邪悪な支那から国を守るため憲法改正をお願いします。 民族の受難 通州事件の研究 第二次上海事変ー日中戦争の直前に起きた悲劇の知られざる全容 ●なぜ、今、通州事件なのか 通州事件への関心が日本人の間に高まっている。その背景には、最近の中国の動向への強い憤懣がある。 中国は日本固有の領土である尖閣諸島の領有権を主張し、絶え間なく日本の領海への侵入を繰り返している。南沙諸島には軍事基地まで設置した。激しさを増す沖縄独立運動の背後にも中国の影がある。 中国は歴史問題でも対日攻勢をかけ、2015年9月には抗日戦争を記念する国家行事を催した。さらにユネスコの記憶遺産に慰安婦問題と南京事件を申請し、2015年10月のユネスコの会議で、慰安婦の方は却下されたものの、南京事件のデタラメな資料が登録されてしまった。2016年は6つの国や地域を糾合して、慰安婦問題の申請を出し直すと伝えられている。 こうして中国は、一方で平然として海洋侵略を進め東アジアの覇権を目指しつつ、他方で相変わらず歴史上の弱者・被害者を演出し、事実無根の捏造した歴史をもって日本人が残虐非道な民族であるかのような宣伝を国際社会に拡げているのである。 これに対し、日本は近代において中国大陸でひたすら加害者だったのか、そうではないのではないか、さらに日本人こそが中国の残酷な暴力にさらされた被害者だったのではないか、という疑問がわいてくるのは当然である。こうした文脈の中で想起されるのが通州事件なのである。 通州事件とは、昭和12年(1937年)に、北京東方20kmにあった城壁都市の通州で起こった日本人虐殺事件のことである。当時、通州には、蒋介石の南京政府と一線を画す冀東(キトウ)防共自治政府が置かれ、日本軍と協力関係にあった。昭和12年(1937年)7月7日に勃発した盧溝橋事件のあと、中国は和平を求める日本に対し、絶え間ない挑発を繰り返して小規模な戦闘状態が起こったが、その中で昭和12年(1937年)7月29日に、通州に駐屯していた日本軍部隊が作戦行動に出たスキをついて、治安を担当する冀東(キトウ)防共自治政府の保安隊が反乱を起こし、無辜の日本人居留民二百数十人を惨殺した事件である。その無類の残虐さは、米国人ジャーナリストが「日本人の友人であるかのように警護者の振りをしていた中国兵による通州の日本人男女、子供らの虐殺は、古代から現代を見渡して最悪の集団虐殺として歴史に記録されるだろう」(ウィリアムズ『中国の戦争宣伝の内幕』2009年、芙蓉書房出版)と評したほどだった。 ところが、通州事件は戦後の言語空間の中で封印され、無視されてきた。岩波書店発行の『近代日本総合年表』は大判600ページを超える極めて詳細な年表であるが、1968年の第1版にも、1984年の第2版にも、ただの一行も通州事件についての記載がない。当時の新聞は号外を出し、私たちが確認しただけでも24件の記事が見つかっている。これほどの事件を一切無視するとは、あまりに偏った編集方針と言わなければならない。同年表は、1991年発行の第3版でやっと通州事件を記載するに至った。 今回、ネットで検索してみたが、現在市販されている書籍の中で、「通州事件」という単語が書名の中に入っている書籍はただの1冊もない。新書版だけでも毎月何十冊もの本が読者に向かってはき出され、どんな小さなテーマについても1冊の本が書かれるような時代に、あれほどの大事件を書名として取り上げた本がただの1冊も出版されていないとは、驚くべきことである。 ●通州事件を研究する3つの意義 私たち「新しい歴史教科書をつくる会」は、日本の歴史教科書の中で唯一、通州事件を記載した自由出版の中学校歴史教科書に関わっている。それは、日本の近代史(学習指導要領の定義に従えば、1853年から1945年までの期間の歴史)を理解するうえで、この事件を知ることが重要だと考えているからである。 通州事件を知り、研究することは、次の3点において重要な意義がある。 第1に、近代になって中国大陸に商用、軍事、開拓などで多数の日本人が出かけるようになってから、日本人は彼の地の特有な暴力にさらされ続けてきた。始まりは日清戦争で、捕虜になった日本兵は、日本人には想像を絶する虐待と辱めを受けたのである。近代における日本人受難の事件は大小合わせるとその数3000件とも言われている。それらの一連の事件を象徴する代表見本として通州事件を位置づけることができる。日本人が中国大陸でいかに残虐な目にあったか、その歴史を知ることで、日本が中国大陸で直面した特有の困難を知ることができ、日本侵略史観とは全く異なる真実のダイナミックな近代史像を再構築する手掛かりになる。それは自虐史観への強力な反論となる。 第2に、中国大陸における暴力の歴史と本質についての知識を拡げる端緒となる。中国大陸で繰り広げられた王朝の興亡史は、そのまま残虐な暴力の歴史であった。そうした理解なしに東アジアの近代史は分からない。また、南京事件などの宣伝が、彼らの「伝統」をそのまま日本軍に投影したものであることも、理解出来るようになる。 第3に、通州事件の出来事は、戦後チベットで大規模に再現され、ウイグル、モンゴルなどの周辺民族に対する残虐行為は今も続いている。だから、通州事件を知ることは、これらのアジア諸民族の苦難を知る手掛かりにもなるものである。さらに、日本は将来、もし中国の侵略を受け、「自治区」などの扱いを受けるようになったら、通州事件は必ず再現されると考えなければならない。まして、狂気じみた反日教育の中で、日本には原爆を落としてもいいのだとする心情を持った世代が育っているとも言われている。その意味でも、歴史を知ることは日本の安全保障、防衛、日本人の生命の保全に関わる重大問題なのである。 「新しい歴史教科書をつくる会」では、ユネスコの記憶遺産に通州事件を申請した。母体として「通州事件アーカイブズ設立基金」を作って活動を始めた。すでに数多くの資料が集まっているが、これを順次公開するとともに、いずれは通州事件殉難者慰霊碑を中国大使館の近くに建立したいと考えている。 ここでは、通州事件に関する資料のうち、犯行の現場を同時進行で目撃した日本人女性の証言記録を取り上げる。これは今のところ、この種の唯一の記録であり、それは2人の日本人の出会いから生まれたものであるという由来を述べてみたい。 ●1冊の本との出会い 5年ほど前のことだ。ある集会で知り合いの方に勧められてA5サイズの1冊の本を購入した。紫色の表紙に菊のご紋章があしらわれ、『天皇さまが泣いてござった』という不思議なタイトルがついている。著者については「しらべ かんが著」とある。これも不思議なお名前だ。本の後ろの奥付を見ると、著者のところに漢字で「調寛雅」と書いてある。著者は、調(しらべ)さんとおっしゃる方なのだろう。後に、調(しらべ)さんは佐賀県にある姓だと知った。 発行は平成9年(1997年)の11月である。教育社という東京の出版社の名前はあるが、取り次ぎを経由した本ではない。しかし、装丁は美しく、342ページの立派な書籍である。その上、序文を元侍従長の入江相政氏と元掌典長の永積寅彦氏が書いている。書名の天皇さまとは、もちろん昭和天皇のことだ。著者は佐賀県基山町にある因通寺というお寺の住職で、2007年に亡くなっている。 そこで、順番として、書名の由来から書いておこう。戦後、昭和天皇は日本全国をくまなく巡幸され、国民を励まされた。昭和24年(1949年)9月、九州巡幸にあたり、昭和天皇は自ら佐賀県の因通寺に真っ先に行幸する意思を示された。著者が戦前、8回も昭和天皇とお言葉を交わす機会があるなど皇室と深いご縁があったこともあるが、因通寺には洗心寮という名前の戦争被災児救護教養所があり、昭和天皇はその施設を訪れることを希望されたのだ。 引き上げ孤児40名を収容した洗心寮で、昭和天皇は、1人の女の子が2つの位牌を胸に抱きしめているのに目をとめ、お尋ねになった。案の定、2つの位牌は両親のもので、その子は、「父はソ満国境で名誉の戦死をしました。母は引き上げの途中病のため亡くなりました。・・・私は寂しいことはありません。私は仏の子どもです」と立派に答えた。天皇陛下はその子の頭を何回もなでておられたが、その時、天皇陛下のお目からはハラハラと数滴の涙がお眼鏡を通して畳の上に落ちていった。書名はこのエピソードからとられている。 ●戦争で日本人が蒙った惨劇 この本「調寛雅(しらべ かんが)氏(佐賀県基山町にある因通寺というお寺の住職で2007年他界)が書いた『天皇さまが泣いてござった』(平成9年(1997年)11月 教育社」の内容は、日本人が戦争でいかに耐え難い苦難を味わったか、いかに残虐に殺されたかという話題をいくつか集めたもので、東京大空襲、広島の原爆投下、満州におけるソ連の残虐、孤児の慟哭、などのテーマが取り上げられている。そして、その惨劇に耐え、乗り越えてきた日本人の姿が語られる。すべて、優しい語り口の話し言葉で綴られ、間然するところがない。見事な講話を聴く感覚で読み進めることができる。 著者はこれらの話題を扱う中で、戦後の日本人が、かえって日本人こそが野蛮な侵略をした世界一残虐な民族であるかのように教え込まれたことに強い危機感を持っていた。こうした罪悪史観の克服がこれからの日本人の課題であることを、切々と、諄々と、熱意を込めて語っていた。実際に名僧知識の素晴らしい講話を拝聴している思いになる。 そして、この中に、これから取り上げる通州事件の目撃者の話が載っていたのである。この本の105ページから157ページまでの50ページあまりが、「通州事件の惨劇 日本人皆殺しの地獄絵」という章になっている。始めに通州事件を問題とする文脈・背景が語られる。この中で、私の名前も1ヵ所出てくる。次のように書かれている。 【今回のこの通州事件の残虐行為を見ると、やはり支那人の持つ残虐性というものを極めて明白に知らしめられるのです。それは殺した相手に対して一片の同情もなく哀れみの心もなく、殺すということに、屍体をいたぶるということに、これ以上ない興味を持っているのです。日本人にはこうした死んだ人に対して残虐行為を行うということは習慣上あり得ないのです。よく南京事件のことどもが問題になり、日本人兵が支那人三十万人を殺戮したというように言われていますが、このことは全くのデッチ上げであり、妄説であります。これについては東大教授の藤岡氏が極めて明快に論じていらっしゃるのであります。】 光栄なことで、この本が出た年「平成9年(1997年)」の1月に、「新しい歴史教科書をつくる会」は発足している。注目すべきことは、通州事件と南京事件がセットで語られ、比較され、日本人と支那人の民族性の違いに言及されていることだ。この視角こそ私たちが今後の歴史戦を戦う上で共有しなければならないポイントである。 ●体験者・佐々木テンさんの境遇 浄土真宗本願寺派因通寺十六世住職であった調寛雅氏は、大分県にある西本願寺の別府別院でしばしば講話を担当する機会があった。そこに熱心に通ってこられたのが、通州事件の生きた体験者である佐々木テンさんという女性だった。「或るとき思いあまったような表情で次のような身の毛もよだつ通州事件の真実を語ってくれたのです」と著者は書き、そこから証言者の一人称の、長い告白文が続くという構成になっている。 佐々木テンさんは、大分県の祖母山(そぼさん)の近くに生まれた。地図で見ると、祖母山は大分、宮崎、熊本の3つの県境に位置し、標高1756メートルの山だ。家は大変貧しく、小学校を卒業しないうちに勧める人があって大阪に勤めに出ることになった。その仕事とは、「女としては一番いやなつらい仕事だった」と佐々木テンさんは表現している。そして、何度も人に騙された。20代の半ばになって、商売で大阪に来ていた沈(チン)さんという名前の支那人に出会い、請われて結婚した。昭和7年(1932年)2月のことで、翌月、夫とともに支那に渡った。 支那では、はじめは天津で暮らしていたが、昭和9年(1934年)の初め頃に通州に移住した。通州には日本人が沢山住んでおり、支那人も日本人に大変親切だった。しかし、と佐々木テンさんは言う。「この支那人の人達の本当の心はなかなかわかりません。今日はとてもいいことを言っていても明日になるところりと変わって悪口を一杯言うのです」。佐々木テンさんは支那人の二面性に早くから気付いていたようだ。 通州には冀東(きとう)防共自治政府があった。殷汝耕(インジョコウ)という親日家とされる人物が国民党の南京政府から離脱して、昭和10年(1935年)に創設した政権であった。1万からの保安隊を有して治安にあたっていた。佐々木テンさんは、日本人であることに誇りを持っていた。 ところが、昭和11年(1936年)の春も終わろうとしていた時、沈(チン)さんが、支那と日本は戦争をするから、これからは日本人ということを他の人に分からないようにし、日本人ともあまり付き合ってはいけないと注意した。そのうちにあれだけ親日的だった通州の町全体の空気が変わってきた。中でも朝鮮人が支那人に対して日本人の悪口を言いふらすようになった。日本人であることを隠していた佐々木テンさんはさんざん聞かされることになった。しかし、そんなことを日本の軍隊や日本人は全然知らないで過ごしていた。 昭和12年(1937年)になると、こうした空気はいっそう激しいものになった。6月頃には、「一種異様と思われる服を着た学生達」が通州の町に集まって来た。7月になると、「日本人皆殺し」「日本人は人間じゃない」「人間でない日本人は殺してしまえ」というような言葉を大声で喚きながら行進をする。大部分の学生は銃剣と青竜刀を持っていた。鉄砲を持っている学生もいた。ここで注釈をつけるなら、佐々木テンさんの言う学生とは、蒋介石が育てた教導総隊という名の、学生からなる精鋭部隊で、武装した軍隊であった。 昭和12年(1937年)7月8日の夕刻には盧溝橋事件で日本軍が大敗したとして大騒ぎをした。佐々木テンさんは家の外に出ることも出来ないほどになった。こうした中で、昭和12年(1937年)7月29日の惨劇を目撃することになるのである。 ●父娘に対する暴虐無残 昭和12年(1937年)7月29日の朝、まだ辺りが薄暗い時、佐々木テンさんは突然、夫の沈(チン)さんに烈しく起こされた。風呂敷2つを持って外に飛び出すと、町には一杯人が出ていて、日本軍の兵舎の方から猛烈な銃撃戦の音が聞こえてきた。8時過ぎになると、支那人達が、「日本軍が負けた。日本人は皆殺しだ」と騒いでいる声が聞こえた。佐々木テンさんは飛んでいって日本の兵隊さんと一緒に戦い死んでやろうというような気持ちになるが、沈(チン)さんに止められてしまう。止められたから命が助かったのだった。 9時過ぎ、誰かが日本人居留区で面白いことが始まっているぞと叫ぶ。日本人居留区では女や子供が殺されているという。沈(チン)さんの手を引いて日本人居留区の方へ走ると血の匂いがしてくる。沢山の支那人の中で、黒服の学生達と保安隊の兵隊とが一体となっていた。ここからは、調寛雅(しらべかんが)氏(佐賀県基山町にある因通寺というお寺の住職で2007年他界)が聞き取った佐々木テンさんのナマの声を引用する。 【そのうち日本人の家の中から一人の娘さんが引き出されて来ました。十五才か十六才と思われる色の白い娘さんでした。その娘さんを引き出して来たのは学生でした。そして隠れているのを見つけてここに引き出したと申しております。その娘さんは恐怖のために顔が引きつっております。体はぶるぶると震えておりました。その娘さんを引き出して来た学生は何か猫が鼠を取ったときのような嬉しそうな顔をしておりました。そしてすぐ近くにいる保安隊の兵隊に何か話しておりました。保安隊の兵隊が首を横に振ると学生はニヤリと笑ってこの娘さんを立ったまま平手打ちで五回か六回か殴りつけました。そしてその着ている服をいきなりバリバリと破ったのです。支那でも七月と言えば夏です。暑いです。薄い夏服を着ていた娘さんの服はいとも簡単に破られてしまったのです。すると雪のように白い肌があらわになってまいりました。 娘さんが何か一生懸命この学生に言っております。しかし学生はニヤニヤ笑うだけで娘さんの言うことに耳を傾けようとはしません。娘さんは手を合わせてこの学生に何か一生懸命懇願しているのです。学生の側には数名の学生と保安隊の兵隊が集まっていました。そしてその集まった学生達や保安隊の兵隊達は目をギラギラさせながら、この学生が娘さんに加えている仕打ちを見ているのです。学生はこの娘さんをいきなり道の側に押し倒しました。そして下着を取ってしまいました。娘さんは「助けてー」と叫びました。と、そのときです。一人の日本人の男性がパアッと飛び出して来ました。そしてこの娘さんの上に覆い被さるように身を投げたのです。恐らくこの娘さんのお父さんだったでしょう。すると保安隊の兵隊がいきなりこの男の人の頭を銃の台尻で力一杯殴りつけたのです。何かグシャッというような音が聞こえたように思います。頭が割られたのです。】 その後、父親の体を何度も何度も突き刺し、屍体を蹴り転がした兵隊と学生たちは気を失っていると思われる娘さんのところへやってくる。 【この娘さんは既に全裸になされております。そして恐怖のために動くことが出来ないのです。その娘さんのところまで来ると下肢を大きく拡げました。そして陵辱をはじめようとするのです。支那人とは言へ、沢山の人達が見ている前で人間最低のことをしようというのだから、これはもう人間のすることとは言えません。ところがこの娘さんは今まで一度もそうした経験がなかったからでしょう。どうしても陵辱がうまく行かないのです。すると三人程の学生が拡げられるだけこの下肢を拡げるのです。 そして保安隊の兵隊が持っている銃を持って来てその銃身の先でこの娘さんの陰部の中に突き込むのです。こんな姿を見ながらその近くに何名もの支那人がいるのに止めようともしなければ、声を出す人もおりません。ただ学生達のこの惨行を黙って見ているだけです。私と沈さんは二十メートルも離れたところに立っていたのでそれからの惨行の仔細を見ることは出来なかったのですが、と言うよりとても目を開けて見ておることが出来なかったのです。私は沈さんの手にしっかりとすがっておりました。 目をしっかりつぶっておりました。するとギャーッという悲鳴とも叫びとも言えない声が聞こえました。私は思わずびっくりして目を開きました。するとどうでしょう。保安隊の兵隊がニタニタ笑いながらこの娘さんの陰部を切り取っているのです。何ということをするのだろうと私の身体はガタガタと音を立てる程震えました。その私の身体を沈さんがしっかり抱きしめてくれました。見てはいけない。見まいと思うけれど目がどうしても閉じられないのです。ガタガタ震えながら見ているとその兵隊は今度は腹を縦に裂くのです。それから剣で首を切り落としたのです。その首をさっき捨てた男の人の屍体のところにポイと投げたのです。投げられた首は地面をゴロゴロと転がって男の人の屍体の側で止まったのです。】 一点だけ補足する。保安隊と学生の部隊は、思いつきで日本人の家に押し入ったのではない。保安隊は事前に居留区の全戸の日本人家庭を入口調査し、家族構成まで把握していた。初めから支那人によるこれらの犯行は、日本人に対する政治暴力として計画されていたのである。 ●「数珠つなぎ」とは 東京裁判に提出された支那駐屯地歩兵第二連隊小隊長の桜井文雄の証言には、「両手を合わせてそれに八番鉄線を貫き通し、一家6人を数珠つなぎにして引き回された形跡」という記述がある。手を数珠つなぎにする手口はよく語られるものだが、具体的にどうするのかは、よく分からなかった。佐々木テンさんの証言で初めて具体的に知ることができた。 【日本人の男の人達が五、六名兵隊達の前に立たされています。そして一人又一人と日本の男の人が連れられて来ます。十名程になったかと思うと学生と兵隊達が針金を持って来て右の手と左の手を指のところでしっかりくくりつけるのです。そうして今度は銃に付ける剣を取り出すとその男の人の掌をグサッと突き刺して穴を開けようとするのです。痛いということを通り越しての苦痛に大抵の日本の男の人達が「ギャーッ」と泣き叫ぶのです。とても人間のすることではありません。悪魔でもこんな無惨なことはしないのではないかと思いますが、支那の学生や兵隊はそれを平気でやるのです。いや悪魔以上というのはそんな惨ったらしいことしながら学生や兵隊達はニタニタと笑っているのです。日本人の常識では到底考えられないことですが、日本人の常識は支那人にとっては非常識であり、その惨ったらしいことをすることが支那人の常識だったのかと初めてわかりました。集められた十名程の日本人の中にはまだ子供と思われる少年もいます。そして六十歳を越えたと思われる老人もいるのです。支那では老人は大切にしなさいと言われておりますが、この支那の学生や兵隊達にとっては日本の老人は人間として扱わないのでしょう。この十名近くの日本の男の人達の手を針金でくくり、掌のところを銃剣で抉りとった学生や兵隊達は今度は大きな針金を持って来てその掌の中に通すのです。十人の日本の男の人が数珠繋ぎにされたのです。こうしたことをされている間日本の男の人達も泣いたり喚いたりしていましたが、その光景は何とも言い様のない異様なものであり、五十年を過ぎた今でも私の頭の中にこびりついて離れることが出来ません。そしてそれだけではなかったのです。 学生と兵隊達はこの日本の男の人達の下着を全部取ってしまったのです。そして勿論裸足にしております。その中で一人の学生が青竜刀を持っておりましたが、二十才前後と思われる男のところに行くと足を拡げさせました。そしてその男の人の男根を切り取ってしまったのです。この男の人は「助けてー」と叫んでいましたが、そんなことはお構いなしにグサリと男根を切り取ったとき、この男の人は「ギャッ」と叫んでいましたがそのまま気を失ったのでしょう。でも倒れることは出来ません。外の日本の男の人と数珠繋ぎになっているので倒れることが出来ないのです。学生や兵隊達はそんな姿を見て「フッフッ」と笑っているのです。】 証言者は、日本人と支那人の違いなど全てを語っており、何も言うべきことはない。 ●「はだしのゲン」の倒錯 佐々木テンさんの証言はまだまだ続く。中でも、妊娠7〜8ヶ月の妊婦の腹を切り裂き、胎児をつかみ出して大地に叩き付ける。内臓から腸を引き出し刻んで食べるなどの悪行は、身の毛もよだつもので、義憤に堪えない。 ここで、私は日本中の殆どの学校に備え付けられている中沢啓治著「はだしのゲン」という漫画の中から、4つのコマを引用したい。(中公文庫コミック版、1998年、第7巻152ページ) 右上:首をおもしろ半分に切り落したり 左上:銃剣術の的にしたり 右下:妊婦の腹を切りさいて中の赤ん坊をひっぱり出したり 左下:女性の性器の中に一升ビンがどれだけ入るかたたきこんで骨盤をくだいて殺したり この漫画では、日本兵が中国人の女性に対し、このような行為を行ったと糾弾している。それを受けて、主人公の中学生に、「その数千万人の人間の命を平気でとることを許した天皇をわしゃ許さんわい」などと吠えさせている。 しかし、この漫画に描かれていること、とりわけ下二段の、妊婦の腹を切りさいて中の赤ん坊をひっぱり出すこと、女性の性器の中に異物を突っ込むことは、通州事件で支那人がやったことなのであり、それだけでなく、済南事件などでも行われ、中国人の猟奇的性格を示す、有名な悪行の1つとなっているのである。それを日本人の所行になすりつけて糾弾するとは、中沢啓治氏は正常な思考ができたのか、無知故に単に騙されたのか、いずれにしても全国の学校からこんなインチキな作品は撤収するのが当然である。 日本人にはこのようなことはできない。日本人がこういうことをやったという証拠は、中国共産党が用意した語り部のニセ証言を書き取った本多勝一の『中国の旅』に出てくる話以外には何の確証もない。 通州事件で特別に記しておきたいことがある。通州事件の惨劇が報道されて日本の世論は激高した。支那撃つべしとの声が上がり、「暴支膺懲」というスローガンがうまれた。当然の反応である。しかし、あれだけのことをやられながら、日本人は支那人に全く危害を加えなかったのだ。 実のところ、在日中国大使館は、日本で通州事件が知られ始めた昭和12年(1937年)8月11日、在留民に日本からの引き揚げを勧告した。しかし、横浜や神戸の在留中国人に困惑が広がった。全く身に感じる危険がなかったからである。米国人ジャーナリストのウィリアムズも、日本帝国に住む6万の中国人は平和に生活していた、と書いている。「私は横浜のチャイナタウンを歩いたことがある。他の町でも遊んでいる中国人の子供を見つけた。危険や恐怖など何も知らない表情だった」(ウィリアムズ『中国の戦争宣伝の内幕』2009年、芙蓉書房出版) 日本人の並外れた道徳性の高さが浮き彫りにされている。 *暴支膺懲(ぼうしようちょう) 支那事変における大日本帝国陸軍のスローガン。「暴戻(ぼうれい)支那(しな)ヲ膺懲(ようちょう)ス」を短くした四字熟語。「暴虐な支那(中国)を懲らしめよ」の意味。 ●不当な疑いを差し向ける姑息 佐々木テンさんの証言は、インターネットで「小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず」氏の手で全文が転載されている。『天皇さまが泣いてござった』という本よりはネットによって、この証言を知った人のほうが多いかもしれない。 ところで、ここに憂慮すべきことがある。ネットでは、この証言の資料価値を疑う文書が掲載された。恐らくそのためであろうか、歴史研究者の間では、あれは資料価値がなく使えない、という意見があるようだ。実際、調寛雅(しらべ かんが)氏(佐賀県基山町にある因通寺というお寺の住職で2007年他界)の著書『天皇さまが泣いてござった』<平成9年(1997年)11月>が出てから、この証言を使った論文を読んだ記憶がない。佐々木テン証言を資料として使わせまいとする意図は、まんまと成功しているように見える。 ネットの文章をまともに取り上げるのもいささか気が引けるが、何らかの影響力があるとすれば取り上げておいた方がよいとも考えられる。 「通州事件に関する日本側証言は正確か?(Sさんの体験談)」と題する投稿について検討する。投稿した人は、1985年に死亡した元侍従長の入江相政氏と1994年に死亡した元掌典長の永積寅彦氏が1997年に出版された本に序文を書いているのは不自然だ、などという批判を書いている。何も不自然なことはない。この本は力のこもった大作であり、序文を書いてもらってから12年後に実際に出版されたに違いない。著者も出版の遅延について謝罪している文章もある。それでも著者は入江相政氏と永積寅彦氏の序文を生かすことで昭和天皇とのご縁を強調しておきたかったに違いない。こんなつまらないことを取り上げるのは、何とかこの本にケチを付けようとする魂胆がミエミエだ。 投稿した人は、<この中にあるSさんの体験談には通州事件について「五十年を過ぎた今でも私の頭の中にこびりついて離れることが出来ません。」と書かれていますので、Sさんの体験談は1987年以降に記載されたことになります。そうすると、元侍従長入江相政氏名義の序文は一体いつ書かれたのか、いささかミステリーです>とも言っているが、この著書は全部で342ページあり、佐々木テンさんの証言部分は50ページあまり(105〜157ページ)なので、序文は入江相政氏と永積寅彦氏の生前に書かれたもので、その後時間をかけて佐々木テンさんの証言部分とそれ以外の部分が書かれたと考えれば納得がいく。 投稿した人は、<日本の傀儡政権である冀東政府の首都・通州で、武器を持った学生が明らかな反日言動でデモを行うなど考えられません。もしあったなら駐屯している日本軍だけでなく冀東保安隊からも弾圧されたはずです。せいぜい数人の学生が街頭で抗日を訴え、当局が来るまでに引き上げる、といった程度の行動しかなかったはずです>とも言っているが、佐々木テンさんの言う学生とは、蒋介石が育てた教導総隊という名の、学生からなる精鋭部隊で、武装した軍隊であった。 冀東防共自治政府の成立などの大事件が通州で起こっていたはずなのに、それについての言及が全くないのが不自然であるかのような批判も書かれている。佐々木テンさんは、小学校教育も修了していないような境遇にあり、しかも慣れない中国で生活していた。日常会話はできたであろうが、中文の新聞や書籍を読めたとは到底思えない。こうした制約にある人の日常世界の構成を考えれば、大状況に言及がなくても何ら不自然ではないし、そもそもここでの話の目的や文脈から語る必要もなかったかも知れない。新聞記者や物書きとして佐々木テンさんは通州に行ったのではない。批判者はまるで前提となる状況を勘違いしている。 批判で当たっているのは、唯一、次の箇所だ。 【昭和十二年になるとこうした空気は尚一層烈しいものになったのです。そして上海で日本軍が敗れた、済南で日本軍が敗れた、徳州でも日本軍は敗れた、支那軍が大勝利だというようなことが公然と言われるようになってまいりました。】 出来事の前後関係が混乱している、というのだ。これはその通りで、私も読んですぐに気付いた。しかし、人は直接経験している日常世界と、知識として(多分)耳から入った情報とは次元の異なる扱いをしなければならない。知識として入った情報は、文筆をこととするような仕事に関係する者でもない限り、前後関係の錯誤はいくらでも起こるのだ。だからといって、経験部分の証言が疑わしいものになるわけではない。 ●後世への贈り物 私の感想は、ネットの懐疑論者とは全く正反対だ。もちろん、検証は必要だ。ただ、このケースについて、証言者の身元がハッキリしないので使えないという見解には反対だ。これほど経歴がハッキリしていて矛盾がない証言者は、そんなにいないのではないかと思えるほどだ。 佐々木テンさんは、通州事件を体験してしまったので、支那という国の恐ろしさに気付き、支那人である夫と離婚し、昭和15年(1940年)に日本に帰ってくる。各地を転々とし、晩年には大分県の別府に居を移して、西本願寺の別府別院によく参詣するようになった。最後は南海部郡で一生を終わっている。 50年間、口を閉ざして誰にも言わなかったのはむしろ当然である。人は余りに強烈な体験をすると、それを人に語ることが出来なくなるのだ。これは、東京大空襲などでも同じで、私の知り合いも、何十年も経ってからやっと語ることが出来るようになった、と言っていた。佐々木テンさんは、通州に住んでいたことすら人には言わなかった。 その佐々木テンさんが、調寛雅(しらべ かんが)氏(佐賀県基山町にある因通寺というお寺の住職で2007年他界)のお説教を聞いた。調寛雅氏は日本人が蒙った惨劇の話をしたであろう。佐々木テンさんは、この人なら自分の体験を受け止めてくれるのではないかと思ったに違いない。ある時、「思いあまったような表情で」体験を語り出したのである。 私は何度もこの証言記録を読んだが、読む度に何らかの発見があると同時に、佐々木テンさんという方の人間としての豊かさに心惹かれていく自分を感じている。この方は、十分な教育も受けられず、社会の底辺で暮らしてきた方であることは確かだろうが、物事の捉え方が非常に良識があって素晴らしい。支那人の信用ならない人格の両面性にいち早く気付く半面、日本人が支那人を見下していることにも批判的なまなざしを向けている。愛国心もあり、気っぷもあり、そして信心深い。立派な日本人である。ネットで、さもプライバシーに配慮するマナーに従っているかのように、「Sさん」などと匿名化して書いている人もいるが、佐々木テンさんは犯罪を犯したわけでもなければ、不祥事に関わったわけでもない。誇りある日本人として生涯を終えたはずで、「Sさん」などと呼ぶのは失礼な話だと思う。 むしろ私は驚嘆してしまう。苛烈な体験だったとはいえ、それを言葉にして詳細に表現できるということは、本来、優れた潜在能力の持ち主だったことの証である。またその証言を見事に文章に移し替えた調寛雅(しらべ かんが)氏の文章力もまた見事という他ない。この2つの才能の出会いがこの記録を生み、それが私達後世の者に歴史の真実の記録として伝えられたのである。 2015年12月15日、私は初めて佐賀県基山町の因通寺を訪れた。案内されて由緒のある境内を散策し、この件以外の多くの歴史を持っているお寺であることが分かった。現在の住職・調准誓(しらべ じゅんせい)氏にお目にかかって先代様の事績を伺った。この本『天皇さまが泣いてござった』の証言を今後も資料として扱うことの快諾をいただいた。 東京への帰路の機内で、いただいた書籍に目を通し、少し疲れて何となく「因通寺」という文字を眺めているうちに、電流のように走るものがあった。何ということだ。因通寺の因は、「因果は巡る」の因である。仏教思想において、大切な言葉であるだろう。そして、通とはまさに通州の通に通じるではないか。因通寺は通州事件の真相を伝えるべく因縁づけられていたと考えることができるのではないか。この本の著者は、その宿命ともいえる役目を立派に果たされた。人と人との出会いの不思議さに、しばし感じ入った次第である。 2016年5月末、通州事件をユネスコの記憶遺産に申請した際に、佐々木テン証言を資料の1つとして提出した。英訳して、その内容を世界中の人々が理解出来るようにする手はずになっている。 通州事件の惨劇「Sさんの体験談」 http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2717.html 通州事件の新聞記事 https://www.google.co.jp/search?q=%E9%80%9A%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E4%BB%B6&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=0ahUKEwjfjMDXnNfJAhXFkZQKHa19BCgQ_AUIBygB&biw=1366&bih=681 2011/8/10 通州事件に関する日本側証言は正確か?(Sさんの体験談) http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20110810/1312991181 2016.6.3 19:57 「通州事件」日本などの民間団体がユネスコ記憶遺産に登録申請 http://www.sankei.com/life/news/160603/lif1606030029-n1.html 反日活動の阻止を目指す「なでしこアクション」(山本優美子代表)など民間団体は3日、国連教育科学文化機関(ユネスコ)記憶遺産への2017年の登録を目指し、「慰安婦と日本軍規律に関する文書」と、日中戦争の発端となった盧溝橋事件直後に200人以上の日本人が中国側に殺害された「通州事件」の資料などを期限までに申請したと発表した。 「慰安婦」資料は日米の公文書など。日本枠2件は選定済みだが、複数国の共同申請は枠外でできるため米国在住日本人・日系人団体となでしこなどで申請。通州事件は「20世紀中国大陸における政治暴力の記録」として「通州事件アーカイブズ設立基金」(藤岡信勝代表)がチベット亡命政府前議員と共同申請。「慰安婦は性奴隷という誤解を解きたい」「政治利用ではなく一次資料を登録したい」などとしている。
[32初期非表示理由]:担当:要点がまとまっていない長文
|