社会科学者の随想 2019年06月24日 従軍慰安婦問題に関する映画『主戦場』2019年4月封切りから2ヵ月が経ったところで,実際にこの作品を観賞した人たちの感想をめぐって(その2) http://blog.livedoor.jp/bbgmgt/archives/1075061254.html 【『主戦場,SHUSENJO:The Main Battleground of The Comfort Women Issue』2018年製作映画】
【監 督 ミキ・デザキ,上映日 2019年04月20日 上映時間:122分】 【製作国 アメリカ・日本・韓国】 【ジャンル ドキュメンタリー】 【脚 本 ミキ・デザキ】 “ ◆「主戦場」に投稿されたネタバレ・内容・結末 ◆ = 以下においては,寄稿のさい添えられていた「評点(5点満点)」は,わざと触れないで引用する = −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 【断わり】 「本稿(1)」をさきに読みたい人は,こちらへ移動して閲覧されるようお願いしたい。 16 ろくべえ 2019/05/29 01:05 想田和弘監督が絶賛していたので,ずっと楽しみにしていた作品。慰安婦問題は,個人的には2014年に朝日新聞が記事を撤回,謝罪したころから興味をもち,真実をしりたいと思っていた。映画での歴史修正主義者たちの発言には生理的な嫌悪を感じたが,それを上まわる鮮やかな構成,論理的で胸のすくような展開だった。 どこかのレビューで,「(否定派と肯定派)両論が公平に描かれており,判断は観る人に委ねられている」というのをみていたので,そういう映画なのかと思いきや,明らかに修正主義者たちの論理は破綻しており,発言のボロが浮き彫りとなる見事な対比だった。 肯定派は皆,信憑性のある事実にもとづき,冷静淡々と言葉を選びながら論理的に発言していたのに対し,修正主義者たちに皆共通だったのは,差別的で人を見下したような表情と自己の正義を主張し,戦いを挑むような感情的口調。とりわけインタビュアーの質問に口籠もったS氏の目が泳ぐ場面は彼らの脆さの象徴のようにもみえた。 ケネディ日砂恵画像 そして,この映画のなかでもっとも印象に残った人物は,櫻井〔よしこ〕氏の後継といわれていた元修正主義者のH氏。公式の出演者情報には出ていないことが逆に映画のなかでの切札的な存在感となっていた。
補注)このH氏(女性)の姓名はのちに出てくるが,日砂恵・ケネディである。登場してする会話は英語を使用していた人物である。 出所)右側画像が「ケネディ・日砂恵」,https://www.genron.tv/ch/hanada/archives/live?id=130 「私にはもう敵はいないので,やっと解放され自由になりました」という彼女の言葉に,「真理は人を自由にする」という聖書の一節を思い出した。とにかくこの監督は今後末恐ろしいと思えるような見事なドキュメンタリー〔を制作した人物〕だった。 補注)〔 〕内は文意を汲みとって補足した。以後も同じ。 17 nobue 2019/05/26 18:00 情報もまとまっていて,普段みる機会のない人物の顔や話し方もみられて,とても勉強になった。この〔映画の〕問題は当時〔戦前・戦中〕,その場所をとりしきる権限をもっていた人間の人格や状況によって,あまりにも千差万別の被害状況だっただろうと想像されるからこそ,敗戦後の早い時期に帰還兵にヒアリングすべきだったのにできなかった無能,もどかしい。
そもそも,最初にこの問題に触れたのは小学校の図書館で,「女子挺身隊」として誘われて結果,慰安所に連れていかれた日本人女子の記述だったような気がするし,これほど概算に概算を重ねたような曖昧な数字だったとはこの映画で初めてしったが,この周りには膨大な類似ケースがあったことも簡単に想像できる,と私は思うが,あったと認めもしないって,いったいどういう思考回路なんだか。 18 右側に気をつけろ 2019/05/26 17:55 日本ではなかなか表に出てこないテーマを掘り下げた稀有なドキュメンタリー。両論を並べて公平を期しつつ,そのおかげで明確になっていく歴史修正主義者の矛盾。ていねいに積み重ねながら,時にはわかりやすく場面を切り替えながら,つまびらかにしていく。マイケル・ムーアとの近似を感じたものです。 19 86junk 2019/05/26 02:52 観る前は『主戦場』というタイトルに大袈裟だなと思っていたけど,鑑賞後はなるほどそのとおりだと。どうしてこんなに偏って人を傷つける意見を堂々といえるのか。日本は本当に危険な国になっている。 20 熊車 2019/05/25 03:21 腹が立ちながら笑ってしまう不思議な体験のできる作品。 杉田水脈議員の発言のあとに検証が入って嘘だとバレるのが繰り返されると,議員が話しはじめると劇場に笑いが起きてた🤣 天丼ギャグ〔「同じギャグの重複使い」のこと〕かよ w ケント・ギルバート氏が,こんなことはありえないと断言するかと思いきや,ありえないこともないかな(?)と即,予防線を張る関白宣言オマージュ寝たいもウケてた😭 そして,ラスボス日本会議の会長がインタビューで答えた「私は本を読みません」発言で大爆笑をかっさらう ww あなたの後ろに並んで本は飾りでしかないのか www でもこんなアホな連中がデカい面してのさばる現状は本当に恐ろしい。 補注)この指摘のとおりにしかみえなかった「日本会議の会長」の発言であったが,これは受けとり方にもよるが,明らかにわざと古狸的な演技を表現していたと,本ブログ筆者は解釈する。のちにも,この寸評に関して若干の議論をしてみることになるが……。 21 htm 2019/05/16 21:33 citizen's right isn't human right. 22 あの 2019/05/16 16:46 観たのは偶然で,私はなにもしらないし,しらなくて良しとしてきた。それで良いの? 「お前はその態度を貫きつづけるのか」という視線。しらないまま進んでいくには,私はナイーブだな。自分が無知で,それゆえに強く,でも幸せでいるにはしりすぎた。うまくいえませんが 論理的に主張することは労力がいるが,バカにする(論理的でない主張で対象の尊厳を損なおうとする)ことは寝ながらでもできる。バカにすることでその対象より自分を上位に置こうとする行為をしっかり観て,そんなことで尊厳を奪うことはできないとしつつも,その行為じたいが「人」の尊厳を侵害するものだからやめなさいということ,〔この点〕はこの作品の主題だけにあてはまるものではないと感じた。 補注)最近まで日本の国家における安倍晋三や麻生太郎の他者(野党に対してだけのことではなく国民全体に向けてきた)に対する態度は,この段落で指摘されているとおりである。要するに「自分が▲鹿である」事実をよく自覚しえない「世襲3代目の政治家」が,国民たちも自分と同じかあるいはそれ以下だと確信できているような感性丸出しの為政が,とくに安倍晋三第2次政権以降,いよいよ悪化する(「病膏肓に入る」!)ばかりの方向で「進展させられてきた」。 当然のこと,このような知性(痴性)の点では「問題だらけの政治屋たちの存在」を,いつまでも許しつづけている有権者側の「民度」も,21世紀の現在においてとなるけれども,いまさらのように試されている。
ところが,この「舐められつづけている」国民たちの「安倍晋三や麻生太郎に対する認識度」そのものにおいて,まさに問題ありという事実は,日本の民主主義のあり方じたいにそもそもの課題があった事情を意味している。
23 connie 2019/05/14 09:01 意気揚々と喋る従軍慰安婦否定派の人たちから出る,女性蔑視・中韓蔑視の言葉がイタイ。歴史学者の地道な研究を無視して,都合の良いところだけとりあげるとこういう発言になる。しかし,日本会議は恐ろしい。そのマスコットになっている櫻井〔よしこ〕氏に後悔はないのかと。 補注)「後悔先に立たず」というけれども,櫻井よしこは,あの表情・顔つきをみるかぎりでは,後悔という用語・単語は完全に無用となった女性のように感じられる。櫻井の基本的な矛盾,従軍慰安婦問題に関する立場(解釈)が「肯定から否定へと」豹変した事実については,昨日の記述「本稿(1)」が説明していた。 24 ウニ 2019/05/12 17:27 本件に関して,どのような議論があるのか,密度の濃いドキュメンタリーでみごたえあり。 戦争そのものがなにも生み出さない,人間の尊厳をたやすく損なう不毛なものであり,どうやれば戦争に巻きこまれなくて済むのか,たゆまなく変化する国際情勢を正しくつかむ努力(外交・諜報),真剣に考えねばです。 また,先の大戦にどうして巻きこまれたのかも客観的・複眼的にファクトで理解すべき〔である(私自身が)〕。戦争は,双方に3代200年に渡る深い遺恨が残ることを覚悟せねばならないと思いました。 25 reris 2019/05/10 21:03(なお,この25はかなり長めの言及となる) 監督が自分の主観を語る部分が多く,ドキュメンタリーとはいえないと感じた。 まず,右派左派でいえば,8対2で左派寄りの内容が多い。監督は中立で差別反対の立場としているようだが,冒頭から右派を歴史修正主義者と呼ぶことは差別的ではないのだろうか? 補注)この「8対2」というのは特定の定量(判断)の測り方に関した定性的な印象論であり,いいすぎというか不当な評定である。それでは,実際にどれだけの「両者に対する時間按分」になっているかといわれても,まだその正確な認識はできていない。 それほど気になるのであれば,ストップウォッチを使い,「左派と右派の人士たちがとりあげられ発言している場面」を腑分けしたうえでそれらの合計時間を計ってから,それぞれの時間の長さを比較した結果,そのように「8対2」だというのであれば分かるが,そうではなく,単に印象論でのみそのように決めつけた割合「8対2」を出している。
もっども,そういうふうに受けとられてしまう事情があったのだとしたら,この「8対2」という比率は実は,左派と右派の「いいぶん:それぞれ」が効果を挙げえていた「説得力の比率(その差異)」だと読みかえてもいい。実際にこの映画『主戦場』を鑑賞したうえで感得したつもりの「その量的な割合に関する印象」は,本ブログ筆者の感じ方でいうと,「左派のほうが若干多めになっている構成か」という程度であった。 問題は,この感想を寄せた「25 reris」氏の立場がこの映画をどのように受けとめているのかという,それも「事前に抱懐していた自身の価値感」に応じて,その「比率の解釈」が異なって決められることになったのではないかと思う。この「25 reris」氏は,右側に寄った立場から盛んに発言している。 話が進むにつれ,左寄りの意見ばかりが展開され,右派の扱い方が酷く,私は左派に相当偏った作品と感じた。以下にその詳細を書いてみる。 補注)「右派の扱い方が酷く,私は左派に相当偏った作品と感じた」という感想は,この感想を書いた人自身が「右派への同調が強く,相当偏った作品と感じる」ほかない立場にあったからではないかなどと,逆に位置づけることができる。以下では,その点にこだわった本ブログ筆者からの寸評が,この「25 reris」氏に対してはだいぶ突きつけられることになる。 前半は慰安婦問題だが,後半は安倍政権批判,憲法改正の否定,靖国参拝批判など,ほぼ野党派閥の主張をそのまま展開する内容である。もはや既知であり,正直つまらない。日本人よ,アメリカのために戦争に加担してくれるのか(!)というのは,まさにその象徴的なフレーズ。論理の飛躍が過ぎるし,日本人からすれば,大きなお世話ではないだろうか? 補注)この段落の意見は神経過敏であると同時に,かなり大きな見当違いをしている。安倍晋三は「アメリカのために戦争に加担させられる日本国の自衛隊3軍」に変えてきた関連問題を,この「25 reris」氏は,まともに理解できていない。というよりは,現時点まで至っている関連の時代状況がまともに感知できていない。 いまの自衛隊ができるようになった戦争関与(集団的自衛権の問題)は,日本の軍隊として「アメリカのために戦争に加担してくれるのか」という次元は,すでに通りすぎている。そこからさらに「アメリカの代わりに戦争に加担してくれ」という地平にまで出てしまった。だから,前段のような「米日両軍の役割分担」に関する最新事情の認識が欠落していると批判してみた。
現在の自衛隊が「アメリカのために戦争に加担してくれる」「以上の日本の軍隊」になっている事実は,『読売新聞』や『産経ニュース』を購読している読者でも分かるような「時代認識」である。だが,以上のように頓珍漢=状況オンチの発言をするようでは,この映画『主戦場』に対する批評をする資格はない。感想文とはいえ,そう断定しておく。 左派は歴史学者を2人出演させ,主張とその根拠を長々と話すわりに,右派は歴史学者を1人も出演させないのはなぜだろうか? 右派の主張にも事実や根拠があるはずだが,右派論者の発言はあくまで個人的な感想を述べるところばかりを切りとった,もしくは感想を聞くだけのインタビューだったと思われる。フェアに同じレベルの質問を両者にすべきだろう。 補注)この評言も不公平な発言になっている。右派にはまともな理論家はいない,扇動家なら大勢いる。学者である人間もいないわけではない。しかし,その彼らの発言は「個人的な感想」から出られない限界,つまり学問以前に留まるといった制約:弱点をもっている。 なぜ,この映画『主戦場』のなかでは,秦 郁彦のような研究者の見解はとりあげられていなかったかまで,この「25 reris」氏は考えが至らなかった。秦は,従軍慰安婦問題を否定することはしていないし,この歴史問題に関する著書も公刊している。 端的にいえば,従軍慰安婦問題を全面的になきものとするようなトンデモな見解はとれない立場に立つのが,秦 郁彦の基本的な思考であった。ただし,秦は秦なりに特殊な研究志向の立場も有していて,なるべく問題を小さく描くことに非常に熱心な論者であった。 秦 郁彦は,吉見義明などと従軍慰安婦問題をめぐって公開論争をしてこともあったが,ここでは別途,永井 和・京都大学文学研究科教授「日本軍の慰安所政策について」(京都大学大学院文学研究科現代史学専修『永井 和のホームページ』更新 2012年1月12日,http://nagaikazu.la.coocan.jp/works/guniansyo.html)の参照を勧めておきたい。 永井 和のこの一文には,最後に補足されていた段落があるので,とくにそこからつぎの段落を引用しておく。日本軍事史を回顧すると,こういった「歴史の事実」も存在していたのである。 “ ◆ 補論:陸軍慰安所は酒保の附属施設 ◆ 軍慰安所とは将兵の性欲を処理させるために軍が設置した兵站付属施設であったことはすでに述べた。このことを裏づけてくれる,陸軍の規程を偶然に発見したので,紹介しておきたい。それは1937年9月29日制定の陸達第48号「野戦酒保規程改正」という陸軍大臣が制定した軍の内部規則である
その名の示すとおり,戦時の野戦軍に設けられる酒保(物品販売所)についての規程である。添付の改定理由書によると,日露戦争中の1904年に制定された「野戦酒保規程」が日中戦争の開始とともに,古くなったので改正したとある。改正案の第1条は次のとおりであった。 第1条 野戦酒保ハ戦地又ハ事変地ニ於テ軍人軍属其ノ他特ニ従軍ヲ許サレタ ル者ニ必要ナル日用品飲食物等ヲ正確且廉価ニ販売スルヲ目的トス 野戦酒保ニ於テ前項ノ外必要ナル慰安施設ヲナスコトヲ得 ここに「慰安施設」とあるのに注目してほしい。改正規程では,酒保において物品を販売することができるだけでなく,軍人軍属のための「慰安施設」を付属させることが可能になったのである。改正以前の野戦酒保規程の第一条は,以下のとおり。 第1条 野戦酒保ハ戦地ニ於テ軍人軍属ニ必要ノ需用ヲ正確且廉価ニ販売スル ヲ目的トス ここには「慰安施設」についての但し書きはない。第一条改正の目的が,酒保に「慰安施設」を設けることを可能にする点にあったことは,改正規程に添付されている「野戦酒保規程改正説明書」(経理局衣糧課作成で昭和12年9月15日の日付をもつ)で,つぎのように説明されていることから明らかである。 「改正理由 野戦酒保利用者ノ範囲ヲ明瞭ナラシメ且対陣間ニ於テ慰安施設ヲ 為シ得ルコトモ認ムルヲ要スルニ依ル」 このことから,1937年12月の時点での,陸軍組織編制上の軍慰安所の法的位置づけは,この「野戦酒保規程」第1条に定めるところの「野戦酒保に付設された慰安施設」であったと,ほぼ断定できる。酒保そのものは,明治時代から軍隊内務書に規定されているれっきとした軍の組織である。野戦酒保も同様で,陸軍大臣の定めた軍制令規によって規定されている軍の後方施設である。 してみれば,当然それに付設される「慰安施設」も軍の後方施設の一種にほかならない。もちろん,改定野戦酒保規程では「慰安施設」とあるだけで,軍慰安所のような性欲処理施設を直接には指していない。しかし,中国の占領地で軍慰安所が軍の手によって設置された時,当事者はそれを「慰安施設」とみなしていたことが,別の史料で確認できる。 〔本文に戻る→〕 映像についてだが,右派論者を怪しい輩のようなテイストで紹介したり,右派の組織図をまるで某スパイ映画の悪の組織を紹介するがのごとくの編集をする。さらには,大日本帝国復活の陰謀論のようなマユツバ話まで展開させるため,もはやドキュメンタリーではなく,バラエティである。本気でいっているのかも,正直疑問。デザキ氏はこれをみせて信じた日本人を心の底では笑っているのではないか(?)とも思ってしまうほど,根拠のない話。 補注)この段落の評言は被害妄想である。右派の慰安婦問題を「否定する者」の語り口は,表面的には具体的に語っているように聞こえるものの,歴史的な根拠のない “でっち上げ的な主張” にしかなっていないものが,圧倒的に大部分である。 また,日本は女性に人権がない国,侵略国家であるなど,使い古された戦後自虐史観を植えつける内容が多く含まれている。印象操作をするくらいならば,事実に重きをおくほうがよっぽど面白い内容になったと残念でならない。 補注)敗戦前における女性の地位に「基本的権利」がなかったのは,事実そのものである。この人は「戦後自虐史」とか「印象操作」とかいった表現をもちだしているが,ネトウヨ的な俗悪論に脳細胞を冒された “感情的な発言” を放っている。具体論に現実的に反論するのではなく,噛みあわない抽象論をぶち当てているが,空論(空砲的な威嚇?)。 肝心の慰安婦問題は,比較的事実ベースに語られているものの,日本軍が強制的かつ直接的に収監したか否かの問題と,広義の女性人権問題のふたつの論点を混在させて,分かりにくくしている。 補注)こうはいっているけれども,自分自身が十分に認識できず区分もできなかったはずだったその「ふたつの論点」に関する議論に向けて,非難が提示されていた。とすれば「混在しているではないか」と,その「ふたつの論点」に対して批判を繰り出したところで,この種の発言を放った立場そのものが,実は「問題に対する識別力」をもともと絶対的に不足させていた。こうなると,なにをいっても説得力を感じさせない。 前段でも示唆してみたつもりであるが,この人の解釈は「問題の基本点を自分で仕分けできない」まま,あるいはそれ以前に「理解そのものが不十分の」まま,その「ふたつの論点を混在させて,分かりにくくしている」のである。いいかえれば,タメにする話法(?)にはまりこんだ結果,かえって話をややこしくした。混線させていた。 私たちは,慰安婦=可哀想と無意識に思ってしまいがちだが,当時の慰安婦に,「私はこの仕事に誇りをもっていました。命を賭して戦う兵士のために,助けになりたく参加したのです。」と,いわれたらどう感じるだろうか? 可哀想という見方は現代人のそれであり,上から目線の価値観ということを肝に命じなければならない。 補注)このとらえ方も異質の問題,平時と戦時の違いをまったく区別しないいいぶんである。さらに,日本人の従軍慰安婦であれば妥当する話題が,いきなり朝鮮人の慰安婦の問題にまで勝手に拡大解釈されている。 たとえば「特攻隊の問題」が,敗戦後になってどのようにとりあげられ,論じられてきたか参考になる。いまもなお,この「特攻の問題」は議論が続けられている。次元は根本ではつながっているけれども,その次元において異質性がある問題をただちに,ここでの解釈のように関係づけて話すのは,論点をみずから混乱させるだけであった。
事前の条件づけにおいてからしてすでに,自身の構えのなかに偏倚(「へんい」:かたより)を介在させていた点に無頓着だとしか解釈のしようがないが,従軍慰安婦問題の入門付近の知識を欠いていると,この程度にしか話が展開できない。
また,慰安婦と日本兵が,恋愛の果てに,2人で生還して本土に戻り,結婚まで至る,そんな戦争の時代に激動の人生を歩んだ人たちの話だってある。調べればすぐにわかることだが,これもまたとりあげないのはなぜだろうか? 補注)ここでは前述に指摘したように「日本兵・対・日本人の従軍慰安婦」という組みあわせが話題に挙げられていた。戦場に咲いたあだ花であっても,それなりに美話になりえないわけではない。けれども,こちらの話題はごくごく一部にありえたかもしれない例外的なことがらである。 本ブログ筆者はそうした事例に関する話題を,実際に旧兵士たちが語った事実を記載した本を読んだことがある。しょせんは非常にまれな出来事であった。「同期の桜同士」というか「戦友の仲間内」だけで,それも密かにしか話題にできない記録であった。
いずれにせよ,単に狭くかぎられた具体的な話題をもちだしてでも,これを不当にもちあげながら拡大解釈的に普遍化しようとする操作が好まれている。そういった様子が強くうかがえる。だが,それでは,異様なまでにもちあげてみた「特定の現象に関する説明」が,「論理・概念的には初歩の誤謬」を犯している点については,いつまでも気づかないで終わる。
またとくに,ここでいわれる慰安婦との結婚話は,実際にあったとしてもあくまで “日本人同士であった事例” であったのだから,「日本人と朝鮮人」を区別しておかない議論は,当初より誤導的であった。 韓国人慰安婦の賠償を訴える証言を紹介するが,一方で当時の慰安婦はそのような酷いものではなかった,という証言をとりあげないのはなぜだろうか? 補注)これについてはこう説明しておく。日本人慰安婦で特定個人の将校付きになった慰安婦の事例ならば,そのようにとらえることはできなくはない。ということであって,これを問題の全体に突きつけて論点を散漫化(解消?)させるのは,この指摘じたいが暴論に近い〈近視眼的な着眼〉であることを反証する。 慰安婦問題のきっかけとなった,朝日新聞の吉田〔清治〕証言記事を,とうの朝日新聞が誤報と認め,撤回,謝罪記事をあげたことに触れないのはなぜだろうか? 補注)この「『朝日新聞』誤報事件」は,この映画全体のなかで一言も触れられていないのではなく,最初のほうで関説:言及があった。この点をまったく無視しての発言か? 不公平・不公正な言及である。 右派ナショナリストから,左派に考えを変えたという女性が多く語っているが,左派リベラリストから右派に変わった人がいることを紹介しないのはなぜだろうか? 補注)広義でいえば,櫻井よしこやケント・ギルバートがその「左派リベラリストから右派に変わった人」である。この映画のなかで語っているよしこは,ただし(もとは多分左派かリベラルの立場であったが,その後においていつの間にか)右派になった立場からインタビューに応じていた。 それゆえ,ここでの「左派リベラリストから右派に変わった人がいることを紹介しないのはなぜ」(?)という疑問は,短慮ないし知識不足であって,ただの感想とはいえ,指摘の仕方が稚拙である。
慰安婦問題や徴用工,日本の主張こそが正しいと像を撤去しようと活動している韓国人の団体がいることを説明しないのはなぜだろうか? 補注)この意見は,韓国内における戦後政治史のこみいった言辞的な展開をしらずにいっていると推察するが,あまりにも上っ面だけの指摘である。「韓国の反対」=「日本の反対」ではないので留意が必要である。 一辺倒の主張で,都合が悪いことを触れないようにしていることは明白である。このような偏向されたものがほんとうにドキュメンタリーなのか?と思ってしまう。 補注)さきほど「(左)8対(右)2」の紹介になっているという指摘があったが,この人の感想ではこれが「10対0」だという割合も受けとっているかのような発言である。このいいぶんそのものが極端さを剥き出しにしていて,聞く者をして説得力の面ではかえって逆効果を生んでいる。 監督個人の態度や姿勢にも少々疑問がある。日本会議の東京代表者を執拗にこけ下ろすシーン。どこの誰かもわかない無名監督のインタビューを快諾した者にこの態度や編集はないだろう。 補注)「どこの誰かもわかない無名監督」という形容に問題あり。この映画を制作したミキ・デザキは,いまや有名監督になった。誰でも最初は無名……。そのなかから有名になる者も登場する。横綱になった関取でも最初は前相撲からとりはじめる。「どこの誰」といういい方は「どこの馬の骨」とでもいいたかった別の表現だったのかもしれない。 悪の親玉みたいにもったいぶって登場させ,質疑は「従軍慰安婦の〇〇の著作を読んだことがありますか?」→「いえ,読んだことはありません。人の著作物はあまり読まないようにしているので」とのやりとり。そして,テロップで,右派のリーダーがこの低いレベルの認識である,と流れるのだ。ひとりの著作物を読んでないことぐらいで,勉強不足と指摘することじたい,小学生の口げんかのようである。 補注)この指摘=理解も非常にひねくれたものいいである。専門家でなくとも,加藤英明の場合,そのように質問されて当然であった。あるいは当人は,その質問の意味は事前に十分にしっていながら,故意に「しらない振り」をしてそのように答えていたのかもしれない。要はとぼけていたか(韜晦していたか)もしれないということである。単なる古狸的な演技としての回答であったとも受けとれる余地も,十二分にあった。 加藤英明は秦 郁彦が自分の友人だといっていながら,秦の書いた〔従軍慰安婦問題の?〕本も読んだことはない,とまで語っていた。友人ならば,秦の本の1冊や2冊は献本されてもっているとしたら,パラパラとめくるかたちでの拾い読みぐらいしていたのではないか? もっとも,それでなくとも加藤は秦の本をまったく読んでおらず,その内容をなにもしらないということはあるかもしれない。加藤の発言を馬鹿正直に聴いたかぎりでは,そのように解釈できなくもない。 映画ではこの方の情報はまったく触れないまま,ただ悪者という印象操作の標的にされてるとしか思えない。ひどいものだ。ただの好々爺ではないか。冷静に映像をみれば,この人を本当に悪のボスだと本気で思う愚か者はいないでしょう。 補注)加藤英明については,つぎのような言及を紹介しておく。「ただの好々爺ではないか」でなく,むしろ「ただの古狸・爺」でしかない人物が,この「自分の古ダヌキ性」さえ隠そうとする演技をしていた,とも解釈できそうである。 “ 加瀬英明が,どんな人物かというと,「菅野 完氏の悪夢に出てくる……ような日本会議の強力なパトロンですね。加藤英明の父の加瀬俊一は,安倍の叔父さんの佐藤栄作のノーベル平和賞受賞のロビー活動を行なった人物で,ドイツのワイマール末期に大使館員だっととか。民主主義の典型の憲法を掠め取ったナチスの手口を生で目にし,学習したことでしょう」などとも指摘されている。 註記)「晋三 昭恵のカルト仲間=渡邉政男 加瀬英明 / サンマリノ神社=日本会議タックスヘイブン」『☆Dancing the Dream ☆』2017年09月27日,https://ameblo.jp/et-eo/entry-12314351820.html のちほど調べたところ,監督のデザキ氏は当時上智大の学生の立場を利用して,あくまで公平に扱うとしてインタビューを申しこんだようである。この内容は明らかにだまし討ちをしているようなもので,現に取材のとり方に批判と抗議が寄せられていることが判明している。インタビュー作品として,主演者からの抗議は致命的。デザキ氏は二度と同じような作品は作れないでしょう。 補注)このあたりの問題に関する解釈はすでにいろいろ議論もされているが,この程度にまで素朴に発想できて済む問題ならば,世話は要らない。「インタビュー作品として,主演者からの抗議は致命的」という解釈は,ひどく一方的に肩入れした意見である。 映画作品として完成にまで至る過程のなかで生まれてきた「問題意識」であったにもかかわらず,この点を最初からデザキが意図的かつ恣意的にに構成・編集したかのように非難するのは,軽率な批判である。映画作品で政治性を帯びるものが,完全に中立・不偏不党などといった立場に立つ必要などなく,むしろありえない事情(方向性・選択肢)である
また,デザキ氏は後半に出てくる上智大の左派学者の中野晃一氏の教え子ということだ。つまり,初めから左派の人間が左寄りの論述をするための映画だったわけである。 補注)これは「左派学者」の教え子だからイケナイみたいな指摘であるが,それならば「初めから右派の人間が右寄りの論述をするための映画」のような作品を,こちら寄りの監督が別途制作して対抗されればいいだけのことだと,いえなくもない。 映画の制作は国策映画ではなければ,個々人である監督の立場・思想の反映が結論に表現されるのは,当然のなりゆきである。これに対して「好き嫌い」の問題=「価値感をただちに覆いかぶせる」のでは,映画としての作品をひとまず冷静に鑑賞しようとする立場はえられない。
デザキは初めからここで非難されているごとき『主戦場』という映画の編集をしようと準備していたのではなく,制作していく全工程を集約するかたちでその結論部分を表現していたのだから,「左派の人間」が「左寄りの論述をするための映画だった」というのは,順逆をとりちがえた倒錯的で勝手な解釈である。 全体として,とにかく監督の左寄りの作為が強すぎるし,品性にも疑問が残る,中立性はほぼ皆無,非常にアンフェアな作品だと思う。NHKのほうが,まだましな左寄りの映像作品を作っているのでは? 補注)この映画はひとつの作品として公開されているが,NHKは非常にたくさんの特番を制作している。それゆえ,そうたやすくは双方を比較する話にまでは進みえないはずである。だが,ここでのいい方は,一重に感情的に過ぎた単発的な発言に終始している。 さらにいえば,このデザキの “作品における品性” とは,いったいなにが問題なのかについても,あまりにも唐突の発言がなされているだけで,まともに問題の俎上に上げられるような話題の提示にはなっていない。
結果的に知識がない人,純粋な人をその情報量と映像の印象操作で左派寄り思想にする監督個人の作為にまみれた左派プロパガンダ作品なのだろう。 補注)「印象操作」の一点に関していう。右派の人びとのほうがさらにひどく「個人の作為にまみれ」ている点こそが,この映画によっても,的確に伝達されているはずである。すなわち,ある意味でいう「知識がない人」たちは,「情報量」のもちあわせにおいて問題(決定的な不足)があるにもかかわらず,逆にそういった「印象操作」に頼る気持がより強い。この点は,右派の人びとにあっては露骨に表出されてきた。 左派の人たちを論破したいのであれば,屁理屈ではなく,左派の利用する歴史資料も十分に読みこんだうえでの論争が期待されている。だが,残念ながら右派の者たちが口にする理屈は,まさに屁理屈次元のものが多く,それでいて発言されることばは劣情がこもっている。 杉田水脈の発言はその代表例であって,中途半端どころか生半可を地でゆくだけでなく,空中分解を約束されるほどにまで飛躍しつくしていた。口先だけはもっともらしく語るも調子になっていたが,この女性はまともに勉強したうえで発言しているのか,根本的に疑わせていた。すでに本ブログ内では彼女のそのデタラメな事実誤解の実例を指摘し,批判したことがある。
視聴者にはぜひ,一方の意見だけしって満足するのではなく,両論をよくしってほしいものだ。 補注)これは「天に唾する」意見。「両論をよくしってほしいものだ」という1点は,左右の立場を問わない。あとは各自のしり方(理解する意志のありかた)の問題である。 反対に,この日本会議などが,反証の右派映画をつくったら,それはそれで面白いのかもしれないが。まぁ,この作品をわざわざ相手になんてしないでしょうが。 補注)さきほど指摘していた点に関係する意見であるが,ここで,この人は自分が右派のシンパ(親派)であることを正直に告白している。デザキ監督の手法にしたがえば,この人は簡単に串刺しにされてしまい,適当に料理されていた程度の拙論しか語っていなかった。つぎの「26」の批評がとくに参考になることを,まえもって指摘しておく。 26 HitomiOgawa 2019/05/09 21:36 慰安婦問題に関して,どういった経緯があって,誰がなにを主張しているのか,観客自身がどう感じているのか,時に感情のモヤに隠れてしまうものが,とてもクリアになる。 重いテーマであるが,重い(トーンの)映画ではない。もちろん監督の意見は明らかだけど,観た人に考えさせる余白がある。観にいってよかった。人それぞれ意見があっていいと思うが,もっと多くの映画館で上映することはできないものか。 最後に,現政権に批判的な意見を述べている論者の1人が,「こういった意見を表明することで,自分の身に危険があるかもしれない」といっていた。自分の意見を表明するだけで殺されるかもしれない国ってなんだ。 27 陰陽 2019/05/09 07:20 このドキュメンタリー映画は, “右” と “左” に分かれて,おたがいの主張(説明)を議論形式で発展させていく構図になっているが,けっして退屈なものではなく,エキサイティングでスリリングでインフォーマティブで考えさせられる作りになっている素晴らしい映画だ。 ここでむずかしいのが, “右” と “左” と分類したが, “右” の人たちは, “右派” , “ウヨク”, “国粋主義者” , “ナショナリスト” , “歴史修正主義者” ,どのようにカテゴライズしようが,「レッテル貼りだ!」と憤慨する傾向がある。 彼ら自身が自分たちを定義する際に “保守” という呼び方をすることが多いと思うが,この映画では “歴史修正主義者(Revisionist)” という定義になっている。
彼らは「いままでの歴史認識は間違っている!」というスタンスなのだから,歴史修正主義者で問題ないと思うのだが,この映画に出演した論客含め「歴史修正主義者とレッテル貼りされた!」,「騙された!」,「この映画はフェイクだから見に行くな!」と猛バッシングを始めている。この自称保守の人たちが暴走すると,人権軽視の人種差別主義者になり,ネトウヨと蔑称される。
逆に “左” の定義もむずかしい。暴走保守(ネトウヨ)たちは, “左” の人たち(というかネトウヨ以外すべて)を “反日” , “売国サヨク” と蔑称する。それら蔑称を避けた場合に “左” の人たちをどう定義できるであろうか? リベラル派? 人権派? 科学的実証派? なんとも定義しがたいというのも, “左” の論客たちは “歴史学者” ,“ 政治学者” , “弁護士” , “憲法学者” と肩書きもまちまちで特定の団体を組んでいないというのも理由のひとつだ。 という構成になると, “感情 vs. 論理” になる傾向があり,保守論客が嘲笑を受けることになる。しかしながら,実社会では人間の理性や論理が感情をコントロールできていないのが現状である。 その原因のひとつとして,論理的に実証する側はそれぞれ専門をもっている学者の人たちであり “個別” であるが,歴史修正主義者たちは “団体” を組み,そしてそれら団体はすべて裏でつながっているということが,この映画のなかでも触れられている。 具体的には,自民党 ⇔ 日本会議 ⇔ 新しい歴史教科書をつくる会などが繋がっていて,櫻井よしこ氏,ケント・ギルバート氏などをメッセンジャーとして使用し,産経新聞,読売新聞などの右派メディアを利用して国粋主義を流布させるという構図である。 このドキュメンタリー映画のなかのクライマックスは,日本会議役員代表のトンデモ発言という部分もあるが,元歴史修正主義者のケネディ・日砂恵氏の登場である。この映画には名前は出てこないが,米国のフリーランスジャーナリスト・マイケル・ヨン氏に,櫻井よしこ氏とケネディ・日砂恵氏が,慰安婦の強制連行などなかったという調査を,法外な調査費を支払って依頼したという衝撃の暴露がある。 ケネディ日砂恵氏は「(マイケル・ヨン氏が調査に使用した)IWG報告書は主にナチスの戦争犯罪に関しての資料なので,日本軍の慰安婦問題に関する記述などあるはずもない。『キッチンの棚のなかで必死に靴下を探したが存在しなかった』のような茶番である」と暴露している。
補注)IWG報告書とは,ナチス戦争犯罪と日本帝国政府記録について,米国が各省庁に残る文書を調査・点検してまとめた報告書である。 この映画のなかでは触れられていないが,このIWG調査の結果を2014年11月に産経新聞(フジサンケイグループ)が大々的に報道している。そして,このIWG調査結果から慰安婦問題はなかったとして,2016年第2次安倍政権下で慰安婦問題を一斉削除する方向に修正し,官邸の意にそぐわない教科書は理由も告げられず不合格にされた。出版社としては死活問題である。
補注)「このIWG調査結果から慰安婦問題はなかった」から,旧日本軍における従軍慰安婦問題が「歴史の事実」においてなかったとする「問題」の理解はできない。それとこれとはまったく別問題であったところを,このように日本側の特定陣営側は意図的に短絡した。 合格したのはなんと,新しい歴史教科書をつくる会が主導する自由社とフジサンケイグループが主導する育鵬社です。日本全国の教科書に採用されれば自由社(新しい歴史教科書をつくる会)と育鵬社(フジサンケイグループ)に多大なおカネが入るという仕組です。このカラクリは国家犯罪レベルの大問題ではないでしょうか?
このように,このドキュメンタリー映画のなかでは歴史修正主義者のほうが劣勢に映るかもしれませんが,現実には歴史修正主義者たちが実社会を支配している現状なのです。 歴史修正主義者が優勢な現状に関してもうひとつ問題があります。それは,人間が感情の動物であるという現実です。ケネディ・日砂恵氏が胸中を告白するシーンで,「日本が批判されると日本人である私が批判されているようで悲しくなった」というのが,歴史修正主義者になってしまったきっかけだと告白しました。 「オリンピックで日本人が金メダルをとって嬉しい」,「日本人がノーベル賞を受賞して嬉しい」という気持は誰しもあるかもしれませんが,その当たりまえの感情が時として「日本人は優秀だ=日本人の私も優秀だ」というおごりになり,「韓国人,中国人は劣っている」という人種差別になり,「歴史的事実であろうが日本軍の失態を暴くことは日本人である私の恥部を晒すことになり,事実を述べる学者たちは反日の売国奴である」というところまで発展してしまう危険性をはらんでいるということです。 歴史修正主義者たちが,「日本は素晴らしい」,「美しい国ニッポン」と,陳腐であってもプロパガンダをすれば,日本人であるがゆえに心地よくなってしまう人たちもいるかもしれません。また,学者たちの正論は専門家ゆえに言論が難解になる傾向があり,難解になるほど理解できる人たちは減っていってしまうのです。 これらの障害を乗り越え,私たちもみずから調べ,むずかしくても考え,そして冷静な判断をできるよう努力しなければならないと問いかけるドキュメンタリー映画でした。 一見,心地よい “日本賞賛主義” も,ゆき過ぎると過剰な自己正当化になってしまい,虚偽や隠蔽をしてでも自己を美化する捏造集団になってしまいます。最悪の状況では脅迫や暴力まで発展させてでも事実を封印させようとし,国家権力による一連のカラクリはむしろ国家犯罪レベルにまで達しているのではないでしょうか? 「日本の名誉のために」というのが歴史修正主義者たちの主張なのかもしれませんが,むしろ歴史修正主義者たちの発言や行動が日本の品位を貶めていることに気づいていただきたいです。 ぜひ皆様も映画館へ足を運んでください。
主戦場ポスター 付記)このなかに「加藤英明」の顔は出ていない。 28 ducksoup 2019/05/08 16:06 映画『主戦場』を観た。GW後半の当日朝いきなりいったら,すでに夕方まで満席。立ち見となった。大盛況だ。 『主戦場』は,慰安婦問題をめぐる議論のポイントを,登場人物たちのインタビューをもとに整理しつつ,その裏に隠された部分を伝えてくれる,有意義かつスリリングな映画だった。 なんといっても,この映画を観て誰もが気になるのは,後半ラスボスの如く登場する,日本会議の中心人物のひとり,「加瀬英明氏」だ。インタビューでの彼の発言はいきなりぶっとんでいる。 まず「日本が戦争に勝ったから黒人が公民権をえた」という前提も結果も間違いだらけの珍言が飛び出す。日本が戦争に勝った…,勝ったのか? 先の大戦じゃなくて日清日露の話だろうか。単なるいい間違いだろうか。あるいは彼の独自の解釈の果てに出たいいまわしなのかもしれない。それは分からない。 補注)加藤英明の発言ぶりは,そのまま真に受ければ「世間しらず,常識無縁のもの」ばかりであった。だが,真意そうではなく感じられ,意図的にそのようにみずから “バカを装っての発言” だとしたら,二重三重に非常にたちの悪い対応の態度であったと形容するほかない。 インタビューは続く。つぎにインタビュアーは吉見義明氏という別の慰安婦問題の専門家に対する,加藤氏の意見を尋ねる。どれだけの嫌悪や反駁が返ってくるのかと思いきや,加藤氏は「誰ですかそれ?」と来る。「私は他人の本は読まないから分かりません。不勉強なので」と悪びれずにおっしゃる。なるほど彼は議論などしない。自説あるのみ。人の意見を聞かないから自説の負けはない。バッターボックスに立たないのだから三振もない。 補注)映画の場面をみたかぎりでは,加藤英明が「吉見義明」の姓名をしらないという反応の仕方は,やや演技がかっていたようにも感じられた。この吉見義明の名前が出たときは,そのように反応する準備を前もって決めていた,というふうな解釈をしたくなるくらいに,そうであった。 いうなれば,そのくらい不自然にもしらないと応じていたが,そこまで相手を無視(無化)する態度となれば,議論もなにもヘッタクレもないのが「加藤たち側の立場」なのかという観方が出できてもおかしくはない。
そんな反知性主義を豪語する彼の背後に,百科事典がズラッと並んでるのがなんとも皮肉だ。鑑賞後調べてみるとなにを隠そうこの方,ブリタニカ百科事典の初代編集長というから二度驚いた! 他人の本は読まない百科事典の編集長ってなんだろうか…。彼への興味は尽きない。 と,ここまで散々揶揄するような書き方をしたが,実は,映画を観ている間は加藤氏をあまり笑えなかった。彼の妄言には正直驚いたが,この人を嘲笑したら,その対象を笑った瞬間に,一緒に笑ってる側の党派に立たされてしまう気がしたからだ。
左右どちらの立場にも立ちたくない私は,笑うことで立場の選択を迫られ,まさに議論の主戦場に立たされてしまう気がして,うまく笑えなかった。
また,この映画の白眉は,日砂恵・ケネディさんという方の証言だ。彼女は保守論壇にも寄稿し,かつて第2の櫻井よしことも目されたが,故あってナショナリストとしての活動を停止したという。 彼女のいう「ナショナリストは日本が弾圧されることで,自分の名誉を傷つけられたと感じる。だから自尊心を守るために,日本を擁護する」こそが,この問題の本質をいい表わしている。 大江健三郎の小説『セブンティーン』は普通の少年が右翼少年になっていく様を感情移入たっぷりに描いたが,彼〔女?〕の姿がまさにこれだった。国家と自分を一緒くたにし,国家の栄光は自分の名誉,国家への侮辱は自分への侮辱,という人としてのあり方である。国家をみずからの存在理由としているのである。 だから,この議論には終わりがない。 「現実に」強制があったとか報酬がどうとかのすべての細部は,結局それを肯定・否定するための道具でしかなくなる。そこにあるのは,その被害の訴えが自分の名誉を傷つけられたと感じる人びとと,その被害の訴えが自分らの正しさを担保すると感じる人びとだ。 加害者,被害者は時のなかに消え,それを道具にする人らが残るのである。 この映画を観るにつけ,つくづく思うのは,人格と政治思想を分離して欲しいということだ。戦前の国家犯罪と思しき慰安婦問題を暴くことは誰かの人格否定ではないし,逆に戦前が輝かしい素晴らしい時代でありそれを継ぐ未来を作ることは,誰の名誉ともならない。国家への侮辱は誰かへの侮辱ではなく,国家の栄光は誰かの勲章でもない。 そのように考えないことには,この争いは終らない。加藤氏を笑っても対立は進むばかりだ。たがいに否定すべき相手を求めあっているような,いまの状況ではおたがいの妥協点などみいだせるはずもない。 まとまらないが,最近の政治的ドキュメンタリーのなかで,もっとも有意義な作品のひとつであることは,間違いない。
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