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フェニキア人
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1005.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 8 月 21 日 12:28:45: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: イランの歴史 投稿者 中川隆 日時 2020 年 1 月 12 日 10:03:25)

雑記帳 2018年01月13日

フェニキア人のmtDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/201801/article_13.html


 これは1月13日分の記事として掲載しておきます。フェニキア人のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析についての研究(Matisoo-Smith et al., 2018)が報道されました。フェニキア人は紀元前1800年頃に北部レヴァントに出現し、紀元前9世紀までには地中海全域に拡散していました。しかし、フェニキア人の情報はおもにギリシアとエジプトの記録に依拠しており、そこには偏りが生じているかもしれません。本論文は、サルデーニャ島とレバノンのフェニキア人およびフェニキア人出現前の住民の古代mtDNA(14人分)と、現代のレバノンの87人分のmtDNAを新たに解析し、これらを以前に刊行されていたサルデーニャ島の21人の先フェニキア人のmtDNAと比較しました。

 その結果、先フェニキア時代〜フェニキア時代にかけて、いくつかのmtDNA系統で継続性が確認されました。フェニキア人は征服者として地中海各地に拡散していったのではなく、交易商として拡散しつつ、各地の先住民と融合していったのではないか、というわけです。この見解は、考古学的証拠と矛盾しない、と指摘されています。少なくともサルデーニャ島では、先住民とフェニキア人との融合の可能性がたいへん高い、と言えるでしょう。また、フェニキア人の所産であるサルデーニャ島のモンテシライ(Monte Sirai)遺跡では、ヨーロッパ系のmtDNAハプログループU5b2c1が確認されており、フェニキア人社会にはヨーロッパからの女性の移動もあったのではないか、と考えられています。

 Y染色体の解析でも、フェニキア人が地中海各地に拡散していき、現代でも影響を及ぼしていることが指摘されています。フェニキア人系と推定されているY染色体ハプログループは現代では、フェニキア人が影響を及ぼしたと考えられている地域では6%以上、レバノンでは30%以上確認されています。フェニキア人系と考えられるY染色体DNAとmtDNAの分布は必ずしも一致しないのですが、これは、フェニキア人の拡散における性差を反映しているのかもしれません。いずれにしても、フェニキア人の地中海での拡散は男女どちらかに偏っていたものではなく、男女ともに広範に移動し、フェニキア人社会の遺伝的多様性と文化的多様性が示唆されています。


参考文献:
Matisoo-Smith E, Gosling AL, Platt D, Kardailsky O, Prost S, Cameron-Christie S, et al. (2018) Ancient mitogenomes of Phoenicians from Sardinia and Lebanon: A story of settlement, integration, and female mobility. PLoS ONE 13(1): e0190169.
https://doi.org/10.1371/journal.pone.0190169


https://sicambre.at.webry.info/201801/article_13.html  

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1. 2020年8月21日 12:36:12 : VumBhQdrYQ : a1FlQUZBTWNFVUE=[15] 報告
雑記帳 2020年06月14日

鉄器時代から現代のレバノンの人口史
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_18.html


 鉄器時代から現代のレバノンの人口史に関する研究(Haber et al., 2020)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。古代近東はユーラシア西部の主要な文化間の相互作用の中心に位置し、エジプトやヒッタイトやアッシリアやバビロニアやペルシアやギリシアやローマや十字軍やマムルークやオスマン帝国など、さまざまな勢力に支配され、そのほとんどは在来集団に永続的な文化的影響を残しました。しかし、そうした支配勢力の遺伝的寄与はさほど明確ではありません。

 以前の古代DNA研究では、近東の現代人のゲノムの90%ほどは、上記の征服前となる近東の青銅器時代集団に由来する、と推定されています。この結果は、歴史的記録に人口移動・植民化・地元住民との混合が残っていることと、対立するように見えるかもしれません。たとえば、紀元後1307年、マムルーク朝はレバノン沿岸を300の新たに移住させたトルクメン人に分割しました。ローマはベイルートとバールベックを植民地および駐屯地と宣言し、ヘレニズム期の兵士たちとその子孫たちの名前は、シドン(Sidon)で発見された碑文で読み取れます。

 レバノンの十字軍の埋葬地の被葬者の古代DNA分析では、ヨーロッパから近東への移住と在来住民との混合が一般的で、ある期間にはヨーロッパ系および在来系と両者の混合子孫という異質な集団が共存していた、と示されています(関連記事)。しかし、十字軍によるヨーロッパ系と在来集団との混合は永続的な遺伝的影響を残さなかったようで、レバノンの現代人において十字軍系統は検出困難なほど「希釈」されました。十字軍の事例は、多くの征服と移住の後でさえ、近東青銅器時代系統が依然として近東現代人集団のゲノムで支配的である理由を説明できるかもしれません。

 したがって、これまでの古代DNA研究から、二つの未解決の問題が提起されます。まず、近東において一時的な混合事象は一般的だったのか、あるいは十字軍の事例は例外的だったのか、ということです。次に、近東現代人のゲノムは青銅器時代近東集団系統にほぼ由来しますが、全てではないので、どの青銅器時代後の事象が、近東現代人集団で観察される遺伝的多様性に寄与したのか、ということです。

 こうした問題の解明のため、近東における紀元前800〜紀元後200年の新たな古代人のゲノムデータが生成され、それは鉄器時代2期(紀元前1000〜紀元前539年)と鉄器時代3期(紀元前539〜紀元前330年)とヘレニズム期(紀元前330〜紀元前31年)とローマ前期(紀元前31〜紀元後200年)の4期に区分されます。これらのゲノムデータは、近東の既知のゲノムデータと比較されました。それは、中期青銅器時代(紀元前2100〜紀元前1550年頃)とローマ後期(紀元後200〜634年)と十字軍期(紀元後1099〜1291年)と現代で、過去4000年にわたっています。

 まず、ベイルートで発見された被葬者67人の側頭部の錐体骨からDNAが抽出されました。そのうち19人で有意なゲノムデータが得られ、網羅率は0.1〜3.3倍です。この新たなデータと、既知の古代人および現代人のデータが組み合わされ、2つのデータセットが作成されました。セット1には、2012人の現代人および914人の古代人と815791ヶ所の一塩基多型が含まれます。セット2には、2788人の現代人および914人の古代人と539766ヶ所の一塩基多型が含まれます。

 これらの標本群のうち近親関係にあるのは、ペルシア帝国支配下の紀元前500年頃となる鉄器時代3期の女性SFI-43と男性SFI-44で、1親等の関係にあり、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)はともにT2c1です。セット2の全標本を対象とした主成分分析では、近東とヨーロッパとコーカサスとロシア草原地帯とアジア中央部および南部の集団が区別されます。現代のレバノンに居住していた古代人は、現代および古代の近東人とクラスタ化します。本論文で取り上げられた新標本群は、青銅器時代集団(シドン青銅器時代集団)と現代レバノン人の間でクラスタ化します。

 1親等の2人(SFI-43とSFI-44)は外れ値として表示され、同時代人とはクラスタ化せず、青銅器時代標本群近くに位置します。1親等の2人が古代レバノン人以外の集団に対して遺伝的類似性を有しているのか、検証されました。SFI-43は古代エジプト人とクレード(単系統群)を形成し、その系統の全てを古代エジプト人もしくは遺伝的に同等な集団と共有していた、と推測されます。SFI-44の系統はより複雑で、本論文のデータセットではどの集団ともクレードを形成しませんが、SFI-43・古代エジプト人・古代レバノン人とは系統を共有しているようです。

 SFI-43とSFI-44は古代エジプト人とクラスタ化し、現代もしくは古代レバノン人と現代エジプト人との間に位置しますが、SFI-44はSFI-43よりもレバノン人の近くに位置します。SFI-43とSFI-44は1親等の関係にあるものの、その遺伝的系統は異なるようなので、SFI-44が、SFI-43由来の系統と、本論文のデータセットにおける他の個体群もしくは集団との混合なのかどうか、qpAdm を用いて検証されました。SFI-43はSFI-44と関連する集団の系統から70%と、古代レバノン人関連集団から30%の混合としてモデル化できます。しかし、これらの系統の割合は、家系において1回以上の混合が起きていなかったら、2人の1親等の関係を反映していません。

 そこで、古代エジプト人と古代レバノン人との間の1親等の混合を表す交雑ゲノムが再現され、SFI-44がSFI-43と交雑ゲノムとの間の混合に由来するとモデル化できるのかどうか、検証されました。そのモデルでは、SFI-44は系統の50%をSFI-43から、50%を交雑ゲノムと類似した系統の個体から有している、と示されます。したがって、SFI-43はエジプト女性で、SFI-44はその息子となり、父親はエジプト人とレバノン人両方の系統を有する、と示唆されます。レバノンにおけるこの家族の構造は、当時の集団移動と異質な社会を強調しますが、この文化間混合が一般的だったのか、それとも例外的だったのか理解するには、追加の標本抽出が必要です。SFI-43とSFI-44は、地域的な個体群が各期間を表すよう集団化される以下の分析では除外されています。

 連続した8期間の遺伝的表現により、経時的に連続した2集団がクレードを形成するのかどうか、その系統が共有される祖先集団にすべて由来するのかどうか、もしくはその後の混合が発生し、2集団がその結果としてクレード関係を失ったのかどうか、検証されました。まずf4統計では、本論文のデータセットにおける「古代」と関連した遺伝的変化が、レバノンの連続した2期間で起きた、との結果が得られました。青銅器時代の後、鉄器時代2期の開始において、古代ヨーロッパ人および古代アジア中央部人と関連するユーラシア系統の増加に特徴づけられる、有意な遺伝的変化が明らかになりました。

 この検証では、鉄器時代2期と3期の間の有意な遺伝的違いは観察されなかったので、この2期間の標本群は1集団としてまとめられ、qpAdmを用いて鉄器時代の混合モデルが調べられました。レバノン鉄器時代集団は、在来の青銅器時代集団(63〜88%)と古代アナトリア半島人もしくは古代ヨーロッパ南東部人(12〜37%)の混合としてモデル化できます。また、ヨーロッパ人で典型的に見られる草原地帯的系統が、鉄器時代2期の始まりに近東に出現することも示されました。この外来系統の起源として可能性があるのは、青銅器時代の後、紀元前1200〜紀元前900年頃に地中海東部地域を襲撃した「海の民」です。混合の成功モデルの一つでは、ベイルートから南方に約170kmに位置するアシュケロン(Ashkelon)の鉄器時代1期集団と関連する系統を含んでおり、以前には「海の民」関連の混合に由来するかもしれない、と推測されていました。さらに、古代エジプト考古学では、「海の民」はレヴァントを征服したものの、エジプトの征服には失敗した、とされています。

 鉄器時代におけるレバノンへのユーラシアの遺伝子流動が、古代エジプトに到達したのかどうか、時空間的に草原地帯系統を定量化することで検証され、古代エジプトは、レヴァントが鉄器時代に受けたユーラシア人からの遺伝子流動を受けたか、ユーラシア系統はエジプトでアシュケロンのように置換された、と示唆されます。アシュケロンでは、ベイルートの鉄器時代2期とは対照的に、ヨーロッパ系統がもはや鉄器時代2期集団では有意には見られません(関連記事)。レヴァントとエジプトからのさらなる鉄器時代標本により、鉄器時代の混合が起源集団の位置の結果として北から南への勾配を示すのか、それともこの期間のレヴァントにおける北方もしくは南方への成功した移住の規模の違いに由来するのか、解明されるでしょう。

 古代レバノンにおける第二の遺伝的変化は、ヘレニズム期とローマ前期で観察できます。本論文はこの2期間の個体群を1集団に統合しました。それは、この2期間の個体群の中に放射性炭素年代で重なる個体も存在したことと、f4統計では両期間の集団間で対称性が示されたからです。ヘレニズム期とローマ前期の集団は、在来のベイルート鉄器時代集団(88〜94%)とアジア中央部・南部集団(6〜12%)の混合としてモデル化できます。セット2において古代および現代レバノン人集団間で共有されるハプロタイプ区分の分析では、ヘレニズム期の2人(SFI-5とSFI-12)とローマ前期の1人(SFI-11)は、アジア中央部および南部人と過剰なハプロタイプを共有しており、qpAdmの結果が確認されました。

 古代レバノンとアジア中央部および南部との関係はまた、現代レバノン人のY染色体ハプログループ(YHg)に存在するL1a1(M27)でも現れます。YHg-L1a1は現在アジア中央部および南部では一般的ですが、他地域では稀です。YHg-L1a1である5人のレバノン人の合着年代を検証すると、紀元前450〜紀元後50年頃となる男性1人に由来する、と明らかになり、これはヘレニズム期と重なります。

 ヘレニズム期のレバノンにおけるアジア中央部・南部系統の存在は、アレクサンドロス(マケドニア)帝国支配下の接続された地理を反映しており、それはアレクサンドロス帝国に先行したペルシア帝国(アケメネス朝、ハカーマニシュ朝)も同化し、5世紀にわたって東西間の接続を維持しました。これらの大帝国は、エジプトとレバノンの家族に直接的に見られるように、人々の移動と混合を促進し、本論文では近東における混合個体群が示されます。

 ヘレニズム期およびローマ前期とローマ後期との間の遺伝的変化の検証では、f4統計からはほとんど遺伝的変化が見られませんでした。一方、この時期のローマでは、近東とヨーロッパの間の有意な集団移動が指摘されています(関連記事)。ローマ後期個体群をヘレニズム期およびローマ前期集団と他の古代集団との混合としてモデル化すると、古代アナトリア半島人およびヨーロッパ南東部人を含む成功モデルが見つかります。しかし、この系統はすでに鉄器時代の始まりからレバノンに存在していたので、ローマ後期個体群における在来集団遺骸の要素は、人口構造に起因している可能性があります。とくに、ヘレニズム期およびローマ前期標本群が沿岸地域から得られたのに対して、ローマ後期標本群は遠い山岳地域から得られており、さらに、混合モデルはベイルート鉄器時代集団を在来系統の起源として用いると有意ではないので、ローマ後期個体群は先行する在来集団にその系統の全てが由来する、と示されます。

 ローマ後期から中世にかけて、アフリカ系統の増加が検出されますが、これは統計的有意性をわずかに下回ったままで、アフリカ東部人を混合モデルで用いると、中世レバノン人の系統の2.9%以下を占めます。レバノンで観察された最後の遺伝的変化は十字軍期の後に起きましたが、上述のように、十字軍によるヨーロッパ系と在来集団との混合は永続的な遺伝的影響を残さなかったようで、レバノンの現代人において十字軍系統は検出困難なほど「希釈」されました。

 レバノンの人類集団におけるこの最後の遺伝的変化は、十字軍の影響ではなく中世の後に起き、コーカサスおよびトルコからの集団と関連した系統の増加が明らかになります。混合により起きた連鎖不平衡(複数の遺伝子座の対立遺伝子同士の組み合わせが、それぞれが独立して遺伝された場合の期待値とは有意に異なる現象)崩壊を用いると、この混合はレバノンがオスマン帝国支配下にあった紀元後1640〜1740年頃に起きた、と示されます。連鎖不平衡崩壊検証はまた、ヘレニズム期に起きた有意な混合を検出し、それは本論文で分析された古代個体群からのより直接的な推定と一致します。

 セット2のデータを用いて、古代および現代レバノン人のデータを混合グラフに適合させると、他の古代集団との関係が示されます。グラフは上述の結果を支持し、青銅器時代以降のレバノンにおけるかなりの遺伝的連続性を示します。その間の主要な混合事象は3回で、鉄器時代とヘレニズム期とオスマン帝国期です。それぞれ、3%と11%と5%の外来系統の遺伝的寄与があった、と推定されます。以下、この関係を示した本論文の図3です。

画像
https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S0002929720301555-gr3_lrg.jpg


 本論文は、鉄器時代からローマ期の近東古代人の全ゲノム配列データを新たに提示し、それは主要な歴史事象と集団移動により特徴づけられる期間に及んでいます。本論文のデータは、これらの事象の遺伝的結果を捕捉しますが、一般的集団の遺伝的構成への影響は最小限で、近東における大きな文化的移行は、これらの事例では同等の遺伝的移行とは合致しないことも示します。支配層の交替による文化的変化は大きかったものの、多数を占める非支配層の遺伝的構成には大きな影響が及ばなかった、ということでしょうか。

 本論文で示されたように、時系列から標本抽出された古代集団を用いて検出される小さな遺伝的変化は、利用可能な歴史的記録を補足しており、歴史学においても古代DNA研究の役割はますます大きくなっていくだろう、と予想されます。日本史の研究においても、近いうちに古代DNA研究の成果が頻繁に活用されるようになるかもしれません。そうすると、現代日本人の基本的な遺伝的構成が古墳時代までにほぼ確立したことや、その後の小さいものの明確に検出されるような、地域間の移動も確認されるかもしれません。もっとも、これはあくまでも現時点での私の推測で、じっさいにどうだったのか、日本列島の前近代人を対象とした古代DNA研究が進展するまで断定はできませんが。


参考文献:
Haber M. et al.(2020): A Genetic History of the Near East from an aDNA Time Course Sampling Eight Points in the Past 4,000 Years. The American Journal of Human Genetics, 107, 1, 149–157.
https://doi.org/10.1016/j.ajhg.2020.05.008


https://sicambre.at.webry.info/202006/article_18.html

2. 2020年8月21日 17:16:47 : VumBhQdrYQ : a1FlQUZBTWNFVUE=[23] 報告
雑記帳 2007年07月25日
『イリヤッド』の検証・・・1話〜7話
https://sicambre.at.webry.info/200707/article_26.html


 今後は、作中の伏線・疑問点を中心に、1話から順に検証していくことにします。もっとも、検証の都合上、ずっと後の話にも言及することが多々あります。それぞれの話が単行本のどの巻に収録されているかについては、

http://www5a.biglobe.ne.jp/~hampton/iliad001.htm

を参照してください。

●シュリーマンがトロヤで見つけた壺に書かれていた文字について(1話・5話)
 シュリーマンがアトランティスの手がかりと考えたフェニキア文字についてですが、ハインリヒ=シュリーマンの孫のパウル=シュリーマンによると、「アトランティス王クロノスより」というフェニキア文字の刻まれた梟の壺を、ハインリヒ=シュリーマンはトロヤにて発見したということだ、と入矢は6話にて述べています。

 パウルの手記は1912年にニューヨークアメリカン新聞に掲載されましたが、これは秘密結社を恐れて改竄された与太記事だった、とグレコ神父は79話にて述べていますので、梟の壺の文字の話は怪しいかな、と思います。ただ、パウルの日記を読んだユリは、ハインリヒ=シュリーマンのノートに、「アトランティス王クロノスより」という言葉があったことをパウルが記していた、と53話で述べていますので、この件についてさらに検証を進めていきます。

 作中においては、トロヤは紀元前3000年頃からローマ時代まで続いたとされており(112話)、フェニキア人は紀元前12世紀頃に海上貿易に乗り出し(109話)、フェニキア文字は紀元前15世紀頃には生まれていた(6話)、とされています。アトランティスの滅亡年代は、入矢の発言(121話)と「冥界の王」の生存年代(97話)から推測すると、紀元前2500年頃でしょうから、フェニキア文字の刻まれた梟の壺の文字は、おそらくアトランティス文明の後継者であるタルテッソス文明の時代のものでしょう。

 そうすると、フェニキア文字で「アトランティス王クロノスより」とあるのは不自然に思えますし、そもそも、アトランティス文明やタルテッソス文明の人々が自勢力をどのように呼んでいたのか、作中では明らかにされていません。どうも、トロヤで発掘された梟の壺に「アトランティス王クロノスより」という文字が刻まれていたとすると、不自然な感があるのですが、「彼の島」を指す言葉として、フェニキア人によってアトランティスがわりと古くから用いられていたとすると、ありえない話ではありません。

 色々と悩むところではありますが、この「アトランティス王クロノスより」との記述は、ディオドロス『歴史叢書』の一節と符合しますので(73話)、ディオドロス『歴史叢書』をアトランティス探索の手がかりと考えていたシュリーマンが、『歴史叢書』を参照しつつ解読した成果であり、シュリーマンがトロヤで発見した梟の壺には、「アトランティス王クロノスより」という文字がその通りに刻まれていたわけではない、と考えるほうが自然であるように思われます。

 この他にもシュリーマンはトロヤにおいて、文字らしきものが刻まれていた壺を二つ発見しました(5話)。そのうちの一つには、漢字の「月」と似た文字らしきものが、もう一つには、漢字の「日」と似た文字らしきものが刻まれており、シュリーマンはこの文字が漢字である可能性も考えていました。赤穴博士は、「月」はギリシア文字、「日」はフェニキア文字である可能性を指摘し、どちらも「垣・壁・障壁」という意味だ、と述べました(59話)。

 アトランティス文明の発祥地であり都だったのは、スペイン南西部の、セビーリャを頂点としてティント川とグアダルキヴィル川に挟まれた三角地帯内(場所はこの地図を参照してください)と思われますが、フェニキア人はこの近くの島をガデイラと呼んでいました(120話)。ガデイラとは、壁・障壁・砦という意味です。シュリーマンがトロヤで発見した、「月」・「日」らしき文字の刻まれた壺は、アトランティスの場所の手がかりだった、ということなのでしょう。

●シュリーマンがトロヤで発見した、稚拙な作りの壺について(6〜7話)

 トロヤで発見された壺のなかには、梟の形の稚拙な作りのものがあり、他の壺が精巧な出来なのになぜだろう?と入矢は疑問を呈しています。けっきょく入矢は、梟の壺は大事なものだったので、手で焼いたのだろう、と推測しています(王自ら焼いたかもしれない、とも述べています)。

 グルジアの国立歴史地理学館の館長の推測(116話)が正しければ、トロヤを建国したのはイベリア族であり、アトランティス文明の植民地とまで言ってよいかどうかはともかくとして、アトランティス文明と密接な関係があったのは間違いないでしょう。おそらくトロヤで発掘された壺のなかには、アトランティス文明もしくはその後継者のタルテッソス文明から送られたものもあったのでしょう。またフェニキア文字の刻まれた壺は、広く海洋貿易に乗り出したフェニキア人が献上したものでしょう。もちろん、トロヤで創られたものも多くあったと思われます。

 梟の神とは、元々はネアンデルタール人のことでした(123話)。ネアンデルタール人は現生人類によって文明・知恵の源とされ、神としても崇められるようになったと思われるので、確かに梟の壺はじゅうようなものだったのでしょう。タルテッソス文明は、アトランティス文明からネアンデルタール人の言葉を継承して柱に刻んでいますし(123話)、フェニキア人はソロモン王の命でアトランティス文明について調査していますので(86話)、梟の壺を作った人々は、梟が元々はネアンデルタール人を指していたことを知っていたものと思われます。

 フェニキア人は、ミノア文明から優れた航海技術を吸収して発展したとされていますが(109話)、タルテッソス文明と同じ構造(迷路状)の地下宮殿を築いており(120話)、ミノア文明にも同じく迷路状の構造の建築物があることを入矢は指摘していますから(81話)、ミノア文明も、アトランティス文明の強い影響を受けていたのでしょう。そうすると、フェニキア人はソロモン王の命を受けるずっと前より、梟とネアンデルタール人との関係に気づいていた可能性があります。

https://sicambre.at.webry.info/200707/article_26.html

3. 2020年8月21日 17:18:04 : VumBhQdrYQ : a1FlQUZBTWNFVUE=[24] 報告
雑記帳 2007年08月08日

『イリヤッド』の検証・・・紀元前までの年表の作成
https://sicambre.at.webry.info/200708/article_9.html

 7月25日分の記事で、

http://sicambre.at.webry.info/200707/article_26.html

1話から7話まで検証しましたが、さらに先に進む前に、作中での話の流れをつかんでおくためにも、年表を作成しておこうと思います。もちろん、年代を特定しづらい出来事は多くありますし、考古学・古人類学の研究成果と一致しない場合も出てくるでしょうが、とりあえず、暫定的なものとして作成してみました。

●100000年前?
アフリカ東部、紅海沿岸に現生人類が移住?

●80000年前?
アフリカ東部の現生人類が紅海を渡ってイエメンに移住?
一部の現生人類は、ジブラルタル海峡を渡ってアフリカから欧州に移住し、ネアンデルタール人と遭遇?

●30000年前?
イエメンの現生人類が世界各地に拡散し、その一部はネアンデルタール人と遭遇?
一部の現生人類が洞窟壁画を描く。

●27000年前?
ネアンデルタール人が絶滅?

●紀元前10000〜9000年?
イベリア半島南西部に都市国家成立(アトランティス文明)?

●紀元前8000年?
アトランティス文明で青銅器の使用始まる?

●紀元前6000年?
アトランティス文明で文字の使用始まる?

●紀元前3000年?
イベリア族がアフリカからイベリア半島に移住し、アトランティス文明の影響を受けて、欧州各地に巨石文明を広める?

●紀元前2500年?
アトランティス文明(イベリア半島〜アフリカ北西部)以外で青銅器時代始まる?
アトランティス文明の都である「彼の島」が、アフリカ沿岸で勃興したアマゾネス族に侵略され、地震で沈む?
アトランティス人の生き残りの一部とイベリア族は同化してトゥルドゥリ族となり、地震で残った「彼の島」やその他の土地の上にタルテッソス文明を築く?
アトランティス人の生き残りのなかには、地中海沿岸に移住した者もいる?
アトランティス文明の生き残りの「冥界の王」の一団がカナリア諸島に移住?

●紀元前12世紀頃
ミノア文明から優れた航海術を吸収したフェニキア人が、本格的に海上貿易に乗り出す。

●紀元前10世紀頃?
イスラエル王国のソロモン王が、フェニキア人に命じてアトランティス文明を調査させ、アトランティスにまつわる秘密を3個の真鍮の壺(ソロモンの壺・ソロモンの玉・ソロモンの杯・聖杯)に封印する。

●紀元前9世紀頃
タルテッソスがフェニキア系チレス人との戦いに敗れ、植民地となる。

●紀元前6世紀
フェニキア系チレス人の植民地となっていたタルテッソスが、フェニキア系のカルタゴに滅ぼされる。

●紀元前440年頃
ヘロドトスが『歴史』を執筆し、アトランティスについて、「アトランティス人は動物を食さず、けっして夢を見ない」との一節を書き残す。

●紀元前399年
アトランティスにまつわる真実の隠蔽を目的とする秘密結社「古き告訴人」の策謀により、ソクラテスが死刑となる。

●紀元前4世紀半ば
プラトンが『ティマイオス』と『クリティアス』を執筆し、アトランティスについて触れるが、秘密結社「古き告訴人」を恐れて、虚実織り交ぜてアトランティスの記事を執筆する。

●紀元前3世紀後半
始皇帝が異母兄の呂信に命じ、アトランティスの手がかりである「ソロモンの玉」の一つを、フェニキアの商人より購入させる(玉の中にはアトランティスの場所を示す地図が入っていた)。

●紀元前1世紀
ディオドロスが、著書の『歴史叢書』にてアトランティスについて触れる。
https://sicambre.at.webry.info/200708/article_9.html

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