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マヤ文明滅亡の原因
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/670.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 10 月 16 日 09:57:05: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 人類最初のアメリカ到達は16,000年以上前であったことが判明 投稿者 中川隆 日時 2019 年 9 月 08 日 05:48:04)


マヤ文明滅亡の原因

2019年10月16日
以前の見解よりも早期に起きていたマヤ社会における暴力的な争い
https://sicambre.at.webry.info/201910/article_30.html


 マヤ社会における暴力的な争いについての研究(Wahl et al., 2019)が報道されました。古典期(紀元後250〜950年)におけるマヤ社会の争いについてはこれまで、儀式的なものであり、その範囲は限定的だと見なされてきました。一方で、古典期末期(紀元後800〜950年)における暴力的な争いの証拠は、マヤ文明の崩壊を促進した、争いの段階的拡大と解釈されてきました。に広範な争いが生じていたことを明らかにしています。

 この研究は、古典期末期よりかなり早い時期となる紀元後697年5月21日に、ウィツナル(現在のグアテマラ北部)が2回にわたって攻撃を受けて焼き払われたと記された、ウィツナル南部に位置する古代マヤ都市ナランホで発見されたエログリフで刻まれた碑文を解析しました。その結果、この碑文は、紀元後7世紀の最後の10年の間に起きた大規模な火災により生じた、ウィツナル近くの湖で見つかった明瞭な炭化層を有する古環境的な証拠と結びつけられました。ウィツナル全域にわたって主要なモニュメントが広範に破壊・焼失したという考古学的証拠も、この結びつきを支持します。堆積物の分析からは、この火災事象後に土地利用の急激な減少が生じたと明らかになり、攻撃がウィツナルの人々に深刻な悪影響を及ぼした、と示唆されました。

 この知見は、極端な暴力的な争いは古典期末期に限定的なものであり、環境ストレスや限られた資源をめぐる競争の高まりの結果として生じたものである、という従来の説に疑問を投げかけています。マヤ低地における繁栄と芸術的洗練の頂点とされる時期に、人々の間で都市の広域の崩壊につながる暴力的な争いが繰り広げられていたのではないか、というわけです。今後は、より広範な地域での研究の進展が期待されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


マヤ社会における暴力的な争いは、考えられていたよりも早くから起こっていた

 マヤ低地で、繁栄と芸術的洗練のピークとされる時期に、人々の間で過激な争いが起きていたことを示す証拠について報告する論文が、今週掲載される。今回の研究から、マヤ社会では、従来考えられていたよりも早い時期に、都市の広域の崩壊につながる暴力的な争いが繰り広げられていたことが示唆される。

 古典期(西暦250〜950年)におけるマヤ社会の争いについてはこれまで、儀式的なものであって、その範囲は限定的だと見なされてきた。一方で学者たちは、古典期末期(西暦800〜950年)における暴力的な争いの証拠を、マヤ文明の崩壊を促進した、争いの段階的拡大と解釈してきた。

 今回、David Wahlの研究グループは、マヤ社会では、古典期末期よりかなり早い時期に広範な争いが生じていたことを明らかにしている。Wahlたちは、西暦697年5月21日にウィツナル(現在のグアテマラ北部)が2回にわたって攻撃を受けて焼き払われたと記された、ウィツナル南部に位置する古代マヤ都市ナランホで発見されたヒエログリフで刻まれた碑文を解析した。そして、彼らは、この碑文を、西暦7世紀の最後の10年の間に起きた大規模な火災によって生じた、明瞭な炭化層を有するウィツナル近くの湖で見つかった古環境的な証拠と結び付けた。ウィツナル全域にわたって主要なモニュメントが広範に破壊・焼失したという考古学的証拠も、この結び付きを支持するものである。堆積物の分析からは、この火災事象後に土地利用の急激な減少が生じたことが明らかになり、攻撃が、ウィツナルの人々に深刻な悪影響を及ぼしたことが示唆された。

 今回の知見は、極端な暴力的な争いは古典期末期に限定的なものであって環境ストレスや限られた資源をめぐる競争の高まりの結果として生じたものである、という従来の説に疑問を投げ掛けるものだと、Wahlたちは述べている。


参考文献:
Wahl D. et al.(2019): Palaeoenvironmental, epigraphic and archaeological evidence of total warfare among the Classic Maya. Nature Human Behaviour, 3, 10, 1049–1054.
https://doi.org/10.1038/s41562-019-0671-x


https://sicambre.at.webry.info/201910/article_30.html  

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コメント
1. 中川隆[-13884] koaQ7Jey 2020年2月11日 11:31:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-513] 報告

2020年02月11日
マヤ文化における貯蔵・流通
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_25.html


 取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、マヤ文化における貯蔵・流通に関する研究(McKillop et al., 2018)が公表されました。日本語の解説記事もあります。塩は生命の維持に不可欠ですが、人類の主要な生業が狩猟採集から農耕へと移行していく時期に、人類が塩をどのように確保していたのか、明確ではありませんでした。この研究は、ベリーズのマヤ文化期のパインズ・クリーク製塩遺跡群(Paynes Creek Salt Works)と呼ばれる遺跡群の石器分析から、貴重な塩をどのように生産・貯蔵して流通させていたのか、推測しています。

マヤ文化は紀元前 1000 年頃から紀元後 16 世紀にスペインが侵略するまで、アフリカやユーラシアとの交流なしに中央アメリカ大陸で独自に発達した都市文化でした。

マヤ人は鉄器や大型の家畜を使わず、石器を主要利器として高さ 70mに及ぶ石造神殿ピラミッドを人力で建造しました。

マヤの支配層 は、16世紀以前のアメリカ大陸で4万〜5万に及ぶ文字や、暦・算術・天文学を発達させました。このうち、紀元後300〜900年がマヤ文化古典期となります。

 パインズ・クリーク製塩遺跡群は、周囲をマングローブの林に囲まれ、海面上昇により塩水ラグーンの下に沈んでおり、面積は約7.8㎢です。海面上昇により、一帯の遺跡は完全に水没していました。マングローブが堆積してできた酸性の泥炭は、炭酸カルシウムで構成される骨・貝殻・小型の遺骸を分解してしまうため、発掘では魚や動物の骨はほとんど出土しませんでした。一方、マングローブの泥炭には、中央アメリカ大陸の熱帯雨林で通常なら腐敗してしまう木材を保存する性質もあります。残されていた木材は2004年に発見され、 4000 本以上の木杭が手がかりとなって、塩水を入れた甕を火にかける方式で製塩を行なっていた作業所がこの一帯に多数存在した、と明らかになりました。土器を使用する伝統的な製塩の手法は現代にも受け継がれ、土器製塩と呼ばれています。

 パインズ・クリーク製塩遺跡群で発見された20 点のチャート製石器の使用痕は、高倍率の金属顕微鏡で分析されました。このうち一部の石器には木の加工の使用痕が確認されましたが、大部分のチャート製石器は魚・肉・皮の加工に使用された、と明らかになりました。石器の使用痕データは、マヤ文化の経済活動や食生活を検証する上できわめて重要な意味を有します。パインズ・クリーク製塩遺跡群では紀元後600〜900年に、住居内ではなく木造の製塩作業小屋の中で一世帯の消費量を大幅に上回る塩が生産されました。塩はカリブ海沿岸部だけでなくマヤ低地内陸部とも交換されました。

 先コロンブス期の中央アメリカ大陸において、家畜はイヌと七面鳥だけでしたが、この研究は、古典期マヤ人が他にも動物性タンパク質を摂取していた、との見解を提示しています。この研究は石器の使用痕データから、塩漬けや干し物にされた海産魚のマヤ低地海岸部からマヤ低地内陸部の地域間交換が、一定の動物性タンパク質の供給を担っていた、と推測しています。

使用痕分析されたチャート製石器は、魚・肉・皮の加工に主に使用されていました。近隣のワイルド・ケイン・キー遺跡の住居跡のゴミ捨て場からは、アジやスズキなどの骨が出土しています。こうした魚の干物を作る際に、チャート製石器で魚の腹を切り開いて内蔵を出した、と考えられます。皮の搔き取りに関する使用痕は、魚を塩漬けにするさいに塩分の浸透を促進するため鱗を取る作業だった、との可能性が指摘されています。パインズ・クリーク製塩遺跡群から出土したカヌーと木製櫂からは、ベリーズ沿岸部から内陸部の途中までカヌーが輸送に用いられた、と示唆されます。

たとえば、内陸部のルバアントゥン遺跡では、動物遺存体の39%はアジやスズキを含む海産魚です。さらに内陸部のティカル遺跡やセイバル遺跡においても、海産魚の骨が出土しており、魚の干物は徒歩で内陸部に輸送された、と推測されています。

 ただ、パインズ・クリーク製塩遺跡群では、魚の背骨1 点とマナティの肋骨片1 点が出土しているだけです。骨の出土量がきょくたんに少ないのは、マングローブ泥炭は酸性なので、上述のように、土器の夾雑物の石灰岩やマングローブ泥炭に堆積した牡蠣の貝殻の炭酸カルシウムが溶け出し、魚骨や他の骨が保存されにくいことも一因として考えられます。

しかしこの研究は、魚全体が塩干しによる干物として骨ごと内陸部に運ばれたのが主因だろう、と推測しています。仮に魚の干物の重量を減らすために頭部を切除したのならば、骨を切断した使用痕が石器に残っているはずですが、パインズ・クリーク製塩遺跡群のチャート製石器には骨の加工に関する使用痕は全く確認されていません。

一方、カリブ海沿岸の古典期マヤ人は、マナティの肉を食用しました。一部の分析石器から、マナティなど動物の肉の切断や皮の搔き取りに使われた可能性が指摘されています。

 マヤ低地海岸部からマヤ低地内陸部への地域間交換品としては、これまでに塩・カカオ豆・放血儀礼に用いられたアカエイの尾骨・海の貝などが挙げられてきました。

これらの交換品に加えて、海産魚の干物が、マヤ低地の地域間交換において従来考えられていたよりも重要な役割を果たしていた可能性が高い、とこの研究は指摘します。

逆にマヤ低地内陸部からは、トウモロコシや他の物資が運搬された、と推測されています。

調味料としての塩だけでなく、塩漬けにされた魚の干物は、ユーラシア東西で古くから動物性タンパク質の保存食や交易品として重要な役割を果たしてきました。塩干しによる魚の干物は長期間にわたって貯蔵できます。

塩と魚の干物は貯蔵可能で、マヤ低地内陸部の食料の不足を補い、古典期マヤ諸王国の富の蓄積に重要な役割を果たした、と考えられます。これらの知見により、マヤ文化古典期の人々が生命維持に必要な塩をどのように生産して流通させていたのか、具体的なモデルとして描けるようになりました。


参考文献:
McKillop H, and Aoyama K.(2018): Salt and marine products in the Classic Maya economy from use-wear study of stone tools. PNAS, 115, 43, 10948–10952.
https://doi.org/10.1073/pnas.1803639115

https://sicambre.at.webry.info/202002/article_25.html

2. 中川隆[-13883] koaQ7Jey 2020年2月11日 11:34:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-512] 報告

2020年02月11日
航空調査によるマヤ文化の見直し
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_24.html

航空調査によるマヤ文化の見直し関する研究(Canuto et al., 2018)が公表されました。日本語の解説記事もあります。

マヤ低地中央部は大部分が深い森林に覆われた地域のため新たな遺跡の発見は困難で、1集落を完全に地図化して特徴を明確にするには長い年月を必要とします。そのため、マヤ文化の都市生活様式や人口や土地利用や社会政治的複雑性についての情報は限られていました。

しかし航空調査では、レーザー光線のパルスを使って土地被覆と地形の3D地図を作製する技術が用いられ、広範囲にわたる林冠の下の地面の詳しい地図が迅速に作製されるので、建造物や道路や農業の様子を景観スケールで記録できます。この研究は、マヤ低地地域についてこれまでで最大規模の航空調査の結果を発表しました。

 この研究は、グアテマラのペテン県にある隣り合わない合計2000㎢の12地域の地図を作製し、マヤ低地の様々な地域を対象に、都市から奥地までのマヤ集落の特徴を明らかにしました。

この研究は、61000以上の古代建造物が確認されたことから、紀元後650〜800年頃となる古典期後期のマヤ低地一帯には1100万人以上が居住していた、と推測しています。

また、この地域の各地にある多数の湿地帯は大幅に農業用に変えられ、道路網は遠く離れた都市や町をつなぎ、一部の都市や町はしっかりと要塞化されていた、と明らかにしました。

これは予期していなかった結果でした。ただ、こうした航空調査は従来の「現場に実際に足を運ぶ」考古学的調査方法に替わるものでなく、それだけに頼らないよう、中位が喚起されています。


参考文献:
Canuto MA. et al.(2018): Ancient lowland Maya complexity as revealed by airborne laser scanning of northern Guatemala. Science, 361, 6409, eaau0137.
https://doi.org/10.1126/science.aau0137

https://sicambre.at.webry.info/202002/article_24.html

3. 中川隆[-13823] koaQ7Jey 2020年2月12日 19:16:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-449] 報告
2020年02月12日
古典期マヤ社会を崩壊させた旱魃
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_26.html

 取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、古典期マヤ社会を崩壊させた旱魃に関する研究(Evans et al., 2018)が公表されました。日本語の解説記事もあります。紀元後800〜1000年頃となる古典期終末期のマヤ文化の崩壊は一般的に、過去の気候急変が古代社会の衰退にどれほど大きな影響を及ぼすのか、という事例として使用されます。マヤ地域の古気候研究では、古典期マヤ社会の崩壊が異例な乾燥期に起きたことは示されているものの、この時期が実際にどの程度乾燥していたのか、明確になっていません。大半の気候データは、たとえば他の時期より単純に湿度が高い、もしくは乾燥しているなど、質的な復元に限られています。

 この研究は、沈殿石膏を含む堆積物コアを使ってメキシコのチチャンカナブ(Chichancanab)湖の水の同位体組成を復元しました。この研究は、過去の乾燥状態の代用として、湖の底に層状に沈殿した石膏の結晶構造に組み込まれた水分子の三重項酸素と水素の同位体組成を測定しました。その結果、古典期終末期、マヤ低地の年間降水量は平均で約50%、最も乾燥していた時期では最大70%も減少していたことを発見しました。また、現在と比較して相対湿度が3〜8%減少していたという測定結果も初めて出せました。この知見により、低地マヤ社会が経験した旱魃の深刻さと継続期間が明らかになったとともに、マヤの農耕および社会政治的システムに対する旱魃の影響をより深く理解するために必要な定量的データが得られました。


参考文献:
Evans NP. et al.(2018): Quantification of drought during the collapse of the classic Maya civilization. Science, 361, 6401, 498-501.
https://doi.org/10.1126/science.aas9871


https://sicambre.at.webry.info/202002/article_26.html

4. 2020年6月27日 08:25:01 : h8mTljU3UM : anJWam1WWEd1bjI=[11] 報告
雑記帳
2020年06月27日
マヤ文化最古の儀式用建造物
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_33.html


 マヤ文化最古の儀式用建造物に関する研究(Inomata et al., 2020)が報道されました。考古学界では従来、マヤ文化はじょじょに発展したと考えられており、土器の使用および定住生活の開始とともに、小規模村落が紀元前1000〜紀元前350年頃(以下、すべて較正年代です)となる中期先古典期に出現した、と想定されてきました。しかし近年、グアテマラのセイバル(Seibal)遺跡の人工的な高台のような初期の儀式用複合施設など、初期の祭祀用建造物群が発見されたことで、このモデルに疑問が呈されています。

 本論文は、これまで知られていなかったアグアダ・フェニックス(Aguada Fénix)遺跡(メキシコ合衆国タバスコ州)の、航空ライダー(LIDAR)測量および発掘調査の結果を示します。LIDARとは、レーザー光を用いたリモートセンシング法で、地表の3Dマップを作成でき、これまでにも成果が得られています(関連記事)。アグアダ・フェニックス遺跡は、南北1413 mで東西399m、高さ10〜15 mの人工の基壇を有し、それを中心に9本の堤道が広がっています。放射性炭素年代のベイズ解析により、この建造物の年代は紀元前1000〜紀元前800年頃と推定されました。これはマヤ地域における既知の遺跡では最古となる大公共建造物で、スペイン人侵入以前のマヤ地域の歴史全体を通して最大のものとなります。

 アグアダ・フェニックス遺跡には、より古いオルメカ文化のサン・ロレンソ(San Lorenzo)遺跡の祭祀センターと類似する点もありますが、おそらくアグアダ・フェニックスの地域社会には、サン・ロレンソ社会に匹敵するほどの顕著な社会的不平等はなかった、と考えられます。アグアダ・フェニックスおよび同時代のその他の祭祀用建造物群は、マヤ文化の初期の発展における共同作業の重要性を示唆しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


考古学:マヤ文明最古の儀式用建造物が発見される

 マヤ文明によるモニュメンタル建造物(記念碑的建造物)として最大かつ最古のものが発見されたことを報告する論文が、今週、Nature に掲載される。

 マヤ文明は、先古典期中論文著者前1000〜紀元前350年)に小さな村が次々と出現して以降、徐々に発展していったというモデルが考古学者によって提示されていた。しかし最近、紀元前950年頃のものとされるグアテマラ・セイバルの人工的な高台のような初期の儀式用複合施設が発見され、このモデルは再考を迫られている。

 猪俣健(いのまた・たけし)たちの研究チームは、タバスコ(メキシコ)でLIDARを用いた航空探査を行い、これまで知られていなかったマヤ遺跡を発見した。LIDARとは、レーザー光を用いたリモートセンシング法で、地表の3Dマップを作成できる。アグアダ・フェニックスと命名されたこの遺跡には、南北1413メートル、東西399メートルの高台がある。この建造物は、周りよりも10〜15メートル高く、9つの土手道が周辺に伸びていた。猪俣たちは、放射性炭素年代測定法を用いて、この建造物が紀元前1000〜紀元前800年に建設されたと推定しており、これまでにマヤ地域で発見された最古のモニュメンタル建造物となった。

 猪俣たちは、アグアダ・フェニックス遺跡がほぼ同時代のオルメック文化などの他の考古遺跡とは異なり、顕著な社会的不平等を明確に示す標識(例えば、地位の高い人物の彫像)がない点を指摘し、アグアダ・フェニックスなどの儀式用複合施設が、マヤ文明の初期の発展段階における共同作業の重要性を示唆していると結論付けている。


考古学:アグアダ・フェニックス遺跡の大公共建築とマヤ文明の起源

考古学:初期のマヤ人による大公共建造物

 メソアメリカのマヤ文明は一般に、徐々に発展したと考えられてきた。しかし近年、初期の祭祀用建造物群が発見されたことで、この考え方に疑問が呈されている。今回、猪俣健(米国アリゾナ大学)たちが、航空ライダー測量で、これまで知られていなかったアグアダ・フェニックス遺跡(メキシコ・タバスコ州)において長さ1400 m、高さ10〜15 mの、年代が紀元前1000〜紀元前800年までさかのぼる祭祀用基壇を発見したことで、従来の考え方は完全に覆されるだろう。


参考文献:
Inomata T. et al.(2020): Monumental architecture at Aguada Fénix and the rise of Maya civilization. Nature, 582, 7813, 530–533.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2343-4


https://sicambre.at.webry.info/202006/article_33.html

5. 中川隆[-16018] koaQ7Jey 2021年10月11日 12:51:38 : A5sZu4rx0I : YlFmL2IwWFlFYjI=[17] 報告
謎だらけの「マヤ文明」に関して現在解明されている事実【ゆっくり解説】
2021/10/10


6. 中川隆[-9987] koaQ7Jey 2024年7月01日 07:04:22 : GAQLTeJuxI : MExOdVJIM3gxRzI=[10] 報告
<■510行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
雑記帳
2024年06月30日
チチェン・イッツァの被葬者のゲノムデータ
https://sicambre.seesaa.net/article/202406article_30.html

 マヤ文化の有名な都市であるチチェン・イッツァ(Chichén Itzá)の被葬者のゲノムデータを報告した研究(Barquera et al., 2024)が報道されました。チチェン・イッツァはメキシコのユカタン半島に位置し、マヤ文化の古典期後期および末期(600〜1000年頃)における最大級の都市とされています。本論文は、チチェン・イッツァの儀式的中心地にあるサグラド・セノーテ(Sacred Cenote、陥没穴)の近くのチュルトゥン(chultún、地下貯水槽)で発見された、500〜900年頃の未成年64個体のゲノムデータを報告しています。

 この全員男性である64個体のうち、2組の一卵性双生児を含めて約25%が密接な親族関係にある、と明らかになりました。この64個体は人身供犠の対象と考えられ、遠方地域ではなく、比較的近い地域の出身者と推測されています。チチェン・イッツァの古代の住民と現代の住民との遺伝的連続性も示されましたが、片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)のうち父系ではヨーロッパや近東からの影響が過半数を占めていることや、HLA(Human Leukocyte Antigen、ヒト白血球型抗原)などヒトの免疫に関連する特定の遺伝子座での、植民地時代にこの地域にもたらされた感染症に起因する適応の痕跡が示唆されました。


●要約

 メキシコのユカタン半島の古代都市であるチチェン・イッツァは、古典期後期および末期(600〜1000年頃)における最大級で最も影響力のあった集落の一つで、メソアメリカにおいて最も集中的に研究されている考古学的遺跡の一つであり続けています。しかし、その儀礼空間の社会的および文化的用途や、その人口集団他のメソアメリカ集団との遺伝的なつながりに関しては、多くの疑問が未解決です。本論文は、チチェン・イッツァの儀式的中心地にある陥没穴近くの地下の集団埋葬地で発見された、500〜900年頃の未成年64個体から得られたゲノム規模のデータを提示します。

 遺伝学的分析から、分析された全個体は男性で、2組の一卵性双生児を含めて、複数の個体が密接な親族関係にあった、と示されました。双生児は、マヤおよびより広くメソアメリカの神話において重要な役割を果たしており、そこでは神々や英雄たちの二元論的特性を具現化しますが、これまで古代マヤの埋葬地で発見されたことはありませんでした。この地域における現代人との遺伝学的比較は、チチェン・イッツァの古代の住民との間の遺伝的な連続性を示しますが、HLAなどヒトの免疫に関連する特定の遺伝子座は例外で、植民地時代にこの地域にもたらされた感染症に起因する適応の痕跡を示唆しています。


●研究史

 マヤの古代都市であるチチェン・イッツァはユカタン半島の北部中央に位置しており(図1a・b)、メソアメリカで最大かつ最も象徴的な考古学的遺跡ですが、その起源と歴史についてはさほど理解されていないままです。古典期後期(600〜800年頃)において初めて台頭したチチェン・イッツァは、古典期末期(800〜1000年頃)にはマヤ北部低地の有力な政治的中心地となり、この期間には南部および北部低地のほとんどの他の古典期マヤ遺跡は政治的崩壊を経ていきました。チチェン・イッツァの彫刻された記念碑に刻まれた暦年代のほとんどは850〜875年頃に収まり、チチェンとして知られる遺跡の北部の儀式中心地はほぼ900年頃以後に建設され、チチェン・イッツァ遺跡で最大の建造物である、ククルカン(Kukulkán)寺院としても知られているエル・カスティージョ(El Castillo)でした。

 サクベ(石灰岩の舗装道路)は新チチェンをサグラド・セノーテとつなぐため連接され、サグラド・セノーテとは、巨大な陥没穴で、ほぼ子供である200人以上の儀式で犠牲になった遺骸など、豊富儀式の供物が含まれます。儀式殺人の証拠はチチェン・イッツァ遺跡全体で広範にあり、擬制になった個体の遺骸と記念碑的芸術の表現の両方が含まれます。チチェン・イッツァにおけるエリートの活動は11世紀に減少し、最後の刻まれた暦年代は998年ですが、チチェン・イッツァ遺跡は植民地時代およびそれ以降において顕著な儀式と巡礼の中心地であり続けました。以下は本論文の図1です。
画像

 1967年、100個体以上の未成年を含む再利用されたチュルトゥン(地下貯水槽)がサグラド・セノーテ(陥没穴)の近くで発見されました。そうした地下洞窟と象徴を共有しています。陥没穴については、チュルトゥンは貯水や儀式活動と関連しており、洞窟と象徴性を共有しています。そうした地下の特徴は長く水や雨や子供の犠牲と関連づけられてきており、マヤの地下世界への入口と広く考えられています。小さな地下洞窟ともつながっていたチチェン・イッツァ遺跡のチュルトゥンの場所と状況を考えて、トウモロコシ農耕の周期を支えるために犠牲にされたか、マヤの雨の神であるチャク(Chaac)への供物として捧げられた子供を含んでいる、と推測されてきました。16世紀のスペイン植民地時代の記録とサグラド・セノーテの浚渫後の20世紀初期の調査から、若い女性と少女がおもにチチェン・イッツァで犠牲となった、との理解が広がりましたが、最近の骨学的分析から、男女両方の身体がサグラド・セノーテに堆積していた、と示唆されています。

 マヤ地域全体の犠牲者群の体系的調査から、男女両方が儀式的殺害の対象だった、と確証されてきましたが、古典期のマヤ遺跡ほとんどの犠牲となった個体は学童期(6〜7歳から12〜13歳頃)なので、正確な性別分布は伝統的な骨学的手法のみを用いては判断できません。16世紀のスペインの資料には、そうした子供は誘拐や購入や贈物の交換により地元で得られた、と記録されていますが、最近の同位体研究では、サグラド・セノーテ内の少なくとも一部の個体は地元出身ではなく、遠くホンジュラスもしくはメキシコ中央部出身だったかもしれない、と示唆されています。とはいえ、1世紀以上の研究にも関わらず、チチェン・イッツァにおける子供の犠牲と儀式的な集団墓地としての地下施設の儀式的使用についての多くは、分かっていないままです。

 犠牲となった子供の起源および相互やこの地域の現在の住民との制す物学的関係をより深く理解するため、本論文は生物考古学とゲノムの手法の組み合わせを用いて、サグラド・セノーテの近くのチュルトゥン内の未成年64個体(図1c)を調査し、その64個体を近隣のティシュカカルツユブ(Tixcacaltuyub)町の現在の住民68個体、およびこの地域の他の利用可能な古代人および現代人の遺伝的データと比較しました。ティシュカカルツユブ共同体は長年この研究団に協力してきており、その視点がこの原稿の作成に情報をもたらしました。古代人の遺伝的データ分析や炭素(C)と窒素(N)の骨コラーゲン安定同位体分析と放射性炭素年代測定から、チュルトゥンの未成年は男性で、密接な親族が集団埋葬に存在し、それには2組の一卵性双生児が含まれる、と示されます。

 安定同位体分析から、親族関係にある子供はより類似した食べものを消費し、全体的にチチェン・イッツァの子供の食性はマヤ低地全域の他の古典期人口集団と類似していた、と示唆されます。他の古代人および現代人との遺伝的比較はマヤ地域における長期の遺伝的連続性を示しますが、HLAクラスII遺伝子座、とくに、サルモネラ菌(Salmonella enterica)感染に対するより大きな耐性を提供する、HLA-DR4アレルの、免疫遺伝子におけるアレル(対立遺伝子)頻度変化を示唆しています。サルモネラ菌感染は、メキシコ南部のオアハカ(Oaxaca)市の植民地期の集団墓地で以前に特定された腸炎熱(腸チフス)の原因媒体で、これは1545年のココリツトリ(cocoliztli)流行病と関連していました。


●ゲノムおよび免疫遺伝子データの生成

 チチェン・イッツァのチュルトゥン埋葬(以後、YCHと呼ばれます)で発見された古代の個体群から得られた骨標本が、専用施設で古代DNA研究用に設計された実施要綱に従って、収集・処理・分析されました。全ての骨格要素を明確に単一個体に割り当てることができなかったので、1回以上の個体の標本抽出を避けるため、左側錐体骨が収集されました。放射性炭素年代測定(26点)から、このチュルトゥンは7世紀初期におけるチチェン・イッツァ遺跡の最初の開花から10世紀の最盛期を経て12世紀半ばまで、少なくとも500年間使用されていた、と示されました。

 YCHの64個体全員からの古代DNA回収に成功しました。さらに、メキシコのユカタン半島のDNAはティシュカカルツユブ(Tixcacaltuyub、略してTIX)町の現代の住民68個体の血液標本から収集され、この地域の現代および古代の住民と比較されました。抽出されたゲノム資料はウラシルDNAグリコシラーゼ(uracil-DNA-glycosylase、略してUDG)処理(YCHについて)もしくは非UDG処理ゲノムライブラリ(TIXについて)され、DNAの保存と信頼性評価のため、約500万〜1100万の読み取り深度で配列決定されました。次に、11点の一本鎖のUDG処理ライブラリが構築され、YCH個体群の部分集合で分析可能なデータがさらに増加されました。

 nf-core/Eagerパイプラインの一部として実装された二つの手法で、許容可能な汚染量(5%未満)を確保するための品質管理評価が実行されました。すべてのTIX個体およびYCHの56個体では分析に充分なヒトDNAが得られ(0.1%以上)、再調整手順後に、これらのDNAライブラリが120万の祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)情報をもたらす一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)のパネル(124万SNP)と、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ゲノムと、免疫遺伝子のパネルのため、さらに濃縮されました(関連記事)。濃縮されたゲノムライブラリの配列決定後に、ライブラリ1点あたり約4000万の読み取りが得られ、これらのデータで、さらに品質管理が実行され、集団遺伝学的分析とHLA分類が行なわれました。


●チュルトゥンにおける遺伝的親族関係と双子

 X染色体とY染色体のSNPの網羅率比較から、YCHの全未成年個体は遺伝的に男性に分類され、TIX参加者全員の記録された性別が確証されました(関連記事)。YCH個体群の不適正塩基対率(pairwise mismatch rate、略してPMR)は、2組の一卵性双生児(YCH018–YCH019およびYCH033–YCH054)と9組の他の密接な親族の組み合わせ(YCH016–CH017、YCH017YCH018、YCH017–YCH019、YCH034–YCH041、YCH036–YCH038、YCH042–YCH049、YCH047–YCH057、YCH049–YCH057、YCH059–YCH060)の存在を裏づけます。全体的に、儀式埋葬の分析された子供のうち25%(16個体)がチュルトゥン内の他の子供と密接な親族関係にあります。


●子供の食性の同位体パターン

 骨のコラーゲンのδ¹³Cおよびδ¹⁵N測定は、−13.9‰〜−7.6‰(平均および標準偏差=−9.9‰±1.5‰)の範囲のδ¹³C値と5.9‰〜14.0‰(平均および標準偏差=9.7‰±1.5‰)の範囲のδ¹⁵N値を提供しました。全体的に、これらの値は他の古典期マヤ低地遺跡と類似しており、ユカタン半島および他の古典期マヤ遺跡の食性証拠と一致しています。より高いδ¹⁵N値の一部の個体(たとえば、YCH004、YCH008、YCH023、YCH039、YCH047、YCH061)の食性は、水産資源を含んでいたかもしれませんが、社会的地位と関連している他の食性の差異か、授乳の影響の結果を示唆しているかもしれません。

 関連する動物相からのさらなる背景情報もしくは地元の基準同位体データがなければ、個々の食性をより正確に判断することは困難なままです。それにも関わらず、本論文のデータと刊行されている結果(古典期後期および古典期末期で調べられた450個体以上)との比較から、チュルトゥンの54個体は、さまざまな量のC₃タンパク質と組み合わされた顕著な量のC₄陸生資源と淡水および/もしくは海洋資源を消費した、と示唆されます。これは、記録された古典期マヤの食性に焦点を当てた以前の考古学的調査と一致します。関連する個体の同位体値は相互の近くに位置し、食性の類似性を示唆します。


●マヤ地域における遺伝的連続性

 世界規模の人口集団とアメリカ大陸の現在の個体群(関連記事)に基づいて、主成分分析(principal component analysis、略してPCA)が実行されました(図2)。メソアメリカ人口集団について予測されるように、YCHは世界規模のPCAでは混合していないアメリカ大陸先住民人口集団と密接にクラスタ化します(まとまります)。TIXの一部の個体はヨーロッパ人の方へと動いており、遺伝的混合が示唆されます(図2)。YCHとTIX両方の個体群は、現在のアメリカ大陸北部と中央部と南部の先住民人口集団(関連記事)に投影されると、マヤの現代人とクラスタ化します(図2a)。

 アフリカとヨーロッパとオセアニアとアメリカ大陸の人口集団の部分集合を用いた教師なし混合分析(図2b・c)は、YCH個体群における混合の兆候を示さず、TIX個体群についてはヨーロッパおよびアフリカ祖先系統の小さな寄与を示し、一部の個体(18個体)は非アメリカ大陸先住民の遺伝的寄与の兆候を示しません。カリブ海地域の古代の人口集団で最大化される遺伝的構成要素がベリーズのマヤ地域古代人とYCH個体群の両方に存在するものの(関連記事1および関連記事2)、マヤ地域とTIXの現代人の遺伝的構成にほぼ存在しないのに注目するのは興味深いことです。メソアメリカ(この構成要素はまだ検出されていません)の他の人口集団との混合もしくは遺伝的浮動が、マヤ地域の現代人から消えつつあるこの構成要素を説明できるかもしれません。以下は本論文の図2です。
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 現在および古代のアメリカ大陸人口集団との遺伝的類似性を検証するため、f₃形式(外群、標的、検証対象)の外群F₃統計が、外群としてサハラ砂漠以南のアフリカ人からムブティ人を、標的としてアメリカ大陸先住民人口集団のパネルを、検証対象としてTIXもしくはYCH個体群を用いて計算されました(関連記事)。YCHおよびTIX個体群両方で検出された最高の遺伝的類似性(図2)には、アメリカ大陸中央部および南部の集団が含まれました。TIX個体群は、チチェン・イッツァ遺跡の古代の個体群と最高の浮動を共有します(図2)。検証された古代の人口集団のうち、ベリーズ南部のマヤ山脈のマヤハク・カブ・ペク(Mayahak Cab Pek、略してMHCP)遺跡の9300年前頃の1個体(関連記事)とベリーズではあるもののもっと新しい状況の他の団関された個体群は、古代チチェン・イッツァ個体群と遺伝的に最も類似しており、マヤ地域における長期の遺伝的連続性が示唆されます。

 YCHおよびTIX個体群が、最高のF₃得点のアメリカ大陸先住民人口集団の部分集合を使い、f₄形式(ムブティ人、TIX、標的、YCH)のF₄統計を用いて、他のアメリカ大陸先住民人口集団とよりも相互の方と密接なのかどうか、検証されました。その結果、検証された標的のアメリカ大陸先住民人口集団の数集団がTIX個体群とより密節に関連している、と示唆されます。これが示唆しているかもしれないのは、TIX個体群がチチェン・イッツァの古代の住民と遺伝的に関連しているとしても、チチェン・イッツァの古代の住民と遺伝的に最も近い人口集団はもはや存在しないか、まだ標本抽出されていないかもしれない、ということです。

 次に、2個体群/集団が特定の人口集団参照一式と比較して同じ祖先系統供給源から派生する尤度を評価するqpWaveが適用されました。その結果得られたP値から、YCH個体群とマヤ地域の現代人集団は同じ祖先系統を共有している、と示唆されます。TIX個体群はYCH個体群とスペイン人とヨルバ人の混合としてモデル化でき、作業モデルは、アメリカ大陸先住民構成要素92%とヨーロッパ人からの遺伝的寄与7%とアフリカ人祖先系統0.03%()の組成を示唆します。遺伝的連続性の遺伝的最尤検定を用いて、TIX個体群はYCH個体群の直接的な遺伝的子孫人口集団である、と形式的に検証されました。

 YCHの53個体とTIXの全68個体について、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)を決定でき、その頻度(AとBとCとD)は両集団【YCHとTIX】間でほぼ同一です。しかし、より高水準の遺伝的解像度を表しているハプロタイプからは、mtDNAの多様性がTIX個体群よりもYCH個体群の方で高いことは明らかです。mtHgとmtDNAのハプロタイプ系統は、古代および現在両方のマヤ地域住民で以前に報告されたものに相当します。チチェン・イッツァ個体群(51個体)から回収された全てのY染色体ハプロタイプは(アメリカ大陸先住民で多い)Qの一部ですが、TIX個体群の半分以上(19個体)はヨーロッパ(47.37%)および中東(5.26)系統で、他のラテンアメリカ人口集団で以前に説明されてきたように、植民地時代およびその後の混合過程における強い性別の偏りを反映しています。


●マヤ地域住民における代謝経路のゲノミクス

 両人口集団【YCHとTIX】で生成されたSNPデータを用いて、LSBL(locus-specific branch lengths、遺伝子座固有の枝の長さ)が計算され、YCHとTIXの両個体群のゲノム規模選択について検証されました。2通りのLSBL比較が行なわれ、第一に、YCH個体群とスペインのイベリア人および中国の漢人(ともに1000人ゲノム計画のデータ)、第二に、TIX個体群とイベリア人およびYCH個体群で、YCH個体群とイベリア人からの選択の分離が検証されました。

 注釈付けされた上位0.5%のSNPのうち、YCH個体群では脂質代謝と関わる29個の遺伝子が見つかり、以前に報告された脂肪酸不飽和化酵素(fatty acid desaturase、略してFAD)遺伝子が含まれ、TIX個体群については20個の遺伝子が見つかり、FTOαケトグルタル酸依存二原子酸素添加酵素(FTO)と転写産物因子7様2(transcription factor 7 like 2、略してTCF7L2)が含まれ、両者ともラテンアメリカおよびとくにマヤ地域の人口集団における代謝特性と関連づけられてきました。アデニル酸環化酵素族(adenylate cyclase family、略してADCY)に属するような特定の遺伝子のSNPもTIX個体群では上位0.5%に入り、これは以前の報告と一致しますが、YCH個体群ではそうではなく、植民地時代の前後での選択の相違を示しているかもしれません。

 次に、GoWindaを用いて、濃縮された遺伝子オントロジー経路が検索されました。両集団【YCHとTIX】は代謝経路と関連する濃縮された遺伝子オントロジー期間を示しますが、YCH個体群が繁殖関連の生物学的過程(卵形成やステロイドホルモンに媒介されたシグナル伝達経路や排卵周期や発情周期など)における増加を示す一方で、コレステロールおよび脂質代謝経路期間(脂質生合成過程の負の調節やコレステロール恒常性やステロール恒常性など)はTIX個体群においてより顕著に現れます。


●HLA遺伝子は免疫における変化を示します

 免疫に関連する遺伝子については、YCH個体群とTIX個体群についてそれぞれ、上位0.5%の注釈付けされたSNPのうち15ヶ所と7ヶ所のHLA領域を検出でき、正の選択の兆候を示しています(図3)。YCHおよびTIXの両個体群で共有されているSNPはなく、北アメリカ大陸の北西部沿岸の古代および現代の先住民において先行研究で選択下にあると明らかになったSNPもありませんでした。YCH個体群で見つかったSNPが、HLAのB・DRB1・DQA1・DQA2・S・X・DOA・DQB1遺伝子もしくはその近傍領域に位置しているのに対して、TIX個体群のSNPは、HLAのC・DQA1・DQA2・DQB1遺伝子もしくはその周辺で見つかります。

 宿主と病原体のアレル特有の適応的免疫を伴う共進化多遺伝子座モデルを使用して、病原体からの選択は宿主の認識遺伝子座(HLA系におけるものなど)間の関連を維持するならば、遺伝子座におけるアレル(対立遺伝子)は連鎖不平衡にあるだけではなく、重複しない関連性も示すかもしれない、と示されてきました。その理由のため、重複しない関連性のパターンが分析され(図3)、YCHおよびTIX個体群とメキシコ南部のチアパス(Chiapas)州の高地の以前に分析されたマヤ地域のラカンドン人(Lacandon)における、HLA関連での病原体駆動選択について検証されました。HLA遺伝子座のさまざまな組み合わせ間のf*adjf*adj計量(重複しない関連づけの強度の順位付けに用いられる媒介変数)が測定されました。標準偏差の単位で、本論文で観察された非重複の量と、無作為化されたアレル関連づけで観察された非重複の量との間の違いも測定されました。以下は本論文の図3です。
画像

 古代のデータと比較すると、マヤ地域現代人のデータは、より高水準の非重複を有しているようで(図3a・b・c)、それは、分析された現代の人口集団がHLA遺伝子座において病原体への曝露に起因するかもしれない選択を経てきた、と示唆しているのでしょう。YCH個体群とTIX個体群のHLAアレル頻度を比較すると、8ヶ所のアレルで統計的に有意な変化が検出され、それは、いくつかの比較の補正後の、3ヶ所のHLAクラスIアレルと、5ヶ所のHLAクラスIIアレルです。YCH個体群と比較してTIX個体群において、アレルのHLA-B*40:02(0.2447対0.0821)とHLA-DQA1*03:03(0.1277対0.0224)とHLA-DQB1*04:02(0.1809対0.0299)で頻度が減少したのに対して、HLA-A*68:03(0.0532対0.2687)とHLA-B*39:05(0.0532対0.2687)とHLA-C*07:02(0.2021対0.3955)とHLA-DQB1*03:02(0.4894対0.7015)とDRB1*04:07(0.2340対0.4627)では頻度が増加しました。TIX個体群については、HLAハプロタイプの88%がアメリカ大陸先住民人口集団で以前に報告されており、そのうち10%はおそらくヨーロッパ人起源で、2%はアフリカ人のハプロタイプを表している、と分かりました。全てのYCH個体群のHLAハプロタイプは、アメリカ大陸先住民人口集団、とくにマヤ人で見られるものと一致します。

 HLAクラスII領域は以前に、16世紀アメリカ大陸におけるヨーロッパ人との接触の前後の選択事象およびサルモネラ菌感染に対する耐性が示唆されてきました。したがって本論文は、有意な変化のあるアレルがサルモネラ菌由来のペプチドにどのように反応するのか、検証することに関心を抱きました。そのために、免疫抗原決定基データベース(Immune Epitope Database、略してIEDB)分析情報源に実装されたNetMHCIIPan 結合予測法を用いて、ヒトにおいて免疫原性の証拠があるサルモネラ菌の18個のタンパク質が選択され、YCHおよびTIX両個体群で見つかった、コンピュータで計算された(in silico)HLAクラスII分子に、それらに由来するペプチドを提示されました。

 強い結合では、結合ペプチドはそのペプチドに対して免疫応答を起こす可能性が高い、と意味するのに対して、より弱い結合では免疫応答の誘発がさほど成功しません。最も強力なHLA-DRの結合体が、HLA-DRB1*14:02とHLA-DRB1*04:07とHLA-DRB1*16:02とHLA-DRB1*04:17であるのに対して、HLA-DQの最も強い結合はHLA-DQA1*05:01/DQB1*03:01とHLA-DQA1*05:05/DQB1*03:03とHLA-DQA1*03:01/DQB1*03:03でした。全体的に、HLAクラスII分子により示される強弱いずれかのペプチドの最少数は、HLA-DRアレルのDRB1*08:02およびDRB1*04:04およびDRB1*14:06と、以前に一覧が示された同じHLA-DQ分子です。大まかには、TIX個体群において、HLA-DRB1*04:07(強い結合体)とHLA-DQB1*03:02(弱い結合体、HLA-DRB1*04:07との連鎖不平衡)の頻度が上昇するのに対して、HLA-DQA1*03:03とHLA-DQB1*04:02は低下し、弱い結合体です。


●考察

 考古遺伝学は、より伝統的な考古学的手法を用いての推測は困難かもしれない、過去のマヤ地域の期時期感光生物学的親族関係や遺伝的歴史の側面の調査機会を提供します。本論文は、チチェン・イッツァの古代都市マヤのサグラド・セノーテの近くに位置する、古典期のチュルトゥンに500年間にわたって儀式的に埋葬された未成年遺骸64個体を調べました。サグラド・セノーテのヒト遺骸とは対照的に、チュルトゥンの分析された全未成年は男性と分かり、この状況における男児の儀式的犠牲への強い選好を論証します。遺伝学的分析は、チュルトゥン内における親族関係にある個体の存在も示し、それには2組の一卵性双生児と9組の他の親族の組み合わせが含まれます。そうした双子の自然的な発生率は一般人口のわずか0.4%なので、チュルトゥンにおける一卵性双生児2組の存在は、偶然により予測されるよりずっと高くなります。

 全体的に、子供の25%は遺骸群内で密接な親族を有しており、犠牲にされた子供はその密接な生物学的親族関係のため特別に得らばれたかもしれない、と示唆されます。さらに、これはチュルトゥンにおける親族の実際の人数を過小評価しているかもしれず、それは、チュルトゥンにおいて推定された106個体のうち64個体のみで、分析に利用可能な左側側頭骨の錐体部が保存されていたからです。各一式で密接な親族関係にある子供のが、類似した食事を消費しており、同様の死亡年齢であるように見えるさらなる発見から、そうした子供たちは1組もしくは双子の犠牲として同じ儀式行事中に犠牲にされた、と示唆されます。

 双子はマヤ神話ではとくに縁起がよく、双子の犠牲は、起源がマヤ先古典期にさかのぼるかもしれない本である『ポポル・ヴフ(Popol Vuh)』と呼ばれている、神聖なキチェ人(K’iche’)の評議会書の中心的主題です。『ポポル・ヴフ』では、双子のフン・フナプ(Hun Hunapu)とヴクブ・フナフプ(Vucub Hunahpu)が球技で負けた後に、神により冥界に下され、犠牲にされます。その後、フン・フナプの頭はカラバッシュの木に吊るされ、そこで処女を受精させ、この女性は2組目の双子であるフナプとイシュバランケー(Xbalanque)を生みます。これらの双子は英雄の双子として知られており、その後、冥界の神を出し抜くため、犠牲と復活の繰り返しの周期を経ることにより、その父親とオジのための復讐を続けます。英雄の双子とその冒険は、古典期マヤ芸術において豊富に表現されており、地下構造が冥界への入口とみなされていたことを考えると、チチェン・イッツァにおけるチュルトゥン内の双子とその親族の犠牲は、英雄の双子に関わる儀式を想起させるかもしれません。

 チュルトゥンの未成年をマヤ地域の他の古代および現在の人口集団と比較すると、長期の遺伝的連続性の証拠が見つかり、それはチチェン・イッツァにおける犠牲とされた子供やキョウダイの組み合わせが近隣の古代マヤ共同体から得られたことも示唆しています。TIXの現在の個体群では、ヨーロッパ勢力との接触期以降のヨーロッパ人およびアフリカ人との混合の証拠が検出されます。非アメリカ大陸先住民供給源からの祖先系統の寄与はゲノム規模水準では低いものの、片親性遺伝標識に関してはひじょうに非対称的です。TIX個体群では、すべてのmtHgがアメリカ大陸先住民系統であるのに対して、Y染色体ハプログループ(YHg)の半分以上は非アメリカ大陸先住民系統で(ほぼヨーロッパおよび中東/地中海起源で、以前の報告と一致します)、ヨーロッパ勢力との接触期における非アメリカ大陸先住民祖先系統への強い男性の偏りが起きた、と示唆されます。

 集団遺伝学的分析(混合特性とF₃およびF₄と遺伝的連続性検証)で判断されたマヤ地域集団における遺伝的類似性により、古代(YCH個体群)と現在(TIX個体群)のマヤ地域における選択の検証のため、機能的多様体をコードするゲノム領域における変化の調査が可能となりました。本論文の調査結果は、脂質代謝と繁殖の両方がアメリカ大陸先住民では最近選択されてきた特性で、それは恐らく、植民地時代初期および定住期におけるこれらの人口集団の経てきた強いボトルネック(瓶首効果)とカロリー制約に起因する、との以前の仮説を裏づけます。

 チチェン・イッツァで分析された個体から得られたδ¹⁵N値の観察された標準偏差(1.5)は、これまでに分析された全ての古典期後期〜末期のマヤ遺跡のうち最高です。マヤ地域における古食性の再構築から得られた全体像は、おひらくトウモロコシであるC₄食料の顕著な量の消費を示しますが、地理的差異が利用可能な食料における微細環境の違いと交易網の変動性に反映されています。この変動性を説明するため、チチェン・イッツァで犠牲にされた個体のかなりの割合がわずかに異なる食事を消費していた地元ではないマヤ人だったかもしれない、と想定できます。あるいは、先行研究では、古典期マヤのエリートの食性パターンは経時的に一般人口より大きな変動性を示す、と示唆されています。この変動性は、アルトゥン・ハ(Altun Ha)やベイキング・ポッ(Baking Pot)など他の場所で観察されたδ¹³Cおよびδ¹⁵Nの標準偏差にも反映されています。したがって、分析されたチチェン・イッツァの個体群で観察されたタンパク質摂取津の違いも、社会的地位の差異を示唆しているかもしれません。

 観察されたδ¹⁵Nの変動性が母乳育児の結果であることも、必ずしも除外できず、それは、標本抽出された遺骸が3〜6歳の間と推定されている個体に由来するからです。したがって、他の背景情報がない場合には、特定の食性の差異の解釈には注意が必要です。本論文のデータから、DNAが密接な遺伝的関係を示す個体はより類似したδ¹³Cおよびδ¹⁵N値を示し、そうした個体は同様の世話と食事を提供した拡大家族網で育ったかもしれない、と示唆されます。

 遺伝的検証から得られた遺伝的浮動の値が意味するのは、TIX個体群の祖先は過去1000年間ほどのある時点で深刻な人口減少を経た、ということです。16世紀を通じて、戦争と飢饉は疫病が人口減少をもたらした、と論証されてきており、ヨーロッパ人の接触時期に現在のメキシコに暮らしていた1000万〜2000万人の先住民は16世紀すえにはわずか200万人と、最大で90%人口が減少したかもしれません。天然痘や麻疹やおたふく風邪やインフルエンザやタバルディヨ(tabardillo)もしくはマトラルザフアトル(matlalzahuatl)と呼ばれる発疹チフスや腸チフスや風疹や百日咳やガロッティッロ(garrotillo、深刻なジフテリア)や風土病性赤痢や三次熱(マラリア)や梅毒などの感染症は、植民地時代メソアメリカにおいて大規模な発生を引き起こし、人口減少に寄与し、おそらくは免疫関連遺伝子座での選択を引き起こした、と主張されてきました。

 HLAクラスII領域は以前に、アメリカ大陸の植民地期において選択事象を経てきた、と報告されました。注目すべきことに、YCH個体群をTIX個体群と比較した場合に頻度が変化したアレルのうち3ヶ所はHLAクラスIIの一部である、と分かり、これはLSBL分析で見つかったSNPによりさらに裏づけられる調査結果です。それらのアレルのうち1ヶ所(HLA-DRB1*04:07)は、南アメリカ大陸とアジア東部においてサルモネラ菌亜種により引き起こされる腸チフスへの耐性と関連している、と以前に報告されたアレル群(HLA-DR4)に属しています。最近、考古遺伝学的研究は、1545年のココリツトリ流行病と関連する集団埋葬においてサルモネラ菌パラチフスC(Salmonella enterica sp. Paratyphi C)の存在を特定しており、全ての記録されている植民地時代の流行病の最高の死亡率であるこの流行病の少なくとも一つの原因媒体だった、と示唆されます。古代のサルモネラ菌株のゲノム解析は、16世紀におけるアメリカ大陸へのその到来を強く裏づけます。

 現在のマヤ人とメキシコ人で一般的に観察されているHLA-DR4アレル群の増加は、疫病事象とその後の病原体への持続的な曝露により引き起こされた選択と一致します。HLAアレル間の非重複関連のさらなる調査は同様に、現在のマヤ地域人口集団が、病原体選択を経てきて、それがYCH個体群よりも重複の少ないHLAとの関連を促進したことと一致します。コンピュータで計算された結合予測分析も、HLA-DRB1*04:07をサルモネラ菌由来のペプチドへの強い結合体として示しますが、マヤ地域の現代人で有意に減少しているHLA-DQB1*04:02とHLA-DQB1*03:03は同じペプチドに対してより弱い結合体です。まとめて検討すると、各証拠は植民地時代における疫病事象に応答してHLA領域で起きた(複数の)選択事象を示しています。そうした選択は、1545年の強烈なココリツトリ流行病と、16世紀初頭以降のマヤ地域における疫病事象の回数の多さに直面して、予測されるでしょう。アレルの重ならない組み合わせを有するハプロタイプが偶然に非疾患関連のボトルネックを生き残ったことは除外できませんが、そうした仮定的状況はおそらく、古代の人口集団にすでに存在したアレルの頻度増加をもたらすでしょうが、それは本論文では観察されません。

 本論文は、チチェン・イッツァにおける後期〜末期古典期マヤの詳細な肖像を示しており、この地域の古代の住民のゲノムの遺産が、この古代都市の周辺地域に暮らす共同体に依然として存在する、と示唆されます。男児の儀式的な集団埋葬一卵性双生児2組や他の密接な親族の発見から、若い少年がその生物学的親族関係およびマヤ神話における双子の重要性のため犠牲に選ばれたかもしれない、と示唆されます。本論文では、ゲノム規模水準で、TIXの現在のマヤ人がかつてチチェン・イッツァに暮らしていた古代のマヤ人と遺伝的連続性を示す、と分かり、いくつかの証拠を通じて、植民地時代にヨーロッパ人によりアメリカ大陸にもたらされた感染症により引き起こされた病原体による、(複数の)選択事象におけるHLA領域の関わりが論証されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


考古学:マヤ文明の人身供犠儀式の詳細が古代ゲノムの解析により明らかに

 マヤ文明の古代都市チチェン・イッツァで500年の間に人身供犠の対象になったとみられる64人の古代DNAの解析が行われ、マヤ文明の埋葬儀式を洞察する手掛かりが得られたことを報告する論文が、Natureに掲載される。今回の知見から、地下貯蔵庫で発見された多くの個体が近縁関係にあることが明らかになり、マヤ地域で現在まで遺伝的連続性が認められることが示された。

 メキシコのユカタン半島に位置する古代都市チチェン・イッツァは、マヤ文明の古典期終末期(西暦800〜1000年)の主要な集落の1つだった。この遺跡全体で、人身供犠儀式があったことを示す証拠が数多く見つかっており、その1つがサグラド・セノーテだ。サグラド・セノーテは、大きな陥没穴で、200体以上の遺骸が埋葬されていた。しかし、儀式の詳細については明らかになっていない。

 1967年にサグラド・セノーテの近くで発見されたチュルトゥン(地下貯水槽)に、成人間近の人々の遺骸100体以上が収容されていたことが明らかになった。今回、Rodrigo Barquera、Oana Del Castillo-Chávez、Johannes Krauseらは、そのうちの64体から古代DNAを回収し、解析した。そして、放射性炭素年代測定法によって、このチュルトゥンが紀元7世紀初頭から12世紀半ばまで使用されていたことが示された。また、遺伝的解析の結果、64個体が全て男性で、解析された個体の約25%が近縁関係にあり、2組の一卵性双生児が含まれていることも判明した。これに対して、サグラド・セノーテで発見された遺骸は、若年成人女性と男女の子どもの遺骸だった。著者らは、子どもを供犠する儀式は、作物の収穫量と降水量の確保に役立てるためだったと推測されており、マヤ神話には、双生児を供犠することが記述されていると指摘している。

 今回の研究では、チュルトゥンで発見された個体の素性が明らかになっただけでなく、この地域の現代人との遺伝的比較によって遺伝的連続性も明らかになった。この知見は、人身供犠の対象になった人々が、遠く離れた地域の出身者ではなく、マヤの近傍のコミュニティーの出身者であったことを示唆している。また、著者らは、免疫に関連する遺伝子の塩基配列の多様性を見いだした。このことは、植民地時代にこの地域に持ち込まれたパラチフスC菌などの流行性病原体による適応を示している可能性がある。

 以上の知見を考え合わせると、チュルトゥンの事例では男児の人身供犠が好まれたことが示唆され、マヤの人々の遺伝的歴史を洞察する手掛かりが得られた。


参考文献:
Barquera R. et al.(2024): Ancient genomes reveal insights into ritual life at Chichén Itzá. Nature, 630, 8018, 912–919.
https://doi.org/10.1038/s41586-024-07509-7

https://sicambre.seesaa.net/article/202406article_30.html

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