぐに批判の声が上がった。同誌にリレーコラム連載中の作家の深沢潮さんはご両親が在日韓国人だが、執筆拒否を宣言した。続いて、韓国籍である作家の柳美里さんも「日本で暮らす韓国・朝鮮籍の子どもたち、日本国籍を有しているが朝鮮半島にルーツを持つ人たちが、この新聞広告を目にして何を感じるか、想像してみなかったのだろうか?」と批判した。私もお二人に続いて「僕は今後小学館の仕事はしないことにしました」とツイッターに投稿した。

 本音を言うと、そんなこと書いてもほとんど無意味だろうと思っていた。『週刊ポスト』編集部にしてみれば、はじめから「炎上上等」で広告を打ったはずだからである。炎上すれば、話題になって部数が伸びる。ネットでの批判も最初のうちは「広告のうちだ」と編集部では手を叩いていたことだろう。

 所詮は「蟷螂の斧」である。私ごとき三文文士が「小学館とは仕事をしない」と言っても、先方は痛くも痒くもない。もう10年以上小学館の仕事はしていないし、今もしていない。これからする予定もない。そんな物書き風情が「もう仕事をしない」と言ってみせても、小学館の売り上げには何の影響もあるまい。

 ところが、意外なことに、その後、版元の小学館から謝罪文が出された。

「多くのご意見、ご批判」を受けたことを踏まえて、一部の記事が「誤解を広めかねず、配慮に欠けて」いたことを「お詫び」し、「真摯に受け止めて参ります」とあっさり兜を脱いだのである。

 取材の電話がそれからうるさく鳴り出した。どこにもだいたい同じことを述べた。今回は多めの紙数を頂いたので、私見をもう少し詳しく語りたいと思う。

 私が『週刊ポスト』編集部にまず申し上げたいのは「あなたがたには出版人としての矜持はないのか?」ということである。

 以前『新潮45』の騒ぎの時にも同じことを書いた。あえて世間の良識に反するような「政治的に正しくない」発言をなす時には、それなりの覚悟を以て臨むべきと私は思う。人を怒らせ、傷つける可能性のある文章を書くときは、それを読んで怒り、傷ついた人たちからの憎しみや恨みは執筆したもの、出版したものが引き受けるしかない。それが物書きとしての「筋の通し方」だと思う。その覚悟がないのならはじめから「そういうこと」は書かない方がいい。

『新潮45』のときには、社長名で「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現が見受けられ」という指摘がなされたが、これに対して編集長は一言の反論もしなかった。それはおかしいだろう。仮にも編集長が自分の責任で公にした文章である。ならば、自分自身のプロとしての誇りと彼が寄稿依頼した書き手たちの名誉を守るためにも、編集長は辞表を懐にして、記者会見を開き、「新潮社の偏見と認識不足と戦う」と宣言すべきだったと私は思う。でも、彼はそうしなかった。編集部の誰もそうしなかった。黙したまま休刊を受け入れた。

 済んだことを掘り起こして、傷口に塩を擦り込むようなことはしたくないが、それでもこれが出版人としての矜持を欠いた態度だったということは何度でも言っておかなければならない。それなりに現場の経験を積んできたはずの編集者たちが示したこのモラルハザードに私は今の日本のメディアの著しい劣化の徴候を見る。

 なぜ彼らはこうも簡単に謝罪するのか? 理由は簡単である。別にそれらの言葉は彼らが「職を賭してでも言いたいこと」ではなかったからである。

 たとえどれほど人を怒らせようとも、泣かせようとも、傷つけようとも、これだけは言っておかなければならない、ここで黙っていては「ことの筋目が通らない」とほんとうに思っているのなら、人は職を賭しても語る。でも、今回の記事はそういうものではなかった。炎上することを予期しておきながら、その規模が想定外に広がると、あわてて謝罪した。ということは、これらの記事は編集者たちが「職を賭しても言いたいこと」ではなかったということである。

 私が「あなたがたには出版人としての矜持はないのか?」という強い言葉を使ったのは、それゆえである。「職を賭してでも言いたいわけではないこと」を言うために、この週刊誌は多くの人を恐れさせ、不快にし、社会の分断に掉さし、隣国との外交関係を傷つけることを気にしなかった。「ぜひ言いたいというわけでもないこと」をあえて口にして、人の気持ちを踏みにじった。

 彼らがほんとうに韓国と断交することが国益にかなうと信じているなら、謝ることはない。これからもずっと「断交しろ」と言い続ければいい。日本国内にいる49万8千人の在日コリアンを「この国に自分たちの居場所はないのではないか」という不安に陥れることが日本社会をより良きものにするために必須の措置だと信じているなら、謝ることはない。これからも「日本から出ていけ」と言い続ければいい。でも、『週刊ポスト』は謝罪した。もちろん、本気の謝罪ではないことはでもわかっている。来週からもまた少し遠回しな言い方で同じような記事を書き続けるだろう。だが、それなら今回も謝るべきではない。編集長は堂々と記者会見をして、「社名に泥を塗っても、職を失っても、これだけは言っておきたいから言ったのだ」と広言すればいい。拍手喝采してくれる人もきっといただろう。だが、彼らはその支援を待つことなく、尻尾を巻いた。

「書くなら覚悟をもって書け」という私の考えに同意してくれる人は残念ながら出版界には少ないと思う。おおかたの出版人は鼻先で笑うことだろう。

「何を青臭いことを言ってるんですか。そういう記事を読みたいという読者がいるから、記事を書いてるだけですよ。ただの需要と供給の話です。出版人の矜持だ覚悟だって、内田さん、なんか出版に幻想持ってませんか?」と、たぶんそう言われるだろう。

 数年前にある週刊誌が党派的にかなり偏った政治記事を掲げたことがあった。その週刊誌からインタビューを申し込まれたので、「あんな記事を書く週刊誌とは仕事をしない」と断ったら、苦笑いされた。「あんなこと、われわれが本気で書いてると思ってるんですか? ああいうことを書くと売れるから、『心にもないこと』を書いているんです」と「大人の事情」を説明してくれた。それを聴いて、私はさらに怒りが募った。

 これらの記事は、「これは私の言いたいことです」と固有名において誓言する書き手が存在しない文章である。誰もその「文責」を引き受ける人がいない言葉が印刷され、何十万もの読者がそれを読む。そして、「そういう考え方」が広く流通する。

「フランスにおける反ユダヤ主義」は私の研究テーマの一つだったが、研究を通じて骨身にしみた教訓は「発言の責任を取る人間がどこにも存在しない妄想やデマでも、強い現実変成力を持つことができる」という歴史的事実であった。だから、私は空語や妄想を軽んじない。

 けれども、私に「裏の事情」を話してくれたフレンドリーな編集者は自分たちが流布している「空語」の現実的な影響力については特に何も考えていないようであった。適当に書き飛ばした「空語」を読んで、それを現実だと「誤解」するのは読解力の足りない読者の責任であって、書いた側には責任がないと思っていたらしい。

 厄介な話だが、このような考え方にも実は一定の理論的根拠はある。「あらゆるテクストは多様な解釈に開かれており、テクストを一意的に解釈する権利は誰にも(書き手自身にも)ない」というのはロラン・バルト以来のテクスト理論の中核的なテーゼだったからである。

 今回の『週刊ポスト』も、謝罪していたのは、「誤解を広め」かねないことについてであり、「間違ったことを書いた」ことについてではない。「テクストの最終的な意味を確定するのは読者たちであり、筆者ではない」というポストモダンの尖ったテクスト理論はここでは書き手の責任を空洞化するために功利的に活用されていたのである。学知というのは、こういうふうに劣化するものだということを私は知った。

 どれほど「ジャンク」な商品でも、それを「欲しい」という消費者がいる限り、その流通を妨害してはならないというのは市場経済の基本ルールの一つである。アメリカには「学位工場(degree mill)」というものがある。貸しビルのオフィスに電話とパソコンがあるだけの、実体のない「大学」だが、金を払えば、学位記を発行してくれる。学問的には無価値な学位だが、それでも「欲しい」という人がいる。だから商売になる。アメリカにはこれを禁じる法律がない。売り手も買い手もそれが「ジャンクな商品」だということをわきまえた上で売り買いしているのである。「大人の商売」である。だから、市場原理に従えば、空語や妄想を読みたいという人がいる限り、妄想や空語を売ることも適法だということになる。

 私はこういう「原理主義的」な考え方を好まない。たとえ理屈ではそうでも、いくらなんでも非常識だと思う。もちろん、「それは非常識だ」と私が言っても、「お前の言う『常識』とはいつ公認されて、どの地域において『常識』なんだ? どれだけの一般性があるんだ?」と切り立てられると絶句する他ない。しかし、私はここで絶句するということが「常識の手柄」だと思っている。常識に基づいて革命を起こしたり、テロをしたり、人を収容所に監禁したりすることはできない。「そんなの非常識」だからである。

 常識は強制力を持たない、弱い知見である。控えめな抑止効果はあるが、それ以上の力を持たない。けれども、そういう言葉がいまのメディアには一番足りないのではないか。

 こういう問題が起きると「表現の自由を侵すな」という原理主義的な反論を語る人がいる(今回もぞろぞろ出て来た)。だが、「ヘイトも、差別も、犯罪教唆も、言論の自由」だというようなことを言う方々は別に「表現の自由」が譲れない基本的人権だと思ってそう言っているわけではない。そのことは肝に銘じておいた方がいい。

「表現の自由」という言葉は一つだけれど、それを「手段」として功利的に使う人たちと「目的」として掲げている人たちでは、同じ言葉でも奥行きや広がりが違う。

「表現の自由」を口にする人たちが「表現の自由があらゆる領域で保障されるような社会を構築するため」にその原理を掲げるなら、私はそれを支持する。いまここにおける「限定的な表現の自由」の行使が、未来の「より包括的な表現の自由」の実現をめざすものであるなら、私はそれを支持する。

 だが、自分たちの政治的信念を宣布する上で便宜的に「表現の自由」論を口にする人については、彼らに「表現の自由」を認めることを私は留保する。もし彼らがその言論を通じて実現をめざしているのが、異物を排除し、多様性を認めず、単一のイデオロギーで統制された「純血主義」的社会であるなら、私は彼らが「表現の自由」を口にするのはそもそも「ことの筋目が通らない」と思うからである。

 もちろん私は一介の私人であるから、法律や暴力を以て彼らを黙らせることはできない。私にできるのは「この人たちの言うことに耳を貸してはいけない」とぼそぼそ言うだけである。

 いま日本のメディアには非常識な言説が瀰漫している。だが、これを止めさせる合法的な根拠はいまのところない。たとえ法律を作っても、その網の目をくぐりぬけて、非常識な言説はこれからも流布し続けるだろう。私たちにできるのは「それはいくらなんでも非常識ではないか」とか「それではことの筋目が通るまい」というような生活者の常識によって空論や妄想の暴走を抑止することだけである。そのような常識が通じる範囲を少しずつ押し広げることだけである。
http://blog.tatsuru.com/2019/09/24_0939.html

2. 中川隆[-10788] koaQ7Jey 2019年10月17日 11:08:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2058] 報告

街場の読書論 韓国語版まえがき - 内田樹の研究室 2019-10-17
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/664.html#cbtm


 みなさん、こんにちは。内田樹です。
 『街場の読書論』の韓国語版が出ました。
 書くことと本にかかわる文章だけを集めたちょっと変わったアンソロジーです。文章そのものは平易なのですが、言及された元の書物について知らないと翻訳がなかなかむずかしはずです。日本の古典からの引用もあるし、アメリカやフランス文学の話もあるし、落語の話もあるし...翻訳の労をとってくださった朴東燮先生もずいぶんご苦労されたと思います。何よりもまず朴先生のご尽力に感謝申し上げます。いつもありがとうございます。

 序文として一言申し上げたいのは、僕の本がこの時期に韓国語訳されて出版されることの意味についてです。

 いま、日韓関係は僕が知る限り、過去最悪の状態にあります。どうして短期間のうちにこんなことになってしまったのか。このところ、そのことをずっと考えています。

 どうしてこんなことになってしまったのか「わからない」というのは、僕一人ではなく日本の市民のおおかたの実感だろうと思います。

 メディアでは、「このトラブルの責任者は誰か?」「このトラブルから受益しているのは誰か?」という問いが繰り返し立てられ、そのつど「私は真相を知っている」というタイプの「専門家」が登場して「正解」を教えてくれる、ということをしています。

 むずかしい問題が起きたときには「話を簡単にする人」がもてはやされます。知識人でも、政治家でもそうです。

「話を簡単にしてくれる人」はさまざまな変数が入り組んで起きた出来事を、単一の「張本人(author)」が立案した邪悪な「計画」の所産であると説明します。そういう説明をされると、こちらの知的負荷は一気に軽減する。「なんだ。そんな簡単な話だったのか」と知ってほっとする。一見すると無秩序で、偶発的に起きているように見える現象群の背後に「すべてを差配しているオーサー」がいて、すべては実は綿密に組み立てられた計画通りに進行しているのだ・・・と思うと、ことの良し悪しに関わらず(その変化が自分にとって不利なものであってさえ)、人は「ほっとする」。

 これは人性の自然ですから、仕方がないと言えば、仕方がない。

 すべての事象の背後には「神の摂理」があると信じることも、「歴史を貫く鉄の法則性」があると信じることも、「シオンの賢者のプロトコル」があると信じることも、信憑の構造そのものは同一だからです。そもそも、偶発的に見える自然事象の背後には「美しい数理的な秩序」が存在すると信じるところから自然科学だって始まるわけですし。

 目の前の現象が入り組んでいて、理解に難いものであればあるほど、「これらの複雑怪奇に見える出来事の背後には、すべてを予見し、すべてを知り抜き、すべてを統御している単一のオーサーがいる」と推論することへの誘惑はより強いものになります。でも、その誘惑に屈服することがときに破滅的な結果をもたらすことも僕たちは知っている。

 1789年のフランス革命のあと、民衆に追われた貴族と僧侶は英国に亡命しました。そして、夜ごとロンドンのクラブに集まってはどうして「こんなこと」が起きたのか、語り合いました。残念ながら、フランス革命を「無数のファクターの複合的効果」として複雑なまま扱うことができるほどに彼らの知性はタフではなかったので、彼らはこんなふうに推論しました。

 革命は、体制を一気に覆すことができるほどの政治的実力を持ち、かつ完璧な秘密保持を誇る「世界的な規模の陰謀組織」によるものだ、と。そうでないと、大規模な政治的動乱が同時多発的に起きたことの説明がつかない。

 では、その陰謀組織は何ものか? 

 さまざまな「容疑者」が吟味されました。プロテスタント、イギリスの海賊資本、ボヘミアのイリュミナティ、フリーメーソン、聖堂騎士団...そのリストの中に「ユダヤ人の世界政府」というものもありました。実は「オーサー」は誰でもよかったのです。物語の構造だけが重要だったのです。そして、最終的にかなり多くの人たちが「ユダヤ人の世界政府がフランス革命を立案し、実行したのだ」という陰謀史観を採用することになりました。そして、その物語を信じた人たちが(どこまで本気で信じていたのかはわかりませんが)、そのあと2世紀にわたって、同じ物語を飽きずに繰り返し語り続け、最終的にそれがユダヤ人600万人のジェノサイドを帰結したのでした。

 理解しがたい事変が起きたときに、どんなストーリーでもいいから、誰かに分かりやすい理由を示してもらって安心したいと願うのは人間的な弱さの現れです。そのこと自体を責めることはできません。でも、「オーサー」を特定して「話を簡単にすること」に固執して、現実の複雑さを直視することを忌避した人たちが、その結果どれほど非人間的なふるまいに加担することになったのか僕たちは歴史から学びました。動機は人間的だったけれど、帰結は非人間的なものになった、ということがあるのです。

 この歴史的事実から僕たちが引き出しうる教訓があるとすれば、それは、どんな複雑な出来事についても、「そのすべてを統御し、そのことから受益している単一のオーサーがいる」という仮説に対しては、十分な警戒心をもって臨む必要があるということだと僕は思っています。

 その経験則に従って言うと、僕は日韓関係をこのような出口の見えない状況に導いた「邪悪な主体」がいるとは思いません。日韓両国民を困惑させる「周到な計画」があったとも思いません。無数のファクターが絡み合って、「こんなこと」になった。だから、「責任者は誰だ?」「張本人は誰だ?」「受益者は誰だ?」というタイプの、話を簡単にしようとする問いかけをする人に対しては、そういう問いの立て方は有害無益であると、むしろ問題の解決を遠ざけるだけだと告げることにしています。

 こういう難問に遭遇したときには僕は「複雑な現実は複雑なまま扱う」ことにしています。

 不合理なようですけれど、これはほんとうにそうなんです。複雑なものは無理やり単純化しないで、複雑なまま扱う。

 それがどのような種類の問題であれ、僕が困難な問題に接近するときの基本的なマナーです。政治について語る場合でも、哲学や文学について語る場合でも、それは変わりません。

 それは固く結ばれた紐をていねいにほどく作業に似ています。結び目のどこかにわずかでも緩みがあったら、そこを緩める。僕たちにできるのはそれだけです。いつ、どの結び目がほどけるのか、予測できません。だから、工程表を作ることもできないし、作業が完了する期日を示すこともできません。僕たちが経験的に知っているのは、「結び目が一つほどければ、次の結び目がほどきやすくなる」ということくらいです。

 気長な作業です。こういう作業に必要なのは、「切れ味のよい知性」ではありません。むしろ「タフな知性」です。結論が出ないまま、ずっと宙吊りにされていることにも耐えられる知的な忍耐力です。僕は「知性の肺活量」という言葉を使うこともあります。どこまで息を止めていられるか。わかりやすい結論を採用して、知的負荷を一気に軽減したいという誘惑に耐えて、どこまで「わかりにくい話」に付き合い続けることができるか。

 いま日韓両国民に(とりわけ日本国民に)求められているのは、そういう自制と忍耐だと思います。

 なんだか抽象的な話になってしまってすみません。

 僕のこの本が韓国の読者にどういうふうに受け止められることになるのか、僕にはうまく想像がつきません。韓国の読者たちの何人かに言葉を届かせたくらいのことで、日韓の外交関係に何らかのプラスの影響が出ると期待するほど僕はイノセントではありません。でも、「複雑な事態を複雑なまま扱う」という僕の作法に共感してくれる読者が一人でもいれば、そこから結び目がひとつほどける可能性がある。僕はそんなふうに考えています。

 がんばりましょう。
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/664.html#cbtm

3. 中川隆[-10754] koaQ7Jey 2019年10月17日 14:41:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2093] 報告

宇野正美講演会・傍聴記「反ユダヤ伝道師」かく語りき


7月20日(1995年)に、神田の日本教育会館・一ツ橋ホールで開かれた、
宇野正美氏の「1996年 国家存亡の危機が来る」という講演会を聴きに行った。

そうか。この人物が、H氏やA氏やY氏と並んで、「ユダヤによる世界支配の陰謀」
を唱えて、日本の言論界の一角で、異様な気炎をはいてきた宇野正美氏か。

この人が「ユダヤの陰謀」という恐ろしいテーマをひっさげて,もう二十年も言論
活動をやっている人なのか。もし本当に氏が「陰謀」なるものを暴いてしまった人
だったら、とっくの昔に殺されていないのはなぜだろうという疑問が脳裏をかすめた。

 宇野氏ら陰謀評論家は、世界の一般民衆を操る支配階級の人びとの、さらにそのまたごく少数の限られた人びとの秘密クラブの存在を確信することから、自分たちの言論活動を開始する。

「1990年にバブル経済が破裂したあとの5年間で、世界で、日本で、〇〇、〇〇の事件がありましたね。

これは、〇〇が〇〇して、〇〇になったものでした。その背後に、世界を操る〇〇〇〇の存在があるのです」。

要約するならば、宇野氏の話は、このスタイルに終始している。

「〇〇という事実がありました。これは、皆さんもご存知のとおり〇〇〇〇だったのですが、これも実は〇〇〇〇がからんでいるのです」。

 この語り口調は、なかなか小気味よいのである。そうか、あの事件も、この事件
も、やっぱり裏に秘密があったのか。自分もヘンだな、と思っていたんだ。

聴衆は、宇野氏の推理いつしかのめり込んでいく。開場は静まり返って、みんな真剣に聴き入っている。

いろんな厳しい人生経験を積んでそれなりの生き方をしてきたあとでも、人間はこの程度のホラ話に一気のめり込むことができるのである。


「この1月17日の関西大地震は、人工地震の可能性が、1%はあります」

「3月のオウム事件は、地下鉄サリン事件は、北朝鮮が裏で糸を引いているのです」

「最近起きたソウルのデパートの倒壊事件。奇妙でしょ。ビルの中央部分だけが、
一気に崩れ落ちるなんて。これは、低周波兵器でズーンと低周波をかけると、起こるのです」

 この三年ほどで、宇野氏の考えは二つの点で大きく変化している。かつて文芸春秋系のネスコ社から出していた本では、単純素朴な、ユダヤの秘密組織による日本征服説が説かれていた。これは、若い頃からの氏の聖書研究と愛国感情が混じり合った産物だった。

最近は、

「ユダヤ人には、アシュケナージ・ユダヤ人というニセものがおり、スファラディ・ユダヤ人という本物のユダヤ大衆を抑圧するためにイスラエルを建国したのだ。

そしてこのイスラエル建国主義者たちがシオニストであり、国際陰謀をめぐらす諸悪の根源である」

という考え方をしている。

 かつての論調ではフリーメーソン、ビルダーバーグ、イルミナティ、TC(米欧日三極会議)、CFR(外交問題評議会)などの秘密結社や国際機関と、ユダヤ人の秘密結社との関係がどうなっているのかはっきりしなかった。ところが、今回の講演では、「ザ・クラブ・オブ・アイルズ」というヨーロッパの旧来の王侯貴族達の裏結社が、これらすべての秘密クラブの上に君臨し、序列を作りそのずっと下の方で使われているのがユダヤ人たちである、という簡単な理論になっていた。


フリーメーソンやイルミナティなどの秘密結社の存在はさておくとして、TC
(トライラテラル・コミッション、米欧日三極会議)は公然と存在する。

私は、「陰謀」の存在自体は否定しない。世の中に「陰謀」の類はたくさんあると
思っている。世界覇権国であるアメリカ合衆国の、政治・経済の実権を握っている支配層の人びとの間に、多くの「陰謀」があるのは当然のことだと思う。

 そして、1990年以来の、日本のバブル経済の崩壊によって深刻な不況に陥っている現状は、やはりニューヨークの金融界が、日本の経済膨張を抑え込むために陰に陽に仕組んで実行したものであると信じないわけにはいかない。薄々とだが、ビジネスマン層を中心にこのような話は語られ広まっている。

 私の友人のなかに銀行員が何人かいる。昔、いっしょに『ニューヨーク・タイムズ』紙の早朝読み合わせ会という勉強会をやっていた友人のひとりは、ニューヨーク駐在勤務から帰ってきた後に、私にははっきりと語ってくれた。

「ニューヨークの金融センターは、ユダヤ系の人びとに牛耳られており、彼らの意思に逆らうと商売ができない恐ろしいところだ」

 彼は、宇野理論のような直接的なユダヤ陰謀論は説かないが、そのような傾向が
存在することを信じている。株式の大暴落を引き起こし、ついで地価の下落、そして円高による波状攻撃で日本の大企業の力を弱体化させ、日本国民の金融資産の
3分の1は、ニューヨークで解けて流れて、消失してしまった。日本の資産の運用先の大半は、その金利の高さゆえに、アメリカの政府債(TB、トレジャリー・ビル)や社債で運用されてきたからである。それが、円高で元金の方がやられてしまった。
http://soejima.to/souko/text_data/wforum.cgi?room=0&mode=new_sort

4. 中川隆[-13316] koaQ7Jey 2020年3月25日 18:26:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1588] 報告


「朝鮮新報」のインタビュー - 内田樹の研究室 2020-03-25
http://blog.tatsuru.com/2020/03/25_0749.html


「朝鮮新報」の3月1618日合併号に日韓問題についてのインタビューが掲載された。

 総連系のメディアに取材されたのはこれがはじめてのような気がする。
 紙面では字数が足りなかったので、これはロングヴァージョン。

「厄介な隣人にサヨウナラ」「韓国人という病理」――昨年、雑誌「週刊ポスト」は、記事の中でそのような言葉を並べヘイトスピーチを行った。同胞に対する異常な差別が日本社会にまん延する中、『週刊ポスト』版元の小学館に対し執筆拒否を宣言した思想家の内田樹さんが今、日本社会に対して思うことは。

―在日朝鮮人を取り巻く日本社会の状況に感じることはありますか?

 以前に比べ在日コリアンへの非寛容、差別が公然化してきたという印象があります。第一の原因は安倍政権にあると思います。安倍政権になってからの7年間で「嫌コリア」の機運が政治的に醸成されてきました。

 日本社会の在日コリアンへの差別的感情は戦前から一貫して存在しますが、それが公然化するかどうかはある種の「空気感」で決まります。「差別的なことは口に出してはいけない」という抑制の空気があれば、心で思っていても口にはしない。その抑制が安倍政権下で弱まった。「嫌コリア」言説が目に付くようになってきたのはそのせいです。

 極論やデマゴギーを語る人はいつの時代にもいますが、今の政権下では、そのような「マイナーな極論」を語る人たちがNHKの経営委員になったり、総理と一緒に食事をしたり、あたかも「権威のある人間」のようにメディアに頻繁に登場するようになりました。本来ならば市民的常識によって抑制されるべき非常識な発言が、政権への恐怖や忖度によってまかり通ってしまっている。それが日本社会全体の倫理の劣化をもたらした。

 ただ、これはあくまで潜在的な差別意識が可視化されたというだけのことで、在日コリアンに対する差別感情は見えないかたちで日本社会の中につねに潜在していた。だから、安倍政権が終わったら今ほどは目立たなくはなるでしょうけれど、それでなくなるわけではないと思います。

―様々な問題の中、安倍政権が長期にわたり続いている理由は何でしょうか?


政権のコアな支持層には「権力者は不正を働いても構わない」という道徳的なニヒリズムに侵されている人がいます。彼らは政権が資料を改竄・隠蔽しても、総理大臣が嘘をついても、支持者を税金で供応しても、「それのどこが悪いんだ」と口を尖らせます。不正をしても処罰されない、法の支配に服さないで済むのが権力者の特権ではないか、そういう特権的な立場になるためにこれまで努力してきて、その地位を得たのだから、それに文句を言うのは筋違いだと考えているのです。

 僕の友人がネット上で麻生太郎の批判をしたら「そういうことは自分が財務大臣になってから言え」というリプライが書き込まれました。僕が国政批判をしても「それなら自分が国会議員になれ」というような絡み方をする人がいます。それができないのなら黙っていろと言う。社会的に「成功」している人に対する批判はそれと同じだけ「成功」した人だけに行う資格がある。それが「リアリズム」だと思っている。でも、それは「現状に不満なら、まず現状を受け入れろ」と言っているに等しい。要するに絶対的な現状肯定ということです。

 彼らが安倍総理を支持するのは、「彼が総理大臣だから」です。単なるトートロジーなのですが、それに気がついていない。

―なぜそのような考え方が生まれるのでしょうか?

 気分がいいからじゃないですか。「市民社会をもっと成熟したものにしよう」とか「雇用関係を改善しよう」という願いを実現するには多大な時間と労力が必要です。でも、目の前でそれを語っている人間に「きれいごとを言うな」と罵倒を浴びせ、切って捨てるような批判をすれば、刹那的な快感、全能感が得られる。おのれの社会的上昇に希望が持てない人たちにとって、その一瞬の爽快感が心地よいのなのでしょう。だから、ネット上では、自分よりも知識を持っている人たちや専門家の発言を定型句一つで全否定できると思っている人たちが溢れ返っている。

 大声でセクシズム、レイシズムを叫ぶ人たちも求めているものは同じだと思います。「女なんて」「朝鮮人なんて」というような「言ってはいけないこと」を平気で言える自分は「スゴイ」と思っている。「反道徳的で反社会的であることができる自分」にささやかな権力の手応えを覚えている。

 本来ならば、そのような差別的な言葉は市民たちの規範力によって抑制され、収まってゆくものです。法律で罰するという以前に、「そんな非常識なことを口にするな」という規制が働く。そのためには、市民の一定数が「まっとうな大人」であることが必要です。しかし、今の日本社会には、そのような非常識な言動に対して「いいかげんにしろ!」と一喝できるような大人が少なくなってしまった。

―そのような中で在日朝鮮人も息苦しさを感じているようです。

 日本では、職業や年収な能力で「身の程」が決定され、「その枠から出るな」という禁圧が働いています。「自分が権力者になってから権力を批判しろ」というのは要するに「自分の身のほどを知れ、分際をわきまえろ、身の丈に合わないことをするな」ということです。

 少し前にアメリカの雑誌が日本の大学生にインタビューを行った記事がありましたが、学生たちは今の日本の大学に対する印象をほとんど同じ言葉で答えていました。それは「狭いところに閉じ込められている」「息ができない」「釘付けにされている」という身体的な印象を語る形容詞でした。息苦しさを日本の若者たちは共通に感じている。けれども、そう嘆いている学生たち自身はその生きづらさが「身の程を知れ」という無言の禁圧の結果だということに気づいていない。それどころか、学生たちもまたお互いに「配役されたキャラを演じ続けろ」「らしくないことをするな」というしかたで相互規制を行い、お互いの首を締めている。

 在日コリアンの場合も「在日コリアン」というタグが貼られて、その「役」を演じることを強いられています。そして、どんどん狭いところに押し込められる。「日本に文句があるなら国に帰れ」というのは「財務大臣に文句があるなら財務大臣になれ」というのはまったく同じ論理です。「与えられた社会的枠組みから出るな。嫌なら枠組みを作っている社会そのものから出ていけ」ということです。
 
―この空気を換えるためにはどうすれば良いとお考えですか?

 かつて60年安保闘争で国論が二分したあと、岸信介の後を引き継いだ池田勇人は「所得倍増」と「寛容と忍耐」をスローガンに掲げました。「所得倍増」は政治的意見の違いにかかわらずすべての日本人にとって望ましいことでした。「寛容と忍耐」は同じ社会を構成している中には、共感も理解もしがたい隣人たちも含まれているけれど、それに耐えようと。不愉快な隣人とも"気まずく"共生しよう、と呼びかけた。

 僕はこのスローガンの選択は適切だったと思います。実際に、この路線に従って日本は歴史的な高度成長を遂げたのですから。今の日本は60年安保闘争以後最も深く国民が分断されています。ですから、必要なのはもう一度「寛容と忍耐」を掲げることだと思います。

―昨年、記事中で「韓国なんていらない」などとヘイトスピーチを行った『週刊ポスト』の版元の小学館に対し、執筆拒否を宣言されました。

 小学館のような大きな出版社には、国民の間のコミュニケーションのプラットフォームを形成する社会的な責務があります。小さな出版社でしたら、政治的に偏向した言説を流布することも許されるでしょうけれど、小学館のような規模の出版社は国民間の対話の場を設定することがその社会的責務です。さまざまな論に対話の場を提供することが仕事であって、国民間にあえて分断を持ち込み、国民の一部を排除し迫害するような行為は許されません。小学館にはその社会的責任の自覚がありませんでした。メディアの劣化がここまで進んだことに僕は愕然としています。

―表現の自由についてのお考えは?

 何のための表現の自由なのか? それを考えることが大切だと思います。言論の自由というのは「誰でも好きなことを言っていい。それが虚偽でも、人を傷つけるものでも、人がたいせつにしているものを汚すものでも、何でも表現する権利がある」というような底の抜けた話ではありません。言論の自由が存在する社会は、それが存在しない社会よりも市民が成熟するチャンスが多いから言論の自由は守られなければならないというのが僕の考えです。

 何らかの公的機関や誰か見識にすぐれた「判定者」がいて、その機関なり個人なりが専一的に「表現して良いものと悪いもの」を判定識別するということになったら、市民たちは自分の判断力を高める必要がなくなる。でも、ものごとの良否の判断を他人に委ねてしまった人間はもう決して成熟することができません。

 僕が言論の自由を守ろうとするのは、市民たちの知性的・感性的な成熟を阻害して、幼児のままにとどめおこうとする人たちに抗うためです。市民が全員、おのれの判断を放棄し、上位者にものごとの正否理非の判断を委ねても気にしない幼児であれば、管理はしやすいかもしれませんが、そんな集団は遠からず滅亡します。

 表現の自由というのは単なる原理原則ではなく、具体的な成果をめざす遂行的な装置です。それによって市民たちの成熟を支援し、集団をより強くより豊かなものにするための仕組みです。ですから、何のための表現の自由なのかということを考えもせずに、ただそのつど自分に都合のよいスローガンとして「表現の自由」を引き合いに出す人間も、「お上」に表現の適否の判断を任せろという人間も、僕はひとしく信用しません。

―今後、友好的な関係を築いていくためには何が必要でしょうか?

 日本人の多くが近現代の歴史をほとんど学んでいないということが問題だと思います。朝鮮半島の植民地化とその支配の歴史的事実について多くの日本人は何も知りません。少なくとも江華島条約からあと日韓の150年の歴史に関しては最低限の事実を知る必要があると思います。

 徴用工問題や慰安婦問題などで議論が行われていますが、政治家もメディアも65年の日韓基本条約が議論の起点になっていると言うだけで、それより以前には遡らない。

 でも、はるか以前から解決できなかった問題が65年時点でも解決できずに「棚上げ」されたものがまた蒸し返されたということです。解決できなかった同じ難問だからこそ、間歇的に甦ってくる。それを「解決済みだ」と言い切って終わりというのは単なる歴史についての無知に過ぎません。解決の難しい難問は難問として受け入れて、長い時間をかけて、両国の衆知を集めて議論し続けるしかない。解きがたい問題については、「どうしてこんなに解きがたいのか」というところまで時間を遡るしかありません。

 日韓の歴史的な関わりに関する知識では、平均的には韓国の人のほうがはるかに詳しいと思います。特に最近の韓国映画は光州事件や植民地時代の親日派に関する映画など、自国史の「暗部」を映像化し、物語として国民的に共有しようとしています。

 残念ながら日本ではこのような努力はほとんど見られません。この点では韓国に大きな知的アドバンテージがあります。このまま日本人が自国史の「暗部」から目を背け続けていれば、いずれ日韓の国力には大きな隔たりができることでしょう。国力とは突き詰めて言えば、不都合なことも含めてどれくらい自国の歴史と現実を受け入れることができるか、その器量の大きさのことだからです。

http://blog.tatsuru.com/2020/03/25_0749.html

5. 中川隆[-12963] koaQ7Jey 2020年4月25日 16:27:47 : FuTo4WIpwQ : NS43QlNVSjRVTUE=[6] 報告
「街場の日韓論」まえがき 2020-04-25
http://blog.tatsuru.com/2020/04/25_1215.html

 みなさん、こんにちは。内田樹です。今回は「日韓関係」をテーマにしてアンソロジーを編みました。その趣旨につきましては、いつものように寄稿者への「寄稿ご依頼」の文章を掲げておきたいと思います。

 みなさん、こんにちは。内田樹です。

 僕から「みなさん」宛てのメールをこれまで受け取ったことのあるかたはただちにご理解頂けたと思いますけれど、今回もまたアンソロジーへの寄稿のご依頼です。

 主題は「日韓関係」です。これがたぶんいまの日本において最も喫緊な論争的主題だと思います。この論件について、みなさんのお考えを伺いたいと思います。
 いま日韓関係は僕が知る限り過去最悪です。もっと関係が悪かった時代もあるいは過去のどこかの時点にはあったのかも知れませんけれど、僕の記憶する限りはいまが最悪です。どうして「こんなこと」になったのか。それについて僕自身は誰からも納得のゆく説明を聞いた覚えがありません。

 メディアの報道を徴する限り、ことは韓国大法院の徴用工の補償請求への判決から始まったとされています。でも、もちろんこの判決が下るに至る日韓関係の長い前史があります。日本政府は1965年に問題の始点を区切って、「そこから」話を始めて、それ以前のことは「解決済み」として考慮に入れないという立場ですが、韓国の人たちはそれでは気持ちが片づかない。

 法理上のつじつまが合うことと、感情的に気持ちが片づくということは次元の違う話です。次元の違う話をごっちゃにしたまま力押しで押しても問題は絡まるばかりです。

 日韓の関係は昨日今日始まったものではありません。二千年にわたって深い関係を持ち続けた隣国同士です。だから、これは「問題」というよりは、ひとつの「答え」なんだと僕は思います。両国ともそれぞれの固有の筋を通しているうちに身動きできなくなったというのが「答え」です。ですから、僕としては、この「答え」をせめて「問題」のところにまで押し戻したいと思っています。

 わかりにくい喩えで申し訳ないんですけれども、「もう答えが出ちゃったよ」というときに、「すみませんが、そのちょっと手前の、『答えが出せないで悩んでいる』というところまで時間を遡って頂けませんか」という要請というのはあってもいいんじゃないかと僕は思います。

 答えが出なくて悩むことのほうが、答えを出すより知的に生産的であるということは経験的にはよくあることです。同じように、当事者たちそれぞれが自信たっぷり理路整然と意見を語るときよりも、当事者たちのいずれもが自分の意見がうまくまとまらないというときの方が、対話的な環境が成り立つということもあります。
 この問題について語っている人たちの言葉を徴する限り、どんな立場からのものであれ、「快刀乱麻を断つ」タイプの言説は無効のように思えます。それはその言説をあらかじめ支持する構えでいる人たち向けのアピールではあり得ても、それに同意していない人たちの警戒心を解除する力はない。

 いまの日韓関係については、誰か賢い人に「正解を示してください」とお願いするよりも、忍耐強く、終わりなく対話を続けることのできる環境を整えることの方がむしろ優先するのではないでしょうか。クリアーカットであることを断念しても、立場を異にする人たちにも「取り付く島」を提供できるような言葉をこそ選択的に語るべきではないのか、僕はそんなふうに考えています。

 僕が寄稿を依頼するみなさんにお願いしたいのは、そういう面倒なお仕事です。
 ご厄介をおかけしますけれど、僕はどなたにも「日韓問題を解決する秘策をご提示ください」とお願いしているわけではありません。

 広く人口に膾炙したアントニオ猪木の名言に「ピンチっていうのは、ひとつのものじゃなくて、いろんなやっかいごとが『ダマ』になってやってくる。『ダマ』をひとつずつ解きほぐしていけば、ピンチは必ず乗り切れる」というものがあります。日韓関係は無数の紐が絡まって「ダマ」になった「ゴルディアスの結び目」のようなものです。アレクサンドロスはこの結び目を剣で一刀両断にして難問を解決したのですが、僕がお願いしたいのは、そうではなくて、無数の「結び目」のうちの一つだけでもいいですから、結び目の構造を明らかにし、かなうならば「ここは、こうやるとほどけるかも知れない」という知恵をご教示頂きたいということです。

 寄稿をお願いするのは、必ずしも日韓問題の専門家ではありませんが、僕がその見識に
深い敬意を抱いている方たちです。みなさんのご協力を拝してお願い申し上げます。
 以上が「寄稿のお願い」です。これだけお読み頂ければ、本書の企図がどういうものであるかはみなさんにもご理解頂けたかと思います。

 これは難問の解法を示す本ではありません。いくつかの「取り付く島」を例示することができれば、僕としてはこの本を編んだ甲斐はあったと思います。そして、実際に集まった原稿を通覧した限り、寄稿者のみなさんは、それぞれがご自身の領域において熟知されている「結び目」を、それぞれの仕方で解きほぐそうとされていました。企図をご諒察頂きましたことに、寄稿者のみなさんに編者として篤くお礼を申し上げます。

 個人的なことを申し上げますけれど、年を取ってからだんだん「答えを出す」ということに興味がなくなってきました。正否はいずれにありやと切り立て合うよりは、双方ともが「これは軽々には解けそうもない問題だ」と覚悟を決めて、渋茶でも啜りながら、小さくため息をついて、ぼんやり庭を眺めるくらいの構えから始めた方が、話が前に進むような気がするのです。困った者同士が、ぼんやり同じ庭を眺めながら、「梅が咲いてきましたねえ」「そうですなあ」とか頷き合っているくらいの方が、結果的に相互理解は深まるのではないか、と。

 困ったときには素直に困る。わからないときは「わからない」と正直に言う。うまくことが運ばないときにはしょんぼりする。その方が知力体力ともに働きがよくなるということは長く生きてきてわかったことの一つです。別に逆説でもなんでもなく、ほんとうの話です。

 ですから、僕は困ったときには「適度にしょんぼりする」ことにしています。「適度に」というところにそれなりの知恵と工夫が要るわけですけれども、とりあえず、楽観と悲観の中間くらいのところで揺曳していると、思いがけない活路が見えてきたりする。

 日韓問題は「軽々には解けそうもない問題」です。

 そういうときには、無力感に苛まれてへたり込むのもよくないし、逆に「これで一気呵成に解決」というような万能の解を探し求めるのもよくない。それより「これ、たいへんな難問です」と問題の下にアンダーラインを引いて、しばらくじっと眺めている方がおのれ自身の知的成熟に資する。そういうものだと思います。

 難問に答えが出せないのは「自分がそれほど賢くないからだ」ということを認めて、その上で、自分がその答えが出せるくらいに賢くなるまで待つ。一生かけてもそこまで賢くなることがなければ(たぶんないと思いますが)、それでいいじゃないですか。一寸でも五分でも前に這い進んで、最後に前のめりに泥の中に顔をつっこんで息絶えました・・・ということでも僕はとくに悔いはありません。なにしろ、日韓関係は2000年来の歴史があり、近代に限っても、江華島事件以来150年にわたって、もつれにもつれてきたんですから、「オレの代で決着をつける」というようなことができるはずがないし、望むべきでもない。

 僕個人としては、何人かの韓国の友人たちとのかかわりを通じて韓国を理解し、僕を通じて日本を理解してもらうというささやかな足場を手作りすること以上のことはできません。でも、それでいいと思っています。国と国のかかわりを構築するのは集団の営為です。個人にできることはわずかです。でも、その「わずか」の累積としてしか国と国のかかわりは成り立たない。

 僕は僕の煉瓦を積む。他の人たちはそれぞれその煉瓦を積む。何十年か、あるいは何百年か経つうちに、その煉瓦の重なりが壮麗な大廈高楼になっているかも知れないし、廃屋になって土に還っているかもしれない。先のことはわかりません。僕個人としては、日韓両国の間の原っぱにぽつんと建っていて、通りすがりの人が自由に出入りできる飾り気のない「あずまや」のようなものができていたら、それが一番いいような気がします。
 
 今回の論集にはぜひ韓国の方にもご寄稿願いたかったのですが、残念ながら、編者からご寄稿をお願いしたお二人ともにそれぞれのご事情で執筆がかないませんでした。小説を除くと、現代の韓国の知識人で、その著作が次々と日本語訳されているという方はいません。ですから、論争的な事案について、「あの人はこれについてどう言っているだろう?」と訊ねることのできる定点観測的な方を僕は存じ上げないのです。(「韓国の養老孟司」とか「韓国の司馬遼太郎」とか「韓国の鶴見俊輔」のような方がいて、何かあるたびにその卓見を伺うことができたら、どれほど僕の心は安らぐことでしょう)。

 その点については、自分の無力をほんとうに残念に思っています。もし、次にもう一度日韓論について編む企画があったら、そのときには韓国の言論事情にお詳しい方に編者をお願いして、人選を託してみたいと思っています。

 最後になりましたけれど、本書の企画を立て、笑顔で叱咤してくださった晶文社の安藤聡さんの雅量と寛容に、そして、改めて寄稿して下さった皆さんのご尽力に感謝申し上げます。ありがとうございました。この本が日韓の相互理解のための一石になることを願っております。
(2020年3月)
http://blog.tatsuru.com/2020/04/25_1215.html

6. 中川隆[-15143] koaQ7Jey 2021年11月24日 13:28:05 : 34RYzVL0Ss : dk5pdEs0MHRvU0E=[24] 報告
内田樹の研究室
http://blog.tatsuru.com/

内田樹 嫌韓の構造
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/664.html

内田樹:全面的な対米従属、アメリカの企業に対する市場開放と、日本の公共財の切り売りさえしておけば政権は延命できる
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/398.html

比較敗戦論のために - 内田樹の研究室
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/301.html

民主主義をめざさない社会 - 内田樹の研究室
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/971.html

内田樹 生きづらさについて考える
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/647.html

内田樹 事大主義 権力者を批判したければ、まず自分が権力者になれ
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1024.html 

内田樹 パンデミックをめぐるインタビュー
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/982.html

内田樹 聖者とは何も考えないアホの事
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/980.html

「恥の文化」の力
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/778.html

格差について - 内田樹の研究室
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1133.html

国民国家 対 グローバル資本主義
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1326.html  

7. 中川隆[-12336] koaQ7Jey 2023年9月25日 16:21:55 : lk0MdtpMHQ : WUY1UGQwam1TMUk=[3] 報告
<■106行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
「歴史戦」という欺瞞 - 内田樹の研究室
http://blog.tatsuru.com/2023/09/25_0854.html

 ある媒体から「関東大震災と朝鮮人虐殺」についての特集を組むのでインタビューをしたいという依頼があった。私は近代史の専門家ではないので、この出来事については通り一遍の知識しかない。けれども、関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式に歴代都知事が送ってきた追悼文を現職の小池百合子知事が送付を拒絶していることは歴史に対する態度として間違っているということは申し上げた。
 知事は追悼文を送らない理由を「何が明白な歴史的事実か確定していないから」としている。しかし、私たちがタイムマシンで過去に遡ることができない以上、「明白な歴史的事実」を確定することは権利上誰にもできない。
 その場で現にそれを目撃したという人がいても、「話を作っているのではないか」「記憶違いではないか」「それとは違う証言が他にある」というような「反証」を突きつければ「明白な歴史的事実」の確定を妨げることは可能である。
 日中戦争中の南京での市民虐殺について、一九八三年に旧陸軍将校の親睦団体偕行社が当時現地にいた軍人たちに機関紙『偕行』に体験手記の投稿を呼びかけたことがあった。虐殺があったという批判に反論して陸軍の名誉を守るための企画だった。ところが、集まった手記の多くは軍による虐殺の事実を証言するものだった。『偕行』は「弁解の言葉はない」と率直に軍の非を認め、「旧日本軍の縁につながる者として、中国人民に深く詫びるしかない。まことに相すまぬ、むごいことであった」という謝罪の弁を記した。私はこの潔い態度には敬意を示す。
 しかし、こうして、虐殺の事実を現認した旧軍人たちの証言があったにもかかわらず「南京虐殺はなかった」と主張する歴史修正主義者はその後も跡を絶たない。
 そして、そのような「歴史修正主義的異論」がある限り、南京虐殺についても「さまざまな意見があり、明白な歴史的事実は確定していない」と言い張って謝罪を拒否することは可能なのである。
 歴史に対するこのような態度を私は「歴史的虚無主義」と呼びたいと思う。
 やや旧聞に属するが、トランプ大統領の就任式に際して、ホワイトハウスの報道官が「過去最多の人々が就任式に集まった」と語ったことがあった。これは事実に反すると記者会見で指摘をされた大統領顧問ケリーアン・コンウェイは「それはもう一つの事実だ」と言って報道官を擁護した。実際にはコンウェイはalternative factsと複数形を使っており、「もう一つ」どころではなかったのである。あらゆる事実にはそれを代替する別の事実があり得る。そうコンウェイはこの時そう宣言したのである。
 これが現代世界に猖獗をきわめる歴史的虚無主義の起点標識をなす事件だったと私は思う。
 たしかに、誰も「神の視点」に立って歴史を一望俯瞰することができない以上「明白な歴史的事実」を語れる人間は存在しない。それはその通りである。「私が見ているのは客観的事実だが、あなたが見ているのは主観的幻想だ」と退ける権利は誰にもない。
 おのれの主観的バイアスを勘定に入れてものごとを見る抑制的な知的態度を私は高く評価するものである。しかし、そこから「『明白な歴史的事実』を語る権利は誰にもない。過去に何があったのかは誰にも分からない」というところまで虚無的になることはできない。それは歴史を研究する行為そのものを否定することになるからである。歴史家が探求しているのは「明白な事実」ではない。「蓋然性の高い事実」である。「明白な事実」以外の過去についての言明はすべて私見に過ぎないと思っている人は歴史学も知性も否定しているのである。(週刊金曜日8月26日)


 関東大震災の時の朝鮮人虐殺事件については前回も触れた。そこに「明確な歴史的事実が確定していない限り、謝罪もしないし、供養もしないというのは、歴史学と知性を否定することである」と書いた。直接には、小池百合子東京都知事が関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式に追悼文の送付を拒絶したことへの批判としてである。
 続いて今度は松野博一官房長官がこの事件について「政府内において事実関係を把握する記録は見当たらない」と述べて、謝罪の言葉も慰霊の言葉もなかったことがネット上で炎上案件となった。
 実際には内閣府中央防災会議が2009年に出した『災害教訓の継承に関する専門調査会報告書』の中に関東大震災における殺傷事件の一覧表が掲載されている。「事実関係を把握する記録」を内閣府が出しているにもかかわらず、内閣官房長官は、それは報告書を書いた「有識者」の私見に過ぎず、政府の見解ではないという詭弁を弄した。内閣府が公開している公式な文書についてまで「それは書いた人の個人の感想でしょう」という言い逃れが有効だとは知らなかった。
 この事件については、「不逞鮮人」の犯罪を報じた新聞の虚報を根拠に、虐殺を否定するような歴史修正主義的な暴論がいまも流布している。そのようなデマを許容する言論環境が現に日本社会に存在し、それが在日コリアンや在日外国人に対する差別と暴力を駆動しているという事実を知りながら、松野官房長官は、「事実関係を示する公文書」の存在を否定し、政府として事実関係を明らかにする意思も示さなかった。
 官房長官のこの不作為はいわゆる「歴史戦」の一環とみなすべきだろう。「歴史戦」とは大日本帝国が過去に犯した非人道的な行為について、それを「なかった」ことにして歴史を塗り替えて、主に中国、韓国に対しての「倫理的負い目」を解消しようとする企てのことである。
 このような歴史の塗り替えは許されない。生々しい比喩を使うが、「死体」を段ボール箱に詰めて、ガムテープでぐるぐる巻きにして押し入れに隠しても、腐臭は漂い、やがてその場所を住むに耐えぬほどに不快な場所にしてしまう。自国の歴史の暗部を秘匿する行為もそれに似ている。隠蔽したものは腐乱して、やがて別の病の発生源になる。「抑圧されたものは症状として回帰する」というフロイトの卓見の通りである。
 歴史修正主義者たちの最大の過りは嘘をつくことではなく、嘘をつけば「後で祟る」という平明な事実を忘れていることにある。
 第二次世界大戦中、フランスは国際法上中立国だったが、実質的には対独協力国だった。ヴィシー政府の官憲はレジスタンスを処刑し、ユダヤ人を絶滅収容所に送っていた。しかし、ドゴール将軍の「力業」でフランスは戦勝国として終戦を迎えた。だが、それは果たしてフランスにとってよかったことなのか。戦後、対独協力の歴史的事実は隠蔽され、歴史学者たちもヴィシーの非人道的な政策についての研究については抑制的だった。そうやって「フランスはつねに正しい戦争を戦ってきた」という「修正された歴史」を正史として採用したせいでフランス人は戦後ベトナムとアルジェリアで非人道的な暴力をふるうことを自制できなかったし、今も深い社会的分断に苦しんでいる。そこには「フランスはつねに正しかった。フランス人には反省すべき過去も恥ずべき過去もない」という歴史修正が関与していると私は思う。
 歴史修正でわずかな自尊を奪還しても、その国は何倍かの屈辱と損害を後に別の形で支払うことになる。いい加減にそれくらいのことに気づいて欲しい。
(週刊金曜日9月6日)

(2023-09-25 08:54)
http://blog.tatsuru.com/2023/09/25_0854.html

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