http://www.asyura2.com/17/jisin22/msg/467.html
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2012年の3月頃に報道に挙がった記事です。一応 貞観前後 謎の“首都直下 で検索して二重投稿ではないようなので、新たに投稿させて頂きました。
注目点は埼玉県の深谷で液状化被害が確認されている点です。関東平野の北部と言ってもいい地域であり、関東平野全体が被害にあった可能性があります。
http://blog.livedoor.jp/ukonnopower/archives/4555058.html
貞観前後 謎の“首都直下”
818年の地震による液状化の痕跡が見つかった皿沼西遺跡の住居跡。床が噴砂で切り裂かれている=
埼玉県深谷市(同県埋蔵文化財調査事業団提供)
http://livedoor.blogimg.jp/ukonnopower/imgs/f/a/faed211a.jpg
平安時代初期の弘仁(こうにん)9(818)年、記録に残る関東最古の大地震が起きた。マグニチュード (M)は推定で7.5以上。学問の神様、菅原道真が編纂(へんさん)した歴史書「類聚(るいじゅう)国史」に、すさまじい被害の様子が記されている。
〈山が崩れ数里の谷が埋まり、数え切れないほどの人々が圧死した。上野国(こうずけのくに)などの境では地震で潦(にわたずみ)ができた〉
「潦」は水たまりのことだ。上野国は内陸の群馬県なので津波ではない。激しい揺れで地盤が液状化し、地下の水と砂が地表に噴き出す「噴砂」が起きたらしい。被害は武蔵(東京都・埼玉県ほか)、相模(神奈川県)など関東諸国に及んだが、震源地は分かっていない。
この謎の“首都直下地震”を裏付ける痕跡が2年前、初めて発見された。群馬県境に近い埼玉県深谷市の皿沼西遺跡。住居の床などが噴砂で切り裂かれ、いたるところで壊れているのが見つかった。
倒壊した倉庫跡では、柱を立てた穴の中から土器が見つかり、その様式から9世紀第1四半期の集落と判明。
発掘した県埋蔵文化財調査事業団は、類聚国史との対比から818年の地震被害と結論付けた。
地震の翌月、嵯峨天皇は被災地に使者を派遣し、身分を問わず免税や家屋修復などの救済を行うよう命じた。
震災復興の先駆けだ。遺跡には建物や用水路を再建した跡もある。被災から懸命に立ち上がった人々の姿が浮かぶ。
しかし、復興への道のりは険しかった。被災地は16年が過ぎても「荒廃田」が広がっていたと、六国史の一つである「続(しょく)日本後紀」が伝えている。住居数が回復する本格復興には30年以上かかったようだ。
「考古学は恐ろしいことも、ありのまま分かってしまう。被害と復興の様子が生々しく伝わってくる。一つの時代が見えた」。同事業団の田中広明さん(49)はこう話す。
深谷市付近では、他の多くの遺跡でも平安初期の噴砂が見つかっている。地質学者で埼玉大名誉教授の堀口万吉さん(82)は約25年前、これらが818年の地震の痕跡の可能性があると報告していた。
「当時は誰も信じなかった。やはりそうか、という思いだ。遺跡で地質を丹念に調べると、その地域の変動史が見えてくる」
東大地震研究所教授の佐藤比呂志さん(56)は帯状に広がる噴砂の分布状況から、「周辺の活断層が動いた可能性が大きい」と指摘する。
9世紀の関東では元慶(がんぎょう)2(878)年にもM7級の大地震が起きた。「日本三代実録」によると相模武蔵の被害が甚大で、建物はすべて壊れ、多くの人々が圧死した。相模国分寺では仏像が破損し、同国分尼寺は崩壊したという。この地震もメカニズムなどの実態は不明だ。
神奈川県立高教諭の上本進二さん(60)は、同県中南部に延びる活断層「伊勢原断層」沿いの台地で、9世紀の遺跡から多数の断層や地割れを発見した。遺跡から地震の痕跡を探る「地震考古学」が専門の上本さんは「元慶の地震は伊勢原断層が動いたのだろう」と推測する。
平安期の関東を襲った弘仁と元慶の大地震。佐藤さんは、東北に巨大津波をもたらした貞観(じょうがん)地震(869年)の前後に、この2つが起きたことに注目する。
「東京周辺の地下には低頻度で動く活断層が結構ある。これらの活動は海溝型巨大地震にコントロールされている可能性があり、過去の癖を見破れば予測の精度向上に希望が持てる」
「貞観の再来」とも呼ばれる東日本大震災に続き、首都直下への懸念が強まる今日の日本。古代の地震から、 将来に備える手掛かりが見つかるかもしれない。(長内洋介)
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