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人類最初のアメリカ到達は16,000年以上前であったことが判明
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/613.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 9 月 08 日 05:48:04: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 


人類最初のアメリカ到達は16,000年以上前であったことが判明

News Release 29-Aug-2019
Cooper’s Ferryでの考古学的発見により人類最初のアメリカ到達は16,000年以上前であったことが判明

新しい報告によると、アイダホ州西部にあるCooper’s Ferry遺跡での考古学的発見によって、人類がこの地域に移住し始めたのは約16,500年前と考えられることが示された。

この発見によって、南北アメリカ大陸に人類が定住した時期が最終氷期の大陸氷床を通るベーリング地峡とその他の北アメリカ大陸を結ぶ無氷回廊が出現する前にまで拡大され、一番初めのアメリカ大陸到達は太平洋沿岸の海岸であったという広がりつつある見解に裏付けが得られた。

人類が初めて南北アメリカ大陸に到達し、定住した時期とその経路は依然として考古学者らの間で議論を呼んでいる。

長きにわたって有力な説では、人類はまず北アメリカとそれ以外の地域にベーリング地峡東部から氷床の後退によって開いた無氷回廊を通って入ったとされている。これは約14,800年前にコルディレラ氷床とローレンタイド氷床を隔てた回廊である。

しかし小規模ではあるが成長している研究グループによると、人類はその回廊が出現するかなり前の後期更新世に氷床の南に到達、定住しており、移動ルートは太平洋沿岸だという。

Loren DavisらはCooper’s Ferryからの新しい発見を提示しており、それが16,560〜15,280年前に人類の初期の進入が繰り返された証拠となっている。この遺跡最古の遺物から、広く普及したクローヴィスパレオインディアン文化に見られる基部の広い有樋尖頭器の技術より古い時代の樋状剥離のない石の有茎尖頭器の技術が使われていたことが示された。

Davisらによると、Cooper’s Ferryの独特な有茎尖頭器の年代、デザインおよび製造はアジア北東部の後期更新世の遺跡で発見されたものとよく似ているという。すべてを考え合わせると、今回の研究結果は人類が16,000年以上前に初めて太平洋沿岸に沿って移動してきたことを示唆している。
https://www.eurekalert.org/pub_releases_ml/2019-08/aaft-q082719.php

2019年08月31日
16000年前頃までさかのぼる北アメリカ大陸における人類の痕跡
https://sicambre.at.webry.info/201908/article_62.html


 北アメリカ大陸における人類の痕跡が16000年前頃までさかのぼることを報告した研究(Davis et al., 2019)が報道されました。『サイエンス』のサイトには解説記事が掲載されています。日本語の解説記事もあります。以下、注記しない限り、年代は放射性炭素年代測定法により較正されたものです。アメリカ大陸への人類最初の移住に関しては、20世紀末頃までクローヴィス(Clovis)文化説が有力とされていました。これは、14800年前頃以降に北アメリカ大陸の氷床が後退して出現した無氷回廊を経由して人類はベーリンジア(ベーリング陸橋)からアメリカ大陸へと拡散し、その最初の集団がクローヴィス文化の担い手だった、と想定する説です。一方、クローヴィス文化に先行するアメリカ大陸における人類の痕跡の報告事例も蓄積されてきており、無氷回廊の出現前に人類はベーリンジアから太平洋沿岸を南下してアメリカ大陸へと拡散したのではないか、との見解も提示されていました。

 本論文は、アメリカ合衆国アイダホ州西部のクーパーズフェリー(Cooper’s Ferry)遺跡(以下、CF遺跡)の発掘調査結果を報告しています。CF遺跡はコロンビア川の支流であるサーモン川沿いに位置します。地元の先住民であるネズパース(Nez Perce)集団は、この地をニペヘ(Nipéhe)と呼んでいます。CF遺跡では、石器とともに石器製作時のものと思われる石の破片も発見されており、炉床も確認されています。動物遺骸も共伴しており、ほとんどは断片的なので詳細な区分は困難ですが、中型〜大型の哺乳類と推測されています。CF遺跡の年代は、骨と木炭を試料として放射性炭素年代測定法により推定され、最古の試料が16265〜15795年前とクローヴィス文化に先行し、最新の試料が8515〜8345年前となり、長期にわたって繰り返し人類が利用していたのではないか、と本論文は推測しています。

 本論文はCF遺跡の石器の中で有茎尖頭器に注目しています。有茎尖頭器はアフリカやレヴァントやヨーロッパで5万年前以後に出現し、北太平洋沿岸の現生人類の存在の証拠とされています。日本と韓国では、30000〜23000年前頃の尖頭器は厚い石刃の再加工により製作されます。CF遺跡の有茎尖頭器のうち1点は、13610〜13275年前の試料の下で、光刺激ルミネッセンス法(OSL)による13710±2620年前の試料の上に位置します。別の有茎尖頭器は、13475〜13060年前の試料の下で、13610〜13275年前の試料の上に位置します。CF遺跡の有茎尖頭器は、クローヴィス文化に見られる基部の広い有樋尖頭器ではなく、より古い時代の樋状剥離のないタイプです。このCF遺跡の有茎尖頭器と技術的に類似しているのが、日本で発見された16000〜13000年前頃の両面尖頭器です。これは、北海道(立川)・本州北部・本州中央部および西部の3タイプに分類されていますが、このうち立川タイプがCF遺跡の有茎尖頭器と技術的にひじょうに類似している、と本論文は評価しています。CF遺跡のタイプとは形態的に異なる有茎尖頭器は、カムチャッカ半島のウシュキ湖(Ushki Lake)で13440〜12640年前頃に出現しますが、ベーリンジアからはより早期のものは発見されておらず、起源は他の地域にあるようです。CF遺跡の有茎尖頭器は年代・技術的に日本の尖頭器と顕著に類似している一方で、CF遺跡の人工物はクローヴィス文化に先行し、重なっている期間もありますが、技術的には異なります。CF遺跡の初期集団は、文化的にアジア北東部とのつながりを示していますが、遺伝的にも、アメリカ大陸先住民の主要な祖先集団としてアジア東部および北東部系集団が想定されています(関連記事)。CF遺跡は、クローヴィス文化に先行するアメリカ大陸の異なる系統の文化だった、と本論文は評価しています。

 遺伝学では、ベーリンジアの孤立集団が19500年前頃以降に北アメリカ大陸の氷床を越えてアメリカ大陸へと南進していき(関連記事)、17500〜14600年前頃にアメリカ大陸における南北両系統へと分岐していった(関連記事)、と推測されています。CF遺跡では、人類が16560〜15280年前頃には存在しており、これはアメリカ大陸における最初の人類集団拡大の年代の範囲内となります。上述のように、北アメリカ大陸への人類最初の移住に関しては、ベーリンジア東部から無氷回廊を経由したとする説(クローヴィス最古説)と、氷河のない太平洋沿岸を南下した、とする説(太平洋沿岸南下説)があります。本論文が示したように、CF遺跡は無氷回廊が開く前に無氷回廊の南方に人類が存在したことを示す直接的証拠となります。これは、無氷回廊説ではなく太平洋沿岸南下説の方と整合的です。これは、遺伝学で示唆されている(関連記事)、北アメリカ大陸への人類最初の拡散後、人類が無氷回廊を経由して再度拡散した可能性を排除するわけではありませんが、そうした人類集団の移動はアメリカ大陸最初の人類の移住ではなかった、と本論文は指摘します。

 本論文は、クローヴィス最古説が成り立たないことを改めて示した、と言えるでしょう。CF遺跡の石器と北海道の石器との類似性については、アジア東部および北東部集団がアメリカ大陸先住民の主要な祖先集団となったことを改めて確認した、と思います。この集団の文化的多様性や、CF遺跡の有茎尖頭器の起源地については、シベリア北東部の上部旧石器(後期旧石器)的文化の研究がもっと進めば、より詳しく解明されるのではないか、と期待されます。本論文で言及されていたカムチャッカ半島の13440〜12640年前頃の有茎尖頭器は、CF遺跡のそれとは異なりますが、今後シベリア北東部の後期更新世の遺跡で、CF遺跡や日本の立川タイプと類似した有茎尖頭器が確認される可能性は高いように思います。おそらく日本の16000〜13000年前頃の尖頭器の起源は、シベリア北東部にあるのでしょう。アメリカ大陸先住民集団の形成過程については、古代DNA研究の進展によりかなり詳しく解明されてきたように思います。一方、日本列島も含むアジア東部集団に関しては、ヨーロッパはもちろんアメリカ大陸よりも遅れていることは否めないでしょうから、今後の研究の進展が期待されます。


参考文献:
Davis LG. et al.(2019): Late Upper Paleolithic occupation at Cooper’s Ferry, Idaho, USA, ~16,000 years ago. Science, 365, 6456, 891–897.
https://doi.org/10.1126/science.aax9830


追記(2019年9月7日)
 ナショナルジオグラフィックでも報道されました。

https://sicambre.at.webry.info/201908/article_62.html  

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コメント
1. 中川隆[-11133] koaQ7Jey 2019年9月29日 13:25:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1685] 報告

2019年09月29日
アメリカ合衆国における先住民の遺伝的影響
https://sicambre.at.webry.info/201909/article_63.html


 アメリカ合衆国におけるアメリカ大陸先住民の遺伝的影響に関する研究(Jordan et al., 2019)が報道されました。アメリカ大陸には、ユーラシア西部系に近縁な人類集団と、アジア東部系に近縁な人類集団との混合により形成された人類集団(関連記事)が、ベーリンジア(ベーリング陸橋)経由で最初に拡散してきました。その年代は遅くとも16000年前頃(関連記事)までさかのぼります。その後、15世紀末以降に、まずヨーロッパ系集団が侵略してきて征服地(植民地)を拡大していき、アメリカ大陸先住民集団がヨーロッパ系集団の持ち込んだ疫病などで激減した後、アフリカから多数の人々が奴隷として強制連行されてきました。もちろん、その他にもアジアなどから多数の移民がアメリカ大陸に到来しました。現在、アメリカ大陸の住民はおもにヨーロッパ人の子孫とアフリカ人の子孫で構成されています。しかし、アメリカ大陸先住民集団はヨーロッパ系およびアフリカ系とも混合していきました。

 本論文は、15620人を対象として、アメリカ合衆国における主要な遺伝的系統をヨーロッパ西部系とアフリカ系とスペイン系と把握し、それぞれにアメリカ大陸先住民集団がどのように遺伝的影響を残しているのか、検証しました。これら3系統は、それぞれ独自の遺伝的構成を示します。ヨーロッパ西部系もスペイン系もともにヨーロッパ系の比率が高くなっていますが、スペイン系ではアメリカ大陸先住民系の比率がヨーロッパ西部系よりもずっと高くなっています。一方、ヨーロッパ系では先住民系も含めて非ヨーロッパ系は0.2%程度とひじょうに低くなっています。スペイン系は、メキシコ人と遺伝的に密接に関連しています。アフリカ系の遺伝的構成は、その大半(85%)がアフリカ系ですが、14%がヨーロッパ系、1%が先住民系です。本論文は、アメリカ合衆国本土への到着が比較的遅いことから、アジア系については考慮していません。これらアメリカ合衆国の主要な3遺伝系統集団は、明確な地理的分布を示しており、これは人口統計とほぼ一致します。アフリカ系は南西部、ヨーロッパ系は中央北部と西部、スペイン系は西部山脈地帯で比較的高い比率を示します。

 これら3系統の遺伝的混合では、性的偏りが見られます。最も偏っているのはスペイン系で、ヨーロッパ系の男性と先住民系女性との組み合わせが多くなっています。これは、ヨーロッパからアメリカ大陸への早期の移住者が、植民者・侵略者として男性主体だった歴史を反映しています。アフリカ系でも、アフリカ系の女性とヨーロッパ系の男性という組み合わせが多くなっています。一方ヨーロッパ系では、こうした顕著な性差は見られません。こうした性差は、男性優位なアメリカ合衆国の社会において、ヨーロッパ系集団がアフリカ系集団や先住民系集団よりも社会的に高い地位にあったことを反映しているのでしょう。

 スペイン系では、遺伝的に異なる2集団の存在が確認されます。一方は現在のアメリカ合衆国に早期(1598〜1848年)に移住してきた「新メキシコ人(Nuevomexicano)」集団で、もう一方はもっと後にメキシコからアメリカ合衆国に移住してきた集団です。この新メキシコ人集団は何世紀にもわたって明確な文化的特徴を維持しており、他のスペイン系よりもヨーロッパ系統の比率が顕著に多く、逆に先住民系の比率がずっと低くなっています。一方、メキシコ人は先住民の遺産を明確に認識し、メスティーソと呼ばれています。こうした新メキシコ人の祖先はキリスト教に改宗したスペインのユダヤ人(コンベルソ)で、宗教的迫害を避けるために早期にアメリカ大陸へと移住した、と推測されています。新メキシコ人は、スペイン人や他のヨーロッパ人集団と比較して、ユダヤ人とより多くのハプロタイプを共有しています。ただ、アメリカ大陸の他のスペイン人の子孫集団と比較すると、ユダヤ人とのハプロタイプ共有率はさほど変わりません。

 アフリカ系は全体的に先住民系の比率が低く、地域間の差も大きくありません。さらに、アフリカ系に見られる先住民系要素は、ヨーロッパ西部の南東部系の子孫の場合と同様に一つのクレード(単系統群)を形成します。これは、アフリカ系の子孫が南北戦争前にアメリカ合衆国南部の先住民と混合した可能性を示唆します。南北戦争後、20世紀初頭から半ばにかけての大移住の時代に、アフリカ系はアメリカ合衆国全域に拡散しました。ヨーロッパ西部系において先住民系統の比率が最も低いのは、ヨーロッパからアメリカ合衆国への大規模移民と、雑婚の社会的および法的禁止と一致します。また、アフリカ系とは異なり、ヨーロッパ西部系では、先住民系の比率の地域差が大きくなっています。これは、ヨーロッパ西部系の子孫集団が現在のアメリカ合衆国領域を西進したさいに、低頻度ではあるものの継続的に先住民集団と交雑したことを反映しています。全体的に、アメリカ合衆国における各系統の遺伝的構成はすでに知られていた歴史を反映しており、今後は世界各地で同様の研究がさらに進展していくだろう、と期待されます。


参考文献:
Jordan IK, Rishishwar L, Conley AB (2019) Native American admixture recapitulates population-specific migration and settlement of the continental United States. PLoS Genet 15(9): e1008225.
https://doi.org/10.1371/journal.pgen.1008225

https://sicambre.at.webry.info/201909/article_63.html

2. 中川隆[-14670] koaQ7Jey 2020年1月12日 13:51:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1603] 報告
2020年01月12日
先コロンブス期カリブ諸島の移住史
https://sicambre.at.webry.info/202001/article_17.html

 先コロンブス期カリブ諸島の移住史に関する研究(Ross et al., 2020)が公表されました。カリブ海諸島は、大アンティル諸島・小アンティル諸島・バハマ諸島から構成されます。カリブ海には多数の島々が点在するので、人類や動物が島々に分散しやすくなりました。カリブ海諸島への人類の移住に関する有力説では、まずカヌーを用いた狩猟・漁撈・採集民の小集団が、石期となる紀元前5000〜紀元前4000年頃に中央アメリカ大陸からユカタン半島を経由してイスパニョーラ島とキューバ島に拡散した、とされます。次に古期となる紀元前2500年頃に、トリニダード島から小アンティル諸島を経て大アンティル諸島へと移住があり、その後、土器期となる紀元前500年頃に、小アンティル諸島を経てオリノコ川河口からの移住があった、とされています。プエルトリコへの到達後、土器期におけるイスパニョーラ島・ジャマイカ島・キューバ島・バハマ諸島への植民の拡大の前に1000年の中断があった、というわけです。この移動経路は土器様式に基づいていますが、その詳細については激しい議論が続いています。

 カリブ海諸島のうち、バハマ諸島は最後に人類が定住した場所で、最古の人類はルーカヤン人(Lucayan)です。バハマ諸島における人類の最古の痕跡は紀元後8世紀初頭までさかのぼります。土器の分析から、バハマ諸島に固有ではない粘土が用いられている、と明らかになったため、バハマ諸島の最初の人類はイスパニョーラ島から到来した、と示唆されています。一方、中央バハマ諸島のルーカヤン人遺跡の放射性炭素年代は、キューバ島とのつながりを支持します。古代DNA研究では、カリブ海諸島の最初の人類は、南アメリカ大陸北部起源と示唆されていますが、これは1個体の解析結果に基づいている(関連記事)、と本論文は注意を喚起します。頭蓋データ、とくに顔面形態は古代DNAよりも時空間の範囲が広いため、人口構造解明の遺伝的指標として利用されています。本論文は顔面形態からカリブ海諸島における人類の拡散を検証します。

 本論文は、カリブ海地域の103人の頭蓋形態を分析しました。その結果明らかになったのは、バハマ諸島の個体群がイスパニョーラ島およびジャマイカ島の個体群との近縁で、キューバ島の個体群とはそれよりも遠い関係にある、ということです。また、プエルトリコ本島の個体群とベネズエラの個体群との近縁性も明らかになりました。本論文は、頭蓋データから総合的に、カリブ海諸島における複数回の異なる地域からの移住を推測しています。まず、紀元前5000年頃にユカタン半島経由でキューバ島と大アンティル諸島北部に移住がありました。次に、紀元前800〜紀元前200年頃に、ベネズエラ沿岸からプエルトリコへとアラワク語集団が拡散してきました。最後に、紀元後800年頃にカリブ地域(ベネズエラ北西部)からイスパニョーラ島へと到達した集団が、急速にジャマイカ島およびバハマ諸島へと拡散しました。以下、先コロンブス期カリブ海地域における人類の拡散を示した本論文の図8です。

https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41598-019-56929-3/MediaObjects/41598_2019_56929_Fig8_HTML.png


 カリブ海地域における土器時代の拡散は1回のみとの見解が以前は有力でしたが、そうではなかった、と本論文は示しています。人類の移住と起源に関する議論では、近年飛躍的に発展している古代DNA研究が大きな威力を示しています。しかし、古代DNA研究はDNAの保存の問題から亜熱帯〜熱帯地域には適していないので、今後もこうした地域では形態学的研究がひじょうに有効となるでしょう。また、近年急速に発展しているタンパク質解析は亜熱帯地域の200万年前頃の標本でも有効と示されているので(関連記事)、カリブ海地域の人類史の解明に大きく貢献するのではないか、と期待されます。


参考文献:
Ross AH. et al.(2020): Faces Divulge the Origins of Caribbean Prehistoric Inhabitants. Scientific Reports, 10, 147.
https://doi.org/10.1038/s41598-019-56929-3

https://sicambre.at.webry.info/202001/article_17.html

3. 2020年8月08日 11:08:36 : TmdNAM4qXI : LjVQWUlEZXhZWUE=[7] 報告
雑記帳 2020年07月29日
アメリカ大陸最古の人類の痕跡(追記有)
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_34.html

 アメリカ大陸最古の人類の痕跡に関する二つの研究が報道(Gruhn., 2020)されました。これらの研究はオンライン版での先行公開となります。一方の研究(Ardelean et al., 2020)は、アメリカ大陸における最古級の人類の痕跡を報告しています。アメリカ大陸における人類最初の到達はひじょうに注目されており、激しい議論が続いていますが、メキシコの人類最初期の痕跡はほとんど知られておらず、研究が遅れていました。そこで本論文は、メキシコのチキウイテ洞窟(Chiquihuite Cave)の調査結果を報告しています。

 チキウイテ洞窟はメキシコのサカテカス (Zacatecas)にあり、海抜2740m、渓谷からは約1000mの地点に位置します。放射性炭素年代測定法に基づく骨・炭・堆積物46点と、光刺激ルミネッセンス法(OSL)に基づく標本6点から年代が得られました。チキウイテ洞窟の層位は1223層から1201層へと新しくなり、古い方からC→B→Aと区分されています。C層は1223層〜1212層までで、1212層は最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)に堆積した、と推測されています。1210層はC層とB層の境界となり、LGMの末期となります。B 層はその上で1210層から1203層まで、A層は1201層で、ほぼ歴史時代です。C層は放射性炭素年代測定法による較正年代(以下、基本的には紀元後1950年を基準と下較正年代です)で33150〜31405年前に始まり、B層は16605〜15615年前と13705〜12200年前の間となり、12900〜11700年前頃のヤンガードライアス期に近接しています。これらチキウイテ洞窟の年代値は、層序とよく一致します。

 石器1930点が全ての層で発見されましたが、B層が87.2%(1684個)と圧倒的に多く、C層は12.3%(239個)です。これは、発掘堆積物量の少なさに起因すると考えられます。C最下層でも石器が発見されています。剥片石器は未知の技術伝統を反映しており、年代による変化はほとんど見られません。石器はほぼ(90%以上)緑色か黒味がかかっており、意図的に選択されたようです。主要な石器製作技術は直接的打撃で、石核・剥片・石刃・小型石刃(bladelet)・掻器・尖頭器などに分類されます。総合的に、チキウイテ洞窟の石器群は、アメリカ大陸の更新世もしくは前期完新世の既知の文化のどれとも明確な類似性を示しません。

 環境DNA研究の応用により、更新世の堆積物のDNA解析が試みられました。LGM前からLGM末期までとなる1223層〜1210層では、セイヨウネズやモミやマツやトウヒなど森林性植物と、ドクムギ属やイチゴツナギ亜科やオオムギ属やバラ類といった草本植物との混在を示すDNA証拠が得られました。LGM前からLGM期までの1223層〜1212層では、後の期間よりも森林性の環境を示す証拠が得られ、樹木と広葉草本が豊富でした。植物相の明確な変化はLGM後からヤンガードライアス期(1207A層〜1204層)前に起きました。この変化でマツやセイヨウネズはほぼ消滅し、キジカクシ科やマツの亜集団のストローブマツやモロコシ属などが優占するようになります。

 プラントオパールと花粉も分析され、環境DNAと類似した分類群だけではなく、異なる分類群も特定されました。注目されるのは、LGMも含めて全標本で検出されたヤシ科のプラントオパールで、現在チキウイテ洞窟一帯では海抜2000m以下に1種(Brahea berlandieri)しか自生しておらず、LGMは今よりもずっと寒冷だったので、人類が食資源などとして持ち込んだ、と考えられます。プラントオパールの中には加熱されたものもあり、これも人類が持ち込んだ傍証となりそうです。

 動物相では、コウモリが全ての層で見つかっており、クビワコウモリ属とホオヒゲコウモリ属とヒナコウモリ属が1204層までは優占しており、その後はヘラコウモリ科や新たなコウモリ亜目種に置換されました。クマのDNAはLGMに確認されますが、最も豊富に存在するのは末期で、考古学的記録と一致します。齧歯類の存在はずっと確認されますが、いくつかの層でより高頻度です。ヤギやヒツジや鳥類のDNAも確認されました。更新世の堆積物における人類(ホモ属)のDNAの検出も1204・1210・1212・1218の各層で試みられましたが、その証拠は見つかりませんでした。当然これは、チキウイテ洞窟における人類の存在を否定する証拠にはなりません。

 チキウイテ洞窟の堆積物におけるDNA浸透の検証には、ウマ属が用いられました。現代のウマ属(ほぼロバ)のDNAは1201層に限定され、古代のウマ属のDNAは1204C層以下で確認されました。また、DNAの損傷は同じ層の他の動物と類似していました。これらの知見から、DNAの浸透は大きな影響を及ぼさない、と考えられます。骨の分析では、全体的には小型動物が多いものの、LGMには大型動物がより多く見られます。

 本論文は、チキウイテ洞窟における少なくともLGM末期からヤンガードライアス期の始まりまでの人類の存在を示します。LGMとLGMよりも前における人類の存在は、1212層より下のC層の人工物で示されます。この段階の文化的証拠は後代よりも少なく、訪問・居住が短くて低頻度だったことを反映していると考えられますが、以前の想定よりずっと早いアメリカ大陸への人類の到来を示唆します。チキウイテ洞窟における各層の長さから、人類はチキウイテ洞窟を一貫した基準で利用し、おそらくは大きな移住周期の一部として季節単位で再利用していた、と考えられます。

 更新世のアメリカ大陸において、人類がチキウイテ洞窟のような高地を利用したことは異例ですが、13000年前頃以降となると、アンデス高地において海抜4480m地点まで人類が拡散していた証拠も得られています(関連記事)。チキウイテ洞窟の石器群はアメリカ大陸において類似のものが見つかっておらず、その定量的特徴は発達した技術を示唆し、おそらくはLGMよりも前にどこかから持ち込まれました。チキウイテ洞窟住民の起源、他のクローヴィス(Clovis)文化集団よりも古い集団との生物文化的関係、その祖先がアメリカ大陸へと到来した経路をよりよく解明するには、さらなる考古学および環境DNA研究が必要です。


 もう一方の研究(Becerra-Valdivia, and Higham., 2020)は、北アメリカ大陸とベーリンジア(ベーリング陸橋)の更新遺跡群の年代を報告しています。最近まで、人類のアメリカ大陸への最初の拡散に関する有力説は、13000年前頃にアジア(シベリア)北東部からベーリンジアを経由して初めて人類はアメリカ大陸に入り、ローレンタイド氷床とコルディエラ氷床との間の無氷回廊を通って南方へ移動した、というものでした。このアメリカ大陸最初の人類集団は、北緯48度以南に移動すると、北アメリカ大陸全域に広がった較正年代(紀元後1950年基準)で13250〜12800年頃のクローヴィス文化を開発しました。この「クローヴィス最古説」は、アメリカ大陸への人類拡散の時期・理由・経路に関わる問題のほとんどに上手く答えられたため、20世紀の大半で広く受け入れられました。しかし、クローヴィス最古説は、アメリカ大陸におけるそれ以前の年代の遺跡の報告例が蓄積されてきたことにより、今では有力説の地位を失った、と言えるでしょう(関連記事)。その結果、アメリカ大陸における最初の人類集団は太平洋沿岸を南下した、という見解が有力になりつつありますが、まだ確定したとまでは言えない状況です。

 本論文は、アメリカ大陸における初期人類の拡散パターンをより洗練された方法で理解するため、ベイジアン統計手法を用いて、北アメリカ大陸とベーリンジアの42ヶ所の遺跡から得られた考古学的および年代測定データを分析しました。これにより、放射性炭素年代とルミネッセンス年代を、層序学的および他の相対的年代情報と結合できます。本論文の分析対象の遺跡は、考古学的には、クローヴィスか西方有茎かベーリンジアン(Beringian)の3技術伝統、もしくは先クローヴィスと「クローヴィスと同年代」に区分されます。またグリーンランド氷床年代が用いられ、とくにグリーンランド亜間氷期1(GI-1)とグリーンランド間氷期1 (GS-1)が重要な期間となり、紀元後2000年を基準として、14700〜11700年前頃となります。

 先クローヴィス遺跡群の始まりは、上述のメキシコ北部に位置するチキウイテ洞窟C層の文化遺物が最古となり、26500〜19000年前頃となるLGMよりも古い33150〜31405年前頃となります。いくつかの遺跡の年代は、もっと後のLGMの期間内もしくはLGM後すぐのようです。たとえば、アメリカ合衆国の、テキサス州のゴールト(Gault)遺跡(26435〜17385年前頃)や、ペンシルベニア州のメドウクラフト岩陰(Meadowcroft Rockshelter)遺跡(24335〜18620年前頃)や、サボテン丘(Cactus Hill)遺跡(20585〜18970年前頃)です。ベーリンジア東部では、カナダのユーコン準州北部のブルーフィッシュ洞窟群(Bluefish Caves)遺跡において、人為的に加工された骨からLGM期間の年代(24035〜23310年前頃)が得られています。

 チキウイテ洞窟B層の始まりは16560〜15285年前頃で、アイダホ州西部のクーパーズフェリー(Cooper's Ferry)遺跡(16315〜14660年前頃)やテキサス州のデブラ・L・フリードキン(Debra L. Friedkin)遺跡(16315〜14660年前頃)とともに、突然の短期間の気候変動の温暖な時期である、GI-1に近いLGM後の始まりにこれらの遺跡で人類の居住が始まったことを示唆します。これらの遺跡に続いて、オレゴン州のペイズリー洞窟群(Paisley Caves)遺跡(14755〜13780年前頃)などがGI-1期間もしくはその近い年だとなります。これら14ヶ所の先クローヴィス遺跡の年代測定データ(171点)は、14250年前頃を中心に分布しています。もっと後の石器伝統であるベーリンジアンと西方有茎とクローヴィスの始まりはそれぞれ、14955〜13895年前頃、14860〜13065年前頃、14210〜13495年前頃と示唆されます。

 なお、本論文では南アメリカ大陸は対象外ですが、チリのモンテヴェルデ2(Monte Verde II)遺跡の較正年代は、18500〜14500年前頃と推定されています(関連記事)。ブラジルの6遺跡は2万年以上前となり、そのうち5か所は北東部のピアウイ(Piauí)州に存在し、もう1ヶ所は中西部のマットグロッソ(Mato Grosso)州にあるサンタエリナ(Santa Elina)岩陰遺跡です。しかし、これらの遺跡の年代は古すぎるため、ほとんどの考古学者は疑問を呈したり無視したりしています。これら疑わしい遺跡群を除いても、南アメリカ大陸における13000年前頃以前となりそうな初期人類の痕跡は、太平洋沿岸、アンデス山脈北部および中央部、アルゼンチンのパタゴニア草原などで報告されており、南アメリカ大陸の主要な環境地帯すべてに人類は13000年以上前から居住し、多様な生態系適応と技術を有していた、と示唆されます。以下、アメリカ大陸における先クローヴィス期候補の遺跡の位置と年代を示した上記報道の図1です。
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 本論文の分析からは、現時点ではチキウイテ洞窟C層に限定されるLGM以前の証拠を除くと、ブルーフィッシュ洞窟群など北アメリカ大陸のいくつかの遺跡では、人類の痕跡がLGMもしくはその直後に始まり、北緯48度の南側東部に集中する、と示されます。LGMには地球の気候は一般的に寒冷で乾燥していましたが、北アメリカ大陸氷床の南部は比較的開けており温暖で、生態系の変動が高かった証拠もあります。北アメリカ大陸の初期の中緯度遺跡の分布から、北アメリカ大陸最初の人類はLGMにヨーロッパ南西部から大西洋氷床経由で到来した、というソリュートレアン(Solutrean)仮説も提示されていました。その根拠は、北アメリカ大陸中緯度の早期遺跡群の石器技術がソリュートレアンと類似していたこと、およびアメリカ大陸先住民とユーラシア西部集団との間の遺伝的混合の証拠でした。しかし、ソリュートレアン仮説は、技術と遺伝(関連記事)の両方から否定されました。

 アメリカ大陸最初の人類について、大西洋横断説はさておき、アジア起源を想定する場合、早期遺跡群の古さと分布から、北緯48度の最初の横断に関しては、以下のような可能性が示唆されます。(1)57000〜29000年前頃となる海洋酸素同位体ステージ(MIS)3の後半に起き、その時には推定される氷床と海水準から、ベーリンジアを通過しての陸路は可能性が低いか遮られ、ローレンタイド氷床とコルディエラ氷床との間の無氷回廊はおそらく存在した、と推定されます。(2)LGM末期に起き、その時にはベーリンジアが存在していたものの、無氷回廊は利用できませんでした。

 どちらの可能性も、北アメリカ大陸への最初の到着にはある程度の沿岸適応があった、と示唆されます。(2)では、おそらくコルディエラ氷床が最大だった時期(20000〜17000年前頃)の前に、太平洋沿岸での移動が必要となるでしょう。これは現在の遺伝的知見とも適合的で、アメリカ大陸先住民の祖先集団は、LGMにベーリンジア東部で遺伝的孤立を経ており、古代ベーリンジア人とは22000〜18100年前頃に分岐した、と推測されています(関連記事)。これは、ゴールトやメドウクラフト岩陰やサボテン丘といった先クローヴィス期遺跡の住民がアメリカ大陸先住民系統だった、と想定します。チキウイテ洞窟C層の証拠からは、より早期の人類集団の存在が示唆されますが、上述のもう一方の研究で示されるように、その遺伝的系統はまだ不明です。北アメリカ大陸中緯度地帯では先クローヴィス期の証拠が少なく、その分布と特徴から、この時期の人類集団は独特の適応行動を有し、広く拡散していた、と示唆されます。たとえば、チキウイテ洞窟とゴールトとメドウクラフト岩陰の石器インダストリーは、完全にではないとしても、大半は無関係です。

 ベイジアン年代モデリングでは、ベーリンジアンと西方有茎とクローヴィスという3文化の始まりは統計的に区別できず、おおむねGI-1と一致してほぼ同時に始まった、と示されます。これは、この時点での人口密度増加の可能性を示唆します。この16000〜15000年前頃の人口密度増加は、ミトコンドリア(関連記事)やY染色体(関連記事)や常染色体(関連記事)で支持されます。さらに、この推定年代は、アメリカ大陸先住民系統の南北の分岐とも一致し(関連記事)、それはおそらく17500〜14600年前頃にベーリンジア東部外と北アメリカ大陸氷床の南側で起きた(関連記事)、と推測されます。

 技術的には、先クローヴィス期文化とクローヴィス文化との間の関係は不確かですが、西方有茎文化は以前に、有茎尖頭器技術の類似性から、いくつかの先クローヴィス期や環太平洋地域遺跡との関連が指摘されています(関連記事)。しかし最近の研究では、有茎尖頭器からクローヴィス文化の有溝尖頭石器技術への発展が主張されています。遺伝的には、先クローヴィス期集団とクローヴィス文化および西方有茎文化集団との間のつながりに関しては、今後の研究が必要です。これは、クローヴィス文化と同時期の他文化もしくは先クローヴィス期の遺跡からの遺伝的情報がまだ得られていないためです。例外はペイズリー洞窟群で発見された人類の糞石から得られたミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)で、アメリカ大陸先住民系統に収まります(関連記事)。また、クローヴィス文化のアンジック(Anzick)遺跡で発見された男児からゲノムデータが得られており、アメリカ大陸先住民系統に収まります(関連記事)。

 これらの集団とアメリカ大陸最初の人類集団との間には何らかの関係があったか、さもなければ更新世における最低2回の移動が予想されます。本論文の知見からは、アメリカ大陸への後の拡散事象があった場合、GI-1に先行した可能性が最も高く、無氷回廊の最初の生物学的利用能の推定年代は13000年前頃で、おそらくは17000年前頃までの北太平洋沿岸における生産的な生態系確立と同様に、18000〜17000年前頃となるコルディエラ氷床の西方の後退と、17000年前頃のアラスカ半島氷河後複合の後退後に起きました。

 北アメリカ大陸における人類の到達は、以前には動物37属の絶滅と関連づけられており、大虐殺説として知られます。近年の研究では、これを支持するものも(関連記事)、気候や生態系などの要因を重視するもの(関連記事)もあります。本論文の知見からは、人類の存在が、ラクダやウマやマストドンやマンモスなど北アメリカ大陸の絶滅動物の最後の確認年代の大半に先行する、と示されます。これを確率密度分布にまとめると、ピークはGI-1とGS-1の間の境界で発生し、クローヴィス文化と西方有茎文化の始まりの境界と重なります。これは、人類の集団規模および地理的拡大が、大型陸生動物絶滅の主因だった可能性を提示します。この時期の人類到来と動物絶滅と気候変化の間の関係をよりよく理解するには、各絶滅動物の集団史の改善と、ベイジアンモデルを改良するためのより堅牢な年代測定データが必要です。

 ベーリンジアと北アメリカ大陸への最初の人類拡散の時期に関する本論文の知見からは、GI-1に人類集団がより広範に拡散して人口が増加する前に、LGMよりも前とLGMとその直後に人々が異なる環境にいた、と示唆されます。LGMよりも前の証拠は、現時点ではチキウイテ洞窟遺跡に限定されます。集団の連続性を想定する場合、このパターンは人類の探索および植民の段階、およびGI-1までに北アメリカ大陸存在した遺伝的構造の程度と一致します。しかし、先クローヴィス期遺跡群とその後の北アメリカ大陸およびベーリンジアの文化の人々の間の生物文化的関係はほとんど分かっていません。環境DNA研究の古代DNA研究への応用により、堆積物から古代人のDNA解析が可能になっているので(関連記事)、上記研究では失敗したものの、これが問題解明に役立つかもしれません。本論文の対象はベーリンジアと北アメリカ大陸に焦点を当てていますが、後期更新世のデータが比較的限定されている中央および南アメリカ大陸の継続的調査により、年代推定と大陸規模の時空間的モデルの開発が可能となるでしょう。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


考古学:ヒトが早くから北米大陸に到達していたことを示す証拠

 ヒトが3万年前から北米に住んでいたことを明らかにした2編の論文が、今週、Nature に掲載される。これら2つの研究は、アメリカ大陸への居住というかなり議論のある論点を解明するための手掛かりをもたらしており、アメリカ大陸でのヒトの歴史が、これまで考えられていたよりもずっと以前までさかのぼることを暗示している。

 ヒトがアメリカ大陸に到達したことは、地球上でヒトの居住域が大きく広がったことを意味する。従来の学説では、ヒトが初めてアメリカ大陸に到達したのは約1万3000年前で、特徴的な石器で知られるクローヴィス文化に関連していたとされる。しかし、アメリカ大陸への移住の時期とパターンは、議論の的になっている。

 Ciprian Ardeleanたちの論文では、メキシコ中部のサカテカスの洞窟での石器、植物遺物、環境DNAなどの発掘結果が記述されている。これらの発掘知見は、年代を示す証拠と合わせて、この高地の洞窟に約3万〜1万3000年前にヒトが居住していたことを示唆している。Lorena Becerra-ValdiviaとThomas Highamの論文では、北米とベーリンジア(過去にロシアと米国をつないでいた地域)の遺跡42か所の放射性炭素年代測定とルミネセンス年代測定の結果を用いて、ヒトの分散パターンが決定された。彼らが作成した統計モデルから、クローヴィス文化以前にヒトが存在していたことを示すロバストなシグナルが明らかになり、その年代が、遅くとも最終氷期極大期(約2万6000〜1万9000年前)とその直後であることが分かった。

 以上の研究結果は、北米には、これまで考えられていたよりもずっと早い時期(最終氷期極大期よりも前の可能性もある)から、少なくともわずかな移住者がいたことを暗示している。この知見は、ヒトがアジアからベーリンジア経由で初めて北米に入り、南に向かって移動して、クローヴィス文化を発展させたというシナリオとは整合性がない。新たに年代決定されたのはクローヴィス文化以前であり、これはヒトが初めてアメリカ大陸に入ったのが太平洋岸沿いの経路だったことを示唆している。


参考文献:
Ardelean CF. et al.(2020): Evidence of human occupation in Mexico around the Last Glacial Maximum. Nature, 584, 7819, 87–92.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2509-0

Becerra-Valdivia L, and Higham T.(2020): The timing and effect of the earliest human arrivals in North America. Nature, 584, 7819, 93–97.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2491-6

Gruhn R.(2020): Evidence grows that peopling of the Americas began more than 20,000 years ago. Nature, 584, 7819, 47–48.
https://doi.org/10.1038/d41586-020-02137-3


追記(2020年7月30日)
 ナショナルジオグラフィックでも報道されました。


追記(2020年8月6日)
 本論文が『ネイチャー』本誌に掲載されたので、以下に『ネイチャー』の日本語サイトから引用します(引用1および引用2)。


考古学:最終氷期極大期の頃にメキシコに人類が居住していたことを示す証拠

考古学:3万年前までさかのぼるメキシコでの人類の居住年代

 クローヴィス伝統以前、つまり約1万5000〜1万3000年前以前に、人類がローレンタイド氷床より南の南米アメリカ大陸に居住していたことを示す証拠が増えているが、これについては激しい議論が交わされることも多い。今回C Ardeleanたちは、メキシコ・サカテカス州の高地の洞窟で発見された、約3万〜1万年前にこの地域に人類が居住していたことを示す証拠を提示している。これらの証拠には、石器、環境DNA、タンパク質、植物遺物、放射性炭素年代およびルミネッセンス年代が含まれる。メキシコにおける更新世の記録はほとんど知られていないことから、今回の研究によって、クローヴィス以前の南北アメリカ大陸に人類が居住していたことを示す証拠がさらに明らかになる可能性がある。


考古学:北米大陸への最初の人類到達の時期と影響

考古学:人類は2万6500年前には北米大陸に定着していた

 人類が南北アメリカ大陸に定着した年代については、大いに議論が続いている。今回L Becerra-ValdiviaとT Highamは、新たな統計解析によって、北米大陸での人類の広範な居住が1万4700〜1万2700年前に始まったとする以前の見方を裏付けている。しかし今回の解析ではさらに、北米およびベーリンジアの42の考古学的遺跡の年代の解析から、小規模ではあるものの、2万6500〜1万9000年前にはすでに人類が北米大陸に定着していたことも明らかになった。


https://sicambre.at.webry.info/202007/article_34.html

4. 中川隆[-4957] koaQ7Jey 2021年7月18日 07:36:14 : DNfUEHow9Q : Qi5Sb2VGaW5tRU0=[6] 報告
雑記帳 2021年07月18日
アメリカ大陸への人類の移住に関する総説
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_18.html


 アメリカ大陸への人類の移住に関する総説(Willerslev, and Meltzer., 2021)が公表されました。アメリカ大陸への人類の移住に関する研究は、とくに遺伝学の分野で21世紀になって大きな進展があり、最近までの関連諸研究をまとめた本論文はたいへん有益です。ゲノミクスの登場前には、アメリカ大陸への移住の遺伝的証拠は、母系遺伝となるミトコンドリアDNA(mtDNA)と父系遺伝となるY染色体の非組換え領域の研究に依拠していました。これらの片親性遺伝標識は、アメリカ大陸への移住の大まかな概要を提供しましたが、潜在的に複雑な祖先系統(祖先系譜、ancestry)や人口構造と混合の解明には限界があり、性別の偏った文化的慣行により上書きされる可能性があり、遺伝的浮動と系統損失の影響を受けやすくなります。系統損失の問題はアメリカ大陸に関してはひどくなり、片親性遺伝標識研究の大半は現代の人口集団で行なわれ、過去の人口集団もしくは遺伝的多様性を代表していないかもしれません。それは、16世紀のヨーロッパ人による感染症の伝来や、戦争と飢饉と奴隷化と搾取の付随的な打撃後の、先住民集団の人口崩壊に起因します。

 アメリカ大陸先住民の人口史へのより広く深い洞察は、多くの独立した系統の斑状を提供するゲノム研究によりもたらされました(関連記事)。ゲノム研究は、過去の人々のゲノムを回収できるようになった時、その力が拡大しました。最初のアメリカ大陸古代人のゲノムは、12800年前頃となるアメリカ合衆国モンタナ州西部のアンジック(Anzick)遺跡で発見された男児(Anzick-1)で、2014年に公表されました(関連記事)。それ以来、南北アメリカ大陸全域の多くの古代人のゲノムが配列されており(図1)、アメリカ大陸の人口史の理解に革命をもたらしています。以下は本論文の図1です。
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 しかし、アメリカ大陸人口史についての理解は決して完全なものではない、と強調することが重要です。それはとくに、アメリカ大陸古代人のゲノムの数が比較的少なく、南アメリカ大陸よりも北アメリカ大陸の方が少なくなっているためで、その理由は、古代人遺骸に関する先住民の伝統や、遺産保護法が異なっていることに起因します(関連記事)。本論文は、今後数年でいくつかの解釈がおそらくは変わることを認識しつつ、アメリカ大陸への移住についての現時点で知られているゲノム証拠をまとめます。


●考古学的および地質学的知見

 アジア北東部における現生人類(Homo sapiens)の最初の確実な証拠は、31600年前頃のヤナRHS(Yana Rhinoceros Horn Site)までさかのぼります。これにより、更新世の最終期開始前に、アメリカ大陸への出発点からまだかなりの距離があるもの、人類がそこに近い北極圏にすでに存在していたことになります。この時までに、大陸の氷床が形成され始め、世界の海面が低下し、23000〜19000年前頃の最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)で最高に達しました。

 北太平洋の相対的海面が現在より50m低下すると、ベーリング海峡地域の大陸棚は乾燥した土地となり、南北約1800kmの陸橋、つまりアジア大陸とアメリカ大陸をつなぐベーリンジアとして知られる地域の中心部が形成されました。この陸橋は、おそらく早くも3万年前頃には横断可能で、それは12000年前頃の氷期後の海面上昇まで続きました。ベーリンジアはほぼ無氷でしたが、LGMには、寒冷で過酷な条件により移動が制限されたかもしれません。

 12000年前以後、人類集団はもはやアメリカ大陸へと歩いて行けなくなり、代わりにベーリング海峡とチュクチ海を渡らねばなりませんでした。これには、極寒で頻繁に嵐が起き、季節によっては閉ざされる海を横断する技術と戦略を有する航海技術が要求されました。アメリカ大陸への移動の手段と課題のこの違いや、適応的戦略の変化は、おそらく最初の祖先的アメリカ大陸先住民集団到来の現在受け入れられている考古学的証拠(15500〜15000年前頃)と、アメリカ大陸への次の主要な人口集団移動、つまり古イヌイットのアメリカ大陸への拡散(5500年前頃)との間の間隙を説明します。

 アジア北東部の考古学的記録が限定されていることもあり、いつ人々がベーリンジアを渡ったのか、不明です。ヤナRHSにおける人類の痕跡の後、次に古い既知の遺跡はシベリアのディウクタイ洞窟(Diuktai Cave)で、16800年前頃以降となります。約15000年におよぶ人類の痕跡の証拠の欠如は、人類集団がシベリアを放棄したことに起因するかもしれません。それはある程度、小規模でひじょうに遊動的な人口集団が考古学的に検出されにくいこと、広範な地域で遺跡を探すこと、この遠隔地の考古学的調査が比較的限られていることにも起因します。

 ベーリンジア東部における人類の最初の存在は、14200年前頃となるアラスカのスワンポイント(Swan Point)遺跡にさかのぼります。しかし、これは最初の人々の到来年代ではありません。なぜならば、南北アメリカ大陸にはすでに先クローヴィス(Clovis)文化期(南アメリカ大陸にはクローヴィス文化は存在しませんが)となる15500〜15000年前頃にはすでに人類が存在していたからです(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。

 北アメリカ大陸において最初の広範囲な人類の存在を示すクローヴィス複合と南アメリカ大陸におけるその同時代の集団は、それから約1500年後に出現します。先クローヴィスおよびクローヴィス文化人口集団が歴史的に関連する集団を表しているのかどうか、不明です。アメリカ大陸の氷床の南側ではより古い遺跡群が報告されており、LGMに先行するものも含まれますが(関連記事1および関連記事2および関連記事3)、LGMに先行する遺跡は実証されていないか、論争が続いています。

 15500年前頃までのアメリカ大陸の氷床の南側における人類の存在は、アラスカから南方への移動に人々が用いた(複数かもしれない)経路の再検討を必要とします。LGMとなる23000年前頃には、現在のカナダの大半を覆ってアメリカ合衆国北部に達していたコルディレラ(Cordilleran)氷床とローレンタイド(Laurentide)氷床とが、南方への通交を事実上妨げていました(図2)。伝統的概念は、人々がロッキー山脈の東側面に沿って氷期後に開けた無氷回廊を通って移動した、というものでした(関連記事)。この見解は、回廊が15000〜14000年前頃に完全には無氷ではなかった、と示す地質学的証拠と、化石バイソンと湖の堆積物両方からの古代DNAの証拠により、最近疑問が呈されました。それらの証拠では、狩猟採集民が約1500kmの経路において食資源として必要としただろう動植物が、13000年前頃まで回廊では利用できなかった、と示唆されました(関連記事)。したがって、この経路は、最初の人々の移動に間に合うほど早くには開けなかったでしょう。

 内陸経路の欠如から、アメリカ大陸最初の人々が太平洋沿岸を南方に移動した、と示唆されます。氷河は早くも23000年前頃にはその経路を遮断しましたが、LGM後の氷河後退に伴って17000年前頃以後には無氷となり、16000〜15000年前頃までには沿岸はほぼ開けており、移動する人類にとって必要な資源を支えました。沿岸経路により、人類は現在受け入れられている最初の考古学的存在よりもかなり前に、氷床の南側のアメリカ大陸に到達できました。クローヴィス文化集団は後に無氷回廊経由でアメリカ大陸に到来したものの、回廊地域における人類の最初の考古学的証拠はクローヴィス文化期に先行する、と提案されてきましたが、南下ではなく北上の移動を示しているようです。


●古代ゲノミクスと最初の人々

 ヤナRHSと24000年前頃のマリタ(Mal’ta)遺跡の個体群のゲノムから、シベリアには「古代北シベリア(ANS)個体群」と呼ばれる人口集団が居住していた、と示されます(関連記事)。この構造化された人口集団は、ユーラシア西部人口集団とユーラシア東部人口集団が分岐した直後となる39000年前頃(95%信頼区間で45800〜32200年前)に、ユーラシア西部人口集団と分岐しました(関連記事1および関連記事2)。ANSは最終的に別々の人口集団として消滅しましたが、その遺伝的影響は後の古代人や一部の現代人集団に残っており、とくに顕著なのはアメリカ大陸先住民集団で、シベリアの先住民集団にはさまざまな程度で見られます(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。これが示唆するのは、後期更新世におけるANSの地理的分布は全体として、シベリアの大半とおそらくはベーリンジアにまで広がっていたに違いない、ということです。

 現在の証拠では、23000〜20000年前頃にANSとアジア東部集団との間で遺伝子流動があった、と示唆されています。関連する人口集団の既知の場所(一方はシベリア、もう一方はアジア東部)に基づいて、両者の混合はバイカル湖地域もしくはその東側か、おそらくはベーリンジア西部のさらに北方で東方の地域だった、と仮定されていました(関連記事)。これらの仮定のどれが正しいのか解決するには、追加の証拠が必要でしょう。

 ともかく、これら人口集団間の遺伝子流動は、(異なる混合割合で明らかなように)最終的に別々の機会に少なくとも2つの異なる系統を生じさせました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。一方は、シベリア北東部の9800年前頃となるデュヴァニヤー(Duvanny Yar)遺跡のコリマ(Kolyma)個体のゲノムに基づいて命名された「古代旧シベリア人(APS)」で、その言語が旧シベリア言語族の範疇に収まるチュクチ人(Chukchi)やコリャーク人(Koryak)やイテリメン人(Itelmen)など、シベリア北東部現代人の祖先集団を形成します。他の系統は基底部アメリカ大陸分枝となり、その子孫は最終的にアメリカ大陸に渡りました(関連記事)。

 その基底部アメリカ大陸分枝の形成時期の可能性がある代替案は、シベリア南部のアフォントヴァゴラ(Afontova Gora)遺跡の18000年前頃となる1個体(Afontova-Gora 3)が、マリタ遺跡個体よりもアメリカ大陸先住民と多くの遺伝的浮動を共有している、との観察に基づきます。この知見から、ANSとアジア東部人口集団間の混合は、マリタ遺跡個体よりもアフォントヴァゴラ3号と密接に関連した人口集団とのものなので、基底部アメリカ大陸系統の形成はLGMの前ではなく後に起きた、と示唆されます。しかし、アフォントヴァゴラ3号の人口集団とマリタ遺跡の人口集団の分岐年代に追加の制約がなければ、混合年代について確実な推定はできません。遺伝子流動は、マリタ遺跡個体に代表される人口集団がアフォントヴァゴラ3号に代表される人口集団と分岐した後に起きさえすれば、24000年前頃(マリタ遺跡個体の年代)の前に起きた可能性さえ残っています。したがって、基底部アメリカ大陸分枝がいつどこで出現したのか、正確には不明なままです。

 それにも関わらず、基底部アメリカ大陸分枝の出現は21000〜20000年前頃以前だったに違いなく(したがって、混合はLGM以前と推測されます)、それは、その後までに基底部アメリカ大陸分枝が別々の系統に分岐し始めており、APSもしくは他のアジア北東部人口集団からのその後の遺伝子流動の証拠が示されないからです。アメリカ大陸先住民個体群がANSとアジア東部の祖先系統(祖先系譜、ancestry)しか有していないことは注目に値します。シベリア北東部個体群は、さまざまな割合のANSとアジア東部祖先系統と、追加の祖先系統を有しています(関連記事1および関連記事2)。これは、基底部アメリカ大陸分枝が早期に地理的に孤立しており、その場所はおそらくベーリンジア西部(アジア北東部)もしくはさらに南方だった、と示唆します(関連記事1および関連記事2)。可能性の一つは、LGMの居住しにくい気候および環境が、集団の分離と基底部アメリカ大陸分枝の孤立と、その後の基底部アメリカ大陸分枝内の分岐につながった、ということです。これは、提案されてきたように、LGMにベーリンジアの一部が放棄された場合に起きた可能性がありますが、上述の理由で放棄の問題は議論されており、検証困難です。

 LGMの孤立は、アメリカ大陸への拡散はすぐに起きず、代わりに、おそらくはベーリンジア地域で長い休止が続いた、と提案するベーリンジア停止モデル(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4および関連記事5)と一致しています。その孤立した人口集団から、いくつかの系統が出現しました。それは、現在ほとんど知られていない「遺伝的ゴースト」である標本抽出されていない人口集団A(UPopA)と、「古代ベーリンジア」個体群と、「祖先的アメリカ大陸(ANA)」個体群(関連記事)です(図2)。これら3人口集団は最終的に北アメリカ大陸へと移動しましたが、それら3集団間の深い分岐と限定的な遺伝子流動からは、それら3集団が別々の移動で北アメリカ大陸へと渡った、と示唆されます。

 古代ベーリンジア個体群はアラスカへと渡りましたが、明らかにそれ以上南下しませんでした。この人口集団の構成員は、アメリカ大陸氷床の南側では確認されていません。アラスカで知られている最も新しい古代ベーリンジア人であるトレイルクリーク洞窟(Trail Creek Cave)個体の年代である9000年前頃以後のある時点で、この人口集団は消滅しました。その地域の現在の先住民集団は、古代ベーリンジア人と密接には関連していません(関連記事1および関連記事2)。それにも関わらず、古代ベーリンジア個体群は他のあらゆる現在の人口集団よりも、過去および現在のアメリカ大陸先住民個体群の方と密接です。

 ANA系統内では、連続した内部分岐がありました。最初のものは21000〜16000年前頃で、「ビッグバー」系統がANA系統から分岐し(関連記事)、次に15700年前頃(95%信頼区間で17500〜14600年前)に、北アメリカ大陸先住民(NNA)人口集団と南アメリカ大陸先住民(SNA)人口集団との間の分岐が起きました(関連記事)。「ビッグバー」系統は太平洋北西部で知られていますが、アラスカでは確認されておらず、系統地理的にNNAとSNAの分岐よりも早く、ベーリンジア東部(アラスカ)から南方へ移動するにつれて分岐したに違いありません(関連記事)。これは、NNA集団とSNA集団が遺伝的に古代ベーリンジア個体群と等距離である、という事実と一致して、NNAとSNAの分岐がさらに南方で起きたことを示唆します(関連記事)。

 この証拠は、祖先的アメリカ大陸先住民個体群がベーリンジアを越え、古代ベーリンジア個体群よりも先に氷床南側の北アメリカ大陸へと到達したことを示唆します。代替的な可能性として、これら全ての人口集団が、アジア北東部もしくはベーリンジアの同じ地域に居住している間に分岐した、というものもありますが、現在は証拠のない強い長期間の人口集団構造を必要とします。あるいは、おそらく全集団が同じ人口集団の一部としてベーリンジア東部に到達し、その後でNNA集団とSNA集団が分岐し、アメリカ大陸氷床の南側に移動しました。これは、古代ベーリンジア個体群および祖先的アメリカ大陸先住民個体群がひじょうに異なる文化的分類と関連していることを考えると、可能性が低そうですが、文化的分岐は人口集団の分岐と一致しないかもしれません。これらのどれが正しいのか解決するには、追加の証拠が必要になるでしょう。

 かつてアメリカ大陸氷床の南側に位置したNNA集団とSNA集団の拡散パターンは、ひじょうに異なっていました。NNAは北アメリカ大陸に留まったようです。NNAが南アメリカ大陸に到達したかもしれない、との提案(関連記事)は支持されていません(関連記事)。完新世のある時期、おそらくは古代ベーリンジア人が消滅した後、NNA集団はさらに北方に移動したに違いなく、それは、NNA集団が現在アラスカとユーコン準州に現在存在するからです(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。

 無氷回廊では12600年前頃に人類の考古学的証拠があり、その頃までには横断可能になっていしました。この証拠は、その物質文化がより古いクローヴィス伝統と関連して歴史的に出現する人々の、北方への拡散を示しています。それでも、クローヴィスはSNA分枝の範疇に収まり、現在のアラスカではSNA集団の証拠はありません。これは、いくつかのあり得る想定を示唆します。まず、クローヴィス文化はNNA個体群を含んでいた、ということです。次に、北極圏への複数回の帰還があり、現在その地で暮らすNNA集団は、異なる後の北方の移動の結果だった、ということです。あるいは、NNAとSNAの分岐はアメリカ大陸氷床の北側で起きました。現在の証拠では、最初の2仮説のうちどちらかを除外できません。最後の仮説が正しければ、ビッグバー系統の分岐を北方へと変えねばなりませんが、ビッグバーとNNAとSNAの密接な時期の分岐や、SNA集団の16000年前頃以後のアメリカ大陸氷床の南側での広範な分布を考えると、その可能性は低そうです(関連記事1および関連記事2)。

 NNA集団とは対照的に、SNA集団は急速に南方へと拡大し、それは同じく1万年前頃に存在したものの、数千km離れて南北アメリカ大陸に暮らしていた、古代の個体群間の密接な遺伝的つながりに明らかです(関連記事1および関連記事2)。SNA拡散の急速さは、南北アメリカ大陸の最初期の遺跡の近同時代性に基づいて長く考えられていた、初期の移動と一致します。それは、単一の放散ではなかったかもしれません。アルゼンチンとブラジルと地理の古代の個体群とアンジック遺跡個体(アンジック1号)とのさまざまな程度の類似性を考えると、南アメリカ大陸へのSNA集団の少なくとも2回の後期更新世の移動があったようです(関連記事1および関連記事2)。拡散の見かけの急速さが、おそらく居住地内および居住地間のより遅くて小規模な移動を隠している、と認識することも重要ですが、それは放射性炭素年代測定の誤差の範囲内なので、考古学的にほとんど検出できません。

 到来する人口集団の比較的小さな規模(関連記事1および関連記事2)、およびその集団と子孫による半球全体の最初の移動範囲の広大な距離は、南方への移動に連れてのSNA系統内の繰り返しの分岐(関連記事)で明らかなように、孤立と分岐の機会を増大させ、南アメリカ大陸古代人におけるかなりの祖先系統の変動をもたらしました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。

 アメリカ大陸への人類の移住の注目すべき推論はイヌの遺伝的歴史に見られ、イヌはおそらくシベリアもしくはベーリンジアで後期更新世に家畜化され、シベリアもしくはベーリンジアからアメリカ大陸へのmtDNA系統の分岐は、拡散する人口集団内の主要な分岐とほぼ一致しています(関連記事)。人類とイヌの分岐が相互に並行していることはとくに驚くべきではなく、それは、人類はアメリカ大陸にイヌなしで移動できたものの、イヌは人類なしではアメリカ大陸へと移動しなかったからです。人類の集団が相互に孤立するようになるにつれて、人類とともに移動したイヌも相互に孤立していきました。

 現在まで、アジア北東部人類遺骸の地域人口集団がアメリカ大陸最初の人類の重要な起源だった、というゲノム証拠はありません。ヨーロッパの後期更新世の文化であるソリュートレアン(Solutrean)と、北アメリカ大陸のクローヴィス文化との間の石器技術の表面上の類似性に基づく、アメリカ大陸最初の人々は北大西洋経由でヨーロッパから到来した、との物議を醸す主張は、祖先的アメリカ大陸先住民集団のSNA分岐の範疇に収まる、アンジック遺跡のクローヴィス文化の子供(アンジック1号)のゲノムにより突き崩されました(関連記事)。アメリカ大陸の人類の古代もしくは現代のゲノム(もしくはmtDNAもしくはY染色体)は、上部旧石器時代ヨーロッパ人口集団との直接的類似性を示しません。

 同様に却下されたのは、異なる頭蓋を有する古代およびより最近の骨格、いわゆる「古代アメリカ人」が、ヨーロッパ人やオーストラリア先住民や日本列島のアイヌやポリネシアの人口集団と関連するかもしれない異なる祖先系統を有しているので、現代アメリカ大陸先住民集団とは遠い遺伝的関係にある、との主張です。アメリカ合衆国ネバダ州の精霊洞窟(Spirit Cave)の10700年前頃の個体や、ブラジルのラゴアサンタ(Lagoa Santa)の10400年前頃の個体(関連記事)や、アメリカ合衆国ワシントン州で発見されたケネウィック人(Kennewick Man)と呼ばれる9000年前頃の個体(関連記事)も含めて、現在までに配列された全ての「古代アメリカ人」は、アメリカ大陸先住民の遺伝的多様性の範疇に収まります。じっさい、後に到来した古イヌイットやイヌイットチューレを除いて、アメリカ大陸の全ての古代人のゲノムは、世界中の他のあらゆる現代の人口集団よりも現代のアメリカ大陸先住民の方と密接な類似性を有する、と示されてきました。以下は本論文の図2です。
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●完新世の歴史

 完新世の何千年にもわたって人々の移動は継続し、完新世には開けたベーリング海とチュクチ海を横断してのアジア北東部からのものと、アメリカ大陸内との両方がありました(図3)。ベーリング海峡を横断した集団の最初の証拠は、5200年前頃の海洋考古学的伝統とともに現れ、それは一般的にゲノム記録に見える中期完新世人口集団の分岐および拡散とも一致します(関連記事)。

 北アメリカ大陸北部のアサバスカ(Athabaskan)集団はNNAの分枝で、他のNNA(もしくはNSA)集団よりもわずかに多くのアジア東部人の遺伝的祖先系統を有しています。最近、この遺伝的兆候は、グリーンランドの4000年前頃のサカク(Saqqaq)遺跡個体の祖先である「祖型古エスキモー」により、5000〜4400年前頃にアラスカで起きたと推定されるNNA集団への遺伝子流動でもたらされた、と提案されました(関連記事)。しかし、古代旧シベリア人(APS)がサカク遺跡個体と関連している人口集団よりもアサバスカ個体群の方と密接に関連していることを考えると、この解釈には問題があります(関連記事)。

 じっさいAPSは、ケット人(Ket)やコリャーク人(Koryak)など現在の旧シベリア人の主要な祖先的構成要素を表しています(関連記事)。これは、コリャーク人がアサバスカ個体群で見られる余分なアジア東部人の兆候を有する最も近い現代の人口集団であることにより、証明されています(関連記事)。したがって、アサバスカ個体群への追加のアジア東部人からの遺伝子流動を提供した供給源集団は、現代の旧シベリア人や旧イヌイットやアメリカ大陸先住民の祖先と遺伝的に近かったに違いありません。じっさい、その人口集団の要素が複数回アメリカ大陸に渡りました。

 この余分なアジア東部人の兆候が古代ベーリンジア個体群では欠けていることを考えると、この人口集団とアサバスカ人との間の接触は、アラスカからの古代ベーリンジア個体群の消滅に続いて起き、それは同じ地域における旧イヌイットの到来前だったので、9000〜5500年前頃と推測されます(関連記事1および関連記事2)。この過程でも言語要素が交換された、と仮定されています。言語学者は、アサバスカ諸語とシベリア中央部のエニセイ語族話者のケット人との間のつながりを議論してきました。言語学的根拠に関するこの仮説への批判はさておき、ケット人とアサバスカ人との間の遺伝的関係は単純ではなく、いずれにしても、言語的つながりの確証に古代DNAを用いることはできません。

 北アメリカ大陸北極圏の完新世後期の歴史は、2つの特徴的な北極圏全体の考古学的伝統により特徴づけられます。一方は最初の旧イヌイット文化で、北アメリカ大陸極北とグリーンランドで5200年前頃に考古学的記録に現れ、紀元後1500年頃に消滅しますが、その間、年代や場所や文化的区分に基づくさまざまな名称の文化があります。旧イヌイット文化は最終的に、現在のイヌイットおよびイヌピアト(Iñupiat)の祖先と一般的に考えられている、以前には新エスキモーと呼ばれていたチューレ(Thule)文化の人々に置換されました。さらに、2000年前頃となるエクヴェン人(Ekven)と現代のチュクチ人の遺伝的構成において、アメリカ大陸からシベリアへの逆移住の証拠があります(関連記事1および関連記事2)。

 古代ゲノミクスを用いての分析の前には、旧イヌイット集団が相互に、もしくは現代のイヌイットやアリューシャン列島人やシベリアの人口集団やアサバスカ個体群や他のアメリカ大陸先住民と関連していたのか、不明でした(関連記事)。上述のようにサカク遺跡個体はアメリカ大陸先住民個体群とは異なり、コリャーク人やチュクチ人のような旧シベリア人集団とより密接です。したがって旧イヌイットは、他のアメリカ大陸先住民とは完全に独立した、シベリアからアメリカ大陸へと拡散した人口集団を表しています(関連記事)。これまでにDNA解析された旧イヌイットの個体数は限定的で、同じmtDNAハプログループ(mtHg)D2a193を有しており、創始者集団が小規模だったサカク個体ゲノムからの証拠と一致します。

 チューレ文化はおそらく早くも紀元後200年頃にはアラスカのベーリング海峡と沿岸部地域で発展しましたが、紀元後1200頃に急速に東方へ拡大し、グリーンランドにほぼ同時に出現しました。遺伝的には、チューレ人は旧イヌイット関連集団とアメリカ大陸先住民の混合なので(関連記事)、チューレ人がシベリアからアメリカ大陸への独立した移住(おそらく、逆移住したアサバスカ個体群と混合しています)を表しているのかどうか、あるいはアラスカ内で出現したのかどうか、不明なままです。イヌイットにおけるアメリカ大陸先住民構成要素は、その地理的近接から予測されるように、NNA集団に由来します。

 旧イヌイットとイヌイット・チューレ人集団は数世紀にわたって重複していましたが、考古学者は、両者が同じ時代に同じ場所に存在したのかどうか、疑問視しています。遺伝的には、旧イヌイットとイヌイット・チューレ人との間の混合、およびアサバスカ個体群との混合のいくつかの証拠があります(関連記事)。しかし、それぞれの拡散を伴う遺伝的に異なるイヌでも明らかなように(関連記事)、遺伝子流動の程度はおそらく限定的でした。ともかく、旧イヌイットは最終的に考古学およびゲノム記録から消滅し、その理由はまだ不明です。

 グリーンランドのノース・ヴァイキングは、アメリカ大陸に到達した最初のヨーロッパ人で(紀元後1000年頃)、先住民の遺跡におけるノース人の製品の出現に基づくと、ノース人は旧イヌイットと遭遇したかもしれず、あるいは、年代に基づくとより可能性があるのは、イヌイット・チューレ人およびアメリカ大陸先住民との遭遇です。ヴァイキング人口集団内のかなりの混合の古代ゲノムの証拠があり、交易および襲撃のネットワークを反映していますが(関連記事)、旧イヌイットもしくはイヌイット・チューレ人との混合を示唆する証拠はありません。アメリカ大陸における先住民共同体へのノース人の遺伝子流動があったならば、その証拠は紀元後1000〜1500年頃の個体で探せるでしょう。

 完新世中期および後期においてさらに南方では、現在のメソアメリカ人の祖先が拡大し、南北両アメリカ大陸で他のSNA人口集団と相互作用していました(関連記事)。このメソアメリカ人関連の遺伝子流動は、「遺伝的ゴースト」である標本抽出されていない人口集団A(UPopA)を含み、北アメリカ大陸西部のグレートベースンにおいて明らかで、それは1900年前頃〜700年前頃のある時点でのことです(関連記事)。この下限年代は、ネバダ州のラブロック洞窟(Lovelock Cave)の2個体のゲノムデータに基づいています。

 南アメリカ大陸へのメソアメリカ人の拡大は、いくつかの現代の人口集団において明らかですが、アンデス山脈の反対側ではさまざまな割合で、長期にわたって続きました(関連記事)。第二の、「非アンジック」SNA系統の示唆的な証拠もあり、カリフォルニアのチャネル諸島の古代人との類似性を有しており、この古代人は5000年前頃となる完新世中期に南アメリカ大陸へと拡大し、アンジック個体と密接な類似性を有する人口集団の子孫を含んで、それ以前に到来していたSNA集団をほぼ置換しました(関連記事1および関連記事2)。この祖先系統がどのようにメソアメリカ人の拡大と関連しているのか、明らかではありません。

 完新世中期と後期において、カリブ海諸島への人口集団の移動の少なくとも2回の主要な事象がありました。最初のものは6000年前頃以後の「古代(Archaic)」期となり、2つの分離した南アメリカ大陸の人口集団の移動を表している、と元々考えられていました(関連記事1および関連記事2)。しかし、その後の研究では、南アメリカ大陸祖先系統の単一の波のみが検出されました(関連記事)。2500年前頃以後のある時点で、土器時代の人々が南アメリカ大陸北部から到来し、それはアマゾン集団を含む単一の起源人口集団からで、カリブ海のタイノ人(Taino)とアマゾン北部の他のアラワク語族との間の提案された関係と一致します(関連記事)。土器時代および古代の人口集団はまだ解明されていない期間重複していましたが、現時点ではひじょうに限られている混合の証拠しかありません(関連記事1および関連記事2)。

 中南米全域で後期完新世までに、人口集団は本質的に「定住し」、多くの地域では、ヨーロッパ人の到来前の数千年にわたって人口集団が継続しています。もちろん、人口集団の移動混合も継続していましたが、それ以前の期間よりはずっと小さな空間規模でした(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)。インカ帝国のように後に帝国が台頭した地域でさえ、広大な地域への拡大は、たとえば新石器時代やその後のユーラシアで見られるような、広範な人口集団の移動を必ずしも伴いませんでした。それでも、これらの拡大はずっと多様な遺伝的景観をもたらしました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。以下は本論文の図3です。
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●太平洋における接触の可能性

 イヌイットの人々がベーリング海を横断してアラスカへと渡ったのとほぼ同じ頃、ポリネシアの航海者が遠く離れた東太平洋のラパヌイ(Rapa Nui)島(イースター島)に到達しました。ポリネシア人が東方へ航海を続けて南アメリカ大陸に上陸した(不利な海流に対して約3700kmの追加の航海が必要です)のかどうか、あるいはアメリカ大陸先住民が太平洋へと西方へ航海したのかどうか、長く議論されてきました。ラパヌイの現代人の最初のゲノム研究は、低水準のアメリカ大陸先住民祖先系統を示唆し、その遺伝子流動は紀元後1280〜1425年頃に起きたと推定されましたが、それがどのように起きたのかは不明なままです。しかし、混合が起きた時期の曖昧さを考慮し、ラパヌイの古代人2個体の後の研究結果に基づくと、ラパヌイにおけるアメリカ大陸先住民祖先系統の推論は却下されました(関連記事)。

 太平洋の人々とアメリカ大陸先住民との接触の可能性は、太平洋の島々および中南米の沿岸に住む現代のアメリカ大陸先住民数百個体の最近の研究で再度提起されました。コロンビアのゼヌ人(Zenu)と最も密接に関連するアメリカ大陸先住民との混合を有するポリネシア人は、広範に散在する東太平洋の9つの島で見られます。その混合事象は紀元後13世紀に起きたと推定されており、太平洋におけるヨーロッパ人の存在と最初の定住のずっと前です(関連記事)。これは、アメリカ大陸先住民の東太平洋への拡散を表しているものの、より可能性の高い想定では、太平洋の島への定住をオセアニア航海民に結びつける豊富な考古学的証拠を考慮すると、これら太平洋の島々におけるアメリカ大陸先住民祖先系統は、太平洋の人々が南アメリカ大陸を訪れて混合したか、南アメリカ大陸の人々とともに太平洋の島々に戻って来た結果である、と提案されています。先コロンブス期におけるアメリカ大陸先住民とポリネシア人との接触の年代と性質に関する問題はおそらく、現代の太平洋諸島の人々で検出されるよりも強いアメリカ大陸先住民の遺伝的兆候を有しているかもしれない、古代ポリネシア人の分析でのみ解決できます。


●より大きなパターンと過程

 大陸規模では、古代のゲノムおよび考古学的証拠は、アメリカ大陸全域の急速な最初の拡大を示しており、これには顕著な文化的変化も伴いました。ゲノム記録も、かなりのボトルネック(瓶首効果)を経て、人口が到来後数千年で急激に増加した、と確証しており(関連記事)、これは現生人類(Homo sapiens)の人口史で最も顕著な成長事象の一つだったかもしれません(関連記事)。

 最初の放散の急速性にも関わらず、古代のゲノム記録も、拡散後に多くの地域の集団が多かれ少なかれその地域に定住した、と明らかにしています。これは人口集団の継続性をもたらし、一部地域では数千年にも及び、長く持続したものの、比較的小規模な人口集団とおそらくは相互作用と交換のより限定的な地理的範囲を反映しています(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4および関連記事5)。

 人口集団の継続性は時として、放棄や置換につながる可能性が高いと考えられている生態学的条件下でも起きました。たとえば、北アメリカ大陸のグレートベースン西部では、中期完新世の数千年にわたる深刻な乾燥と旱魃により、人口密度が急激に低下しました。この期間の前後の考古学的記録はかなり異なっており、かつては新たな(複数)集団による在来の人々の置換を表している、と考えられていました。しかし、その数千年間の前(10700年前頃の精霊洞窟個体のゲノム)および後(2000〜700年前頃のラブロック個体群)の個体群のゲノム間には強い類似性があり、ラブロック個体群のうち新しい方でメソアメリカ人との混合さえ認められます(関連記事)。

 他の事例では、古代ゲノムは2種類の不連続性を明らかにします。まず、古代人が現代人とつながっているものの、現在その地域に居住している人々とはつながっていない場合です。つまり、地域放棄の事例です(関連記事)。具体的には旧イヌイットが当てはまり、そのDNA断片は現代のアサバスカ個体群で見られます(関連記事)。次は、古代の人口集団が完全に消滅した事例で、その人口集団に由来する現代人は存在せず、具体的には古代ベーリンジア人口集団などです(関連記事)。とはいえ、古代ベーリンジア人口集団は北極圏に1万年以上存在したので、「失敗した移住」ではありませんでした。

 古代の標本は古代の人口集団の規模および分布と比較して必然的に制限されるので、人口集団の不連続性や置換に関する記述には注意が必要です。ともかく、次のように疑う理由があります。移住過程の初期に、小さく孤立して分散した一団(バンド)が遠くの故郷もしくは親族から離れた不慣れな土地を開拓したさいに、数十もしくは数百年で消滅した可能性があり、それは、充分な人口の欠如、もしくは新たに発見された環境で確率的事象に対処できないためです。

 地理的および社会的障壁両方に起因する、孤立の証拠は明らかです。これは、アンデス山脈の一方の側の人口集団におけるゲノム(およびmtDNAとY染色体でも)の違いで見られ、アンデス山脈両側への最初の南方への拡散も反映しているかもしれず、山脈を越えての東西の移動の困難により経時的に維持された分離です(関連記事1および関連記事2)。より小さな規模では、地域的孤立のパターンがあり、たとえば低地と高地との間(関連記事)や、島々(関連記事)や、大陸のより遠い辺境部(関連記事1および関連記事2)で見られます。

 社会的孤立は、たとえばブリティッシュコロンビア沿岸の中期完新世集団のゲノムから推測され、この集団は数百km離れた内陸部の同時代の人口集団とは、フレーザー川(Fraser River)経由で両地域を比較的容易に行き来できるにも関わらず、遺伝的に異なっています(関連記事)。この地域の自然の豊かさと多様性により、人類集団はさまざまな環境条件に住むことができ、恐らくそこから、人口集団の分離を維持する境界が出現しました。

 ゲノムの連続性もしくは不連続性、孤立もしくは混合が、人口集団の生物学にのみ関連し、文化的パターンに実質的な影響を及ぼすとは限らない、と強調することは重要です。たとえば、後期更新世に存在したクローヴィス文化と西方有茎伝統(Western Stemmed Tradition、略してWST)の石器技術は、「遺伝的に分岐した創始者集団」に起因するとされるほど、充分に異なります(関連記事)。しかし、クローヴィス文化のアンジック個体(アンジック1号)と精霊洞窟のWST関連個体のゲノム間の密接な類似性が示すように、両文化は強い遺伝的類似性を有する人々の所産でした(関連記事)。文化的な継続性や不連続性や浮動や混合は、人口集団の仮定とは独立して進行する可能性があります。じっさい、人口集団と社会的動態の両方が、地域の遺伝的および文化的景観の形成において、重要で時には独立した役割を果たしました。これはとくに、後の時代と、強い領域境界が確立もしくは蹂躙された地域に当てはまります(関連記事1および関連記事2)。


●人口史を超えて

 古代ゲノミクスは、疾患史の仮説に取り組むためにも使用されてきました。たとえば、結核の原因となる結核菌(Mycobacterium tuberculosis)と関連する細菌系統は、ペルーの1000年前頃の人類に存在しました(関連記事)。したがって、結核は先コロンブス期には存在しており、以前に信じられていたようにヨーロッパ人によりアメリカ大陸にもたらされなかったかもしれません。注目すべきことに、古代の結核菌系統はアザラシやアシカで見られる結核菌(Mycobacterium pinnipedii)と最も密接に関連しており、先コロンブス期の結核が海獣を通じて人類に感染した、と示唆されます。これまでのところ、アメリカ大陸の病原体研究は限られていますが、アメリカ大陸先住民共同体が限定的か全く免疫を有していない、ヨーロッパ人によりもたらされた一連の感染症の歴史と、長期的な健康への影響とを理解するのに役立つ可能性があります。

 古代DNAの分析も、環境条件や食性の変化により起きるアレル(対立遺伝子)頻度の変化を特定できるので、たとえば、人類が最初にアメリカ大陸熱帯地域に拡散した時に受けたような、有病率に影響する遺伝的要因と環境要因との間の相互作用への新たな洞察を生みだせます。古代および現代の人口集団ゲノミクスを通じて人類の疾患の歴史に取り組む利点は、最近報告されています。古代ゲノミクスを用いて疾患の問題に取り組む研究はまだ比較的稀で、とくにアメリカ大陸先住民に関しては少ないままです(関連記事)。現代のDNAと古代DNAの機能的研究を組み合わせることにより、アメリカ大陸先住民における、進化と生活様式および代謝性疾患の根底にある遺伝的原因への新しく有益な洞察を得る、強力な手法を構成できるかもしれません。

 その可能性を実現するには、先住民と科学界の間でより協力的な関係を築くことが必要です。これは、アメリカ大陸先住民集団への非倫理的で搾取的な研究の長い歴史の結果である、アメリカ大陸先住民の間の不信の深い遺産を是正するために必要です。研究共同体は現在、人類の参加者に関する遺伝的研究のより強力な指針を有しており、先住民の利益をよりよく保護しようとしています。たとえば、文化的に有害な方法での標本の未承認の使用の禁止です。それにも関わらず、ほとんどの場合、そうした監視はおもに存命者の研究と関連しており、古代人とは関連しておらず、しばしば存命者のみが対象となります。古代DNAの使用は、人類遺骸への利用、遺骸に関する研究への同意、データの所有権と配布に関する複雑さの尺度を追加します。とくに、古代人遺骸が組織により保有され、共同体もしくは特定の部族に所属しないとみなされる場合はそうです。

 研究と先住民共同体の間で、古代ゲノム研究の最初の10年を特徴づけてきた科学的な「骨の殺到」の倫理性を問うことも含めて、古代人の研究への倫理的に健全で協調的な最良の実践を発展させるために、努力がなされています。時間と適切な協約により、より協力的な関係を確立できるでしょう。これらの研究の利害関係者間の協議と協力においてより大きな努力を払い、その方向ですでに前向きな進展があります。これらの努力は、ひじょうに意見の相違した返還の事例だった古代ゲノミクスの適用を可能にしました。たとえば、ケネウィック人はDNA標本を提供したコルビル(Colville)の連合部族の協力により解決され、精霊洞窟個体は、ファロン・パイユート・ショショーニ(Fallon Paiute–Shoshone)部族とネバダ州立博物館がゲノム分析を進めることに合意しました。


●ゲノムの過去を見据えて

 古代ゲノミクスは、アメリカ大陸の人口史に関する理解を変えてきました。それにも関わらず、まだ知られていないことが多くあります。その一つは、アメリカ大陸の氷床の南側におけるひじょうに古い(たとえば、LGM以前)遺跡(関連記事1および関連記事2)の主張が確かなのか、不明なままです。そうした主張がもし確かならば、それらの遺跡群が、祖先的アメリカ大陸先住民集団がその時点ではまだアジア北東部で特有の人口集団として出現していなかった、と推測されている現在のゲノムデータからの想定とどのように適合するのか、不明です。

 その時点でアメリカ大陸に人類が存在したならば、考古学的にも遺伝学的にも、現時点で確実な証拠はない初期人類が存在した、と示唆されます。しかし、クローヴィス文化期以前のアメリカ大陸の個体からはゲノムデータが得られていない、と強調することも重要です。したがって、先クローヴィス文化期人口集団がNNA系統とSNA系統のどちらかに相当するのか、両系統の分岐前なのか、あるいは別の集団なのか、不明です。アメリカ大陸最初期の遺跡群の骨格遺骸は欠如しており、古代環境ゲノミクスが役立つかもしれません。それは、植物や人類も含めての動物といった複雑な組織を有する生物からのDNAが古代の堆積物から得られて、人類の存在を明らかにできる可能性があるからです。

 オーストラレーシア人のゲノム兆候は、僅かではあるものの、ブラジルの比較的小さな地域の古代人1個体と現代人で報告されてきました(関連記事1および関連記事2)。南北アメリカ大陸もしくはアジア北東部では、そうした兆候を有する古代人も現代人も、他には見つかっていません。この兆候がひじょうに構造化された最初期人口集団に存在し、ブラジル以外の地域での欠如は標本抽出の偶然なのかどうか、あるいは、この兆候は祖先的アメリカ大陸先住民集団の到来前にほぼ消滅し、わずかな程度の遺伝子移入しかない、アメリカ大陸のより早期の人口集団を表しているのかどうか、もしくは、アメリカ大陸全域に人類が最初に拡大した後の完新世の移動の事例なのかどうか、判断は困難です。しかし、これまでにDNA解析された古代人の数を考えると、最後の仮説の可能性はますます低くなっているようです。

 オーストラレーシア人のゲノム兆候はさまざまな領域に散在しているので、遺伝的収束や「偽陽性」兆候の事例ではないようです。この問題を解決するための課題の一部は、先クローヴィス文化期個体群のゲノム証拠の欠如で、それが得られれば、少なくとも、オーストラレーシア人のゲノム兆候がより早期の集団とともに到来したのかどうか、解決できます。同様に、アジアからの更新世人類遺骸のゲノムデータは比較的少なく、オーストラレーシア人のゲノム兆候の起源と拡大は、もし存在するならば、アジア、とくに北東部のより多くの個体の配列を通じて調べられるべきです。最近の古代ゲノム研究で、オーストラレーシア人の遺伝的兆候が中期完新世のアジア南東部本土の狩猟採集民集団で見つかったことは、注目に値します(関連記事)。したがって、他の人口集団がアメリカ大陸先住民の祖先系統に寄与した可能性は残っており、それら人口集団の一部は、たとえばUPopAのようなゴースト的存在か、まだ検出されていない方法で関連している可能性があります。また、これまでに検出されたものよりも、祖先的アメリカ大陸先住民集団内で多くの系統分岐と移動があった可能性は高そうです。

 古代ゲノム記録は広範な拡散や長期間の継続や人口集団置換事象や遺伝子流動と混合の証拠を示してきましたが、人々が移動した(もしくは留まった)理由、異なる集団が遭遇した時に相互に何が起きたのか(混合を除いて)、一部の集団はなぜ消滅し、これらの過程は考古学的に見られる物質文化の記録と変化にどのように関連するのか、といった問題にはほぼ沈黙しています。これらの問題には、単にゲノムと文化の変化の間の相関(関連記事)に注目するだけではなく、ゲノム記録と考古学的記録を今よりもはるかに統合する必要があります。結局のところ、文化的変化は人口集団の混合とは無関係に起きる可能性があり、全ての人口集団の混合が文化的変化につながるわけではありません。

 なお、オーストラレーシア人のゲノム兆候は最近になって、現在南アメリカ大陸太平洋沿岸に住むアメリカ大陸先住民で検出されました(関連記事)。これは、オーストラレーシア人のゲノム兆候の範囲と構造が、上述した既知の知見よりも大きいことを示唆します。オーストラレーシア人のゲノム兆候は太平洋沿岸経由でアメリカ大陸に到来した人口集団によりもたらされた、と推測されますが、その地域の古代人と、北および中央アメリカ大陸の古代人および現代人からのオーストラレーシア人のゲノム兆候の欠如は、まだ説明されていません。


参考文献:
Willerslev E, and Meltzer DJ.(2021): Peopling of the Americas as inferred from ancient genomics. Nature, 594, 7863, 356–364.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03499-y


https://sicambre.at.webry.info/202107/article_18.html

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