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ニューロビジネス思考で炙り出せ!勝てない組織に根付く「黒い心理学」 渡部幹
【第61回】 2016年10月26日 渡部 幹 [モナッシュ大学マレーシア校 スクールオブビジネス ニューロビジネス分野 准教授]
電通過労死事件が突きつける「幸せな働き方」の意味
理性のタガが一瞬外れただけ…
過労自殺が他人事ではない理由
本連載「黒い心理学」では、ビジネスパーソンを蝕む「心のダークサイド」がいかにブラックな職場をつくり上げていくか、心理学の研究をベースに解説している。
「勝ち組中の勝ち組」でも自殺まで追い込まれる−−電通過労死事件は、日本の職場が恒常的に抱える闇を浮き彫りにした(写真は本文とは関係ありません)
先日の、電通社員の過労死事件は、メディアでも大きく取り上げられたため、ほとんどの読者の方はご存じだろう。
東大卒、電通入社、容姿端麗、と世間から見れば「勝ち組」と呼ばれる要素をいくつも持っている女性が、よりにもよってクリスマスの晩に投身自殺をしてしまったというニュースは、かなりセンセーショナルに報じられた。
自殺をするまでに追い込まれていたことは、SNSのメッセージに端的にあらわされていたため、彼女の置かれていた状況は多くの人に知られることになった。
昔、鉄道会社に勤めている友人から聞いた話だが、飛び込み自殺をした客の遺留品は、とても自殺した者のそれには思えないそうだ。定期券もまだ長期間残っているものが多いし、上演予定のコンサートチケットや映画の前売り券が出てくることも珍しくないという。残されたスケジュール帳にも、几帳面なほど、死んだ後の日々のスケジュールが書き込まれていることが多いという。
また、自殺直後の人の脳の状態を調べたところ、あらゆる部位で脳内免疫細胞が通常では考えられないほど異常活性化していたという報告もある。自殺時の脳の状態は「異常」なのだ。
つまり、人は自殺しかねないような大きなストレスにさらされていても、普段は理性を働かせて、通常通り日々を過ごしているということだ。実際に自殺に走ってしまうのは、幾重にもある理性的なタガが、何かの理由ですべて外れてしまった一瞬である。そのときに衝動的に自殺に走ってしまうのだ。
彼女のSNSのつぶやきを読むと、まさにその通りだと思った。相当なプレッシャーとストレスがあったが、それをきちんと客観化して、SNSを読む人の立場になって書いていることがわかる。自分がつらいときにも、なぜつらいかを外部の人にわかるように書いている。これをやるには、一度自分の状況や感情を外側から見て、言語化する必要がある。それができている間は、自分の中にある「死んでしまいたい」という気持ちを抑えることができていたのだと思う。
だが、慢性的な睡眠不足と疲労の上に、プライベートでもトラブルがあり、仕事ではさらに過酷な状況になったとき、人は正常な判断、つまり自分を客観化することができなくなる。彼女のすべての理性のタガが外れたのが、一瞬だったとしても、それが彼女を自殺行動に走らせてしまったのだろう。
この事件は痛ましいとしか言いようがない。だが、この問題がこんなに長く議論されている理由は、「勝ち組中の勝ち組」でさえ自殺に追い込むほど、日本の職場がきついという感覚を、皆が共有できるからだ。日本の職場が恒常的に抱えている闇が、この事件に端的に示されたのだと筆者は思っている。
仕事がつらくて、きつくて、辞めてしまいたいけれど、いろいろ考えるとやめることはできない。上司は理解してくれない。それどころか自分を追い込んでくる。同僚とは通り一遍の関係だけ。かといってプライベートが充実しているわけではない。そもそも仕事が忙しくて、充実したプライベートなど送れる余裕などない。こんな人は、過労死の問題を他人事とは思えない。
誰もが答えを知りたい
「幸せな働き方」とは何か?
これまでの報道とネットを中心とした意見を見ると、結局のところ、過労死を巡る一連の議論がクローズアップされている理由は「幸せな働き方とは何か」という問いに対する答えがないことに集約されるのだと、筆者は考えている。
かつて、リーマンショックやバブル崩壊前の日本では「幸せな働き方」には明確な解答があった。
一部の例外を除けば、それは「いったん就職した職場で定年まで働き続けること」であり、そのためにはクライアントや上司に理不尽なことを言われても我慢し、残業も進んでやり、会社に忠誠心を持つことが重要だった。仕事上のスキルや能力よりも、そういった忍耐や体力を身につけることの方が重要な職も多かった。
そして実際に、こうした努力は報われることの方が多かったのも事実である。年功序列制と終身雇用制に守られ、能力はそこそこでも、我慢していれば昇給し、管理職になれた。それに正社員になって、安定した職を持つことが、親を安心させる何よりの近道だった。
承知の通り、今はその働き方のネガティブな側面のほうが大きい場合が多い。にもかかわらず、今の中高年層の中には、いまだにそのドグマを持ったまま、若い社員にそれを強要する者が少なからずいる。それが部下の過労死やうつを助長しているのは間違いない。
一部の例外はあるだろうが、ほとんどの若い社員にとって「幸せな働き方」は定年まで耐え忍ぶことではない。何が幸せな働き方かは個人によって違うのだろうが、基本的には「自分が面白いと思える仕事をやりつつ、スキルとキャリアを磨き、(会社や社会に対して)何らかの貢献をし、将来の生活に困らないように」する、という点は共通して持っているだろう。
そして、現実はそれとはほど遠いことも、また若い世代は感じている。ある者は、仕事はお金を稼ぐための手段と割り切り、仕事以外の趣味に生きがいを感じ、ある者は、「意識高い系」と揶揄されつつもスキルを磨こうと就職前から必死になる。「幸せな働き方」の答えが簡単には見つからず、個々人によって違うため、皆が模索している段階だ。
また、上記のような生き方ができる人は、才能のあるごく一部に過ぎないと多くの人は思っている。典型的な例は、スポーツ選手だろう。イチロー選手の才能と努力のすごさは誰もが認めるところだが、そんな域に自分も達することができると思っている人は少ないだろう。それにそういう生き方をしている人の多くは、有名人であり、常人とはかけ離れた何かを持っていることが多いからだ。だが、そんな中にも、ビジネスマンに参考となる事例がある。
「たま」というバンドをご存じだろうか。現在40歳代から50歳代の読者のほうが知っている割合が高いかもしれない。30年近く前に人気を誇った「三宅裕司のいかすバンド天国」、通称「イカ天」に出て以来、大人気となり、1990年には「たま現象」と呼ばれるほどの大ブームを引き起こしたバンドだ。
4人編成のこのバンドは、イカ天出場で初めて全国放送でその名を知られることになった。放送時、その独特な風貌が印象的だった。失礼ながら、今でいえば「コミュ障」と揶揄されてしまうような、おどおどした感じだったからだ。だが、彼らがイカ天で初めて披露した「らんちう」を聞いた、当時の審査員と視聴者は度肝を抜かれた。当時テレビで見ていた筆者も同様だった。
売れたことに溺れず、気負わず
解散後も精力的に活動しているバンド「たま」
そのルックスから色モノバンドだと思われていた彼らは、確かな演奏テクニック、独特のメロディ、そして不気味だが懐かしさを感じさせる歌詞で、完全に独自の世界を作っていた。
この番組では毎回、出場した10組のバンドのうち、最も優れた1バンドが挑戦者として、先週以前の1位である「イカ天キング」と一騎打ちの投票決戦を行う仕組みだった。それに勝てば、新たなキングになれる。彼らはこの曲で、その週の「イカ天キング」となった。キングは5週間勝ち抜くと「グランドイカ天キング」となるが、それも勝ちとった。それどころか翌年の正月に、満員の武道館で行われた「輝く、日本イカ天大賞」の大賞をもとってしまった。
その後リリースされた彼らのメジャーデビューシングル「さよなら人類」は有名なので、聴いたことのある人もいるだろう。オリコンチャートで1位をとり、60万枚を売り上げた。たまはその年のレコード大賞最優秀ロック新人賞を得、紅白歌合戦にも出場し、「たま現象」はその年の『現代用語の基礎知識』に載るほど、このムーブメントは大きかった。
つまり、彼らはこの世の中の多くのバンドが持っている「メジャーになる」「売れる」「自分たちの音楽で多くの人を魅了する」という「幸せ」を手にいれたことになる。
だが、その後彼らは徐々にセールスを落とし、一時のブームは去った。その後は、ライブ活動を中心に地道に活動を続けていたが、1995年にキーボード、ボーカル担当の柳原幼一郎(現:柳原陽一郎)が脱退し、その後3人で2003年まで活動して解散した。解散後はそれぞれソロ活動を継続している。柳原も脱退後からソロだ。
このように見ると、たまは一見バブル期の狂乱の中での「一発屋」だったように思える。バブル崩壊と同時に、彼らの「幸せ」もまた去ったのか。
だが、当時の熱狂的ブームを最も冷静に見ていたのは、実は彼ら自身だった。たまブームの最中、ギターの知久寿焼はインタビューで「100人のうち3人がボクたちの音楽が本当に好きで、あとの97人が“そんなに言うならちょっと聴いてみよう”ってレコードを買ってるってことです、たぶん。もし、100人が100人たまをいいと思ったら、気持ち悪すぎます」と語っている。
彼らは、自分たちの個性的な音楽は本質的に万人受けするものではないことを、誰よりも冷静に見抜いていた。パーカッションの石川浩司が著書『たまという船に乗っていた』で述べているが、彼らは自分たちの好きな音楽を好きなように演奏していただけ。それをよいと思ってくれている人々から、暮らしていけるだけの支えをいただいて、それを続けることが「最も幸せな働き方」だとわかっていた。
彼らは自分たちを見失うことなく、好きな音楽を作り続け、そして全国を回るライブで着実にファンを定着させていった。売れた時に得たお金を出し合って、彼らは自分たちの事務所兼スタジオを作り、そこで音楽に専念できるような環境を作っていった。2003年の解散後、ソロになったそれぞれのメンバーも全国のライブハウスを回り、精力的に活動を続けている。その際、たまの曲も普通に演奏する。売れたことに溺れず、気負わず、それをうまく活用して、自分たちが最も幸せと思える働き方を、たま結成以来、もう40年間実現しているのである。
たまのメンバーが磨いた
「自分らしい働き方」とは?
彼らの業界や仕事の仕方は、普通のビジネスマンとは違うが、参考になることは多い。少なくとも3つ、大切なことを学ぶことができる。
(1)自分の仕事が生み出す付加価値とそれをアピールできる層を分析できている
たまは、自分たちの音楽が、一部の層には訴えるが万人受けしないことを客観的に判断しており、ブームになった時も、それは変わることはなかった。彼らはその腕で、身の丈に合った活動をしようとしていた。
(2)仕事するうえで、自分の理想の働き方をきちんと定義しイメージできている
上記を踏まえて、自分たちで小さなライブハウスなどで、少数のお客さんを間近に感じつつ、ライブを重ねていくことが、最上の働き方だとわかっていた。お金を稼ぐことよりも、目の前のお客さんに喜んでもらうことに大きな価値を見出していた。脳科学的に言えば、自分たちの快感中枢を刺激するものは、金銭報酬よりも、お客さんからの社会的な報酬であり、それを最優先すべきと理解していたのだ。
そのため、後期の3人になった時は、「しょぼたま」と称して、最小限の持ち運び可能な楽器だけで、その他の機材を使用することなく、どこにでもいってどこででもライブできるように工夫していた。身近なお客さんの反応という自分たちへの「報酬」を、できるだけ効率的に手に入れるためだ。
(3)仕事必要なスキルを高いレベルで身につけている
実はたまの演奏スキルはものすごく高い。先日ノーベル賞を受賞したボブ・ディランのOne more cup of coffeeのカバーである「麦茶をもう一杯」や、石川の作った和製プログレ曲、「ウララ」などのライブ演奏を聞けば、彼らの演奏能力とセンスの鋭さがいかに優れているかわかる。演奏能力の高さは、ミュージシャンにとって生命線だ。基礎的なスキルが秀でているものは、それを活かして自分の望む仕事をできる確率が高くなる。彼らはきちんとそのための訓練を自主的にやってきたことがわかる。
「幸せな働き方」を実現するためには、(1)やりたいことを具体的に描き、(2)自分の実力と付加価値を客観的に評価し、(3)必要なスキルと能力を身につけること――の3点が必要だ。たまの面々は、爆発的ブームの際にもそれに流されず、ブレずに幸せな働き方を続けている。
彼らがそういった要素を身につけられたのは、フリーで活動できる音楽というジャンルであることは大きな要因だったと思う。会社組織を考えるならば、組織の中で、こういった要素を発展させられる仕組みが必要となるが、残念ながら今の日本の職場環境には、そのような仕組みがあまりにも少ない。
有名大学、有名企業に入ることが本当に自分の望む「幸せな働き方」になるのか、そしてすでに働いている人は、筆者を含め、「今の自分をもっと幸せに働かせる」ために、何をすべきか自問自答しておくべきだろう。あるいは、自分をよく知る誰かに尋ねてみるのもいいかもしれない。そうしないと、知らず知らずのうちに自分を追い込んでしまいかねない。
せっかくの人生である。仕事の楽しみ方を知らないまま死ぬのは避けよう。
https://www.youtube.com/watch?v=KJOVF6k1vG4
https://www.youtube.com/watch?v=4ZvQxX4u1wY
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4021515
http://diamond.jp/articles/-/105821
ソーシャルメディア進化論2016
【第67回】 2015年10月6日 武田 隆 [クオン株式会社 代表取締役]
サンデル教授が主張する“これからの正義”とは何だったのか
【西垣通氏×武田隆氏対談2】
情報学者の西垣通氏を迎えて送る対談の第2回。今回は、インターネットの集合知が社会問題の解決に役立てられるか、という議論の前提となる、公共哲学についての話が展開される。これまで、人はどういった「正義」をもとに、社会のルールを決めてきたのか。日本でもベストセラーとなった『これからの正義の話をしよう』を著したマイケル・サンデル教授の、真の主張とは?
>>【西垣通氏×武田隆氏対談1】を読む
多数の幸福が実現するためなら、
異教徒を殺すのも正義?
西垣通(にしがき・とおる)
東京経済大学コミュニケーション学部教授。東京大学名誉教授。1948年、東京生まれ。東京大学工学部計数工学科卒業。工学博士(東京大学)。株式会社日立製作所と米国スタンフォード大学でコンピュータを研究した後、明治大学教授、東京大学社会科学研究所教授、東京大学大学院情報学環教授を経て、2013年より現職。専攻は情報学・メディア論であり、とくに文理にまたがる基礎情報学の構築に取り組んでいる。近著として『ネット社会の「正義」とは何か』(角川選書)、『集合知とは何か』(中公新書)など。『デジタル・ナルシス』(岩波書店) でサントリー学芸賞(芸術・文学部門)を受賞。
武田?前回は西垣先生に、集合知の魅力とその限界について教えていただきました。ジェリービーンズの数の推定やクイズなど、正解が決まっているような問題は、単純な集合知が役に立つ場合も多い。けれど、政治問題やマーケティングの課題など、いわゆる正解がない問題については、たくさんの人の意見を集めるだけでは解決できないことがある。
西垣?はい。だからこそ、そうした複雑な問題に対して、どうすれば集合知の議論が応用できるか、考えてみようと思ったんです。そこで参考にしたのは、公共哲学の議論です。2010年に出版されたマイケル・サンデル氏の『これからの正義の話をしよう』で、日本でも公共哲学というものが、少し身近になりましたよね。その本の元となった講義も、「ハーバード白熱教室」としてNHKで放送されて話題になりました。
武田?『これからの正義の話をしよう』は、ベストセラーになりましたね。あの本では、功利主義、リベラリズム、リバタリアニズム、共同体主義の4つの正義について説明されています。今回は、この4つの正義について、改めて整理してみようと思います。
?まず、功利主義というのは「最大多数の最大幸福」を目指すものですよね。
西垣?そうです。集団の利益というものを一番に考える正義ですね。例えば、ある町に新幹線が通ることになり、海辺を通るAルートと、山奥を通るBルートの2案が出てきたとします。そのとき、どちらを通ったほうがより多くの住民の便益を見込めるか、ということを測定して決めていくのが功利主義です。
武田?海辺を通るAルートの場合の幸福度を住民の分だけ足し合わせ、それと、山奥を通るBルートの場合の幸福度と比べてみるわけですね。
西垣?対象が「集団」というのが特徴です。功利主義の欠点としてサンデル氏は、古代ローマにおけるキリスト教信者の虐殺の例をあげています。古代ローマでキリスト教が禁止されていた頃、捕らえた信者をコロッセウムでライオンに食い殺させるという見世物をやっていました。観客は何百どころか何千人もいたかもしれません。でも、殺されるキリスト教徒はせいぜい十数名ていど。そうすると……
武田?多数派である観客が楽しいと言えば、「最大多数の最大幸福」が実現してしまうわけですね。
西垣?そうなんです。でも、虐殺はどう考えたっておこなうべきじゃない。そこで個人の基本的人権を尊重する、「リベラリズム(自由平等主義)」という立場が出てきます。
「無知のベール」をかぶれば、
リベラリストになる
武田隆(たけだ・たかし)
エイベック研究所代表取締役。日本大学芸術学部にてメディア美学者武邑光裕氏に師事。1996年、学生ベンチャーとして起業。クライアント企業各社との数年に及ぶ共同実験を経て、ソーシャルメディアをマーケティングに活用する「消費者コミュニティ」の理論と手法を独自開発。その理論の中核には「心 あたたまる関係と経済効果の融合」がある。システムの完成に合わせ、2000年同研究所を株式会社化。その後、自らの足で2000社の企業を回 る。花王、カゴメ、ベネッセなど業界トップの会社から評価を得て、累計300社のマーケティングを支援。ソーシャルメディア構築市場トップシェア (矢野経済研究所調べ)。2015年、ベルリン支局、大阪支局開設。著書『ソーシャルメディア進化論』は松岡正剛の日本最大級の書評サイト「千夜 千冊」にも取り上げられ、第6刷のロングセラーに。JFN(FM)系列ラジオ番組「企業の遺伝子」の司会進行役を務める。1974年生まれ。海浜幕張出身。
武田?先ほどの新幹線のルートの例でいくと、もしかしたら海側のAルートのほうがたくさんの人が喜ぶかもしれないけれど、山奥に新幹線が通らないと命にかかわる人がいる場合、人数が少なかったとしても、その人たちの基本的人権を尊重しよう、と考えるわけですね。
西垣?はい。海側はもう拓けていて、すでに病院がたくさんある。でも病院がひとつもない山側にも、新幹線が通ることによって病院ができるかもしれない。そうしたら、これまで亡くなってしまっていた人も、助かるだろう。このように、集団全体の幸福ではなく、ひとりひとりのもっとも基本的な権利を優先させようというのが、リベラリズム。端的に言うと、弱い立場にいる人達を尊重して、格差をなくそうという考え方です。
武田?リベラリストのロールズは、「無知のベール」という考え方を提案しています。
西垣?人々が全員、自分がどういう存在か知らない「無知のベール」をかぶり、その上で公共のルールを考えたらどうなるか、という思考実験ですね。そのベールをかぶると、自分の宗教も、社会的地位も、職業も、学歴も、財産も、性別や体調、皮膚の色さえもわからなくなる。
武田?ベールを脱いだときに、自分は一番弱い少数派になっているかもしれない。だから、もっとも弱い人が尊重されるルールが選ばれるはずだというわけですね。
西垣?この「無知のベール」というのは、天才的なアイデアだと思います。しかしサンデル氏は、「負荷なき個人」なんてものは存在しない、人間は何らかの価値観を背負って生きていくのが前提なのだから、無知のベールはかぶれない、と批判した。そんな抽象的な人格を考えるのは、いわば空論ではないか、というのが有名なサンデルのロールズ批判です。
武田?そしてもうひとつの自由主義の正義が、個人と経済の自由を重んじるリバタリアニズム(自由至上主義)ですね。
西垣?はい。リバタリアンにとって正義というのは、市場を通じて財が安全に正しく配分され、その財を人々が自由にできることなんです。すべてを市場のメカニズムに任せようという考え方です。
武田?市場原理は平等に働くというわけですね。
西垣?そうです。ところが、お金持ちの家に生まれた人とそうでない人は、本当に平等なのかという議論があります。また、才能を持って生まれた人とそうでない人は平等かというのも同じです。
武田?市場の正義は、富めるものがさらに富むという状況を加速させてしまう気もしますね。
西垣?その通りです。功利主義も自由主義も完璧ではありませんね。
武田?いよいよ核心に迫ってきました。『これからの正義の話をしよう』を読んでいると、功利主義のいいところと問題点、自由平等主義と自由至上主義のいいところと問題点と話が進んで、最後に共同体主義の説明が来ますよね。あの構成だと、結局「共同体主義がいい」という結論に行き着きます。
マイケル・サンデルの真の主張は、
共同体主義だった
西垣?サンデル氏は、コミュニタリアン(共同体主義者)なんです。共同体主義というのは、個人の自由というよりはむしろ、共同体の伝統や慣習、文化の中で培われた道徳観や共通善を重視するものです。でもこの考え方って昔から日本では当たり前のものなんですよね。
武田?「世間様」という考え方ですね。
西垣?むしろ日本では、個人主義というのが戦後に出てきた考え方で、共同体主義は古く見える。けれど、アメリカの共同体主義というのは、1980年代の終わりくらいに出てきた、わりと新しいものなんです。功利主義やリベラリズムのほうが古いんですね。そして、サンデル氏の学問的主張は、ロールズのリベラリズムに対する批判から始まったのですが、その真の批判の対象は、リバタリアニズムに向けられていると私は思っています。
武田?サンデル氏は、市場のメカニズムに任せることに反対しているということですね。それはどうしてでしょう?
過去、さまざまな哲学者が、社会における「正しさ」について考えてきた。その歴史をたどることで、ネット集合知による問題解決の道筋も見えてくる
西垣?サンデル氏は2012年に"What Money Can't Buy: The Moral Limits of Markets"という本を出しています。日本語訳もされていて、邦題は『それをお金で買いますか――市場主義の限界』です。この本を読むと、彼がリバタリアニズムに反対していることがよくわかります。例えば、エンパイアステートビルの展望台にのぼるための行列に並びたくない場合は、ひとり45ドルの「エクスプレスパス」を買えば、行列に並ばずに展望台に直行することができるんだそうです。これはどう思いますか?
武田?その分展望台でゆっくりできて、金額分の価値があると納得するなら払ってもいいんじゃないでしょうか。
西垣?では、それが病院の場合はどうでしょう。高いお金を払って、他の人に並んでもらう。もしくは「コンシェルジュ診察」として、年間1500〜1800ドルの年会費を払うことで、いつでも待ち時間なく病院で診てもらえるサービスに加入する。
武田?それは、お金を払える人はいいでしょうけど……。
西垣?払えない人は、長時間待たされることによって病気が悪化したり、最悪の場合は死亡したりするリスクが高まります。他にもいろいろな例があって、兵士として戦場に行く人たちの中にも、永住権や学費がもらえるなどの特典が欲しい、貧しい移民の若者が増えている。これは果たして公平なことなのか。また、代理母による妊娠代行サービスの例も出ています。どうしても妊娠出産ができない医学的な理由がある人はまだしも、スタイルが崩れるのを嫌がる富裕層の女性が、健康なインドの若い女性に妊娠・出産を外注し、お金を払う。これは果たしていいことなのかと。
「共通善」はグローバル社会でも通用するのか
武田?リバタリアニズムの主張としては、市場で需要と供給が成り立つのであれば、構わないということになりますよね。
西垣?そうなんです。代理出産をする人も、本当に嫌ならノーといえばいいと。自由意志で契約してやっているのだから何の問題もない、という考え方なんですよね。リバタリアニズムというのはある意味で非常に進歩主義的で、相手に干渉しないんですよ。自分の考え方を押し付けない。多様性を認めて、個人の所有権を守って、あとは市場に任せるんです。この考え方は、新自由主義的な経済学者の台頭とともに、大きな力を持つようになりました。
武田?アメリカの社会がまさに、どんどん市場主義に変わっていきましたからね。
西垣?そして、アメリカだけでなく、いまや世界全体が市場原理に動かされるようになってきています。でも、サンデル氏はそこに異議を唱えている。それによって壊されてしまった価値観があるというわけです。
武田?だいぶ正義にまつわる全体像が見えてきました。
西垣?サンデル氏は、市場原理よりも大切にすべきものがあるはずだ、と主張していると言えばわかりやすいでしょう。
武田?それが共同体に根付くモラルというわけですね。
西垣?そうです。簡潔にまとめると、サンデル氏は、「古きよきアメリカの道徳を思いだそうじゃないか」と提唱しているわけです。
武田?サンデル氏の正義論を古きよきアメリカへの郷愁と一刀両断にできるのは、西垣先生くらいです…。複雑な正義の理論が、ずいぶんすっきり整理されてきました。
西垣?彼が想いを馳せるのは、最初のアメリカのコミュニティ、身分制度から自由になった市民たちが集まって協力し、互いに討議しながらルールをつくり、自分たちのコミュニティを築き上げていった、その頃のものだと思います。昔の西部劇に出てくるような、女性に優しく、正義の為に命を捨てるというような正義感です。
武田?ただ、そもそも、そうしたそれぞれの共同体の正義が、グローバルには通用しなくて、むしろ、それぞれの正義が反発しあうような状況が、今の問題なのですよね?
西垣?もしアメリカ社会がWASP(編集部注:白人・アングロサクソン・プロテスタント)だけの世界であれば、もしかすると「共通善」がうまく機能するかもしれません。しかし、さまざまな移民が混ざり合い、それぞれの「共通善」が併存するという状態では、全員の合意に達するのは難しい。
武田?残念なことに、これで4つの正義、すべてが頼れなくなってしまいました。
西垣?はい(笑)。そこで私は、この4つの正義を組み合わせて使ってみようというアイデアを思いつきました。
※次回は、東京経済大学教授、情報学者の西垣通さんとの対談・第3回を2015年11月上旬に配信予定です。
http://diamond.jp/articles/-/78959
【第68回】 2015年11月4日 武田 隆 [クオン株式会社 代表取締役]
民主主義の新しい意思決定モデルをつくってみよう
【西垣通氏×武田隆氏対談3】
情報学者の西垣通氏を迎えて送る対談の第3回。公共哲学における功利主義、自由主義、共同体主義は、現実の社会問題を解決するには、どれも一長一短なところがある。では、それらを統合したモデルを考えてみたらどうだろう? というのが、西垣氏の発想だ。その名も「N-LUCモデル」。それはオンラインの世界も含む、大きな共同体における意志決定にも応用できる考え方である。
>>【西垣通氏×武田隆氏対談1】、【西垣通氏×武田隆氏対談2】を読む
“正義”を用いて、具体的な決定をするには?
武田 前回までは、功利主義、自由平等主義(リベラリズム)、自由至上主義(リバタリアニズム)、そして共同体主義という、政治哲学における4つの正義について考察してきました。どの正義も一長一短で、納得できるところもあれば、危ないと思うところもある。完全な”正義”を実現するのは難しいという印象を受けました。
西垣通(にしがき・とおる)
東京経済大学コミュニケーション学部教授。東京大学名誉教授。1948年、東京生まれ。東京大学工学部計数工学科卒業。工学博士(東京大学)。株式会社日立製作所と米国スタンフォード大学でコンピュータを研究した後、明治大学教授、東京大学社会科学研究所教授、東京大学大学院情報学環教授を経て、2013年より現職。専攻は情報学・メディア論であり、とくに文理にまたがる基礎情報学の構築に取り組んでいる。近著として『ネット社会の「正義」とは何か』(角川選書)、『集合知とは何か』(中公新書)など。『デジタル・ナルシス』(岩波書店) でサントリー学芸賞(芸術・文学部門)を受賞。
西垣 そうですね。この正義について、公共哲学者のあいだでは学術的な議論が熱心になされてきました。しかし、結論はなかなか出ないし、いくら議論を精緻にしたところで、現実の社会問題は、学術的な議論とは別の次元、つまり政治的力や経済力の関係によって事実上決まってしまいます。一般の人々の知らない複雑な力関係によって、十分な討議もされないまま物事が進められていきます。
武田 だから、もっと具体的で現実的な方法で正義の理論の活用を考える必要がある。
西垣 そう。そこで出てくるのが「集団の規模」を考慮しつつ、4つの正義原理を組み合わせ、最適解を模索していく、という方法です。
武田 規模…ですか。規模というのは集団を形成する人数のことですね?
西垣 はい。
武田 それは私の専門のオンライン・コミュニティにも通じます。
西垣 そうなんです。詳しくは拙著『ネット社会の「正義」とは何か』(角川選書)を読んでいただきたいのですが、ざっくり説明すると、集団の規模が小さい時は共同体主義が有効です。でも、規模が大きくなるにつれてその有効性はだんだん減少していってしまいます。
武田隆(たけだ・たかし)
エイベック研究所代表取締役。日本大学芸術学部にてメディア美学者武邑光裕氏に師事。1996年、学生ベンチャーとして起業。クライアント企業各社との数年に及ぶ共同実験を経て、ソーシャルメディアをマーケティングに活用する「消費者コミュニティ」の理論と手法を独自開発。その理論の中核には「心 あたたまる関係と経済効果の融合」がある。システムの完成に合わせ、2000年同研究所を株式会社化。その後、自らの足で2000社の企業を回 る。花王、カゴメ、ベネッセなど業界トップの会社から評価を得て、累計300社のマーケティングを支援。ソーシャルメディア構築市場トップシェア (矢野経済研究所調べ)。2015年、ベルリン支局、大阪支局開設。著書『ソーシャルメディア進化論』は松岡正剛の日本最大級の書評サイト「千夜 千冊」にも取り上げられ、第6刷のロングセラーに。JFN(FM)系列ラジオ番組「企業の遺伝子」の司会進行役を務める。1974年生まれ。海浜幕張出身。
武田 暗黙の了解が効きづらくなるのですね?
西垣 はい。共同体主義というのは、共通善というものに基づいて物事を判断するわけですね。でも共通善というのは身体的コミュニケーションと関係が深くて、論理的で明確な記述ができないんですよね。
武田 「言わなくてもわかりあえる」、いわゆる暗黙知というやつですね。
西垣 昔からの習慣とか慣例というのもそれです。
武田 京都の町家で「向こう三軒両隣に水を撒く」という習慣は、お互いの契約でやるわけではないですしね。
西垣 そうした暗黙の了解が通用するのは比較的小さいコミュニティです。共通善を共有できる共同体というのは、数十人からせいぜい150人くらいの「群れ」なんですよね。この人口規模は、我々の脳の構造にもとづいており、かなり絶対的な値です。150という数は、霊長類の脳や行動を研究したロビン・ダンバーという人類学者が提唱した値で、ダンバー数と呼ばれています。こうした小規模共同体で成り立つ公共的原理を、そのまま何万とか何千万以上といった中大規模の共同体に当てはめるのは無理があります。
武田 町の風習をそのまま、国民全体やEUのような巨大な共同体に適用することはできない。組織経営にも通じるものがありそうです。
西垣 一方で、リベラリズムやリバタリアニズムといった自由主義のいいところは、普遍的であるところです。つまり超大規模集団に対しても有効なのです。
武田 誰にでも納得可能な説明ができるということですね。どこに弱点があるのでしょうか?
西垣 端的に言うと、自由主義にもとづいて制約条件を設定するだけでは、物事は決定できない。自由主義というのは、集団の意思決定というより、個人の権利保護に着目する正義原理ですから。
武田 どういうことでしょうか?
西垣 「無知のベール」を被って、最も貧しい人の生活を保障しようという理念が共有されたとしましょう。でも、それだけでは、社会的な問題や政治的な問題、企業のマーケティングなどの現実問題を解決できるわけではありません。
武田 例えば、「人を殺してはいけない」というみんなが守るべき絶対的で必要最低限の正義が仮に設定できたとしても、それだけでは、問題解決のための意思決定には不十分だということですね。
西垣 はい。個人の権利の尊重は制約条件にはなりますが、どうするかという解答が見えてこない。決めるにはどうすればよいのか、という具体策には直接つながらないのです。実際の複雑な問題を意思決定するには、当事者が集まって、その集団に関連するコストや安全性など、多くの現実的な課題と向き合っていかなければならない。
共通善が機能するのは、せいぜい150人程度のコミュニティまで。しかし、大きな政治的意志決定においても、当事者がグループの規模を決め、そこにおける共通善を決定に反映していくことはできる
武田 では、そうした現実的で複雑な課題に対処するにはどうすればよいのでしょうか?
西垣 それには、功利主義が有効です。「最大多数の最大幸福」というのは明快な正義原理で、定量化できますから、客観的な議論にも向いている。つまり、こういうことです。もっとも基礎には共同体主義の共通善にもとづく直感的で身体的な価値観があり、小さなグループからそれが選択肢として浮上してきます。次に、自由平等主義や自由至上主義が全グループに関わる共通の制約条件を定めます。それらを踏まえて、当事者集団のグループが、功利主義的に意思決定しようというわけです。
武田 お!これで4つ、全ての正義が出揃いました。
西垣 はい。複雑で現実的な問題の意思決定には、功利主義原理で用いられる“効用関数”が向く。
武田 その問題の当事者にとっての効用をそれぞれ計算していくということですね。数理の結果であれば皆が納得できる。
それぞれの正義の“いいとこ取り”で
物事を決めていく
西垣 効用といってもいろいろありますが、ここでは、共同体における効用をわかりやすくするために、幸福度、安全度、財貨の3つとしてみましょう。
武田 ある問題に対して、当事者にとっての幸福度、安全度、財貨を最大化させることができれば、みんなにとって満足であるとみなすわけですね。
西垣 はい。ただ、3つすべてを最大化する解があればいいのですが、応用数学的にはこれら3つのすべてを最大化することは、通常できません。だからどれか一つを最大化し、残り2つは必要に応じて制約条件にすることとなります。
武田 例えば、どういう状況が考えられるのでしょうか?
西垣 簡単な例として公立図書館の蔵書購入について考えてみましょう。ベストセラーと古典とどちらを購入するのがよいでしょうか。利用者の好みはいろいろ違い、個人の幸福度を足しあわせたものが集団の幸福度ということになります。この場合、安全度はあまり関係ないので外し、予算である“財貨”が制約条件になり、利用者アンケートなどに基づいて“幸福度”を最大化するという方向で購入する書籍を決定するといったことが考えられるでしょう。
武田 前回出た、新幹線の新ルートを敷設する際に、海辺を通るAルートと山奥を通るBルートのどちらにするか、という問題だと……。
西垣 利用者集団の便益という“幸福度“と、がけ崩れなどの回避を含む“安全度”が制約条件となり、工事コスト、つまりマイナスの“財貨”を最小化するという議論になるでしょうね。
武田 たしかに。わかりやすく皆が納得できる合理性があります。一方で、多くの意見に埋没してしまう小さな声はどうすればよいのでしょうか? 功利主義のそもそもの問題は、最大多数の最大幸福の裏に隠れた声なき声、マイノリティの意見が消えてしまうことにあったと思います。
西垣 そこが正義に「集団の規模」を考慮するポイントになります。今の新幹線の例では、どっちのルートが便利かという話だけではなく、山奥の方にはその土地でずっと昔から大事にされていたお寺があって、そこはどうしてもつぶしたくない、といった強い要望があるかもしれない。そうした暗黙的な声は、共同体主義にもとづく選択肢に反映されます。また一方、収用される個人の土地や家屋などの財をきちんと補償するというのは自由主義からの制約です。これらを踏まえて、効用の計算の舞台にまで引き上げていくことが必要になります。
武田 その共同体の人が大事にしていることも、効用関数の中に含まれてくるわけですね。そうした共同体に発話のチャンスが与えられれば、声なき声が埋没されてしまうことがなくなる。
西垣 そうです。今まで話してきた正義の議論を総括すると、功利主義による効用計算の前に、まず、自由主義によって皆が守るべき絶対条件を定め、その土台の上に、共同体主義にもとづく暗黙的な了解にもとづく提案を表出させ、効用計算の舞台にあげる。そして結論をみちびくということになります。
武田 最も大きな規模には自由主義を、最も小さな規模には共同体主義を活用し、これらを合わせたうえで、功利主義の最大多数の最大幸福を計算するというわけですね。
西垣 はい。端的に整理するとこの考え方は、集団の規模に注目し、まず、自由主義の制約条件を念頭に置きつつ、功利主義の効用関数に基づいて、公共的正義のあり方を検討するというものです。そのとき共同体主義の共通善というのは、人々の道徳観にもとづく判断として、選択肢の設定において非明示的に作用することになります。
武田 集団の規模に応じて、功利主義、自由主義、共同体主義を統合するのですね。
西垣 はい。これを私は、N-LUCモデル(Nishigaki Model of Liberal Utilitarianism for Communities)と略称で呼んでいます。これを用いることで、我々の21世紀における意志決定ができるんじゃないかと考えたんです。公共哲学者からは乱暴だと批判されるかもしれませんが、私はもともと実践的な工学畑出身の人間なので。
武田 しかし、“財貨”はわかるのですが“幸福度”の効用計算というのは、どういうふうにするのでしょうか。例えば、夏と冬の違い、男と女の違い、といった意味の差というものは、数値化できないですよね。
西垣 仰る通りです。意味のあいだには差異があるだけで、意味を何らかの数理的な軸の上に位置づけることは直接にはできません。2つの意味なら、これとこれが近い、ということはわかりますが、それが3つになると、距離という概念を数理的には定義できなくなります。その場合は仕方がないので、なんらかのA、B、Cという選択肢に落として、投票するという方法をとることになりますね。一種の還元処理(リダクション)です。投票の得票数によって数値化していくことはひとまず可能です。ただし、こうした選択肢を定義していくプロセスで、まさに共通善が機能するわけです。
社会における共同体の
よりどころのない人はどこへ向かう?
武田 そこにはやはり発話が必要なんですね。「山のお寺は壊しちゃならん」という声も発話されなければ、それが考慮されることもない。ハンナ・アーレントが、反ユダヤ主義の政権下においては、政治的な意見を地下に隠れた居間で仲間と発話することが、自らの尊厳を確認することだったという内容のことを書いていました。オンラインコミュニティを見ていても、消費者の中にもやはり隠れた声というのはたくさんあるんです。
西垣 その通りです。そういう隠れた声からこそ、皆が納得できる正義の意思決定が生み出されるのではないでしょうか。
武田 共通善となるその隠れた声を引き出すこと。オンラインコミュニティはそこで機能すると思います。
西垣 賛成します。ここで、武田さんたちが取り組んでいらっしゃるコミュニティの話が出てくるのではありませんか。私は「消費者コミュニティ」によって、「企業」も「消費者」も、その概念が革新されていくと思っています。
※次回は、東京経済大学教授、情報学者の西垣通さんとの対談・第4回を2015年12月上旬に配信予定です。
http://diamond.jp/articles/-/80313
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