https://www.rieti.go.jp/jp/publications/nts/18e056.html金融政策の資源再配分効果 執筆者 及川 浩希 (早稲田大学)/上田 晃三 (早稲田大学) 研究プロジェクト 企業成長と産業成長に関するミクロ実証分析 ダウンロード/関連リンク • ディスカッション・ペーパー:18-E-056 [PDF:1.3MB] (英語) このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。 産業・企業生産性向上プログラム(第四期:2016〜2019年度) 「企業成長と産業成長に関するミクロ実証分析」プロジェクト いずれの国の生産主体にも、さまざまな差異がある。質の高い企業と低い企業が共存し、必ずしも市場において淘汰が進むとは限らない。もし質の低い企業から高い企業へのスムーズな資源再配分を促すことができれば、市場全体の効率性を高めることが可能なはずだ。とりわけ日本においては、バブル崩壊後、淘汰されてしかるべき質の低い企業が追い貸しによって市場に残る、いわゆるゾンビ企業問題が長期的停滞の一因として挙げられており、政策的にも重要な論点になっている。ただ、これまでの先行研究では、議論はもっぱら実物経済に寄っており、名目面を通じた影響は分析されてこなかった。本稿では、金融政策等で引き起こされる名目的変化が、資源再配分のチャネルを通じて、実体経済にいかなる影響を及ぼすかを分析し、社会的に望ましい金融政策の在り方を示した。 日本の製造業において企業レベルのデータを観察してみると、企業間の規模の差は、企業物価の投入指数に基づくインフレ率が高い時に、広がることが分かった。また、高インフレの下では企業成長は抑制される傾向にあるが、その影響は企業規模が大きいほど小さいことも観察された。これらの結果は、実需や借入制約等、さまざまな他の要因をコントロールしても維持される。以上の実証結果は、貨幣的なショックが企業間の淘汰や資源再配分に影響することを示唆しており、金融政策を評価するに当たって無視できない要素であることが分かる。 企業間の資源再配分を考慮に入れた形で、望ましい金融政策を導出するための理論的な枠組みは、異質的企業を伴う内生成長のモデルに、ニュー・ケインジアン型の価格硬直性を導入することによって構築した。モデルにおいては、企業は研究開発投資を通じて他企業と市場を奪い合い、成長企業と衰退企業が出てくる構造になっている。この時、研究開発の成果が生み出す利潤は、インフレ率・名目成長率と価格の硬直性の程度に依存する。というのも、価格が硬直的なせいで貨幣的な環境変化への臨機応変な対応ができなければ、利潤獲得の効率は悪くなり、イノベーションを起こそうとするインセンティブ自体を弱めてしまうからである。資源再配分を考える際に大事なのは、そのインセンティブ低下の程度が企業のタイプに依存するところだ。研究開発能力が高く、従来製品と比べて格段の質的向上を生み出せるのならば、それに付随する将来的な利潤も相応に大きいため、価格硬直性からくるロス程度のものを深刻に受け止める必要はない。一方で、新規性に乏しい研究開発成果しか挙げられないような企業は、ちょっとした価格硬直性によるロスでも研究開発投資を躊躇するだろう。その結果、インフレ下で価格硬直性由来のロスが膨らむ時、能力の高い企業が行う研究開発投資の比重が増し、市場におけるシェアを広げるという資源再配分効果が生み出されることになる。 政策的含意として興味深いのは、価格硬直性の下では誰もが同じインフレに直面していても、質の低い企業から高い企業への資源再配分が見込まれる点である。マクロ的で選択性のない金融政策が、選択的な政策効果を持ち、しかもそれが社会的に望ましい形で機能する。このメカニズムが、正の名目成長が社会的に最適になる可能性をもたらし、ゼロ名目成長を最適とする標準的なニュー・ケインジアン・モデルと一線を画す結果となっている。 定量的にどの程度の効果が見込まれるのかについては、理論モデルをデンマークと日本の経済に合わせてパラメーター調整したモデルをシミュレーションすることで明らかにした。図は、日本経済をベースにした結果で、名目成長率(n、横軸)が増した時の実質成長率(g、左軸)と経済厚生(U、右軸)をシミュレーションしたものである。これによると、名目成長率が上がるにつれて実質成長は上がり、その後、ごくゆっくりと低下を始める。一方、経済厚生は最初の上昇局面は似通っているが、その後の低下は比較的早く、1-2%の名目成長が最適という結果になる。従って、1-2%の名目成長トレンドを目標に設定して金融政策を運営するのが社会的に望ましい(本稿のモデルにおける名目成長率は、品質調整を施していない場合のインフレ率に等しい)。 プラスの名目成長が望ましいのは、上述の資源再配分効果が働いているためである。それが一方的に有効であり続けないのにはいくつかの理由があるが、価格硬直性のもたらす非効率性の拡大や、研究開発能力の高い企業が一方で独占力を強めて価格の高騰が生じることなどが主要因である。 図:日本における名目成長率上昇の影響
インフレ/デフレの解析:個別物価のクラスターが重要! https://www.rieti.go.jp/jp/publications/nts/18e055.html 執筆者 吉川 悠一 (新潟大学)/青山 秀明 (ファカルティフェロー)/藤原 義久 (兵庫県立大学)/家富 洋 (新潟大学)/吉川 洋 (ファカルティフェロー) 研究プロジェクト マクロ・プルーデンシャル・ポリシー確立のための経済ネットワークの解析と大規模シミュレーション ダウンロード/関連リンク • ディスカッション・ペーパー:18-E-055 [PDF:9.8MB] (英語) このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。 産業フロンティアプログラム(第四期:2016〜2019年度) 「マクロ・プルーデンシャル・ポリシー確立のための経済ネットワークの解析と大規模シミュレーション」プロジェクト インフレ/デフレとは、個別物価の平均で算出された物価水準の上昇/下降として定義される。従来の経済学では、個別物価同士は独立に振る舞い、共通の外的ショックによって物価水準が上下すると考えられてきた。しかし、現実には企業同士は取引関係などによって強く結びつき、企業間相互作用が個別物価の集団運動の可能性など物価のダイナミクスにも重要な影響を与えている。本論文を含めてこれまで我々が行ってきた一連の研究では、このような多体問題的視点からインフレ/デフレを実証的にもう一度見直すことを目的とした。 解析に用いたデータは、中分類の個別物価指数(輸入、生産、消費)と景気動向指数(先行、一致、遅行)、円ドル為替レート、マネーストック(M2)、ベースマネーなどのマクロ経済変数とを組み合わせた多変数月次データ(1985年1月から2016年12月までの期間)である。これまでに、日本の個別物価データに複素ヒルベルト主成分分析(CHPCA)法を適用することにより、物価変動を駆動する2つの外的ショック(一方は為替変動、他方は景気変動)の存在を確認した。しかし、上流から下流に向かって伝播する国内個別物価の変動の様相は、それらのショック源とは無関係に普遍的である。この事実は、個別物価同士の相互作用に基づく集団運動の存在を強く示唆する。 図1に示すように、CHPCAで得られた個別物価間のリード・ラグ関係を使って個別物価を上流から下流(それぞれの図(上の図が物価下降、下の図が物価上昇)の上から下)へ並べ直すと、大きな経済ショックによって誘発された物価の集団運動が眼前に浮かび上がる。この図1では各物価の月次変動率の大小が円の大きさで表現されている。(例えば、1990年代前半に上の図の下方で比較的大きな円が多数見られるが、これはバブル期後半の下流における物価上昇の大きさを示している。)そのように再整列された正方格子上の個別物価データに対してパーコレーション解析法(臨界点近傍となるように物価間の結合パラメーターを調整)を適用することにより、物価上昇/下降のクラスターを任意性無く同定することができる。その結果が図2である。パーコレーション転移近傍では、さまざまなスケールのゆらぎがべき的に分布し、目視によるクラスター認識を裏付ける結果が得られる。バブル期における大規模インフレ、「失われた10年」期における川下デフレ、リーマンショックによる突然のインフレからデフレへの転移、アベノミクスによる円安起因のインフレなどを図2から見て取ることができる。 アベノミクスの第1番目の矢である大胆な金融政策が始まり、すでに5年余の時が経過した。図2は、確かにアベノミクスが物価上昇のクラスターを誘発したことを示している。しかし、その川下への波及は息切れしているとともに、物価上昇クラスターの背後に物価下降クラスターが迫っていることも同時に示している。科学の科学たる所以は、観測データに基づく現象の客観化である。我々は、最新の数理解析手法に立脚した冷徹な目をもって個別物価データと正対することにより、データの中に隠れた個別物価の集団的振る舞いを抽出し、個別物価が相互に連関していることを明らかにした。異次元の金融緩和政策の有効性について、本研究で得られたような科学的分析結果を基盤とするエビデンスベースの議論が早急に望まれる。 図1:個別物価の上昇(上段)および下降(下段)の川上から川下への波及の様子 [ 図を拡大 ]図2:図1における物価上昇(青)/下降(赤)クラスターの抽出結果 [ 図を拡大 ]
http://www.nri.com/jp/info/2018/180828_1.aspx 「家計金融資産とマクロ経済に関する研究会」の報告書を公表 2018年08月28日 株式会社野村総合研究所 印刷用ページPDFを別ウィンドウで開きます316KBメールを送りますお問い合わせ 株式会社野村総合研究所(以下NRI)は、2017年11月より、マクロ経済や財政問題を主な専門とする有識者をメンバーとした「家計金融資産とマクロ経済に関する研究会」※(以下、「本研究会」)を立ち上げ、議論を進めてきました。この度、議論の成果を報告書にとりまとめ、公表いたします。
報告書はこちらPDFを別ウィンドウで開きます 主な内容 第1章はじめに 研究会設置の背景 第2章家計金融資産の現状と将来展望 ・日本の家計金融資産の現状と将来展望(1,800兆円の行方) 第3章 「貯蓄から投資へ」の国民経済的意義 ・家計部門、金融仲介部門、企業部門にとっての意義 第4章なぜ日本では「貯蓄から投資へ」が進まなかったのか ・「貯蓄から投資へ」を促すための政策・制度の変遷と現状 ・日本で定着しなかった理由(住宅資産の存在・金融制度や雇用慣行の影響) ・求められる政策対応の方向性 第5章総括 報告書の主な結論 家計金融資産において、「貯蓄から投資へ(資産形成へ)」を進めることは、家計部門の所得形成の充実をはかる観点から重要。特に、国際分散投資を促進することで、グローバルな経済成長の果実を日本の家計に還元させる効果が期待できる。また、過度な預金流入を抑制することで、銀行システム全体の適正化にも寄与しうる。 一方で、日本の社会的・制度的背景を長期的に振り返ると、家計が預貯金を中心として金融資産を保有することは一定の合理性を伴う選択だった。換言すると、現在の、預貯金を中心とした金融資産選択の意思決定は、戦後、長い時間をかけて根付いてきた「生活習慣」のようなものであり、簡単には是正できない性質の問題であるといえる。 こうした「生活習慣」を克服していくためには、これまでの延長線にはない視点に立った政策対応を考えていく必要がある。具体的には以下の方向性が考えられる。 @NISAなどの関連制度を「ふるさと納税」並みにわかりやすく簡素化し、普及を促進する A金融リテラシーの底上げを図り、投資による資産形成への理解を促す B「貯蓄から投資へ」が目指すあるべき姿を定量的な政策目標として示し、施策の評価につなげる NRIではこれからも、本研究会で提示された内容を踏まえ、家計金融資産を起点に、より良い経済・社会の実現に資する調査研究および政策提言活動を続けていきます。 ご参考 研究会のメンバー(五十音順) 祝迫 得夫 氏 一橋大学 経済研究所 教授 宇南山 卓 氏 一橋大学 経済研究所 准教授 江口 允崇 氏 駒澤大学 経済学部 准教授 チャールズ・ユウジ・ホリオカ 氏 アジア成長研究所 副所長 中里 透 氏 上智大学 経済学部 准教授 野村 亜紀子 氏 野村資本市場研究所 研究部長 (事務局) 金子 久 野村総合研究所 上級研究員 竹端 克利 野村総合研究所 上級研究員 石川 純子 野村総合研究所 主任研究員 (注)所属・役職は2017年11月研究会発足当時のもの ※本研究会の趣旨については、以下のニュースリリースをご覧下さい(2017年11月9日発表)。 http://www.nri.com/jp/news/2017/171109_1.aspx 本研究会に関するお問い合わせ 株式会社野村総合研究所 金融ITイノベーション事業本部 金子、竹端 TEL:03-5877-7465(金融ITイノベーション研究部) E-mail:hfa@nri.co.jp(研究会事務局) http://www.nri.com/~/media/PDF/jp/info/2018/180828_2.pdf https://synodos.jp/economy/21965 2018.08.27 Mon 金融政策決定会合の「総括的検証」――物価はなぜ上がらないのか part2 中里透 / マクロ経済学・財政運営 7月30、31の両日に開催された金融政策決定会合での議論を経て、日本銀行は金融政策の変更を決定した。今回の決定は新聞などで大きく報じられたが、その趣旨については見方がかなり分かれているようだ。そこで、本稿では今回の金融政策決定会合の「総括的検証」を行うとともに、5年半にわたる異次元緩和の来し方行く末について考えてみることとしたい。本稿の主たるメッセージは (1)日本銀行の現行の金融政策の枠組み(長短金利操作付き量的・質的金融緩和政策)は、その名称とは裏腹に、市場に供給する資金量をコントロールする「量的緩和政策」とはなっていない。金融政策の運営はすでに金利を操作対象とする枠組みに移行しており、「日銀はどんどんお札を刷って、際限なくおカネをばらまいている」という異次元緩和のイメージは大きく修正される必要がある。 (2)今回の政策変更の主たる目的は、「円債村の過疎対策」(国債市場における市場機能の回復)にある。「過疎対策」の具体的な内容は、「ゼロ%程度」で推移させることとしている長期金利(10年物国債利回り)の変動幅を倍増させる(プラスマイナス0.1%程度から0.2%程度へ)というものだ。 (3)円債村(国債市場)の過疎化が進展したのは、マイナス金利の導入(2016年2月)とイールドカーブ・コントロール(長短金利を一定の水準に誘導する金融政策の枠組み)の導入(16年9月)の影響によるところが大きい。今回の政策変更は、このうち後者について枠組みの微調整を行うものである(併せて、前者についても「実務的な対応」として微調整が行われることとなった)。 (4)イールドカーブ・コントロール(長短金利操作)の導入は、長期のゾーンにおけるマイナス金利の発生で水没しかかっていた円債村を救うための措置であったが、長期金利の変動幅を狭く抑えすぎたために過疎化がさらに進展してしまった。この点を踏まえてなされた今回の見直し(長期金利の変動幅の倍増)が過疎対策としてどの程度の効果を発揮するかについては、いましばらく慎重な見極めが必要となる。 (5)今回の措置は「ゼロ%程度」で推移させることとしている長期金利の上方への水準訂正に道を開くものであり、今後の運営のいかんによっては金融機関の収益の下支えに資するものとなるかもしれない。 (6)リーマンショック後、一貫して下落が続いている家賃(持家の帰属家賃を含む)のことを考慮すると、2%の物価安定目標の達成には大きな困難が伴う。一方、2014年の春には消費者物価の上昇率が1%台半ばに到達したという実績がある。物価が上がりにくい状況を生じさせている構造的な要因の分析も重要だが、2%の物価安定目標と金融政策の運営スタンスの間の距離感、間合いをどのようにとるかを改めて考えることが必要だ。 というものだ。以下、これらの点について順をおって説明していくこととしよう。 1.円債村の過疎対策:国債市場の機能低下への対応 今回の政策変更のポイント 現在、日本銀行は「長短金利操作付き量的・質的金融緩和政策」という枠組みのもとで金融政策の運営を行っている。だが、その名称から受ける印象とは裏腹に、この枠組みは市場に供給している資金量を操作対象(操作目標)とする「量的緩和政策」とはなっていない。実際、「80兆円をめど」に買入れることとされている長期国債の買入れ額は大きく減少して、足元では40兆円台で推移している(図表1)。 図表1 長期国債の買入れ(保有残高の増加額)の推移 (資料出所)日本銀行の資料より作成 すなわち、現行の金融政策は、すでに金利を操作対象とする枠組みに転換しており、「長短金利操作」のほうがその枠組みの中心となっている。具体的には、民間金融機関が日本銀行に預入している準備預金(日銀当座預金)の一部にマイナスの金利(▲0.1%)を付すとともに、長期金利(10年物国債利回り)を「ゼロ%程度」で推移させることによって、短期(翌日物)から超長期(40年債)に至る金利体系全般に影響を与える操作(イールドカーブ・コントロール)が、現行の金融政策の基本的枠組みということになる。今回の政策変更のポイントは、このうち「ゼロ%程度」で推移させることとしている長期金利について、その変動幅を上下0.1%程度から0.2%程度に拡大させるというものだ。 国債市場における市場機能の回復 それではなぜこのような措置が必要になったのかといえば、国債市場の機能低下という問題がその背景にある。マイナス金利政策の導入が決定される前の時点(16年1月)でも長期金利はすでに0.2%台まで低下していたが、導入後は一段と金利が低下して一時はマイナス金利が続く局面もみられた(図表2)。このため、国債の金融商品としての魅力は大きく低下した。 図表2 長期金利の推移 (資料出所)財務省「国債金利情報」より作成 イールドカーブ・コントロール(長短金利操作)は、マイナス圏に落ち込んだ長期金利をプラスの水準に引き上げる意図をもって導入されたものであるが、実際の運営においては長期金利の変動幅が狭い範囲に抑えられたため、国債市場の機能低下がさらに進んでしまった。もし仮に日経平均株価が2万2千円ちょうどで推移するように、日々の株価がコントロールされていたとしたら、はたして積極的に株を売り買いする気になるかということを想起すれば、この事情は容易に理解されよう。 このような市場機能の低下は閑散とした取引とそれに伴う人員配置の縮小というかたちで立ち現れる。 「多様な見方をする市場参加者が存在するという意味での市場の厚みは、大きく損なわれている」 「各社とも円債の部署に人材を投入しなくなっている」 「先行きにわたって収益環境が改善する見通しを持てず、若い人材の採用や育成にコストをかけ難い環境となっている」 国債取引の現場からはこのような悲痛な声が聞かれるようになっていた(以上のコメントは債券市場参加者会合(日本銀行)の第7回議事要旨より引用)。 マイナス金利政策の導入によって金利水準の全般的な低下が生じ、一時は10年超のゾーンまでマイナス金利の余波が広がっていた円債村(国債市場)は、長短金利操作の導入によって水没の危機は免れることができた。だが、長短金利操作における金利の変動幅が狭い範囲に抑えられたため、今度は金利の変動を通じた収益機会の喪失が村を襲い、過疎化がなお一層進展しかねない状況となっていた。 こうした中でとられた今回の措置(長期金利の変動幅の倍増)は、このような円債村の窮状を憂慮した日本銀行による過疎対策と理解することができる。もっとも、このような対応がとられたもとでも、長期金利の誘導水準自体は「ゼロ%程度」のままであり、これによって国債という金融商品の魅力が大きくアップするというわけではない。この点を踏まえると、今回の措置が過疎対策としてどの程度の有効性を発揮するかは、しばらく推移をながめてからでないと判断できないというのが現状ということになる(直近20営業日の経過をみる限り、長期金利は0.1%近辺 の狭いレンジで推移しており、大きな変化はみられない)。 2.「倍」は地銀を救う?:金融機関の収益環境に対する配慮 マイナス金利が金融機関に与える影響 マイナス金利政策の導入で苦境に立たされたのは債券市場の関係者にとどまらない。国債への投資を安定的な収益源としてきた機関投資家(生命保険会社・年金基金など)や、資金利益(貸出などの資金運用から得られる利益)に収益の多くを依存している銀行も、マイナス金利の影響を受けてさまざまな対応を迫られていた。とりわけ、地域金融機関(地方銀行・第二地方銀行・信用金庫など)は手数料収入などから得られる利益(非資金利益)の確保が十分にできていないことから、マイナス金利の影響をより大きく受けることとなる。 極めて緩和的な金融環境が継続するもとで、資金利鞘(資金の運用利回りと調達利回りの差)は以前から縮小が続いていたが、マイナス金利の導入はそれに拍車をかける結果となった。2016年の春頃から貸家業(個人)向けの貸出が大幅に増加するなど(図表3)、マイナス金利の影響とみられる変化も生じたが(ただし、貸家の供給増については15年に実施された相続税の強化の影響も大きいとみられる)、このような変化をマイナス金利政策の効果としてどの程度高く評価するかについてはさまざまな見方があり得るだろう。 図表3 貸家業(個人)に対する貸出の状況(国内銀行・銀行勘定) (資料出所)日本銀行の資料より作成 長短金利操作の導入 長短金利操作の導入によって長期金利の誘導水準が「ゼロ%程度」とされたのは、金融政策の引き締め方向への政策転換と受けとめられることを回避しつつ、長期金利を小幅なプラスの水準にもっていくための工夫であった。すなわち、長短金利操作の枠組みは、マイナス金利政策の軌道修正を図るために採られた措置ということになる。このような対応が可能となった背景には、長短金利操作の導入を機に長期国債の買入れ(保有残高の増加額)に関する数値目標が外れ、資金供給量を弾力的に変化させることができるようになったということがある。 このことを踏まえて今回の措置の意味を考えると、「ゼロ%程度」で推移させるとしている長期金利の変動幅を2倍に拡大させる(プラスマイナス0.1%程度から0.2%程度へ)という変更を行うことについては、小幅ながらも長期金利の上方への水準訂正を行ういう意図があるとみるのが自然な話ということになるだろう。すなわち、この措置は、資金利鞘の縮小に伴う資金利益の減少によって十分な収益の確保が困難になっていくおそれのある地域金融機関などを念頭に、収益環境の改善につながる一定の配慮を行ったものということができる(ただし、0.1%程度の引き上げにとどまることから、収益の改善に対する寄与は限定的である)。 今回の政策変更では日銀当座預金のうちマイナスの付利(▲0.1%)を行っている部分(政策金利残高)について、「長短金利操作の実現に支障がない範囲で、現在の水準(平均して10兆円程度)から減少させる」ことが併せて決定された。この措置も、金融機関の収益に対するマイナスの影響を低減させることにつながる措置と理解される。 3.名ばかり「フォワードガイダンス」:「時間軸政策」の復活と不明確な「約束」 今回の政策変更では上記の措置と併せてフォワードガイダンスの導入が決定された。フォワードガイダンスは、中央銀行が将来の金融政策の運営スタンス(政策金利の水準など)について現時点であらかじめ「約束」(コミットメント)をすることにより、現時点における長めの金利(10年物国債利回りなど)に影響を及ぼすことを主眼とする金融政策の枠組みのことである。 このような政策枠組みの採用が可能となる背景には、ある年限(満期)の金利が、現在からその年限までの各時点における短期金利の水準に依存するかたちで決定されるというメカニズムの存在がある。たとえば、向こう3年間にわたって中央銀行が政策金利(短期金利)を0%程度で推移させるという約束を行い、この約束が市場参加者から十分な信頼(信認)を獲得することができれば、現時点における3年物の金利はほぼ0%で推移することとなる。 新聞報道などでは、今回の措置が「ECB(欧州中央銀行)の例に倣って新たに導入されたもの」といった解説がなされることがあるが、フォワードガイダンスの元祖は1999年に日本銀行が導入した「時間軸政策」にある。「デフレ懸念の払拭ということが展望できるような情勢になるまでは、市場の機能に配慮しつつ、無担保コール・オーバーナイトレートを事実上ゼロ%で推移させ、そのために必要な流動性を供給していく現在の政策を続けていく」(99年4月13日の速水総裁記者会見)という意思表明は、フォワードガイダンスの原型にほかならない。 もっとも、99年時点の約束では、ゼロ金利政策の継続期間が「デフレ懸念の払拭ということが展望できるような情勢になるまでは」と曖昧なかたちで記述されており、その意味ではフォワードガイダンスとして極めて不完全なものとなっていた。そして、同様のことは今回の措置についても当てはまる。今回の政策決定に関する公表文には、「日本銀行は、2019年10月に予定されている消費税率引き上げの影響を含めた経済・物価の不確実性を踏まえ、当分の間、現在の極めて低い長短金利の水準を維持することを想定している」とあるが、現行政策の継続期間については「当分の間」とあるだけで、物価上昇率など具体的な経済指標との明確な結びつけがなされていない。 今回の政策決定においてフォワードガイダンス(時間軸政策)が導入されたことについては、これを金融緩和の強化と見る向きもあるが、今回の約束の内容は極めてあいまいなものである。この措置は、長短金利操作における「ゼロ%程度」の変動幅を倍増させたことが金融引き締めの動きと受けとめられないよう、修辞的な工夫によって外形を整えるべく導入されたものとみるほうが妥当である。【次ページにつづく】 4.もはや「量的緩和」ではない:異次元緩和の過去と現在 ここまでみてきたことをまとめると、今回の措置は、マイナス金利政策の導入によって生じた歪みを補正するために導入された長短金利操作の枠組みについて、長期金利の変動幅を拡大させるなどの措置を講じることにより、国債市場における市場機能の回復と金融機関の収益改善を図ったものということになる。基本的な枠組みが不変であるもとでの部分的な手直しであるにもかかわらず、今回の措置が大きく報じられた背景には、16年9月に導入された長短金利操作が量的・質的金融緩和の枠組みからの大転換であったことが、一般に広く認識されていなかったことがあるかもしれない。 量的・質的緩和からマイナス金利までの状況 2013年4月に量的・質的緩和政策がスタートした時点での金融政策の枠組みは、資金量を操作対象(操作目標)とするシンプルでわかりやすいものであった。すなわちそれは、市場に出回っている資金量(マネタリーベース)を年間約60〜70兆円に相当するペースで増加させることを基本とするものであり、この資金量の増加に見合う分だけ国債などの資産を市場から買い入れることが、異次元緩和の当初の枠組みの中心をなしていた。 14年10月の追加緩和はこの枠組みのもとで、市場に供給する資金量を拡大させる措置(マネタリーベースの増加額を年間80兆円に拡大させることなど)を講じたものであり、追加緩和後の金融政策の枠組みは、いわば量的・質的緩和の拡大コピーといえるものであった。16年2月に導入されたマイナス金利政策は、量的・質的金融緩和の枠組みに、金利を操作対象とする枠組みを付加する大きな政策変更であったが、マネタリーベースの増加と国債の買入れに関する量的緩和の約束(コミットメント)は引き続き維持された。 長短金利操作導入後の状況 これに対し、16年9月に導入された金融政策の枠組み(長短金利操作付き量的・質的金融緩和政策)では、資金供給量に関する量的な操作目標が撤廃され、金融政策の運営の枠組みは金利を操作対象(操作目標)とするものに完全に移行した。国債の買入れ額については「概ね現状程度の買入れペース(保有残高の増加額年間約80兆円)をめどとしつつ、金利操作方針を実現するよう運営する」とされており、「年間約80兆円」という表現は残っているものの、これはあくまで「めど」に過ぎない。 実際、足元では国債の買入れ額のペースは大幅に鈍化して年間40兆円台まで減っている(前掲図表1)。これを受けて日本銀行が市場に供給している資金量(マネタリーベース)の増加のペースも大幅に鈍化しており、月次でみると前月よりも減少する月もみられるようになった(図表4)。 図表4 マネタリーベースの推移 (資料出所)日本銀行の資料より作成 このように資金供給量は引き続き増加基調で推移しているものの、その増加のペースは大幅に鈍化しており、しかも資金量を操作対象とする金融政策の枠組み(量的緩和政策)はもはや過去のものとなりつつある。「日銀はどんどんお札を刷って、際限なくおカネをばらまいてる」という異次元緩和のイメージは、この意味において大きく修正される必要がある。今回の決定を「大規模緩和の転換点」というかたちでとらえる向きもあるが、今回の決定前にすでに大転換が生じていたということに留意が必要だ。 5.物価はなぜ上がらないのか?:消費増税の影響と家賃という「岩盤」 今回の金融政策決定会合では最近の物価動向についても詳細な点検がなされた。最近の物価動向をめぐる議論については前稿(「物価はなぜ上がらないのか」2018年7月23日公表)で詳述したが、金融政策決定会合においてなされた議論も踏まえ、ここで改めてまとめておくこととしよう。 消費増税などのショックが物価に与える影響 7月31日に公表された「展望レポート」(日本銀行)では物価が上がりにくい理由として、(1)賃上げに対する企業のスタンスが依然として慎重であること、(2)値上げに対する家計の許容度が十分に高まっていないこと、(3)こうしたもとで、企業の価格設定のスタンスが引き続き慎重であること、(4)分野によっては競争環境が厳しさを増しているために、価格を押し下げる圧力が働いていることがあげられている。 これらはいずれも重要な指摘であるが、この5年半を見渡した場合、物価はつねに弱い動きが続いてきたというわけではないことに留意が必要である。消費者物価上昇率(対前年同月比)は、2014年の春には消費増税の影響を調整してもなお1%台半ばに達する局面があったわけであり(図表5)、このことを踏まえると、物価上昇のモメンタム(勢い)がなぜ途中で途切れてしまったのかということについても、併せて検討することが必要となる。 図表5 消費者物価指数(消費税調整済)の推移 (資料出所)総務省「消費者物価指数」より作成 この点に関しては原油価格の下落の影響がよくとりあげられるが、物価上昇率の上げ幅の縮小はガソリン価格の高騰が続いていた14年6月の時点ですでに生じていたことを踏まえると、14年4月の消費税率引き上げの影響、すなわち、増税に伴う実質所得の低下と反動減によって消費が落ち込み、景気が減速したことの影響を併せて考慮することが必要となる。 この5年半の賃金の動向についてみると(図表6)、名目賃金はボーナスの支給時期のずれなどによる振れを伴いながらも、基調的には緩やかな増加を続けてきた。これに対し、実質賃金は13年の夏から14年の春にかけて大幅に低下し、その後は振れを伴いつつも、17年の秋まではほぼ横ばいで推移してきた。所得環境をめぐるこのような動きは実質可処分所得の推移についてもみてとることができる(図表7)。 図表6 名目賃金と実質賃金の推移 (資料出所)厚生労働省「毎月勤労統計」より作成 図表7 実質所得と実質消費の推移 (資料出所)総務省「家計調査」より作成 こうした中、実質消費については、14年4月を起点に下方への大幅な水準訂正が生じ、その後も長い期間にわたって停滞が続いた。国民経済計算(内閣府)や消費活動指数(日本銀行)によってマクロの消費動向をみても、14年4月の消費増税後、17年の年央まで消費の十分な回復がみられなかったことが確認できる。こうしたもとで、企業の価格設定行動が慎重化し、値下げの動きも広がって、物価が上がりにくい状況が生じたことになる。 このような物価をとりまく状況を模式的に表すと、「売り上げが大幅に増える見込みがないので、賃上げに慎重」、「十分な賃上げが期待できないので、消費態度が積極化しない」、「消費が増えないので、売り上げが増えない」という構図があって、そこに天候不順による生鮮食品の上昇、ガソリン価格の高騰、消費税率の引き上げといったショックが加わると、いったんは物価が上がるものの、その後はむしろ物価の弱い動きが広がることとなる。すなわち、コストプッシュで物価が上がると、実質所得の低下が生じて家計の節約志向が高まり、それに伴う消費の減退に対応するために企業の価格設定行動が慎重化する結果、物価に下押しの圧力が加わることになる。 今回の金融政策決定会合の公表文では「2019年10月に予定されている消費税率引き上げの影響を含めた経済・物価の不確実性を踏まえ、当分の間、現在の極めて低い長短金利の水準を維持する」というかたちで19年10月の消費増税が不確実性として明示されているが、前回の消費税率引き上げ時の経験を踏まえれば、このような取り扱いは適切な判断といえるだろう。 家賃という「岩盤」の存在 この5年半の物価動向についてみると(前掲図表5)、消費者物価指数としてどのような範囲の財・サービスを対象とする指数を採用するかによっても物価の推移が異なったものとなることがわかる。このうち、「持家の帰属家賃を除く総合」については上昇率(対前年同月比)が2014年3月から5月にかけて2%に到達しており、最近時点(18年1・2月)についても2%近くまで上昇する局面がみられた。これに対し、コア(生鮮食品を除く総合)やコアコア(食品及びエネルギーを除く総合)では2%への到達がなかなか見込みにくい状況が続いてきた。 この背景には、リーマンショックの直後の時期(08年10月)を起点に家賃(持家の帰属家賃を含む)の下落が続いてきたという現実がある。家賃は消費者物価指数の構成項目の中で全体の2割近く(1万分の1782)を占めており、こうしたもとでヘッドライン(総合)あるいはコア(生鮮食品を除く総合)でみて2%の物価上昇を目指すとなると、家賃以外の部分で2%台半ばあるいはそれを上回る物価上昇が生じる必要があるということになる。 だが、最近の物価動向の跛行性を踏まえると(図表8)、家賃以外の品目の物価が2%台半ばの水準で推移する場合には、食料や日用品など普段の買い物の際に感じる「体感物価」は3%を大きく上回って推移する可能性があり、賃金の伸びが十分に期待できない中で、このような物価上昇が家計の許容するところとなるかということが懸念される。 図表8 消費者物価指数(購入頻度別)の推移 (資料出所)総務省「消費者物価指数」より作成 物価が上がりにくい理由として「根強いデフレマインド」の存在がしばしば強調されるためか、物価については長期にわたってデフレ脱却だけが課題とされてきたような印象をもたれることが多いが、07年から08年にかけては資源価格の高騰を起点とする物価上昇が大きな政治課題となったことも思い起こす必要がある。 08年8月に策定された経済対策(「安心実現のための緊急総合対策」)では「原油・食料価格等の急激な上昇に伴う国民の生活への不安」への対応が重要な課題としてもりこまれた。当時はコアコア(食品及びエネルギーを除く総合)の上昇率(対前年同月比)がほぼ0%で推移する中、食料は2%ないし3%程度の上昇、エネルギー関連品目は10%を上回る上昇が生じており、こうしたもと、「体感物価」の上昇に対する不満の高まりに押されるかたちで政府による緊急の対応が求められることとなった。 ここまで顕著なかたちではなかったが、14年の春には円安に伴う輸入物価(原材料などの値上がり)に、ガソリン価格の高騰と消費増税による税込価格の上昇が加わって、物価が大幅に上昇したため、食品・日用品の値上がりが大きな話題となった。 このような経過を踏まえると、長期にわたって下落が続いている家賃という「岩盤」があるもとで、コア(生鮮食品を除く総合)を対象に2%の物価安定目標を達成することについては、政治的な側面からも大きな制約が存在するということになる。 6.金融政策の今後の道行きについて ここまでみてきたように、今回の政策変更は、16年9月になされた大きな政策転換(量的緩和から金利操作への移行)の微調整と理解されるが、政策枠組みのさらなる調整につながる新たな要素もある。そこで、金融政策の今後の道行きについてここで簡単に展望しておくこととしよう。 極めて緩やかな「約束」ではあるが、今回の政策変更においてはフォワード・ガイダンス(時間軸政策)が導入された。長短金利操作に基づく長期金利のコントロールには市場機能の低下などの弊害があることを踏まえると、長期金利の直接的なコントロールを、時間軸政策を通じた調節に置き換えるということが、今後の金融政策の運営におけるひとつの方向性としてあり得よう。もちろん、その際には、時間軸方向の約束(コミットメント)が明確なものとなるよう、時間軸政策の解除条件を物価上昇率の具体的な数値と明確に結びつけることが必要となる。 2%の物価安定目標については、今年4月の「展望レポート」において達成時期の記述が削除され、中長期的な目標への事実上の移行が進展しつつあるが、その分だけ金融政策の運営における物価安定目標の位置づけが不明確なものとなってしまった。現行の金融政策の運営においては、長短金利操作とマネタリーベースのそれぞれについて、2%の物価安定目標との関連付けがなされているが、前者については長短金利操作の継続期間が「(2%の物価安定目標を)安定的に持続するために必要な時点まで」となっており、約束は極めてあいまいなかたちでしかなされていない。 後者については「消費者物価指数(除く生鮮食品)の前年比上昇率の実績値が安定的に2%を超えるまで」というかたちで継続期間については約束の明確化が図られているものの、具体的な運営方法については「マネタリーベースの拡大方針を継続する」と極めてあいまいな書き方になっている(しかも、第4節で説明したように、マネタリーベースはすでに操作対象ではなくなっている)。この点からも時間軸政策におけるコミットメントの明確化が重要ということになる。 物価安定目標の達成をめぐっては、今後もさまざまな紆余曲折が予想され、景気の先行きについても不透明感が高まっていく可能性があるが、デフレへの逆戻りが生じることのないよう、引き続き金融政策の安定的な運営に努めていくことが望まれる。 知のネットワーク – S Y N O D O S – 中里透(なかざと・とおる) マクロ経済学・財政運営 1965年生まれ。1988年東京大学経済学部卒業。日本開発銀行(現日本政策投資銀行)設備投資研究所、東京大学経済学部助手を経て、現在、上智大学経済学部准教授、一橋大学国際・公共政策大学院客員准教授。専門はマクロ経済学・財政運営。最近は消費増税後の消費動向などについて分析を行っている。最近の論文に「デフレ脱却と財政健全化」(原田泰・齊藤誠編『徹底分析 アベノミクス』所収)、「出生率の決定要因 都道府県別データによる分析」(『日本経済研究』第75号、日本経済研究センター)など。
https://synodos.jp/economy/21850 2018.07.23 Mon 物価はなぜ上がらないのか?――「アマゾン効果」と「基調的な物価」のあいだ 中里透 / マクロ経済学・財政運営 このところ、「物価が上がらないのはネット通販のせい?」という話が注目を集めている。この議論は、6月18日に日本銀行から公表されたレポートを機に盛り上がりをみせているが、足元の物価の弱い動きをめぐる議論とも連動するかたちで、引き続き話題となっていきそうだ。こうしたなか、7月30〜31日に開催される金融政策決定会合(日本銀行)では、物価に関する集中点検がなされることとなっている。そこで、本稿ではこれまでの物価動向を振り返りつつ、この議論に関する簡単な論点整理を試みることとしたい。 本稿の主たるメッセージは、 (1)ネット通販の拡大による「アマゾン効果」が物価を下押しする要因となっているとしても、その影響は限定的なものにとどまる。物価全体の基調的な動きについては、物価動向を規定する基本的な要因を重視して、その推移を注視していくことが必要である。 (2)家電製品については、2012年以前の方が価格低下が際立っており、13年以降はむしろ下げ止まりの動きがみられる(ただし、以前ほどではないが16年以降はふたたび低下が生じている)。このことは、ネット通販が大きく拡大する前にも既存の家電量販店の間で激しい価格競争があったことを示唆するものだ。アマゾン効果だけを強調して、足元の物価の動きを説明することには慎重さが求められる。 (3)ネット通販の拡大がみられる衣料と文房具については、最近時点においてむしろ価格上昇がみられる。この点から、ネット通販の拡大による価格低下圧力以外の要因が、物価の動きに影響を与えている可能性が示唆される。 (4)ネット通販の拡大が物価に与える影響については、17年の年央以降に生じている宅配便の運賃(送料)値上げの影響を併せて考慮する必要がある。 というものだ。以下ではこれらの点について、順をおってみていくこととしよう。 1.物価動向における「アマゾン効果」 日本の家計消費支出に占める、インターネット経由の消費(ネットショッピング)の割合は3%程度にとどまっている。だが、利用金額は年々増加しており、その傾向は一段と勢いを増している。こうしたなか、6月18日に日本銀行から公表されたレポート(河田・平野[2018])では、インターネット通販の拡大が物価動向に与える影響について興味深い分析結果が示されている(河田皓史・平野竜一郎「インターネット通販の拡大が物価に与える影響」『日銀レビュー』2018-J-5)。 ネット通販は、実店舗を持たないことによるコストの抑制などを通じて、実店舗を持つ既存の小売企業との競争において価格面での優位性を確保し得る。このようなネット通販の拡大は、競合する商品を販売している企業の価格設定行動に影響を与え、商品の販売価格を引き下げる方向への競争圧力を強めるものと予想される。 また、ネット通販の取扱量の拡大は、配送センターの新設などを通じた物流網の整備を通じて、輸送距離の短縮化による輸送コストの低減にも寄与することになる。この点においても、ネット通販のコスト面での優位性を高める方向に作用することになる。 河田・平野論文では、「アマゾン効果(Amazon Effect)」と呼ばれるこのような効果に注目し、日本においても、ネット通販の拡大が物価の下押し圧力を強める方向に作用してきた可能性があることを、実証分析によって明らかにしている。 河田・平野論文から得られる示唆は、ネット通販の拡大が消費者物価指数(生鮮食品とエネルギーを除く総合)を0.1〜0.2ポイント下押ししている可能性があるというものだ。この知見は、2%の物価安定目標の達成を後ずれさせる要因のひとつとして、アマゾン効果を考慮する必要があることを示唆するものである。 だが、ここで留意が必要なのは、最近時点についても物価は一様に下落してきたわけではなく、2014年春にはコア(生鮮食品を除く総合)でみて対前年同月比1%台半ばの上昇率に達する局面もあったということだ(図表1)。すなわち、物価はアマゾン効果以外の要因からも強い影響を受けるかたちで推移してきたということになる。 図表1 消費者物価指数の推移(消費税調整済) (資料出所)総務省「消費者物価指数」より作成 この点を踏まえると、河田・平野論文から得られる知見は、足元の物価の弱い動きをめぐる議論とはきちんと分けて理解されるべきものということになる。だが、残念なことに結論がひとり歩きして、「デフレの正体」はネット通販にあるというような受けとめ方をする向きもある。だが、はたしてそのような理解は可能なのかということが、ここでの大きな論点ということになる。 2.アマゾン効果と「ヤマダ電機効果」 ネット通販の市場規模 ネット通販の拡大が物価に与える影響は、商品やサービスのカテゴリーによって大きく異なるものと予想される。というのは、分野によってネット通販の浸透度(市場規模・EC化率)に大きな差があるからだ。そこで、経済産業省による調査(平成29年度「電子商取引に関する市場調査」)を利用して、最近時点におけるBtoC(企業と一般消費者(家計)の間)の電子商取引の状況について確認しておくこととしよう。 この調査によると、ネット通販の市場規模については物販系が8.6兆円、サービス系(航空券・宿泊予約など)が5.9兆円、デジタル系(オンラインゲームなど)が1.9兆円となっている。このうち物販系分野について詳しくみると、市場規模では「衣料・服飾雑貨等」、「食品、飲食、酒類」、「生活家電、AV機器、PC・周辺機器等」の規模が大きく、EC化率では「事務用品、文房具」、「生活家電、AV機器、PC・周辺機器等」、「書籍、映像・音楽ソフト」の割合が高くなっている(図表2)。 図表2 物販系分野のBtoC-EC市場の市場規模 (資料出所)経済産業省「電子商取引に関する市場調査」より作成 そこで、以下では市場規模・EC化率ともに上位に位置している家電製品、市場規模がもっとも大きい衣料、EC化率がもっとも高い事務用品・文房具の3分野を対象に、これらの物価動向をながめていくこととする。 経済産業省の調査は事業者側を対象にしたものであるが、「家計消費状況調査」と「家計調査」(いずれも総務省)をもとに家計側の動向をみても、これらの分野の商品がネット通販において大きな比重を占めていることが確認できる。これらの調査の分類からは確認できないが、生活雑貨(洗剤・ティッシュペーパーなど)についてもネット通販による購入が多いと考えられることから、生活雑貨についても併せて動向を確認しておくこととする。 4分野の物価動向 日本銀行のレポートでは、2016年から18年にかけての期間を対象に分析が行われている。また、ネット通販と物価動向の関係をめぐる最近のいくつかの新聞報道においても、足元の物価動向との関係に着目して解説がなされている。そこで、ここではまず直近の2年間(16年4月以降)の物価動向について、上記4分野の品目を対象とする消費者物価指数のデータをもとに確認しておくこととしよう。 ここでは家電の物価指数として「家事用耐久財」(電気冷蔵庫・電気洗濯機など)と「教養娯楽用耐久財」(テレビ、パソコンなど)の指数を、衣料の物価指数として「衣料」を、事務用品・文房具の物価指数として「文房具」の指数を、生活雑貨の物価指数として「家事用消耗品」(洗剤・ティッシュペーパーなど)の指数を、それぞれ利用することとする(教養娯楽用耐久財にはピアノと学習机が含まれるが、これらのウエイトは59分の8である)。 まず、家電についてみると(図表3)、家事用耐久財(電気冷蔵庫・電洗濯機など)については、17年9月を除くと、いずれの月も上昇率がマイナスとなっており、価格の下落傾向が続いてきたことがわかる。また、教養娯楽耐久財(テレビ、パソコンなど)については、16年8月以降、上昇率がマイナスで推移している(価格は下落)。 図表3 家電製品の価格動向 (資料出所)総務省「消費者物価指数」より作成 次に、衣料についてみると(図表4)、物価指数の上昇率が次第に縮小して、17年秋以降は基調的にマイナスで推移している。また。家事用消耗品(洗剤・ティッシュペーパーなど)については、16年7月以降、上昇率がマイナスで推移している。これに対し、文房具については、物価指数の上昇率が2年にわたってプラスで推移している。 図表4 衣料・文房具・生活雑貨の価格動向 (資料出所)総務省「消費者物価指数」より作成 このようにネット通販の市場規模が大きい、あるいはネット通販による購入の割合が大きい商品の物価動向については、文房具を除くと、総じて弱い動きが続いてきたということになる。 家電の価格低下 このような物価指数の推移は、「物価が上がらないのはネット通販のせい」という想像をかきたてるものであり、実際、そのような受けとめ方をする向きもみられる。だが、「ネット通販の拡大が物価を下押しする要因になる」ということと、「物価の基調的な動きがネット通販の拡大という理由によって説明できる」ということの間には大きな距離がある。物価の動きを上記のように局所的な範囲でとらえずに、より長い期間でながめてみれば、以下に示すようにこのことは容易に理解される。 そこで、1995年度から2017年度までの期間を対象に、家電製品の値動きをながめてみると(図表5)、「家事用耐久財」(電気冷蔵庫・電気洗濯機など)と教養娯楽耐久財(テレビ、パソコンなど)のいずれについても急速な価格低下が生じた後、13年度あたりから15年度にかけてようやく下げ止まりの動きがみられるようになった(ただし、以前ほどではないが、16年度以降はふたたび低下が生じている)ということがわかる(なお、消費税の増税の影響を除きやすくするため、ここでは暦年ではなく年度の計数をもとに物価の動向を把握している)。 図表5 家電製品の価格動向(1995年−2017年・年度平均・消費税調整済) (資料出所)総務省「消費者物価指数」より作成 ここからわかるのは、家電製品の価格低下がネット通販の拡大が生じた時点になってはじめて観察されるようになった出来事ではなく、実店舗による販売がほとんどだった頃に、むしろ大幅な価格下落が生じていたということだ。 このような価格低下には、性能の向上によって実質的な価格低下が生じたことによる部分(品質調整に伴う下落分)と、販売店間の値引き競争の進展によって生じた部分の双方があるものとみられる。後者についていえば、ネット通販が主流になる前から家電量販店による競争は熾烈であり、そうしたなかで、いわば「ヤマダ電機効果」とでもいうべきものによって、家電の販売価格の上昇が抑制されてきたということになる。 「他店より1円でも高い場合は値引きします」という価格競争が、家電量販店の店頭で20年以上前から展開されてきたことを想起すれば、この事情は容易に理解されるだろう。アマゾン効果は、インターネットの発達によって店舗間の価格比較がさらに低コストで行えるようになり、このような価格裁定の動きがさらに強まるようになった現象ということになる。 このように、家電製品の価格の動向には、アマゾン効果として認識されるような影響をもたらす価格競争が、実店舗どうしの間でも以前から展開されてきたこと、価格下落は最近時点よりもむしろ以前のほうが顕著であったことを踏まえると、最近時点における物価の動向を把握するうえでネット通販の影響をどの程度大きなものととらえるかについては、過大評価が生じないよう慎重な見極めが必要ということになる。 衣料と文房具の価格上昇 一方、衣料と文房具の動向をみると(図表6)、価格の動きは区々であり、それぞれの局面で大きく変動してきたことがわかる。15年度と16年度については値上がりが顕著となっており(文房具については17年度も)、上昇率でみると衣料については1%台前半、文房具については1%台後半の率で上昇が生じている。 図表6 衣料・文房具の価格動向(1995年−2017年・年度平均・消費税調整済) (資料出所)総務省「消費者物価指数」より作成 衣料と文房具の価格上昇はヘッドライン(総合)やコア(生鮮食品を除く総合)でとらえられる物価全般の動きを上回るものだ。このことは、衣料と文房具について、もし仮にアマゾン効果による価格下落が生じているとしても、それは衣料と文房具の価格の基調的な動きを左右するほど大きなものとはなっていないことを示唆するものである。 オンライン価格と実店舗価格の間の裁定 アマゾン効果は、ネット通販の拡大が、実店舗を持つ既存の小売企業の販売価格を引き下げることで顕現化するものだ。すなわち、オンライン価格と実店舗価格の裁定がどの程度強力に働いているかによって、アマゾン効果が消費者物価指数に与える影響は異なったものとなる。 この背景には、ネット通販を通じた販売価格の把握が、小売物価統計調査においてきわめて不十分なかたちでしか行われておらず、消費者物価指数の作成においてネット通販経由の販売価格の反映が限定的なものにとどまっているという事情がある。 オンライン価格と実店舗価格の間の裁定がどの程度行われているかについては、オンラインショップと実店舗の間の販売価格の差について大規模な調査を実施したCavallo[2017]が有益な情報を与えてくれる(Cavallo, Alberto”Are Online and Offline Prices Similar? Evidence from Large Multi-channel Retailers”Ameican Economic Review Vol.107 No.1)。 この研究では、調査対象となっている10か国のなかで、日本はオンラインと実店舗の価格差が最も大きく(10か国平均では両者の価格差が4%であるのに対し、日本は13%)、両者の間の価格裁定が不完全であることが示されている。この分析において調査対象となっている日本の企業はビックカメラ、ケーズデンキ、ローソン、ヤマダ電機の4社であり、対象業種が家電販売に偏っていることに留意が必要だが、日本においてアマゾン効果が実際にどの程度影響を与えているかを把握するうえでは、このような状況についても一定の留意が必要となる。【次ページにつづく】 3.アマゾン効果と「ヤマト運輸効果」 これらのことを踏まえると、アマゾン効果による物価の下押しは、基調的な物価の動きを左右するほど大きなものではない(限定的なものにとどまる)ものと判断される。だが、ネット通販の拡大による価格の押し下げが、消費者物価指数に十分反映されるようになれば、物価上昇率を全般的に押し下げる要因のひとつとなることは確かだろう。 もっとも、低価格を売りにしてネット通販が拡大していくためには、商品の配送料が低廉であるということが維持される必要がある。「宅配クライシス」がアマゾン効果の拡大を阻む要因となる可能性があることにも留意が必要である。 ネット通販の拡大による少量・多頻度の小口配送は、人員の確保などの面で宅配便の事業者に大きな負荷をもたらしている。このため、ヤマト運輸がアマゾン・ドット・コムに対して、当日配送の受託の縮小と運賃(配送料)の値上げを要請(2018年1月に合意)するなどの見直し動きが進展してきた。 こうした動きのもとで、17年の年央以降、宅配便の運賃(送料)の値上がりが生じている(図表7)。この値上げ分を事業者と消費者のいずれが負担するとしても、このような動きは、商品価格・送料の値上げや無料配送の縮小などを通じて、ネット通販のコスト面での優位性を低下させる要因となるものである。アマゾン効果について考える際には、このような「ヤマト運輸効果」についても併せて注視していくことが必要ということになる。 図表7 宅配便の運賃(送料)の動向 (資料出所)総務省「消費者物価指数」、日本銀行「企業向けサービス価格指数」より作成 4.この道はいつか来た道? 「物価が上がりにくいのはネット通販のせい」という説は、日本銀行のレポートの執筆者の意図を離れてひとり歩きしつつあるようだが、ここで思い出されるのは2014年の「冷夏」をめぐるエピソードだ。 14年4月には消費税率の引き上げ(5%から8%へ)が実施されたが、14年春の時点では、その影響は一時的なものにとどまり、夏には景気が「V字回復」するものとされていた。だが、9月下旬に相次いで公表された8月分の百貨店・スーパー・コンビニの売上高が、いずれも5か月連続で対前年同月比マイナスとなるなど、秋口になっても消費の回復は確認されなかった。 折しも11月に消費税の再増税(10%への引き上げ)の実施・延期の最終判断が控えていたことから、関係者の間で景気回復の遅れが懸念されたが、そこで登場したのが「景気回復が遅れているのは天候不順(冷夏)のせい」という説明であった(この間の経過と天候不順が消費に与えた影響についての評価については中里透「天候不順の経済分析」を参照のこと。 その後も家計消費は停滞を続けたことから、次に登場したのは、「消費が停滞しているようにみえるのは家計調査(総務省)のバイアスのせい」という説明であった。この議論は、15年10月16日の経済財政諮問会議における麻生財務大臣の発言をきっかけに盛り上がりをみせた。消費に関する統計の見直しは、日本銀行による消費活動指数の作成(16年5月公表開始)と総務省による消費動向指数の作成(16年3月公表開始)というかたちで結実したが、結局のところいずれの指標を利用した場合にも、14年4月を起点に消費が大きく落ち込んで、長い期間にわたって停滞した状態が続いたということには変化がみられなかった(図表8)。 図表8 消費の動向 (資料出所)総務省「家計調査」、日本銀行「消費活動指数」より作成 このように、当初の予定通りに物事が進まない場合に、ユニークな理由付けが登場することはしばしばあり、ネット通販の拡大と物価動向をめぐる議論も、14年の「冷夏」と同じような経過をたどるおそれがある。 もっとも、このような方向で議論が進められていくことについては、その費用対効果がどの程度高いものか、慎重かつ冷静な判断が求めれられることになるだろう(もちろん、ネット通販経由の販売価格を消費者物価指数にきちんと反映させること自体は重要な課題であり、この点については総務省統計局においてすでに検討が進められている)。 なお、14年4月を起点とする消費の停滞については、消費増税の影響によるところが大きいとの認識が共有されつつある。このような消費増税後の需要の弱い動きが、原油価格の下落や新興国経済の減速とあいまって、2%の物価安定目標の達成を後ずれさせる結果となったというのが、日本銀行の「総括的検証」(16年9月)で示された判断ということになる。 5.物価はなぜ上がらないのか? 7月30・31の両日に開催予定の金融政策決定会合における「展望レポート(18年7月)」のとりまとめに際しては、「物価はなぜ上がらないのか」ということが大きな論点となりそうだ。 この点について考えるための手がかりとして、7月20日に公表された消費者物価指数(全国・6月分)をみると、ヘッドライン(総合)は対前年同月比0.7%の上昇となっているのに対し、コアコア(食料及びエネルギーを除く総合)は横ばい(0.0%)となっている。 ここからわかるのは、現在の物価上昇の大半が食品とエネルギー関連品目の値上がり(コストプッシュ要因)によるものであるということだ。食品や電気・ガス料金、灯油、ガソリンの値上がりによる物価上昇を、デフレ脱却に向けた前向きな動きと手放しで喜ぶことは難しい。 先ごろ公表された5月分の百貨店・スーパー・コンビニの売上高はいずれも前年割れとなったが、このような消費の弱い動きを踏まえると、食品や光熱費などの値上がりを受けて、家計の節約志向が高まっている可能性がある。実際、購入頻度別に品目を区分した物価指数をみると、頻繁に(1か月に複数回)購入する品目の物価は対前年比2%以上のペースで上がっており(図表9)、購入頻度が低い品目の上昇率が0%台前半にとどまっていることと明確な対照をなしている。 図表9 消費者物価指数の推移(年間購入頻度別) (資料出所)総務省「消費者物価指数」より作成 物価が上がりにくい理由としては「根強いデフレマインド」の存在がしばしば強調される。だが、13年の年央から14年の春にかけては、むしろ物価高が話題となっていたことを想起すると、この説明がどの程度の妥当性を持つものなのか、ということにも留意が必要である。物価動向に上記のような跛行性があることを踏まえると、デフレマインドよりも「体感物価」の上昇が、めぐりめぐって物価が全般的に上がりにくい状況をもたらしている可能性についても考慮する必要がありそうだ。 すなわち、やや逆説的ではあるが、食品やガソリンなどの値上がりが家計の節約志向の高まりをもたらし、そのことが消費の手控えを通じて売上げの伸び悩みにつながって、企業の価格設定行動に影響を与えた可能性がある。14年4月の消費税率引き上げを機に、実質所得の低下を起点とする消費の停滞が生じ、物価が弱含みとなった経過を踏まえれば、このような検証の必要性は容易に理解されよう。 リーマンショック後、継続的に下落している家賃(持家の帰属家賃を含む)という「岩盤」の存在を踏まえると、2%の物価安定目標の達成に困難が伴うことはたしかだが、未達の原因をアマゾン効果に求めてよいかとなると話は別だ。「物価が上がらないのはネット通販のせい」とやってしまうと、2014年の「冷夏」に続いて今年の夏も不思議な夏ということになりかねない。物価と所得と消費の間の基本的な関係に立ち返って現状をつぶさに点検し、落ち着いた環境のもとで誤りのない判断がなされていくことが望まれる。 シノドスをサポートしてくれませんか? 誰でも自由にアクセスできる本当に価値ある記事を、シノドスは誠実に配信してまいります。シノドスの活動を持続的なものとするために、ぜひファンクラブ「SYNODOS SOCIAL」のパトロンをご検討ください。⇒ https://camp-fire.jp/projects/view/14015
http://www.minto.or.jp/print/urbanstudy/pdf/research_49.pdf 日銀・異次元金融緩和の行方(論点メモ) 都市研究センター専任研究員 丹上 健 はじめに 1.日銀は、2013 年 4 月以来、同年 3 月に 就任された黒田総裁の下で、5 年以上の長 きにわたり、いわゆる異次元金融緩和を続 けている。2%の物価安定目標を実現し、デ フレを脱却するためである。当初は「2年 程度の期間を念頭に置いて、できるだけ早 期に実現する」とされたが、これまで 6 度 にわたり達成時期が先送りされ、ついに本 年 4 月の「経済・物価情勢の展望」(展望リ ポート)では、達成時期の記載が削除され るに至った。 2.このように異次元金融緩和は、短期戦 から長期戦へと様相を変えているが、折し も本稿対象期間末の 7 月 31 日、日銀は、「強 力な金融緩和継続のための枠組み強化」を 決定するとともに、新たな展望レポートを 発表した。 消費者物価上昇率は、本年 4 月時点から、 2019 年度:+1.8%→+1.5%、2020 年度: +1.8%→+1.6%となり、見通し期間中の 2%達成は見通せないものになっている。ま た、「枠組み強化」は、「2%の「物価安定の 目標」の実現には、これまでの想定より時 間がかかることが見込まれる」としている。 ただし、「マクロ的な需給ギャップがプラス の状態を続けることにより、消費者物価の 前年比は、2%に向けて徐々に上昇率を高め ていくと考えられる」として、基本スタン スは従来と変わっていない。その上で、「強 力な金融緩和を粘り強く続けていく観点か ら」、@政策金利のフォワードガイダンスの 導入とA「長短金利操作付き量的・質的金 融緩和」の持続性を強化する措置を決定し ている。 ここで詳細には触れないが、「枠組み強 化」の決定は、@2%の物価安定目標の達成 には、なお時間が掛かること、A異次元金 融緩和は、若干の修正を行った上で、今後 も継続すること、B特に 2019 年 10 月に予 定される消費税率引上げの影響を見極める までは、現在の極めて低い長短金利水準を 維持すること、を明らかにしたことに意義 があるものと考えられる。 3.しかし、短期戦でこそ成り立つ異次元 の金融緩和を、このように長期にわたり継 続することについては、疑問がある。 本稿は、異次元金融緩和の行方を考える 上で必要と思われる基礎的事項を、論点メ モとしてまとめたものである。具体的には、 〔目次〕のとおりであり、次のような問題 意識に基づいている。 @異次元金融緩和の内容と考え方はどのよ うなものか。:1〜3、 A異次元金融緩和はどのような成果を上げ ているか。:4 Bそもそもデフレとは何か。:5 C異次元金融緩和の実施状況はどうなって いるか。:6 D異次元金融緩和が 2%の物価安定目標を 2 実現するメカニズムは何か。:7 E異次元金融緩和の副作用としてどのよう な問題があるか。:8・9 Fデフレは日本経済低迷の原因か。本当に 求められる政策は何か。:10 G今後の経済政策はどうあるべきか。:11 以上の結論として、筆者が考える今後の 経済政策の方向は、次のようなものである。 [日本銀行] @目指すべき物価安定目標を 2%から引き 下げ、又は、2%の物価安定目標を中期的に 達成を目指すべきものとして、政策運営を 柔軟化すること。 A異次元金融緩和によるリスクの蓄積を可 能な限り早期に停止し、その縮小を進める こと。 B異次元金融緩和とその正常化に伴うリス クをしっかりコントロールして、金融シス テムや経済の安定を確保すること。 [政府] @企業防衛マインドの転換と国民の将来不 安の解消を図ること。 A民間の創意工夫の発揮やイノベーション を促進する各種成長戦略や構造改革を強力 に推進すること。 B政府の支出と収入のアンバランス(低支 出・最低収入)を是正するため、財政再建施 策を着実に実施すること。 特に日銀が出口に向かう前の低金利が維 持された猶予期間のうちに、財政健全化の 実を上げるとともに、財政規律の確保に強 くコミットすることによって、出口におけ る国債市場の不安定化を抑止すること。 もとより経済・金融の門外漢であり、理 解不足や誤解を懼れるが、本稿が異次元金 融緩和の行方を考える上で、何らかの参考 になることがあれば幸いである。 〇「強力な金融緩和継続のための枠組み強化」の 概要 1.日本銀行は、強力な金融緩和を粘り強く続けて いく観点から、政策金利のフォワードガイダンス を導入することにより、「物価安定の目標」の実現 に対するコミットメントを強めるとともに、「長短 金利操作付き量的・質的金融緩和」の持続性を強 化する措置を決定した。 (1)政策金利のフォワードガイダンス 日本銀行は、2019 年 10 月に予定されている消 費税率引き上げの影響を含めた経済・物価の不確 実性を踏まえ、当分の間、現在のきわめて低い長 短金利の水準を維持することを想定している。 (2)長短金利操作(イールドカーブ・コロール) 短期金利:政策金利残高に▲0.1%のマイナス金 利を適用する。 長期金利:10 年物国債金利がゼロ%程度で推移 するよう、長期国債の買入れを行う。その際、金 利は、経済・物価情勢等に応じて上下にある程度 変動しうるものとし、買入れ額については、保有 残高の増加額年間約 80 兆円をめどとしつつ、弾 力的な買入れを実施する。 (3)資産買入れ方針 @ETFおよびJ−REITについて、保有残高 が、それぞれ年間約6兆円、年間約900億円に 相当するペースで増加するよう買入れを行う。そ の際、資産価格のプレミアムへの働きかけを適切 に行う観点から、市場の状況に応じて、買入れ額 は上下に変動しうるものとする。 ACP等、社債等について、それぞれ約 2.2 兆円、 約 3.2 兆円の残高を維持する。 2.日本銀行は、1.の措置と合わせて、以下の実務 的な対応を行うこととした。 (1)政策金利残高の見直し 政策金利残高を、長短金利操作の実現に支障が ない範囲で、現在の水準(平均して 10 兆円程度) から減少させる。 (2)ETFの銘柄別の買入れ額の見直し ETFの銘柄別の買入れ額を見直し、TOPI 3 Xに連動するETFの買入れ額を拡大する。 3.(略)物価は、経済・雇用情勢に比べて弱めの 動きが続いている。その背景には、企業の慎重な 賃金・価格設定スタンスや値上げに対する家計の 慎重な見方の継続といった要因が複合的に作用し ており、2%の「物価安定の目標」の実現には、こ れまでの想定より時間がかかることが見込まれる。 もっとも、マクロ的な需給ギャップがプラスの状 態を続けることにより、消費者物価の前年比は、 2%に向けて徐々に上昇率を高めていくと考えら れる。 〇展望レポートの経済・物価見通し(2018.7) 出典:日本銀行 〔目 次〕 1.異次元金融緩和の概要 (1)政府・日本銀行の共同声明 2013.1 (2)「量的・質的金融緩和」の導入 2013.4 (3)「量的・質的金融緩和」の拡大 2014.10 (4)「マイナス金利付き量的・質的金融緩和」の 導入 2016.1 (5)「「量的・質的金融緩和」導入以降の経済・ 物価動向と政策効果についての総括的な検 証」と「長短金利操作付き量的・質的金融緩 和」の導入 2016.9 2.異次元金融緩和の考え方 (1)デフレの問題点 (2)「2%の物価安定の目標」の実現 (3)「量的・質的金融緩和」のポイント (4)「量的・質的金融緩和」の効果:金融緩和効 果の波及経路 (5)金融政策運営を巡る論点 (6)デフレからの脱却 (7)「量的・質的金融緩和」拡大の意義 (8)「マイナス金利付き量的・質的金融緩 和」導入の意義と効果 (9)「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」導 入の意義と考え方 3.黒田日銀の2期目のスタート 4.異次元金融緩和の成果 (1)経済情勢 (2)金融情勢 (3)企業動向 (4)物価動向 (5) 異次元金融緩和の成果・要約 5.「デフレ」とは何か (1)「デフレ」 (2)「デフレ・スパイラル」 (3)「デフレではない」と「デフレ脱却」 6.異次元金融緩和の実施状況 (1)日銀のバランスシートの変化 (2) 国債の保有状況 7.異次元金融緩和のメカニズム (1)異次元金融緩和のメカニズム (2)非伝統的金融政策 (3)貨幣数量説と予想物価上昇率の引上げ (4)ポール・クルーグマンの提案 (5)長期金利の引下げ (6)ポートフォリオ・リバランス効果 (7)マイナス金利 (8)為替変動のメカニズム (9)物価上昇のメカニズム 8.異次元金融緩和の副作用 (1)金利の展望 (2)異次元金融緩和の仕組み (3)異次元金融緩和の正常化プロセス (4)国債買入れの限界 (5)金融機関の収益悪化と金融システムの不安 定化 (6)日銀の収支悪化と債務超過の懸念 (7)中央銀行の債務超過がもたらす影響 (8)リスク資産の蓄積と市場の歪み (9)財政規律の緩みと財政運営の困難化 (10)異次元金融緩和の副作用・要約 9.財政ファイナンスとヘリコプターマネー (1)財政ファイナンスと財政の持続可能性の確 4 保 (2)財政の健全化と持続可能性 (3)金融政策と財政政策 (4)ヘリコプターマネー (5)異次元金融緩和とヘリコプターマネー・財政 ファイナンス 10.デフレ脱却の意義と求められる政策 (1)デフレ脱却の意義 (2)デフレは日本経済低迷の原因か (3)企業防衛マインド (4)国民の将来不安 (5)求められる政策 11.今後の経済政策と日銀への期待 (1)中央銀行の役割と物価の安定 (2)異次元金融緩和の評価と今後の方向 (3)目指すべき物価安定目標 (4)今後の経済政策と日銀への期待 〔参考文献〕 池尾和人 「現代の金融入門」2010.2 筑摩書房。 「連続講義・デフレと経済政策」2013.7 日経 BP 社。 岩田規久男・浜田宏一・原田泰編著 「リフレが日本経済を復活させる」2013.3 中央経済社。 植田和男 「ゼロ金利との闘い」2005.12 日本経済新聞社。 翁邦雄 「ポスト・マネタリズムの金融政策」2011.6 日本経済新 聞出版社。 「日本銀行」2013.7 筑摩書房。 「経済の大転換と日本銀行」2015.3 岩波書店。 「金利と経済」2017.2 ダイヤモンド社。 木内登英 「異次元緩和の真実」2017.11 日本経済新聞出版社。 白井さゆり 「超金融緩和からの脱却」2016.8 日本経済新聞出版社。 「東京五輪後の日本経済」2017.9 小学館。 高田創編著 「シナリオ分析 異次元緩和脱出」2017.10 日本経済新 聞出版社。 野口悠紀雄 「金融政策の死」2014.12 日本経済新聞出版社。 「異次元緩和の終焉」2017.10 日本経済新聞出版社。 早川英男 「金融政策の「誤解」」2016.7 慶応義塾大学出版会。 吉川洋 「デフレーション」2013.1 日本経済新聞出版社。 1.異次元金融緩和の概要 まず、2013 年 4 月以来進められてきた日 銀のいわゆる異次元金融緩和の内容につい て概観する。 (1)政府・日本銀行の共同声明 2013.1 2008 年 9 月のリーマン・ブラザーズの破 綻を契機に米欧を中心に世界的な金融危機 が発生した。我が国では、サブプライムロ ーン関連証券への投資は少なく、直接的影 響は限られたが、世界的な経済の冷え込み から急速に円高・株安が進み、輸出の激減、 消費の低迷等によって、実質GDP成長率 (年率換算)が 2008 年 10-12 月期△12.7%、 2009 年 1-3 月期△15.2%となるなど、震源 地アメリカをも凌ぐ大幅な景気後退に見舞 われた。 日銀は、2008 年 10 月から政策金利(無 担保コール翌日物金利)の引下げ(0.5%から順 次 0〜0.1%へ)、2010 年 10 月から「包括的な 金融緩和政策」の実施と逐次の拡大を行っ たが、2011 年 3 月に発生した東日本大震災 の影響も重なり、景気回復の足取りは重か った。特に為替レートが 2011 年・2012 年 に1ドル80円を切る水準にまで円高が進ん だことは、輸出関連産業を中心に深刻な影 響を与え、日銀のバランスシート(B/S) の拡大規模やペースが米国の中央銀行・連 邦準備制度理事会(FRB)のそれより小 さく遅かったことが原因ではないかという 批判が半ば通説化して日銀に寄せられた。 そうした中、2012 年 11 月の民主党野田 5 首相の衆議院解散を受けて行われた総選挙 では、かねて日銀の政策に批判的だった安 倍自民党総裁が、野党党首として、高いイ ンフレ目標の設定と無制限の金融緩和、円 安誘導の実施を公約して選挙戦を闘い、同 氏を次期首相と目する市場はこれに強く反 応して、以後翌 2013 年 5 月頃まで急速に円 安・株高が進むことになる。 12 月の総選挙の結果、自民党は政権に復 帰し、第 2 次安倍内閣が発足した。禁じ手 である円安誘導論は封印されるが、安倍首 相の経済政策は、アベノミクスの「3 本の 矢」=@大胆な金融政策、A機動的な財政 政策、B民間投資を喚起する成長戦力とし て取りまとめられた。 こうした流れの中で、2013 年 1 月 22 日、 以下のような政府・日銀の政策連携の共同 声明(以下「共同声明」という)が公表された。 〇「デフレ脱却と持続的な経済成長の実現のため の政府・日本銀行の政策連携について(共同声 明)」の概要 1.デフレからの早期脱却と物価安定の下での持 続的な経済成長の実現に向け、以下のとおり、政 府及び日本銀行の政策連携を強化し、一体となっ て取り組む。 2.日本銀行は、今後、日本経済の競争力と成長 力の強化に向けた幅広い主体の取組の進展に伴い 持続可能な物価の安定と整合的な物価上昇率が高 まっていくと認識している。この認識に立って、 日本銀行は、物価安定の目標を消費者物価の前年 比上昇率で2%とする。 日本銀行は、上記の物価 安定の目標の下、金融緩和を推進し、これをでき るだけ早期に実現することを目指す。 3.政府は、我が国経済の再生のため、機動的な マクロ経済政策運営に努めるとともに、日本経済 再生本部の下、思い切った政策を総動員し、経済 構造の変革を図るなど、日本経済の競争力と成長 力の強化に向けた取組を具体化し、これを強力に 推進する。 また、政府は、日本銀行との連携強化 にあたり、財政運営に対する信認を確保する観点 から、持続可能な財政構造を確立するための取組 を着実に推進する。 4.経済財政諮問会議は、金融政策を含むマクロ 経済政策運営の状況、その下での物価安定の目標 に照らした物価の現状と今後の見通し、雇用情勢 を含む経済・財政状況、経済構造改革の取組状況 などについて、定期的に検証を行うものとする。 ポイントは、日本銀行は、@消費者物価 前年比上昇率 2%の物価安定目標の導入、 A金融緩和の推進による目標のできるだけ 早期の実現、政府は、@機動的なマクロ経 済政策運営、A日本経済の競争力と成長力 の強化に向けた取組の具体化と強力な推進、 B持続可能な財政構造の確立の着実な推進、 をそれぞれに行い、デフレ脱却と持続的な 経済成長の実現に一体となって取り組むと したことである。 この共同声明は、前任の白川総裁の下で 公表されたものであるが、その後の黒田総 裁の異次元緩和を含め、今日に至るまで政 府・日銀の政策連携のベースを成している ものと考えられる。 (2)「量的・質的金融緩和」の導入 2013.4 2013 年 3 月、白川総裁が退任し、黒田氏 が日銀総裁に就任した。総裁就任後初めて となる 4 月 4 日の金融政策決定会合におい て、「量的・質的金融緩和」の導入が決定さ れた。いわゆる異次元金融緩和の始まりで ある。 〇「量的・質的金融緩和」の概要 (1)「量的・質的金融緩和」の導入 日本銀行は、消費者物価の前年比上昇率2%の 「物価安定の目標」を、2年程度の期間を念頭に 6 置いて、できるだけ早期に実現する。このため、 マネタリーベースおよび長期国債・ETFの保有 額を2年間で2倍に拡大し、長期国債買入れの平 均残存期間を2倍以上に延長するなど、量・質と もに次元の違う金融緩和を行う。 @マネタリーベース・コントロールの採用 量的な金融緩和を推進する観点から、金融市場 調節の操作目標を、無担保コールレート(オーバ ーナイト物)からマネタリーベースに変更し、マ ネタリーベースが、年間約60〜70兆円に相当 するペースで増加するよう金融市場調節を行う。 A長期国債買入れの拡大と年限長期化 イールドカーブ全体の金利低下を促す観点から、 長期国債の保有残高が年間約50兆円に相当する ペースで増加するよう買入れを行う。また、長期 国債の買入れ対象を40年債を含む全ゾーンの国 債としたうえで、買入れの平均残存期間を、現状 の3年弱から国債発行残高の平均並みの7年程度 に延長する。 BETF、J−REITの買入れの拡大 資産価格のプレミアムに働きかける観点から、 ETFおよびJ−REITの保有残高が、それぞ れ年間約1兆円、年間約300億円に相当するペ ースで増加するよう買入れを行う。 C「量的・質的金融緩和」の継続 「量的・質的金融緩和」は、2%の「物価安定の 目標」の実現を目指し、これを安定的に持続する ために必要な時点まで継続する。その際、経済・ 物価情勢について上下双方向のリスク要因を点検 し、必要な調整を行う。 (2)「量的・質的金融緩和」に伴う対応 @資産買入等の基金の廃止 資産買入等の基金は廃止する。「金融調節上の必 要から行う国債買入れ」は、既存の残高を含め、 上記の長期国債の買入れに吸収する。 A銀行券ルールの一時適用停止 上記の長期国債の買入れは、金融政策目的で行 うものであり、財政ファイナンスではない。また、 政府は、1月の「共同声明」において、「日本銀行 との連携強化にあたり、財政運営に対する信認を 確保する観点から、持続可能な財政構造を確立す るための取組を着実に推進する」としている。こ れらを踏まえ、いわゆる「銀行券ルール」を、「量 的・質的金融緩和」の実施に際し、一時停止する。 ポイントは、@日本銀行が、「消費者物価 の前年比上昇率 2%の物価安定目標を、2 年程度の期間を念頭に置いてできるだけ早 期に実現する」とし、このため、「量・質と もに次元の違う金融緩和」を行い、「2%の 物価安定目標の実現を目指し、これを安定 的に持続するために必要な時点まで継続す る」としたこと、A金融市場調節の操作目 標を金利からマネタリーベースに変更し、 これが年間約 60〜70 兆円のペースで増加 するよう金融市場調節を行うとしたこと、 Bこのため、長期国債、ETF(指数連動型 上場投資信託)、J−REIT(不動産投資信 託)の保有残高が、それぞれ年間約 50 兆円、 1兆円、300 億円のペースで増加するよう 買入れを行い、長期国債の買入れ対象を全 ゾーンの国債とし、買入れの平均残存期間 を現状の 3 年弱から 7 年程度に延長すると したことなどである。 ※1物価安定の目標と物価の基調:日銀は「物価 安定の目標」を消費者物価の総合指数で前年比上 昇率2%と定義している。主要国の中央銀行も基 本的に同様である。ただし、時々の物価情勢を評 価するに当たっては、一時的に大きく変動する要 因の影響を取り除いた物価の基調的な動きに注目 している。その代表的指標が、生鮮食品を除く物 価指数であり、長期的に総合指数と似た動きをし ていること、総合指数を予測する力が高いことが その根拠とされている。しかし、原油価格が大き く変動するようになると、生鮮食品とエネルギー を除く物価指数など様々な指標が公表されるよう になった。また、需給ギャップや中長期の予想イ ンフレ率も、物価の基調をみる重要な指標である。 なお、消費税率の引上げによる消費者物価指数 の押上げについては、@1 年経てばなくなる一時 7 的なものであること、A商品やサービスの対価の 上昇でなく、商品やサービスの消費に際して支払 うべき税金が上乗せされた結果に過ぎないことか ら、日銀は、消費税率引上げの直接的な影響を除 いた物価指数により 2%の物価安定目標の達成を 目指している。 ※2 日銀当座預金:民間金融機関が日銀に保有し ている当座預金。@金融機関相互間や日銀、国と の決済、A現金通貨の支払準備、B準備預金の役 割を果たす。 ※3 所要準備額と超過準備:民間金融機関は、「準 備預金制度に関する法律」により、受け入れてい る預金等の一定比率(準備率)以上の金額を日銀 に預け入れることが義務付けられている。日銀当 座預金のうち、この準備率に対応する部分が所要 準備額(法定準備預金額)、これを超える部分が超 過準備である。 ※4 マネタリーベース:日銀と政府が供給してい る通貨の総量。日本銀行券発行高+貨幣流通高(硬 貨)+日銀当座預金。日銀が長期国債等を買い入 れると、日銀のB/Sの資産に長期国債等、負債に 日銀当座預金が計上され、マネタリーベースが増 加する。 ※5 マネーストック:金融部門(日銀等・民間金 融機関)が経済全体に供給している通貨の総量。 マネタリーベースに含まれる日銀当座預金や金融 部門が保有する銀行券・貨幣は含まない。通貨と して何を含めるかは国や時代によって異なり得る。 我が国では、M1、M2、M3、広義流動性の 4 つの 指標が作成・公表されている。M1=現金通貨(日 本銀行券発行高・貨幣流通高)+預金通貨(要求 払預金)、M2=M1+準通貨(定期性預金等)+C D(譲渡性預金)(発行者は国内銀行等)、M3=M 1+準通貨+CD(発行者は全預金取扱機関) ※6 日銀券ルール:金融調節上の必要から行う国 債買入れを通じて日本銀行が保有する長期国債の 残高について、銀行券発行残高を上限とするとい う考え方(2001 年 3 月決定)。2010 年 10 月の「包 括的な金融緩和政策」も適用停止となっている。 (3)「量的・質的金融緩和」の拡大 2014.10 量的・質的金融緩和導入後、我が国経済 は基調的に緩やかな回復を続け、先行きも 潜在成長率を上回る成長を続けると予想さ れたが、物価は、2014 年 4 月の消費税率引 上げ後の需要の弱めの動きや 2014 年夏以 降の原油価格の大幅な下落が下押し要因と して働いた。こうした状況を踏まえ、日銀 は、2014 年 10 月、それまで着実に進んで きたデフレマインドの転換が遅延するリス クがあり、その顕現化を未然に防ぎ、好転 している期待形成のモメンタムを維持する ためとして、次のとおり量的・質的金融緩 和を拡大した。 ○「量的・質的金融緩和の拡大」の概要 (1)マネタリーベース増加額の拡大 マネタリーベースが、年間約 80 兆円(約 10〜 20 兆円追加)に相当するペースで増加するよう金 融市場調節を行う。 (2)資産買入れ額の拡大および長期国債買入れの 平均残存年限の長期化 @長期国債について、保有残高が年間約 80 兆円 (約 30 兆円追加)に相当するペースで増加するよ う買入れを行う。買入れの平均残存期間を 7 年〜 10 年程度に延長する(最大 3 年程度延長)。 AETFおよびJ−REITについて、保有残高 が、それぞれ年間約 3 兆円(3 倍増)、年間約 900 億円(3 倍増)に相当するペースで増加するよう 買入れを行う。 増加ペースを約 80 兆円(従前約 60〜70 兆円) に増額するとともに、A長期国債、ETF、 J−REIT保有残高の年間増加ペースを それぞれ約 80 兆円(従前約 50 兆円)、約 3 兆円(同約 1 兆円)、約 900 億円(同約 300 億 円)に増額し、長期国債買入れの平均残存 期間を 7〜10 年程度 ポイントは、@マネ タリーベースの年間(同 7 年程度)に延長す るとしたことである。 8 (4)「マイナス金利付き量的・質的金融緩 和」の導入 2016.1 2015 年夏頃から再度低下を始めた原油 価格は、2016 年の年明け後、一段と下落し た。また、中国をはじめとする新興国・資 源国経済に対する先行き不透明感などから、 金融市場は世界的に不安定な動きとなり、 円高・株安が進行した。このため、日銀は、 2016 年 1 月、企業コンフィデンスの改善や 人々のデフレマインドの転換が遅延し、物 価の基調に悪影響が及ぶリスクが増大して いる、こうしたリスクの顕現化を未然に防 ぎ、2%の物価安定の目標に向けたモメンタ ムを維持するためとして、新たに「マイナ ス金利付き量的・質的金融緩和」の導入を 決定した。 ○「マイナス金利付き量的・質的金融緩和」の概 要 日本銀行は、2%の物価安定の目標をできるだ け早期に実現するため、「マイナス金利付き量的・ 質的金融緩和」を導入することを決定した。今後 は、量・質・金利の3つの次元で緩和手段を駆使 して、金融緩和を進めていくこととする。 (1)「金利」:マイナス金利の導入 金融機関が保有する日本銀行当座預金に▲ 0.1%のマイナス金利を適用する。今後、必要な場 合、さらに金利を引き下げる。具体的には、日本 銀行当座預金を3段階の階層構造に分割し、それ ぞれの階層に応じてプラス金利、ゼロ金利、マイ ナス金利を適用する(※)。 ※3段階の階層構造 (1)基礎残高(+0.1%を適用) 各金融機関の日本銀行当座預金残高のうち、 2015 年1〜12 月積み期間における平均残高まで の部分を、既往の残高に対応する部分として、+ 0.1%を適用する。 (2)マクロ加算残高(ゼロ%を適用) 以下の合計額にはゼロ%を適用する。 @所要準備額に相当する残高 A金融機関が貸出支援基金および被災地金融機関 支援オペにより資金供給を受けている場合には、 その残高に対応する金額 B日本銀行当座預金残高がマクロ的に増加するこ とを勘案して、適宜のタイミングで、マクロ加算 額を加算していく。 (3)政策金利残高(▲0.1%を適用) 各金融機関の当座預金残高のうち、(1)と(2)を 上回る部分に、▲0.1%のマイナス金利を適用する。 金融機関の現金保有によってマイナス金利の効 果が減殺されることを防止する観点から、金融機 関の現金保有額が基準期間から大きく増加した場 合には、その増加額を、マクロ加算残高(それを 上回る場合には、基礎残高)から控除する。 ポイントは、@日銀が各金融機関から受 け入れている日銀当座預金を 3 つの階層に 区分し、A基礎残高に+0.1%、マクロ加算 残高にゼロ%、これら以外の政策金利残高 に△0.1%の金利を適用するとしたことで ある(図表 1)。 2008 年 10 月の補完当座預金制度の導入 以降、超過準備には 0.1%の付利が行われ てきた。基礎残高とマイナス金利が適用さ れる政策金利残高が適切な規模となるよう 増額されるマクロ加算残高は、こうした経 緯と金融機関の負担軽減のために設けられ た階層と考えられる。しかし、金融取引の 価格は、ある新しい取引を行うことに伴う 限界的な損益によって決まるため、金融市 場では政策金利残高に適用される△0.1%を 前提に金利や相場の形成が行われる。 日銀は、「当座預金金利をマイナス化する ことでイールドカーブの起点を引き下げ、 大規模な長期国債買入れとあわせて、金利 全般により強い下押し圧力を加えていく」 としている。 ※7 補完当座預金制度:超過準備に利息を付す制 9 度。日銀当座預金は無利子が原則であり、金融機 関はこれを嫌って超過準備を持たないのが通常で あるが、2008 年 10 月、当時の金融情勢に鑑み、 積極的な資金供給を円滑に行うための臨時の措置 として導入された制度である。 (図表 1) マイナス金利の仕組み 出典:日本銀行・講演資料 (5)「「量的・質的金融緩和」導入以降の 経済・物価動向と政策効果についての総括 的な検証」と「長短金利操作付き量的・質 的金融緩和」の導入 2016.9 2016 年 7 月、日銀は、英国のEU離脱問 題や新興国経済の減速を背景に海外経済の 不透明感が高まり、国際金融市場では不安 定な動きが続いているとして、@ETF買 入れ額の増額(約3.3兆円から約6兆円へ)、 A企業・金融機関の外貨資金調達環境の安 定のための措置を決定した。また、こうし た状況を踏まえ、2%物価安定目標のできる だけ早期の実現の観点から、次回の金融政 策決定会合において、「量的・質的金融緩 和」・「マイナス金利付き量的・質的金融緩 和」のもとでの経済・物価動向や政策効果 について総括的な検証を行うこととした。 これを受け、2016 年 9 月、日銀は、以下 のとおり総括的な検証を行うとともに、こ れを踏まえ、「長短金利操作付き量的・質的 金融緩和」の導入を決定した。 〇「「量的・質的金融緩和」導入以降の経済・物価 動向と政策効果についての総括的な検証」の概 要 (1)「量的・質金融緩和」のメカニズム 「量的・質的金融緩和」は、予想物価上昇率の 押し上げと名目金利の押し下げにより、実質金利 を低下させた。自然利子率は趨勢的に低下してい るが、実質金利はその水準を十分下回っており、 金融環境は改善した。その結果、経済・物価の好 転をもたらし、物価の持続的な下落という意味で のデフレではなくなった。 (2)2%の実現を阻害した要因 しかしながら、2%の「物価安定の目標」は実 現できていない。(i)@原油価格の下落、A消費税 率引き上げ後の需要の弱さ、B新興国経済の減速 とそのもとでの国際金融市場の不安定な動きとい った外的な要因が発生し、実際の物価上昇率が低 下したこと、(ii)その中で、もともと適合的な期 待形成の要素が強い予想物価上昇率が横ばいから 弱含みに転じたことが主な要因と考えられる。 (3)予想物価上昇率の期待形成メカニズム 2%の「物価安定の目標」を実現するためには、 フォワード・ルッキングな期待形成の役割が重要 である。マネタリーベースの長期的な増加へのコ ミットメントが重要である。 (4)マイナス金利と国債買入れによるイールドカ ーブの押し下げ マイナス金利の導入は、国債買入れとの組み合 わせにより、短期金利のみならず長期金利も大き く押し下げた。中央銀行がイールドカーブ全般に 影響を与えるうえで、この組み合わせが有効であ ることが明らかになった。 (5)イールドカーブ引き下げの効果と影響 国債金利の低下は、貸出・社債・CP 金利の低下 にしっかりとつながっている。金融機関の貸出態 度は引き続き積極的である。 イールドカーブの形状に応じた経済・物価への 効果や金融面への影響については、以下の点に留 意する必要がある。@経済への影響は、短中期ゾ ーンの効果が相対的に大きい、Aただし、マイナ ス金利を含む現在の金融緩和のもとで、超長期社 債の発行など企業金融面の新しい動きが生じてお り、こうした関係は変化する可能性がある、Bイ 10 ールドカーブの過度な低下、フラット化は、広い 意味での金融機能の持続性に対する不安感をもた らし、マインド面などを通じて経済活動に悪影響 を及ぼす可能性がある。 ○「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」の概 要 日本銀行は、2%の「物価安定の目標」をでき るだけ早期に実現するため、「長短金利操作付き量 的・質的金融緩和」を導入することを決定した。 その主な内容は、第1に、長短金利の操作を行う 「イールドカーブ・コントロール」、第2に、消費 者物価上昇率の実績値が安定的に2%の「物価安 定の目標」を超えるまで、マネタリーベースの拡 大方針を継続する「オーバーシュート型コミット メント」である。 (1)長短金利操作(イールドカーブ・コントロール) @金融市場調節方針 金融市場調節方針は、長短金利の操作について の方針を示すこととする。今後、必要な場合、さ らに金利を引き下げる。 短期金利:日本銀行当座預金のうち政策金利残 高に△0.1%のマイナス金利を適用する。 長期金利:10 年物国債金利が概ね現状程度(ゼ ロ%程度)で推移するよう、長期国債の買入れを 行う。買入れ額については、概ね現状程度の買入 れペース(保有残高の増加額年間約 80 兆円)を めどとしつつ、金利操作方針を実現するよう運営 する。買入対象については、引き続き幅広い銘柄 とし、平均残存期間の定めは廃止する。 A長短金利操作のための新型オペレーションの導 入 (i)日本銀行が指定する利回りによる国債買入れ (指値オペ)、(ii)固定金利の資金供給オペレー ションを行うことができる期間を 10 年に延長 (現在は1年) (2)長期国債以外の資産買入れ方針 @ ETFおよびJ−REITについて、保有残高 が、それぞれ年間約6兆円、年間約 900 億円に相 当するペースで増加するよう買入れを行う。 ACP等、社債等について、それぞれ約 2.2 兆円、 約 3.2 兆円の残高を維持する。 (3)オーバーシュート型コミットメント 日本銀行は、2%の「物価安定の目標」の実現 を目指し、これを安定的に持続するために必要な 時点まで、「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」 を継続する。マネタリーベースの残高は、上記イ ールドカーブ・コントロールのもとで短期的には 変動しうるが、消費者物価指数(除く生鮮食品) の前年比上昇率の実績値が安定的に2%を超える まで、拡大方針を継続する。 今後とも、経済・物価・金融情勢を踏まえ、2% の「物価安定の目標」に向けたモメンタムを維持 するため、必要な政策の調整を行う。 ポイントは、@金融市場調節方針は、長 短金利操作について示すこととし、短期金 利は△0.1%、長期金利は 10 年物国債金利 ゼロ%程度としたこと、A長期国債の買入 れ額は、保有残高増加額年間約 80 兆円を 目途としつつ、金利操作方針を実現するよ う運営するとしたこと、B新たに日銀が利 回りを指定して国債を買入れる指値オペを 導入したこと、C消費者物価指数(除く生 鮮食品)前年比上昇率の実績値が安定的に 2%を超えるまでマネタリーベースの拡大 方針を継続するとしたことである。 日銀は、新たな枠組み導入の考え方につ いて、次のように説明している。 @量的・質的金融緩和は、主として実質金 利低下の効果により経済・物価の好転をも たらし、日本経済は物価の持続的な下落と いう意味でのデフレではなくなった。この 実質金利低下の効果を長短金利の操作によ り追求する「イールドカーブ・コントロー ル」を新たな枠組みの中心に据えることと した。 A予想物価上昇率をより強力な方法で高め ていくことが必要と判断し、第1にフォワ 11 ード・ルッキングな期待形成を強めるため、 オーバーシュート型コミットメントを採用 した。第2に枠組みの中心にイールドカー ブ・コントロールを据えることで経済・物 価・金融情勢に応じたより柔軟な対応を可 能とし、政策の持続性を高めることが適当 であると判断した、 2.異次元金融緩和の考え方 日銀の金融政策は、年 8 回開催される「金 融政策決定会合」において、政策委員 9 名 (総裁、2 名の副総裁、6 名の審議委員)の多数 決によって決定される。したがって、各委 員によって意見の相違もあり得るが、ここ では、日銀を代表する黒田総裁の講演録を 中心に、異次元金融緩和の考え方について 整理してみたい。 (1)デフレの問題点 @緩やかだが、長期にわたるデフレの進行 我が国では、1990 年代初頭にバブルが崩 壊し、企業の破綻や金融機関のバランスシ ート毀損を背景に、景気の悪化、不良債権 の増加、物価の下落、円高などが相互に影 響しながら進行する悪循環が発生して、経 済成長率とインフレ率が低下した。1997 年 には大手金融機関が破綻するなど大規模な 金融危機が発生し、1998 年夏にはインフレ 率がゼロ%を下回った。こうした状況の下 で、日銀は、1990 年 8 月に 6%であった政 策金利を一貫して引き下げ、1998 年 9 月に は 0.25%とゼロ近傍に達した。こうして日 本ではデフレとゼロ金利制約が理論ではな く現実の話となった。 デフレとは、一般的に「物価が持続的に 下落する状態」を指すが、日本経済は、90 年 代後半以降、15 年わたってデフレが続いて いる。日本のデフレの特徴は、1930 年代の 大恐慌時の急激かつ大幅な物価下落とは異 なり、極めて緩やかな物価下落が長く続い ていることである。実際、1998 年度から 2012 年度についてみると、消費者物価の下 落率は平均して年△0.3%に過ぎない(図表 2)。失業率をみても、最も悪い時期でも 5.5%で町に失業者が溢れるといったこと はなかった。しかし、こうしたデフレが 15 年の長きにわたって続いている。 大恐慌が激烈で急性の症状だったとすれ ば、日本のデフレは慢性の生活習慣病のよ うな症状を呈している。 (図表 2)デフレ下での消費者物価(除生鮮食品) 出典:日本銀行・講演資料 Aデフレは、景気低迷の「結果」であると ともに、景気低迷長期化の「原因」 長期にわたるデフレの原因としては、バ ブル崩壊による過剰設備や雇用の調整、不 良債権問題と金融システム不安、アジア通 貨危機・ITバブルの崩壊・リーマンショ ック・東日本大震災等のネガティブショッ ク、新興国の台頭、企業の低価格戦略、労 働市場の構造変化、過度な円高の進行など 様々なものが考えられる。 しかし、重要なことは、これらの要因に よって現実の物価が低下し続けると、人々 12 の間に「物価は上がらない、むしろ下がる ものだ」というデフレ予想が生まれ、一旦 こうしたマインドが定着すると、人々は物 価が上がらないことを前提に意思決定や行 動を行うようになることである。 デフレを前提とする経済には以下のよう な問題があり、デフレは、景気低迷の「結 果」であるとともに、それ自体が景気低迷 の長期化をもたらす「原因」になったと考 えられる。 @売上の減少と消費の低迷の悪循環 企業にとっては、デフレの下では製品や サービスの価格を引き上げることができな いため、売上高は伸びず、収益も上がりに くくなる。このため、人件費や原材料費、 設備投資をできるだけ抑制することになる。 一方、家計にとっては、賃金が上がらな いため、消費を抑えることになる。また、 将来物価が下落するのであれば、消費をで きるだけ先送りしようとする傾向が強まる。 このようにして消費が抑制されれば、企業 はさらに価格の引下げを余儀なくされる。 こうして、価格の下落→売上・収益の減 少→賃金の抑制→消費の低迷→価格の下落 の悪循環が生まれ、続くことになる。 A投資の抑制と成長力の低下 デフレは、企業の投資判断にも影響する。 第 1 に、デフレ予想が定着すると、たと え名目金利が低下しても、名目金利から予 想物価上昇率を差し引いた実質金利は高止 まりし、投資意欲を減退させる。 第 2 に、デフレ予想が定着すると、現金 や預金は金利がゼロないし極めて低い水準 であっても、これらを保有することが相対 的に有利な投資になる。デフレは、実物投 資やリスク性資産の収益率を低下させる一 方で、元本が保証される現金や預金の実質 的な収益率を高める方向に作用する。 こうして設備や研究開発に投資して、リ スクを取って新しいビジネスに挑戦しよう とするインセンティブを削がれると、需要 不足から景気の低迷とデフレが自己実現的 に長期化するとともに、経済の成長力も低 下を続けることになる。 (2)「2%の物価安定の目標」の実現 日銀は、日本銀行法に定められていると おり、「物価の安定を図ることを通じて国民 経済の健全な発展に資すること」を理念と して金融政策を実施している(法 2 条)。 共同声明等において、日銀が「物価安定 の目標を消費者物価の前年比上昇率で 2%」としたのは、以下の理由からこの「物 価の安定」を具体的に定義したものであり、 「これをできるだけ早期に実現することを 目指す」としたのは、法に定める物価安定 の使命を果たすため自ら決定したものであ る。 @消費者物価指数の上方バイアス 一般に消費者物価指数には、指数の上昇 率が高めに出る傾向=上方バイアスがある ことが知られている。実際 1998 年度以降 についてみると、消費者物価指数の変化率 は、GDPデフレーターの変化率を平均し て1%程度上回っている。このため、消費 者物価指数の前年比で「物価安定の目標」 を定義する場合には、ある程度プラスの値 にすることが必要である。 A金利の引下げ余地の確保:金融政策の 「のりしろ」 ごく単純化すれば、景気に対して中立的 な金利水準は、経済が持つ潜在的な成長率 13 と平均的な物価上昇率の合計によって決ま る。この 15 年間の困難を踏まえれば、デ フレを未然に防止するための有効な手段で ある金利操作のチャネルについて、これが 容易にゼロ金利制約に直面して失われるこ とのないよう、2%程度の物価上昇を安定的 に実現し、金利の引下げ余地を確保してお くことが重要である。 B物価安定目標のグローバル・スタンダー ド:中長期的な為替相場等の安定 物価指数の特性と金利の引下げ余地の確 保の観点から、世界の中央銀行の多くが 2%の物価上昇を目標とする政策運営を行 っている。具体的には、英国、カナダ、ニ ュージーランドなどでインフレ・ターゲッ トを 2%としているほか、米国でも長期的 な物価安定のゴールを 2%としている。ま た、ユーロ圏では物価安定の数値的な定義 を示す形で 2%未満かつ 2%近傍としてい る(図表 3)。 このように 2%の物価上昇は、世界の主 要中央銀行の物価安定目標のグローバル・ スタンダードになっており、中長期的に為 替相場の安定を図り、金融資本市場や企業 活動の安定に資するためには、世界各国と ともにこれを共有することが必要である。 (図表 3)各国の物価安定目標 出典:日本銀行・講演資料 (3)「量的・質的金融緩和」のポイント @強く明確なコミットメント まず、今回の決定で、日銀は、「消費者物 価の前年比上昇率 2%の物価安定目標を、2 年程度の期間を念頭に置いて、できるだけ 早期に実現する」と明確に表明した。 A量・質ともに次元の違う金融緩和 次に、このコミットメントを裏打ちする 手段として、量・質両面の金融緩和を行う ことを決めた。具体的には、金融市場調節 の操作目標を「金利」からマネタリーベー スという「量」に変更し、これを年間約 60 〜70 兆円のペースで増加させることにし た。その手段として、長期国債の保有残高 が年間約 50 兆円のペースで増加するよう 買入れる。質の面では、買入れ対象を全て のゾーンの国債に拡大した上で、買入れの 平均残存期間を現状の 3 年弱から国債発行 残高の平均並みの 7 年程度に延長した。さ らに、資産価格のプレミアムに働きかける 観点から、ETFとJ−REITの保有残 高がそれぞれ年間約1兆円、約 300 億円の ペースで増加するよう買入れを行うことに した。 Bわかりやすい金融政策 包括的金融緩和で導入された「資産買入 等の基金」を廃止し、長期国債の買入れ方 式を一本化した。また、量的緩和の指標と してマネタリーベースを選択した。日銀の 積極的な金融緩和姿勢を対外的にわかりや すく伝える上で最も適切であると判断した からである。 C金融緩和の継続期間 量的・質的金融緩和は、「2%の物価安定 目標の実現を目指し、これを安定的に持続 するために必要な時点まで」継続する。日 14 銀のコミットメントは、2%の物価上昇率を できるだけ早期に実現することであるが、 これは一時的にでも 2%を達成すればよい ということではない。2%の水準を安定的に 維持することが重要であり、物価の基調的 な動きを見極めながら、これを実現するの に必要な時点まで金融緩和を継続する。 (4)「量的・質的金融緩和」の効果:金融 緩和効果の波及経路 @金利と資産価格プレミアムの引下げ 長期国債やETF、J−REITの買入 れは、長めの金利の低下を促し、資産価格 のプレミアムに働きかける効果を持つ。こ れが、資金調達コストの低下を通じて企業 などの資金需要を喚起する。 Aポートフォリオ・リバランス 日銀が長期国債を大量に買入れる結果、 これまで長期国債の運用を行っていた投資 家や金融機関が株式や外債等のリスク資産 へ運用をシフトしたり、貸出しを増やした りするポートフォリオ・リバランス効果が 期待される。 B予想インフレ率の引上げ 物価安定目標の早期実現を約束し、次元 の違う金融緩和を継続することにより、市 場や経済主体の期待を抜本的に転換する効 果が考えられる。デフレ期待の払拭である。 予想インフレ率が上昇すれば、現実の物価 に影響を与えるだけでなく、実質金利の低 下などを通じて民間需要を刺激することも 期待できる。 ※8 予想インフレ率:人々が予想する将来の物価 上昇率。予想物価上昇率,期待インフレ率ともい う。利付国債と物価連動国債の利回り差から求め るブレーク・イーブン・インフレ率(BEI)のほか、 過去のインフレ率の実績、各種アンケート調査結 果などから推定される。一般に実際のインフレ率 と連動して変動するが、多くの人が一定の物価上 昇率が続くと予想すると、それをベースに行動す るため、実際の物価上昇率にも影響すると考えら れている。 ※9 フィッシャー方程式と実質金利:名目金利= 実質金利+予想インフレ率。実質金利は、本来異 時点間の財の相対価格であり、予想インフレ率と は無関係に決まるが、現実にはこれを直接観測す ることができず、また、名目金利が硬直性を示す こともあることから、名目金利と予想インフレ率 からフィッシャー方程式によって計算される値が 実質金利とみなされる。ここから、予想インフレ 率が上昇したとき、名目金利が同様に上昇しなけ れば、実質金利が低下するという関係が導かれる。 (5)金融政策運営を巡る論点 @為替相場への影響 日銀の金融政策は、あくまで国内物価の 安定を目的としており、為替をターゲット として金融政策を運営することはない。 我が国経済がデフレから脱却することは、 世界経済全体にも好影響を与えていくと考 えており、こうした点は既に国際的にも理 解を得られていると思う。 A財政ファイナンスとの関係 量的・質的金融緩和による長期国債の買 入れは、金融政策上の目的のために日銀自 身の判断で行うものであり、財政ファイナ ンスではない。 こうした議論を惹起しないためにも、政 府が今後の財政健全化に向けた道筋を明確 にし、財政構造改革を着実に進めていくこ とは極めて重要である。政府も、共同声明 において、「日本銀行との連携強化にあたり、 財政運営に対する信認を確保する観点から、 持続可能な財政構造を確立するための取組 15 を着実に推進する」としており、そうした 取組に強く期待している。 ※10 財政ファイナンス:一般に中央銀行が政府の 発行する国債などを直接引き受けることを言う。 中央銀行が政府の財政赤字を直接補填する措置で あり、国債のマネタイゼーションとも呼ばれる。 我が国では財政法 5 条により、特別の事由がある 場合を除き禁止されている。 B「三本の矢」との関係 現在政府進めている「三本の矢」は、極 めて適切な政策パッケージだと思う。 第1の矢である「大胆な金融緩和」は、 日銀の役割であり、日銀は責任を持って実 現する。「三本の矢」の他の2本、「機動的 な財政政策」や「成長戦略」の実行によっ て成長見通しを引き上げていくことは、よ りスムースに物価安定目標を達成すること にも繋がる。その着実な実行を大いに期待 している。 (6)デフレからの脱却 @デフレからの脱却とは 量的・質的金融緩和は、我が国の経済が デフレを脱却して、2%の物価安定目標が安 定的に持続する状態となるよう実施してい る。これは、「物価は上がらない」という人々 の認識を変え、景気が普通の状態であって も「物価はだいたい2%くらい上がる」こ とを前提に各経済主体が行動するようにな る状態にすることである。 このため、人々の中長期的なインフレ予 想を 2%程度まで引き上げ、そこでアンカ ーする必要があり、これができれば、物価 は平均的にその近傍で安定的に推移し、仮 に景気悪化などによって一時的な下落圧力 がかかっても、継続的に物価が下落するデ フレに陥ることは回避できるようになる。 量的・質的金融緩和は、デフレ下で定着 してしまった悪循環をちょうど逆回転させ ようとするものであり、予想インフレ率の 上昇=デフレ期待の払拭を起点として、物 価の緩やかな上昇→売上・収益の増加→賃 金の上昇→消費の活性化→価格の緩やかな 上昇という経済の好循環を実現し、定着さ せようとするものである。 ※11 フィリップス曲線:賃金上昇率又は物価上昇 率と失業率の負の関係を示した曲線。インフレ率 =γ×(自然失業率−実際の失業率):γ正のパラ メータ。これを将来のインフレ予想及び(自然失業 率−実際の失業率)と需給ギャップの比例的関係 を考慮して修正すると、物価上昇率と需給ギャッ プの関係を示すフィリップス曲線が得られる。イ ンフレ率=予想インフレ率+δ×需給ギャップ: δ正のパラメータ。 黒田総裁は、「1990 年代後半以降、日本のフィ リップス曲線は、人々の予想インフレ率の低下に より、それ以前より低下している(図 4)。量的・ 質的金融緩和は、この予想インフレ率を引き上げ ることによって、需給ギャップがゼロ、即ち景気 が普通の状態の時に物価上昇率が 2%となるよう フィリップス曲線を上方にシフトさせる政策」と 説明している。 (図表 4) フィリップス曲線 出典:日本銀行・講演資料 16 A量的・質的金融緩和による「期待の転換」 量的・質的金融緩和は、「期待の転換」を 特に重視している点で、日銀のこれまでの 金融緩和政策や海外の主要中央銀行が実施 している金融緩和政策と大きく異なる。 強く明確なコミットメントとそれを裏打 ちする異次元の金融緩和は、フォワード・ ルッキングに人々の予想インフレ率を引き 上げる。こうした予想インフレ率の上昇は、 フィリップス曲線を直接上方にシフトさせ、 実際のインフレ率を高める。また、実質金 利の低下やポートフォリオ・リバランスは、 景気刺激効果を強化し、需給ギャップの縮 小を通じて実際のインフレ率を上昇させる。 こうして実際に物価が上がり始めれば、バ ックワード・ルッキングにも予想インフレ 率が上昇し、好循環が生まれることになる。 B2%の物価安定目標の早期実現を目指す 理由:諸外国との違い 日銀を含む多くの中央銀行は、2%程度の 物価上昇率を目標に金融政策運営を行って いる。しかし、各国の消費者物価は、その 時々でかなり広いレンジで推移しており、 各中央銀行は、「中期的に平均して」あるい は「景気循環の波を通じて」、目標とする水 準を達成するように金融政策を運営してい る。その際、各中央銀行が重視しているの が中長期的な予想インフレ率の動向である。 なぜなら、中長期的な予想インフレ率が 2%程度でアンカーされていれば、景気の循 環や一時的な要因により実際の物価上昇率 が目標とする水準から離れたとしても、中 期的・平均的には物価安定の目標を達成で きる可能性が高いと考えられるためである。 日銀の物価安定の目標も基本的には同様 の考え方に基づくものであるが、日本の場 合は、長年にわたるデフレの下で、中長期 的な予想インフレ率がゼロ%近傍まで低下 しているとみられることから、人々の「物 価は上がらない」という感覚を早期かつ抜 本的に転換し、これを 2%程度まで引き上 げてアンカーし直すことが必要である。 デフレ均衡は一つの安定的な状態であり、 そこに向けて引力が働く。そこから脱却し、 縮小均衡から拡大均衡に転換するためには、 ロケットが地球の引力圏から離れる時のよ うに「速度と勢い」が必要である。「2%の 物価上昇率にこだわる必要はなく、1%程度 でも十分ではないか」との意見も聞かれる が、2%の物価安定目標がグローバル・スタ ンダードとなっているのは、デフレに陥ら ないためのいわば経験知であり、1%の低 い軌道ではまた引力に引き戻されるおそれ がある。また、「2%を目指すにしても、2 年程度という期間にこだわる必要はないの ではないか」との意見もあるが、「いつか 2%にする」では、デフレマインドが定着し てしまった人々が「これからは 2%を前提 に行動しよう」とは思わないであろう。こ れが、日銀が 2%の物価安定目標の早期実 現にこだわる理由であり、期待形成のモメ ンタムの維持を重視する理由である。 C成長戦略と金融政策 日本の潜在成長率は、1990 年代以降低下 を続け、最近では 0%台半ばで推移してい る(図表 5)。その向上を図るため、政府に おいて、民間投資を喚起するための成長戦 略として「日本再興戦略」を策定・改訂し、 その実行に取り組んでおり、日銀としては、 その着実な実施に強く期待している。 成長力強化の取組は極めて重要であるが、 中長期的課題であり、それが実を結び、実 17 際に潜在成長率が引き上げられるまでには ある程度の時間を要する。しかし、それに よって、金融政策運営上、物価安定目標の 達成が困難になることはない。量的・質的 金融緩和を着実に推進することで、需給ギ ャップの改善と予想インフレ率の上昇を通 じ、2%は達成できると考えている。 その上で強調したいのは、デフレから脱 却すること自体が日本経済の成長力の強化 に資するということである。成長力の源泉 はあくまでも民間企業の投資とイノベーシ ョンであり、政府の成長戦略の役割は企業 がビジネスチャンスを十分に活かせるよう な環境を整備することである。デフレから 脱却し、経済主体が 2%の物価上昇を前提 に行動するような経済・社会を実現するこ とは、失われたアニマルスピリットを復活 させることになると考えられる。 (図表 5) 潜在成長率 出典:日本銀行・講演資料 (7)「量的・質的金融緩和」拡大の意義 消費税率引上げ後の反動減は、自動車な どの耐久消費財を中心にやや長引いている。 また、このところ原油価格が大幅に下落し ている。現在の物価下押し圧力が残存する 場合、これまで着実に進んできたデフレマ インドの転換が遅延する可能性も否定でき ない。これは量的・質的金融緩和の核とな るメカニズムに関するリスクであり、こう したリスクの顕現化を未然に防ぎ、好転し ている期待形成のモメンタムを維持するた めに、量的・質的金融緩和を拡大すること とした。今般の措置は、日銀の揺るぎない コミットメントを示すものにほかならない。 (8)「マイナス金利付き量的・質的金融緩 和」導入の意義と効果 2016 年年明け以降、原油価格の一段の下 落に加え、中国をはじめとする新興国・資 源国経済の先行き不透明感などから、金融 市場は世界的に不安定な動きとなっている。 こうした状況を踏まえると、企業のコンフ ィデンスの改善や人々のデフレマインドの 転換が遅延し、物価の基調に悪影響が及ぶ リスクが増大していると考えられる。こう したリスクの顕現化を未然に防ぎ、2%物価 安定目標の達成に向けたモメンタムを維持 するため、「マイナス金利付き量的・質的金 融緩和」の導入を決定した。 マイナス金利の適用と大規模な長期国債 買入れで、イールドカーブ全体により大き な下押し圧力を加えることができる。日銀 は、この枠組みの下、「量」・「質」・「マイナ ス金利」の3つの次元で金融緩和を進めて いく(図表 6)。 なお、一部に「量的・質的金融緩和の限 界」が言われるが、長期国債の買入れにつ いても、全体の約3分の2が市場に残って おり、更に買入れを拡大することは十分可 能である。また、オペ先の金融機関がマイ ナス金利で被るコスト負担は、長期国債等 の売買価格の上昇、すなわち利回りの低下 で釣り合うことになるので、マイナス金利 政策の下でも、長期国債の買入れが困難に 18 なることはないと考えている。 (図表 6)マイナス金利導入後の国債イールドカー ブの変化 出典:日本銀行・講演資料 (9)「長短金利操作付き量的・質的金融緩 和」導入の意義と考え方 @金融政策の課題への対応 前例のない大規模な金融緩和を行ったに もかかわらず、日本におけるインフレ予想 の形成は依然としてかなりの程度「適合的」 であり、2014 年夏以降の原油価格の大幅下 落を受けて物価上昇率が低下すると、これ により予想物価上昇率は再び低下傾向をた どっている(図表 7)。また、長短金利が有 意にプラス領域にあったときは、金利は低 いほど金融緩和効果が高まると考えること ができたが、短期金利がマイナスとなり、 長期金利も極めて低い水準まで低下すると、 金融仲介機能ひいては金融緩和効果を低下 させる副作用やコストが生じ得ることが認 識された。こうして、第 1 に、一度低下し たインフレ予想をどのように引き上げ、目 標である 2%に再びアンカーするか、第 2 に、経済・物価に対し最大限の金融緩和効 果を引き出す最適なイールドカーブの水準 や形状があるのではないかが金融政策の大 きな課題になってきた。 これら二つの課題に対応するため、日銀 は従来の政策枠組みを発展・強化する形で、 「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」 の導入を決定した。 (図表 7) 予想物価上昇率 出典:日本銀行・講演資料 Aオーバーシュート型コミットメント オーバーシュート型コミットメントは、 「消費者物価上昇率の実績値が安定的に 2%を超えるまでマネタリーベースの拡大 方針を継続すること」を約束し、人々の物 価観に一段と積極的に働きかけることを企 図したものである。 ポイントは、消費者物価上昇率の「見通 し」でなく、「実績値」に基づいたコミット メントとしたことである。金融政策が経 済・物価に影響するまでには時間差がある ことを踏まえると、中央銀行が実績値をベ ースにここまで強いコミットメントを行う ことは異例である。しかし、長年インフレ が続いてきた我が国において、予想物価上 昇率を 2%程度に引き上げ、その水準でし っかりとアンカーするためには、人々が実 際に 2%を超える物価上昇率を経験し、「物 価は毎年 2%くらい上がっていくものだ」 という物価観を定着させていくことが必要 である。このため、オーバーシュート型コ ミットメントによって、こうした姿が実現 19 するまで大規模な金融緩和を継続すること を約束したものである。 Bイールドカーブ・コントロール イールドカーブ・コントロールは、従来 のマネタリーベースの増加額や国債買入額 に代えて、長短金利水準を金融市場調節方 針の操作目標とし、2%の物価安定目標の達 成に向け最も適切と考えられるイールドカ ーブの形成を促すこととしたものである。 中央銀行による金利操作については、伝 統的に「短期金利の操作はできるが、長期 金利の操作はできない」と考えられてきた。 グローバル金融危機以降、量的緩和政策を 導入したいずれの中央銀行も、国債の買入 額を操作目標とし、その結果として長期金 利が内生的に決まるという枠組みを採用し ている。 しかし、総括的な検証では、国債買入れ が長期金利に及ぼす影響は時々の状況によ ってかなり異なることが分かった。つまり、 国債の買入額を操作目標として事前に決め ると、実現する長期金利は中央銀行が最も 望ましいと考える水準よりも高過ぎたり低 過ぎたりすることになる。他方、日銀は既 に極めて多額の国債買入れを行っており、 これとマイナス金利の組合せによって、長 期金利の押下げに大きな効果を発揮してい る。こうした状況を踏まえ、日銀は、主要 国の中央銀行で初めて、長短金利に操作目 標を明示的に設定するイールドカーブ・コ ントロールの導入に踏み切ることとした。 なお、長短金利水準を示す金融市場調節 方針は、以上の考え方に沿って金融政策決 定会合で決定し、国債買入れなどのオペ運 営は、この金融市場調節方針を実現するた めに実務的に決定される。毎回の国債買入 れの金額などは金融市場の状況に応じて変 化するが、日々のオペ運営によって先行き の政策スタンスを示すことはない。 また、しばしば指摘される「国債買入れ の限界」については、これまでのところ国 債の買入れは円滑に行われており、近い将 来問題が生じるとは考えていない。その上 で、仮に将来いずれかの時点で国債の需給 が逼迫するような状況になった場合には、 より少ない金額の国債買入れによって同じ 金利低下効果を実現できることになり、1 単位の国債買入れによる長期金利押下げ効 果はより大きなものとなる。このようにイ ールドカーブ・コントロールは、極めて持 続性が高いスキームである。 3.黒田日銀の2期目のスタート 以上のような考え方の下、日銀は、2013 年 4 月以来異次元金融緩和を強力に推進し てきたが、2%の物価安定目標の達成は 6 度にわたり延期され、未だ実現していない。 こうした中、黒田総裁は、去る 4 月 9 日、 日銀総裁に再任され、また、3 月 20 日、岩 田規久男・中曽宏両副総裁の後任として、 雨宮正佳日銀理事及び若田部昌澄早稲田大 学教授が副総裁に新任された。これにより 新たな体制の下、黒田日銀の 2 期目の 5 年 がスタートすることになった。 総裁任命に係る国会質疑や記者会見にお いて、黒田総裁は、異次元金融緩和に関し 次のような所信を述べられている。また、 雨宮・若田部両副総裁も、多少ニュアンス の違いはあるが、金融政策に関する基本認 識は黒田総裁と共通しているとみられる。 「2%の物価安定の目標」の実現を図り、こ れを安定的に持続するために必要な時点ま 20 で、引き続き異次元金融緩和を強力に推進 していくというものである。 @日本経済の現状認識 日本経済はこの 5 年間で大きく好転し、 戦後 2 番目の長さとなる景気回復が続いて いる。企業収益は既往ピークを更新し、労 働市場はほぼ完全雇用、賃金も緩やかなが ら着実に上昇し、生鮮食品・エネルギーを 除いた消費者物価は 2013 年秋以降ほぼ一 貫して前年比プラスで推移して、日本経済 は物価が持続的に下落するという意味での デフレではなくなっている。 このように経済・物価情勢は大幅に改善 したが、2%の物価安定の目標の実現までに はなお距離がある。原油価格の大幅な下落 なども影響したが、より根本的な要因は家 計や企業に根付いたデフレマインド、これ を転換するにはある程度の時間を要するこ とも明らかになってきた。 もっとも、賃金・物価は緩やかに上昇し、 人々のインフレ予想も上向いてきているな ど、情勢は着実に変化しており、日本経済 はデフレ脱却に向けた道筋を着実に歩んで いる。現在の強力な金融緩和を粘り強く続 けていくことにより、物価安定の目標を実 現できると考えている。 A出口についての考え方 将来の出口の局面では、金利水準の調整 と拡大したバランスシートの扱いが課題と なる。その際には、保有国債の償還や各種 の資金吸収オペレーションのほか、超過準 備に対する付利金利の引上げなどの手段を 活用することで、市場の安定を確保しなが ら適切な政策運営を行うことは十分可能と 考えている。 一方、出口の局面で実際にどの手段をど の順序で用いるかは、その際の経済・物価・ 金融情勢によって変わり得る。あまり早い 段階で出口の進め方を具体的に説明するこ とは難しく、市場との対話という観点から もかえって混乱を招くおそれが高いのでは ないかと思う。現在は、先行きの経済・物 価動向を注意深く点検していくことが必要 な情勢であり、出口のタイミングやその際 の対応の手順等を検討する局面には至って いないと考えている。 B消費税率引上げの影響 2014 年 4 月の消費税率 3%引上げは、予 想以上に駆け込み需要とその反動減が大き く、2014 年夏からの原油価格の大幅な下落 もあって物価上昇率が下がり、適合的期待 形成から物価上昇期待にも影響した。2019 年 10 月に予定される消費税率の引上げは 2%で、しかも食料品は引き上げない、税収 の一部を教育の充実等に支出するとなって いるので、その影響は前回と比べるとかな り小さなものになると予想される。ただ、 消費税の影響は、その時の経済・物価の状 況によっても影響され得るので、状況を十 分注視していく必要があると考えている。 C現時点での緩和の縮小調整 現時点では、まだ 2%の物価安定の目標 には距離があるので、今の段階で将来の政 策の余地を拡大するために引締めに転換す るとか、緩和を縮小していくことは適切で ないと考えている。 D安倍総理とのやり取り 総理から、2%の物価安定の目標の実現に 向けてしっかりとした金融政策の舵取りを して欲しいと言われた。私自身も、共同声 明の中にしっかりと日本銀行及び政府のそ 21 れぞれの役割が記されているので、これを 堅持して 2%の物価安定の目標をできるだ け早期に達成すべく全力を挙げたいと申し 上げた。 E財政政策が果たすべき役割 財政については、政府、国会で決めるべ きことで、私から何か言うことは適切でな いが、共同声明にかなりはっきり書いてあ るので、必要に応じて財政政策の対応があ り得るし、中長期的に財政の健全化や持続 可能性を高める努力を引き続き行っていか れるだろうと思っている。 F2%の物価安定目標にこだわらない政権 への交代があった場合 共同声明は、現在の政権と日本銀行との 間で合意されたものだが、「2%の物価安定 の目標をできるだけ早期に実現する」こと は、日銀が政策委員会で決定したことであ る。消費者物価の上方バイアスや政策余地 の確保、2%がグローバル・スタンダードに なっており、その下で中長期的に為替も安 定し得ることも含めて、日銀が物価安定の 使命を実現するために決定している。この 考え方自体、私は変更する必要はないと思 っている。 G正常化のプロセスに入るタイミング 2%の物価安定目標がしっかり達成され ることがはっきりする時点まで、現在の長 短金利操作付き量的・質的金融緩和を続け ていく。さらにオーバーシュート型コミッ トメントという形で、2%を超えてもマネタ リーベースの拡大方針を続けていく。そう いった状況になった時に出口や正常化を進 め、あるいはそうした議論がまずは行われ ることになると思う。 米国の場合、目標の 2%に達していない が、短期金利の引上げを何度も行い、バラ ンスシートの縮小も始めたという意味で正 常化のプロセスに入っている。予想物価上 昇率が目標の 2%にしっかりアンカーされ ているので、我が国とはやや違った面があ ると思っている。 H欧米と比べたバランスシートの大きさ、 保有資産利回りの低さ 大幅な緩和を続けた後の金融政策の転換 のやり方としては、あまり性急に引き締め ていくようなことをすると、金融システム に影響が出るかもしれない。特に非伝統的 金融政策の場合は、長期金利が跳ねたりし ないよう、経済や市場に悪影響が出ないよ うに慎重に緩やかに進めていくのではない かと思う。バランスシートの大きさや保有 資産利回りの低さはもちろん影響はあるで あろうが、それが本質的な問題だとは思っ ていない。 I2019 年度頃の 2%の達成時期が後ずれ するような場合の追加措置 2%の物価安定の目標に向けて、経済・物 価等がしっかりしたモメンタムを維持して いるかどうかにより追加的な措置を検討す る。その点は従来と全く変わりはない。 J金融緩和の副作用 大規模な金融緩和を長く続けた時の副作 用は十分考慮しなくてはならない。特に金 融資本市場が金融仲介機能を十分発揮でき る状況にあるかどうかは重要な関心事項で あり、十分みていく必要があるが、今の時 点で長短金利操作付き量的・質的金融緩和 が何か大きな影響を及ぼしていることはな いと思う。 22 4.異次元金融緩和の成果 日銀の異次元金融緩和が開始されてほぼ 5 年が経過する。前記のとおり黒田総裁は 日本経済の現状についてかなり肯定的に評 価されているが、この間の経済情勢等をた どりながら、実現したこと・実現しなかっ たことなど異次元金融緩和の成果について みることとしたい。 (1)経済情勢 @GDP(国内総生産) (図表 8・9)によってGDPの長期的推 移をみると、1985年〜2017年の33年間に、 名目GDPは 320 兆円から 550 兆円、実質 GDPは 310 兆円から 530 兆円へと増加し ている。 この間、1990 年代初めのバブル崩壊と 2007〜2009 年の世界金融危機の二つの大 きな節目があり、名目GDPは 1992 年頃ほ ぼ 500 兆円に達した後、500〜530 兆円程度 で横ばいに推移し、さらに世界金融危機と 東日本大震災のあった 2009〜2011 年には 480 兆円台まで低下し、ようやく 2015 年に なって 530 兆円を超え、2017 年に 550 兆円 となっている。 また、実質GDPは概ね増加傾向をたど っているが、2008・2009 年に△2.1%・△ 6.0%の著しい落込みがあったほか、1991 年までの年平均成長率が 4.7%であったの に対し、1992 年以降の成長率は 2008・2009 年を除いても 1.3%と大きく低下している。 (図表 8) GDP(実額)(1985〜) 兆円 出展:内閣府・四半期別GDP速報 (図表 9) GDP(前年比)(1985〜) % 出展:内閣府・四半期別GDP速報、月例経済報告 次に、(図表 10)によって最近の実質G DPの推移をみると、2016 年第 1 四半期以 降、直近の 2017 年第 4 四半期まで 8 期連続 でプラス成長が続いており、△1.1%だった 2015 年第 4 四半期を挟めば、プラス成長は さらに2014年第4四半期まで遡ることがで きる(5 月 16 日には発表されたGDP速報によ ると、2018 年第 1 四半期の実質成長率は△0.6%、 2017 年度の実質成長率は 1.5%である)。 また、内閣府社会総合研究所の景気基準 日付によれば、2012 年 12 月以来景気回復 局面が続いており、本年4月現在で 64 カ月 と、最長の 2002 年 2 月〜2008 年 2 月の 73 ヶ月に迫る戦後 2 番目の長さとなっている (図表 11)。 このように我が国経済は、良好な状態が 継続しているが、各四半期の実質GDPの 平均成長率は、2013 年第 2 四半期〜2017 23 年第 4 四半期が 1.3%、8 期連続でプラス成 長している2016年第1四半期〜2017年第4 四半期でも 1.8%であり、それ以前の例えば 2009年第2四半期〜2013年第1四半期の成 長率が 2.2%であったことと比べても、そ の成長率は力強さに欠け、緩やかなものに とどまっている。戦後最長の景気回復局面 である 2002 年 2 月〜2008 年 2 月の各四半 期の平均成長率は約 1.6%であり、「実感な き経済成長」と言われたが、今回もほぼ類 似した状況にあると考えられる。 (図表 10) GDP(前期比・年率) % 出展:内閣府・四半期別GDP速報 (図表 11) 景気回復局面の継続期間 出典:内閣府等、日本銀行・講演資料 A潜在成長率と需給ギャップ 我が国経済の潜在成長率は、1980 年代に は 3〜5%であったが、バブル崩壊後急速に 低下し、1990 年代末から 1%前後、世界金 融危機時には 0%前後まで低下した。その 後金融危機を脱するとともにやや回復し、 最近は 1%程度となっている(2017 年第 4 四 半期:内閣府推計 1.1%、日銀推計 0.9%)(図表 12)。 一方、需給ギャップは、バブル期は大き なプラスであったが、バブル崩壊後は、 1996・1997 年、2006 年〜2008 年前半等の 一時期を除いて基本的にマイナスであり、 特に世界金融危機時には△7%の大きなデ フレギャップが発生した。しかし、その後 急速にマイナス幅は縮小し、日銀推計の需 給ギャップは2016年第4四半期から5期連 続、内閣府推計のGDPギャップは 2017 年第 2 四半期から 3 期連続でプラスとなっ ている(2017 年第 4 四半期:内閣府推計 0.7%、 日銀推計 1.5%)(図表 13)。 このように需給ギャップがプラスになる と、物価上昇圧力が高まり、デフレ脱却を 後押しすることになるが、それは同時に、 実質経済成長率が既に上限又は上限近くに 達していることを意味する(図表 9)。人々 が真に望んでいるのは、実質的な経済成長 であり、今後は成長戦略等により潜在成長 率を高めることがより重要な課題になると 考えられる。 ※12 潜在成長率:過去のトレンドからみて平均的 な水準で生産要素を投入した時に実現可能なGD Pを潜在GDP、その変化率(年率)を潜在成長 率という。景気循環の影響を除いた中長期的に実 現可能な経済成長率であり、供給面からの一国の 経済力の指標とされる。一般に資本、労働力、全 要素生産性の伸びの総和として推計される。 ※13 需給ギャップ:一国の経済の総需要(実際の GDP)と供給力(潜在GDP)の差を示す指標。 総需要が供給力を上回るとプラスとなり、インフ レ傾向、逆に下回るとマイナスとなり、デフレ傾 向になる。内閣府は、(実際のGDP−潜在GDP) ÷潜在GDP=「GDPギャップ」を推計し、日 銀は、生産設備の稼働率や失業率・労働参加率等 24 を直接捉えて「需給ギャップ」を推計している。 (図表 12) 潜在成長率(1985〜) % 出典:内閣府、日本銀行 (図表 13) 需給ギャップ(1985〜) % 出典:内閣府、日本銀行 B民間最終消費支出 GDPの最大の需要項目である民間最終 消費支出の長期的推移をみると、(図表 14) のとおり、(図表 8)のGDPと類似した形 で緩やかに上昇しているが、世界金融危機 後の2009年第1四半期と消費税引上げ後の 2014年第2四半期の落ち込みがやや目立っ ている。 また、(図表 15)によって最近の実質民 間最終消費支出の推移をみると、総じて低 調であるが、特に 2013 年第 2 四半期〜2017 年第 4 四半期の平均伸び率は 0.4%、2016 年第 1 四半期〜2017 年第 4 四半期でも 0.9%にとどまっている(2009 年第 2 四半期〜 2013 年第 1 四半期は 1.8%)。2014 年 4 月の消 費税率引上げに伴う反動減が大きいが、そ の後も積極的な消費拡大の傾向は現れてい ない。 (図表 14)民間最終消費支出(実額)(1985〜)兆円 出展:内閣府・四半期別GDP速報 (図表 15) 民間最終消費支出(前期比) % 出展:内閣府・四半期別GDP速報 C賃金・所得動向 その背景として、勤労者の賃金・所得の 動向をみると、一人当たりの所得である現 金給与総額の賃金指数(2015=100)は、名 目・実質ともに 1997 年 1 月をピーク(それ ぞれ 118・120)に長期低落傾向を続け、2014 年4月以降は100程度と1990年以来最低の 水準で推移している(図表 16)。また、2008 年以降の対前年変動率をみると、名目が 2013 年夏以降微増で推移する中、消費者物 価が上昇した 2013 年夏ごろから 2015 年初 めにかけて実質が大きくマイナスとなり、 これが実質指数を名目指数まで下押しする 大きな要因となっている(図表 16・17)。 25 (図表 16) 現金給与総額(1990〜)2015=100 出典:厚生労働省・毎月勤労統計 (図表 17) 現金給与総額(前年比) % 出典:厚生労働省・毎月勤労統計 一方、現金給与総額に非農林業雇用者数 を乗じた総雇用者所得の指数(2011=100) の名目は、1997 年 12 月をピーク(114)に 長期低落傾向を続けてきたが、2014 年から 回復し、直近の 2018 年 2 月には 108 まで回 復している。また、実質は、1997 年 12 月 を一つのピーク(101)として概ね横ばいで 推移してきたが、2016 年からやや上昇し、 2018 年 2 月に 104 となっている(図表 18・ 19)。 しかし、これは、下記のとおり就業者数 全体がほぼ横ばいである中、非農林業雇用 者数が増加したことを反映したものであり、 消費の拡大を図るためには、何よりも一人 当たりの所得=賃金の増加が必要と考えら れる。 (図表 18) 総雇用者所得(1994〜)2011=100 出展:内閣府・月例経済報告 (図表 19) 総雇用者所得(前年比) % 出展:内閣府・月例経済報告 D雇用情勢と今後の見通し 雇用情勢は、(図表 20)のとおり、世界 金融危機後の 2009 年をボトムとして急速 に改善し、完全失業率や求人倍率はほぼバ ブル期と同等になっている。その要因を求 人倍率についてみると、求人数が大きく増 加する一方求職者数が減少しており、これ らが相乗して求人倍率が高くなっているこ とが分かる(図表 21)。 こうした情勢を反映して、パートの時間 当たり所定内給与は 2010 年以来大きく上 昇しているが、一般の所定内給与の改善ペ ースは極めて緩やかであり、2014 年以降よ うやくプラスとなっている(図表 22)。 (図表 23)は、経団連傘下の大企業の昇 給・ベースアップの実施状況である。昇給 は毎年 2%程度行われているが、賃金水準 26 の上昇につながるベースアップは 2000 年 頃から 10 年以上にわたり休止されてきた。 安倍首相の強力な働き掛けもあり、2014 年 から久々にベースアップが復活したが、未 だ 0.3〜0.4%にとどまり、今後の更なる拡 大が期待される状況である。 (図表 20) 失業率と求人倍率(1985〜)%・倍 出展:総務省・労働力調査、厚生労働省・職業安定業務統計 (図表 21) 求人倍率の状況(1985〜)倍・万人 出展:厚生労働省・職業安定業務統計 (図表 22) 就業形態別の賃金(前年比) % 出典:日本銀行・講演資料 (図表 23) 昇給・ベースアップの実施状況 % 出展:経団連・昇給、ベースアップ実施状況調査 (図表 24)は、1985 年以降の就業者数等の 推移である。15〜65 歳の生産年齢人口は 1995 年の 8700 万人をピークに 2017 年の 7600 万人まで 1100 万人減少しているが、 この間、就業者数は 6500 万人でほぼ横ばい、 非農林業雇用者数は 5230 万人から 5760 万 人へと 530 万人増加している。就業者で増 加が目立つのは 60 歳以上と女性であり、特 に非農林業雇用者では女性が 530 万人増加 している。就業率(人口に占める就業者の割合) の推移をみると、2006 年以降 60〜65 歳が 急増し、2013 年以降は全体に就業率が上昇 している(図表 25)。また、雇用者のうち正 規雇用は 1998 年から減少し、非正規雇用は 1985 年以来一貫して増加している。その結 果、雇用者に占める正規雇用の割合は約 8 割から 6 割へと大きく低下し、非正規雇用 が 4 割を占めるに至っている。ただし、2015 年以降は、正規雇用もやや増加し、その割 合の低下に下げ止まりの兆しもみられる (図表 26)。 27 (図表 24) 就業者数等(1985〜) 万人 出展:総務省・労働力調査 (図表 25) 就業率(1985〜) % 出展:総務省・労働力調査 (図表 26) 正規・非正規雇用の状況 万人・% 出展:総務省・労働力調査 以上のとおり我が国の生産年齢人口は、 1995 年をピークに 2017 年まで 1100 万人減 少し、特に 2009 年以降 600 万人減少してい る。これまで非正規雇用を中心に 60 歳以上 と女性の就業者の増加によってこの減少を カバーしてきたが、これらの就業率も既に 相当程度高くなっている。最近の雇用情勢 の好転は、景気の回復以上にこうした人口 動態の進展を多分に反映したものと捉える ことができる。 しかし、我が国の生産年齢人口は、少子 高齢化の進展に伴い、2065 年さらに 22 世 紀に向けて更に大きく減少すると見込まれ る(図表 27・28)。今後は、経済成長のボト ルネックとなる労働力不足の問題として顕 在化することが予想され、就労の質の向上 や省力化の推進を含め、就業者一人当たり のGDP、即ち労働生産性を向上すること が極めて重要な課題になると考えられる。 (図表 27) 年齢別人口(1955〜2065) 万人 出展:国立社会保障・人口問題研究所・人口統計資料集 (図表 28) 年齢別人口(対前 5 年増減数)万人 出展:国立社会保障・人口問題研究所・人口統計資料集 E民間企業設備 次に、景気変動の主因であり、将来の経 済成長の源泉となる民間企業設備の推移を みると、(図表 29)のとおり、2013 年第 2 四半期〜2017年第4四半期の実質企業設備 の平均伸び率は 4.1%、2016 年第 1 四半期 〜2017 年第 4 四半期は 2.5%であり(2009 年第 2 四半期〜2013 年第 1 四半期は 0.8%)、特 28 に 2013 年第 2 四半期〜2015 年第 1 四半期 が 7.2%と高くなっている。 また、(図表 30)によって民間企業設備 の長期的推移をみると、1991 年にピークと なった後、バブル崩壊と世界金融危機で大 きく減少したが、その後は順調に回復し、 特に実質額はバブル期のピークを上回って いる。しかし、そのGDP比率は、1991 年 に名目 21%・実質 19%に上ったが、その後 は名目・実質ともに 15%前後で低位に推移 している。これを法人企業の(営業キャッ シュフロー+人件費)に対する設備投資の 比率でみると、(図表 31)のとおりバブル 崩壊後低下しており、企業活動レベルにお いても、設備投資のウェイトは大きく低下 していることが分かる。 こうした状況を反映して、非金融法人企 業の貯蓄投資バランスは、(図表 32)のと おり、1998 年以降プラスとなり、最近は最 大の黒字部門となっている。しかし、非金 融法人企業は、本来赤字部門として家計の 黒字を吸収し、設備投資や研究開発投資を 積極的に行うことによって、有効需要を生 み出すとともに、経済成長の基盤を充実す ることが期待される部門である。1998 年以 降の状況は、民間需要の恒常的な不足と経 済成長力の低下が生じていることを示すも のであり(一般政府の大幅赤字と海外部門の赤 字が経済を支える状態)、我が国経済が長期低 迷を脱するためには、このISバランスを 是正することが最大の課題の一つと考えら れる。 (図表 29) 民間企業設備(前期比) % 出展:内閣府・四半期別GDP速報 (図表 30)民間企業設備(実額・GDP比率)兆円・% 出展:内閣府・四半期別GDP速報 (図表 31) 法人企業の設備投資比率 % (図表 32) 貯蓄投資バランス(対名目GDP)% 出典:内閣府・国民経済計算 29 F輸出・輸入 民間企業設備と並んで景気変動の大きな 要因となる輸出・輸入の推移をみると、(図 表 33)のとおり、輸出・輸入とも 2008 年 半ばまで増加した後、世界金融危機により 急減したが、円安が進んだ 2013 年から大き く回復している。 一方、輸出から輸入を差し引いた純輸出 は、(図表 34)のとおり、名目は 5〜10 兆 円で推移してきたが、世界金融危機後大き く減少し、ようやく 2016 年に至ってプラス になっている。また、実質は 2007〜2008 年、2010 年などごく一部の期間を除いてマ イナスであり、現在、2014 年第 1 四半期を 底に回復傾向にあるが、未だマイナスを脱 していない。 (図表 33) 輸出・輸入(1985〜) 兆円 出展:内閣府・四半期別GDP速報 (図表 34) 純輸出(1985〜) 兆円 出展:内閣府・四半期別GDP速報 (図表 35・36)は、こうした名目輸出と 名目輸入の動向を数量と価格の要因に分け てみたものである。輸出金額は 2013 年から 大きく回復したが、これは専ら輸出価格の 上昇によるもので、輸出数量はむしろ弱含 んでいる。2013 年から円安が進み(図表 36)、 数量的にも輸出の拡大が期待されたが、こ れは実現せず、いわば円換算した評価額の みが上昇した。これはグローバルに事業展 開する企業が海外子会社や関連会社の収益 を円換算して連結財務諸表を作成する場合 も同様であり、企業収益が増加しても、実 体が伴わなければ、円の世界で大規模な所 得移転のみが生じることになる。これが輸 出(金額)の拡大にもかかわらず、関連産 業への波及効果に乏しく、経済全体が活性 化しない主因と考えられる。 一方、輸入数量は、世界金融危機後の一 時的減少はみられるものの、全体として緩 やかに増加している。輸入金額の大きな増 減は専ら輸入価格の変動によるものであり、 原油価格と為替レートの影響が大きいと考 えられる(図表 37・38)。特に 2007〜2014 年原油価格は歴史的にも異常な高値圏にあ ったが、2008〜2012 年の円高がこれを相殺 し、輸入価格にみられるように交易条件の 悪化を相当程度緩和したと考えられる。 (図表 35) 貿易指数(輸出) 2010=100 出展:財務省・貿易統計 30 (図表 36) 貿易指数(輸入) 2010=100 出展:財務省・貿易統計 (図表 37) ドル・円レート(1992〜) 出典:日本銀行 (図表 38) 原油価格(1990〜) ドル/バレル 出典:IMF G経常収支 (図表 39)は、経常収支の推移である。 貿易収支は、2008 年以降大きく悪化し、 2011〜2015 年に赤字となったが、2014 年を 底に回復し、2016 年から黒字となっている。 また。対外資産の蓄積に伴い、第 1 次所得 収支(対外金融債権・債務から生じる利子・配当 金等の収支)が着実に増加し、2005 年以降 貿易収支を上回って最大の黒字項目となっ ている。また、サービス収支は、インバウ ンドや知的財産権等使用料の増加によって 順調にマイナス幅が縮小している。これら を総合した経常収支は、変動幅の大きい貿 易収支とほぼ同様の動きを示し、2008 年以 降大きく悪化したが、赤字に陥ることなく、 2014 年を底に大きく回復している。 (図表 39) 経常収支(1996〜) 兆円 出展:財務省・国際収支統計 (2)金融情勢 @金利 (図表 40)は、すべての金利の基準とな る国債の利回りの長期的な推移である。 1990年9月にはほぼすべての年限の国債利 回りが 8%を超えたが、ゼロ金利政策が導 入された 1999 年まで急速に低下し、以後、 2002 年後半〜2013 年前半を除き、2008 年 夏までほぼ横ばいで推移した(2008 年 8 月の 利回り:概ね残存期間 1 年債 0.6%、5 年債 1.0%、 10 年債 1.5%、20 年債 2.1%、30 年債 2.4%)。 2008年9月のリーマンショックの発生と 政策金利の逐次引下げを受け、国債利回り は再び低下する(2013 年 1 月の利回り:概ね 1 年債 0.1%、5 年債 0.2%、10 年債 0.8%、20 年債 1.8%、30 年債 2.0%)。 ここを出発点として2013年4月から異次 元金融緩和が導入された。(図表 41)がそ の後の推移である。国債利回りは更に低下 を続け、特に著しかったのが 2016 年 1 月の 31 マイナス金利導入後である(ボトムとなった 2016 年 7 月の利回り:概ね 1 年債△0.4%、5 年債 △0.4%、10 年債△0.3%、20 年債 0.0%、30 年債 0.1%)。その後 2016 年 9 月のイールドカー ブ・コントロールの導入もあり、国債利回 りはやや戻して、2017 年 2 月からはほぼ横 ばいで推移している(2018 年 4 月の利回り: 概ね1年債△0.1%、5年債△0.1%、10年債0.0%、 20 年債 0.5%、30 年債 0.7%)。 日銀は、現在、政策金利残高△0.1%・10 年物国債金利ゼロ%程度を金融市場調節方 針として長短金利操作を行っており、国債 利回りは1年債△0.2〜△0.1%、10年債0.0 〜0.1%で推移している。これを主要国と比 較すると、(図表 42)のとおり、2016 年 11 月のトランプ大統領の当選以降、米国の 10 年国債は 2.5%台に急上昇し、ドイツ国債 も 0.5%程度まで上昇しているが、日本国 債はこうした世界の金利動向に関わりなく 低位で安定的に推移している(その後米国 10 年国債は、この 5 月に 3%台に乗せている)。 (図表 43)は、異次元金融緩和導入後の 国債のイールドカーブの推移である。マイ ナス金利導入により大きく下方シフトし、 その後やや戻して安定的に推移している。 これを我が国と同様マイナス金利を導入し ているユーロ圏のドイツ・フランスと比較 すると、(図表 44)のとおり、我が国は長 短金利差の少ないフラット化の傾向が強く、 金融機関の経営や金融仲介機能を維持する 上での大きな課題になっている。 (図表 40) 主要年限別国債利回り(1990〜) % 出典:財務省・国債金利情報 (図表 41) 主要年限別国債利回り(2013〜) % 出典:財務省・国債金利情報 (図表 42) 主要国の 10 年国債利回り % 出典:Bloomberg、日本銀行・講演資料 (図表 43) 国債のイールドカーブ % 出典:bloomberg、内閣府資料 32 (図表 44)日本とユーロ圏の国債イールドカーブ 出典:日本銀行・講演資料 (図表 45)は、日銀スタッフの推計によ る自然利子率(均衡実質金利)と実質金利の 推移である。2008 年の世界金融危機まで総 じて実質金利は自然利子率を下回ってきた が、金融危機後は自然利子率の低下により これが逆転した。しかし、2013 年以降は、 国債利回りの更なる低下と消費者物価の上 昇、自然利子率の下げ止まりによって、実 質金利は自然利子率を大きく下回っている。 現在の金利水準は、理論上は、潜在成長率 を上回る経済成長と物価のスパイラル的上 昇をもたらし得るだけの低水準と言うこと ができる。 また、国債利回りの低下を受けて、銀行 貸出金利は、2008 年以来、(図表 46)のと おり逐次低下し、銀行貸出残高は、2010 年・2011 年を除き、年 2%程度増加してい る(図表 47)。また、借手から見た銀行の貸 出態度は、金融危機直後の 2009 年を底に大 きく改善しており、金融環境は極めて緩和 した状態にある(図表 48)。 ※14 自然利子率:景気への影響が緩和的でも引締 め的でもない中立的な実質金利の水準。均衡実質 金利、中立利子率とも呼ばれ、完全雇用の下で貯 蓄と投資をバランスさせる実質金利の水準と定義 される。実質金利が自然利子率より低いと好況と なり、物価が上昇する。実質金利が自然利子率よ り高いと不況となり、物価が下落する。なお、一 定の仮定の下で、自然利子率は潜在成長率と等し い(潜在成長率がプラスであれば、自然利子率も プラスとなる)。 (図表 45) 自然利子率と実質金利 % 出典:日本銀行・講演資料 (図表 46) 銀行貸出金利 % 出典:日本銀行・講演資料 (図表 47) 銀行貸出残高(前年比) % 出典:日本銀行・講演資料 (図表 48) 貸出態度判断DI(短観) 出典:日本銀行・講演資料 33 A為替レート (図表 37)は、1992 年以来のドル・円レ ートの推移である。日米の貿易摩擦が激し かった 1995 年には一時 83 円まで円高が進 んだが、その後は 105〜125 円で推移してき た。しかし、世界金融危機後、グローバル・ インバランス(米国の巨額な経常収支赤字の恒 常的な発生)の巻戻しや欧州債務問題の発生 によって急速に円高が進み、2011 年・2012 年には80円を切り、最高76円まで達した。 こうした円高は、原油価格高騰の緩和など 積極的意義もあったが、輸出関連産業を中 心に深刻な影響を与え、それが金融緩和不 足という日銀批判にもつながった。 この急激な円高は、ECB(欧州中央銀行) の対応による欧州債務問題の不安心理の後 退、貿易収支や経常収支の悪化、2012 年 12 月の総選挙における安倍自民党総裁の無制 限の金融緩和による円高是正の公約等によ って、2012 年 11 月から反転し、2013 年 11 月に 100 円台、FRBの利上げ期待が高ま った2015年3月には120円台まで円安が進 んだ。その後英国のEU離脱問題、新興国 経済の減速懸念、トランプ政権の拡張的な 財政政策と保護主義的傾向の高まり等があ り、今年に入っては月中平均 106〜110 円で 推移している。 (図表 49)は、円の総合的な価値を表す 実効為替レートの推移である(2010=100 の指 数。グラフの上方が円高傾向を示す)。2009〜 2012 年の名目実効為替レートは際立って 円高となっているが、実質実効為替レート は 1992〜2004 年の方が高く、特段に円高と いうものではなかった。当時の輸出不振は、 円高というより世界的な不況によるものと 捉えられるように思われる。また、円安が 進んだ 2013 年以降の実質実効為替レート は、1992 年以来の最低の水準で推移してい る。 ※15 実効為替レート:特定の 2 通貨間の為替レー トをみているだけでは捉えられない、一国の通貨 の価値(対外競争力)を総合的に示す指標。うち 名目実効為替レートは、各貿易相手国通貨との為 替レートを貿易額に応じて加重平均し、指数化し たもの、また、実質実効為替レートは、名目実効 為替レートを各国の物価指数の推移によって調整 したものである。 (図表 37)ドル・円レート(1992〜)(再掲) 出典:日本銀行 (図表 49) 実効為替レート(1992〜)2010=100 出典:日本銀行 B株価 株価の推移を日経平均株価によってみる と、(図表 50)のとおり、バブル最盛期の 1989 年末に3万 8915 円の最高値を付けた 日本の株価は、2003 年 4 月の 7607 円まで 約 8 割下落し、その後 2007 年 7 月に 1 万 8261 円まで回復したが、世界金融危機によ って再び下落し、2009 年 3 月には 7054 円 34 とバブル崩壊後の最安値を更新した。その 後 9000〜1 万円前後で推移していたが、円 安が始まった 2012 年 11 月から急速に上昇 を始め、今年 1 月には 2 万 4129 円とピーク 時の約 6 割水準に達している。最近は、ト ランプ政権の保護主義的傾向の高まり等も あり、2 万 2000〜2 万 3000 円で推移してい る。 日経平均株価とドル・円レートは特に 2000 年代後半から正の相関が高くなって いる(図表 50)。円安は、一般に輸入産業や 国内産業にマイナス、輸出産業やグローバ ルに事業展開する産業にプラスに作用する と考えられるが、東証一部上場企業の動向 を示す日経平均株価は、特に後者の側面が より強く表われるものになっていると考え られる。 (図表 50) 日経平均株価とドル・円 レート(1988〜) 1989=100 出展:日本経済新聞 (3)企業動向 @民間企業の業況判断 上記のような経済情勢と金融情勢の下で 民間企業が業況をどう判断しているかを日 銀短観でみると、(図表 51・52)のとおり、 2009 年に大きく悪化した後、2010 年から急 速に改善して、2013 年からは「良い」が「悪 い」を上回っている。日銀は、特にこうし た傾向が企業規模別にも、地域別にも幅広 く認められることを強調している。 (図表 51) 業況判断DI(短観)・企業規模別 出典:日本銀行・講演資料 (図表 52)業況判断DI(短観)・地域別 出典:日本銀行・講演資料 A法人企業の活動実態 次に、財務省・法人企業統計によって 1990 年度以来の法人企業の活動実態をみ ると、売上高は概ね 1400〜1500 兆円、付加 価値は 250〜300 兆円で推移しており、いず れも世界金融危機後に大きく低下した後、 2009 年度を底に回復している(図表 53)。 こうした状況を反映して、営業利益・経 常利益・当期純利益・内部留保は、2009 年 度を底に急上昇しており、2016 年度はいず れも過去最高額になっている(図表 54)。 この状況を売上高営業利益率・売上高経 常利益率・総資本経常利益率でみると、2016 年度はバブル期を上回って最高率となって おり(図表 55)、過去の好況期と比較しても、 売上高経常利益率は際立って高くなってい る(図表 56)。 35 (図表 53) 法人企業の売上高と付加価値 兆円 出展:財務省・法人企業統計 (図表 54) 法人企業の経営状況 兆円 出展:財務省・法人企業統計 (図表 55) 法人企業の利益率 % 出展:財務省・法人企業統計 (図表 56) 売上高経常利益率の比較 出典:日本銀行・講演資料 (図表 57)は、法人企業の利益率の高さの 背景として、付加価値の構成(分配)の推 移をみたものである。人件費・賃借料・租 税公課がほぼ横ばい、支払利息等が大きく 低下する中、付加価値の増加に応じて営業 純益が大きく増加している。営業純益が最 も低下したのは 1993 年度の 2 兆 5 千億円 (構成比約 1%)であるが、2016 年度には 52兆5千億円(同 18%)まで増大している。 また、人件費は概ね 200 兆円程度で推移し、 その構成比は不況期に上昇、好況期に下降 する傾向にあるが、2008・2009 年度の構成 比 75%は 2016 年度に 68%まで低下してい る。 また、(図表 58)は、法人企業の設備投資 の動向をみたものである。借入金利子率が 大きく低下したものの、設備投資も低調に 推移してきた。2011 年度以降、上昇傾向が みられるが、1990〜1997 年度や 2006・2007 年度には及ばず、なお力強さに欠ける状況 である。 (図表 57) 法人企業の付加価値の構成 兆円 出展:財務省・法人企業統計 (図表 58)法人企業の設備投資と借入金利子率 兆円・% 出展:財務省・法人企業統計 36 法人企業の財務状況をみると、(図表 59) のとおり、総資産は 1990 年度の 1140 兆円 から 2016 年度の 1650 兆円へと大きく増加 しているが、流動負債が微減、固定負債が 微増で、そのほとんどが純資産の増加によ るものである。これを自己資本比率の推移 でみると、1998 年度まで 19%程度で横ばい であったが、以後逐年上昇し、2016 年度に は 41%に達している(図表 60) 純資産の内訳は、(図表 61)のとおりで ある。各項目とも増加しているが、特に配 当後の利益の蓄積である利益剰余金の増加 が著しく、1998 年度以降着実に増加してい る。2016 年度の純資産 670 兆円の内訳は、 資本金 110 兆円、資本剰余金 150 兆円、利 益剰余金 410 兆円である。 (図表 59) 法人企業の負債・純資産 兆円 出展:財務省・法人企業統計 (図表 60) 法人企業の自己資本比率 % 出展:財務省・法人企業統計 (図表 61) 法人企業の純資産 兆円 出展:財務省・法人企業統計 (4)物価動向 (図表 62・63)は 1970 年以来の消費者物 価指数とGDP(前年比・指数)の長期的 動向をみたものである。我が国は、第 1 次 オイルショックによって 23%に上る狂乱 物価を経験したが、第 2 次オイルショック は 8%の上昇に収め、1980 年代以降、主要 国の中でも物価安定の優等生とされてきた。 バブル期の 1990・1991 年には 3%を上回っ たが、安定成長期の 1983 年からバブル崩壊 後の 1998 年まで、消費者物価の上昇率は概 ね 0〜2%で推移している。物価上昇率が連 続してマイナスを記録するようになったの は 1999 年以降であり、2008 年を除いては ほぼゼロないしマイナスで推移し、2012 年 までの 14 年間の平均物価上昇率は△0.3% である(黒田総裁が、我が国経済は 1998 年度か ら 2012 年度まで 15 年間、消費者物価下落率△ 0.3%の緩やかだが、長期にわたるデフレが進行し てきたと言われることに対応する)。 また、消費者物価とGDPの関係は、特 に名目GDPとの相関が高く、これらの変 動率の大きさは、バブル崩壊までは概ね名 目GDPの成長率が物価上昇率を上回って いたが、1997 年以降はほぼ同等となり、指 数も重なって横ばいに推移している(図表 62・63)。 37 (図表 62)消費者物価指数とGDP(前年比)% 出典:総務省・消費者物価指数、内閣府・国民経済計算 (図表 63)消費者物価指数とGDP 2015=100 出典:総務省・消費者物価指数、内閣府・国民経済計算 (図表 64)は、2007 年以降の消費税の影 響を除いた消費者物価の変動率である。総 合と生鮮食品を除く総合は、ほぼ同様の動 きをしており、2008 年夏の 2%以上の上昇、 2009 年夏の△2%以上の下落の後、物価は 2012 年のゼロ近辺まで緩やかに回復した。 大きな物価上昇がみられたのは 2013 年 6 月以降であり、2013 年 11 月〜2014 年 6 月 には 1.5%前後となった。しかし、2014 年 7月から下降し、2015 年はゼロ前後、2016 年は△0.1〜△0.5%で推移した。その後、 総合は 2016 年 10 月から、生鮮食品を除く 総合は 2017 年 1 月から再び上昇し、2018 年 4 月現在、総合は 0.6%、生鮮食品を除 く総合は 0.7%となっている。また、2013 年4月以降の平均上昇率は、総合が0.5%、 生鮮食品を除く総合が 0.4%である。 (図表 64) 消費者物価指数(消費税抜き) % 出典:総務省。消費者物価指数 こうした総合と生鮮食品を除く総合の物 価変動に大きな影響を与えたとされるのが 原油価格の動向である。 (図表 38・65)のとおり、2003 年まで 1 バレル 30 ドル以下で推移してきた原油価 格は、その後大きく上昇し、2011 年〜2014 年夏には 100〜110 ドルに達した。しかし、 2014 年 6 月を境に急速に低下し、2015 年に は 40〜60 ドル、さらに 2016 年 1 月・2 月 には 30 ドルを切るまで下落した。その後 40〜50 ドル水準に回復し、2017 年夏からは 上昇傾向を強め、この 5 月に 70 ドルに達し ている。 このように消費者物価と原油価格の変動 はほぼ対応しており、それは(図表 66)の 寄与度に示されているとおりである。原油 価格の動向は、今後とも、為替レートや労 働需給の逼迫による賃金の動向とともに、 物価上昇率の行方を左右する大きな要因と 考えられ、その意味からも、中東の地政学 的リスクの高まり等には注意が必要である。 38 (図表 38)原油価格(1990〜)(再掲)ドル/バレル 出典:IMF (図表 65) 原油価格(2007〜) ドル/バレル 出典:世界銀行・OPEC バスケット価格 (図表 66) 消費者物価指数(寄与度) % 出典:日本銀行・講演資料 一方、日銀が注目する生鮮食品・エネル ギーを除く総合の変動率は、(図表 64)の とおり、世界金融危機後マイナスで推移し てきたが、2013 年 10 月にプラスとなり、 プラス基調は今日まで続いている。特に 2013 年 11 月〜2016 年 7 月には 0.5〜1.2% となり、2017 年春に 0%まで低下したが、 2017 年 7 月から再び上昇し、2018 年 4 月現 在 0.4%となっている。また、2013 年 4 月 以降の平均上昇率は 0.5%である。 また、消費や設備投資などすべてのGD P構成項目について国内発の物価動向を表 すGDPデフレーターは、(図表 67)のと おり、2014 年第 1 四半期〜2016 年第 2 四半 期及び 2017 年第 3・第 4 四半期がプラスで あり、特に 2014 年第 2 四半期〜2015 年第 1 四半期は、消費税増税の影響もあるが、1.7 〜3.4%の高い上昇となっている。総じて生 鮮食品・エネルギーを除く総合と類似した 動きを示している。 (図表 68)は、企業物価指数と企業向け サービス価格指数の推移である。輸入物価 と輸出物価は、原油価格等の国際市況の影 響を受け大きく変動している。また、国内 企業物価は、総合・生鮮食品を除く総合の 消費者物価と類似した動きを示している。 一方、企業向けサービス価格は、生鮮食品・ エネルギーを除く総合と類似しており、 2013年第3四半期からプラス基調が続いて いる。この間、GDPデフレーターと同様、 2014 年第 2 四半期〜2015 年第 1 四半期に 3%を超える高い上昇を示したが、それ以外 は 0.1〜0.8%の低位な上昇にとどまって いる。 (図表 67) GDPデフレーター % 出展:内閣府・四半期別GDP速報 39 (図表 68)企業物価・企業向けサービス価格指数% 出典:日本銀行 (図表 69)は、中長期的な予想物価上昇 率の動向である。いずれの指標も、2013 年 から大きく上昇したが、2015 年夏以降低下 し、2016 年からはほぼ横ばいで推移してい る。日銀の総括的検証にもあるとおり、中 央銀行の物価安定目標に収斂していく「フ ォワードルッキングな期待形成」より、現 実の物価上昇率の影響を受ける「適合的な 期待形成」が強く作用し、特に総合と生鮮 食品を除く総合の消費者物価の動向が影響 していると考えられる。このため、日銀が 2%の物価安定目標を掲げて異次元金融緩 和を実施しても、現実に物価が上昇しなけ れば予想物価上昇率も上昇せず、また、物 価が上昇しても短期間のうちに低下すれば、 予想物価上昇率もアンカーされずに低下す ることになると考えられる。 (図表 69) 予想物価上昇率 % 出典:日本銀行・講演資料 また、(図表 70)は、日銀が今年 4 月に発 表した「展望レポート」の経済・物価見通 しである。政策委員見通しの中央値で、実 質GDPの成長率は、2018 年度 1.6%、2019 年度と 2020 年度は 0.8%である。また、生 鮮食品を除く消費者物価指数の上昇率は、 2018 年度 1.3%、2019 年度と 2020 年度は 1.8%である。同レポートは、「消費者物価 の前年比は徐々にプラス幅を拡大している が、エネルギー価格の影響を除くと 0%台 半ばにとどまっており、景気の拡大や労働 需給の引き締まりに比べると、なお弱めの 動きが続いている」。しかし、「先行きを展 望すると、マクロ的な需給ギャップの改善 や中長期的な予想物価上昇率の高まりなど を背景に、プラス幅の拡大基調を続け、2% に向けて上昇率を高めていくと考えられ る」としている。 しかし、4 月の展望レポートが注目され たのは、前回 1 月の展望レポートまでは、 物価上昇率が 2%程度に達する時期につい て、「2019 年度頃になる可能性が高い」な どと具体的に記述していたが、今回からこ うした記述を行わないこととしたことであ る。この点について黒田総裁は、@2013 年 4 月に 2 年程度を念頭に置いて量的・質的 金融緩和を始めたが、その後はそういった 特定の達成時期を念頭に置いて金融政策を 運営しているわけではない。A現在の金融 政策は、2%の物価安定の目標をできるだけ 早期に実現するという大きな目標の下で、 その目標に向けたモメンタムが維持されて いるかどうかを点検し、モメンタムが失わ れつつあるようであれば追加緩和を検討す るというものである。この点は今後も全く 変わらない。Bしかし、市場の一部に、見 40 通しを 2%の達成時期と捉え、その変化を 金融政策の変更に直接結びつけるといった 見方が根強く残っているため、日銀の金融 政策スタンスが誤解されることのないよう に削除した。C2%の物価安定の目標をでき るだけ早期に実現するというコミットメン トに全く変化はなく、中長期的目標に変更 したといったことはない、と説明されてい る。その上で物価の見通しについては、前 回と同様、1.8%は年度の平均なので、年度 の中で一定の動きはあり得る。2019 年度頃 に 2%程度に達する可能性が高いと思って いると説明されている。 (図表 70)展望レポートの経済・物価見通し(2018.4) 出典:日本銀行 (5) 異次元金融緩和の成果・要約 以上、異次元金融緩和の成果に関し、主 な経済指標の動向をみてきたが、これらを 要約すれば次のとおりである。 @ 2012 年 12 月以来、戦後2番目に長い景 気回復が続いている。特に 2016 年第 1 四半 期以降は、8 期連続でプラス成長となって いる。ただし、その成長率は、1.3%ないし 1.8%程度と、それ以前と比べても力強さに 欠け、緩やかなものにとどまっている。 A しかし、我が国の潜在成長率は 1%程度 であり、ここ 1 年ほど連続して需給ギャッ プがプラスになっている。これは物価上昇 圧力を高め、デフレ脱却を後押しするが、 実質的な経済成長を図るため、今後は成長 戦略等により潜在成長率を高めることがよ り重要な課題になると考えられる。 B 民間最終消費支出は、低調であり、消 費税増税による反動減後も積極的な消費拡 大の傾向は現れていない。賃金が名目・実 質とも 1990 年以来最低の水準で推移して いることがその背景と考えられる。2014 年 から久々にベースアップが復活したが、未 だ低調であり、今後の更なる拡大が期待さ れる。 C 民間企業設備は、順調に回復している。 しかし、そのGDP比率や企業活動におけ るウェイトは、バブル崩壊後大きく低下し、 非金融法人企業のISバランスは、最大の 黒字部門になっている。我が国経済が長期 低迷を脱するためには、このISバランス を是正することが極めて重要と考えられる。 D 輸出・輸入とも 2013 年から大きく回復 している。実質純輸出は回復傾向にあるが、 未だマイナスを脱していない。輸出金額は 増加したが、これは専ら円安による輸出価 格の上昇によるもので、輸出数量はむしろ 弱含んでいる。これが輸出の拡大にもかか わらず、波及効果に乏しく経済全体が活性 化しない主因と考えられる。 E 雇用情勢は急速に改善し、完全失業率 や求人倍率はバブル期と同等になっている。 我が国の生産年齢人口は、1995 年をピーク 減少しており、最近の雇用情勢の好転は、 こうした人口動態の進展を多分に反映した ものと捉えることができる。しかし今後は、 経済成長のボトルネックとなる労働力不足 の問題として顕在化することが予想され、 41 就業者一人当たりのGDP・労働生産性を 向上することが極めて重要な課題になると 考えられる。 F 国債の利回りは、2013 年 1 月時点で 1 年債 0.1%、10 年債 0.8%であったが、異次 元金融緩和によって更に低下し、最近は 1 年債△0.2〜△0.1%、10 年債 0.0〜0.1%で 安定的に推移している。日本国債のイール ドカーブをドイツ・フランスと比較すると、 長短金利差の少ないフラット化の傾向が強 く、金融機関の経営や金融仲介機能を維持 する上で大きな課題になっている。 2013 年以降、実質金利は自然利子率を大 きく下回っている。また、銀行貸出金利も 低下し、貸出態度も改善するなど、金融環 境は極めて緩和した状態になっている。 G ドル・円レートは、世界金融危機後、 2011 年・2012 年には 80 円を切るまで円高 が進んだが、2012 年 11 月から反転し、2013 年 11 月に 100 円台、2015 年 3 月には 120 円台まで円安が進んだ。今年に入っては月 中平均 106〜110 円で推移している。実質実 効為替レートは、2013 年以降、1992 年以来 の最低の水準で推移している。 H 株価の推移を日経平均株価によってみ ると、円安が始まった 2012 年 11 月から急 速に上昇を始め、今年 1 月には 2 万 4129 円とピーク時(1989 年末の 3 万 8915 円)の約 6 割水準に達している。最近は 2 万 2000〜2 万 3000 円で推移している。日経平均株価と ドル・円レートは特に 2000 年代後半から正 の相関が高くなっている。 I 日銀短観の民間企業の業況判断DIは、 2010 年から急速に改善して、2013 年からは 「良い」が「悪い」を上回っている。こう した傾向は企業規模別にも、地域別にも幅 広く認められる。 J 法人企業の営業利益・経常利益・当期 純利益・内部留保は、2009 年度を底に急上 昇し、2016 年度はいずれも過去最高額にな っている。売上高営業利益率・売上高経常 利益率・総資本経常利益率も過去最高率と なっている。付加価値の構成(分配)は、 人件費・賃貸料・租税公課がほぼ横ばい、 支払利息等が大きく低下する中、営業純益 が大きく増加している。 また、法人企業の自己資本比率は、1998 年度まで 19%程度であったが、以後逐年上 昇し、2016 年度には 41%に達している。純 資産の内訳は、特に利益剰余金の増加が著 しく、2016年度の純資産670兆円の内訳は、 資本金 110 兆円、資本剰余金 150 兆円、利 益剰余金 410 兆円である。 K 総合と生鮮食品を除く総合の物価上昇 率は、2013 年 6 月以降大きく上昇し、2013 年11月〜2014年6月には1.5%前後となっ た。しかし、原油価格の低下を受けて、2014 年7月から下降を始め、2015 年はゼロ前後、 2016 年はマイナスとなった。その後、総合 は 2016 年 10 月から、生鮮食品を除く総合 は 2017 年 1 月から再び上昇し、2018 年 4 月現在、それぞれ 0.6%と 0.7%になってい る。また、2013年4月以降の平均上昇率は、 総合が 0.5%、生鮮食品を除く総合が 0.4% である。 中長期的な予想物価上昇率は、こうした 物価の動向を反映して、2013 年から大きく 上昇したが、2015 年夏以降低下し、2016 年からはほぼ横ばいで推移している。 このように異次元金融緩和開始後 1 年半 ほどは 2%の物価安定目標の実現も間近な ものと感じられたが、その後遠退き、ここ 42 1 年ほど回復傾向にはあるが、その実現に は距離がある。ただし、日本経済は、物価 が持続的に下落するという意味でのデフレ ではなくなっている。 もとより経済情勢等は様々な要因によっ て左右されるが、この 5 年間の異次元金融 緩和の成果を整理すれば、次のようになる であろう。 [実現したこと] @それ以前の極端な円高是正と円安の実現 A極めて緩和した金融環境 B過去最高の法人企業の利益額・利益率 C株価の大幅な上昇 D雇用情勢の改善とベースアップの復活 Eデフレではなくなったこと [十分には実現していないこと] @戦後 2 番目の長さとなる景気回復、プラ スの需給ギャップ:力強さに欠け、緩やか な成長率、潜在成長率の低さ A消費の拡大:低調 B設備投資の回復:非金融法人企業のIS バランスは最大の黒字部門 C輸出の拡大:円安による輸出価格の上昇、 輸出数量は弱含み [実現していないこと] @2%の物価安定目標の実現 A実質賃金の上昇 以上まとめれば、「円安、低金利、株高、 原油安等の好条件が揃い、法人企業は史上 最高益を実現した。しかし、賃金の上昇や 設備投資などへの波及は限定的で、消費や 投資の拡大が不十分なものにとどまった。 このため、景気の回復は力強さに欠け、物 価の上昇も限られたものになった」と言え るのではないかと思われる。企業収益の増 大にもかかわらず、いわゆるトリクル・ダ ウンが不十分な状態である。 5.「デフレ」とは何か 「デフレ」とは何か、ここでその意味を 確認しておこう。 (1)「デフレ」 2001 年 3 月、内閣府は、「デフレ」を「物 価の持続的下落」と定義した。その上で、 「現在、日本経済は緩やかなデフレにある」 との判断を示した。また、日銀は、その直 後に量的金融緩和政策に踏み切り、「消費者 物価指数の変化率が安定的にゼロ%以上に なるまで継続する」とのコミットメントを 公にした。 その考え方を示すものとして、同月、内 閣府政策統括官がディスカッション・ペー パー「デフレに直面する我が国経済−デフ レの定義の再整理を含めて−」を取りまと めている。その概要は、次のとおりである。 @ 政府は、これまで「デフレ」を「(単に 物価が下落することを指すのではなくて、) 物価の下落を伴った景気の低迷」と定義し てきた。また、日銀は、「物価の全般的かつ 持続的な下落」と定義してきた(2000 年 10 月調査月報「わが国の物価動向−90 年代の経験を 中心に」による)。 A デフレの定義については、論者によって 幅があり、議論がかみ合わないケースがあ った。そこで、@「良い物価下落」VS「悪 い物価下落」の議論の問題点、Aインフレ 議論との非対称性、B国際的な共通認識と してのデフレという 3 つの論点から、デフ レの定義の再整理を行った。 その結果、@国際的な基準に合わせる、 43 A現在の状況下では、物価が下がること自 体に問題がある等の観点を重視し、政府の 従前の定義を改め、「物価の持続的な下落」 を今後はデフレの定義として採用すること とする。 この定義によると、「現在、日本経済は緩 やかなデフレにある」と判断できる。 B デフレの経済的コストとして、@名目利 子率の非負制約による経済変動の不安定化、 A名目賃金の下方硬直性により生じる失業 率の高まり、B金融仲介機能の低下を通じ たマクロ経済への悪影響等が考えられる。 インフレに対する議論に比べ、デフレに 対する議論は、理論的にも実証的にも十分 行われてきたとは言い難い。したがって、 デフレに対する対策については、あらゆる 政策の実施を前提に議論を進めることがよ り望ましいと考える。 このうちAについて、同ディスカッショ ン・ペーパーは、(図表 71)のAD・AS曲 線(総需要・総供給曲線)を使って、次のよ うに説明する。 @ 図Cのように需要の減少による総需要 曲線の左方シフトが起きている状態を「悪 い物価下落」、図?のようにコスト低下によ る総供給曲線の右方シフトが起きている状 態を「良い物価下落」と整理できる。 しかし、現実に我が国経済で起きている 現象は、総需要曲線も総供給曲線も同時に シフトする図C+図?の複合形態であろう。 現在の物価下落の何割程度が「良い物価下 落」であり、何割程度が「悪い物価下落」 であるのかの要因分解することは事実上困 難であり、こうした議論は、政策的に余り 意味がない。 また、「良い物価下落」であれ「悪い物価 下落」であれ、物価が全般的かつ持続的に 下落すれば、様々なチャンネルを通じて、 実体経済に悪影響を及ぼしている点を重視 すべきであろう。 しかし、だからといって、この区別をす ることが重要であることは、ケインズ教授 が 77 年前に述べたときと変わりはない。 A デフレ・インフレの原因を区別して議論 することは重要であるが、図Aも図Bもイ ンフレと認識しているのに対し、政府はこ れまで図Cだけをデフレと定義付けして問 題視してきた。ここに「インフレ議論との 非対称性の問題」がある。インフレとデフ レを対照的に議論することが必要であり、 図Cと図?を合わせてデフレと認識するの が望ましいと考えられる。 B これまで日本のデフレの定義は国際的 な定義と整合的でなかった。「物価の持続的 な下落」と定義すれば、齟齬がなくなり、 より実りのある経済論議が行われるものと 期待される。 (図表 71) AD・AS曲線 上記の整理により、内閣府はデフレの定 義を変更しているが、これは必ずしも「従 来の定義は合理性に欠けていた」としたも のではないであろう。 これまで、インフレ議論との非対称性は 44 十分承知の上で、図Cのみをデフレと定義 してきたのは、人々にとって困った事態と いうのは図A〜図Cであり、図?はむしろ 望ましい状態であるからである。しかし、 それだけでは、原因はともあれ物価が持続 的に下落すること自体が経済に悪影響を及 ぼすことがあるという視点が抜け落ちてし まうこと、言葉の定義が人によって異なる ことは混乱のもとになることを考慮し、変 更することとしたと理解されるからである。 そのことは、上記Aの「@国際的な基準に 合わせる、A現在の状況下では、物価が下 がること自体に問題がある等の観点を重視 し、〜」の表現や、上記@末尾の「しかし、 だからといって、この区別をすることが重 要であることは、ケインズ教授が 77 年前に 述べたときと変わりはない」の記述に現れ ているとおりである。 物価の動向については、デフレの定義の 如何にかかわらず、@状況により、物価の 持続的下落が経済に悪影響を及ぼすこと、 A物価下落の原因によって「良い物価下落」 と「悪い物価下落」があること、この 2 つ の視点を保ち、丹念にバランスよく分析・ 評価することが必要と考えられる。 こうした観点から、これまでの異次元金 融緩和や経済情勢を巡る論議をみると、と かく前者の視点ばかりが強調され、後者の 視点が弱いのではないかという印象がある。 例えば、原油価格の低下を否定的に捉え、 その上昇を期待するきらいがあるが、本当 に日本経済にとって望ましいものなのかど うか、慎重に検討すべきものと思われる。 (2)「デフレ・スパイラル」 デフレ・スパイラルについて、内閣府の 上記ディスカッション・ペーパーは、次の とおり定義している。 「物価下落と実体経済の縮小とが相互作用 (スパイラル)的に進行すること。 すなわち、@物価下落によって企業の売 上が減少する、A賃金などが短期的には下 方硬直的であるため、企業収益が減少する、 B企業行動が慎重化し、設備や雇用の調整 が行われる、C設備投資や個人消費などの 需要の減少が物価下落につながる、という 悪循環が生じることを意味している。」 その上で、「物価下落を伴った景気の低 迷」というこれまでの「デフレ」の定義は、 むしろ「デフレ・スパイラル」に極めて近 い定義であり、両者の相違は不明確である としている。 (3)「デフレではない」と「デフレ脱却」 政府・日銀は、日本経済の現状について、 「もはやデフレではない。しかし、デフレ 脱却には至っていない」との認識を示して いる。 「デフレではない」とは、文字通り「物 価の持続的下落」と定義されたデフレの状 態ではないことを意味する。 一方、「デフレ脱却」とは、内閣府が 2006 年 3 月に日銀が量的金融緩和政策を解除し た直後に導入した概念であり、「物価が持続 的に下落する状況を脱し、再びそうした状 況に戻る見込みがないこと」と定義してい る。その判断基準は、@消費者物価指数(特 に物価の基調を表す生鮮食品及びエネルギーを除 く総合)、AGDPデフレーター、BGDP ギャップ、C単位労働コスト(名目雇用者報 酬÷実質GDP)の 4 つの経済指標であり、 これらを総合的に考慮して慎重に判断する 45 としている。 2017 年第 3 四半期に、このデフレ脱却の 4 条件が 25 年ぶりにすべてプラスとなり、 内閣府は、これを「デフレ脱却に向けた局 面変化」と表現した。2018 年第 1 四半期に 再び 4 指標が揃ってプラスとなり、「現在も 改善方向に変わりはない」と評価している という。 デフレ脱却については、「当時日銀が急速 に引締めに向かうことをけん制するために 作ったもので、厳し過ぎる条件で自分を縛 ってしまっている面がある」との見方があ る。しかし、今や日銀は 2%の物価上昇を 目標に金融政策を行っており、これとの整 合性や関係は明確でなくなっている。また、 生きた経済を相手に政府が「再びそうした 状況に戻る見込はない」としてデフレ脱却 宣言を行うことには疑問を感じるが、4 つ の指標は「デフレではない」ことの内容や 安定性示すものであり、その動向を踏まえ て政策転換のきっかけにすることは大いに あり得ることと考えられる。 6.異次元金融緩和の実施状況 日銀は、この 5 年間異次元金融緩和を実 施してきた。ここで異次元の内容を具体的 にみることとする。 (1)日銀のバランスシートの変化 (図表 72)は、異次元金融緩和の実施状況 を日銀のバランスシートの変化(2013 年 3 月 31 日〜2018 年 3 月 31 日の 5 年間)によって みたものである。主な項目をピックアップ すれば、次のとおりである。 〔資産〕 ・総資産:164 兆円→529 兆円、3.2 倍 ・国債 :125 兆円→448 兆円、3.6 倍 ・長期国債:91 兆円→427 兆円、4.7 倍 ・ETF:1.5 兆円→18.9 兆円、12.3 倍 ・J-REIT:0.1 兆円→0.5 兆円、4.0 倍 〔負債〕 ・発行銀行券:83 兆円→104 兆円、1.3 倍 ・当座預金:58 兆円→378 兆円、6.5 倍 ・政府預金:1.5 兆円→15.1 兆円、10.1 倍 ・引当金勘定:3.2 兆円→4.9 兆円、1.5 倍 *マネタリーベース(3 月次平均残高): 135 兆円→476 兆円、3.5 倍 *当座預金の三層構造(3 月積み期間): ・基礎残高上限値:210 兆円 ・マクロ加算残高上限値:136 兆円 ・政策金利残高:28 兆円 (完全裁定後政策金利残高:12 兆円) ・所要準備額:10 兆円 ・超過準備額等:365 兆円 〔資本〕 ・資本金:1 億円→1 億円、1.0 倍 ・準備金:2.7 兆円→3.2 兆円、1.2 倍 また、(図表 73)は、2018 年 3 月 31 日現 在の自己資本残高の状況である。資本勘定 と引当金勘定の合計額であり、日銀が債務 超過とならないためのバッファーとなる金 額である。 ・自己資本残高:6.1 兆円→8.2 兆円、 1.4 倍 46 (図表 72) 日本銀行のバランスシート 億円 出典:日本銀行・営業毎旬報告 (図表 73) 日本銀行の自己資本残高 億円 出典:日本銀行・財務諸表 (図表 74・75)は、2012 年以来の日銀の 資産と負債・純資産の推移である。異次元 金融緩和が実施された 2013 年 4 月以降、資 産においては長期国債、負債・純資産にお いては当座預金が驚異的に増加しており、 正に異次元の緩和であることが分かる。 これを主要国と比較したのが(図表 76) である。世界金融危機後、日銀は、2008 年 10 月から政策金利の引下げ、2010 年 10 月 から包括的金融緩和を行ったが、米国、ユ ーロ圏でも大規模な金融緩和が行われ、各 国中央銀行の資産規模は、2013 年までに、 対名目GDP比 20〜30%に拡大した。この 時点まで各国に大差はなかったが、2013 年 以降、我が国は突出してGDP比が高まり、 現在ほぼ 100%に達している。これに対し ユーロ圏は 40%程度、米国は 20%程度であ り、特に米国は 2014 年から減少傾向に入っ ている。我が国は、一般政府の債務残高が GDP比 250%(2017 年末現在)と世界でも 突出して高いが、この 5 年間で、さらに中 央銀行の資産規模も巨大な特異な国に変貌 している。 (図表 74) 日銀の資産(2012〜) 兆円 出典:日本銀行 (図表 75)日銀の負債・純資産(2012〜) 兆円 出典:日本銀行 (図表 76)各国中央銀行の資産規模(1995〜) 出典:日本銀行・講演資料 47 (2)国債の保有状況 異次元緩和による大規模な国債の買入れ の結果、日銀の国債(国債・財投債、国庫短期 証券)の保有割合は、18%から 41%(2017 年末現在)へと急速に高まっている。これに 見合って大きくシェアを低下させたのが預 金取扱機関、特に都市銀行である(図表 77)。 (図表 78)は、2017 年末現在の保有状況 を国債(国債・財投債)と国庫短期証券に分 けてみたものである。日銀の保有割合は、 国債 43%、国庫短期証券 21%である。海外 はこの 5 年近くで 8%から 11%へと全体の シェアを高めているが、圧倒的に国庫短期 証券が多く、その 60%を占めている。逆に 生損保等は国債中心であり、銀行等はいず れも同程度のシェアで保有している。 (図表 77)国債の保有者別内訳(2012〜) % 出典:日本銀行・資金循環統計 (図表 78)国債の保有者別内訳(2017 年末) 出典:財務省 日銀は、2016年9月の総括的検証の結果、 金融政策の操作目標を量から金利に切り替 え、長短金利の操作を行うイールドカー ブ・コントロールを導入した。目標とする 金利と国債等の買入れ額は正に表裏の関係 にあり、どちらを操作目標とするかの問題 であるが、日銀が保有する長期国債の対前 年増加額は、(図表 79)のとおり変化して いる。 すなわち、2013 年 4 月の量的・質的金融 緩和導入時に長期国債の保有残高が年間 50 兆円に相当するペースで増加するよう 買入れを行うとされ、さらに 2014 年 10 月 に 80 兆円に拡大され、実際の保有残高もほ ぼそのとおり増加して、イールドカーブ・ コントロール導入時の 2016 年 9 月当時は 80 兆円増加のペースで推移していた。イー ルドカーブ・コントロールでは、長期国債 の買入れ額について、「概ね現状程度の買入 れペース(保有残高の増加額年間約 80 兆円)を めどとする」とされたが、その後長短金利 操作が行われる中で、長期国債の増加額は 漸減し、本年 4 月には 48 兆円まで低下して いる。 こうした状況を踏まえて、日銀は事実上 ステルス・テーパリング(密かな量的金融緩 和の縮小)を開始したと捉える見方もあるが、 黒田総裁は、「毎回の国債買入れの金額など は金融市場の状況に応じて変化するが、 日々のオペ運営によって先行きの政策スタ ンスを示すことはない」としており、あく まで金融政策決定会合で決定された金融市 場調節方針(現在、政策金利残高△0.1%、10 年 物国債金利ゼロ%程度)を実現した結果に過 ぎないというものである。 しかし、減少したといっても対前年増加 額 50 兆円程度である。これは「2 年で 2% を実現する」とされた当初の異次元緩和の 48 増加ペースであり、巨額な長期国債の買入 れを継続していることに変わりはない。傾 向的に更に減少する可能性はあるが、後に みるように、日銀の政策が変更されない限 り、異次元緩和の本質が変わるほど減少す ることはないと思われる。 (図表 79)日銀保有長期国債の対前年増加額兆円 出典:日本銀行 7.異次元金融緩和のメカニズム 異次元金融緩和がどのようなメカニズム によって 2%の物価安定目標を実現するの か、これを明らかにすることは、異次元金 融緩和を評価する上で重要なポイントと考 えられる。ここでは、日銀の考え方を紹介 するとともに、これらについて識者の見解 を踏まえつつ検討することとしたい。 (1)異次元金融緩和のメカニズム 日銀が考える異次元金融緩和のメカニズ ムは、上記2.(4)「量的・質的金融緩和の 効果」に記したとおり、@金利と資産価格 プレミアムの引下げ、Aポートフォリオ・ リバランス、B予想インフレ率の引上げを 主たる波及経路とするものである。 総括的検証では、これを「「量的・質的緩 和」で想定したメカニズム」として、(図表 80)のとおり、「人々の予想物価上昇率の引 上げ」を中心に体系的に示している(総括 的検証の結果、日銀は長短金利操作付き量的・質 的金融緩和を導入し、操作目標を量から金利に切 り替えているが、メカニズムについての考え方は 基本的に変わっていないと考えられる)。 (図表 80)「量的・質的緩和」で想定したメカニズム 出典:日本銀行・「総括的な検証」背景説明 図表の番号に従って分説すれば、以下の とおりである。 @ 日銀の 2%の物価安定目標の強く明確 なコミットメントとこれを裏付ける大規模 な長期国債の買入れによって、人々の予想 物価上昇率を引き上げる。 日銀は、これを「フォワード・ルッキン グな期待形成」と言うのみで、その具体的 メカニズムは明らかにしていない。しかし、 金融市場調節の操作目標を金利からマネタ リーベースに転換し、これを大規模に拡大 することとしたこと、総括的検証において も、「予想物価上昇率の形成におけるマネタ リーベースの役割」として、「マネタリーベ ースの拡大は、「物価安定の目標」に対する コミットメントや国債買入れとあわせて、 金融政策レジームの変化をもたらすことに より、人々の物価観に働きかけ、予想物価 上昇率の押し上げに寄与したと考えられる。 一方、マネタリーベースと予想物価上昇率 は、短期的というよりも、長期的な関係を 持つものと考えられる。したがって、マネ タリーベースの長期的な増加へのコミット メントが重要である」と記述していること 49 などから、一般に、貨幣数量説を根拠に、 マネタリーベースの拡大が予想物価上昇率 の上昇につながると想定したものと理解さ れている。 A 日銀による大規模な長期国債買入れに よって、名目金利を低下させる。 日銀が国債市場において大量の国債を買 い入れることによって、国債の需給に影響 を及ぼし、国債価格の上昇→国債利回りの 低下→市場金利一般の低下を図るものであ る。ゼロ金利政策の導入もその重要な一環 と位置付けられる。 B @Aによって、実質金利を引き下げる。 @〜B(中段の枠組み)は、フィッシャ ー方程式(※9)そのものであり、@による 予想物価上昇率の引上げと、Aによる名目 金利の引下げによって、実質金利を低下さ せる。 C 実質金利の低下によって、需給ギャップ を改善する。 実質金利の低下→投資や消費の拡大→需 給ギャップの改善のメカニズムである。伝 統的なIS-LMモデルやIS-MPモデル によれば(※16・17)、LM曲線やMP曲線 の右方ないし下方シフトによってGDPは 増加し、需給ギャップは改善する。 D 需給ギャップの改善は、予想物価上昇率 の上昇とあいまって、現実の物価上昇率を 押し上げる。 C・D(下段の枠組み)は、フィリップ ス曲線(※11、図表 4)のメカニズムを表して いる。@による予想物価上昇率の引上げは フィリップス曲線を上方にシフトさせ、D による需給ギャップの改善は動点をフィリ ップス曲線上右上に移動して、物価を上昇 させる。 (図表 4) フィリップス曲線(再掲) 出典:日本銀行・講演資料 E 現実の物価上昇率の上昇によって、適合 的な期待形成メカニズムを通じ、人々の予 想物価上昇率を更に引き上げる。これによ り、上記のプロセスが一段と強まることに なる。 以上のほか、日銀の金融緩和によって、 F 株価や為替相場などの資産価格が、経 済・物価の動きを反映しあるいは先取りす る形で形成されることを通じて金融環境が 改善し、経済・物価面にも好影響を与える。 G 投資家がリスク性資産への選好を高め る(ポートフォリオ・リバランス効果)結果、 リスク性資産の価格に対するプラスの影響 のほか、貸出の増加などが期待される。 としている。 日銀は、以上の波及メカニズムに沿って 分析を行い、2%の物価安定目標が実現でき ていない理由について、「@原油価格の下落、 消費税率引き上げ後の需要の弱さ、新興国 経済の減速とそのもとでの国際金融市場の 不安定な動きといった外的な要因が発生し、 実際の物価上昇率が低下したこと、Aその 中で、もともと適合的な期待形成の要素が 強い予想物価上昇率が横ばいから弱含みに 転じたことが主な要因と考えられる」とす 50 るとともに、「実際の物価上昇率が当面低い 水準で推移する中にあって、適合的な期待 による引き上げには不確実性があり、時間 がかかる可能性に留意する必要がある。そ れだけに、フォワード・ルッキングな期待 形成の役割が重要である」として、オーバ ーシュート型コミットメントを導入してい る。 以下、こうしたメカニズムについて検討 を進める。 (2)非伝統的金融政策 (図表 81)は、主要国の政策金利の推移で ある。我が国では、1990 年代初めに 6%で あった政策金利は、バブル崩壊とともに逐 次低下し、ついに 1999 年に事実上のゼロ金 利に到達した。以後、ゼロ金利政策や量的 緩和政策が解除された直後にわずかばかり 上昇したが、この 20 年近くほぼゼロ金利状 態が続いている(2008 年 10 月からの若干のプ ラスは補完当座預金制度による 0.1%の付利金利、 2016 年 2 月からの若干のマイナスはマイナス金利 政策による政策金利残高の△0.1%である)。 一方、米国とユーロ圏では、政策金利は、 世界金融危機前はそれぞれ 5%、4%程度で あったが、危機後にいずれも急速に低下し、 ゼロ金利水準に至っている(FRBは、2008 年 12 月から 0.25%、2015 年 12 月に 0.5%、以後段 階的に金利引上げ。ECBは、2013 年 11 月から 0.25%、2014 年 9 月から 0.05%、2016 年 3 月から ゼロ%、2014 年 6 月にマイナス金利導入)。 こうした政策金利の低下にもかかわらず、 世界金融危機は各国経済に深刻な影響を与 え、各中央銀行は、金融機関の信用不安、 証券化商品等のリスクプレミアムの高まり、 欧州債務危機など、それぞれの課題を踏ま えて、非伝統的金融政策の実施に踏み切る ことになった。 米欧におけるような金融市場の混乱やB /S上の問題こそみられなかったが、世界金 融危機以前から経済が低迷し、世界に先駆 けて非伝統的金融政策を採用してきた我が 国においては、「いかにしてゼロ金利制約を 乗り越えるか」が改めて大きな課題になっ た。 この問題に対する日銀の対応は、大きく 以下のように整理されている。 @ 金融政策の操作目標をより長めの金利 にシフトすること。長期国債の買入れによ って長期金利のタームプレミアムを圧縮す る方法と、将来の短期金利のパスを約束し、 これを低位に維持することで長期金利に影 響を与える方法(時間軸効果、フォワード・ ガイダンス)がある。 A リスク性資産の買入れを通じて、リスク プレミアムに働き掛けること。社債やCP、 ETF、J-REIT の買入れによって、企業 や家計が直面する資金調達コストを一段と 引き下げること。 B 短期の名目金利にマイナス金利を適用 することで、ゼロ金利制約そのものを取り 払うこと。 C 人々のインフレ期待に働き掛けること によって、実質金利を引き下げること。 いずれもこれまでの金融政策が直接の対 象としてこなかった分野に金融緩和の余地 を見出し、長期金利、リスク資産のリスク プレミアム、マイナス金利、インフレ期待 を施策対象として積極的な対応を図るもの である。また、こうした取組は、事実上為 替レートや財政ファイナンスにも大きな影 響を与えるものである。 51 日銀の取組の特徴を挙げれば、@市場機 能の回復など個別具体的な課題への対応で なく、景気対策そのものであること、A対 策の規模が突出して大きいこと、しかし、 Bこれまでのところ出口への展望が見えて 来ないことなどである。 (図表 81) 主要国の政策金利 出典:日本銀行・講演資料 ここでゼロ金利制約と非伝統的金融政策 の関係をIS-LMモデルとIS-MPモデ ルで確認すれば、次のように考えられる。 (図表82)と(図表83)の財市場の均衡条件 を表すIS曲線は、バブル崩壊や金融危機 後、消費の低迷や投資の縮減によって大き く左方にシフトするとともに、傾きがステ ィープ化した。景気の後退を受け、日銀は 政策金利を逐次引き下げ、貨幣供給量(マ ネーストック)の増大を図った。その結果、 貨幣市場の均衡条件を表すLM曲線は右方 シフト、金融政策ルールを表すMP曲線は 下方シフトして、一定の効果を発揮したが、 景気を回復するまでには至らず、ついにそ れ以上金利の低下を図り得ない、LM曲線 は流動性の罠、MP曲線はゼロ金利制約に 直面することになった。こうした状況下で は、政策金利を操作する伝統的な金融政策 は基本的に無効となり、IS曲線を右方シ フトする財政政策や民間投資を促進する成 長戦略だけが有効となる。非伝統的金融政 策は、これまで金融政策が対象としてこな かった分野を施策対象に取り込み、積極的 な対応を図ることによって、こうしたゼロ 金利制約の課題を乗り越えようとするもの である。 ※16IS-LMモデル:縦軸に金利、横軸に産出量 (GDP)をとり、財市場の均衡条件を表すIS 曲線と貨幣市場の均衡条件を表すLM曲線を描い たマクロ経済モデル。IS曲線とLM曲線の交点 において財市場と貨幣市場を同時均衡させる利子 率と産出量が求められる。金利が低下すると、投 資や消費が増え、GDPが増加することから、I S曲線は右下がりの曲線になる。貨幣需要は物や サービスを購入するための取引需要(取引動機と 予備的動機)と債券等に投資するための投機的需 要(投機的動機)からなるとし、GDPが増加す ると、取引需要が増加し、投機的需要に回る貨幣 が減少して、金利が上昇することから、LM曲線 は右上がりの曲線になる。公共投資の増加など同 一金利における総需要の増大はIS曲線を右方シ フトする。また、中央銀行による貨幣供給量の増 大はLM曲線を右方シフトする。 ※17IS-MPモデル:縦軸に実質金利、横軸に産 出量(GDP)をとり、財市場の均衡条件を表す IS曲線と金融政策ルールを表すMP曲線を描い たマクロ経済モデル。伝統的なIS-LMモデルを 修正して、貨幣需要の均衡を表すLM曲線をMP 曲線に置き換えたもの。MP曲線は中央銀行が行 う金融政策から導かれるが(テイラー・ルールは その一例)、GDPが減少すると、中央銀行は需要 を刺激するため実質金利を低下させ、GDPが増 加し過ぎると、インフレを抑制するため実質金利 を上昇させることから、MP曲線は右上がりの曲 線になる。中央銀行による金融緩和=実質金利の 引下げはMP曲線を下方シフトする。 IS-MPモデルは、IS-LMモデルに比べ次 のような長所を持つとされ、現在主流となったニ ュー・ケインジアンの理論的枠組みは、IS曲線、 52 フィリップス曲線、金融政策ルールの3つから成 るとされる。@現実的である。IS-LMモデルは 中央銀行がマネーストックをターゲットにすると 仮定する。これに対しIS-MPモデルは中央銀行 が金利ルールに従うと仮定する。A一貫性がある。 IS-LMモデルは実質金利と名目金利が混在し ており、一貫性がない。これに対しIS-MPモデ ルは金利概念が実質金利に統一されている。B簡 単である。LM曲線を導くにはマネー市場を分析 しなければならないので難しい。これに対しMP 曲線はマネー市場の分析を省略できる。 ※18 流動性の罠:金融緩和により金利がゼロ近く に低下すると、債券の代わりに貨幣を保有するコ ストがほぼゼロとなり、また、人々が債券価格の 下落(金利の反転上昇)を予想して投資を行わな くなるため、投機的動機による貨幣需要は貨幣供 給に応じて無限に拡大する。このように金利の低 下によって貨幣の投機的需要が無限大となり、い くら中央銀行が貨幣供給しても、それ以上金利が 低下せず、金融緩和が無効となった状態をいう。 IS-LMモデルでは、LM曲線が水平になった部 分で表される。 (図表 82) IS・LM曲線 (図表 83) IS・MP曲線 出典:矢野浩一・なぜリフレ派は消費増税に反対なのか? SYNODOS 2014/12/10 (3)貨幣数量説と予想物価上昇率の引上げ 上記のように、日銀は、「2%の強く明確 なコミットメントとこれを裏付ける大規模 な長期国債の買入れによって、人々の予想 物価上昇率を引き上げる」とし、これを「フ ォワード・ルッキングな期待形成」と呼ん でいる。日銀はその具体的メカニズムを明 らかにしていないが、一般に、貨幣数量説 を根拠にマネタリーベースの拡大が予想物 価上昇率の上昇につながることを想定した ものと理解され、その上で、ゼロ金利下に おいてもそうしたメカニズムが働くかにつ いては多くの疑問が寄せられている。 貨幣数量説は様々に論じられているが、 その代表がアービング・フィッシャーが定 式化した交換方程式:M(貨幣総量=マネー ストック)×V(貨幣流通速度)=P(物価水 準)×T(取引量)である(Tは実際には観測 困難なため、しばしばY(実質GDP)が用いら れる)。XとTはほぼ一定と仮定し、Mが増 加すればPが上昇するとする。また、マネ タリズムの主唱者であるミルトン・フリー ドマンは、貨幣の中立性は短期的には満た されないことがあるが(Yも上昇する)、長 期的には満たされるとして、Mが増加すれ ば、長期的にPだけが上昇するとする。 一般に理解されているメカニズムは、こ うした貨幣数量説を根拠に、「日銀によるマ ネタリーベースの増加→マネーストックの 増加→物価の上昇」を人々に予想させるこ とによって、予想物価上昇率を引き上げる メカニズムである。しかし、このメカニズ ムが働くためには、@マネタリーベースの 増加→マネーストックの増加(信用創造)、 Aマネーストックの増加→物価の上昇(貨 幣数量説)の 2 つのステップがともに実現 53 されなければならない。 日銀が長期国債等を買い入れることによ って供給したマネタリーベース(日本銀行券 発行高+貨幣流通高(硬貨)+日銀当座預金。日 銀券等は既に飽和状態にあり、増加したのは主に 日銀当座預金)は、民間銀行が企業や家計に 与信することによって、社会に流通する貨 幣=マネタリーストックとなる。その関係 は、マネタリーベース×貨幣乗数又は信用 創造乗数=マネーストックと表され、信用 創造と呼ばれるが、これらの乗数はあくま でも上限を画するものであり、民間銀行の 与信が行われない限り、マネーストックが 増加することはない。 経済が流動性の罠やゼロ金利制約の下に あることは、金利がゼロでも企業や家計は 積極的に借入れをしないことを意味する。 また、民間銀行は、短期金利ゼロでは、少 なくとも短期金融市場に資金を提供しても 利益は得られず、長期運用してもリスクプ レミアムを除いた利益はゼロであり、与信 拡大のインセンティブが働きにくい。この ため、ゼロ金利下においては、借手・貸手 いずれのサイドからみても、大きな与信拡 大は期待し得ず、@のマネタリーベースの 増加→マネーストックの増加(信用創造) のステップは限られたものになる。 また、貨幣数量説:M×V=P×Tは、 専ら取引動機に基づく貨幣需要を念頭に立 論されたものである。しかし、貨幣需要に は、このほかケインズの言う投機的動機と 予備的動機があり、ゼロ金利下においては、 投機的需要が無限大となり、また、将来不 安から予備的動機に基づく資金需要も大き いと考えられる。こうした状況下では、仮 にマネーストックが増加したとしても、企 業や家計は現預金を積み増すばかりで、投 資や支出を拡大しようとせず、Aのマネー ストックの増加→物価の上昇(貨幣数量説) のステップも限られたものになる。交換方 程式に擬えるならば、V(貨幣流通速度)が 大きく低下した状態である。 以上、ゼロ金利下、さらにこれに類似し た不況期においては、上記@・Aのいずれ のステップもほとんど実現せず、貨幣数量 説を根拠とする物価上昇、これを前提とす る予想物価上昇率の引上げは期待し得ない ものと考えられる。 Aの物価の動向は上記4.(4)でみたと おりである。また、@の状況をみたのが(図 表 84〜86)である。マネタリーベースは日 銀当座預金(ほとんどが超過準備)を中心に、 2013 年 4 月以降驚異的に増加し、2018 年 4 月現在 492 兆円に達している(図表 84)。こ の間マネーストックも緩やかに増加してい るが、特段マネタリーベースの増加を反映 するものとはなっていない(図表 85)。これ を対前年増加率でみたのが(図表 86)であ り、マネタリーベースの急増にマネースト ックがほとんど反応していないことが分か る。民間銀行は既に与信に必要な資金をは るかに上回る準備預金を保有しており、こ れが追加的に増加したからといってマネー ストックが増えるものではないであろう (マネーストックの緩やかな増加は、これとは無 関係に、経済規模の全体的な拡大に対応したもの と思われる)。 ただし、以上のことは、日銀のコミット メントと異次元緩和が予想物価上昇率を引 き上げる可能性が全くなかったことを意味 するものではない。人々が信じることによ って自己実現的に予想が形成され、成就す 54 る場合があるからである。しかし、賃金も 物価も思うように上昇しない現実を前にし て、人々は日銀の掛け声だけで期待形成を 変えることはなかった(この点は、メカニズ ムが明白な物価高騰時に行われる金融引締めとは 異なる)。日銀は、今でも「我が国は適合的 な期待形成の影響が大きいが、今後もフォ ワード・ルッキングな期待形成を強めるた め、オーバーシュート型コミットメントを 実施する」としているが、果たしてその効 果はどうであろうか。 ※19 貨幣数量説:一般的な物価水準は、社会に流 通する貨幣の総量(マネーストック)と生産物の 総量の相対的な大きさによって決まるとする経済 理論。その定式化の代表にアービング・フィッシ ャーの交換方程式とケンブリッジ学派の現金残高 方程式がある。前者は、M(貨幣総量)×V(貨 幣流通速度)=P(物価水準)×T(取引量)。X とTはほぼ一定と仮定し、Mが増加すればPが比 例して上昇するとする。後者は、M(貨幣総量) =k(比例定数、マーシャルのk)×P(物価水 準)×Y(実質GDP)。実際に観測困難なTに代 わってYが用いられ、kは人々の貨幣選好を表す。 マネタリズムの主唱者であるミルトン・フリード マンは、貨幣の中立性は短期的には満たされない ことがあるが、長期的には満たされるとする。こ のため、Mが増加すると一時的にYが増加するこ とはあるが、長期的にはPの上昇だけが生じると する。 (図表 84) マネタリーベース(1998〜) 兆円 出典:日本銀行 (図表 85)マネタリーベースとマネーストック兆円 出典:日本銀行 (図表 86)マネタリーベースとマネーストック(前年比)% 出典:日本銀行 米国でも、2008 年 11 月から 3 次に渡っ て「QE(Quantitative Easing)」と呼ば れた量的緩和政策が実施された(2008 年 11 月〜2010 年 6 月QE1、2010 年 11 月〜2011 年 6 月QE2、2012 年 9 月〜2014 年 10 月QE3)。 しかし、当時のバーナンキFRB議長は、 QEと呼ばれることを嫌い、かつて日銀が 実施した量的緩和政策とは異なることを強 調して「信用緩和政策」と呼んだ。公式に は「大規模資産買入れ:LSAP(Large Scale Asset Purchases)」である。 その狙いはMBS等のリスク資産の買取 りによるリスクプレミアムの低下であり、 日銀の行った量的緩和が負債側の日銀当座 預金を増やすことに主眼があったのに対し (異次元金融緩和は同じく負債側のマネタリーベ ース)、LSAPはどのような資産をどれだ け買うかという資産側に力点があった。資 産の買入れによって当然準備預金は増加す るが、それはあくまで結果に過ぎないとの 55 位置付けである。QE2・QE3 では長期国 債等も買入れ対象となり、一般的な景気対 策としての性格を強めていったが、なお長 期金利の引下げなど資産側の効果に主眼を 置くものであった。その上で、バーナンキ 議長は、2012 年 12 月、「誤解がないことを 確実にしておきたい」として、「FRBのバ ランスシートの規模は、期待インフレ率に 全く影響しない」と断言した。また、退任 を間近にした 2014 年 1 月、「量的緩和の問 題点は、それが現実には効果を発揮したが、 理論的には効果がないことだ」と言っての け、その実験的性格を指摘したという。 なお、米国でマネタリズムが最も光彩を 放っていたのは、1970 年代の大インフレの 時代からポール・ボルカーがFRB議長と してインフレ退治を行った 1970 年代末ま での時期であり、その後次第に輝きを失い、 グリーンスパン議長の時代にはその影響力 が決定的に低下したという。その主因は、 金融技術の革新によってマネーストックの 範囲や機能が流動化し、マネーストックと 物価との安定的関係が失われて、金融政策 の拠り所になり得ないことが明らかになっ たことである。現在FRB等の多くの中央 銀行が依拠しているニュー・ケインジアン のマクロ経済学では、通貨供給量への関心 が薄れ、そもそもその基本モデルに通貨供 給量は明示的に登場していない(※17ISMPモデル参照)。 我が国でも、上記のとおり、ゼロ金利下 やこれに類似した不況期においては、マネ タリーベースが増加しても物価は上がらず、 また、1980 年代のバブル期には、その後の 大規模な不良債権処理につながるマネース トックの膨張があったにもかかわらず、そ の多くが不動産投資や株式投資に回り、物 価は上昇しなかったこと、そのことが日銀 の対応の遅れを招き、今日に至る日本経済 低迷のそもそもの原因となったことは、記 憶に新しいところである。 (4)ポール・クルーグマンの提案 1998 年、アメリカの経済学者ポール・ク ルーグマンが、我が国経済に対する処方箋 として、予想インフレ率引上げによる実質 金利の引下げの提案を行った。日本でも大 きな話題となり、その考え方は日銀の政策 にも少なからず影響を与えたとみられてい るため、ここに紹介する。 提案の内容は、「中央銀行が無責任である ことを確信させるような約束をすべきだ。 日銀は、4%のインフレを 15 年間続けるこ とにコミットせよ」というものである。「実 質金利を自然利子率まで引き下げるために は、名目金利を引き下げるか、予想インフ レ率を引き上げるしかないが、自然利子率 がマイナスとなり、流動性の罠に陥った現 時点では、どんなに量的緩和やゼロ金利を 行ってもデフレから脱却できない。しかし、 いつかは何らかのショックでインフレが起 きる。「そのとき、中央銀行は景気が過熱し インフレ率が高騰するまで事態を放置す る」と人々に確信させることができれば、 将来についてインフレ期待が生じる。これ により現時点の長期的インフレ期待が高ま れば、現時点の実質金利が低下して、潜在 GDPを実現する自然利子率まで行き着 く」というものである。 景気の循環的変動を重視した考え方であ るが、大きな弱点は、時間非整合性の問題 (経済がデフレから脱却して景気が過熱始めたと 56 き、物価の番人である中央銀行が約束どおりイン フレの行き過ぎを放置することはあり得ないであ ろうし、国民も中央銀行に約束を守らせる誘因を 持たないであろうということ)である。そのこ とが余りにも明白なため、こうしたコミッ トメントは人々に信じてもらえず、したが って、長期的インフレ期待は生じないとい うことになる。クルーグマン自身も明快な 解決策を示すことができず、難しい問題だ と認めていたという。しかし、「国民や将来 の政策委員が受け入れやすい 2%のインフ レの実現にコミットするのでは、予想イン フレ率の引上げが不十分で、実質金利が十 分に下がらず、デフレ脱却には役立たない」 として、「臆病の罠」と呼んでいた。 ところが、世界金融危機後の 2013 年 11 月、元米国財務長官のローレンス・サマー ズが先進国経済に関し長期停滞仮説を提唱 し、その原因として、自然利子率が長期に わたり低下し、マイナスになるような状況 を挙げた。サマーズにとっての中心課題は、 「自律的には自然利子率が上昇しない長期 停滞から経済を浮揚するにはどうすればよ いか」であり、いずれ自然利子率が上昇し、 インフレが生ずることを前提とした政策論 議は無意味だということになる。こうして 長期停滞仮説は、クルーグマンの提案に対 し根本的な疑問を投げかけることとなった。 こうした議論を受け、クルーグマンは、 2015 年 10 月に発表した小論「日本再考」 で、「長期停滞仮説を前提にすると、金融政 策による期待への働き掛けではインフレに ならない」として、日本への処方箋を見直 した。その概要は次のとおりという。 @1998 当時は需要不足が長引き、大胆な金 融緩和が必要であったが、現在の日本は需 要不足がほぼ解消し、経済は潜在成長力並 みで推移している。主因は人口動態の変化 である。 A自然利子率は、低水準のまま推移してい る。金融緩和で無責任になることを公約し ても、誰もインフレ率が上昇すると信じな ければインフレは起きないだろう。 Bこの状態でインフレ率を確実に上昇させ るためには、金融緩和とともに財政出動を 断行することが必要である。インフレ率を 上昇させる目的は、財政再建の痛みを和ら げるためである。積極的な財政出動と金融 緩和を行って、インフレ率を財政が持続で きる状態になるまで大きく引き上げるべき である。 サマーズは、その反応を踏まえ、2015 年 11 月に、「今後の政策対応の焦点は、金融 政策でなく財政政策に移るだろう」とコメ ントしたという。こうした方向は、バーナ ンキ等のヘリコプターマネーやクリストフ ァー・シムズのFTPL:物価水準の財政 理論と相まって、最近の日本の経済論議に つながっていると考えられる。 以上を踏まえると、日銀の異次元金融緩 和によるフォワード・ルッキングな期待形 成、特にオーバーシュート型コミットメン トは、現時点の予想物価上昇率をそのまま 引き上げるのではなく、インフレが生じた 将来時点のインフレ率を更に高めることに コミットすることによって、現時点の長期 的予想物価上昇率を引き上げるクルーグマ ン流の考え方に基づくものとも考えられる。 しかし、少なくとも現在においては、2%の 達成にも大きな隔たりがあり、そのような 長期的インフレ期待を人々が懐く状況には 至っていないと言うべきであろう。 57 (5)長期金利の引下げ リスクフリー資産である長期国債の金利 は、概念上次のように示すことができる。 長期金利=予想される短期金利の累積値 +タームプレミアム n年満期の長期金利は、裁定によって、 n年後まで毎年借換えを行う場合の金利と 等しくなる。また、長期金利には、金利変 動、物価変動、流動性等を反映したリスク プレミアムが含まれる。こうした関係を単 純に示したのが上記の式である。 中央銀行がほぼ完全に操作できるのは政 策金利とされているごく短期の金利であり、 中央銀行はその時々の経済情勢に応じてこ れを決定する。しかし、日銀が 1999 年に導 入したゼロ金利政策では、@政策金利をゼ ロとするとともに、Aこれをデフレ懸念が 払拭されるまで継続すると発表した。この ように将来の政策金利を現時点において決 定し、約束することによって、長期金利を 低位に安定させる政策が時間軸政策であり、 その効果が時間軸効果である(上記式の第1 項が低位に確定する)。異次元金融緩和では、 マイナス金利導入前までは付利金利 0.1%、 導入後は政策金利残高△0.1%がこれに相 当し、イールドカーブ・コントロール導入 後は 10 年物国債金利ゼロ%程度もこれに 類するものと考えられる。 また、日銀の長期国債の買入れによって、 上記式第 2 項のタームプレミアムが低下す る。利益獲得を目的としない日銀が大量に 国債を買入れることによって、既に時間軸 効果によって低下した長期金利が更に低下 するが、これはタームプレミアムの低下に よるものと整理されている。 時間軸効果は、かつてのゼロ金利政策や 量的緩和政策においても大きな効果を発揮 したと言われるが、異次元金融緩和の特徴 は、何と言っても国債買入れ額の圧倒的な 規模の大きさである。例えば、年間 80 兆円 のペースで国債保有残高を増加させていた ときには、概ね、日銀の国債買入れ額=新 規買入れ額 80 兆円+償還分再投資額 40 兆 円=120 兆円、財務省の長期国債発行額= 新発債 40 兆円+借換債 80 兆円=120 兆円 であり、ネットで、日銀は財務省が発行す る国債のほぼすべてを取得していたことに なる(その結果、民間の国債保有残高は、毎年 40 兆円ずつ減少する)。 このように日銀は国債の流通市場におい て圧倒的存在感を示し、国債の金利に決定 的な影響を与えることになった。その典型 がいわゆる「日銀トレード」である。日銀 トレードは、証券会社や銀行が財務省から 落札した国債を数日で日銀に売却して利鞘 を稼ぐ取引であり、転売までの数日間に金 利が上昇しない限り、確実に利益を上げる ことができる。特に 2016 年のマイナス金利 の導入により、金融機関が高値での転売を 狙って国債を大量に買い入れるようになっ たことが、金利の急速な低下につながった と言われている。このように国債の保有者 がほとんどリスクを負担せず、いわば仲介 手数料を鞘取りする中で形成される国債の 金利は、とても市場金利とは言えないであ ろう。また、伝統的に中央銀行が長期金利 をコントロールすることは不可能と言われ てきたが、長短金利に操作目標を設定する イールドカーブ・コントロールを導入し、 安定的に運用できていること自体、日銀の 国債市場に対する影響力の大きさを如実に 示すものと考えられる。 58 こうしてみると、我が国の国債金利は、 正に日銀の政策判断を示す政策金利であり、 いわゆる市場金利ではないことになるが、 リスクフリー金利を決定する一国経済の根 幹に関わる国債市場がその市場機能を失っ ているとすれば、資源の適正配分や有用な 情報の発信、特に財政規律の確保を図る上 で、重大な問題をはらむものと考えられる。 (6)ポートフォリオ・リバランス効果 ポートフォリオ・リバランス効果は、日 銀が長期国債を大量に買い入れると、それ まで長期国債で運用してきた金融機関や投 資家がポートフォリオを変更し、貸出を増 やしたり株式や外債等のリスク資産で運用 したりすることによって、経済が活性化す る効果である。 しかし、国債の売却によって取得した日 銀当座預金は、個々の金融機関が自分の持 ち分を変化させることはできても、金融機 関全体としてはその量を変化させることが できない。日銀当座預金は、ある金融機関 が手放せば他の金融機関が取得する構造と なっており、日銀が買い入れた国債の売却 等を行わない限り減少しない。マネタリー ベース全体の規模を決め左右するのは供給 者である日銀である。 また、国債金利が低下する中、国債と日 銀当座預金の資産性は次第に同質化し、こ れを交換しても、ポートフォリオを変更す るインセンティブはほとんど無くなった。 また、リスクフリー金利である国債金利が 低下すれば、他の多くのリスク性資産の収 益率も同時にそれだけ低下するため、投資 行動の変化は生じないと考えられる。かつ ての量的緩和でもポートフォリオ・リバラ ンスのメカニズムは機能しなかったと言わ れるが、結局、今回も期待された効果はほ とんど生じていないという。 (図表 77)でみたように、異次元金融緩 和で多くの国債を手放したのは預金取扱機 関、中でも都市銀行である。銀行等がこれ だけ低金利にもかかわらず国債に投資して きたのは、非金融法人企業のISバランス が黒字化する中、有力な投資対象が不足し ていたためと考えられる。その結果、将来 に向けて巨大な金利変動リスクを抱えるこ とになったが、日銀がこのリスクを引き取 ってくれる上、売却すれば金利低下による キャピタルゲインを得ることができる。こ うして多量の準備預金を手にすることにな ったが、では国債に代わる有力な投資対象 が出て来たかといえばそうした状況変化は みられない。少なくとも基礎残高には 0.1%が付利され、現状では多くの金利変動 リスクと信用リスクを取ってリバランスす ることはできない、というのが個々の金融 機関の実情と思われる。なお、国債を有力 な投資対象とする機関は、国債金利が低下 する中、一定の利息収入を確保するため、 その投資対象を 10 年債から 20 年債、30 年 債へと長期化させた。これが国債のイール ドカーブをフラット化した主因と考えられ るが、これはポートフォリオ・リバランス 効果とは異なるものであろう。 (7)マイナス金利 2012 年 7 月、デンマーク国民銀行が預金 金利を△0.2%に設定した。これを皮切りに、 スウェーデン、スイス、ノルウェーなど欧 州各国でマイナス金利の導入が相次いだ。 主要な中央銀行でマイナス金利を最初に導 59 入したのがECBであり、2014 年 6 月、政 策金利を過去最低の 0.15%に引き下げる とともに、当座預金への付利を△0.1%とし た(2016 年 3 月以降△0.4%)。 マイナス金利導入の効果として、欧州各 国の中央銀行は、為替レートに与える影響 を重視している。中銀当座預金をマイナス にすれば、自国通貨保有にペナルティを課 すこととなり、自国通貨買いを抑制できる と期待されるためである。円と同様、スイ スフラン高に悩まされたスイスでは、これ が大きな効果を発揮したという。ECBは さすがに物価の安定を前面に掲げているが、 ユーロ安効果を歓迎していることは間違い ないであろう。 日銀は、これらの先例を参考に、2016 年 1 月、マイナス金利を導入した。「当座預金 金利をマイナス化することでイールドカー ブの起点を引き下げ、大規模な長期国債買 入れとあわせて、金利全般により強い下押 し圧力を加えていく」として、ゼロ金利制 約を乗り越える金利の引下げ効果を強調し ている。 このほかマイナス金利の効果について、 「金融機関は資金を中央銀行に預けておく と損をしてしまうので、貸出しを拡大する」 と説明されることがある。しかし、前記の とおり、個々の金融機関が貸出しを増やし ても金融機関全体の日銀当座預金(正確には マネタリーベース)が減少することはなく、 貸出しが増えるかどうかは、ひとえに与信 が行われるかどうかにかかっている。 ゼロ金利制約は、一般に金利ゼロの安全 資産である銀行券が存在することによって 生じる。銀行券の保有にマイナスの金利を 課すことは、技術的に困難であるばかりで なく、社会的に受け入れられないであろう。 しかし、預金については、銀行券の保蔵に セキュリティ上の問題があることや保管費 用などハンドリングコストがかかることか ら、そのコストの範囲内でマイナスの金利 を課すことができる。これがマイナス金利 であり、預金から銀行券への大規模なシフ トを起こさずにすむ下限がマイナス金利の 物理的下限である。それは、金額の多寡、 取引慣行、キャッシュレス化の程度、犯罪 率、国民意識等の違いから、国や地域によ って異なる。他方、マイナス金利には預金 者の負担、金融仲介機能の低下等のマイナ ス効果もあり、どこまでなら経済的にプラ スの効果が発揮されるかというマイナス金 利の経済的下限がある。我が国ではマイナ ス金利の導入によって、日銀が想定した以 上と言われる金利の低下とイールドカーブ のフラット化が進み、銀行収益の圧迫、年 金生活者をはじめとする預金者の不満の高 まり、年金・保険の運用難と受給者負担の 増加、企業の退職給付債務の急増など様々 なマイナス効果が発生したと指摘されてい る。今後とも、プラス効果・マイナス効果 を分析・評価して、マイナス金利の経済的 下限を適切に見極めていくことが必要であ る。 (8)為替変動のメカニズム 黒田総裁は、「日銀の金融政策は、あくま で国内物価の安定を目的としており、為替 をターゲットとして金融政策を運営するこ とはない」としている。また、安倍首相も、 2012 年 12 月の政権復帰後は「意図的な円 安誘導は行わない」とし、アベノミクスの 三本の矢にも入れていない。為替政策は表 60 向きすっかり封印された形になっているが、 2013 年以降の我が国経済の回復に最も影 響したのは円安であり、経済界をはじめ国 民が最も関心を寄せているのが円相場の行 方であることは間違いないであろう。 変動相場制の下、各国通貨の交換比率で ある為替レートも、他の財と同様、各国通 貨に対する需給関係によって決定される。 この需給関係を決定する要因には様々なも のがあり、しかも時々の経済情勢や政治状 況によって変化することから、日々の為替 変動の要因を特定することは容易ではない。 しかし、こうした為替変動のベースを説明 する基礎的な理論として、次のような理論 が唱えられている。 @購買力平価説(マネタリー・アプローチ) 為替レートは、自国通貨と外国通貨の購 買力の比率(絶対的購買力平価説)又は物価 上昇率の相違(相対的購買力平価説)によっ て決定されるとする説。一物一価が国際的 にも成立すると仮定したものであり、非貿 易財には当てはまりにくい。このため、絶 対的購買力平価説は成立しにくいが、相対 的購買力平価説は長期的に観察されるとい う。物価上昇率の低い日本の通貨円はドル に対し円高となる。 A国際収支説(フロー・アプローチ) 為替レートは、国際収支が均衡するよう に決定されるとする説。経常収支が黒字で あれば自国通貨が超過需要され、資本収支 が赤字(流出超過)であれば外国通貨が超過 需要される。このため、経常収支黒字(赤 字)=資本収支赤字(黒字)+外貨準備増 加(減少)となるように為替レートが調整 されるとする。資本収支は短期的にも大き く変動するが、経常収支はその国の経済構 造や国際競争力によって決まり、余り変動 しないため、中期的にこの均衡が成立する という。日本は経常黒字を続けており、そ れ以上に資本収支が赤字になれば円安、そ うでなければ円高となる。 B金利平価説等(アセット・アプローチ) 金利平価説は、将来の為替レートは、ど の通貨で資産を保有しても収益率が同じに なるように決定されるとする説。現在の為 替レートに対し将来の為替レートがどう動 くかを説明するものであり、金利の低い日 本の通貨円はドルに対し円高となる。 世界の金融市場では収益を求めて日々大 量の資金が動いており、為替レートの決定 に圧倒的な影響を与えている。その代表が 高金利の債券、値上がりが期待される株式、 増価が見込まれる通貨などへの投資であり、 投資先の国の通貨は増価し、流出元の通貨 は減価する。世界金融危機前には、ミセス・ ワタナベとも称された円からドルへのキャ リートレードが盛んに行われ、金利平価説 に関わりなく急速に円安が進んだ。 他方、平時はより高い収益を求めて移動 するこうした実需を伴わない資金は、紛争 や政治的・経済的混乱が発生すると、たち まちのうちに安全な場所に移動し、危機が 過ぎ去るまで待機する(リスク量を一定以下 に管理するリスクオフ)。このとき買われるの が安全通貨・避難通貨などと呼ばれる円や スイスフラン、状況に応じドルやユーロで ある。かつて冷戦時代には「有事のドル買 い」と言われたが、最近ではむしろ円高・ ドル安が進む傾向がみられる。このように 円が安全通貨とされる理由としては、次の ような点が挙げられている。@デフレ通貨 であり、価値が高い上に、インフレが進ん 61 で減価する可能性も少ないとみられること。 A低金利国通貨であり、平時のキャリート レードの巻き戻しによって円高になること が期待されること。B世界最大の対外純資 産保有国であり、安全性が高いとみられる 上に、リパトリエーションによって円高に なることが期待されること。世界的な危機 の発生は我が国にとっても深刻な事態であ り、更に円高に追い打ちをかけられること は不都合な現象である。しかし、悪性のイ ンフレが発生し円の信用が失墜する状況と 比べれば、まだ恵まれた状況にあると考え るべきなのかもしれない。 さて、冒頭にも記したとおり、世界金融 危機後急速に円高が進んだのは、日銀のバ ランスシートの拡大規模やペースがFRB より小さく遅かったことが原因ではないか とされ、それが異次元金融緩和導入の大き な契機となった。こうした日銀批判の根拠 となったのがソロス・チャートの考え方と 言われている。 ソロス・チャートは、著名な投資家ジョ ージ・ソロスが考案した為替のチャート分 析手法であり、2 国間のマネタリーベース 比と為替レートは相関するというものであ る。相対的に米国がドルの供給量を増やせ ば円高、日本が円の供給量を増やせば円安 になるとする。これは、マネタリーベース の増加→マネーストックの増加→物価の上 昇→為替レートの減価という、貨幣数量説 と購買力平価説を合わせたメカニズムを想 定したものである。しかし、上記7.(3) でみたとおり、少なくともゼロ金利下にお いては、信用創造を含め貨幣数量説は成立 し難い。また、購買力平価説についても、 長期的にその傾向が認められるとしても、 短中期の為替変動を分析するには自ずと限 界がある。唯一可能性があるのは、誰もが それを信じて行動するという美人投票の論 理・バンドワゴン効果であるが、特に我が 国がゼロ金利制約に陥った 1999 年以降は、 ソロス・チャートの相関関係は大きく崩れ ているという。 では、なぜあれほど円高が進んだのか。 それはやはり世界のマネーの流れ、アセッ ト・アプローチが示唆する影響が大きかっ たからと考えられる。2007 年のサブプライ ム・ローン問題、2008 年のリーマン・ショ ックの発生を受けて、円キャリートレード が逆流するとともに、世界のマネーが避難 通貨円に流入した。2011 年に東日本大震災 が発生すると、日本の生損保会社が巨額の 保険金の支払いに備えるため海外保有資産 を売却するのではないかとの憶測を呼び、 投機筋の円買いが発生した。また、2010 年 以降繰り返し問題となった欧州債務危機は、 世界のマネーを円に呼び寄せる大きな原動 力となった。金融政策の関連では、米欧の 金利が大きく低下し、内外金利差がほぼ無 くなったことが大きいが、これは長年にわ たる金融緩和の結果、日本では利下げ余地 がほとんど無くなっていたことによるもの であって、日銀のバランスシートの大きさ とは関係がない。 ではまた、なぜ 2012 年 11 月から円安に 向かったのか。これも多くは世界のマネー の流れによるものと考えられる。リーマ ン・ショック発生から 4 年以上経過し、米 欧、特に米国の経済は順調に回復した。緩 和マネーを活用して積極的に収益獲得に乗 り出すべき情勢となった。欧州債務問題も、 2012 年 7 月のマリオ・ドラギECB総裁の 62 「ユーロを守るためには何でもする」の発 言によって、不安心理が大きく後退した。 また、2011 年から赤字となった日本の貿易 収支は、原油価格の上昇と原発の稼働停止 の長期化によって赤字幅が拡大し、経常収 支まで赤字に転落する可能性が出てきた。 こうした情勢が避難通貨円へのマネーの流 れを大きく変え、そこに当時は野党党首で あった安倍総裁の円安誘導発言が加わって、 その後の円安の進行につながったと考えら れる。 こうしてみると当時の日銀批判は何だっ たのかということになるが、これをきっか けに導入された異次元金融緩和は、@金利、 特に長期金利の引下げによる内外金利差の 拡大、A外国人投資家を中心とする物価上 昇期待の高まり、B円安との相互作用によ る株価の上昇等によって、円安を促進した と考えられる。 (9)物価上昇のメカニズム 日銀の想定する物価上昇のメカニズムは、 上記7.(1)Dとおり、フィリップス曲線に 基づくものであり、@需給ギャップの改善 とA人々の予想物価上昇率の引上げによっ て、2%の物価安定目標を実現しようとする ものである。このうち@については、(図表 87)のとおり、需給ギャップと物価とはよ く相関しており、そのメカニズムが働くと 考えられる。しかし、Aについては、上記 7.(3)のとおり、オーバーシュート型コミ ットメント等のマネタリーベースを拡大す る政策によって、フォワードルッキングに 人々の予想物価上昇率を高めることができ るかについて大いに疑問がある。 (図表 87) 需給ギャップと物価 出典:日本銀行・講演資料 一方、日銀も安倍首相も賃金の動向を注 視し、安倍首相はその引上げを図るべく積 極的に経済界に働き掛けている。 また、吉川洋東京大学名誉教授は、賃金 が上昇しないことこそが日本のデフレの原 因と指摘されている。これを引用すれば、 次のとおりである。 「日本だけがデフレに陥ったのはなぜか。 その理由は、日本の賃金決定に生じた大き な変化だ、というのが筆者の考えである。 1990 年代初頭のバブル崩壊以降、経済が 長期的に停滞する中で、日本の経済・社会 にはさまざまな面で大きな変化が生まれた。 かつて「終身雇用」といわれた日本の大企 業における「雇用」も本格的に変わった。 本格的なリストラが行われる中、「雇用か、 賃金か」という選択に直面した労働者は、 名目賃金の低下を受け入れた。名目賃金は 「デフレ期待」によって下がったのではな い。1990 年代後半、大企業を中心に、高度 成長期に確立された旧来の雇用システムが 崩壊したことにより、名目賃金が下がり始 めたのである。そして、名目賃金の低下が デフレを定着させた。 なぜ日本だけがデフレなのか、という問 いに対する答えは、日本だけで名目賃金が 63 下がっているからだ、ということになる。 デフレ「期待」によって名目賃金が下がっ ているわけではない。フィリップス・カー ブ全体を下にシフトさせたのは、「期待」で はなく、大企業における雇用システムの変 貌である。」 「そもそも価格や賃金の決定において、将 来に対する「期待」の出番はあるのか。資 産の価格や一次産品の価格は「期待」、すな わち「思惑」で動く。こうした市場の論理 は、ケインズが『一般理論』で「美人投票」 のたとえ話を用いて巧みに説いたように、 付和雷同である。 対照的に、普通のモノやサービスの価格 や賃金の決定においては、「期待」が入り込 む余地はほとんどない。「将来××だろうか ら」価格を上げるとか、「将来は××になる はずだから」賃金を下げる、というような ことはあり得ない。なぜなら、将来のこと はわからないから、売り手と買い手の間で 将来に関する「期待」が一致することはな いからである。普通のモノやサービスの価 格、賃金の決定の原理は、ヒックスやオー カンが強調したとおり「公正」である。そ こに期待が入り込む余地はない。」(吉川洋 「デフレーション」2013.1 日本経済新聞出版社。 212〜213 頁、216 頁) ところで、「賃金が上がれば物価は上がる のか」、この点については、貨幣数量説を信 奉するマネタリストの立場からは異論があ る。「一般物価(一般的な物価水準)と相対価 格の区別がついていない」というものだ。 「一般物価の変化は貨幣的現象であり、マ ネーストックの増減によって決まる。実体 的要因を背景に相対価格は変化するが、こ れによって一般物価が変化することはな い」とする。例えば、「Aの価格が上がれば、 Aに対する支出が増えるから、名目所得(マ ネーストック)が一定である以上、Bに対す る支出が減る。するとBの価格が下がるか ら、AとBの平均的価格である物価は、A とBの相対価格が変化しても影響を受けな い」と考えるためである。したがって、「賃 金が上がり、個々の商品の価格が上がって も、こうした個別の価格を積み上げて物価 の変動を論じる「積上げ論」は、一般物価 と相対価格を混同した謬論」ということに なる。こうしてマネタリストは、一般物価 は、中央銀行がマネタリーベースを適切に 供給してコントロールすべきものと考える。 しかし、こうした理論が現実にそぐわな いことは、上記7.(3)でみたとおりである。 日銀がマネタリーベースを増加しても、マ ネーストックが安定的に増加するとは限ら ない。また、マネーストックが一定の流通 速度で回転するとも限らない。これを逆に 言えば、日銀が何もしなくても、社会の必 要に応じて、与信が行われ、あるいは流通 速度が上がって、マネーストックが手当さ れることになる。即ち、マネーストックは、 日銀の金融政策によって与えられる外生変 数ではなく、社会の必要(この場合は物価の 上昇)に応じて決まる内生変数であり、因 果関係は、@日銀によるマネタリーベース の供給→マネーストック→物価でなく、A 社会における価格形成→物価→マネースト ックとなる。日銀によるマネタリーベース の供給は、Aにおいてマネタリーベースが 不足し、マネーストック形成のボトルネッ クになっている場合においてのみ有効であ り、近年の我が国のように資金があり余り、 ましてゼロ金利となった状況においては、 64 デフレ防止に効果を発揮するものではない。 先の例について言えば、「Aの価格が上がれ ば、Aに対する支出が増える。しかし、B に対する支出もこれまでと同様必要である。 このため、名目所得(マネーストック)が増 額調整される。AとBの平均的価格である 物価は、Aの値上がりによって上昇する」 ということになる。 このように考えれば、消費者物価が実際 そうして算定されているように、一般物価 は、個々の商品の価格を加重平均したもの にほかならず、物価の動向やデフレの原因 を検討するに当たっては、個々の商品の価 格変動を分析し、それを積み上げればよい ことになる。常識に適った結論であり、一 般物価と相対価格の区別は、フリードマン 特有のレトリックのように思われる。 さて、賃金と物価の関係を実際にみたの が(図表 88)である。図のとおり明確に相 関している。物価に占める人件費の大きさ を考えればむしろ当然とも言えよう。 (図表 89〜91)は、日本・米国・ドイツ のインフレ率・中長期のインフレ予想・ベ ースアップ率を比較したものである。イン フレ率は、世界金融危機前は米国・ドイツ が 2〜3%であるのに対し、日本はゼロない し若干のマイナス、金融危機後はいずれも 大きく変動し、15・16 年はゼロ近辺になっ ている。中長期のインフレ予想は、これに 比べ安定しており、米国 2.0〜2.5%、ドイ ツ 1.5〜2.0%、日本 1.0〜1.5%である。ま た、ベースアップ率は、米国・ドイツが 2 〜3%であるのに対し、日本はゼロ、14 年 以降若干のプラスとなったが、未だ 0.5% 程度で米国・ドイツには遠く及ばない。長 年にわたるベースアップの実績とこれを支 える賃金決定の慣行が、中長期のインフレ 予想の形成に大きく作用しているものと考 えられる。 また、(図表 92)は、日本と米国のフィリ ップス曲線を比較したものである。失業率 とインフレ率、失業率と賃金上昇率いずれ をみても、日本のフィリップス曲線は急傾 斜で、しかもその範囲がマイナスの領域に まで及んでいる。これに対し米国はなだら かで、低下してもマイナスになることはな い。「賃金の下方硬直性」がよく言われるが、 現在の日本の賃金決定システムは、伝統的 な世界の労働市場とも異なるものになって いることが伺われる。 以上を踏まえれば、吉川教授が言われる ように、賃金が上昇しないことこそが日本 のデフレの原因であり(原油等の原材料価格 は物価に大きな影響を与えるが、多くの原材料価 格は国際市場で競争的に決まるから、その変動は、 為替レートによる影響を除き、各国の物価にほぼ 共通の影響を与える)、賃金を引き上げること がデフレ脱却の最大のポイントと考えられ る。また、日銀が重視する人々の予想物価 上昇率の 2%への引上げとそこでのアンカ ーを実現するためには、マネタリーベース の拡大でなく、米国・ドイツ並みの 2〜3% のベースアップを当たり前のこととして社 会に根付かせることが必要と考えられる。 65 (図表 88) 賃金と物価 % 出典:日本銀行・講演資料 (図表 89) 主要国のインフレ実績(CPI) % 出典:日本銀行・「総括的な検証」背景説明 (図表 90) 主要国の中長期のインフレ予想 % 出典:日本銀行・「総括的な検証」背景説明 (図表 91) 主要国のベースアップ率 % 出典:日本銀行・「総括的な検証」背景説明 (図表 92) 日本と米国のフィリップス曲線 出典:日本銀行・講演資料 賃金の上昇を図り、デフレを脱却するた めには、その原資となる名目GDPの成長 と労働分配率の向上が必要である。また、 国民が望んでいるのは実質賃金の上昇であ り、単なる物価上昇ではない。しかし、物 価は経済の体温であり、実質GDPの成長 率が高まれば、一般に物価上昇率も高くな る。このため、潜在成長率の上昇と需給ギ ャップの解消により実質GDPを成長させ、 これを前提に物価の上昇と名目GDPの成 長を図っていくことが必要である。凍りつ いた人々のマインドと世界でも異例な賃金 決定システムを融解させるのは、やはり経 済の成長であり、これを実現することがデ フレ脱却の道筋と考えられる。 上記4.(4)の(図表 62・63)では、消費 者物価と名目GDPの相関が高く、バブル 崩壊までは概ね名目GDPの成長率が物価 上昇率を上回っていたが、1997 年以降は、 ほぼ同等となり、これらの指数も重なって 横ばいに推移していることをみた。また、 (図表 93)は、予想インフレ率と潜在成長 率が相関することを示している。主要国の 潜在成長率は、(図表 94)のとおりであり、 これが先にみた日本・米国・ドイツのイン フレ率・中長期のインフレ予想・ベースア 66 ップ率にも対応しているものと思われる。 (図表 93) 予想インフレ率と潜在成長率 % 出典:日本銀行・講演資料 (図表 94) 主要国の潜在成長率 % 出典:日本銀行・講演資料 日銀は、物価上昇のメカニズムついて、 専らフィリップス曲線に着目し、需給ギャ ップの解消とフォワードルッキングな予想 物価上昇率の引上げを強調する。しかし、 我が国の潜在成長率は現状 1%程度に過ぎ ず、需給ギャップはここ 1 年ほどプラスと なり既に高圧状態が続いている。また、フ ォワードルッキングな予想物価上昇率のメ カニズムは定かでない。賃金を主眼とする 積上げ論や(図表 71)でみたAD・AS曲 線による分析など、GDPとその動向に焦 点を当てた多角的な検討が必要と考えられ る。 8.異次元金融緩和の副作用 どのような政策も、目的とする意図した 効果のほか、意図せざるプラスの効果・マ イナスの効果、政策の実施を制約する効果 などを持つ。異次元金融緩和は、規模が巨 大なだけにこうした目的外の効果も大きい。 政策担当当局には、これら様々な効果を総 合的に勘案して、プラスがマイナスを上回 る限りにおいて、より適切に政策を実施す ることが求められる。意図せざるプラスの 効果としては円安の促進と国の財政運営を 当面容易にする効果が考えられるが、ここ では、意図せざるマイナスの効果と政策の 実施を制約する効果を「異次元金融緩和の 副作用」として検討してみたい。 副作用には、@異次元金融緩和の継続期 間中に顕在化する副作用と、A2%の物価安 定目標が達成され、金融政策が正常化に向 かう過程で顕在化する副作用の大きく 2 種 類があると考えられる。まず、@とAの前 提となる金利の展望や異次元金融緩和の仕 組みと正常化プロセスから検討を始める。 (1)金利の展望 現在の金融市場調節方針に基づく金利水 準は、短期金利△0.1%・10 年長期金利ゼ ロ%程度である。これは毎回の金融政策決 定会合で決定されるから、変更の可能性が ないわけではないが、2%の物価安定目標が 達成されるまでは、容易に変更されず、仮 に変更されたとしても小幅なものにとどま ると思われる。 一方、2%の物価安定目標が安定的に達成 された暁には、異次元金融緩和も終息し、 伝統的な金融政策に向け正常化が進められ る。この場合の政策金利である短期金利は、 67 潜在成長率を 1%とすれば、典型的なテイ ラー・ルールによって次のように試算され る。均衡実質金利 1%(潜在成長率並み)+ 目標インフレ率 2%+1.5×(実際インフレ 率 2%−目標インフレ率 2%)+0.5×需給 ギャップ 0=政策金利 3%。また、10 年国 債のタームプレミアムを 1%とすれば、10 年長期金利は、3%+1%=長期金利 4%と 試算される。現在の金利から短期金利 3%・長期金利 4%の上昇であり、控えめに みても短期金利 2%・長期金利 3%程度の上 昇は想定されるであろう。 この場合、最も懸念されるのが、日銀に 代わって国債を保有する主体が現れるか、 あるいは財政の持続可能性に対する不安が 高まらないかであり、こうした懸念が顕在 化した場合には、国債価格の下落と更なる 金利上昇が生じて、悪循環に陥るおそれが ある。 (2)異次元金融緩和の仕組み 異次元金融緩和によって何が起こってい るかを、各経済主体のバランスシートの変 化によってみたのが、(図表 95)である(図 表は、政府が国民に現金を支給して、サービス機 関からサービスを受けるケースを示しているが、 政府が公共施設を整備して国民の利用に供するケ ース等も、結果は同じである)。 政府が 100 兆円の国債を発行して財政支 出し、民間銀行がこれを引き受けて資金提 供し、日銀がこのうち 60 兆円の国債を買い 入れるとした場合、各主体のB/Sは、図表 にあるとおり、次のように変化する。 ・政府:徴税権(財政赤字)拡大 100 兆円/ 国債増額 100 兆円。 ・民間銀行:国債増額 40 兆円、準備預金増 額 60 兆円/預金増額 100 兆円。 ・日銀:国債増額 60 兆円/準備預金増額 60 兆円。 なお、政府と日銀の勘定を統合した統合 政府の観点に立てば、日銀の買い入れた国 債と政府の負債たる国債は相殺されるから、 実質的に国債残高が減少し、財政再建に資 するとの議論がある。しかし、日銀は国債 買入れの見合いとして民間銀行の準備預金 (日銀当座預金)という負債を負っており、国 債を相殺しても統合政府の負債額が減少す ることはない。日銀による国債の買入れは、 民間銀行に対する国債という長期債務を準 備預金という短期債務に置き換えているだ けであって、統合政府の観点に立った財政 再建論はまったくの誤解である。 また、日銀による国債の直接引受けは、 財政法 5 条によって原則禁じられているが、 仮に直接引き受けを行った場合の効果をB /Sの変化によって比較したのが(図表 96) である。両者は、経路は異なるが、結果は 同じである。結局、この経路の違いに意味 があることになるが、この点は後に検討す る。 (図表 95)日銀国債買入れによるB/S変化兆円 68 出典:筆者作成 (図表 96)日銀国債引受けによるB/S変化兆円 出典:筆者作成 (3)異次元金融緩和の正常化プロセス 金融政策の正常化とは、本来金融機関に とって無用な超過準備を解消し、資金の有 効利用を図る金融環境に戻すとともに、金 融政策を長年慣れ親しんだ政策金利の調節 等の伝統的金融政策に戻すことと理解され る。2%の物価安定目標が達成された暁には、 異次元金融緩和もこうした正常化が図られ ていくものと考えられる。 この点に関し、黒田総裁は、「出口を論ず るのは時期尚早」という発言のみが伝えら れることが多かったが、上記3.A・C・ G・Hのように、最近は、出口についての 考え方や課題、政策手段等について具体的 に述べられている。ただし、「出口の局面で 実際にどの手段をどの順序で用いるかは、 その際の経済・物価・金融情勢によって変 わり得る。あまり早い段階で出口の進め方 を具体的に説明することは難しく、市場と の対話という観点からもかえって混乱を招 くおそれが高い」、「現在は、出口のタイミ ングやその際の対応の手順等を検討する局 面には至っていない」とのスタンスである。 しかし、出口においてどのような事態が 発生するかは、日本経済の行方を左右する 極めて重要な事項である。また、このまま 異次元金融緩和が継続され、いわば正常化 のハードルが高まることをどう評価すべき かの観点からも重要なポイントである。 そのため、出口戦略の基本となる異次元 金融緩和の正常化プロセスについては、識 者において盛んに論じられており、それら を整理すれば、次のようなプロセスが想定 される。 T FRBの出口戦略に準じた正常化プロ セス @ イールドカーブ・コントロールの枠組み を廃止して、資産買入れ額を再び金融政策 の操作目標とする。その上で、国債とリス ク資産の買入れ増加ペースを緩やかに縮小 する(テーパリング)。 A @と併せて、階層型の当座預金制度をマ イナス金利導入前の制度に戻し、0.1%を付 利する。 B @が進展したら、資産の買入れ増加をゼ 69 ロとし、残高を一定水準に維持する。その 下で、保有国債の平均残存年数を短期化す る。 C 経済情勢を踏まえて、付利金利を段階的 に引き上げる。 D 付利金利が一定水準まで高まったら、資 産残高の緩やかな縮小に着手し、相応の時 間をかけて超過準備を解消する。 U イールドカーブ・コントロールの枠組 みを活用した正常化プロセス @ イールドカーブ・コントロールの運用を 柔軟化し、徐々に長期金利の決定を市場に 委ねる。又は長期金利のコントロール対象 を現在の 10 年から短期化する。 A @と併せて、階層型の当座預金制度をマ イナス金利導入前の制度に戻し、0.1%を付 利する。 B @の結果、長期金利のコントロールが不 要となったら、資産の買入れ増加をゼロと し、残高を一定水準に維持する。その下で、 保有国債の平均残存年数を短期化する。 C・DはTと同じ。 Tは、FRBの出口戦略に習ったもので ある。FRBは、2014 年 10 月まで 3 回に わたりいわゆる量的緩和QEを行ったが、 2014年1月から買入れ額を減額するテーパ リングを開始し、2014 年 10 月に買入れを 停止している。その後、2015 年 12 月から 政策金利の利上げを開始し、本年6月まで 7回行って、これを 0.00〜0.25%から 1.75 〜2.00%に引き上げている。また、B/Sの 縮小は、2017 年 10 月から開始している。 FRBは、当初、B/Sの縮小後に利上げ を行う予定であったが、2013 年 5 月に、当 時のバーナンキFRB議長が国債買入れの 減額を示唆した途端にB/Sの縮小に着手 すると誤解されて国債市場が大きく混乱し たことから(バーナンキ・ショック、Taper Tantrum)、その後、順番を入れ替えて、利 上げ開始後にB/Sを縮小することした。 我が国においても、日銀が保有する国債 を大量に売却すると、国債価格が暴落して 金利が急上昇するとともに、日銀の損失が 直ちに表面化するおそれが高いことから、 FRBと同様に、@資産買入れ額のテーパ リング→B資産買入れの停止→C金利の引 上げ→D保有資産の売却=超過準備の縮小 のプロセスを踏むものと考えられる。A・ Cは、金利の引上げをD以前に国債の売り オペによって行うことはできないため、超 過準備に対する付利の引上げによって行う ものである。これにより、短期市場金利の 過度な変動を抑制しつつ、景気の過熱や物 価の高騰を防止する金利の引上げが可能と なる。B・Dの国債残高の維持や縮小は、 満期償還された国債の再投資を行うか否か によって実施し、市場へのインパクトが大 きい保有国債の売却は基本的に行わない。 しかし、日銀保有国債の平均残存期間(デュ レーション)は 7〜8 年であり、満期償還が終 了するまでには 15 年程度の期間を要する。 Bの保有国債の平均残存年数の短期化は、 この期間を短縮する一つの工夫であり、F RBの正常化でも行われたという。 Uは、基本的にTと同じであるが、国債 の買入れと金利の調整は表裏の関係にある ことから、現在のイールドカーブ・コント ロールの枠組みを活かしてテーパリングを 行うものである。@の徐々に長期金利の決 定を市場に委ねるとは、国債買入れ額を緩 やかに縮小するとの意味であり、いずれ国 債の買入れ額はゼロになる。長期金利のコ 70 ントロール対象の短期化も、それ以上の年 限の長期金利は市場の決定に委ねるとの意 味であり、いずれ長期金利のコントロール は短期金利のコントロールに包摂される。 Tに比べ、市場の実情へのきめ細かい対応 が可能となるが、ある種の割切りや単純明 快さに欠ける面があることは否定できない。 以上、準備が整ったところで、異次元金 融緩和の副作用について検討を進める。 (4)国債買入れの限界 上記6.でみたように、日銀の保有国債 はこの 5 年間で 125 兆円から 448 兆円(う ち長期国債 91 兆円から 427 兆円)へと急増し、 2017 年末現在の保有割合は 41%(うち長期 国債 43%)に達している。こうした状況を 踏まえて、日銀が大量の国債買入れを継続 すると、いずれ限界に達し、異次元金融緩 和は遂行不可能になるであろうとの指摘が IMFスタッフや民間シンクタンクなど各 方面から寄せられている。 一般に金融機関の国債保有の目的には、 次のようなものが挙げられている。@確実 な利息収入の獲得(全般)、A運用資産の適 切なポートフォリオ(公的年金、企業年金基金 等)、BALM(生命保険会社等)、CBIS による金融規制への対応(銀行等)、D金融 取引のための担保(全般)。 このように各金融機関にはそれぞれ固有 の国債需要があり、(図表 78)のとおり、日 銀はこれまで専ら預金取扱機関、特に都市 銀行から多くの国債を取得してきたが、金 融取引のための担保需要や金融規制対応等 から、いずれこれも限界に至るのではない かと思われる。 (図表 78)国債の保有者別内訳(2012〜)(再掲) % 出典:日本銀行・資金循環統計 しかし、日銀は、こうした指摘に対し、 2016年9月に操作目標を量から金利に変更 することによって、政策の持続性に関する 問題は解消したとしている。すなわち、い ずれどこかに国債買入れの限界があるとし ても、その限界に近付けば近付くほど、日 銀はより少ない国債の買入れによって金利 をコントロールすることができるから、限 界に達して政策を続けることができなくな ることはないとする。実際にイールドカー ブ・コントロール導入後、国債の買入れ額 は減少しており、これはそうしたメカニズ ムが働いた結果としている。 そこで、国債の流通の最も大きな契機と 考えられる、財務省が発行した国債の日 銀・民間別の取得状況をモデル的に整理し たのが(図表 97)である。 ケース 1 は、イールドカーブ・コントロ ール導入前に年間 80 兆円の増加ペースで 国債を買い入れていた当時の状況である。 日銀は、民間分の借換債を含めて財務省が 発行する国債をすべて取得しており、いわ ば買手独占の状態である。これにより、日 銀は、国債価格の形成に圧倒的な影響力を 発揮し、民間は、年間 40 兆円ずつ保有国債 を減少させて、次第に縮小の限界に近付い ていく。 ケース 2 は、民間がそうした保有国債縮 71 小の限界に達したときの状態である。民間 は、それ以上の国債の縮小を防止するため、 民間分の借換債をすべて取得し保有する。 日銀は、自己の借換債と新発債を取得し、 その限りで市場への影響力を行使すること になる。ケース 2 から次のケース 3 に向け て日銀が新発債の取得額を減少させている 状態が、上記(3)の正常化プロセスTU@ のテーパリングに該当する。 ケース 3 は、日銀が新発債の取得を停止 し、自己の借換債のみを取得することとし た場合の状況である。新発債 40 兆円は民間 がすべて取得することとなるが、それだけ の需要が民間にない場合、国債価格が下落 し、金利が上昇する。しかし、日銀の影響 力は大きく減少している。上記(3)の正常化 プロセスTUB=日銀が国債残高を一定 水準に維持する場合に該当する。 さらにケース 4 は、日銀が償還国債に対 応する再投資を停止して、資産残高を緩や かに縮小しているときの状況である。日銀 の国債価格への直接的影響力はゼロとなる。 正常化プロセスTUDに該当する。 (図表 97) 国債の取得状況 兆円 出典:筆者作成 本年 4 月現在、日銀はネット 50 兆円程度 のペースで国債を増額しており、ケース 1 とケース 2 の中間で、ケース 2 に近い状態 と考えられる。ここで金融調節目標の 10 年国債ゼロ%程度が維持されているのは、 日銀が自己の借換債と新発債を取得し、そ れなりの影響力を発揮するとともに、民間 がゼロ%程度見合いで借換債の放出を行っ てバランスが保たれているためと考えられ る。しかし、ケース 2 が間近になった時点 で、何らかの外的ショック(景気回復、海外 の長期金利の上昇、財政赤字懸念の高まり等)が 発生し、国債金利への上昇圧力が高まると、 日銀は、目標金利を維持するため、国債の 買増しを行わざるを得ず、容易にケース 2 に到達してしまうと考えられる。日銀の言 う「いくら接点に近付いても接点にたどり 着くことはない」といった微妙な調整は、 現実には実現困難であろう。 こうしてケース 2 に到達すると、日銀は、 国債金利の引下げ(買入れ価格の引上げ)を 行わない限り、民間分の借換債を取得する ことはできない。これまで圧倒的な力を発 揮して国債金利を引き下げて来ただけに、 金利がある程度弾力化することは避けられ ないが、景気の変動等に応じて金利が一定 72 範囲で変動することは、経済安定化の見地 から望ましく、これを「国債買入れの限界」 として問題視する必要はないと思われる。 むしろ懸念すべきは、イールドカーブ・コ ントロールが弱まったとして、国債買入れ 額を増加する動きが出てくることであり、 金利の更なる低下や民間の国債需要の圧迫 をはじめ様々な副作用を拡大することにつ ながると考えられる。 なお、これまで国債の買入れ額が減少し てきたことをもって、ステルス・テーパリ ングとし、更に減少することを予想する向 きもあるが、日銀が自己の借換債と新発債 の買入れを続ける限り、ネットの新発債の 額、ケース 2 の設定では 40 兆円程度の買入 れ増加は今後も続くと思われる。 (5)金融機関の収益悪化と金融システムの 不安定化 上記4.(2)@でみたように、異次元金融 緩和によるマイナス金利と国債買入れによ って、国債のイールドカーブは大きく低 下・フラット化し、我が国の金融環境は極 めて緩和した状態にある。こうした状況が 金融機関の経営や金融仲介機能にどのよう な影響を与えているかについて、日銀は、 総括的検証や金融システムレポート等にお いて詳しく検証し、概ね次のような認識を 示している。 @マイナス金利導入後、貸出・社債・CP 金利は大幅に低下しており、いずれも過去 最低水準にある。実質金利の低下は、経済・ 物価にプラスの影響をもたらす。 Aマイナス金利が金融機関の収益を過度に 圧迫する場合には、金融機関の貸出姿勢が 消極化したり、マイナス金利に伴うコスト を転嫁するために貸出金利が上昇すること などを通じて、金融仲介機能に悪影響を与 える可能性がある。 Bしかし、マイナス金利政策そのものが、 直接、金融機関の収益に与える影響は、そ れほど大きくない。380 兆円ある当座預金 のうち、限界的な 20 兆円程度の部分(政策 金利残高)にのみ△0.1%は適用され、その 影響額は 200 億円程度に過ぎない。 影響が大きいのは、イールドカーブがフ ラット化したことである。これが金融機関 の預貸利鞘の縮小や保険・年金の運用難と いう形でマイナスの影響を与えた。 Cしかし、現段階で、そのようなマイナス の影響が政策のメリットを上回るほど大き くなっているとは判断していない。日本の 金融機関は、総じて健全な自己資本ポジシ ョンを維持し、減益傾向とはいえ、まだ収 益レベルは高水準である。このため、金融 機関の貸出態度は引き続き積極的であるほ か、貸出金利も低下するなど、金融環境は 一段と改善しており、金融仲介機能の悪化 は伺われない。 Dただし、低金利の影響は、どうしても累 積的に蓄積していく。今後とも金融緩和の 効果と副作用を総合的に検証し、評価して いく。 要するに、「金融機関にはまだ体力がある から、体力が続く限り走り続けてもらいた い」との趣旨であろう。しかし、一つ得心 が行かないのは、「金融機関は、本当に体力 を消耗して走れなくなるまで走らなければ ならない必要があるのか。これによって、 日本経済は本当に良くなるのか」という疑 問である。 異次元金融緩和によって、金融機関は、 73 主に次の要因により収益を低下させている。 @貸出金利の低下による預貸金利差の縮小 (銀行貸出の中心を成す 10 年以下の金利はマイ ナス、新規貸出に係るクレジットスプレッドも大 きく低下)、A有価証券運用利回りの低下(10 年物国債ゼロ程度、10 年以下はマイナス)、B日 銀当座預金におけるマイナス金利の導入・ ゼロ金利適用額の拡大(政策金利残高 20〜30 兆円、マクロ加算残高 130 兆円程度)。そして、 その影響を最も強く受けているのが、海外 での資金運用や手数料収入の拡大に限りの ある地域金融機関(地域銀行、信用金庫等) であり、現在の金融緩和が長期化すれば、 やがて採算割れする金融機関も出てくるの ではないかと危惧されている。 上記の疑問とする点は、以下のような事 項である。 @低金利は、貯蓄主体から借入主体への所 得移転効果を持つ。ISバランス上、唯一 最大の受益者は政府であり、マクロでみれ ば、家計も企業(非金融法人企業)も、仲介 する金融機関も、政府に所得移転を行って いるに過ぎない。 A家計は、年金生活者中心に利息収入の減 少、年金・保険料負担の増大等によりマイ ンドを冷え込ませ、低金利は消費低迷の一 因になっている。 B企業は、投資するにしても自己資金中心 で積極的な借入れは行わず、逆に、退職給 付債務の増大や資産運用に苦慮する状態と なっている。 C上記のような企業行動からIS曲線はス ティープ化した状態にあり、金利が低下し ても投資を誘発する効果はごく限られたも のにとどまるとみられる。 D異次元緩和により金利は低下したが、大 きく低下したのは長期金利であり、日銀が 「経済・物価にプラスの影響をもたらす効 果がより大きい」とする短期〜中期の金利 の低下は、0.2〜0.3%ほどに過ぎない(2013 年 1 月の国債利回り:概ね 1 年債 0.1%、5 年債 0.2%、10 年債0.8%、20年債 1.8%、30 年債 2.0%。 2018 年 4 月の国債利回り:概ね 1 年債△0.1%、5 年債△0.1%、10 年債 0.0%、20 年債 0.5%、30 年債 0.7%)(このように異次元緩和による経済・ 物価へのプラス効果は思いのほか小さいと考えら れるが、短期〜中期金利がマイナスとなり、長期 金利が大きく低下したことが、金融機関の経営に とっては大きく響いている)。 E景気変動に応じて金利が変動する正常な 状態であれば、金利の低下は投資の前倒し 効果を持つ。しかし、現状のように低金利 が長期化すると見込まれれば、投資の前倒 し効果は期待し得ず、逆に先送りするイン センティブにもなり得る。 F異次元金融緩和によって、既に実質金利 は自然利子率を大きく下回り、需給ギャッ プはプラスを続けている。ファイン・チュ ーニング(実質金利=自然利子率)を大きく超 える低金利のために、金融機関に体力を消 耗するまで走り続けることを求めるのはい かがかと思われる(それでも 2%の物価安定目 標は達成されていない。上記7.(9)に沿って政策 の方向性を見直す必要があると思われる)。 G日本経済が明るさを取り戻し、発展する ためには、地域経済の活性化を措いてあり 得ない。その中心的役割を果たすべき地域 金融機関の体力が失われ、どこでも身近に 金融サービスを受けられる環境が損なわれ るとしたら、将来に大きな禍根を残すこと になる。 以上のように考えると、日銀のような認 74 識には至らず、金融機関の収益悪化や金融 システムの不安定化に関する異次元金融緩 和の副作用は大きいと言わざるを得ない。 まずはフラット化したイールドカーブを早 急に是正することが必要と思われる。 次に、正常化の段階について考える。 正常化により上記金融機関の収益低下の 要因@ABはいずれも改善され、正常な状 態に戻ることができる。ただし、金利の上 昇により債券価格は低下する。特に、都市 銀行が異次元金融緩和開始後相当額の国債 を日銀に売却したのに対し、収益力の乏し い地域金融機関は、残存期間の長い債券に 多額の投資を行っており、大きな評価損を 計上せざるを得ない。金融システムの安定 確保の観点から、出口において金利が急騰 することのないよう十分な配慮が必要であ る。 (6)日銀の収支悪化と債務超過の懸念 日銀の収支構造も民間企業のそれと基本 的に変わらない。ただし、生産活動や営業 活動を行っているわけではないから、収益 はすべて資産の運用益(評価損益を含む)に よっている。また、費用は事務費、給与等 であり、銀行券製造費も計上される。負債 は発行銀行券、日銀当座預金、政府預金等 であり、基本的に有利子負債はないが、補 完当座預金制度の導入によって、現在は、 基礎残高(210 兆円程度)に 0.1%、政策金 利残高(20〜30 兆円)に△0.1%の付利が行 われている。企業の税引後当期純利益に相 当する当期剰余金から法定準備金積立額及 び配当金(年 5%=500 万円)を控除した残額 が国庫納付金として政府に納入される。 日銀は、日銀券を印刷して発行すればす るほど利益=通貨発行益(シニョリッジ)が 得られる(1 万円札 1 枚の印刷費は 20 円ほどだ から、その度に 9980 円の利益が得られる)とい う議論がある。だから日銀は経営について 何の心配もいらないとする議論まである。 しかし、世の中に出回る現金の量は家計や 企業の現金需要によって決まり、その額を 上回る日銀券を供給しても民間金融機関の 準備預金に入金される形ですぐに日銀に戻 ってきてしまうため、いくらでも日銀券が 発行できるわけではない。2018 年 3 月末現 在の発行残高は 100 兆円ほどであり、タン ス預金も含め既に十分な量の日銀券が供給 されている状態である。 なお、日銀券は、これを印刷して資産に 計上するのでなく、民間金融機関から資産 を買い入れ、代金を支払う形で供給され、 このとき初めて、資産/発行銀行券の会計処 理が行われる。資産が有利子であるのに対 し負債の発行銀行券は無利子であり、この 差額が日銀の利益となる。将来にわたる利 息収入の割引現在価値は資産額=日銀券の 額面に相当するから、これが通貨発行益に 該当すると考えられる。しかし、会計上は、 毎年度、上記のような当期剰余金の計算が 行われ、配当等を除いた残額が国庫納付金 として政府に納入される。したがって、通 貨発行益に相応する日銀の利益は、毎年度 国庫納付され、広く国民に還元されている と考えることができる。 さて、(図表 98)は、日銀の損益及び剰 余金処分の状況を簡略に示したものである。 2017 年度決算においては、経常収益 1 兆 8400 億円、経常費用 6100 億円、当期剰余 金 7600 億円であり、国庫納付金は 7300 億 円である。 75 国債利息は1兆2200億円と経常収益の約 7 割を占める日銀の主要な収益源であるが、 その推移をみると、(図表 99)のとおり、 国債保有残高の大幅な増大(図表 75)にも かかわらず、2016 年度以降横ばいないし微 減となっている。これは、年々より低利の 新発債と借換債を取得する度に保有国債の 平均利回りが低下するためであり、2017 年 度は 0.279%まで低下している。しかし、 この傾向は、異次元緩和が続く限り継続し、 いずれゼロ%程度になると見込まれる(保 有国債のデュレーション 7 年程度と同じ期間の国 債利回りになるとすれば、△0.05%)。一方、経 常費用は、補完当座預金制度利息 1800 億円 は今後も基本的に変わらず((基礎残高−政策 金利残高)×0.1%)、事務費、給与等も同様 であって、大きく減少することはない。す ると、将来の税引前当期剰余金は、2017 年 度決算をベースに考えれば、国債利息分 1 兆 2200 億円が減額されて△3300 億円にな ると試算される。2016 年度決算をベースと すれば△4800 億円である。このほか、国債 については、多額の金利調整差額残高の存 在という問題がある。額面を上回る金額で 国債を取得した差額のうち、償却原価法に より未だ償却されていない部分の残額であ り、今後も国債利息を減少する形で処理す る必要がある。その推移をみたのが(図表 100)であり、2018 年 3 月末現在、金利調 整差額残高は、日銀の自己資本残高 8.2 兆 円を上回る 10.2 兆円に上っている。日銀が 日銀トレードなどによっていかに割高に国 債を取得してきたかの一端を示すものとも 捉えることができる。差額残高はなお増加 する傾向がみえるが、現在の 10.2 兆円を今 後 15 年間(保有国債のデュレーション 7 年程度 の 2 倍の期間で国債満期償還すると仮定)で償却 するとすれば、毎年度の減収額は 6800 億円 になる。これを差し引けば、将来の税引前 当期剰余金は、2017 年度決算ベースで△1 兆 100 億円、2016 年決算ベースで△1 兆 1600 億円になると試算される。以上はあく までも目安としての試算であるが、現在の 異次元金融緩和が日銀の経営にとっても持 続可能でなく、早急な見直しが必要である ことは間違いないと思われる。 (図表 98) 日銀・損益計算書等 億円 出典:日本銀行・財務諸表 (図表 99) 日銀・国債収入と利回り 億円・% 出典:日本銀行・財務諸表 (図表 100)日銀・国債金利調整差額残高 兆円 出典:日本銀行・財務諸表 次に、正常化の段階について考える。 上記(1)のとおり、2%の物価安定目標が 76 達成された暁には、潜在成長率 1%・物価 上昇率 2%・タームプレミアム 1%を前提と すれば、金利水準は短期金利 3%・長期金 利 4%となり、短期金利 3%・長期金利 4% の金利上昇が生じると見込まれる。 この金利上昇によって、本年 3 月末現在 の日銀保有国債 448 兆円(デュレーション 7 年と想定)を時価評価すれば、次のような評 価損が発生すると試算される。 ・448 兆円×7%(デュレーション 7 年の債権 は 1%の金利上昇で 7%価格が下落する)×4 =125 兆円。 ・金利上昇を控えめにみて、2%とすれば 63 兆円、3%とすれば 94 兆円である。 日銀の自己資本残高は 8.2 兆円であるか ら、いずれの金利上昇でも日銀は大幅な債 務超過に陥る。 しかし、日銀は、円貨建債権等を満期保 有目的債券に適用される償却原価法によっ て評価しているから、国債を売却しない限 り、こうした損失が顕在化することはない。 このため、日銀は、国債売却による国債 価格の暴落=金利の急騰を避けるためにも、 上記(3)でみたように、@テーパリング、A 保有国債の維持と段階的な短期金利=付利 金利の引上げ、B保有国債の縮減と超過準 備の縮小の正常化プロセスを順を追って進 めると考えられる。 しかし、日銀が正常化プロセスに着手す るのは、2%の物価安定目標が安定的に達成 された時点であり、既に短期金利 3%・長 期金利 4%の金利水準が相当となっている 時点である。こうした経済情勢の下で、短 期金利△0.1%(政策金利残高付利金利)、長 期金利ゼロ程度(10 年物国債金利)を維持す ることは、景気の過熱と更なる物価上昇を 招き適切でないことから、早急に金利を引 き上げる必要が生じると考えられる(この 点は、FRBが物価上昇率 2%達成以前から正常 化プロセスに着手し、切れ目なくプロセスを進め ているのと基本的に状況が異なる)。 このうち長期金利の引上げは、正常化プ ロセス@から始まるが、日銀保有国債の平 均利回りの上昇は緩やかで、日銀の利息収 入の増加は緩慢なものにとどまると考えら れる(長期金利の上昇は、短期金利が引き上げら れない限りタームプレミアム 1%の範囲内にとど まる。また、デュレーション 7 年の国債が再投資 によってすべて入れ替わるためには単純計算で14 年程度を要する)。 一方、短期金利の引上げは、正常化プロ セスAから始まるが、付利金利の引上げは 超過準備全体に適用されるため、日銀の利 払費は一気に増加すると考えられる。本年 3 月の超過準備額等 365 兆円に対する付利 引上げによる影響額は、次のとおりである。 ・365 兆円×3%=11.0.兆円/年 ・付利金利を控えめにみて、0.5%とすれば 1.8 兆円/年、1%とすれば 3.7 兆円/年、 2%とすれば 7.3 兆円/年である。 2%の物価安定目標が既に達成されてい る状況を踏まえれば、@とAに余り時間を 置くことはできず、日銀の収支は急速に悪 化して、債務超過に陥る可能性もあると考 えられる。前記した多額の金利調整差額残 高による影響も大きい。(例えば、短期金利= 付利金利 3%、長期金利 4%で保有国債の平均利回 りがその 1/3 水準(1/2 水準)になっているとす れば、国債利息=448 兆円×4%×1/3(1/2)=6.0 (9.0)兆円/年。付利利息=365 兆円×3%=11.0 兆円/年。国債収支=6.0(9.0)兆円−11.0 兆円 −0.68 兆円(金利調整差額償却額)=△5.68(△ 77 2.68)兆円/年。△5.68(△2.68)兆円/年×2(4) 年=11.36(10.72)兆円>8.2 兆円(自己資本残 高)。2 年(4 年)で債務超過となる。同様に、短 期金利=付利金利 2%、長期金利 3%で保有国債の 平均利回りがその 1/3 水準(1/2 水準)になって いるとすれば、国債収支=△3.5(△1.3)兆円/ 年。3 年(7 年)で債務超過となる。) 以上のように、異次元金融緩和は、この まま継続するにせよ・正常化するにせよ、 日銀の収支を悪化させるものであり、日銀 が債務超過に陥る可能性も否定できない。 (7)中央銀行の債務超過がもたらす影響 主要国の中央銀行が債務超過に陥った事 例としては、1977 年〜1979 年のブンデスバ ンク(西ドイツ)や 2013 年〜2015 年のスイ ス国民銀行のケースが挙げられている。い ずれも自国通貨高によって外貨建て資産に 含み損が生じたためであり、為替変動によ る一時的な現象と判断され、実際 2〜3 年で 赤字が解消したことから、それが問題とな り、業務に支障が生じることはなかったと いう。 しかし、上記により日銀の財務が悪化す ると、短期間の一時的現象では済まない可 能性がある。日銀券の通用力や日銀の業務 執行に直接的影響があるわけではない。問 題は、@日銀が債務超過に陥ることを回避 し、あるいは早期に債務超過を解消するた め、自らの財務体質の改善を優先した政策 運営を行うのではないか、A日銀が債務超 過になると、政府の財政支援に依存せざる を得なくなり、中央銀行の独立性が有名無 実化し、政策運営に政府の意向が反映され やすくなるのではないか、といった見方が 一般に広がり、日銀の政策運営への信認が 低下するおそれがあることである。 @の見方は、@出口において、超過準備 を固めたまま、付利金利を引き上げない、 A法定準備率を大きく引き上げ、超過準備 を金利の付かない所要準備に切り替える、 といった方策を採ることである。これによ り日銀は超過準備への利払い負担を軽減で きるが、@では景気の過熱と物価上昇が放 置され、Aでは民間金融機関に大きな機会 損失を強い(信用創造機能の停止)、いずれも 国民に大きな負担が生じる。 @@のように、名目金利を物価上昇率よ り低く抑え、実質金利をマイナスにする政 策は、歴史的に金融抑圧と呼ばれ、しばし ば用いられてきた。しかし、金融市場のグ ローバル化によって、中央銀行が金利を低 め誘導する一国単独の金融抑圧は、以前よ りはるかに困難になっているという。高金 利国への資金流出→円安→物価上昇→実質 金利低下→更なる資金流出(キャピタル・フ ライト)と実質金利低下(ヴィクセルの累積過 程の発生)のメカニズムが働くためである。 これを抑止するためには、幅広い金融資産 の金利規制と国際的な資本移動の規制が必 要となり、グローバルに事業を展開する企 業や金融機関に致命的な損失を与えること になる。 Aの見方は、例えば付利の利払いを行う にしても財源が必要であり、これを準備預 金の増額等で賄ったのでは借金に借金を重 ねることになるから、いずれ政府の支援が 必要になるというものである。しかし、1998 年に施行された新日銀法では、日銀の自主 性が定められたのに対応して、旧日銀法に あった「日銀に準備金などを超える損失が 生じた場合には政府がその損失を補填す 78 る」旨の規定が削除されている。このため、 現状は、日銀が債務超過になったとき、そ の損失をどうやって穴埋めするか何も定ま っていない状態であり(法律上予定されてい ない)、それが現実化した場合、大きな社会 問題になる可能性がある。仮に政府による 財政支援が行われることになった場合には、 日銀の財務体質改善や財政ファイナンスへ の志向が強まるのではないかと想像される。 いずれにせよ、主要国の中央銀行が長期 にわたり赤字決算を続け、債務超過に陥っ たことはない。マーケットがこれをどう受 け止めるかは予測困難であるが、物価や通 貨価値の安定が脅かされ、金融市場に様々 な動揺が生じることが懸念される。 (8)リスク資産の蓄積と市場の歪み 日銀の買入れ対象資産は、短期国債など 短期で安全性の高い金融資産に限定され、 従来リスク資産の買入れは行ってこなかっ たが、現在は、財務大臣等の認可を受け、 次のとおりETF等の買入れを行っている。 @CPと社債の買入れ 2009年1月に企業金融円滑化の観点から 導入を決定した(2012 年末それぞれ 2.1 兆円、 2.9 兆円)。異次元金融緩和では、2013 年末 にそれぞれ 2.2 兆円、3.2 兆円の残高まで 買入れたあと、その残高を維持している。 AETFとJ-REITの買入れ 2010年10月の包括的金融緩和において、 「リスクプレミアムの縮小を促すため」、導 入を決定した(2012年末残高それぞれ 1.5 兆円、 1100 億円)。異次元金融緩和では、「資産価 格のプレミアムに働き掛ける観点から」、買 入れ額を大幅に増加している(2013 年 4 月: それぞれ年間 1 兆円・300 億円増加、2014 年 10 月: 年間 3 兆円・900 億円増加、2016 年 7 月:年間 6 兆円・900 億円増加)。 日銀は、これまでの買入れの結果、2018 年3月末現在で18.9兆円のETFを保有し しており、実質的に日本株第 3 位の株主に なっている(最大の株主はGPIF(年金積立 金管理運用独立行政法人)で、2017 年第 3 四半期 現在約 42 兆円)。 東証 1 部 1 日当たり売買高約 2 兆円の中 で、日銀の買入れ額は 300〜700 億円であり、 株式相場にある種の底堅さをもたらしてい るという。その意味で、日銀のETF買入 れは、株式市場の安定化・活性化に一定の 効果を発揮しているが、他方、次のような 問題をはらんでいる。 @コーポレートガバナンスの後退 日銀もGPIFも中立性の観点から外部 専門家に運用を委託した物言わぬ大株主で ある。こうした株主の出現は、常に緊張感 をもって業績や競争力を高めようとする企 業の改革意識を弱めるおそれがある。 A市場価格の歪み 現在の株式市場は、国債市場ほどではな いにせよ、日銀による買入れを織り込んで 動いており、健全なシグナリング機能を発 揮すべき自由な市場ではなくなりつつある。 また、ETFに組み込まれた株式は、実 力以上に割高な株価を付け、日銀の退場が 現実となったときには、株式相場以上に低 落するおそれがある。 B出口における株価急落のおそれ 国債と異なり、ETFには償還期限がな い。このため、出口において正常化するた めには、市場で売却せざるを得ず、これを きっかけに株式相場が急落するおそれがあ る。特に外国人投資家は、日銀が売るとな 79 れば追随して売りに走る可能性があり、株 価が下落すれば、日銀にも大きな損失が生 じる。 中央銀行によるリスク資産の買入れは、 FRBがMBS等を買い入れた時のように、 リスクプレミアムが異常に高まり、市場が 機能不全に陥っているような場合に有効・ 適切と考えられる。日銀によるETF等の 買入れは、正常に機能している市場に対し、 人為的に価格を押し上げ、あるいは価格低 下を抑止しようとするものであり、正常な 価格形成上大きな問題がある(株価上昇によ る資産効果や心理効果を狙ったものと考えられる が、金融緩和で株式を買うこととした中央銀行は 日銀だけという。また、世界では、本当に支援す べきは中小企業であって、もともと強い立場にあ る大企業ではないという意識が強いという)。特 に、異次元金融緩和はいずれ正常化される ものであり、このとき、市場の混乱や日銀 の財務悪化を招くおそれのあるリスク資産 を大量に買入れ、蓄積することは、極めて 副作用が大きいと言うべきであろう。 (9)財政規律の緩みと財政運営の困難化 我が国の財政事情は世界でも最も深刻な 状況と言われるが、まずその概況を財務省 資料によって確認する。 (図表 101)は、1975 年度以来の一般会計 の歳出・税収・公債発行額の推移を示した ものである。一見して明らかなとおり、バ ブル崩壊後、歳出が引き続き増加する一方 で税収が減少し、「ワニの口」が大きく開い ている。この差額を埋めるのが公債発行額 であり、特に日本経済低迷の大きな節目と なった 1998 年度と世界金融危機後の 2009 年度に大きく拡大している。その後景気の 回復とともに公債発行額はやや減少してい るが、なお 35 兆円前後の巨額に上っている。 その結果、国の公債残高(普通国債残高)は、 (図表 102)のとおり、年々増加の一途をたど り、2018 年度末には 883 兆円・対GDP比 156%に上ると見込まれている。 (図表 101)一般会計歳出・税収・公債発行額兆円 出展:財務省・日本の財政関係資料(平成 30 年 3 月) (図表 102) 公債残高 兆円・% 出展:財務省・日本の財政関係資料(平成 30 年 3 月) 我が国の財政状況(対GDP比。一般政府: 中央政府・地方政府・社会保障基金ベース)を主 要国と比較したのが、(図表 103・104)であ る。2017 年の財政収支は△4.8%であり、 米国と並んで最低レベルである。債務残高 は 240.3%で、圧倒的な高さである。また、 80 債務残高から保有金融資産を差し引いた純 債務残高は 120.9%で、イタリアと並び最 高レベルである。我が国の財政事情は、正 に主要国の中で群を抜いて深刻な状態にあ ると言うことができる。 また、(図表 105)は、OECD 諸国の政府支 出・収入の状況(対GDP比、2015 年)を比 較したものである。社会保障支出は、近年 急速に増加し、我が国財政の大きな課題に なっているが、対GDP比でみると、OECD 諸国の中で中位の規模に過ぎない。社会保 障以外の支出の規模は最低水準であり、こ れらを合わせた総支出も低位に位置する。 他方、租税収入は最低水準であり、その結 果、政府の財政収支はギリシア、スペイン に次ぐ赤字となっている。結局、我が国は、 低支出・最低収入のアンバランスによって、 世界でも最も深刻な財政状況に陥っている と考えることができよう。 (図表 103) 財政収支の国際比較(対GDP) % 出展:財務省・日本の財政関係資料(平成 30 年 3 月) (図表 104) 債務残高・純資産残高の 国際比較(対GDP) % 出展:財務省・日本の財政関係資料(平成 30 年 3 月) (図表 105)OECD 諸国の政府支出・収入(2015)% 出展:財務省・日本の財政関係資料(平成 30 年 3 月) 以上を踏まえて、改めて 1990 年度以降の 普通国債残高の増加要因をみると、(図表 106)のとおり、歳出面では、1990 年代は公 共事業関係費の増加が主因であったが、近 年では社会保障関係費や地方交付税交付金 等の増加が主因となっている。バブル崩壊 による民間需要の大幅な減少を財政支出に 81 よってなんとか穴埋めし、経済の崩壊を防 止してきたのが 1990 年代の姿であり、高齢 化の進展等により社会保障費等が必然的に 増加し、対応に追われているのがその後の 姿と考えられる。また、歳入面では、景気 の悪化や減税による税収の落込みが主因と なっている。税収の内訳をみると、(図表 107)のとおり、消費税が増税の度に大きく 増加しているのに対し、所得税と法人税は 減少し、2009 年度以降回復傾向にあるもの の、1990 年当時のそれぞれ 7 割と 6 割 5 分 の水準にとどまっている。 上記のとおり、我が国の深刻な財政状況 の原因は、低支出・最低収入のアンバラン スであり、特に税収が OECD 諸国の中で対G DP比最低水準になっていることと考えら れる。最近は「増税」と言うと消費税ばか りが注目されるが、これまで税収の落込み を主導してきたのは所得税と法人税であり、 これを見直していくことが必要と思われる (特に法人税については、近年法人企業が過去最 高益を上げ、利益剰余金が 1990 年当時の 3.3 倍に 達していること、家計に対しては既に消費税増税 が行われていることに鑑み、前向きに検討すべき と思われる。なお、かつて日本国内で企業誘致合 戦が展開されたがごとく、最近は国際間で法人税 率の引下げ競争が行われている。これはゼロサム ゲームによって各国の税収だけは確実に減少する ものであり、法人課税の適正化に向け各国間の連 携を深めることが必要と思われる)。 (図表 106) 普通国債残高の増加要因 兆円 出展:財務省・日本の財政関係資料(平成 30 年 3 月) (図表 107) 税収の内訳と推移 兆円 出展:財務省・日本の財政関係資料(平成 30 年 3 月) 財政再建の必要が言われて久しいが、そ の成果は表れてこない。特に最近は、2 度 にわたる消費税増税の先送りと教育費への 使途拡大があり、その道のりは更に遠退い た感がある。 社会保障費等の必要的経費は、増税先送 りの有無にかかわらず、高齢化の進展等に 伴い必然的に増加する。給付水準の見直し は常に必要であるが、増税が避けられるほ ど巨額なものにはなり得ない。また、給付 水準の引下げは、私的負担への鞍替えであ り、国民経済的な負担総量はほとんど変わ らない。結局、少子高齢化による人口オー 82 ナスは、経済成長を促進し、GDPを拡大 する以外に乗り切る方法はない。こう考え ると、政府に求められるのは、@何よりも 長期的に着実な経済成長を実現すること、 A公共の役割と負担の公平の観点から国民 の納得の得られる適切な制度設計を行うこ と、B国民に負担を求めるに当たっては、 経済へのマイナスの影響を極力低下するた め、可能な限り平準化し、負担感を軽減す ること、C以上を通じて、国民が覚悟を持 つにせよ、将来に無用な不安を抱かないよ うにすること、などであろう。 確かに消費税増税が行われれば、駆け込 み需要ととともにその反動減が出るが、こ れはチャラである。増税による実質所得の 減少は避け難いが、いずれ将来増税が必要 になることを考えれば、これもチャラであ る。問題は、増税の先送りが、将来の増税 額を拡大し、増税実施のタイミングの選択 余地を狭めることによって、経済へのマイ ナスの影響を増幅させることである。また、 国民の将来不安や財政の持続可能性への不 信を高め、消費の低迷や金利上昇リスクな ど経済に様々な混乱を生じさせることであ る。 「今は景気回復が優先」との議論はあり 得る。しかし、国民の将来不安がこれだけ 大きくなってくると、「景気回復と財政再建 の二分法」は成立しなくなっている。長期 的・総合的視点に立つことが重要であって、 短期的視点に立つ限り、国民に不人気な政 策を実施できるタイミングは基本的に存在 しない。その繰り返しが現在の膨大な財政 赤字を生み出した主因と考えられる。 さて、こうした財政規律の緩みとも言う べき状況を支えてきたものは何か。それは 皮肉にも、長年にわたる金融緩和によって 国債金利が低下し、債務残高の増大にもか かわらず、利払費がほとんど増加していな いことが大きな要因として挙げられる。 その状況をみたのが(図表 108)である。 国債金利は、特にバブル崩壊後急速に低下 し、2002 年度からペースを落とすが、2016 年度に 1.0%まで低下している。これによ り国債の利払費は、1986〜2000 年度 10 兆 円台で横ばいに推移した後、2002 年度の 7 兆円まで低下し、以後 2017 年度まで 7〜8 兆円で推移している。 これが国債を発行しても一定の範囲にと どまる限り負担は増えないという状況を創 り出し、国債の増発を可能としてきた。さ らに、国債金利は、新規発行と借換えを繰 り返すことによって徐々に低下するが、日 銀は現在イールドカーブ・コントロールに よって 10 年物国債金利をゼロ%程度に誘 導しており、国債金利はやがてゼロ近辺ま で低下する。そうなれば既発債の利払負担 がなくなる上、新発債の発行がいくらでも 可能となる。 黒田総裁は、「日銀の金融政策は、財政フ ァイナンスを目的としたものでは全くない。 財政規律云々の話は、政府と国会において 議論され、決定されるものであり、そこで しっかりした財政規律を引き続き確立して いかれるものと考えている」旨話されてい る。それは正しい。しかし、国債の市場金 利が上昇し、増税先送りは危険というシグ ナルを市場が発するならば、国債の増発は 自ずと制約され、財政再建が喫緊の課題と して浮上して、財政規律の緩みが許される 余地はなくなる。異次元金融緩和が、国債 金利を人為的に大きく引き下げ、市場がそ 83 うしたシグナルを発することを封じている ことは否定できない。 (図表 108) 利払費と金利の推移 兆円・% 出展:財務省・日本の財政関係資料(平成 30 年 3 月) しかし、こうした状況は、2%の物価安定 目標の達成によって一変する。市場金利の 上昇によって、国債金利も上昇し、それま での公債残高の蓄積を反映して、利払費が 大きく増大する。 上記(1)でみたように、長期金利は 4%、 控えめにみても 3%程度になることが想定 される。国債金利は、現在 1%ほどである が、新発債と借換債を発行する度に上昇し、 いずれ長期金利に収束する。2018 年度予算 の国債残高 883 兆円を前提にすれば、利払 費(予算額 9.0 兆円)は、国債金利が 2%に なれば 17.7 兆円、3%になれば 26.5 兆円、 4%になれば 35.3 兆円に増加する。 ただし、2%の物価安定目標が達成された 時点では、金利が上昇するとともに経済成 長率も高まっていると考えられる。その影 響を比較するため、財務省「債権管理レポ ート 2017」から関係する試算結果を取り出 したのが(図表 109)である。経済成長率 が現在の水準 1.5%から 3.0%に高まった 場合の税収増加額と、その時金利が様々に 上昇した場合の利払費増加額(借入金利子・ 財務省証券利子を含む)を試算したものであ るが、金利が 1%上昇するだけで(長期金利 2%に相当)、利払費の増加が税収の増加を上 回る結果になっている。物価安定目標達成 後の金利上昇が、その後の財政運営にいか に大きな影響を与えるかを如実に示すもの と考えられる。 (図表 109) 経済成長・金利変化の影響試算 兆円 出展:財務省・債権管理レポート 2017・最下行筆者計算 利払費の増加は財政運営を困難化するが、 それ以上に懸念されるのが、これが財政の 持続可能性への不安感を高めて、更なる金 利上昇を生み、その悪循環から財政危機が 発生するおそれがあることである。そうし た可能性がある場合、キャピタルロスの発 生を厭わずに日銀に代わるほど国債に投資 する投資家が現れることを期待することは 困難と思われる。理論上、財政は債務のG DP比率が発散的に増大する場合に持続可 能でないと言われる。しかし、現実には、 財政危機は人々の不安感によって突然自己 実現的に発生し得るものであることに十分 な注意が必要である。 (10)異次元金融緩和の副作用・要約 以上みてきた異次元金融感の副作用を要 約すれば、次のとおりである。 [異次元金融緩和の継続期間中に顕在化す る副作用] @国債買入れの限界:早晩、日銀の国債取 得は新発債と自己保有国債の借換債に限ら 84 れ、民間保有国債を減少させてまで国債を 買い入れることはできなくなると考えられ る。しかし、景気の変動等に応じて金利が 一定範囲で変動することは望ましく、問題 視する必要はない。懸念すべきは、イール ドカーブ・コントロールが弱まったとして、 国債買入れ額を増加する動きが出てくるこ とであり、様々な副作用を拡大することに つながると考えられる。 A金融機関の収益悪化と金融システムの不 安定化:金融機関は、ファイン・チューニ ング(実質金利=自然利子率)を大きく超え る低金利のために、体力の続く限り走り続 けている。その経済効果に疑問があるばか りでなく、地域経済活性化の中心的な役割 を果たすべき地域金融機関の体力が失われ、 どこでも身近に金融サービスを受けられる 環境が損なわれようとしている。 B日銀の収支悪化と債務超過の懸念:異次 元金融緩和をこのまま継続すると、日銀の 国債利息収入は低下を続け、また、現在 10 兆円に及ぶ金利調整差額残高の償却も必要 であることから、日銀の収支は悪化し、債 務超過に陥るおそれもある。 Cリスク資産の蓄積と市場の歪み:日銀に よるETF等の買入れは、正常に機能して いる市場に対し、人為的に価格を押し上げ ようとするものであり、コーポレートガバ ナンスの後退や市場価格の歪みの問題をも たらしている。 D財政規律の緩み:財政規律の確保は政府 と国会の責任であるが、異次元金融緩和は、 利払費を低減して国債増発を可能とすると ともに、市場が増税先送りは危険というシ グナルを発することを封じることによって、 財政規律の緩みが生じる契機となっている。 [2%の物価安定目標が達成され、金融政策 が正常化に向かう過程で顕在化する副作 用] @金融機関の収益悪化と金融システムの不 安定化:正常化により金融機関の収益低下 要因はいずれも改善され、正常な状態に戻 ることができる。ただし、金利が急騰する と債券価格が急落し、地域金融機関中心に 金融システムが不安定化するおそれがある。 A日銀の収支悪化と債務超過の懸念:日銀 保有国債の利回りの上昇が緩やかであるの に対し、付利金利の引上げは日銀の利払費 を一気に増加するため、日銀の収支は急速 に悪化し、債務超過に陥るおそれもある。 日銀が債務超過に陥ると、物価や通貨価 値の安定が脅かされ、金融市場に様々な動 揺が生じることが懸念される。 Bリスク資産の売却と資産相場:国債と異 なり、ETF等には償還期限がない。この ため、正常化するためには、市場で売却せ ざるを得ず、これをきっかけに資産相場が 急落するおそれがある。価格が下落すれば、 日銀にも大きな損失が生じる。 C財政運営の困難化と財政危機の懸念:市 場金利の上昇によって、国債金利も上昇し、 それまでの公債残高の蓄積を反映して、利 払費は大きく増大する。利払費の増加は財 政運営を困難化するが、それ以上に懸念さ れるのが、財政の持続可能性への不安感を 高めて、更なる金利上昇を生み、その悪循 環から財政危機が発生するおそれがあるこ とである。 日銀は、異次元金融緩和の副作用につい て、国債買入れの限界の問題を否定すると ともに、金融仲介機能への影響は「重要な 85 関心事項であるが、現時点では問題となる 影響は生じていない」とのみ説明する。ま た、出口の進め方はその際の情勢に依存す るとして多くを語らず、財政規律や将来の 財政運営等への影響は政府・国会の問題と 整理している。しかし、異次元金融緩和の 効果を総合的にみれば、日本経済の中心で ある金融・資本市場・中央銀行たる日銀・ 国の財政に様々な歪みを生じ、あるいはリ スクを蓄積しているのではないかと思われ る。そして、異次元金融緩和のプラスの効 果がマイナスの効果を上回るかについては、 極めて疑問に思われる。これまで異次元金 融緩和については、「日銀が大量の国債を買 い続ける限り、財政危機という爆弾が破裂 することはないから、経済は平穏なままで ある。しかし、2%の物価安定目標が達成さ れると、国債買入れをやめるにやめられな いことが分かり、経済はパニックに陥る」 と評されることが多かった。しかし、金融 機関や日銀の収支への影響、財政規律への 影響等を考えると、今や大量の国債購入を 続けること自体、副作用が顕在化してまま ならぬものになりつつあるように思われる。 9.財政ファイナンスとヘリコプター マネー (1)財政ファイナンスと財政の持続可能性 の確保 財政ファイナンスとは、一般に中央銀行 が政府の発行する国債などを直接引き受け、 政府の財政運営を財源的に支援することを 言う。しかし、広義には、政府の財政政策 が円滑に実行されるよう中央銀行が政府に 協力し、財政政策と金融政策を一体化して 運営することを指す場合がある。前者は我 が国の場合財政法 5 条により明確に禁止さ れており、政策評価上はむしろ後者の方が 意義が大きいとも考えられる。 黒田総裁は、この点に関し、「量的・質的 金融緩和による長期国債の買入れは、金融 政策上の目的で日銀自身の判断で行うもの であり、財政ファイナンスではない。こう した議論を惹起しないためにも、政府が今 後の財政健全化に向けた道筋を明確にし、 財政構造改革を着実に進めていくことは極 めて重要である。政府も、「共同声明」にお いて、「日本銀行との連携強化にあたり、財 政運営に対する信認を確保する観点から、 持続可能な財政構造を確立するための取組 を着実に推進する」としており、そうした 取組に強く期待している」旨述べられてい る。 現在日銀は、2%の物価安定目標の実現に 向け異次元金融緩和を続けており、その限 りでは財政ファイナンスか否か直ちに判断 できない。問題は、その目標が達成され、 金融引締めの必要が生じたときに、市場の 動向に即して金利の引上げが行えるかどう かである。上記8.(9)のとおり、長期金 利が上昇すると、国債の利払費が増大して 財政運営が困難化するとともに、財政危機 のリスクが高まるおそれがある。いくら物 価の安定をマンデートとして業務運営の独 立性が認められた中央銀行といえども、物 価の安定を優先して、政府が財政危機に陥 ることは厭わないとするわけにはいかない であろう。日銀が金利の引上げができず財 政ファイナンスを行うことは、インフレの 高進を許容することになるが、このように 中央銀行が否応なしに財政の都合に合わせ ざるを得なくなることを「財政支配」と言 86 う。こうした状況に陥らないためにも、黒 田総裁が言われるとおり、日銀が出口に至 るまでに、政府は財政構造改革を着実に進 め、財政の持続可能性を確保していくこと が極めて重要である。 ※19 財政法第 5 条:「すべて、公債の発行につい ては、日本銀行にこれを引き受けさせ、又、借入 金の借入については、日本銀行からこれを借り入 れてはならない。但し、特別の事由がある場合に おいて、国会の議決を経た金額の範囲内では、こ の限りでない。」と規定している。河野一之「新版 予算制度」昭和 62.3.31 学陽書房は、その趣旨に ついて、「戦前・戦中において大量の公債発行が日 銀引受けによって行われた結果、マネーサプライ の増加を通じて激しいインフレーションを引き起 こしたことへの反省に基づき、財政の健全性を確 保するために規定されたものである」とするとと もに、但し書きについて、「「特別の事由」に何が あたるかは、必ずしも法文上明らかではないが、 実際には、毎年度の特別会計予算総則に規定を置 き、日銀が保有する公債の借換えのために発行す る公債の金額については、「特別の事由」にあたる ものとして、日銀引受けによる公債の発行が認め られている。これは、借換債の性質上、日銀が現 に保有しているものの引受けであり、通貨膨張の 要因となるものではないからである」と解説して いる。これに依る限り、但し書きは、本文の趣旨 に反する事由を例外的に許容するものではないと 思われる。 (2)財政の健全化と持続可能性 財政の健全化とは、利払費を含めた財政 収支を黒字化して、国債残高の名目GDP 比を安定的な水準まで引き下げることと考 えられる。EUの安定・成長協定は、@単 年度の財政赤字額GDP比 3%以下、A国 債残高 GDP比 60%未満を加盟国に求め ているが、こうした水準はなかなか実現し 得ないにせよ、年々近付けていくことが重 要であり、これが国民の安心感にもつなが ると考えられる。 財政の持続可能性については、よくドー マーの条件が取り上げられる。公的債務残 高のGDP比が発散しないことをもって 「財政の持続可能性がある」とするもので あり、次のような条件が示されている。 @名目GDP成長率>利子率 プライマリーバランス(基礎的財政収支: 借入金を除いた税金など正味の歳入と、借入金返 済のための元利払いを除いた歳出の収支)が多少 赤字でも発散しない。 A名目GDP成長率=利子率 プライマリーバランスが均衡又は黒字で ないと発散する。 B名目GDP成長率<利子率 プライマリーバランスがかなり黒字でな いと発散する。 ただし、公的債務残高が大きいと、3 つ の変数(プライマリーバランス、名目GDP成長 率、利子率)の変動によって公的債務残高の GDP比が大きく変動し、自己実現的に財 政危機が発生するリスクが高まるため、や はり公的債務残高を低減することは重要と 考えられる。 さて、名目GDP成長率と利子率の関係 については、戦後 1980 年代までは成長率≧ 利子率が基調であり、金融自由化が進行し た 1980 年代以降は成長率<利子率が基調 になっているという。金融自由化以前には、 金利を市場実勢を下回る水準に誘導する人 為的低金利政策がとられていたためとされ る。また、ソローの成長モデルでは、長期 的に成長率<利子率が成立すると言われて いる。 我が国のプライマリーバランスの対GD 87 P比は、(図表 110) のとおりであり、1992 年度以来赤字を続け、2017 年度は国△ 3.8%、国・地方△3.4%である。また、政 府は、これまで 2020 年度の黒字化を目標と してきたが、成長低下による税収の伸び悩 み、消費税率引上げ延期と使途の見直し等 によって達成困難となり、去る 6 月 15 日に 閣議決定されたいわゆる骨太の方針におい ては、「@経済再生と財政健全化に着実に取 り組み、2025 年度の国・地方を合わせたP B黒字化を目指す、A同時に債務残高対G DP比の安定的な引下げを目指すことを堅 持する」との新たな財政健全化目標が決定 されたところである。 新たな目標の確実な達成を期待するが、 経済の最も自然な関係=ドーマーの条件B 名目GDP成長率<利子率となった場合に は、プライマリーバランスをよほど黒字化 しない限り、財政の持続可能性を確保する ことはできない。 人為的低金利政策には、 @金融抑圧:目標金利<インフレ率<市場 実勢金利(実質金利は負) A金融抑制:インフレ率<目標金利<市場 実勢金利(実質金利は正) が区別されている。Aのインフレ率<目標 金利≒名目GDP成長率<実勢金利を実現 することが、たとえ広義の財政ファイナン スに該当するものとしても、我が国の異常 な公的債務残高の存在を踏まえれば、現実 的に必要と考えられる。日銀には、金融政 策正常化後、物価の安定を阻害しない範囲 で、こうした金融政策を実施することが期 待される。 (図表 110) 基礎的財政収支(対GDP) % 出展:財務省・債権管理レポート 2017 (3)金融政策と財政政策 「紐は引けても押せない」の例えは、や はり金融政策の本質を言い当てた金言と思 われる。マイナス金利と独占的な国債買入 れによって流動性の罠やゼロ金利制約を乗 り越えた異次元金融緩和でも、効果が大き いとされる短期〜中期の金利は 0.2〜 0.3%ほどしか低下していない。また、そも そも民間の借入需要が弱くIS曲線が立っ た状態では、金利が低下してもGDPの押 上げ効果は自ずと限られたものになる。 そこで最近、関係者の関心を高めている のが財政政策である(上記7.(4))。財政支 出を拡大すればIS曲線が右シフトしてG DPが増大する。自然利子率が高まりプラ スになれば、金融政策の有効性も復活する。 さらに需給ギャップをプラスにすれば、物 価の上昇をいくらでも加速できる(IS-L Mモデルを開放経済に拡張したマンデル・フレミ ングモデルは、変動相場制の下における財政政策 の有効性を否定する。しかし、これは金融政策の 基本をマネーストックとみるモデルである。マネ ーストック一定(LM曲線一定)の下では、財政 支出拡大→IS曲線右シフト→金利上昇→円高→ 純輸出減少→総需要不変=財政政策無効となる。 このため、財政政策は、不況期(IS曲線がLM 88 曲線の水平部分で交差する状態)においてのみ有 効となる。しかし、現実の金融政策は金利操作を 基本に行われており、仮に金利一定とすれば、I S曲線右シフトとともにLM曲線が右シフトして、 本モデルにおいても財政政策は有効となる)。 その結果、金融政策への関心は、金利引 下げによる直接的な景気刺激効果から、財 政の持続性を確保し、これを通じて景気回 復や物価上昇を促進する役割へとシフトし つつある。この点で、日銀がイールドカー ブ・コントロールで 10 年物国債金利をゼロ 程度とし、国債の買入れを行っていること は重要な意味を持つ。国の財政運営を当面 容易にする効果を、意図せざるプラス効果 でなく、異次元金融緩和のメインの効果と 位置付けるものと考えられる。 しかし、拡張的な財政政策は、早晩増税 が必要となり、人々の将来不安を高めて消 費を抑制する。また、そのための財源を日 銀が工面することは典型的な財政ファイナ ンスであり、財政規律を喪失して、長期金 利の高騰や財政危機が発生するリスクがあ る。我が国の財政状況を踏まえれば、正に 禁じ手と言うべきものであろう。 こうした中、財政政策の効果を最大限に 高める政策として近年注目を集めたのが、 以下に述べるヘリコプターマネーである。 (4)ヘリコプターマネー バブル崩壊後、我が国経済の長期低迷を 打開するための方策が米欧の経済学者中心 に様々に寄せられた。その代表が、上記7. (4)で紹介したポール・クルーグマンの提案 であり、ベン・バーナンキ元FRB議長や アデア・ターナー元FSA(英国金融サービ ス機構)長官によるヘリコプターマネーの 提案である(アメリカの経済学者ジョセフ・E・ スティグリッツの政府紙幣発行の提案もほぼこれ に類する)。 ヘリコプターマネーのアイデアは、ミル トン・フリードマンが 1969 年の著作の中で 行った思考実験に端を発するという。「ある 日、ヘリコプターが頭上から紙幣をばらま く。すると国民は、その紙幣の供給が 1 回 限りであり、後で回収されることもないと 認識し、少し自分の資産が増えたと思って、 消費支出に充てる。こうしてヘリコプター マネーの供給は、総需要を拡大する」とい うものである。これを現実に当てはめれば、 「中央銀行が政府の発行する無利子・永久 国債を引き受け、永続的に保持すると公約 する。政府がこれを財源に減税や現金配布、 公共投資を行うと、国民は将来の増税や歳 出削減を心配することなく、安心して現在 の総需要を拡大する」といったものである。 バーナンキは、「日銀の国債購入を財源に 政府が減税し、日銀は物価水準目標の達成 にコミットするとともに、購入した国債の 大半を恒久的に保持すること」を提案する。 また、ターナーは、「最早日本には、国債を 返済を要する債務とみなすシナリオは存在 しない」との認識から、「日銀は今後も国債 を大量に買い入れ、ほぼ永遠に抱え込むこ と、さらに保有する利付国債を無利子・永 久国債に転換すること」を提案する。その 上で、「仮にインフレが加速する場合は、法 定準備率を引き上げて対応すれば、信用供 与の拡大を抑制できる」とする。 これらを総合すれば、ヘリコプターマネ ーは、次のような効果を持つものと考えら れていると言えよう。 @財政資金の確保:日銀が市場を経由せず 89 直接国債を引き受けることによって、政府 は、市中金利への影響(クラウディング・ア ウト)を回避しつつ、必要な財政資金をい くらでも確保することができる。 A将来の増税負担の回避:日銀が引き受け た国債を保有し続けることによって、政府 は将来の増税が不要となり、将来の増税あ るいは歳出抑制の予想が現在の民間支出を 抑制するという「リカードの中立命題」を 回避することができる。 B将来償還を要する国債残高の削減と利払 負担の軽減:日銀が市中に存在する国債を 大量に買い入れ、永続的に保有することに よって、政府は、将来償還を要する国債残 高を削減するとともに、利払負担を軽減す ることができる。日銀が保有する利付国債 を無利子・永久国債に転換すれば、これを より明確にすることができる。これにより 国民は、将来の増税負担が大幅に軽減され、 その分安心して消費を拡大することができ る。 Cインフレの促進と政府債務の縮小:日銀 は、インフレ目標を達成するとともに、イ ンフレ期待の高まりによって実質金利を低 下させることができる。政府は、インフレ によって国債の返済負担を軽減し、実質的 に政府債務を縮小することができる。 夢のような話であるが、問題は、こうし た効果が本当に期待できるかどうかである。 まず、効果A・Bから検討する。 (図表 111)は、政府の国債発行によって 各経済主体のB/Sがどのように変化する かをケース分けしてみたものである(結論 部分のみ示している。その過程は(図表 95・96)を 参照いただきたい)。 (図表 111) 国債発行によるB/S変化 兆円 90 出典:筆者作成 日銀が市中から国債を買い入れて保有す ると、ケース 1 からケース 2 に移行する。 日銀が借換債への再投資を繰り返し行えば、 政府は国債元本の支払を免れることができ る。ケース 3 の日銀が始めから国債を引き 受ける場合も同様である。また、ケース 4 のように永久国債を日銀が引き受け、又は 保有する国債を永久国債に転換する場合は、 借換えを行うまでもなく、政府は国債元本 の償還を免れることができる。しかし、政 府が国債元本の支払を免れたとしても、国 債や永久国債が有利子である限りは、将来 にわたる利払費の割引現在価値は基本的に 資産価格に合致するから、政府ひいては国 民の負担が軽減されるわけではない。有期 限の元利払いが基本的に等価の無期限の利 払いに転換されるだけと考えられる。 なお、日銀が市中の国債を買い入れれば、 統合政府の国債は相殺されるから、その負 債が減少するとの議論があるが、これが誤 りであることは、ケース 2 の統合政府のB/ Sが示すとおりである。日銀による国債の 買入れは、民間銀行に対する国債という長 期債務を準備預金という短期債務に置き換 えているに過ぎない。ケース 3、ケース 4 の統合政府のB/Sも同様である。 他方、国債の利払負担については、日銀 が保有する国債に関しては、政府が支払っ た利払費は国庫納付金として還元されるか ら、政府に利払負担が生じないように感じ られる。しかし、ケース 2〜4 の日銀のB/ Sが示すとおり、日銀の保有する国債・永 久国債は、いずれも民間銀行の準備預金に よってファイナンスされており、日銀が超 過準備に付利金利を支払うと、それだけ国 庫納付金が減少する。すなわち、日銀保有 の国債については、政府は、国債に対する 利払負担を負わない代わりに、準備預金に 対する利払負担を負うことになる。統合政 府のB/Sの構造を考えれば、至極当然のこ とであろう。 ここで問題になるのは、上記8.(6)でみ たように、正常化の過程で、付利金利の支 払額が国債利息収入額を超えて、日銀が債 務超過に陥る可能性があることである。こ の場合、政府が負うべき利払負担の一部を 日銀が肩代わりしていることになるが、こ れにより金融市場に様々な混乱が生じるお それがあることは、上記8.(7)でみたとお りである。 一方、永久国債を無利子とすることは、 政府が負うべき利払負担を始めからすべて 日銀に押し付けるものであり、日銀の債務 超過と金融市場の混乱を考えれば、当然是 認されるものではないであろう(仮にこれを 行えば、政府は日銀に対し財政支援を行わざるを 得ず、負担の形が変わるだけである)。 結局、ヘリコプターマネーの実施によっ て起こることは、政府の有期限の国債の元 利払いが無期限の準備預金に対する利払い に転換されるということである。政府の財 91 政負担は、形は変わるが、無くなるわけで はない。したがって、A・Bの効果は存在 せず、リカードの中立命題が回避されるこ ともないと考えられる。準備預金に対する 利払いを無くすためには、@ヘリコプター マネーか否かに関わらず、2%の物価安定目 標達成後も、政策金利をゼロ%として超過 準備への付利を行わないか、A法定準備率 を大きく引き上げ、超過準備を所要準備に 切り替える必要がある。しかし、@を行え ば、景気が過熱して物価が高騰し、Aを行 えば、民間金融機関に多大の損失が発生し て金融システムに大きな混乱が生じる。や はり経済の世界にフリーランチは存在しな いと言うべきであろう。 ヘリコプターマネーの効果@・Cは、確 かに十分過ぎるほど認められるであろう。 その容易さから財政規律が破壊され、イン フレに歯止めがかからなくなるおそれがあ る。また、A・Bの効果がない以上、財政 危機のリスクが急速に高まり、金利が高騰 する。日銀の金融政策や円の通貨価値に対 する信認も大きく低下するであろう。こう した状況を国民が予想すれば、消費が抑制 され、財政拡張の経済効果は、当初から削 がれると考えられる。 「デフレ下においては、財政政策だけが 有効である」、「増税できないのであれば、 インフレ税でいくしかない」、「ハイパーイ ンフレは、金融政策によって防止可能であ る」など様々な議論がある。しかし、ヘリ コプターマネーは、2%程度の物価上昇を実 現するには、余りに過大であり、膨大な政 府債務を縮小するには、有効かもしれない が、それは同時に経済の破壊を意味するこ とになると考えられる。 なぜこうした提案が次々寄せられるのか 理解に苦しむが、ターナーの言う「最早日 本には、国債を返済を要する債務とみなす シナリオは存在しない」との認識(多くの外 国人投資家も共有していると言われる)につい ては、真摯に厳しく受け止める必要がある と思われる。 (5)異次元金融緩和とヘリコプターマネ ー・財政ファイナンス ヘリコプターマネーがバーナンキのブロ グ搭載や訪日によって再び注目を集めた 2016 年当時、黒田総裁は、これについて問 われ、「ヘリコプターマネーは、金融政策と 財政政策を一体として運営するものと思う が、我が国を含む先進国では、歴史的な経 験も踏まえて、財政政策は政府、議会の責 任において行う、金融政策は独立した中央 銀行が行うという考え方、制度的仕組みが 確立しているので、我が国の現行の法制度 の下では実施できないと考えている」旨答 えている。また、関連して財政ファイナン スについても問われ、「日銀の金融政策は、 財政ファイナンスを目的にしたものでは全 くないし、物価の安定を目的として行って いる。したがって、財政ファイナンスであ るとは考えていない」、「中央銀行が物価安 定目標を実現するために金融緩和政策を推 進している状況において、政府が財政支出 を拡大する場合には、国債発行に伴う金利 上昇が抑制されるため、これらの相乗効果 によって景気刺激効果がより強力なものに なることはよく知られている。こうした政 策の組合せは「ポリシー・ミックス」と呼 ばれており、マクロ経済政策として、一般 的な考え方であると思う。しかし、こうし 92 たポリシー・ミックスは、政府による財政 資金の調達を手助けすることを目的とする 財政ファイナンスでもないし、中央銀行の マネーの恒久的な増加を原資として財政支 出を行うヘリコプターマネーとも全く違う と考えている」旨答えている。 では、通常の金融緩和とヘリコプターマ ネーや財政ファイナンスを分けるポイント は何か。大きく次の 3 点が挙げられると思 われる。 @金融緩和が、財政政策の支援として行わ れているかどうか。 A金融緩和が、一時的でいずれ正常化され るものかどうか。 B金融緩和が、政府の発行する国債を直接 引き受ける形で行われているかどうか。 黒田総裁は、@について、日銀の役割と 政策の目的の観点から、異次元金融緩和は 財政ファイナンスでなく、リコプターマネ ーとも全く異なるとされている。しかし、 異次元金融緩和が実態上発揮している効果 の観点からは、マクロでみた唯一最大の受 益者は政府であり、政府の国債発行を円滑 化するとともに、利払負担を軽減すること によって、財政ファイナンスの機能を十分 果たしていると考えられる。 Aについては、異次元金融緩和は、2%の 物価安定目標の達成によって正常化される こととなっており、ヘリコプターマネーに は当たらない。しかし、開始後 5 年以上経 過し、正常化の目途が立たない中で、財政 ファイナンスとしての性格を強めているこ とは間違いないと考えられる。 Bについては、財政法 5 条によって明確 に禁止されている。ただし、(図表 111)の ケース 2 とケース 3 にあるとおり、日銀が 国債を市中から買い入れる場合と政府から 直接引き受ける場合で、各経済主体のB/ Sの変化は変わらない。これを踏まえると、 財政法 5 条の趣旨は、政府の国債発行を市 中発行・市中消化に限定することによって、 市場の機能を活用して無秩序なマネースト ックの拡大とインフレの加速を防止し、財 政の健全性を確保することにあると考えら れる。しかし、国債市場は、日銀の大規模 な国債買入れによって、価格発見機能やシ グナリング機能を大きく低下させており、 日銀トレードにみられるように、政府が発 行した国債を日銀に引き渡す橋渡しの機能 しか果たしていないようにみえる。こうし た意味において、異次元金融緩和による日 銀の国債買入れは、実態上直接引受けと大 きく異るものではないのではないかと危惧 される。 以上総合すれば、異次元金融緩和は、い ずれ正常化されるという意味においてヘリ コプターマネーではないが、実態上、財政 ファイナンスの機能を果たすものと考えら れる。 10.デフレ脱却の意義と求められる政策 以上、異次元金融緩和について、これま での成果、メカニズム、副作用などをみて きた。その結果は、政策の規模が異例に大 きいだけに副作用も大きく、プラスの効果 がマイナスの効果を上回るかについては疑 問とするものであった。ここで改めて原点 に立ち戻り、デフレ脱却の意義と求められ る政策について検討してみたい。 (1)デフレ脱却の意義 上記2.(1)(6)でみたとおり、日銀は、 93 デフレ脱却の意義について次のように説明 している。 @我が国では 1998〜2012 年度の 15 年間、 消費者物価上昇率年平均△0.3%という緩 やかだが長期にわたるデフレが続いた。 Aこれにより、人々の間に「物価は上がら ない。むしろ下がるものだ」というデフレ 予想が生まれ、人々は物価が上がらないこ とを前提に意思決定や行動を行うようにな った。 Bデフレを前提とする経済には以下のよう な問題があり、デフレは、景気低迷の結果 であるとともに、景気低迷の長期化をもた らす原因になった。 @売上の減少と消費の低迷の悪循環 企業にとっては、デフレの下では、製品 やサービスの価格を引き上げることができ ないため、売上高は伸びず、収益も上がり にくくなる。このため、人件費や原材料費、 設備投資をできるだけ抑制することになる。 一方、家計にとっては、賃金が上がらな いため、消費を抑えることになる。また、 将来物価が下落するのであれば、消費をで きるだけ先送りしようとする傾向が強まる。 このようにして消費が抑制されれば、企業 はさらに価格の引下げを余儀なくされる。 こうして、価格の下落→売上・収益の減 少→賃金の抑制→消費の低迷→価格の下落 の悪循環が生まれて続くことになる。 A投資の抑制と成長力の低下 デフレ予想が定着すると、たとえ名目金 利が低下しても名目金利から予想物価上昇 率を差し引いた実質金利は高止まりし、投 資意欲を減退させる。 また、デフレは、実物投資やリスク性資 産の収益率を低下させる一方で、元本が保 証される現金や預金の実質的な収益率を高 める方向に作用する。 こうして設備や研究開発に投資して、リ スクを取って新しいビジネスに挑戦しよう とするインセンティブを削がれると、需要 不足から景気の低迷とデフレが自己実現的 に長期化するとともに、経済の成長力も低 下を続けることになる。 C異次元金融緩和は、デフレ下で定着して しまった悪循環をちょうど逆回転させよう とするものであり、予想インフレ率の上昇 =デフレ期待の払拭を起点として、物価の 緩やかな上昇→売上・収益の増加→賃金の 上昇→消費の活性化→価格の緩やかな上昇 という経済の好循環を実現して定着させよ うとするものである。 また、デフレから脱却すること自体が日 本経済の成長力の強化に資する。デフレか ら脱却し、経済主体が 2%の物価上昇を前 提に行動するような経済・社会を実現する ことは、失われたアニマルスピリットを復 活させることになる。 (2)デフレは日本経済低迷の原因か 以上のように、日銀は、デフレが日本経 済低迷の原因であり、デフレを脱却するこ とが経済の好循環の実現や成長力の強化に 資するとしているが、これらについては次 のような疑問がある。 @デフレ下では、価格の下落→売上・収益 の減少→賃金の抑制→消費の低迷→価格の 下落の悪循環が生まれて続く。 ⇔物価が下落しそれぞれの名目値が低下し ても、それらが比例的に低下する限り、実 質値は変わらない。したがって、単に各経 済変数の名目値が低下することを以って経 94 済の低迷と言うことはできない。 デフレの下においても、価値の高い新商 品を開発すれば価格は上昇するし、同じ商 品を販売していても生産性が上がれば賃金 は上昇する可能性がある。デフレだからと いって、必然的に上記のような関係が生じ るわけではない。 Aデフレ下では、企業は、製品等の価格を 引き上げることができないため、人件費等 をできるだけ抑制し、家計は、賃金が上が らないため、消費を抑えることになる。消 費が抑制されれば、企業はさらに価格の引 下げを余儀なくされる。 ⇔(図表 16・18)で、勤労者一人当たりの 所得である現金給与総額と現金給与総額に 非農林業雇用者数を乗じた総雇用者所得の 推移をみた。△0.3%のデフレが続いていた 1998〜2012 年度の年平均上昇率を切り出 せば、現金給与総額は名目△0.9%・実質△ 0.6%、総雇用者所得は名目△0.6%・実質 0.2%である。また、この間のGDPは名目 △0.5%・実質 0.6%、民間最終消費支出名 目は 0.2%・実質 0.9%、うち家計最終消費 支出は名目 0.1%・実質 0.9%である。 ここから浮かび上がるのは、企業は、物 価の低下率を大幅に上回る賃金の引下げを 行っていること、家計は、高齢者や女性中 心に就業率を高め、賃金低下の緩和に努め るとともに、GDPの伸びを上回るプラス の消費支出を行っていることである。 賃金の低下が消費を抑制し、景気が盛り 上がらない要因になっていることは間違い ない。しかし、物価の低下以上に賃金が低 下していることは、デフレでは説明がつか ない。また、家計最終消費支出の推移をみ ると、基本的にプラスで推移しており、消 費の抑制によって「企業がさらに価格の引 下げを余儀なくされる」といった状況は現 実には生じていない。家計にとってみれば、 賃金が低下する中、デフレはせめてもの救 いであったと言うべきであろう。 B将来物価が下落するのであれば、消費を できるだけ先送りしようとする傾向が強ま り、消費が抑制される。 ⇔将来の予想物価上昇率は、名目金利に反 映される(フィッシャー方程式i=r+π:i 名目金利、r実質金利、π予想物価上昇率)。こ れを含めれば、将来買うことのできる商品 の量は、インフレ・デフレに関わりなく一 定になる(今期に 1 円貯金すると、来期に購入 できる実質値は(1+r)/p。:p。今期の価格)。 ただし、名目金利がマイナスになった場 合は(i<0即ちr<△π:この場合のπはマイ ナス)、誰も貯金しようとはせず、現金で保 有した方が将来買うことのできる商品の量 が増加する(今期に 1 円現金保有すると、来期 に購入できる実質値は(1−π)/p。:この場合の πはマイナス。これを先の実質値と比較すれば、 (1+r)/p。−(1−π)/p。=(r+π)/ p。となり、名目金利がプラスかマイナスかに対 応している)。 このため、デフレでも、名目金利がプラ スである限り、消費の先送りは生じず(現 在と将来の支出の配分は、実質金利と人々の選好 によって決まる)、名目金利がマイナスである 場合に限って、消費の先送りが生じること になる。 2016年1月に異次元金融緩和によってマ イナス金利が導入されるまで、名目金利は プラスであった。したがって、それまでの 間、デフレだからといって消費の先送りが 生じていたとは考えられない(なお、この議 95 論は、そもそも生鮮食料品のように貯蔵できない 財やサービスには無関係であり、耐久消費財や貯 蓄可能な財に限られる。また、一般物価水準が不 変で特定の商品の価格だけが変動する場合、消費 税増税のように一般物価水準に影響がない場合は、 名目金利が変動せず、買い急ぎや買い控えの問題 が生じ得る)。 また、実際に人々が将来の物価をどう予 想していたかをみると、(図表 112)のとお り、「少し下がる」「かなり下がる」は極め て少なく、「将来物価が下落するから消費を 先送りしよう」という発想はそもそもなか ったと考えられる。 (図表 112) 1年後の物価に対する見方 % 出典:日本銀行・生活意識に関するアンケート Cデフレ予想が定着すると、名目金利が低 下しても名目金利から予想物価上昇率を差 し引いた実質金利は高止まりし、投資意欲 を減退させる。 ⇔これはデフレの典型的な弊害と考えられ る。しかし、(図表 45)をみると、日銀の 長期にわたる金融緩和の結果、1995〜2008 年までは総じて実質金利は自然利子率を下 回っている。世界金融危機後の 2008〜2012 年はさすがに自然利子率の低下によってこ れが逆転したが、2013 年以降は、異次元金 融緩和によって実質金利は自然利子率を大 きく下回っている。 こうした状況を踏まえれば、世界金融危 機後というごく短期の異常時を除けば、デ フレがこのメカニズムを通じて経済低迷の 原因として作用したことは現実にはなかっ たと考えられる。 Dデフレは、実物投資やリスク性資産の収 益率を低下させる一方で、元本が保証され る現金や預金の実質的な収益率を高める方 向に作用する。 ⇔投資の決定は、名目収益率と名目金利を 比較することによって行われる。デフレに よって将来の投資収益の名目値は低下する が、名目金利も低下するため、将来のキャ ッシュフローを名目金利で割り引いた投資 の現在価値は変わらず、デフレは投資の決 定に影響を及ぼさない。 一方、投資を行わず現金のまま保有する 場合は、将来の額面金額は変わらないため、 その現在価値は、名目金利がマイナスの場 合に増価するが、上記のとおり、名目金利 はマイナス金利が導入されるまで長年にわ たりプラスであり、現金保有を有利な資産 運用とみることはできない。 確かに名目金利の低下によって、現金保 有の機会損失は低下するが、投資の収益率 を上回ることはないと考えられる。 消費者物価指数は、「経済の体温計」と言 われる。物価が経済の状況を敏感に映し出 す鏡の一つであることを指すものであろう。 デフレはさながら低体温症とでも言うべき 状態であるが、それはあくまでも結果であ り、症状に過ぎない。ただし、高熱を発す るなど時として症状が病気を悪化させる原 因になる場合がある。しかし、日銀がデフ レが原因として挙げる事項にはいずれも上 96 記のような疑問があり、「デフレは、景気低 迷の結果であるとともに、景気低迷の長期 化をもたらす原因になった」とは言えない と考えられる(これらは次にみるような実体経 済上の問題の現れと考えられる)。病気を治すた めには、やはり病気の原因に対する根本治 療が必要であり、症状を緩和するだけでは 意味がない。逆に症状を軽減するための薬 の大量摂取が副作用の蓄積・顕在化によっ て病状を悪化させないか懸念される状況で ある。 では、病気の原因として何が考えられる か。以下、企業防衛マインドと国民の将来 不安を取り上げてみたい。 (3)企業防衛マインド 上記4.異次元金融緩和の成果では、主 要経済指標について分析し、「円安、低金利、 株高、原油安等の好条件が揃い、法人企業 は史上最高益を実現した。しかし、賃金の 上昇や設備投資などへの波及は限定的で、 消費や投資の拡大が不十分なものにとどま った。このため、景気の回復は力強さに欠 け、物価の上昇も限られたものになった」 と経済情勢を取りまとめた。 しかし、こうした企業収益の増大にもか かわらず、消費や投資へのトリクル・ダウ ンが生じにくい企業の体質は、この 5 年間 にとどまらず、バブル崩壊後、特に 1998 年頃から顕著になった傾向であり、日本経 済が長期低迷を脱しない大きな原因の一つ ではないかと考えられる。 もとより企業は千差万別であり、一括り に論じられるものではないが、各種経済指 標や識者の論説などから伺われるこうした 企業の行動パターンや考え方の傾向を「企 業防衛マインド」と呼び、以下に提示して みたい。 企業防衛マインドの特徴は、次のとおり である(物価が上がらないことを前提に意思決定 や行動を行うデフレマインドを含むが、以下のと おり企業行動の全般にわたる広範なものである)。 @企業経営の最大の目標は、利潤や企業価 値の最大化ではなく、企業の存続可能性の 最大化である。この場合の企業とは、具体 的には正社員メンバーのグループである。 A@の目標を達成するため、利潤の極大化 を目指すが、企業の存続を危うくするよう なリスクはとらない。また、どのような経 済情勢にも耐え得る財務体質の強化を目指 す。このため、次のような企業行動をとる ことになる。 B新商品の開発競争でなく、既存商品の価 格競争によって売上高の確保を図る。無理 をして新規市場の開拓や需要の掘り起しは 行わず、価格の維持や値引きによって既存 市場でのシェアの維持・獲得を図る。 C販売価格が引き上げられない以上、売上 原価や経費の縮減が唯一の利潤獲得手段と なる。このため、人件費、原材料費等のコ スト削減や不採算部門のリストラが企業経 営の眼目となる。人件費については、可能 な限り人員の縮小と非正規社員の活用を図 るとともに、正社員のベアを凍結する。正 社員も雇用の安定こそ最も求めているもの であり、企業の存続を危うくするおそれの あるベアの要求には慎重である。 D既存市場でのシェアの維持・獲得を目的 とする以上、人口減少が見込まれる日本国 内での能力増強投資は行わない。また、新 規市場の開拓や需要の掘り起しは行わない 以上、研究開発投資やこれに関連する設備 97 投資も行わない。投資は、自ずと更新投資 や省力化投資中心となり、その規模も縮小 する。省力化投資による労働生産性向上の 成果は、企業の利潤に還元する。 E有利子負債は極力圧縮して、実質無借金 企業(現預金や短期保有有価証券などの手元資金 >有利子負債。2017 年度末上場企業の 59%)を 目指す。純資産、特に利益剰余金を積み上 げ、自己資本比率を高める(法人企業統計に よると、2016 年度の純資産 670 兆円:資本金 110 兆円、資本剰余金 150 兆円、利益剰余金 410 兆円。 自己資本比率:1998 年度 19%→2016 年度 41%)。 企業がこうした企業防衛マインドに基づ き行動すると、次のような状況が導かれる。 @既存商品を既存市場で販売する限り、価 格の引下げ競争にならざるを得ない。デフ レだから価格が上げられないのでなく、消 費者の所得が上がらず、新興国からも廉価 な商品が流入する状況下では、競争の結果 として、価格が低下する。(物価が上がるのは、 輸入原材料価格の上昇などコスト・プッシュがあ った場合に限られる。しかし、この場合も、価格 の引下げ競争が行われることには変わりがない)。 A賃金は、その抑制が企業の重要な利潤獲 得手段となっており、容易には上がらない。 昨今の人手不足は、非正規社員の賃金上昇 に結びついているが、もともとのベースが 低い。正社員のベアは、企業が史上最高益 を上げている割には小幅なものにとどまる。 今後については、人材獲得の必要性や企業 の存続可能性を労使がどう評価するかにか かっている。 B賃金が上がらないため、消費は弱含みと なる。デフレだから消費を先送りしている わけでなく、消費者は、限られた収入の中 で「身の丈に合った消費」を行っている。 C投資は、更新投資や省力化投資だけでは 規模が小さく、企業がリスクをとって新商 品の開発等を行わない限り盛り上がらない。 自己資金を豊富に保有し、有利子負債の拡 大にも慎重な企業は、金利が低下しても、 積極的に借入れを行おうとはしない。投資 が少なく、現金や預金の保有が多いのは、 こうしたリスク回避的な企業行動の結果で あり、デフレが原因ではない。 D商品の価格や賃金が上がらず(価格の積上 げ要因)、消費や投資が盛り上がりを欠くた め(需給要因)、結果としてデフレが生じる。 E我が国の国内市場は、人口減少により長 期的に縮小が続くと予想されている。また、 異次元金融緩和によってデフレでなくなる とともに、企業は史上最高益を実現したが、 高収益は、円安、低金利、株高、原油安等 を経済環境の変化によるもので、自ら売上 高を増加させた結果ではない。こうした状 況の下では、企業マインドはなかなか転換 せず、トリクル・ダウンは不十分となる。 Fしかし、企業の実力は、社会の動向に目 を凝らし、時代の先を行く新たな価値の創 造にチャレンジすることによって養われる。 リスクをとらず、既存商品の価格競争やコ スト削減、リストラばかりに注力する企業 は、安全経営のようにみえて、やがて競争 力を失い、必敗の途を歩まざるを得ないの ではないかと思われる。 バブル崩壊後、既に 30 年近くが経過した。 この間、米国では世界をリードする企業が 次々に誕生し、中国でもハイテク分野で米 国とわたり合える企業が数多く誕生してい る。我が国は、グローバルな競争社会の中 で地位を低下させており、早急な方向転換 98 が必要と考える。 (4)国民の将来不安 日本経済が低迷を脱しないもう一つ大き な原因が、国民の将来不安と考えられる。 少子高齢化・人口減少と巨額な財政赤字の 問題である。後者は特に社会保障制度の持 続可能性に関わる部分が大きいから、広く 人口問題と捉えることもできる。 家計は、限られた収入の中で「身の丈に 合った消費」を行っており、企業における ようなリスク回避マインドを持っているわ けではない。しかし、将来の所得増加が見 込まれない中で、増税や社会保険料の増額、 社会保障給付の減額が懸念される状況下で は、積極的な消費に乗り出すことはできな い。また、企業は、人口減少によって、需 要が先細り売上が減少するとともに、労働 力不足から人件費が上昇すると予想し、企 業防衛マインドを一層強くしている可能性 がある。 我が国の人口は、2008 年の約 1 億 2 千 8 百万人をピークに、今後長期にわたり人口 減少と高齢化が進むと見込まれている。(図 表 113)のとおり、国立社会保障・人口問 題研究所の将来推計人口(平成 29 年推計) の中位推計及び長期参考推計によると、総 人口は、2050 年に約 1 億 2 百万人(2015 年 の 8 割水準)、2100 年には約 6 千万人(同 5 割水準)まで減少する。また、年齢3区分 別人口は、年少人口(0〜14 歳)と生産年齢人 口(15〜64 歳)が減少する一方、老年人口 (65 歳以上)はなお 2042 年まで増加し、そ の後減少に転ずる。その結果、年齢別の人 口構成は、2050 年頃(2053 年)に、年少人 口が 10%台、生産年齢人口が 51%台、老年 人口が 38%台に達し、以後は、概ねこの構 成割合で推移すると見込まれている。 (図表 113) 将来推計人口 出典:国立社会保障・人口問題研究所「日本の将来推計人口 (平成 29 年推計)」中位推計。2066 年以降は長期参考推計 少子化は、人口減少と高齢化を同時にも たらす。このうち人口減少については、1 人当たりGDPが減少しない限り、経済的 には特段問題を生じない。人々の経済的豊 かさは、一国全体のGDPでなく、1 人当 たりのGDP、即ち 1 人当たりの所得の大 きさによって決まると考えられるためであ る。逆に人口減少は、1 人当たりの国土資 源を増加し、環境負荷を低減するなど、ゆ とりある豊かな国土を実現するための貴重 な機会を提供するものとも捉えることがで きる(2100 年の我が国の人口と人口密度は、国 土面積が比較的近いフランス・ドイツ・イタリア・ イギリスの現在の数値とほぼ同等である)。 一方、高齢化は、従属人口指数((年少人 口+老年人口)÷生産年齢人口)の上昇、貯蓄 率の低下と投資余力の低下、年金・医療・ 介護の社会保障給付の増加等のいわゆる 「人口オーナス」をもたらす。「人口問題の 本質は、人口減少でなく、人口構成(=高 齢化の進展)にある」と言われる所以である。 こうした観点から、我が国の人口問題を 概括的に捉えるならば、3区分別の人口構 成が大きく変化する 2050 年までは、人口減 99 少と人口オーナスが併進する期間、人口構 成がほぼ安定する 2050 年以降は、専ら人口 減少が進行する期間であり、2050 年までの ここ 30 年をいかに乗り切るかが我が国が 直面する最大の課題と捉えることができる。 既に記したように少子高齢化による人口 オーナスに対応するためには、経済成長を 促進し、GDPを拡大する以外に方法はな い。昨今、外国人労働者の受入拡大に期待 する議論もあるが、これらの者もやがて高 齢化することを考えれば、女性や高齢者中 心に労働参加率を高め、就業者一人当たり のGDP、即ち労働生産性を向上すること が何よりも必要と考えられる。 (図表 114)は、2016 年の OECD 加盟諸国の 労働生産性を比較したものである。こうし た国際比較には国により種々の統計データ 上の制約があることも指摘されているが、 我が国は 35 カ国中 21 位であり、世界第 3 位の経済大国と言われる割には極めて残念 な状態にあることが分かる。また、(図表 115)は、1970 年以来の労働生産性の順位の 変遷を示したものである。我が国は、バブ ル期に 15 位まで順位を上げたが、1998 年 以降 20〜22 位で推移している。これまで我 が国は人口=就業者の多さでGDPの大き さを誇ってきたが、1 人当たりでみれば決 して豊かな国ではなく、今後少子高齢化が 進む中で、いよいよ真剣に労働生産性の向 上に取り組むべき時期を迎えていると考え るべきであろう。 ※20 労働生産性:「生産諸要素の有効利用の度合 い」を生産性といい、「生産性=産出/生産要素の 投入」で表わされる。生産性はそれぞれの生産要 素の視点から捉えることができ、労働生産性は労 働の視点からみた生産性である。他に資本生産性 や全要素生産性がある。労働生産性は、「労働投入 量 1 単位当たりの産出量又は産出額」であり、労 働者 1 人当たり又は労働 1 時間当たりでどれだけ の成果を生み出したかを示す。物的生産性として 「生産量/労働者数」と「生産量/(労働者数×労 働時間)」、付加価値生産性として「付加価値額/ 労働者数」と「付加価値額/(労働者数×労働時間)」 が用いられている。GDPは一国の付加価値額の 合計であり、本文の「労働生産性」は、「GDP/ 就業者数」を指している。 (図表 114) OECD 加盟諸国の労働生産性 (2016 年・就業者 1 人当たり) 出典:日本生産性本部・「労働生産性の国際比較 2017 年版」 (図表 115)主要先進 7 カ国の就業者 1 人当たり 労働生産性の順位の変遷 出典:日本生産性本部・「労働生産性の国際比較 2017 年版」 100 (図表 116)OECD 加盟諸国の実質労働生産性上昇率 (2010〜2016 年平均・就業者 1 人当たり) 出典:日本生産性本部・「労働生産性の国際比較 2017 年版」 ここで、労働生産性をどの程度引き上げ る必要があるか目の子で試算する。必要と なる労働生産性の向上は、@我が国固有の 人口オーナス対応分とA世界主要国並みの 経済成長分である。 @人口オーナス対応分 (図表 113)によれば、2015 年の従属人口 指数は約 0.64、2050 年以降は概ね 0.94 で ある。生産年齢人口と就業者数が比例する とすれば、2015 年と同程度の経済的豊かさ (国民 1 人当たりGDP)を維持するために は、労働生産性を(1+0.94)/(1+0.64)= 1.18 倍にする必要があり、これは、(図表 114)から、81777 US ドル×1.18=96497 US ドル、13〜15 位のオーストラリア・ドイ ツ・フィンランド並みに引き上げることを 意味する。また、GDPの規模でみれば、 2015 年のGDPを名目 532→628 兆円、実 質 518 兆円→611 兆円に引き上げることに 相当する。毎年 1%ずつ上昇させるとすれ ば、16〜17 年で達成可能である。また、30 年で達成するとすれば、年 0.56%の上昇率 である。 A経済成長分 (図表 116)は、OECD 加盟諸国の 2010〜 2016 年平均の実質労働生産性上昇率であ る。世界金融危機の影響により低めの数値 になっている可能性はあるが、1%程度が目 安と考えられる。 @・Aを合わせれば、実質 2%程度の労 働生産性上昇率の実現が目標となる。順位 としては 13〜15 位を可能な限り早期に実 現してキープすることであり、過去の実績 からみれば容易ではないが、実現不可能な ものではないであろう。これはあくまでも 目の子計算であり精査の必要があるが、こ れまで我が国の労働生産性が低かったこと が逆にハードルを低くし、幸いしているの ではないかと思われる。 (5)求められる政策 以上の議論を前提にすれば、日本経済を 低迷から脱却させるために特に重要と考え られる政策として、T企業防衛マインドの 転換とU国民の将来不安の解消を挙げるこ とができる。Tにより労働生産性(就業者 1 人当たりのGDP)を向上させ、これによっ て国民 1 人当たりのGDPを増加させると ともに、その成果を活用してUの少子高齢 化・人口減少や財政赤字の問題を解決しよ うとするものである。 T企業防衛マインドの転換 企業防衛マインドの転換の具体的イメー ジは、次のとおりである。 @企業が産み出す価値=付加価値の最大化 を企業経営の目標とする。その上で、その 成果をすべてのステークホルダーに適切に 分配する。⇔企業の存続可能性の最大化、次い 101 で利潤や株主利益の最大化。 A(@の目標を達成するため)時代の先を行く 新たな価値の創造に積極的に取り組む。世 界や医療・介護など国内の成長分野の動向 に目を向け、新たなビジネスモデルの創造 や社会が求める新たな商品の開発により売 上高の増加を図る。⇔リスクをとらず、既存商 品の価格競争や改良により売上高の確保を図る。 B(Aを実現するため)専門知識や起業家精 神にあふれた若者、生き甲斐を求める高齢 者、女性、外国人など多様な人材が自由闊 達に能力を発揮できる環境を整備する。ま た、世界をリードする研究開発投資やこれ に関連する設備投資、需要の拡大に合わせ た能力増強投資を推進する。⇔前例踏襲・上 命下達の事なかれ主義、出る杭は打たれる企業文 化。更新投資・省力化投資中心の投資。 C(Bの結果)企業のISバランスを赤字化 し、健全なマクロ経済バランスを回復する。 ⇔非金融法人企業のISバランスは 1998 年以降 プラスとなり、最近は最大の黒字部門。これが我 が国経済の長期低迷の直接的原因。 D(以上の結果)企業は、社会の公器として の役割を果たし、自らの努力によって売上 高を伸ばし利益を獲得するという企業本来 の姿を取り戻す。これにより過剰な企業防 衛マインドの払拭を図る。⇔売上高は伸びず、 人件費、原材料費等のコスト削減やリストラによ って利益を獲得。企業業績は、基本的に海外経済 や原油価格、為替等の経済環境次第。 E(以上の結果)需給ギャップを改善すると ともに、GDPの成長とベアの拡大によっ て望ましい物価のアンカーを形成する。 ⇔需給ギャップが改善し、デフレではなくなった が、ベアの上昇が不十分で、2%の物価安定目標に は程遠い状況。 現状とかけ離れた企業像のようにも思わ れるが、バブル崩壊以前の日本企業は、世 界各国の企業と同様、多かれ少なかれこう したアニマルスピリットを持っていたので はないかと思われる。 しかし、黒田総裁がデフレの原因として 挙げられる「バブル崩壊による過剰設備や 雇用の調整、不良債権問題と金融システム 不安、アジア通貨危機・ITバブルの崩壊・ リーマンショック・東日本大震災等のネガ ティブショック、新興国の台頭、企業の低 価格戦略、労働市場の構造変化、過度な円 高の進行など(上記2.(1)A)」が、企業防 衛に向け日本企業のマインドを転換させる ことになった。具体的には、特に次のよう な状況が労使共々に大きく作用したと考え られる。 @バブル崩壊後の資産価格の暴落とバラン スシート調整の必要、これによるバランス シート不況の発生 (図表 117〜119)・(図表 50)、三大都市圏の地価 は1991年をピークに2004〜2006年に商業地16%、 住宅地 36%まで低下(地方圏の地価は 2013〜2014 年まで低下し、商業地 14%、住宅地 45%まで低下)、 日経平均株価は 1989 年をピークに 2003 年に 19% まで低下。これらにより失われた国富は 1500 兆円 と言われる。資産価格に比べれば、物価は僅か△ 0.3%/年であり、極めて安定している。 A1997 年の急激な緊縮財政とアジア通貨 危機の発生 B1997〜1998 年の金融システム危機の発 生 1997 年、三洋証券・北海道拓殖銀行・山一證券 破綻、1998 円、日本長期信用銀行・日本債券信用 銀行破綻。著しい貸し渋り・貸し剥しが発生した が、1998・1999 年の公的資金投入により鎮静化。 102 C不良債権問題の拡大 (図表 120)、バランスシート調整と不況の深刻 化により不良債権が急増、1995〜2001 年度中心に 1992 年度以降 2001 年度までに 82 兆円、2007 年度 までに 112 兆円不良債権処理。 D相次ぐ企業倒産 (図表 121)、1997〜2001 年度中心に 181 行の金 融機関が破綻。(図表 122)、バブル崩壊後、企業 倒産が再び増加し、特に負債総額が急増。1997〜 2003 年は各年 10 兆円を超え、ピーク時の 2000 年 は 24 兆円に上る。 (図表 117) 資産価格と消費者物価(1989〜) 出典:日本銀行・講演資料 (図表 118) 公示地価(1985〜) 万円/u 出展:国土交通省・地価公示 (図表 119) 公示地価(1985〜)1991=100 の指数 出展:国土交通省・地価公示 (図表 120) 不良債権処分損等(全国銀行)兆円 出展:金融庁 (図表 121) 金融機関の破綻件数(1990〜) 件 出展:金融庁 (図表 122)全国企業倒産状況(1985〜)件・億円 出展:東京商工リサーチ・全国企業倒産状況 しかし、企業防衛マインドを生み出した と考えられる資産価格の下落や不良債権問 題、金融機関を含む多数の企業の倒産等は、 (図表 117〜122)にみるように、既に 2003 〜2006 年頃終息している。2008 年の世界金 融危機によって再び強化された可能性はあ るが、その深刻さは 2000 年前後の状況とは 比ぶべくもないであろう。こう考えると、 企業防衛マインドは、今や実体的根拠があ るものではなく、企業に伝承され、染み付 いた企業行動に関する組織文化であり、企 業の人々、特に経営者が信じて疑わない企 103 業の行動様式そのものと考えられる。それ は合成の誤謬の一種であるが、短期的景気 変動による誤解でなく、長期的・構造的な 確信に基づくものであり、これが世界も警 戒する「日本病」の核心ではないかと思わ れる。 では、どうしたら企業防衛マインドを転 換できるか。 異次元金融緩和によって 2%の物価上昇 を実現したとしても、デフレは企業防衛マ インドの結果に過ぎないから、これを転換 することは難しい。また、短期的な経済対 策を講じても、企業防衛マインドは長期 的・構造的なものであるから、その時だけ 景気が上向いても、マインドを転換するま でには至らないであろう。さらに、成長戦 略によって潜在成長力の上昇を図る場合に も、労働力の増加が期待できない以上、イ ノベーションによって労働生産性を上げる しかないが、これを実際に行うのは企業で あり、企業防衛マインドの転換に焦点を当 てない限り、なかなか成果が上がらず、空 回りするおそれがある。 有効なアイデアがあるわけではないが、 以下、思いつくまま何点か記してみたい。 @企業防衛マインドが組織文化や人々の意 識の問題とすれば、「人が変わる・人を変え る」が重要なポイントと考えられる。 若者や女性、外国人など多様な人材の積 極的登用と活躍がその原動力になる。ベン チャー企業や研究機関、異業種との交流・ 連携も有効である。また、日本国内への外 資の積極的導入や外国企業のM&Aの成果 を自らの組織文化の改編に生かしていくこ とも重要と考えられる。今般、働き方改革 関連法案が成立したが、社員でなく経営者 の働き方改革こそ最大の課題と考えること が必要と思われる。 A企業行動を積極化させ、イノベーション を促進する最大のモチベーションは需要の 存在である。特に縮小ばかりが懸念される 国内需要の発見と創出が必要である。 世界に目を向ければ需要はいくらでもあ る。米国では新たな発想とチャレンジ精神 によってユニコーン企業が次々に誕生して いる。日本人にも不可能なことではないで あろう。また、情報化の進展は、これまで 国内に埋もれていた優れた技術や商品の世 界デビューを可能にする。こうした価値の 発見とコーディネート機能の充実が重要で ある。 一方、国内に目を転じると、人口減少は 需要の減少と就業者数の減少を招き、国内 産業の縮小要因になる。しかし、2050 年頃 までは生産年齢人口が総人口を上回るペー スで減少することから(生産年齢人口比率: 2015 年 61%→2050 年 52%)、縮小する供給能 力に比べ需要が相対的に増大する。厳しい と同時にビジネスチャンスの多い事業環境 となり、国内産業は活性化すると期待され る。こうした競争を通じて労働生産性を着 実に向上させていくことが必要である(人 手不足だからといって、安価な外国人労働者の受 入拡大を行うことは、せっかくの賃金上昇や労働 生産性向上の機会を阻害する面があり、慎重な検 討が必要である)。 また、分野的には、少子高齢化により医 療・介護や農林水産業が成長産業になる。 また、都市や建物、自動車、公共交通等社 会インフラを根本的に改編する必要があり、 大きな需要要因になる。高齢者の生きがい や健康の実現、子供を産み・育てやすい環 104 境の整備も同様である。少子高齢化につい てはマイナス面ばかりが強調されがちであ るが、これをどう克服し、どう生かすか前 向きに検討し、需要を掘り起こしていくこ とが必要である。また、混合診療・混合介 護の拡大や各種規制緩和により、民間のイ ノベーションを促進する事業環境を整備す ることが重要である。 B諸外国と比較して我が国の労働生産性が 低い理由を特定し、改善の方向を明らかに すること必要がある。 (図表 123・124)は、我が国の労働生産性 を産業別に米国及びドイツと比較したもの である(2015 年 1 時間当たり付加価値:米国 6 位、ドイツ 8 位、日本 20 位)。図から明らかな とおり、我が国の労働生産性は、特に卸売・ 小売をはじめとするサービス業において低 い。これはイギリスやフランスと比較して も同様である(対米国:製造業 67.4・サービス 業 50.7、対ドイツ:製造業 88.7・サービス業 65.2、 同様に対イギリス:製造業 99.4・サービス業 69.6、 対フランス:製造業 82.2・サービス業 71.7)。 サービス業は、産業の大宗を占め、国内 産業の中心を成すものであり、我が国の労 働生産性を向上させるためには、この低調 なサービス業の生産性を上昇させることが 必須と考えられる。購買力平価の影響も考 えられるが、付加価値の生み出し方につい て、産業構造や商慣習まで立ち入って国際 比較し、労働生産性が低い理由を特定して、 企業が取り組むべき改善の方向を明らかに することが必要である。 (図表 123) 日米の産業別生産性(1 時間当たり 付加価値)と付加価値シェア 出典:日本生産性本部・産業別労働生産性水準の国際比較 (図表 124) 日独の産業別生産性(1 時間当たり 付加価値)と付加価値シェア 出典:日本生産性本部・産業別労働生産性水準の国際比較 C今後人口が減少する我が国においては、 労働生産性、即ち就業者 1 人当たりのGD Pや付加価値の大きさに注目し、イノベー ションを促進することが必要である。 我が国の潜在成長率は、世界金融危機か ら回復したといっても未だ 1%程度にとど まる。このため、成長戦略や構造改革を強 力に推進し、これを引き上げることが必要 である。ただし、今後の人口減少を踏まえ れば、潜在成長率以上に労働生産性に注目 し、その向上を図ること重要である。潜在 成長率が上昇してもそれが就業者数の増加 による場合は人々が豊かになるとは限らな い。潜在成長率が上昇しなくても労働生産 性が上昇すれば豊かになることができる。 これを実現するのがイノベーションであり、 上記Aを踏まえれば、特に需要創出型のイ 105 ノベーションが求められる。新たな価値を 生み出すことによって、世界の需要を取り 込むとともに、世界有数の長寿国日本の潜 在需要を顕在化させることが重要である (かつて構造改革の必要が盛んに叫ばれた頃の議 論は、専ら供給サイドに焦点を当て、効率性を追 求するものであった。これが需要不足の中でコス ト削減やリストラを促進した面があるが、こうし た方向は、今後求められる構造改革の方向とは異 なる)。 D企業経営の目標を、企業の存続可能性の 最大化、あるいは利潤の極大化から付加価 値の最大化に転換すべく、企業の経営環境 を改善する必要がある。 リスクをとらない安全経営は、やがて競 争力を失い、必敗の途を歩まざるを得ない と考えられる。これを脱するためには、す べてのステークホルダーがこうした認識か ら企業をチェックし、刺激を与え続ける経 営環境とする必要がある。 今後は人口減少に伴い労働需給が更にひ っ迫すると見込まれる。これを契機に本来 の労使関係を復活させる必要がある。また、 諸外国の株主は、コスト削減により一時的 に利益を増額しても評価せず、持続的な付 加価値の増加によって継続的に利益を増加 させることを強く求めるという。我が国に おいても、こうした株主と経営者の関係を 構築していく必要がある。海外の公的年金 等は物言う株主として有名であるが、日銀 やGPIFも何らかのチェック機能を発揮 することについて検討する価値はあるので はないかと思われる(現在日銀は「設備・人材 投資に積極的に取り組んでいる企業」の株式を対 象とするETFを年間 3000 億円買い入れている)。 U国民の将来不安の解消 今後の少子高齢化・人口減少の進展や巨 額な財政赤字に起因する国民の将来不安を 解消するためには、労働生産性を向上させ、 国民 1 人当たりのGDPを増加させるとと もに、政府の支出と収入のアンバランス(低 支出・最低収入)を是正することが必要であ る。 このため、企業の企業防衛マインドの転 換を促進し、これを礎として各種成長戦略 や構造改革を強力に推進すること、財政再 建施策を着実に実施することが必要である。 また、国民の将来不安は、人々の気持ちや 認識に関わるものであることから、その解 消を図るに当たっては、特に以下の諸点に 留意することが必要と考えられる。 @我が国の少子高齢化・人口減少は、今後 50 年・100 年単位の長期にわたり進展する ものであり、人々は捉えどころのない将来 不安を感じているのではないかと思われる。 こうした人口構造の変化に対応するため、 どのような経済構造や社会構造を実現しよ うとするのか、その長期展望を明らかにす ること。 A@の経済構造や社会構造を実現するため 推進しようとする骨格的な対策を明らかに すること(小規模な対策は、施策体系を複雑化 し人々の理解の妨げになることから、盛り込まな い)。 BAの対策について、定期的にその推進状 況と効果を検証し、必要に応じ見直しや補 完を行うこと。 C@の合理性とAの必要性を国民と共有す るとともに、着実に歩みを進めている状況 をBにより分かりやすく示すこと(特に財政 再建については、着実に成果を上げ、国民に安心 106 感を与えることが必要である)。 現在、政府の経済政策は、毎年度の骨太 の方針や未来投資戦略等にまとめられてい るが、内容が広範で詳細にわたること、中 長期的な将来展望が示されていないことな どから、国民が将来不安を解消するには実 感を持ちにくく、別途長期計画を策定する など何らかの工夫が必要と思われる。 11.今後の経済政策と日銀への期待 (1)中央銀行の役割と物価の安定 中央銀行は、しばしば物価の番人と呼ば れる。特に近年では、中央銀行は物価の安 定に専念することがグローバル・スタンダ ードとなり、これを前提にその独立性が強 化されている(1998 に施行された新日本銀行法 は、この点に関し次のとおり規定している。「第 2 条 日本銀行は、通貨及び金融の調節を行うに当 たっては、物価の安定を図ることを通じて国民経 済の健全な発展に資することをもって、その理念 とする。」、「第 3 条 日本銀行の通貨及び金融の調 節における自主性は、尊重されなければならない。 2 日本銀行は、通貨及び金融の調節に関する意思 決定の内容及び過程を国民に明らかにするよう努 めなければならない。」)。@ブレトンウッズ体 制崩壊による変動相場制の下で、通貨価値 の安定を維持するためには、中央銀行が物 価安定へのコミットを強める以外に方策は ないこと、A1970 年代のスタグフレーショ ンの経験によって、物価安定は国民生活上 望ましいだけでなく、経済成長にもプラス という認識が広まったことが、その大きな 背景と言われている。 また、中央銀行がその権能を行使して行 う金融政策の目標には、物価の安定、雇用 の増大、経済成長など様々なものがあり、 これらは必ずしもすべて両立可能でないこ とから、かつては激しい意見の対立もみら れたが、現在は、次のような合意が成立す るようになっているという。 @経済活動の潜在的実力ともいうべき水準 は、経済の実物的要因(技術条件や資源の賦 存量など)で決まり、それを金融政策で変え ることはできない。水準の改善・向上は構 造改革等の取組による。 Aしかし、そうした実力は常に実現される わけではなく、その水準から実際の経済が 離れてしまうことがある。そうした振れを 小さくすることは金融政策により実現可能 であり、金融政策の役割は、振れを小さく すること、すなわち経済を安定化すること にある。 Bただし、振れの大小は水準に影響する可 能性がある。その意味で、物価の安定は持 続的な経済成長の基盤になる。 こうした理解から、「短期的に景気変動を なだらかにすることに配慮しながら、中長 期的に物価の安定を目指す」というのが、 金融政策の目標についての大まかなコンセ ンサスになっているという。 (2) 異次元金融緩和の評価と今後の方向 こうした現在のコンセンサスをベースに 置きながら、これまで異次元金融緩和につ いて述べてきた事項をまとめてみたい。 @需給ギャップの解消と経済の安定化 異次元金融緩和は、極めて緩和した金融 環境を実現し、実質金利の引下げと需給ギ ャップの解消により、戦後 2 番目に長い景 気回復を実現している。コンセンサスAの 経済の安定化の達成は、異次元金融緩和の 大きな成果と考えられる。 107 ただし、金融政策は、需要を前倒しした り、先送りしたりすることによって、景気 変動の振幅を小さくするものであり、経済 成長が停滞する中で需要を前倒しすると、 将来の需要が減少し、自然利子率は更に低 下する。既に実質金利が自然利子率を大き く下回り、需給ギャップがここ 1 年ほど連 続してプラスになっていること、その結果、 潜在成長率を上回る成長を続けていること 等を踏まえれば、こうした過度の低金利政 策を長期にわたり継続することには疑問が ある。 A長期にわたる景気低迷からの脱却 日銀は、デフレが日本経済長期低迷の原 因であり、異次元金融緩和によって物価が 上昇すれば、経済の好循環が生まれ、景気 低迷から脱却することができるとする。 しかし、上記 10.(2)のとおり、デフレ は景気低迷の結果であって原因ではないと 考えられることから、物価が上昇したから といって、景気低迷を脱することができる とは思われない。日本経済低迷の主因はや はり需要不足であり、経済を活性化するた めには、企業防衛マインドの転換や国民の 将来不安の解消を図り、消費や投資を促進 することが必要である。需要の前倒しでな く底上げこそ必要な対策と考えられる。 B潜在成長率の引上げと経済成長の実現 日銀は、デフレから脱却し、経済主体が 2%の物価上昇を前提に行動するような経 済・社会を実現することは、失われたアニ マルスピリットを復活させ、日本経済の成 長力の強化に資するとする。 これはコンセンサス@とは異なる考え方 である。しかし、バブル崩壊後、我が国の 潜在成長率が大きく低下し、経済成長も低 調に推移してきたのは、上記 10(3)(5) のとおり、バランスシート不況や企業防衛 マインドによって新たな需要の開発や研究 開発投資・設備投資が積極的に行われてこ なかったためであり、デフレが原因ではな い。したがって、異次元金融緩和によって 物価が上昇したからといって、アニマルス ピリットが復活するわけではなく、企業防 衛マインドの転換を正面に据えて、成長戦 略や構造改革を強力に推進していくことが 必要である。 C2%の物価安定目標の達成 2%の物価安定目標は今もって達成され ず、いつ達成されるかの目途も立っていな い。本年 4 月の展望レポート発表時に黒田 総裁は、「2019 年度頃に 2%程度に達する可 能性が高いと思っている」旨説明されてい たが、7 月の「強力な金融緩和継続のため の枠組み強化」には、「2%の「物価安定の 目標」の実現には、これまでの想定より時 間がかかることが見込まれる。もっとも、 マクロ的な需給ギャップがプラスの状態を 続けることにより、消費者物価の前年比は、 2%に向けて徐々に上昇率を高めていくと 考えられる」と記すに至った。 上記7.(9)のとおり、日銀は、物価上昇 のメカニズムついて、専らフィリップス曲 線に着目し、需給ギャップの解消とフォワ ードルッキングな予想物価上昇率の引上げ を強調している。しかし、我が国の潜在成 長率は 1%程度に過ぎず、既に需給ギャッ プはプラスとなり高圧状態が続いている。 また、マネタリーベースの拡大によって、 フォワードルッキングに人々の予想物価上 昇率を高められるかについては大いに疑問 がある。したがって、需給ギャップのプラ 108 ス状態を続けたとしても、どこまで物価が 上昇するかは不明であり、仮に 2%の物価 上昇率が達成されたとしても、そこにアン カーすることは困難と思われる。 物価を上昇させ、アンカーするのは、や はり経済社会に習慣・規範として定着して いる値上げの仕組みであり、1998 年頃まで は当然と受け止められていたような毎年の 賃上げと、これを受けて行われるサービス 料金の値上げと考えられる。賃金の上昇は、 労働生産性の向上、労働需給のひっ迫、企 業マインドや労使関係の転換等によって実 現されるものであり、2%の物価安定目標を 実現するためにも、こうした実体経済上の 取組を進めることが必要と考えられる。 D副作用・リスクの蓄積 コンセンサスBは、景気の振れの大小が 経済水準に影響する可能性があり、物価の 安定は持続的な経済成長の基盤になること を指摘する。 異次元金融緩和は、戦後 2 番目の長さの 景気回復とデフレではない物価安定を実現 することによって、こうした要請に応えて いる。しかし、問題は、余りに過大な政策 であるため、多くの副作用を伴い、日々リ スクを蓄積していることである。 上記8.(10)でみたように、2%の物価 安定目標が達成された暁には、日銀の収支 悪化と債務超過、財政運営の困難化と財政 危機、これらによる金融システムの混乱等 の極めて重大な副作用が顕在化するおそれ がある。また、それ以前にも、金融緩和の 継続によって、金融機関の収益悪化と金融 システムの不安定化、日銀の収支悪化と債 務超過、財政規律の弛緩等の副作用が顕在 化するおそれがある。こうしたリスクの蓄 積を可能な限り早期に停止し、その縮小を 進めることが必要である。 以上を踏まえれば、異次元金融緩和につ いては、需給ギャップの解消を図るレベル (プラスでなくゼロ)に規模を縮小すると ともに、リスクの蓄積を可能な限り早期に 停止して縮小すること、A〜Cについては、 企業防衛マインドの転換や国民の将来不安 の解消を図り、成長戦略や構造改革、財政 再建を強力に推進していくことが必要と考 えられる。 (3)目指すべき物価安定目標 異次元金融緩和が様々なリスクを抱える こととなった理由は、もとより 2%という 高い物価安定の目標を掲げ、文字通り異次 元の金融緩和を行ってきたことによる。(長 短金利操作付き量的・質的金融緩和は 2%の物価 安定目標が安定的に持続するまで継続され、マネ タリーベースの拡大方針は消費者物価指数(除く 生鮮食品)上昇率の実績値が安定的に 2%を超え るまで継続される)。 したがって、異次元金融緩和について、 リスクの蓄積を可能な限り早期に停止し、 縮小を進めるためには、@目指すべき物価 安定目標を 2%から引き下げること、又は、 A2%の物価安定目標を中期的に達成を目 指すべきものとし、政策運営を柔軟化する ことが必要である。 @に関し、黒田総裁は、「2%の物価安定 目標がグローバル・スタンダードとなって いるのは、デフレに陥らないためのいわば 経験知であり、1%の低い軌道ではまた引 力に引き戻されるおそれがある」とされる (2.(6)B)。しかし、デフレは日本経済低 迷の結果であり原因ではないと考えられる 109 ため、仮に「引力に引き戻されるおそれが ある」としても、今後顕在化が懸念される リスクに比べれば、はるかに問題は少ない であろう。 また、そもそも 2%の物価上昇には、@ 賃金の上昇がこれに追いつけるか、A現在 の金利水準と整合がとれるか、という重大 な問題がある。 現金給与総額の変動率は、(図表 17)の とおり、名目は 2014 年以降プラスとなり 2017 年まで 0.1〜0.5%で推移しているが、 実質は物価上昇率が低下した 2016 年以外 すべてマイナスになっている。また、経団 連傘下の大企業のベアは、(図表 23)のと おり、2014 年から復活したが、未だ 0.3〜 0.4%の上昇にとどまっている(2018 年は、 新聞報道によると 0.6〜0.7%程度)。国民が望 み、また消費の拡大につながるのは実質賃 金の上昇である。日本経済が低迷を脱する ためには賃金の上昇が必要であり、跛行性 が生じることはやむを得ないが、物価上昇 率は名目賃金上昇率を下回ることが望まし い。賃金の原資が名目GDPであることを 考慮すれば、物価安定目標は少なくとも消 費税を除いたGDPデフレーターの範囲内 に収めることが必要と考えられる。 また、潜在成長率 1%、長短金利差 1%で 物価上昇率 2%とすれば、政策金利 3%・10 年長期金利 4%となり、短期金利 3%、長期 金利 4%の金利上昇が生ずると見込まれる。 国債をはじめとする債券価格の暴落、日銀 の付利金利の急騰と収支悪化、公債利払費 の大幅増加と財政運営の困難化、財政危機 の高まりなどの問題を考慮すれば、金利の 上昇を抑制する必要が生じるが、これは取 りも直さず見込まれる金利水準が高過ぎる こと、すなわち 2%の物価上昇が我が国の 経済実態と整合していないことを意味する ものと考えられる。 また、Aは、異次元金融緩和を、いわゆ る「インフレ目標政策」(インフレ目標を実現 するため、「できることは何でもやる」といった金 融政策)から世界標準と言われる「柔軟な インフレーション・ターゲティング」政策 (インフレ目標を経済成長に関わる様々な要素に 配慮しながら中長期的に実現するものとして柔軟 に運営する金融政策)に転換しようとするも のである。この点に関し黒田総裁は、「日本 の場合は、長年にわたるデフレの下で、中 長期的な予想インフレ率がゼロ%近傍まで 低下しているとみられることから、人々の 「物価は上がらない」という感覚を早期か つ抜本的に転換し、これを 2%程度まで引 き上げてアンカーし直すことが必要であ る」、「米国の場合、目標の 2%に達してい ないが、短期金利の引上げを何度も行い、 バランスシートの縮小も始めたという意味 で正常化のプロセスに入っている。予想物 価上昇率が目標の 2%にしっかりアンカー されているので、我が国とはやや違った面 がある」として、日本と諸外国との違いを 強調される(2.(6)B、3.G)。しかし、 上記7.(3)でみたように、ゼロ金利下、さ らにこれに類似した不況期において、オー バーシュート型コミットメント等のマネタ リーベースを拡大する政策によって、「中長 期的な予想インフレ率を 2%程度まで引き 上げてアンカーし直すこと」は困難と考え られる。 物価を上昇させ、アンカーするためには、 やはり毎年の賃上げとこれを受けて行われ るサービス料金の値上げが必要である。こ 110 れを実現するのは、潜在成長率の引上げに よる経済成長であり、政府による積極的な 構造改革と企業の努力が必要である。日銀 は、需給ギャップをゼロとすることによっ て時々の潜在成長率に見合った経済成長と 物価上昇を実現するとともに、各種副作用 をしっかりコントロールすることによって 金融市場の安定を確保することが必要であ る。こうした柔軟な取組を通じて、実際に 潜在成長率が高まれば、2%の物価上昇率と 整合的な強い経済がいつか得られる。これ が 2%の物価上昇を実現する現実的な方法 であり、近道ではないかと考えられる。 以上、異次元金融緩和のリスクを低減す るため、@又はAにより見直しを行うこと が適切と考えられる。 なお、日銀は、物価安定目標を 2%とし た理由として、@消費者物価指数の上方バ イアス、A金利の引下げ余地の確保:金融 政策の「のりしろ」、B物価安定目標のグロ ーバル・スタンダード:中長期的な為替相 場等の安定の 3 つを挙げる(2.(2))。しか し、それぞれ以下の理由から、2%は絶対的 なものではないのではないかと考えられる。 @消費者物価指数の上方バイアス 消費者物価指数に上方バイアスがあると しても、1%を超えるほどではないように見 受けられること(なお、GDPデフレーターと は対象が異なる)。 A金利の引下げ余地の確保:金融政策の「の りしろ」 2%の高い物価安定目標を掲げ異次元金 融緩和を継続していることが、逆に将来の リスクを高めていること。また、将来の金 融政策(特に非伝統的金融政策)の対応余地 (のりしろ)を狭めていること。 B物価安定目標のグローバル・スタンダー ド:中長期的な為替相場等の安定 ア 円安は、一般に輸出産業やグローバルに 事業展開する産業にプラスに作用するが、 輸入産業や国内産業にはマイナスに作用す ること。消費者にとっても、賃金が上昇し ない限りマイナスに作用すること。 イ 輸出と輸入はバランスを保ちながら拡 大する必要があり、円安による貿易不均衡 の拡大は持続可能でないこと。 ウ 実質輸出の為替感応度は、(図表 125)の とおり、世界金融危機以降大きく低下して おり、円安は、かつてのような景気浮揚効 果を持つものではなくなっていること。 エ 日本の輸出産業等は既に為替の変動に 対応できる体制を構築するとともに、現地 通貨建て価格を変化させない価格設定行動 に移行しているとみられること。こうした 事情は、輸入産業等と大いに異なること。 オ 円安は、実質輸出が増加しなくても、外 貨建ての売上高や海外からの配当金の円換 算額を上昇し、輸出産業等の収益を増加す る(第一次所得収支は、(図表 126)のとおり、為 替レートとの連動性が高い)。これは、円の世 界で外貨を持たない者から持つ者への大規 模な所得移転が生じている結果にほかなら ないと考えられること。 カ 以上を踏まえれば、為替の急速な変動は 避けなければならないが、国際的に一物一 価を成立させる購買力平価の原理に従って、 長期的に緩やかな円高が進むことは、必ず しも避けなければならないものではないと 考えられること。 111 (図表 125) 実質輸出の為替感応度 %ポイント 出展:日本銀行・展望レポート(2018.4) (図表 126) 所得収支と為替レート 前年比% 出展:日本銀行・展望レポート(2018.4) (図表 127)は、1980 年以来の主要国の消 費者物価上昇率の推移である。我が国の物 価上昇率は、1990 年代末のデフレ開始以前 から米国や欧州 4 カ国(ドイツ・イギリス・ フランス・イタリア)より低く、概ね 2%以上 の開差がある。物価上昇率は、潜在成長率 や経済成長率、就業者数や労働市場など 様々な経済実態と密接に関連して形成され る。特に我が国では今後世界でも例を見な い少子高齢化と人口減少が進むことを考慮 すれば、たとえ 2%がグローバルスタンダ ードであるとしても、物価上昇率だけ切り 離して諸外国と合わせようとしても自ずと 無理があり、そのために強力な政策を実施 するとすれば、様々な混乱が生じると考え られる。物価安定目標については、こうし た我が国の経済実態に即して柔軟に設定し、 運用することが肝要と思われる。 (図表 127)主要国の消費者物価上昇率(1980〜)% 出展:IMF 注:欧州 4 か国平均は、ドイツ・イギリス・ フランス・イタリアの単純平均 (4)今後の経済政策と日銀への期待 以上縷々述べてきたが、筆者が考える今 後の経済政策の方向をまとめれば、次のと おりである。 [日本銀行] @目指すべき物価安定目標を 2%から引き 下げ、又は、2%の物価安定目標を中期的に 達成を目指すべきものとして、政策運営を 柔軟化すること。 A異次元金融緩和によるリスクの蓄積を可 能な限り早期に停止し、その縮小を進める こと。 B異次元金融緩和とその正常化に伴うリス クをしっかりコントロールして、金融シス テムや経済の安定を確保すること。 [政府] @企業防衛マインドの転換と国民の将来不 安の解消を図ること。 A民間の創意工夫の発揮やイノベーション を促進する各種成長戦略や構造改革を強力 に推進すること。 B政府の支出と収入のアンバランス(低支 出・最低収入)を是正するため、財政再建施 策を着実に実施すること。 特に日銀が出口に向かう前の低金利が維 持された猶予期間のうちに、財政健全化の 112 実を上げるとともに、財政規律の確保に強 くコミットすることによって、出口におけ る国債市場の不安定化を抑止すること。 また、こうした政策の展開に当たって留 意が必要と思われる事項を挙げれば、次の とおりである。 @経済情勢の判断が「物価上昇・円安・株 高」一色で行われている感があるが、これ らは経済の一面を表すものに過ぎないこと。 また、原因と結果の逆転等の混乱がみられ ること。 A「需給ギャップの解消と潜在成長力の向 上」、「景気回復と財政再建」の二分法は成 立せず、一体のものとして取組を進める必 要があること。 B構造改革や財政再建を推進するためには 長期的・総合的視点に立つ必要があり、短 期的視点に立ち、目先の経済指標に捕らわ れる限り成し遂げられるものではないこと。 C経済政策の転換や異次元金融緩和とその 正常化に伴うリスクのコントロールのため には、政府・日銀の連携が不可欠であり、 新たな共同声明等により経済政策の全体像 を明らかにする必要があること。 D日銀は、金融市場との対話を充実し、正 常化と金融システムの安定維持に向け市場 の理解と協力を得る必要があること。 E政府は、国民の将来不安を解消するため、 少子高齢化・人口減少に対応した経済・社 会の長期展望、講ずる対策とその推進状況 を分かりやすく提示する必要があること。 異次元金融緩和の出発点となり、ベース になっているのは、言うまでもなく 2013 年 1 月の政府・日銀の政策連携に関する共 同声明である(1.(1))。改めて共同声明を 読み返せば、ポイントは次のとおりである。 @日本銀行は、今後、日本経済の競争力と 成長力の強化に向けた幅広い主体の取組の 進展に伴い持続可能な物価の安定と整合的 な物価上昇率が高まっていくと認識してい る。この認識に立って、物価安定の目標を 消費者物価の前年比上昇率で2%とする。 A日本銀行は、上記の物価安定の目標の下、 金融緩和を推進し、これをできるだけ早期 に実現することを目指す。 B政府は、我が国経済の再生のため、機動 的なマクロ経済政策運営に努めるとともに、 革新的研究開発への集中投入、イノベーシ ョン基盤の強化、大胆な規制・制度改革、 税制の活用など思い切った政策を総動員し、 経済構造の変革を図るなど、日本経済の競 争力と成長力の強化に向けた取組を具体化 し、これを強力に推進する。 C政府は、財政運営に対する信認を確保す る観点から、持続可能な財政構造を確立す るための取組を着実に推進する。 以上のとおり、2%の物価安定目標は日銀 が金融緩和によって実現するものであるが、 その前提に、「日本経済の競争力と成長力の 強化に向けた幅広い主体の取組の進展に伴 い持続可能な物価の安定と整合的な物価上 昇率が高まっていく」との認識があり、政 府によるそのための取組の強力な推進があ った。物価の上昇は経済実態を離れてはあ り得ないことを宣明したものであろう。 しかし、その後に決定された異次元金融 緩和は、こうした政府の取組に期待しつつ も、異次元の緩和による需給ギャップの改 善と予想インフレ率の上昇を通じ 2%は達 成できるとして強力に進められた(2.(5) C)。それは壮大な社会実験とも言うべきも 113 のであるが、今日に至るまで 2%は実現せ ず、達成時期の目途も立っていない。未だ 緩和が不十分と言う向きもあるが、日銀の 資産規模は世界でも異例な 530 兆円・GD Pの 100%に達し、国債の保有額は 450 兆 円・保有割合 40%で、今もって年間 40 兆 円台のペースで増加している。日銀は十分 過ぎる金融緩和を行ってその責務を果たし ており、逆にこれが日本経済の大きなリス ク要因になっている。 ここは原点に立ち返り、何が足りなかっ たのか、どうすれば日本経済の持続的な成 長を実現できるのか、また、膨れ上がった リスクにどう対処すればいいのかについて、 英知を集めて検討すべき時期に来ていると 考えられる。 緩和を進めるだけのときは、円安・株高 となり、誰からも歓迎された。しかし、こ れを正常化するためには、関係者のコンセ ンサスの形成、リスクの管理、そのための 政府や金融機関を含む態勢の整備、金融市 場との対話と理解の醸成、国民の信頼の確 保など多くの課題があり、長く険しい道の りとなる。現在の未曽有の状況からの脱却 は人類初の試みとなるが、日銀には、関係 機関と協力しつつ、こうした歩みを着実に 進めることを期待したい。 以 上
浮上する米銀の資本バッファー引き上げ議論 2018年08月30日 パウエル議長に新たな課題が浮上 米連邦準備制度理事会(FRB)のパウエル議長に、新たな政策課題が浮上してきた。カウンターシクリカル資本バッファー(CCyB)の引き上げ議論だ。クリーブランド連銀のメスター総裁、ボストン連銀のローゼングレン総裁、ミネアポリス連銀のカシュカリ総裁は、銀行の財務の健全性確保、金融システムの安定維持の観点から、揃って、CCyBの引き上げを主張し始めている。しかしそうした政策は、金融規制の緩和を進めるトランプ政権、議会共和党との新たな対立の火種ともなる。
カウンターシクリカル資本バッファーとは? CCyBとは、好況時に銀行が、損失吸収力のある資本を平常時よりも積み上げ、不況時には資本を取り崩すことを可能とする、マクロプルーデンス政策の代表的な手段だ。これは、自己資本比率規制が持つプロシクリカリティ(Procyclicality、景気循環増幅効果)という問題への対応策として作られた経緯がある。 つまり好況時には収益改善から自己資本が増加しやすいため、銀行には、規制で定められた一定の自己資本比率のもとでは貸出を増加させる余地が拡大し、それが景気過熱、信用拡大を一層促してしまう。一方で、不況期には、自己資本が減少しやすいため、貸出を強く抑制することで、規制で定められた自己資本比率の水準の維持を図るインセンティブが銀行に生じ、これが景気悪化、信用縮小を加速させることになってしまう。同資本バッファーは、国際金融規制で求められている自己資本比率を可変的にすることで、こうした問題に対応しようとするものだ。 決定権はFRB理事に 米国では、同資本バッファーは、2013年にFRBと通貨監督庁(OCC)、連邦預金保険公社(FDIC)によって新設されたが、上乗せ率は0%に据え置かれ、マクロプルーデンス政策手段としては活用されたことはない。 同資本バッファーの変更を決める権限を持つのは、FRBの本部理事であり、地区連銀の総裁には決定権はない。理事の中では、ブレイナード理事が同資本バッファー引き上げに前向きである。ブレイナード理事は今年4月の講演で、「循環的な圧力が高まり続け、金融の脆弱性が拡大すれば、最大手の金融機関にカウンターシクリカルな資本バッファーの構築を求め、回復力を強化してストレスから自行を守るようにさせるのが適切となるかもしれない」と語っていた。 他方、パウエル議長は今年6月に、金融機関のリスクは抑制されている一方、資本は十分に確保されているため、同資本バッファー引き上げの必要性はない、と発言している。金融規制緩和を進める銀行監督担当のクオールズ副議長も、引き上げに反対である可能性は高い。 このように、同資本バッファー引き上げがFRB理事会で決定される可能性は現状では低いものの、地区連銀総裁などから強い要求が出されていることから、パウエル議長は今後も内部での議論を続けていくことが求められるだろう。メスター総裁は、景気情勢が良い時に、将来のショックに備える必要があると主張している。またカシュカリ総裁は、同資本バッファー引き上げだけでは、金融システムの安定確保には全く十分ではないとしながらも、やらないよりはまし、としている。 トランプ政権との新たな火種か 先日、トランプ大統領は、パウエル議長の金融引き締め策に不満であることを表明し、両者の関係は悪化している。今後、同資本バッファー引き上げの議論がさらに広がりを見せた場合、トランプ政権、あるいは銀行の規制緩和に積極的な共和党議員などから、FRBを牽制する動きが出てくる可能性も考えられるだろう。その場合、FRBの金融政策決定にも何らかの影響が及ぶかもしれない。 また、FRBの政策姿勢は、物価の安定と雇用の最大化のデュアルマンデート(二重責務)を同時に達成するというバランスの中で決められているが、今後、金融システムの安定というマンデートも金融政策の決定過程でより考慮されるようになっていけば、政策決定のメカニズムはより複雑化し、金融市場による政策の予見性が低下する事態も考えられる。これは金融市場の不安定化に繋がるかもしれない。 Writer’s Profile 木内登英Takahide Kiuchi 金融ITイノベーション事業本部 エグゼクティブ・エコノミスト 専門:内外経済・金融
http://www.jsri.or.jp/publish/research/103/103_01.html トランプ時代の米国金融規制?マクロプルーデンスを巡る議論? 若園智明(当研究所主任研究員) 〔要 旨〕 本稿は米国のマクロプルーデンス関連規制を分析対象とし,行政府(大統領府および連邦監督機関)と連邦議会で展開された同規制の修正議論を整理する。DF法には十分な議論を踏まえずに制定された条項も複数含まれている。金融危機から10年を経て,米国内では金融規制を全般的に再評価する活動が見られる。 第45代合衆国大統領に就任したドナルド・トランプは,行政命令を発令して米国内の金融規制全般の見直しを命じている。また連邦議会では,特に第114回連邦議会以降,連邦議会下院の共和党議員を中心にDF法および同法が導入した金融規制を修正する法案が多く提出されている。中でも2018年5月24日の大統領署名により,システム上重要な金融機関(SIFIs)の指定条件を緩和する法律が成立したことは注目に値する。この連邦法はDF法の中核であるマクロプルーデンス政策を見直しているが,両院の民主党議員からも賛同を得て超党派で成立した点で重要である。 本稿は第2節で,DF法が導入した主要なマクロプルーデンス関連規制を整理し,再評価の論点提示を行う。第3節では,17年に発令された大統領令等および財務省の報告書を中心にレビューし,行政府の方針を確認する。第4節では,主に第114回連邦議会と第115回連邦議会で提出されたマクロプルーデンス関連規制の改正を意図する主要法案を比較し,連邦議会での議論が変化していることを指摘する。
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