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真珠湾攻撃75年目の真実 〜なぜ対米通告は遅れたのか? 通説は「完全な誤り」だった
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50619
2016.12.30 近藤 大介 『週刊現代』編集次長 現代ビジネス
■通説は「完全な誤り」
日本時間の12月28日早朝、安倍晋三首相が、現職の首相として初めて真珠湾を訪問し、オバマ大統領とともに日米和解のスピーチを述べた。
このテレビ映像を、万感の思いで見守っていたのが、井口武夫元ニュージーランド大使(86歳)である。父親は、1941年12月の日米開戦時、ワシントンの日本大使館で参事官を務めていた井口貞夫元駐米大使。日米開戦当時、11歳だった井口武夫氏も、ワシントンで日本大使館が混乱していく様子を、鮮明に記憶しているという。
そんな井口氏が、生涯をかけて取り組んでいるのが、なぜ真珠湾攻撃の際の日本の対米通告が遅れたのかという問題である。
2008年に『開戦神話――対米通告はなぜ遅れたのか』(2011年に『開戦神話――対米通告を遅らせたのは誰か』として増補改訂)を出版した井口氏が、最新の研究によって明らかになった真珠湾攻撃と日米開戦の真実について明かした。
以下、井口氏との一問一答である。
近藤:安倍首相が真珠湾で、17分近くにわたるスピーチを行いました。これをお聞きになってどう思われましたか。
井口:非常に画期的な出来事だったと思います。それと同時に、これで日米開戦の問題にフタをして、おしまいにしてはならないという思いです。
近藤:真珠湾攻撃に関しては、アメリカ側から、宣戦布告のない奇襲攻撃だったとの非難を受けています。
東京裁判では、外務省幹部たちが「最後通牒のアメリカへの手交が遅れたのは、ワシントンの日本大使館の怠慢のせいだった」「日本大使館が最後通牒の案文の修正に手間取ったからだ」などと証言し、それらが通説となってきました。
でも、そうした俗説は誤りだったのですね。
井口:完全な誤りです。
陸軍参謀本部が米国に開戦の意図を察知されることを恐れて、最後通牒をアメリカ側に通告するのを遅らせようとした。それに外務省本省が協力させられたのです。
ハル・ノートに絶望して対米開戦を決意した日本政府は、米国に企図を察知されないため、身内であるはずのワシントンの日本大使館にも、対米開戦について秘匿し続けました。
井口:開戦直前の11月28日付の「844号電報」では、ワシントンの野村吉三郎大使に、「実質的ニハ打切トスル他ナキ情勢ナルカ先方ニ対シテハ交渉決裂ノ印象ヲ与フルコトヲ避ケルコトトシ」と警告しています。
また、米国との交渉最終期限になっても交渉打ち切りをまったく通報せず、交渉打ち切りの結論部分の最終覚書を、開戦当日の12月7日朝(ワシントン時間)にようやくワシントンの日本大使館が受領し、その後、同日午後1時にアメリカ政府に手交すべき訓令が届いたのです。
真珠湾攻撃開始は、その約20分後の同日午後1時19分です。
すなわち、ハワイ奇襲攻撃機の空母発艦まで交渉を続けるような外交姿勢を保持しながら、外交関係の断絶通告も最後通牒も出さないまま、真珠湾を爆撃したというわけです。
大使が米国側に対米覚書を通告したのは、同日午後2時20分のことでした。真珠湾攻撃から1時間が経っていました。その後、ワシントンの日本大使館が通告遅延の全責任を負わされた。これが真相です。
近藤:通告遅延の経緯を、具体的に順を追って説明してください。
井口:通告文書は、いわゆる「902号電報」ですが、全文が長かったため、日本時間の12月6日午後8時30分から14部に分けて、通告全文を、外務省電信課から東京電報局を経由して、ワシントンの日本大使館宛てに発電開始しました。1部から順に始めて、13部を7日午前0時20分に送信しています。
最後の14部は結論部分で、最重要の部分でした。14部は午前1時には打ち終えて、それから1時間以内に東京電報局から米国向けに中継される手筈でした。予定通りなら、ワシントンの日本大使館は、米国東部時間で12月6日のうちに、全14部と訂正電報を受領していたはずです。
つまり、ワシントンの日本大使館では、米国東部時間で6日深夜には全文を解読し、タイプ浄書できたのです。その時点で、真珠湾攻撃までまだ半日の余裕がありました。
近藤:ところが、そうはならなかったわけですね。
井口:なりませんでした。14部が東京から発電されたのは、日本時間の7日午後4時でした。軍部と外務省本省が、意図的に14部の発電を、15時間も遅らせたのです。
■軍部、恐るべし
近藤:前述のように、真珠湾の奇襲攻撃をアメリカ側に悟られることを恐れたわけですね。
井口:その通りです。さらに、ルーズベルト大統領の「親電」問題も加わりました。
日本時間12月7日正午、ルーズベルト米大統領からグルー駐日米国大使に宛てた、昭和天皇への親電が、東京電報局に届きました。
この親電を陸軍が差し押さえ、その解読が完了するまで14部を打電しないよう、外務省に圧力をかけたのだと思います。その間に、陸軍と外務省が親電を極秘に解読し、内容を検討した結果、14部に修正を加えたのでしょう。
グルー駐日大使にルーズベルト大統領の親電が届けられたのは、東京電報局への入電から10時間半後でした。
そしてグルー大使から親電を受け取った東郷外相が、天皇陛下にお見せする翻訳全文の決裁を終えたのは、それからわずか1時間15分後のことです。
陸軍などが事前に親電を解読し、要約文のようなものができていたからこそ、そのような神業に近い作業が可能となったのでしょう。
井口:また、14部が打電されたのが7日の午後5時であることとも、時間的に符合します。
14部は、原案では「合衆国政府が現在の態度を持続する限り今後交渉を継続するも妥結に達するを得ず」と、条件付きで交渉打ち切りを通告する内容でした。それを、「合衆国政府の態度に鑑み今後交渉を継続するも妥結に達するを得ず」と、手書きで改められました。
ルーズベルト大統領は親電の中で、友好と和平を訴えています。そのため原案のままでは、「米国が友好的態度を続ける限り交渉は妥結しない」と解釈されてしまうため、修正する必要があったのです。
近藤:わずか1日、2日のうちに、ずいぶんといろんなことが起こっていたんですね。
井口:軍部は、他にも細工をしていました。日米開戦の1ヵ月前にあたる1941年11月8日、ワシントンの野村大使から東郷茂徳外務大臣宛てに、重要訓電は時間的余裕をもって発信されるようにという要請をしています。
その中で、今後は重要電報には、冒頭に「very urgent」(大至急)と付けるようにと要請しています。なぜなら、「very urgent」とあれば、電報を受け取った米国の通信社が24時間対応して、深夜だろうが日本大使館に届けてくれるからです。それがただの「urgent」(至急)だと、他のものと一緒に翌日回しにされてしまうからです。
ところがなんと、大至急で処理すべき対米最終覚書の電報「902号電報」には、「urgent」(至急)の表示さえなかった。
そのため、ワシントンの日本大使館では、他の至急度指定の電報を優先的に解読するという混乱が生じたのです。
さらに、「902号電報」14部と訂正電報2通を米国政府に7日午後1時に手交せよという「907号電報」は、外務省本省での作成時には「大至急」となっていました。
ところが東京電報局で中継された際に、参謀本部通信課の干渉を受けて、「至急」に改竄されてしまいました。そのため、ワシントンの通信社が日本大使館に配達するのを、翌朝回しにしてしまったのです。
近藤:すべては東京の軍部によって仕組まれていたというわけですね。
井口:そうです。他にも、米国政府に手交した「対米最終覚書」が、ハーグ条約に従った国際法上の最後通牒ないしは開戦通告ではなかったという問題もあります。
開戦当時、東郷外相の下で戦争回避に尽力した山本熊一米国局長が、12月3日から5日にかけて、この原文を起案しました。その結論部分は、「将来発生する一切の事態に付ては合衆国政府に於てその責に任ずべきものなる旨合衆国政府に厳重に通告するものなり。」となっていました。
つまり、武力行使の可能性を警告する最後通牒の形式を取ったわけです。日本は、日露戦争でも第一次世界大戦でも最後通牒を出していますので、同様に国際法に従ったわけです。
ところが、12月6日の大本営・政府連絡会議で、軍部が、米国に開戦意図を秘匿するため削除を要求しました。結局、改まった結論部分は、「今後交渉を継続するも妥結に達するを得ずと認むる他なき旨を合衆国政府に通告するを遺憾とするものなり」。すなわち、交渉打ち切りのみを伝える文書にすり替わってしまったのです。
近藤:本当に、軍部恐るべしですね。
井口:そうなのです。今回の安倍首相の真珠湾慰霊の旅を契機として、開戦の真実を多くの人々に知ってほしいと思います。
- 対米通告は“宣戦布告”ではなく“交渉打ち切り”:攻撃開始前に手交していても騙し討ちと世論を煽ることができる内容 あっしら 2016/12/31 14:38:05
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