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(回答先: メモ帳 _ 古代史 投稿者 中川隆 日時 2020 年 1 月 04 日 10:23:35)
縄文人は日本人の先祖ではない
縄文人は日本人の先祖ではありません。
弥生人は縄文人と大して変わらないのですが、古墳時代以降に渡来人が大量に入って来て
縄文時代の文化と古墳時代以降の文化は断絶しています:
日本人成立の謎。弥生人のDNA分析から意外な事実が判明
弥生人のDNAで迫る日本人成立の謎(後半) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=H1GFzg882d8
大阪市が地理的に誕生したのは1000年ほど前で、その前は海であり陸地は一部分だけでした。
大和川と淀川から上流の土砂が流れ込んで堆積し、数百年かけて海が埋まって現在の大阪市の土地が出現した。
陸地は自然に生まれただけではなく、労働者を大量に動員して人力で埋め立てて、労働者たちは定住して現在の大阪市民になった。
西暦300年代中期以降に神功皇后の三韓征伐があり、半島南部を支配下に置き、中部と北部の国を臣従させた。
神功皇后の孫にあたる仁徳天皇の時代に渡来人が急激に増え、大阪湾の埋め立て工事に従事した。
記紀によれば仁徳天皇自ら大阪に住居を構えて渡来人を視察するほど熱心で、当時の国を挙げた大事業だった。
自発的に渡来したのか連れてきたのかは不明だが、大阪湾を埋め立てた渡来人はそのまま大阪の大地に住み着き大阪市民になった。
その後も663年に白村江の戦いで敗れて百済が滅亡し、天智天皇は百済の王族や亡命百済人を大阪に受け入れた。
このように西暦300年代から断続的にハントウから渡来があり、渡来人がもっとも多く定住したのが大坂でした。
大阪は最初未開の地であり、仁徳天皇、天智天皇、秀吉や家康、明治政府などが居住を奨励した。
これには他の日本人と対立しないよう、渡来人を大阪に集めるという思惑もあったようです。
大阪市の中でも渡来系住人が多いのは昔海だった西側の区と、島だった中心部、海岸だった東側と言われている。
生野区は住民の半数あるいは3分の2が渡来系の子孫と言われていて、百済時代には百済の亡命士族が住んでいました。
天智天皇が受け入れた亡命士族は平安時代まで日本で栄え、その後武士や豪族として日本に同化した。
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