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「子どもの貧困」報道の影響で、支援団体に助けを求める人々の問い合わせが殺到している。その結果起きている、皮肉な状況とは?
「子どもの貧困」報道でSOSが殺到する支援団体の悲鳴
http://diamond.jp/articles/-/111563
2016年12月16日 みわよしこ [フリーランス・ライター] ダイヤモンド・オンライン
毎日のように、子どもの貧困の実態や対策に関する報道が行なわれている。しかし貧困の実態が伝えられ、対策の存在が伝えられるだけでは、必要とする人と対策を結ぶホットラインをつくることは難しい。そして思わぬところに「ホットライン」が求められることになる。(フリーランス・ライター みわよしこ)
■「子ども貧困」支援活動の報道で関係のない団体が忙殺される現状
子どもの貧困に関する報道は、この数年で増え、内容も多様になった。貧困状態にある子どもたちの深刻な事例が報道されるだけではなく、支援団体や支援内容の多様さを伝える報道も増えている。
貧困問題にかかわる支援団体のスタンスや活動内容はさまざまだが、多くの団体は、貧困状態にある子どもたちへの関心を歓迎している。厳しい状況の真っ只中にある子どもたち・親たちに安心と安全を提供し、相談・介入・食事の提供など日々の直接支援を支障なく続けていくため、自団体の支援の現場や当事者たちへの取材を受け入れない団体も多いからだ。
しかし昨今、そういった団体の中からは、子どもの貧困と支援に関するメディア報道への困惑の声も聞かれる。
「他の団体さんの活動が報道されると、当方への問い合わせが増えたりします。たとえば、食糧などの物資を必要とする人々に配布する団体の活動が紹介されると、当方の相談窓口に『配布を受けたい』という問い合わせが多数あるんです」(中部地方・Aさん)
物資の集積・配布活動を行っている団体の多くは、個人や家族を直接の対象にしていない。当事者団体や支援組織に対して物資を配送し、その団体や組織が、必要とする人々や家族に配布する形態を取ることが多い。背景にあるのはたいてい、「その人々や家族と直接の接触があり、状況がわかっている団体でなければ、誰がどういうニーズを持っているか把握できない」という考え方だ。
もちろん、この方法には多くのメリットがある。たとえば「空腹を抱えた親子の元に年末向け食材として蕎麦が送付されたが、親子は蕎麦アレルギーだった」といった悲劇は、親子を直接知る団体や組織を経由させれば避けられるだろう。
「でも、困っている方々の中には、いま、そういう団体や組織とつながりのない方々も、たくさんいらっしゃるんです。そういう方々が報道で物資配布の情報を得て、ネットで懸命に提携団体を探し、連絡先を探して、当方に連絡をくださるんです。テレビで他の団体や組織の活動が報道されると、全国各地から1日に50件ほどの問い合わせがある場合もあります」(前出・Aさん)
自分たちが関与したわけではない報道によって、突然の対応が必要になってしまうのだ。しばしば「テレビ離れ」と言われる現在だが、当分テレビの発信力の強さは揺らぎそうにない。
■支援を求める人に「情報」は効率的に提供されているか?
しかし、その団体や組織との提携関係は、しばしば、数年前の話であったりする。
「その方々が探し出した情報は、何年か前の報道だったりするんですが、そこで『中部のBという団体が提携しているらしい』と知って、私どものウェブサイトを見つけ、そこに『ご遠慮なくSOSを』といった内容の一言を見つけて、問い合わせフォームにたどりつかれて……」(Aさん)
しかし、そうした場面で「こちらの団体では現在、提携していません」で済ませてしまうわけにはいかない。
「お1人お1人、どういうご事情なのかうかがいます。本当に緊急に食糧などを必要としておられるのかもしれませんし、生命や身体の危機が差し迫っているのに『食糧を送るだけ』というわけにはいきませんから」(Aさん)
もちろん、人手も時間も必要だ。連絡してきた相手の状況によっては、もともと予定されていた活動のための人手・時間などの資源を削って、その相手に向ける必要も発生する。
では、誰が何をすれば、どう心がければよいのだろうか。
「……どうなればいいんだろうかと思います。もちろん、報道されなければ良いわけではありません。直接支援でなくても、報道されることによって、困っている方に『助けてもらえるかもしれない』という情報が届いているわけですから」(Aさん)
ある団体の情報を、別の団体が直接伝えている場合もある。北日本で困難を抱えた子どもと親を支援する団体Cを運営するDさんは、遠く離れた関西や九州に住む困窮状態の親たちから、SOSを受け取ることがある。
「地元の支援団体に相談したら『ウチはDVを受けた方だけが対象ですから』、似たような状況の親子を支援していると報道された隣県の支援団体に相談したら『ウチは地域の方だけが対象ですから』という感じで、あちらこちらに相談しているうちに、『北日本のCという団体なら支援を受けられるかもしれません』と情報提供されるのだそうです」(Dさん)
それらの団体にも事情があるだろう。あまりにも人手が不足していたり、直接支援や直接介入はしないポリシーであったり、行政との連携から地域だけを対象にせざるを得なくなっていたり。
「さらに、『紹介しましたのでよろしく』という申し送りもない場合があります。私どもの団体を紹介しないでほしいというわけではないんですが……複雑な気持ちになります」(Dさん)
複雑な気持ちになりながらも、Dさんたちは、まずその人の話を聞く。必要なら支援に乗り出し、あるいは支援できる誰かか組織につないでいく。
「でも、SOSの数が圧倒的に多く、丁寧な対応は難しくなっているのが現状です」(Dさん)
複雑な感情を抱えながら、疲労を重ねていきながら、Dさんたちは出来るだけの対応をする。そこに、助けを求めている人がいるからだ。
「こういうときに抱く感情は、いつも同じです。その団体の人たちだって、別に悪い人じゃないし、 ほとんどは悪気がなく、『なんとかしなくては』という思いのある人たちなんです。 結果として、少しでも助けを受けられる子どもがいるのなら、それでいいのかな、と」(Dさん)
しかし、団体CやDさんたちにも、今支援している子どもたちと親たちがいる。すぐ近くに、助けを求める人々がいる。そして人手も時間も、あらゆる資源が有限だ。
■支援の必要量に対してあまりにも不足する資源の総量
人が動き、モノやカネが動かなくては、どうにもならないのが支援。そこは、情報を世の中に送り出す報道との決定的な違いだ。報道は、送り出した情報がもたらす影響のすべてに最終的な影響を持つことはできない。誤った情報を発信した時、謝罪や訂正はできるが、その情報を完全に回収することはできない。
おそらく現在、人・モノ・カネのあらゆる部分で、支援を必要とする人があまりにも多いにもかかわらず、提供される支援の総量があまりにも少ないのだろう。だから、「その支援を受けるには?」という情報が必死で探されることになり、相談窓口を設けている団体に、相談が殺到することになる。
もちろんAさんにもDさんにも、団体Bにも団体Cにも、「現在、その団体との提携関係はないから」「遠いから」「私たちの支援対象ではないから」という理由で相談を拒むつもりはない。でも、相談に対応するためには、人・時間・気力・体力、そして資金といった資源が必要だ。
そして、必死の思いで相談してきた人々に対し、「ああ、これでもう安心」という状況を提供できるわけでもない。その事情は、「子ども食堂」も無料の学習塾も同じだ。
「そういう活動には、『絆創膏にすぎない』という批判があります。一時しのぎ、根本的に何かを改善することはできない、ということです。今の私たちは、絆創膏のような活動ですらできていないと思います。困難な状況の中にいる子どもたちや親たちに、食事や一時の居場所を提供して、ゼロや少しだけのプラスにすることはできます。でも、すぐにマイナスになって、またゼロや少しだけのプラスになって、またマイナスになって……の繰り返ししかできていない、積み上がることがあまりにも少なすぎる、と思うこともあります」(前出・Aさん)
■一時的な処置であっても止血のための「絆創膏」は必要
たかが絆創膏、されど絆創膏。空腹を抱えた子どものお腹に食べものが入り、暴力に傷ついた母親が安心して熟睡できることには、大きな意味がある。
「私たちはせめて、ただの絆創膏だけではなく、その絆創膏を貼る一瞬の関わりの中で、経験でしか得ることのできない感覚を活かしていきたいです。その感覚で、多様な情報を捕らえ、必ず1人ひとりを大切にしながら活動を展開していければ、と考えています」(Aさん)
そのためには、絆創膏を貼り続ける活動の継続性を支える何かが必要だ。支援活動は、人によってしか支えられない。しかし、本人の自発的な意志や「やりたい」という気持ちによるボランティアに頼っていては、支援活動を安定させることは難しい。結局のところ、人件費による支援者の経済的安定は、まず、なくてはならないものの一つだろう。
■必要な助けが確実に届くように受け手がメディアを変えるには?
2016年11月21日、元高校教員の立場から貧困状態の子ども・若者に対する支援を続けている青砥恭氏(全国子どもの貧困・教育支援団体協議会代表幹事)、「子ども食堂」活動で知られる栗林知絵子氏(豊島子どもWAKUWAKUネットワーク理事長)、日本で初めてフードバンク活動を開始したチャールズ・マクジルトン氏(セカンドハーベストジャパン理事長)が、日本外国特派員協会で記者会見を行った。
会場では、フリージャーナリストの田中龍作氏が、11月8日に発表された安倍晋三首相のメッセージ「日本の未来を担うみなさんへ」の内容を「子ども食堂をやってくれるおじさんおばさんがいるからいいんだ、勉強を教えてくれるお兄さんお姉さんがいるからいいんだ、皆さんも頑張ってください」と紹介し、「すごく無責任なこと言っていますが、どう思われますか」と質問した。
栗林氏は「私たちがいくら言っても伝わらない人に、見えない問題を見えるようにしてくださったことは、まず大きな一歩」と評価した。しかし青砥氏は「安倍さんは子どもの貧困とか貧困問題には関心ないと思います」と述べ、理由を「子どもの貧困や貧困問題は票にならないから」とした。
続いて私が、「国難レベルの貧困の拡大に対し、国として予算を動かし、現在ある生活保護という制度を使いやすくすることが、最大かつ即効性ある対策ではないか」と質問したところ、青砥氏は「予算の総額が決まっているから使いづらい制度になっている」という現実について答え、栗林氏は「地域の主婦には制度は変えられないから、プラスのイメージを持ってもらえるような冊子を作った」という現在までの活動を答えた。
Aさん・Dさんは、どういう意見を持っているだろうか。
「役割を果たすべき組織が無責任だったり、『これくらいでいいだろう』という感じだったり、自らは動かず『仕組みづくりを』という姿勢だったりすると、心ある人たちがどんどん疲弊していくんです」(Aさん)
「まず、支援活動を地道に続けていけるように、思いをつぶさないようにすることが必要だろうと思います。私たちは実際に、思いも熱意もある人たちが、疲れ果てて消耗の末に現場から消えそうになっていくのを見ていますから」(Dさん)
しかし、あからさまな悪意を持った誰かがいるわけではない。問題はせいぜい、関心不足や認識不足程度だ。そのことが、解決をさらに困難にしている。
「私自身、仲間の善意があって、支えたり支えられたりしあっている実感があるので、なんとか目の前の諸々に向き合えています。色々な人、色々な思いの多様性でカバーし合えることが、きっとたくさんあるんだろうと思います。今はまだ、SOSの数が圧倒的に多すぎて、助けようとする側を支えたりカバーしたりする力は、全く足りていないと思いますが」(Aさん)
■日本で「貧」をただちに解決できるのは生活保護しかない
私はやはり、生活保護が必要とする人々に漏れなく利用され、保障される生活の水準が相対的貧困ではないことを望みたい。「貧」と「困」のうち「貧」だけなら、お金があれば解決する。「困」は、心ある人々とのつながりや、時間・気力・体力を使った関わりによってしか解決しない。その人々を支えるためにも費用が必要だが、莫大な費用というわけではないだろう。少なくとも「困」を解決する関わりなら、「貧」「困」の両方を同時に解決するほどの労力を必要としないはずだ。
日本で「貧」をただちに解決できる制度は、生活保護しかない。日本の現在の政策の動きから見て非現実的であることは承知の上、やはり「貧困問題を解決するため、生活保護費に充分な予算を」と言い続ける必要がありそうだ。むろん、「賛成して欲しい」とは思っていない。
しかし、貧困の解決につながりそうな、草の根的な様々な活動がメディアで紹介されるとき、「それを必要とする人が見て助けを求めることはできるのか、助けを求めた人のところに助けは確実に届くのか」という視線を、少しだけ向けてもらえないものだろうか?
メディアには、発信内容が引き起こす結果に最終的な責任を取ることはできない。でも、必要な情報が必要とする人に届いて利用される確率を増やし、予期しないところに思わぬ負荷をかけてしまう確率を減らす努力ならできる。受け手が望めば、メディアはいつかそうせざるを得なくなる。
次回は、カジノ法が可決された直後というタイミングで、改めて生活保護とギャンブルについて考えてみたい。
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