【経済学理論の虚妄】 「比較優位」というリカードの“詐欺的理論”が今なお生き延びている不可思議 − 「自由貿易主義」は「保護貿易主義」である 「国家破産15」ボードにも「比較優位」学説が散見されたので、それを俎上に乗せたい。
まず、「自由貿易主義」は、それが有利だと考える国家が主張する「保護貿易主義」だと考えている。 自由貿易がお互いの国民経済にとってメリットがあるという理論的根拠としては、「比較優位」という考え方が示されている。 「比較優位」は経済学で幅広く受け入れられている(流布されている)理論であるが、現実と歴史をとてつもなく捨象したモデルにおいでのみかろうじて成立するものでしかない。 ここで取り上げる「比較優位」の理論は、リカードの「比較生産費説」と「ヘクシャー=オリーンの定理」とし、その対抗理論(政策)としてリストの「幼稚産業保護論」を取り上げる。 経済学から少し離れ、経済が国民経済であり、国民経済が近代国家の基盤であることを考えれば、「比較優位」がどれほど“現実離れ”したものであるかわかる。 「比較優位」を根拠として、鉄鋼産業や機械産業を確立せず、それらを外国に依存した近代国家が、国際政治の荒波を乗り越えることができるのか? 「比較優位」を根拠として、食糧を外国に依存した国家が、農業の自然規定性と自然変動や国際政治の変動を考えたとき、それで長期的な国民生活の安定を維持できるのか? 諸外国と対等に交渉できる自立した国家をめざす統治者が「比較優位」を受け入れることはないだろうし、国民の安定的な生存を第一義とする統治者も、「比較優位」を受け入れることはないだろう。 また、グローバル化が進んだ戦後世界でも、日本を除く先進諸国は「比較優位」を度外視して食糧自給率100%をめざし、自由主義の権化と見られている米国でさえ、繊維・鉄鋼・家電・自動車・半導体と次々に対日貿易規制を強要してきたことなどを思い浮かべれば、「比較優位」が、建前や理論は別として、現実としては受け入れていないことがわかる。 「比較優位」が理論としては受け入れられていても、現実の近代世界史で「比較優位」に基づいて交易が行われたことはないというのが実態である。 (近代産業勃興期の英国も、相手国(インドなど)に強制するかたちで輸出増加を達成したのだから、相互が納得する「比較優位」で交易が行われていたわけではない) しかし、このような政治論的立場から「比較優位」を批判することが目的ではないので、経済論理に限定してその誤りを考察したいが、先にリストの「幼稚産業保護論」を見ることにする。 ■ リストの「幼稚産業保護論」 リカードの「比較生産費説」を批判したドイツのリストは、自由貿易があらゆる国に利益をもたらす政策だとしても、産業構造が不変で、短期静態的な条件でのみ適用できるとした。
例えば、ドイツが近代的な紡績工場を綿糸業の比較生産費を切り下げていけば、小麦の輸出国から綿糸という工業製品を輸出する工業国に変身し、生産が大きく拡大し、経済厚生水準も大きく向上すると説明し、国家の政策で、英国製品の輸入を抑え、綿糸の国内価格を引き上げることで綿糸工業の拡大を実現すべきだと主張した。そして、リストの考えはその死後1879年にビスマルクによって採用され、それが、ドイツの工業化を促進し、重化学工業で英国を凌駕するまでになった。 これは、19世紀末のドイツまで遡らなくとも、戦後の日本を考えれば理解できることである。 米国の産業に較べて劣っていた日本の産業がついには米国を凌駕するまでになった過程を考えれば、「幼稚産業保護論」どころか「幼稚国家保護論」に基づく政策によってそれが実現されたことがわかる。 戦後日本の高度成長期は、保護関税のみならず“舶来品は贅沢”という価値観まで国民に浸透させることで輸入を抑制し、外資の直接投資を原則禁止とし、輸出の増進を国策として取り組んだ成果である。 1960年前半までに「自由貿易」や「外資受け入れ」を政策として実行していれば、今では名だたる輸出優良企業のほとんどがなく、国民生活の水準も現実の歴史過程よりずっと下回るものになったはずである。 (安価な財の輸入により国民生活が一時的に上昇することは否定しない) ■ 戦後の発展途上国 「自由貿易」主義者が戦後世界を取り上げるときは、「幼稚産業保護論」で成功した日本ではなく、戦後独立を果たした発展途上国を対象とするだろう。 発展途上国はその多くが近代化をめざし、「幼稚産業保護論」に相当する「輸入代替工業化政策」を採った。
その具体的な政策は、保護関税・輸入数量割り当て・高い為替レートをベースに、育成対象の産業が生産する財の国内価格を引き上げ、その産業が必要とする資本財の輸入に必要な外貨を優先的に割り当てるという政策を採った。 しかし、このような政策が成果を上げることは稀であった。 戦後日本やかつてのドイツが成功を収める一方で、戦後類似的な政策を採った発展途上国がうまくいかなかった要因が何かを考える。 技術力・経営・活動力という歴史的蓄積の差異を総括的要因として上げることができるが、 ● 資本における有機的構成の高度化すなわち固定資本比率と規模の拡大
戦後とっても「産業革命」から既に100年以上が経過し、二つの世界大戦を経ていることから、産業の機械化が生産装置と言えるまで高度化しており、国際競争力を確保するためには、競争優位の規模を実現するためには厖大な資本投入を必要とする。 特定産業を優遇的に育成するためには、他の産業に犠牲を強いることである。 資金(外貨)が不足しているのが途上国だから、国際借り入れを行い、生産した財を輸出することで返済していなければならない。 途上国はGDPの絶対的規模が小さいのだから、対外債務の返済負担が過大なものとなる。 対外債務の過大な負担はイコール国民生活の耐乏を意味するから、国際競争力を確保できるほどの規模で産業を確立するのは無謀な試みとなる。 せいぜいが「輸入代替」という規模に制約され、国内市場向けに販売されることになる。 しかし、産業育成の資金は国際借り入れだから、その債務履行分だけは、国民経済の需要が減少する。 巨額の生産財を国際借り入れで輸入しながら、それによって生産される財が国内市場だけで販売されていれば、その産業の維持さえ困難な国民経済状況になる。 ● 自国通貨を高めに設定した為替レート 為替レートが“実力”以上に高ければ、国際借り入れも相対的に軽減でき、財の輸入も有利になる。 ところが、そのために財の輸出競争条件は厳しいものになる。 「輸入代替工業化政策」という国内市場に限定した考えであったが故に、途上国の産業は育成はうまくいかなかったと言える。 国際借り入れの返済のために国内需要は減少するのだから、最低でも、債務履行に必要な外貨を輸出で稼ぎ出さなければならないのである。 ■ 東アジアの経済成長 東アジア地域は、ラテンアメリカ・南アジア・中東・アフリカと違って経済成長を達成した。
東アジアが経済成長を遂げたのは、「比較優位」に従った結果でもなく、「輸入代替工業化政策」を採った成果でもない。 成功の要因は、日本を中心とした外資を積極的に誘致し、輸出拡大と国内需要拡大を成し遂げたことにある。 自前の産業育成であれば国際借り入れが必要になるが、外資であれば、生産設備の投資は外資自身が行い、そこで働く人々の教育だけ面倒を見ればいい。 極端な例をあげると、外資の工場で生産される財が全量輸出されるのであれば、財が国内に供給されることなく、そこの勤労者が得る賃金がまるまる国内企業にとっての需要として増加することになる。 財の輸出でデフレ圧力がかかることなく、需要の純増加により産業活動が活発化するインフレ傾向を生み出すことになる。 そのような経済状況であれば、需要“純”増加を梃子に国内企業の力を徐々に高めていくことができる。 そして、産業育成に国際借り入れを行ったり高価な生産財を輸入する必要がないのだから、為替レートは安い状態でいいというか、外資誘致のためにも安いほうが有利である。 国内企業の力が付いて輸出ができるようになれば、安い為替レートが国際競争力の支えとして貢献することになる。
このような発展途上国の経済成長論理は、ここ10年の中国経済を顧みれば理解できるはずである。 ■ リカードの「比較生産費説」 「比較優位」の先駆理論であるリカードの「比較生産費説」からまず見ていくことにする。 簡単に「比較生産費説」を説明すると、
「世界に英国とポルトガルの2ヵ国しか存在せず、生産している財も毛織物とワインの2種類しかないと仮定する。英国は毛織物1単位を生産するのに100人、ワイン1単位を生産するのに120人を必要している。
ポルトガルは毛織物1単位を生産するのに90人、ぶどう酒1単位を生産するのに80人必要だとする。そして、英国の全労動量を220人、ポルトガルの全労動量を170人とすれば、貿易が行なわれないときの2ヵ国の毛織物の総生産量は、英国1単位、ポルトガル1単位の合計2単位である。同様に、ワインの2ヵ国の総生産量も2単位となる。 英国 ポルトガル 2ヵ国の総生産量 毛織物 100人 90人 2単位 ワイン 120人 80人 2単位 総労働力量 220人 170人 生産性という視点で見れば、毛織物とワインともポルトガルのほうが優位にある。 直感的に考えれば、ポルトガルが両方の財を英国に輸出すればいいということになるのだが、リカードは、“より生産性が優れている財に特化して生産した方がお互いにより利益を得ることができる”と唱える。
ワインを基準にすると、 (100/120)0.83 < (90/80)1.13 だから、英国は毛織物の生産が相対的に得意ということになる。 毛織物を基準にすると、
(120/100)1.25 > (80/90)0.89 だから、ポルトガルはワインの生産が相対的に得意ということになる。 だから、英国は比較優位の毛織物に特化し、ポルトガルは比較優位のワインに特化したほうがいいとする。 そうすれば、
英国 ポルトガル 2ヵ国の総生産量 毛織物 220人 0人 2.2 単位 ワイン 0人 170人 2.125単位 総労働力 (220人) (170人) 2ヵ国の総生産量を見ればわかるように、貿易しない場合に比べて、総労働量に変化がないにもかかわらず、それぞれの財の生産量が増加する。」
このような“詐欺”的説明でリカードは、自由貿易がお互いの国民経済にとって有利なものだと主張した。
財の特性にふれることもなく二つの財だけを比較するだけで、国民経済の利害を論じるとはなんとも雑ぱく話である。 例として上げられたポルトガルは、当時英国の属国同然だったから反論をしなかったかもしれないが、まっとうな統治者がいればきちんと反論していたであろう。 仮想のポルトガル統治者による反論を試みる。 ● ポルトガルの仮想反論 「私どもの生産性のほうが毛織物でもワインでも高いということがよくわかりました。しかし、私どもの国では毛織物とワインの生産量と需要はぴったり合っていて、ご提案の内容によって賃金総額が増えることはありませんから、生産量が増えてもそれらの需要は増加しません。余った財はどうなさるのですか?全部お金に代えるとしたら、安く売るしかないんじゃないですか?」
「リカードさん、ではこうしましょう。英国の毛織物とワインの需要量はどれほどですか?私どもでその分を生産して貴国に輸出して差し上げます。もちろん、現状の労働力量では生産量を増加させることはできませんから、おたくの国から労働者に来てもらって結構ですよ。ほら較べて見てください。 英国 ポルトガル 2ヵ国の総生産量 毛織物 0人 220人 2.44 単位 ワイン 0人 170人 2.125単位 総労働力 ( 0人) (170人)
英国 ポルトガル 2ヵ国の総生産量 毛織物 220人 0人 2.2 単位 ワイン 0人 170人 2.125単位 総労働力 (220人) (170人)
ワインの生産量は変わりませんが、毛織物は2.2単位が2.44単位に増加します。うちで全部生産したほうが毛織物も生産量が増えますよ」
「それがおいやでしたら、英国はワインを、ポルトガルは毛織物をという分担は如何でしょう。毛織物は機械産業も必要ですし、毛織物や機械産業を別の織物業の発展にも貢献します。ワインの生産量が減ることについては、飲酒抑制を呼び掛けて何とかしますから大丈夫です」
現代のリカードは、ポルトガルの反論にどう答えるのだろう。
国民経済の発展が、農業就業人口の減少とそれに代わる工業就業人口と商業・サービス業就業人口の増加という現象を伴ったこと、金額であるGDPでも同じ現象を示し、現在の日本の農林水産業がGDPに占める割合は1.4%しかないことを考えれば、ポルトガルがワインに特化すれば、その後どういう“発展”を遂げなければならないかを推測するのはそれほど難しいことではない。 ■ ヘクシャー=オリーンの定理 比較優位を説明する理論としては、リカードの「比較生産費説」の他に、ヘクシャー=オリーンの定理がある。
ヘクシャー=オリーンの定理は、貿易する2国間で生産関数と消費関数が同一であったとしても、2国間に要素賦存比率の違いがあれば両国で異なる財に比較優位が発生して貿易が有効になると証明したとされるものである。 ヘクシャー=オリーンの定理が成立する条件は、 (1)2国2財2要素モデル (2)生産関数と消費関数は2国で同一 (3)市場は完全競争 (4)二つの国は一方が資本豊富国でもう一方が労働豊富国 (5)二つの財は一方が資本集約財でもう一方が労働集約財 (6)二つの要素は資本と労働であること。 (7)生産要素は国内では自由に移動できるが、国境を越えて移動できない
である。そして、要素賦存の違いが国内の財の相対価格に反映されるとする。 資本豊富国では、同一の生産関数の下では労働豊富国よりも資本集約財の相対価格が低く、労働集約財の価格が高くなる。
だから、各国は、自国に相対的に豊富にある生産要素を集約的に用いる財に比較優位をもつことになると結論する。 まず、この定理では、類似的な要素賦存比率である先進諸国間や途上諸国間の自由貿易の正当性を説明することができない。 先進国と発展途上国のあいだの自由貿易を正当化する説明として“限定的に”有効性を持っていることは認められるが、自由貿易ではなく、前述した外資導入による東アジア諸国の経済成長論理に較べれば劣った“経済利益”である。 また、発展途上国の位置づけを固定化するものであり、通貨的尺度で測られる資本増殖ではなく、財生産量の最大化や財価格の最小化が経済利益に直結すると考えたときのみ通用するものである。 日本経済や世界経済を見ればわかるように、「近代経済システム」では、財価格の極小化は経済利益をもたらすどころか、「デフレ不況」という経済的大災厄をもたらすことがわかっている。 「自由貿易主義」は、世界レベルで需要規模が大きく付加価値も大きい財の生産分野で国際競争力を誇っている国民経済の国家が主張する「保護貿易主義」なのである。 そして、それを高らかに唱え続けるためには、国内で完全雇用に近い経済状況が維持されていなければならない。 http://www.asyura2.com/2002/dispute3/msg/570.html 貿易とグローバリズム 05/3/7 リカードの「比較優位の原理」
ライブドアのニッポン放送買収劇は、色々な教訓を与えてくれた。日頃グローバリズムを唱えている日本のマスコミが一夜にして国家主義者に変身した。例えばテレビ朝日の広瀬社長は、政府が外資系企業による放送局への出資規制強化へ電波法や放送法の改正を検討していることについて「歓迎したい」と賛成する意向を示している。
今日、日本のマスコミは構造改革派やニュークラシカル経済学派に席巻されており、本来なら、市場至上主義を唱え、あらゆる規制に反対する立場のはずである。ところが自分達に降り掛かった災難に対してだけは、規制をして守れとはたいした了見である。まるで先週号で取上げた昔の社会党の政治家のように、日本のマスコミはダブルスタンダードである。 ところで筆者は、外資規制に賛成である。ただし放送業界だけに外資規制を適用するという考えには反対である(外国でもメディアに対して外資規制があることを根拠にしているらしいが)。全ての企業についても外資の規制を検討すべきと考える。そもそも筆者は、経済のグローバリズムそのものに疑問を持っている。筆者は、それぞれの国がメリットのある範囲で国際的な規制緩和を行えば良いという考えである。何でも規制を緩和すれば、国民が幸せになるという話は幻想と考える。
外国と交易することは、国とって良いことだという意見が強い。この考えの延長で、貿易をどんどん自由化したり、外国から大量の労働者の受入れることが良いことと考える人々がいる。日本にはFTAを積極的に進めることが必要と唱える政治家がいたり、経団連は単純労働者を日本も受入れるべきと考えている。 一般の人々の間には、素朴に日本人は国内に産出しない石油が使え、日本の製品が各国に輸出ができ雇用機会を確保できるという意見がある。しかし貿易というものは双方にメリットがあるから行われるのである。産油国は、その辺を掘ったら石油が出てきたのであり、そんなものを買ってくれる者がいることに感謝しているとも考えられる。交易が一方的に日本だけにメリットがあると考えるのはおかしい。 筆者は、経済のグローバリズムには光と影があり、今日、光の部分だけがやけに強調されていると考える。そこで本誌はしばらく経済のグローバリズムを取上げる。しかし経済のグローバリズムと言うと、テーマとして大きい。そこで経済のグローバリズムを「物の交易、つまり貿易」「資本の移動、つまり外資の進出」「人の移動、つまり外国人労働者」の三つの側面から論じたい。
まず「貿易」を取上げる。貿易が活発になることが、どの国にとっても良いという意見は誰もが主張したがるが、驚くことにこの根拠はとても薄弱である。このような考えの根本を辿って行くと、どうしてもリカードの「比較優位の原理」に到る。これについては中国との交易の関係で、本誌02/7/22(第261号)「中国の不当な為替政策」で取上げた。 「比較優位の原理」が適切に働くには、為替レートが適切な水準にある必要がある。しかし日本のように購買力平価より高い為替水準で推移している国がある一方、中国やインドのように購買力平価より著しく低い為替水準の国がある。さらに中国は、不適切な為替レートを米ドルにぺッグすることによってずっとこの不適切な為替レートを維持している。このようなことが許されるなら「比較優位の原理」が働くのではなく、全ての生産物は中国で生産することが有利になる。 だいたいリカードは18世紀後半の経済学者であり、当時は金本位制の時代である。つまり不適切な為替レートなんて考える必要がなかったのである。さらにリカードの唱える古典派の経済学では「生産した物は全て売れるというセイの法則」が成立っている。つまり「比較劣位」となって競争に破れても、生産者は他の物を生産する道があるという現実離れをした考えが根本にある。 やはり日本は内需拡大を 「比較優位の原理」は為替変動が適切でなければ適切に働かないだけでなく、古典派経済学の前提になっている完全競争下でなければ公正に働かない。ところが現実の経済では産業によって参入障壁の高さがまちまちである。参入障壁が高い産業は、政府の保護政策がなくとも自由貿易で損をすることがない。一方、参入障壁の低い産業は、貿易の自由化の悪影響をもろに受ける。
経済のグローバリズムと参入障壁の関係は、本誌でも 00/5/15(第162号)「経済のグローバル化とNGO」 http://www.adpweb.com/eco/eco162.html で述べた。参入障壁の高さがまちまちの状態のままで、単純に貿易の自由化を進めれば、貿易の自由化で恩恵を受ける人々と、損害を被る人々に別れる。たしかに日本において所得格差の広がっているが、これも貿易の自由化の進展と関係している。また参入障壁が低い産業(農業などが典型)は主に地方に配置されており、貿易の自由化の進展は今日の地方経済の疲弊と密接な関係がある。 また部品工業を取り上げれば、参入障壁が低い汎用品を生産しているところは貿易の自由化で損害を受け、特殊な部品を造っているところは影響が少ない。たしかに汎用部品なんか作っている時代ではないという意見もある。しかし全ての部品メーカが特殊部品の製造メーカに簡単に移行できるわけではない。ましてや中国のような不当な為替政策を行っている国の台頭を容認することは問題である。 農業についても、北海道のような工作面積広く米に頼ることのない農業をやっている所と、本州のように農家が依然米作にこだわりを持つ地域とでは利害が対立する。北海道は貿易の自由化を容認するかもしれないが、本州の農家は簡単には農産物の自由化を容認できない立場である。このように貿易の自由化と言っても、国民の利害は一様ではないのである。 中国やインドの為替政策は不正であるとか、日本国内の産業構造を見ても競争が公正に行われるはずがないと言っても、貿易の自由化は確実に進んでおり、所得格差は大きくなっている。しかし中国やインドが簡単に政策を変えるはずがない。今日の日本の風潮を前提にするなら、残念ながら競争にさらされやすい産業の人々は、これに対抗する必要がある。物事を深く考える政治家もマスコミ人も少ない今日、これらの産業に携わる人々は自分で防衛手段を考える他はないという立場に追い込まれている。
日本の教科書には、日本は貿易立国であり、貿易で恩恵を受けていると記述されている。しかし単純にこのようなことが言えない時代になっている。貿易黒字が溜まれば、円高になる。円高を阻止するため資本の海外流出を続けると、今度は海外に持つ資産が増え、これからの利息や配当収入が増え、これがまた次の円高要因になる。円高になれば企業は合理化に迫られ、リストラを行い競争力を回復することになる。 政府が内需拡大をしない今日では、企業は輸出に頼ることになる。しかしこれが将来、自分達の首を絞めるのである。つまり貿易が、誰にとってメリットがあるのか分からなくなっている。企業のメリットと言っても、企業の経営者なのか従業員なのか、はたまた株主なのか、メリットを受ける者が分からない。 今期、最高益を記録したある企業では賃金の引下げを計画している。会社の利益は伸びているが、これは国内の販売の不振を海外事業がカバーしたからである。つまり国内従業員の給料を上げる理由がないのである。国内従業員は会社の海外進出に協力し、技術の海外移転に協力した。しかし海外事業発展の成果は、国内の従業員には還元されないのである。特にこの会社は外資の持ち株比率が高く、安易な国内従業員の賃上げはできず、むしろ賃下げに動いているのである。
このように日本は貿易に頼る貿易立国で、貿易によって国民は幸せになるという単純な概念は今日では通用しない。輸出が伸びれば、円高が進み、さらに輸出先の国での設備投資が要請される。会社は成長し生き残るが、国内の従業員や下請け業者はそのうち犠牲になるのである。 受験秀才のマスコミ人や政治家は、教科書の記述通り、貿易が盛んになれば国民は豊かになると信じている。政府も、FTAを推進すれば日本の経済成長率を押し上げると言っているが、これも一時的なものである(それもほんのわずかな数字)。むしろ将来、この反動の方が大きい。 今日では企業の利益が、国民や国家の利益とはならない時代になっている。筆者は、貿易黒字は、日本のODAの額に見合うだけで十分であると考える。もっと言えば所得収支が黒字であるから、さらに貿易黒字く小さくて良い。むしろ日本は、内需拡大を行って、海外に依存する度合いを低くしても成立つような経済に転換すべきである。 来週は「資本の移動、つまり外資の進出」を取上げる。冷徹な資本の論理が正しく、これに逆らうのは資本市場の働きを歪めると言われている。たとえば「ライブドアの行動は、現行の法律の上で許されているのであり、これを否定することは市場を否定することになる」という意見はこれに沿っている。またこれがグローバルスタンダードとかアメリカンスタンダードと言われている。 しかし今回のようなだまし討ちのようなライブドア陣営の行動は、アメリカでも卑怯な行動と否定される可能性が強い。リーマンブラザースだって、米国なら今回のような商売を行っていたか疑問である。ハゲタカファンドだって、米国ではとてもやれないことを日本でやっている可能性が強い。それを日本のばかで思考力のない政治家やマスコミが、これがグローバルスタンダードと誤解しているのである。 http://adpweb.com/eco/eco380.html 中国の不当な為替政策 02/7/22
比較優位の原理 最初に、交易の有益性の理論的な背景を述べることにする。そのために分りやすい例えを用いる。まず北海道と鹿児島の交易である。
例えば北海道では、「じゃがいも」が極めて安く作れるが、「サツマ芋」の生産コストが物凄く高いとする。反対に鹿児島では「サツマ芋」を安く作れるが、「じゃがいも」の生産費がばか高いとする。このような場合、北海道は余計に「じゃがいも」を作り、これを鹿児島に売ることにし、反対に鹿児島は「サツマ芋」を増産し、増産分を北海道に売ることにする。そして北海道は「サツマ芋」、鹿児島は「じゃがいも」の栽培をそれぞれ取り止める。 このような交易を行うことによって、北海道と鹿児島の双方にメリットが生まれる。北海道は高コストの「サツマ芋」の栽培を止めることによって、生産資源を他の作物に振向けることができ、鹿児島も「じゃがいも」の生産資源を他の有益な作物に振向けられる。つまり北海道と鹿児島は、互いに低コストの生産物を交換することに、生産余力が生まる。さらにこのことによって所得の増加が可能になる。このように交易は、双方の所得増加と言うメリットを与えることになる。そしてここでポイントとなることは、交易が「双方」にメリットを与えると言う点である。 そしてこの交易によるメリットは、国内に止まらず、海外との交易にも広げることができる。このように互に生産コストが安い物を交換する、つまり外国と交易することによって双方の国に所得の増加がもたらされることを始めて理論的に説明したのがリカードである。そしてこれは「比較優位の原理」と呼ばれ、国際分業を推進する理論的根拠となっている。上の例の場合、北海道は「じゃがいも」が、そして鹿児島は「サツマ芋」が夫々「比較優位」と言うことになる。 人々がよく口にする 「自由貿易を推進し、交易を広めることは、双方にメリットがあり、これを阻害する障壁を除去することが大切」 と言うセリフの背景にも、このリカードの理論がある。WTOは、この精神に乗っとって、関税や補助金と言った貿易の障壁をなるべく低くすることによって、貿易の自由化を推進することを目的にした機関である。 たしかに先進国の間では、それぞれの国に得意な生産物があり、これを交易と言う形で交換すれば、互にメリットがあるるような気がする。しかし国際間の交易には、国内の交易とは決定的に違いことが存在する。貿易には為替が介在するのである。もちろん為替レートが適正な範囲に収まっているのなら問題はない。ところが日本のように購買力平価より著しく高く実際の為替レートが推移している場合には問題が生じる。
もっとも現実の円レートについては、購買力平価より高く推移している原因の大部分は日本に責任がある。まず国内需要が慢性的に不足しており、産業が輸出指向型になっていることがあげられる。さらに資本流出(為替介入による外貨準備金の増大も含まれる)による膨大な海外資産の累積があり、これらから発生する利息や配当が円高圧力となっている。本来なら、内需拡大を行ってこなければいけなかったのであるが、これが十分行われてこなかったツケが今日の円高となって跳ね返ってきているのである。 このように円レートはいびつな水準で推移している。しかし一方には、逆に購買力平価より著しく安い水準で推移している為替がある。中国の「元」やインドの「ルピア」などである。特に貿易量が増大している中国の「元」が大問題である。
01/5/28(第209号)「中国との通商問題」 http://www.adpweb.com/eco/eco209.html で取上げたように、世銀の調査によれば、元の購買力は実際の為替レートのなんと4.55倍もある。ちなみに日本の円は逆に0.78倍の購買力である。これらの数値を元に、円と元の購買力を比較すると、中国の元は日本の円の、実に6倍の購買力があることになる。
今日、公定レートでは1元が15円である。したがって元の本当の購買力は、6倍の90円と言うことになる。また中国の元は米ドルにリンク(ベッグ)しており、特に今日のような円高が続けば、1元は100円、110円になる可能性がある。たしかに世銀の試算はちょっと古いが、中国の「元」が極めていびつな管理が行われているはたしかである。 中国の工業の発展がめざましいことは認めるが、中国の輸出の急増は、品質の向上ではなく、このようなとんでもない為替レートの維持政策によるものである。中国の工場労働者の賃金は、日本の20分の1とか、30分の1と言われているが、これはあくまでも公定レートの換算によるものである。元の購買力平価で換算すれば、3分の1から5分の1と言うのが実態である。 これは本誌で以前から述べていることであるが、こと中国の物価は、6倍で計算すると実態に合う。例えば、中国のGDPは1兆ドルを越えている。これを購買力平価で換算すると6兆ドル超と言うことになり、日本のGDPをはるかに越えることになる。もっともこれでも一人当りのGDPは、日本の8分の1から7分の1程度である。軍事費も公表されている額が200億ドルであるが、米国の国防省は、この3倍以上の650億ドルと見ている。もし国防省の見解が正しいなら、購買力平価で換算した中国の軍事費は45兆円となり、これは50兆円の米国に匹敵する額である。たしかに中国は年間50基ものミサイル基地を増設しいる。とても額面の200億ドルの軍事費ではとても賄えないような軍備の増強を行っているのである。 最初の交易の話に戻す。
「比較優位の原理」が働くには、交易を行う両国の為替が適正な範囲に収まっている必要がある。 日本の場合、対先進国でも厳しい円高を強いられている。しかしこれは日本が内需に依存する経済を実現することを怠ってきた結果でもあり、甘受すべき面もある。しかし対中国は事情が大きく異なる。あまりにも中国は異常な為替水準(常識を逸した元安)を維持している。これでは日本と中国の間ではとても「比較優位の原理」が働かないことになる。今後はほとんど全ての生産活動を中国で行うことが合理的となる。 ところで本来一時的に為替水準が異常な水準でも、しばらくすれば、パラメータである為替が適正な値に動くはずである。中国は、対日本だけではなく、米国を始め各国との貿易収支は大きな黒字である。つまりこのような状態が続けば、元が強くなり、円を始め各国の通貨が安くなるよう動くはずである。しかし中国は米ドルにしっかりリンクさせることによって、安い元を維持しているのである。特に中国の元は国外に持出しが禁止されており、各国が売買することによって元の為替水準に影響を与えることができない仕組になっている。 為替操作の結果 ドイツのフォークスワーゲンは、昨年チェコに自動車工場を造ることを検討したが、最終的にこれを取り止め、ドイツ国内に工場を造ることにした。チェコの人件費は、ドイツの5分の1であり、これはフォークスワーゲンにとっては魅力的である。しかしチェコのインフラの状況などを勘案すると、やはりドイツ国内の生産設備を増強した方が良いと言う結論になったのである。
ところが中国の人件費は、日本の20分1、30分の1である。これではいくら中国のインフラが劣っていても、日本の製造業は全て中国に移転した方が良いと言う結論になる。 このように全く「比較優位の原理」が働かない状態である。まさに中国の為替政策は、日本を始めとして、各国に対する産業の破壊活動である。 実際、日本だけでなく世界的に中国の為替政策の犠牲者がどんどん出てきている。香港は超不況で失業率は7.7%となっており、東南アジアや台湾の生産拠点もどんどん中国に移転している。メキシコの保税工場も、中国製品の対米輸出の急増で、瀕死の状態である。 中国が不適正な為替を是正すれば、人件費はチェコ並(ロシアも同じくらい)になるはずである。こうなれば、フォークスワーゲンの例ように、中国に移転した方が良い工場もあれば、やはり日本に置いておく方が良いと言った住み分けも起るはずである。ちなみにフォークスワーゲンは、中国に生産拠点があり、「サンタナ」などを製造しており、中国で4割以上のトップシェアーを占めている。 筆者が、危惧するのは、中国のこのむちゃくちゃな為替政策があまりも問題視されていないことである。本誌が異常な中国の為替政策を取上げたのは1年以上も前である。それ以降、中国の経済や中国との通商問題は、色々なメディアで取上げられている。しかしほとんど全てが、この不適正な為替操作には全くと言って良いほど触れない。中国の経済を考える場合には、為替を問題にしなければ、全く意味がない。したがって中国の実状を伝えるテレビ番組も全てピントが大きくづれている。
一般の人々も中国の為替政策を放任したまま、「比較優位の原理」が働かない状態が続けば、大変なことになると言うことに気がついていない。
ただ人々は何故か日本の製造業がどんどん移転していく様子を不安げに見つめているだけである。そのうちこの流れも変わると楽観的に考えようと努めている。しかし中国の為替政策が変わらない限り、この流れは止まらない。5年後、10年後には大変な事態になっているはずである。 国際的に中国の為替政策に無頓着なのは、国際機関の主流派となっている人々がほとんど欧米人と言うことと関係があると筆者は考える。まず欧州各国は、国外との経済交流は大きいが、大半がユーロ圏内であり、単一通貨ユーロ導入で、経済は為替変動にあまり影響されない。一方、米国は、元々GDPに占める貿易額の比率が小さい。さらに米ドルは世界の基軸通貨であり、これにリンクしている通貨も多い。つまり米国も為替の変動をあまり気にしなくても経済活動が行えるのである。
米国が多少気にするとしたなら次のようなケースだけである。米ドルが高くなった時の国内産業、特に自動車メーカーからの不満が出る場合である。また反対に米ドルが安くなった場合の産油国からのクレームが起るケースなどである。しかし総じて米政府は、選挙の時でもない限り、あまり為替を気にしていない。このように欧米の経済は、日本ほどには為替水準の動向に影響を受けないのである。 実際、WTOは各国の為替の水準や為替政策をほとんど気にしていない。ここは重要なポイントである。WTOは、交易を活発化させるために障害となるのは、関税と補助金、そして各国の商慣行や国内産業の保護を目的とした法律などの非参入障壁だけと考えている。ところが中国が行っているいる為替政策は、関税と補助金などと比べられないくらい大きな参入障壁である。しかしどう言う訳か、どうしてもWTOはこの事実を公には認めたがらないのである。かろうじて中国のWTOの加盟と同時に、中国に対する特別のセーフガード (01/9/17(第222号)「対中国、WTOの特例保護措置」 http://www.adpweb.com/eco/eco222.html を参照)を認めたことに止まっている。どうも米国やWTOの認識はまだまだ甘いようである。
また政治家だけでなく、経済学者やエコノミストも為替に関する関心が低い(米ドルの大幅下落によって米国の製造業は持直したと筆者は考えているが)。ニュークラシカル派の代表的な存在(教祖の一人)であるロバート・ルーカスなどは 「米国に居ながらフランスのワインと日本のスシが味わえる」 「中国へ生産拠点が移るのも、中国人の人件費が安い上に製品の質が向上しているからであり、これは自然の流れである」 と極めて単純に経済のグローバル化を礼讃している。しかしこの程度の発言なら小学生の意見とほとんど変わらない。中国が政策として、とんでもない為替水準を維持し、世界中の経済を撹乱していることには、全く考えも及ばないのである。 教祖が教祖なら、彼の日本の信者も信者である。日本が農産物に対してセーフガードを発動すると途端に反応し、 「自由貿易に反する」とか 「日本は競争力をつけるべき(中国の為替操作によって人件費が20分の1や30分の1になっていては、競争力もへったくりもないであろう)」 とばかな発言をしている。中には「WTOの交渉の進展のためには、日本はもっと農業分野の開放をおこなうべき」と言っている人々もいる。日本の食料の自給率はたったの40%であり、この数値はほぼ世界最低である。これをさらに下げろとまじめに言っているのであるから、本当にあきれる。 日本が行うことは、まずWTOに為替水準が著しく異常な水準にある国に対して是正を求めるよう要請することである。もしこれが認められない場合には、日本独自で、為替不適正国に対する特別関税を設ける他はない。もちろん日本と同じ被害を被っている国と同一歩調をとることも考えられる。そこで中国がこのような動きにクレームをつけるようなら、中国との貿易を大幅に制限するか、最悪の場合は取り止めることも考えるべきである。中国との交易を止めても、今なら日本にはほとんど被害がないはずである。むしろ今日の状況が続けば、それこそ抜き差し成らぬ状況に追込まれるだけである。 最後に、中国の為替政策の変遷について述べる。今日の1元15円と言う為替レートが、何か合理的な経緯で決まっていると誤解している人々が多いはずである。しかしこれには合理性は全くない。実際、1,980年には1元は実に151円であり、1,990年には30円であった。つまり中国は実に簡単(適当)に「元」の信じられないほど大幅な切下げを行っている。ただ当時の中国経済が今日のように大きくなかったから誰も注目しなかっただけの話である。そして以前の為替水準なら、中国の人件費は1,980年で2分の1から3分の1であり、1,990年で10分の1から15分の1と言うことになる。
このように昔から中国は極めていい加減(適当)に為替を操作している。ところが何も知らない経済学者やエコノミストは、昔から中国の人件費は20分の1、30分の1だったと誤解しているのである。中国はおそらく東南アジア諸国との競争で勝てる水準を探りながら、為替をここまで操作してきたと思われる(たしかにここまで元が安くなれば、日本の企業も東南アジアから中国に生産拠点を移すようになった)。 「水が高いところから低いところに流れるようにコストの低い中国に生産拠点が移転するのは当然」 と判ったようなことを言っている識者と言われる人々が実に多い。しかしこの低コストは、中国政府が適当に決めていると言うことに気づくべきである。したがって万が一でも日本がものすごい努力をして、中国とのコスト競争に勝つようなっても、中国にとっては為替の切り下げをもう一度行えば済む話なのである。 このようなめちゃくちゃの中国の為替政策によって、企業倒産や工場の移転によって失業したり、不幸な目にあっている人々が相当いる。しかしマスコミやメディアには、不思議と中国の為替政策の不当性を指摘する声がない。外務省のチャイナースクールが話題となったが、どうも日本のマスコミもチャイナースクール化しているようである。来週はこのチャイナースクール化を取上げる。
小泉首相は、今日の深刻な日本のデフレ経済にもかかわらず、公共投資の削減や数々の公的支出の削減を進める方針である。およそ経済原則に反する政策のオンパレードである。しかしどうもマスコミはこれを悪い政策とは見なしていないようである(たしかに悪影響が現れるまでには時間がかかり、政策と結果の因果関係が分かりにくくなる)。 まず公共投資や他の支出を削減した場合、どう言う経済効果が期待されるのかを明示すべきである。もし財政赤字が減り、金利が低下するとか、投資や消費が増えると言う目算があるなら、そのような説明をすべきである。もう昨年のようないきなり補正予算を策定すると言ったみっともないことは止めてもらいたい。周りも小泉政権に景気対策を求めることを止めるべきである。本人の希望通りにさせる。そのかわり、結果についてはきっちり責任をとってもらうことが大切である。 これまでの小泉首相の行動を見ていて、筆者の知人は 「日本の首相は俺でもやれそうだ」 と言っていた。結果を見ようとしないのなら(失業が増えてもミスマッチで、株価が下落しても米国のせいにする)、どのような政策でも良いし、誰でも首相は勤まる。彼が進める政策の結果、日本の経済と社会がガタガタになっても、おそらく彼は「辞めれば良いのか」の一言であろう。彼を日本の首相に選んだ人々は、真剣に責任を感じるべきである。 竹村健一氏が、久しぶりにまとものことを言っていた。 「日本は、個人だけでなく企業も貯蓄を始めた。つまり巨額のその貯蓄は政府が使わざるを得ない。金利もこれだけ安くなったのであるから、政府は公共投資を減らすのではなく、今こそ増やすべきである。」 と言っていた。まさに正論である。 ただ今日、安易に大量の国債を増発することは難しい。たしかに国債利回りが3%(これでも国際的には一番低い金利)になるまで国債を発行すれば、数十兆円から100兆円程度の資金は調達できると思われる。しかし大手銀行だけでも70兆円から80兆円の国債を既に保有しており、利回りが3%(今日1.26%)と言うことになれば、相当大きな評価損を抱えることになる。地方銀行も大量の国債で資金運用している。預貸率が55%と言う銀行もある。残りの45%近くは国債と地方債の運用である。ここまで野方図に金利低下を放置していた政府の責任は大きい。
したがって今日、公共投資などの積極的な財政政策で、経済を活性化させ、銀行の不良債権問題を解決し、さらに財政再建を実現するには、我々が主張しているセイニアリッジ政策、つまり政府の紙幣発行特権(日銀の国債引受けも含む)を使う他はないのである。ところで竹村氏のこの「公共投資を増やす」と言う意見に対してマネックス証券の若い社長が、思わず反論しようとしていた。今日、公共投資の賛同者はテレビには出してもらえないのであろう。今日、「中国の為替政策」と「公共投資」はタブーである。このようなメディアの言論統制に勝てるのは、よほどの有力者に限られるのである。 http://adpweb.com/eco/eco261.html 関税以外の貿易障壁 11/2/21
WTOの弱体化
現実の経済を理論的に論じることは難しい。ましてや話が世界に及ぶと、整合性を持って経済を語ることが一段と困難になる。そのような事もあってか、中には議論の混乱を見越し、自分達にとって有利な政策を実現したいがために、とんでもない虚言・妄言を発する人々が出てくる。
TPPの議論に関しても、根拠が薄弱な意見がまかり通っている。例えば自由貿易こそが、日本にとって(日本だけでなく世界のどの国にとっても)極めて好ましいと主張する人々がいる。彼等はTPP参加こそ唯一正しい選択とまで喧伝する。 また日本のマスコミ人には「日本は貿易立国だ」という強い思い込みがある。彼等は経済が成長するには輸出を伸ばすことしかないとさえ思っている。しかし日本が高度経済成長していた時代は、主に内需が増えていた。むしろ低成長になってから、日本経済は外需に依存する度合が大きくなったのである。これについては来週取上げる予定である。 このように自由貿易で交易が活発になることによって、経済が成長すると思っている人が多い。この理論的根拠の一つがリカードの「比較優位の原理」であり、本誌は02/7/22(第261号)「中国の不当な為替政策」でこれを取上げた。
しかしこのリカードの理論は供給サイドだけで経済の成長を捉えている(需要は無限で生産したものは全て消費されるといった前提)。交易によって余った生産要素が他の物の生産に振り向けられ、経済が成長するといった理屈である。つまりデフレ経済の今日の日本には全く当てはまらない幼稚な経済理論である。 しかし教科書でこのリカードの「比較優位の原理」を学んだ学校秀才は、いかなる時にもこの理論が適合できると思い込んでいる。そしてこの自由貿易の障害が、関税であったり、また非関税障壁と呼ばれている補助金や各国の規制と考えている。 中でも最大の交易の障壁が関税という認識である。したがって関税撤廃を目指すTPPは、自由貿易の信奉者に熱烈に歓迎されている。しかしリカードの「比較優位の原理」が唱えられたのは、18、19世紀の牧歌的経済システムの時代を前提にしている。また後ほど述べるが、今日では関税以外の大きな貿易の障壁があることが常識になっている。 しかし第二次大戦後、自由貿易を推進する人々が常に問題にしたのが、この関税であった。GATT(関税と貿易に関する一般協定:WTOの前身)やWTOのメインテーマも関税であった。関税は単純であり目に見えやすいためか、これまでの交渉である程度まで引下げが実施されてきた。しかし補助金や規制などのその他の保護政策に話が及ぶと各国の利害がもろにぶつかり、話が進展しなくなった。
このため各国は、妥協が見込める国とのFTA(自由貿易協定)やEPA(経済連携協定)の締結に走り出している。しかしこれは一種の抜け駆けであり、世界中の国の一斉の貿易自由化を目指すWTOの精神に反している。FTAやEPAが結ばれる毎に、今日、WTOは弱体化している。
筆者は、今後の世界の貿易体制は、TPPに見られるようなグループ化による保護貿易と見ている。ところが自由貿易信奉者は、WTOの弱体化については何もコメントしなくなった。おそらくこれも、彼等の頭の中が混乱しているからであろう。 現行、日本の工業品の輸入関税率はほとんどゼロに近い。つまりTPPに加入した場合、相手国の関税が基本的にゼロになるのだから、輸出企業にとって極めて有利になる。したがって輸出企業に携わっている人々がTPPに賛成なのは理解できる。
ところでこれまで規制緩和や郵政改革などの改革運動では、幼稚な観念論者と強欲に自分の利益を求める者が結び付いていた。筆者は今回のTPP推進派にも同じ匂いを感じる(リカードの「比較優位の原理」などを信じるような観念論者と輸出で利益を得ようする者)。しかし今回は彼等がとんでもない矛盾を抱えそうである。 シー・シェパードのような説得不能な国 貿易の障壁が関税だけでないことは周知の事実である。WTOでも知的所有権といったものが問題になっている。しかし知的所有権は法律だけで縛れるものではない。その国の国民性というものが関係してくる。 先週号で取上げた環境問題も、今日、大きな障壁になっている。中国のように環境を無視する国は、環境を気にせず低コストで製品を製造し輸出することができる。しかし自由貿易の信奉者はこのような問題から逃げている。 しかし何度も繰返すが、筆者は、今日、世界貿易で最大の問題は為替操作と考えている。中国は大きな貿易黒字を続けながら、いまだに購買力平価の4分の1、5分の1の為替レートを維持している。実際、貿易の障壁の話なら、為替操作に比べれば関税なんて霞んでしまう。しかし為替操作はWTOで問題にならないし、自由貿易主義者も触れようとしない。 本誌は、昔、1人民元が1ドルだったことを指摘した。つまり1人民元が360円だった時代もあったである。今日の人民元レートは、対円で30分の1に減価しているのである。世界最大の貿易黒字国の通貨が、購買力平価の4分の1、5分の1でしか評価されていない異常な事態が起っている。
訳の分らない評論家は 「東京の中国人のアルバイトはよく働く」、 一方「日本の若者はニートとなって引きこもっている」 と発言している。彼等の考えでは、これが日本経済の低迷の原因らしい。しかし中国人のアルバイトとっては、中国の所得水準が低いことに加え、人民元が購買力平価の何分の1に維持されていることが大きい。
反対に日本の円が購買力平価より高く推移していることを考慮すれば、東京でのアルバイトの時給は、中国人にとって6,000〜7,000円程度に感じられるのである。時給が6,000〜7,000円ということになれば、日本の若者も目の色を変えて働くはずである。ニートも半減するであろう。 韓国も、近年、為替操作が目立つ国の一つである。KーPOPタレントの本国での低賃金が話題になっているが、これも彼等が日本に進出したことによって気付いたことと思われる。筆者は、これも少なからず韓国の為替操作が影響していると考える。 今日、一番のTPPの推進者は大手の輸出企業である。輸出企業がCMスポンサーとなっているため、メディアも概ねTPPに賛同している。しかしTPPはとんだ問題を孕んでいる。
これは先週号でも述べたように、TPPが中国排除を意識したものと見られるからである。既に中国に生産設備を移した企業にとって、このことが将来痛手になる可能性がある。せっかく中国を世界の輸出基地にしようと思っていた企業にとって、これまでの中国での設備投資が無駄になるのである。 TPP推進の母体である財界にも、中国との親密な関係を望む者が多い。しかし、今後、彼等はTPPを取るか、中国を取るかの選択に迫られる可能性がある。TPPの内容を見れば、両方を同時に取る(具体的には中国のTPP加入)ということはほぼ不可能である。
筆者は、日本のTPP参加の是非について、判断に正直迷っている。もし農業などへの悪影響が最小限に抑えられるのなら、TPP加入もしょうがないと思う今日この頃である。貿易を含め、国同士の付合いは、最終的には、国民同士の価値観の相違ということになると筆者は考える。 国民の価値観の違いが一定の範囲にある国だけがTPPに参加するのなら、筆者は日本もこれに加入しても良いと考えるようになっている。それにしても日本の周りは、領土問題に見られるようにデリカシーのない国ばかりである。日本はまるでシー・シェパードのような説得不能な国に取り囲まれているのだ。TPPに活路を見い出すのも悪くないかもしれない。もちろんTPP加入の目的は、自由貿易信奉者のそれと大きく異なる。 http://adpweb.com/eco/eco651.html
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