http://www.asyura2.com/16/hasan113/msg/934.html
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東京で行われた記者会見で、トヨタ自動車が発表したコミュニケーションロボット「キロボミニ」(2016年9月27日撮影)〔AFPBB News〕
AIの進歩で必要になる人、いらなくなる人 その選別はまもなく本格化する
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/48054
2016.10.6 伊東 乾 JBpress
今年もノーベル賞のシーズンがやってきました。日本は大隅先生のオートファジーの業績が「単独受賞」であることの意味を深く感じ考える必要がある、といった内容は、来週、具体的に触れるようにしますので、どうぞご期待ください。
物理学賞を得たBKT相転移というのは、今から30年前、私が物理学生時代に携わらせていただいていた凝縮系の問題系で、あの頃はこういう問題の価値が本当には分かっていなかったな、などと思い返すだに感慨無量です。
さて、10月8日土曜日にも私たちはノーベル化学賞受賞者、白川英樹先生をお迎えしての公開行事を行います。単にノーベル賞が出ました、報道します、と言ったレベルではなく、ノーベル賞の評価対象となるような水準の成果をコンスタントに出して行く人材育成を現実問題として検討していきます。
東大本郷キャンパス、福武ホールで開く国立大学協会「大学改革シンポジウム」、午前中は英語のセッションですが、午後2時からの午後のセッションは日本語で分かりやすい内容を扱う予定です。
午後のプログラムは上記の通り白川英樹先生(筑波大学名誉教授、2000年ノーベル化学賞)が「教える教育と教えない教育」のタイトルで基調講演され、近藤誠一元文化庁長官、鈴木寛元文科副大臣などのメンバーで徹底的に熟議いたします。
国立大学法人の社会貢献事業ですので入場は無料、まだ残席ありますので、聴講ご希望の方はgakugeifu@yahoo.co.jpまでお申し込み下さい。
今回は、2016年というタイミングで、小中高等学校と大学、それ以降の教育・研究がどのように一貫性を持ち得るか、そしてどういう人材を育てていくべきなのか、白川先生の「教えない教育」をカギとして「放し飼い」という観点から見当してみたいと思います。
■チェスと未来の雇用、用済みになる人材とは?
少し前、SNS上に「AIの普及でこういう仕事は減ったりなくなったりするが、こういう観点に気をつけていれば生き残れる」的な内容を、この原稿のブレインストーミングのつもりで打っていたところ、「そういうことを30年前、チェス界でも言っている人がいた(が実際にはチェスはAIに凌駕されてしまった)」というコメントをもらいました。
とても良い例をもらったと思いますので、この観点ではどうしてダメなのか、SNSには記しませんでしたが、背景に踏み込んで見当してみましょう。
ポイントは「チェスには勝ち負けがある」ということです。より正確には「ルールに従って勝ち負けを決定することができる」。
翻って、世の中のでき事には、一般にこれはない。ビジネスにも勝ち負けはあると思いますが、残念ながら画一的なルールなど存在しません(そんなものがあったら、大変楽かもしれませんが、負け組が決まっていたらたまったものではありません。北朝鮮みたいな体制だと、そういうことになりそうです)。
チェスは初期のコマの配置が定められ、決まったルールに従ってコマを移動させ、すべての可能性が盤面の上で尽くされている。当たり前のことですが、これが世の中と大きく違う。
膨大ではあるけれど、有限確定な可能性を網羅して、最良手を見当することができますね?
これを実行するうえで計算機の方が有利なのは、このルールをプログラムという「形式原語」でモデル化し、あらゆる可能性をしらみつぶしにできるからにほかなりません。
現在私たちが使っているノイマン式の電子計算機は、限られた演算機能をフル高速で実行して、与えられた問いに答えを出していきます。
こうしたモデルの系、プラトンならイデア界と言ったかもしれませんが、これと現実世界との間には、少なく見積もっても3つ、本質的な違い、いわばモデルと現実の「断絶」があります。
第1は物理的な不可逆性、確率統計的な断絶と呼んでおきましょう。
これは確率変数を導入する計算などで補おうとするわけですが、同一の条件で計算すれば、それ自身を反復できるという「モデル化された統計性」で、覆水盆に返らない現実世界とは似ても似つきません。
第2の断絶は生命現象によるもので、生命は個体と種の保存を不文律に自律的に生命活動を維持しますが、モデルにはそういう芸当はできません。
非線形動力学系の話題で「人工生命」というトピックスがありますが、生命現象をモデルとして再現しているだけで、それ自体が生きているわけではない。
ウサギなどは数匹、庭の穴に放り込んでおいても勝手に増えて大変なことになります(実際子供の頃に経験しました)が、壊れた計算機が自分で勝手に直るというのは、相当限られた範囲でしか期待できない芸当です。
第3の断絶は心や意識、あるいは感情を持つというような要素で、今回はこれを扱おうと思いますが、あえてここでは「記号論的断絶」と呼んでおこうと思います。
以下ではフェルディナン・ド・ソシュール(1857-1913)の一般言語学、ないし記号論的な枠組みを参照して、AIで仕事を失う人と、失わない人の別を考えてみましょう。
なお、踏み込んだ議論にご興味の方は「表象のディスクール6 創造」(東京大学出版会 2001)所収の拙稿をご参照ください。
2000年に展開した原理的な議論で、これを用いて「東京大学知識構造化プロジェクト」というもののマクロを準備しましたが、システムフリーの基礎的な内容ですので、現下のAIやIoTの議論も普通に扱えます。
■自然言語と形式言語
それがどのようなものであれ、現在の技術で実現可能なAI、人工知能あるいはビッグデータマイニングといった類は、すべてシステム上で情報が処理されますから、そこで処理が可能な形にデ―タを整えておかねばなりません。
何を当たり前のことを、と思うかもしれませんが、人間はそういうことがない、というのがこの話題の本質ですので、まずここから参りましょう。
データを客観的に取り扱うためには、適切なプログラムを準備する必要があります。この計算プログラムは数式のような「形式言語」で記されており、意味が「一意に確定」する必要があります。
形式原語、あるいは意味の一意確定、いずれも耳慣れない表現かもしれませんが、これがAIと人間を分かつ原理的な差異を生み出すのです。
仮に計算機が、1つのプログラム表現で複数の解釈が可能なルーチンにぶち当たると、多くの場合「ミスである」すなわちバグとして演算をストップしてしまいます。
そのような問題は「well-posed problem(よく準備された問題)」ではなく、「ill-posed problem(設定不良問題)」である。計算機で解けるよう、きちんと問題自体を刈り揃えてください、とクレームされてしまう。
逆に、世の中の問題の大半は、数式のような形式原語で考えるなら「設定不良問題」で、解く前の段階にある、あるいは検討するに値しない問題である、と考える専門家もいたりする代物にほかなりません。
例えば「ヘイトの問題」あるいは「人権問題」、どのような形であれ「経済問題」「格差の問題」「差別問題」さらには「環境問題」「倫理的な問題」裁判など「法律問題」・・・。
これらすべて、単純な方程式で完備に書き下ろすことなど絶対に不可能で、形式言語を用いてwell-posedな問題に整形などされてはいません。
無理にそうすれば北朝鮮超級の管理国家ということになるでしょう。ナチスの苛政の大半は合理化に端を発します。
生産性が低く国の予算を浪費するだけだとして障害者や精神障害者を殺害したところから、ホロコーストはスタートし、強制労働に従事させられないと判断した者には第一食を供することなくガス室―焼却炉というのも、ほぼ形式言語で記述可能な合理性=非人間性を貫徹しただけと言うことができます。
こういう問題は「解くに値しない」のではなく(そのように考える人も現実に研究機関内に存在しますが)適切に解決するのが難しい、しかし常に人間が取り組み続けねばならない永遠の課題と捉えるべきものです。
少なくとも教養教育はそういう観点をしっかり有知識層に教えなければなりません。
私の理学部物理学科時代の同級生T君は、修士修了後にとある霊感商法教団に拉致、洗脳されて地下鉄にサリンガスを散布する実行犯となってしまいました。何かの教育に欠如があったと思いますので、この20数年、その種のことに私がコミットしてきたのはご存じの方はご存じの通りです。
この種の「解くのが難しい問題」を特徴づけるのには、様々な方法やアプローチがあります。数学基礎論、ゲーデルの論理学、脳科学からのアプローチ・・・。
様々な方法がある中で、以下では比較的容易で、かつ汎用性が高いソシュールの記号論をご紹介しましょう。
ちなみに記号学はアウシュヴィッツ以降、戦後の文学理論として多くの成果を上げ、とりわけフランスに端を発するポスト構造主義の議論は今もって豊かな可能性を秘めていると思われますが、そのような展開を昨今あまり多く目にしない気がしています。
■「あなたのお母さんの顔を想像してみてください」
今、節のタイトルに記した、この言葉の意味が分からないと言う人は少ないと思います。あるいは「意味がない」と言う人もあまりいないでしょう。
「あなたのお母さんの顔を想像してみてください」
どうか読者の皆さんも、一度騙されたと思って、ご自身のお母さんの顔を脳裏に想像してみてください。
で、これ、設定不良的な自然言語の典型なんですね。AIは当分この種のものに太刀打ちできるメドが立たない、子供でも分かる一例として考えてみたいと思います。
「あなたのお母さん」と言われて、100人の人がその言葉を耳にしたら、100通りの「お母さん」が別に存在することが分かるかと思います。
「貴方」のお母さんは今、台所にいるかもしれないし、彼のお母さんはスーパーへ買い物に出かけているかもしれません。私の「お母さん」は10年以上前にこの世を去りました。
たった1つの「お母さん」という言葉、正確には有限確定な文字の列に過ぎないものが、それを受け取る人が10人いればほぼ10通り(兄弟姉妹がいれば重複することがあるかもしれませんが原理的には10通り)の別の「顔のイメージ」が、10人の脳裏に想起されるわけですね。
ソシュールは、この文字列を「記号表現(シニフィアンsignifiant)」と呼びました。
これに対して皆さんが脳裏に想像したお母さんの顔は「記号内容(シニフィエsignifie)」と呼んで区別することができます。
また、この言葉やイメージの対象である実物、台所でニンジンを刻んでいるかもしれないお母さんという実物は「指示対象(レフェラン referent)」として別個に存在するものです。
私の母親は地上に存在しないと考えればレフェラン不在かもしれませんし、青山墓地に収めてある骨壺が母親だとすれば、それが指示対象になる場合もあり得るでしょう。
そう、「あり得るでしょう」と今書いた通りで、自然言語の記号体系は不明確、あいまい(ambiguous)であるのが本質的な特徴になっている。
これを先に挙げた「一意確定」と対応させて考えるなら「多義的(Polysemy)」と表現すると、よりはっきりするでしょう。
自然言語のポリセミー、多義性が厄介なのは、随時随所で意味を生成することができる点にあります。
どういうことか?
これは「ナニがナニしちゃったから、アレ、ナニしといて」みたいな言葉が、随所で無定義に通用するという、私たちの日常で随時使われている「ナニ」にほかなりません。
■ゲノムと多義性
長年連れ添った夫婦がお茶を飲んでいるとします。新聞に目を落としたまま、お父さんが、
「お母さん アレ取って」と言うとき、奥さんが、
「アレじゃ分かりません」と言うのは、意味が解らないのではなく、奥さんの機嫌が悪いらしい、といった別の意味をも含意するでしょう。文学や雄弁術、あるいは卓抜した小説表現などは、こうした指示詞の自在、多義性の文化を誇ります。
翻って、一意確定な記号処理に面目躍如たる電子計算機は、こうしたことが本質的に苦手です。
同じ文字列が様々な意味に解釈され得ること・・・。この「難しい問題」に計算機が大きくアプローチしたのが、ヒトゲノムの解読にほかなりません。
たった4組の塩基記号だけで、私たちの命のすべてが「書かれている」というのは改めて驚くべきことで、ここで発達した「自然言語処理」の技術が今、私たちが常用する検索エンジンやSNS、さらには様々なビッグデータマイニング、AIの技術にも基礎を与えています。
で、もっとも進んだ自然言語処理の技術も、十分に察しが悪いわけです。
居間でお父さんが「アレ取って」と言うとき、指示される可能性がある100の対象を、お母さんはほぼ完全に聴き分けることでしょう。
現在 のノイマン式電子計算機を用いた人工知能やビッグデータ・マイニング
で、こうした「問題」を解くうえで原理的な困難に直面しています。と言いますか、そうした原理的な問題が解決されない限り、ここ当分の間、人工知能は、こうした自然言語の生成する多義性に、ほぼ完全に無力なままにとどまるでしょう。
AIで失われる職種とは、一意確定に記号処理できる範囲のジョブ、タスクにほかなりません。
逆に、AIやIoTが進めば進むほど、選択的に「人間の持ち分」として残るであろう要素は、ソシュールの意味で多義的な文脈の中で意味を判断する業務、そしてそれに責任を取る職種であることが、原理的に、まず外れないと言えると思うのです。
だから、白川先生の「教えない教育」、逆に言えば「自ら調べ、自ら感じ考え、自ら学ぶ」タフな地アタマを育てる「放し飼い」の教育、人材育成が、2020年代以降の21世紀国際社会で、決定的に重要と考えられるわけです。
この先の議論になるかどうかは分かりませんが、何にしろこうした準備を経たうえでの議論は、国立大学協会「大学改革シンポジウム」で展開したいと思います。
10月8日土曜、東大本郷キャンパス福武ホールにお運びいただける方には会場で、また遠隔の方には次回以降の稿で、続きをご一緒したいと思います。
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