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三流の維新 一流の江戸
【第10回】 2016年12月28日 原田 伊織
「二度と過ちは繰り返しません」
の奇妙なフレーズは
どう生まれたのか?
徳川家康没後400年の年も終わりに近づいている。
江戸という時代は、明治近代政権によって「全否定」された。
私たちは学校の教科書で、「明治の文明開化により日本の近代化が始まった」と教えられてきたが、はたして本当なのか?
ベストセラー『明治維新という過ち』が話題の原田伊織氏は、これまで「明治維新とは民族としての過ちではなかったか」と問いかけてきた。
そして、今回さらに踏み込み、「2020年東京オリンピック以降のグランドデザインは江戸にある」と断言する。
『三流の維新 一流の江戸――「官賊」薩長も知らなかった驚きの「江戸システム」』が話題の著者に、「二度と過ちは繰り返しません」の本当の意味を聞いた。
正義の基準は意外と脆い
原田伊織(Iori Harada)
作家。クリエイティブ・プロデューサー。JADMA(日本通信販売協会)設立に参加したマーケティングの専門家でもある。株式会社Jプロジェクト代表取締役。1946(昭和21)年、京都生まれ。近江・浅井領内佐和山城下で幼少期を過ごし、彦根藩藩校弘道館の流れをくむ高校を経て大阪外国語大学卒。主な著書に『明治維新という過ち〈改訂増補版〉』『官賊と幕臣たち』『原田伊織の晴耕雨読な日々』『夏が逝く瞬間〈新装版〉』(以上、毎日ワンズ)、『大西郷という虚像』(悟空出版)など
私たちは、明治維新という出来事以降の時代、即ち、明治時代以降を「近代」と呼ぶように教育されてきた。
平成という現代は、まさにその近代の最中にある。
単なる時代区分の呼称としてだけのことなら、これは殊更問題にすべきことではない。
しかし、私たちが受けてきた教育、今も学校教育として施されている教育――これを「官軍教育」と呼ぶことについては、今やかなりの規模と広がりのコンセンサスが成立している――では、近代=先進的という意味を色濃く含ませて教え込まれるのである。
いい換えれば、近代より前の時代=前近代は「後進的」な時代として否定すべきものという教育が、今もなお為されているのだ。
このことは、日本列島の津々浦々、辺境の分校に於ける教育にまで、見事に徹底されている。
洋の東西を問わず、古来、戦(いくさ)の勝者が「歴史を書く」ことは、ごくごく普通のことであった。
多くの場合、勝者はその戦と戦に至ったプロセスの正当性を説くのだ。このことは、中国史に於いても西洋史に於いても何ら変わりはない。
このことについて、それは誤りだ、間違いだなどということにほとんど意味はないのだ。
一つには、正義というものにも普遍性がないからである。
このようにいうと、正義はいつの時代でも正義であろうと、意外に思い、異議を唱える読者も多いことだろう。
しかし、平成という今、私たちが正義としている価値や思想、行為は、ほとんどが西欧価値観によって正義とされているに過ぎないのだ。
正義の基準とは、意外に脆(もろ)いもので、時にそれは揺れ動くということを知っておかなければならない。
問題は、勝者の書いた歴史は一定期間を経て一度は検証されるべきものであるという宿命ともいうべき性格をもっているということだ。
人類の歴史を紐解けば、どの民族でも五十年、百年という時間を経てそれを行っている。
ゲルマン民族がヒトラー台頭の歴史を自ら厳しくみつめ直したことも、身近な一例といえるだろう。
「二度と過ちは繰り返しません」
という奇妙なフレーズ
ところが、一人近代日本人のみが、これを行っていないのである。
いや、例えば、広島、長崎への原爆投下という悲劇について、
「二度と過ちは繰り返しません」
と誓っているではないかという反論があるかも知れない。
しかし、これは実に奇妙なフレーズである。
私どもの世代は、幼い時からこの言葉を嫌というほど聞かされて育ち、今も八月になるとこの言葉はメディアを通じて露出頻度が高まる。
少年時代の私は、これを唱える日教組の教師に激しい反撥(はんぱつ)を覚えたものである。
このフレーズにいう「過ち」とは、何のことか。
原爆投下のことか。
いや、だとすれば、私たち日本人が「繰り返しません」と誓うのはおかしいではないか。
それを誓う必要があるとすれば、それはアメリカ合衆国国民であろう。
あの二発の非人道的といわれる殺人兵器を日本人に対して使用したのは、アメリカ人である。
このことは、明々白々な事実であり、つい昨日のことであって「アメリカ人が原爆を投下した」という事実については、何人(なんぴと)もこれを否定することはできないのだ。
いや、この場合の過ちとは、原爆投下を招いた戦争のことをいっているのだとする見解がある。
恐らく、このフレーズの解釈としてはこれが主流であろう。
二度と他国を侵す戦争は止めようというだけなら、私も全く同意である。
そもそも特定の偏った思想をもつ者を除いて、侵略戦争賛成などと考える者がいるはずがないではないか。
ところが、先のフレーズが「原爆投下を招いた戦争」のことをいっており、日本人として二度とそういう過ちを繰り返さないでおこうと誓っているのだとすれば、私たち日本人は原爆投下は私たち日本人にそもそもの原因があると宣言していることになる。
自分たちがあの戦争を仕掛けなければ、原爆投下はなかったのだと。つまり、悪いのは私たちであったと悔いているのだ。
ルーズベルトとトルーマンの正体
もし、あのフレーズの意味するところがそうだとすれば、冗談ではない。
繰り返すが、原爆を投下したのはアメリカ人である。
私は、原爆投下だけではなく、東京大空襲も、大阪、名古屋、徳島、青森、富山等々、日本列島各都市への空襲も、武器も何ももたない非戦闘員を無差別に殺戮することを明白に意図して行っている点で、重大な戦時国際法違反であり、「人道に反する重大な戦争犯罪」であると認識している。
つまり、ルーズベルトやトルーマンは、ヒトラーと全く同列の戦争犯罪人であるということだ。
因(ちな)みに、市民への無差別空爆によって死傷者を一人も出さなかった都道府県は数えるほどしかなく、それは、文字通りの絨毯爆撃であった。
こういうことをいうと、直ぐ私が大東亜戦争を賛美していると非難するのが戦後日本人の一般傾向であるが、それは非論理の極みと心得るべきであろう。
現実に、私はこのことで火炎瓶、硫酸瓶、塩酸瓶の標的にされてきたが、私が指摘しているのは、米軍による非戦闘員の無差別大量殺戮のことであり、そもそも大東亜戦争に走ったのは何故かという問題とは全く別に扱うべきアメリカの国家犯罪であるということなのだ。
即ち、大東亜戦争に走った原因、歴史的背景を具(つぶさ)に検証して世界の後世に資するかたちで整理、引き継いでいくのは私たちの民族としての仕事であり、それに対して原爆投下に代表される戦争犯罪は、独立してアメリカ人が戦争犯罪人として裁かれるべき問題であるということなのだ。
ここに、戦の勝者が歴史を書くということについて二つのことが混在している。
そして、それは今もなお全く検証して整理されていないのである。
昭和二十(1945)年以降、日本の教育、特に歴史教育を支配してきたのはGHQ(連合国軍最高司令部総司令部)である。
この問題は、それこそ今日の読者諸兄の生活、子どもたちの学校生活のあり方に直結する問題であり、本書の全編をこれに費やしてもまだ事足りないことだが、次回、簡潔に述べよう。
原田伊織(Iori Harada)
作家。クリエイティブ・プロデューサー。JADMA(日本通信販売協会)設立に参加したマーケティングの専門家でもある。株式会社Jプロジェクト代表取締役。1946(昭和21)年、京都生まれ。近江・浅井領内佐和山城下で幼少期を過ごし、彦根藩藩校弘道館の流れをくむ高校を経て大阪外国語大学卒。主な著書に『明治維新という過ち〈改訂増補版〉』『官賊と幕臣たち』『原田伊織の晴耕雨読な日々』『夏が逝く瞬間〈新装版〉』(以上、毎日ワンズ)、『大西郷という虚像』(悟空出版)など
http://diamond.jp/articles/-/111455
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