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皇居でバラク・オバマ米大統領を迎えられる天皇、皇后両陛下(2014年4月24日撮影)〔AFPBB News〕
天皇陛下が拠り所とされている法学と哲学 あの戦争を二度と繰り返さないために・・・
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/47716
2016.8.29 伊東 乾 JBpress
戦後45年を目前に「昭和」は「平成」と元号を変えました。これに伴って、少なくとも大きなメディアであまり頻繁に議論されなくなった1つに「天皇の戦争責任」が挙げられるでしょう。
議論がピークを過ぎてしまった理由は、明らかに「昭和天皇の死」にあるでしょう。責任の何のと言っても、すでに亡くなってしまったのだから・・・というのは、一般的な司法の責任追及にあっては首肯されるところかと思います。
しかし「天皇」の場合、事情が面倒なのは「個人」としてではなく、その位にあることによって責任が不可分に問われ得るところにあります。その根拠として欽定憲法を挙げることができるでしょう。
戦後70年を過ぎ、明仁天皇が8月8日、歴史的と言っていい放送を公開されました。
この日付の選択は広島と長崎の間の週明け月曜として選ばれたものと思われ、ソ連の対日参戦などは無関係と思います。しかし「8月」であるのは明らかに背景があることでしょう。
この放送を公開された背景には、明らかに「天皇の戦争責任」の問題があるように、私は考えています。
少なくとも天皇にとって「戦後」が全く終わっていないことは、文面の随所から読み取れます。
単に内面で祈る、といったことにとどまらず「象徴的行為」を通じて、国民の目に見え、互いに声が聞こえるところで共に喜び、共に痛みを分かち合うことによって「象徴天皇」が「象徴天皇」たり得るという、いわば「私の天皇実践」が、極めて慎重に言葉を選ばれながら、大変な賢慮とともに簡潔に示されている。
その背景に、私は、皇太子時代は東宮職参与として当時の明仁皇太子や浩宮と憲法や文化国家の法治体制を講じ、即位以降は宮内庁参与として天皇皇后と幅広い問題を縦横に議論された、故・團藤重光・東京大学教授の法理論との親和性を強く感じるのです。
■行為無価値と結果無価値
「行為無価値論」。ドイツ語の「Handlungsunwert」を和訳した言葉で、大変に意味が取りにくいですが、刑法上の考え方の1つです。
1931年、若干27歳の刑法学者ハンス・ヴェルツェル(1904-1977)は「目的的行為論」と呼ばれる概念の整理を発表します。
私は法律の全き素人ですので、間違いがあれば専門家にご指摘頂きたいと思いますが、以下はごく普通の日本国民の1人として理解しておいてよい最低水準として、團藤先生と朝日新書「反骨のコツ」を出させていただいた際の整理と理解を記します。ちなみに担当された編集Iさんも東京大学法学部出身の才媛でありました。
さて、一般に刑法では「犯罪の構成要件を満たす、違法で、責任を問われ得る行為」が問題とされるわけですが、その行為に目的性があったか、なかったかを「目的的行為論」では問題にします。
いまレストランで貴方がウエイターを呼ぼうとして手を上げたところ、後ろから歩いてきた客にぶつかって顔をはたいてしまったとしましょう。その結果、メガネが飛んで壊れてしまった・・・。
損害賠償の責任などは問われる可能性があると思います。これは民事に相当するように思います。でもここには暴力行為を働こうという作為、目的性はまず認められないでしょう。刑事犯としてはこうしたケースは「過失」として扱われるように思います。
逆に、ヤクザなり何なりの人が、明らかに作為をもってこぶしを振り上げ、顔面の寸前で止めて実際には殴らなかったとしたら、これはどうでしょう?
現実にはメガネがフッとんで壊れたり、顔に拳が接触などしなくても、十分暴力として成立している可能性があります。現実には反社会勢力の場合、殴るマネどころか、手をひらひらさせたり、名刺を出すだけでも、刑事責任を追及されることがある。
前半の例では、意図せず振り上げた手が結果的にメガネを壊してしまうわけですが、この「手を上げる」という行為に着目して刑法上の「マイナス要因=Unwert(無価値)」と見るのが行為無価値的な考え方です。
一方、結果として引き起こされた「メガネの破壊」に着目して刑法上の「マイナス要因=無価値」と見るのが結果無価値的な考え方です。厳密には正確でない部分があると思いますが、ここではひとまず、こんなふうに整理して、先の議論に進みたいと思います。
■目的的行為論さまざま:イスラム法からナチスまで
以下、素人の私に分かりやすいいよう、法哲学のホセ・ヨンパルト先生が教えてくださったたとえを記したいと思います。文責はもっぱら私にあります。
「行為無価値」と「結果無価値」の議論の原点の1つはイスラム法にあるそうです。それ以前の古代法、例えば有名な紀元前18世紀バビロニアの「ハンムラビ法典」は「復讐法」として知られています。つまり。
「目には目を 歯には歯を」
と定め、相手の目を棄損した加害者は自身も目を、歯を折ったものは歯を、同様の復讐を定めているわけです。
「やられたらやり返す」。野蛮の典型のようにも言われますが、目に対しては目までで、歯や命までは取られない、といった具合に罪に対する刑罰を成文化した法で定めたものというポジティブな評価もあるという。
さっきのたとえ話では、過失でも故意でも、ヒトの顔を叩いたら殴り返されても文句は言えないということになる。
こうした単純明快な復讐法を超え「内面」が問題になり始めたのが、巨大帝国の中に異教徒の共存を認めたイスラム法であった、とヨンパルト先生は言われました。
イスラム帝国の中で、コーランの教えに従わないユダヤ教徒やキリスト教徒であっても、必要な税を払えば生存と交通を認めるわけで、内心の自由と主体性への配慮が複合社会の中で法律に組み込まれていきました。
そんな中で「故意犯」と「過失犯」が区別され、先ほどのレストランでの過失のようなケースへの情状酌量が、法治のもとで可能になった。
そうしたイスラムの進んだ考え方が西欧にもたらされ、トマス・アクィナスによる「神学大全」が編まれて一般に普及、今日のEU全体の紐帯にまでつながっている経緯には少し前の回で触れました。
では「内面の自由」を認める法の考え方は、良い面ばかりだったのでしょうか?
ヴェルツェルの「目的的行為論」が発表された2年後の1933年、ドイツではナチス・ドイツが政権を奪取します。
実際には「行為」がないにもかかわらず、社会に有害なリスクをはらむ「内面」を持つ、としてナチスによる予防拘禁(Sicherungsverwahrung=preventive detention)が横行する背景を作った側面も指摘されています。
かつて私は團藤、ヨンパルト両先生の推薦でEU本部主催、ドイツ連邦共和国がホストする歴訪研修に読売新聞の田中記者などと共に参加させていただいたことがあり、折あるたびにこうした詳細に触れるようにしている次第です。
■「新派刑法学」と自由意志の否定
1859年、チャ―ルズ・ダーウィン(1809-82)が発表した「種の起源」は欧州を震源に全世界へと絶大な影響を及ぼします。端的には「社会全体も進化する」という観点から史的唯物論というマルクスの発想も展開したものと考えることができるでしょう。
イタリアの精神科医チェザーレ・ロンブローゾ(1835-1909)は1876年の「犯罪人論」で相当量の解剖などに基づくものであるとして生得的犯罪人説を主張、1885年には「国際犯罪人類学会」を設立します。
さらに著名な作曲家・ピアニストであるフランツ・リストの従弟でもあるハレ大学〜ベルリン・フンボルト大学法学教授フランツ・フォン・リスト(1851-1919)が社会政策の観点を加えて「新派刑法学」を完成(1889)します。
この年号に見覚えはないでしょうか・・・1889年、大日本帝国憲法が発布された年です。つまり「新派刑法学」は欽定憲法の誕生と前後して確立され、ダーウィン以降の最新科学に基づく「最も進んだ法学理論」として明治期の日本に導入されたわけです。
これに対して、フランス革命を挟む時期に、ベッカリーア、フォイエルバッハなどが展開した法理論は、社会契約説、またカントの批判哲学を背景として個人の理性を重視し、主体性と自由意志を尊重し「旧派刑法学」と呼ばれました。旧派も前期後期などと分けられますがここでは簡単に触れるにとどめます。
「純粋理性批判」などの著書からも明らかなように、カントは個人の理性を重視する哲学を展開しました。
これに対してダーウィン以降の科学を反映したと称する(今日では明らかに疑似科学として廃されている)ロンブローゾの犯罪人類学やフランツ・フォン・リストの新派社会法学は人間の自由意志を否定し、犯罪はそれを犯す遺伝要素を持った人間が犯罪を涵養する環境で実行に移したものと見做します。
犯罪とは、遺伝的犯罪者の「反社会的な性格」が表に現れたもので、問題になるのは個々の犯罪行為ではなく、犯罪者自身が問題となり、そういう人間が社会に害毒を及ぼさぬよう「遺伝的犯罪者」は社会から隔離して、予防的に拘禁することが公共の利益に合致する社会政策として適切である・・・。
このような観点から「法学」が展開され、ドイツで「遺伝的劣等民族」ユダヤ人への差別政策が公共事業として実施されたことは周知のことでしょう。
しかし、あまり強調されていませんが、1890年代から1945年までの戦前の日本でも、牧野英一(1878-1970)を筆頭に刑法の一大潮流として新派刑法学は勢力を誇り、そうした背景のもとで治安立法や翼賛体制が進んだことは認識しておいてよいと思います。
このあたりは直接ご本人からうかがって「面白いなぁ」と思ったのですが、一般的には牧野は新派刑法学、その弟子である小野清一郎(1891-1986)が新古典派(後期旧派刑法学)に転じ、小野教授が指導教官であった團藤重光先生も旧派=新古典派刑法学の観点から、戦後GHQと交渉し、新憲法下での刑事法制を確立(日本語・英語で刑事訴訟法を書き下ろされた)します。
團藤先生は率直に言って「小野先生」には非常に批判的で「牧野先生」を高く評価しておられました。
と言うのも、新派に立脚するとしながら「牧野先生」が社会全般や自然科学にまで広く目を配る大教養人で、「新派刑法」もこれを性善説的に解釈することで司法の現場にで「執行猶予」の積極的活用などを主張、「自由法学」を提唱し、若き團藤青年はその学統を継ごうと考えました。
これに対し、旧派に戻ったと言いながら「小野先生」は個人の理性による犯罪抑止の限界に対して、国による道徳秩序の維持指導の観点を強調することで戦前、戦時中の国家主義の暴走を許す面があったなどとして、團藤先生の評価は非常に辛かった。
これは満州事変の時期に学生として学び、2.26事件は法学部助手、直後から翼賛体制下で東大助教授を務め、戦後、年長の教授が軒並み公職追放となるなか、30代前半で単信GHQと交渉し、戦後日本の民主的な刑事司法制度をゼロから確立された、その中で抱かれた確信であったように思います。
「天皇の戦争責任」が問われたそのタイミングで、若干32歳の團藤助教授は、上が軒並みいなくなった東大法学部で日本の法治の大黒柱として踏みとどまった。
そこで團藤先生が心の支えにされたのが幕末の経緯であり陽明学であった、といった内容は、法律家にははなから問題にされないことが多いですが、ご本人は本当に大切に伝えたいと切望しておられました。
そんな「生き証人」であった團藤先生が、最高裁判事を退かれた70歳以降、東宮参与として皇太子ご一家と徹底して議論された法治国家と主体性の観点、そこでいったい何が語られたのでしょうか。長くなってしまいましたので続稿で検討したいと思います。
(つづく)
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