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最貧困の「出稼ぎ女性」を襲う過酷すぎる現実
出稼ぎに行った先では何が待っているのか
上野 きより :ジャーナリスト、元国連職員 2016年8月12日
ハレゲウィン・アスマレさん。レバノンから戻り、現在はアディス・アババ西部で暮らしている ©Kiyori Ueno
今や"人類に残された最後の成長大陸”とも言われるアフリカ。なかでも、サブサハラ(サハラ砂漠以南)には大きな潜在力を持つ国が多い。
その代表格がエチオピア。人口9950万人とアフリカ大陸ではナイジェリアに次いで人口が多いエチオピアは、過去10年間連続で約10%の経済成長を達成、2014年の経済成長率は10.3%で世界1位を記録した。そんなエチオピアの素顔を、現地から連続でリポートしていく。
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エチオピアの首都アディス・アババで暮らしていた現在23歳のハレゲウィン・アスマレがメイドとして働くためにレバノンに渡ったのは2年半前のことだった。アディス西部のトタンや泥の家が密集する集落で一緒に育ち、レバノンに出稼ぎに行っていた女性が休暇で戻ってきた際に「働きに来ない?」と誘われたのがきっかけだった。
みるみるうちに裕福に
この女性はアスマレと同じように貧しい家庭の出身。ところが、レバノンでの出稼ぎで裕福な暮らしぶりになっていた。この女性はアスマレに「レバノンで働けば月に4000ブル(約2万円)もらえる」と伝えた。アスマレは、ほかの家庭の状況も目にしていた。同じ集落から中東に出稼ぎに行った女性たちの実家は、泥の家からセメントの家に変化するなど、みるみるうちに裕福になっていったのだ。
アスマレは高校卒業後、専門学校にも行ったが仕事はなかった。父はアディス市内でラバを使って荷物を運ぶ仕事をしており、8人家族の家庭は貧しい。そこで契約書がないまま、メイドとして2年間働くことに合意した。
女性の知り合いという斡旋業者が航空券を手配し、アスマレに「観光客として入国するように」と告げた。2014年2月、レバノンの首都ベイルートに到着すると空港で待っていたのは雇用主である50代の小学校教諭の女性とレバノンの斡旋業者。そこで告げられたのは6人家族である雇用主の家だけでなく、雇用主の娘夫婦の家、そして雇用主の義母の家と3つの家で働くということだった。
アスマレが寝泊まりしたのは90歳近い義母の家。寝室は与えられず、義母のアパートの室内バルコニーに置かれたソファーが寝場所だった。毎朝6時に起きて、食事の支度から片付け、掃除などすべての家事をしなければならなかった。1つの家族の仕事が終わると運転手が迎えにきて別の家へ。週末は娘夫婦の家での仕事が待っていた。どの家でもドアは常にロックされ、外に出ることは一切許されていなかった。エチオピアの家族と話すことが許されていたのは月に1度、10分間だけだった。
高齢の義母は、夜中に突然叫んだり外に出たがるなどし、その度にアスマレも起こされた。「悪い子だ」などとののしられることも多くあり、息子からは何度も殴られたという。「いつも働いていて5分の休憩時間さえなかった。彼らは私のことなど何とも思っていなかった」とアスマレは現在住むアディスの自宅で涙ながらに話してくれた。
最初の2カ月分の給料はベイルートの斡旋業者が斡旋料として取ったため払われなかった。契約書は3カ月目からできたが、雇用契約は2年間で自分からは雇用関係を終わらせられないこと、給料は約束した200ドルではなく、150ドルになっていた。
これ以上続けられないと思うようになっていたアスマレがエチオピアに帰国できたのは偶然からだった。ある日、通りにゴミ出しをしている時に何者かにピストルで殴られた。そのまま意識を失い、気づいたら病院のベッドの上だった。その場にいた雇用主と警察に「仕事を続けられるか」と聞かれ、「ノー」と即答した。病院からそのままエチオピアに帰ってきた。2015年10月のことだった。
帰国後すぐに精神病院へ行くと医師からは当分の間、薬を飲み続けるように指示された。今ではアディスで家族と暮らすが働いていない。まだ23歳の若さだというに、アスマレの髪の毛は白髪になりかけている。
女性はメイドに、男性は建設現場に
アスマレさんが暮らす集落。トタンや泥でできた家が密集する ©Kiyori Ueno
エチオピアは出稼ぎをするために中東諸国に多くの移民を輩出している。石油産出国が多い中東諸国は裕福で、家庭内や建設現場などでの低賃金の労働の需要が多くあり、エチオピアなどの“アフリカの角”の出身者、インドやバングラデシュ、フィリピンなどから多くの移民が出稼ぎに行き、女性は多くがメイドなどの家庭内労働者として、男性は建設現場などで働いている。国際労働機関(ILO)によると、中東は全労働人口に占める移民労働者の割合が世界の中でも最も高く、カタールにおいては全労働人口の94%が移民であり、サウジアラビアでも50%以上が移民だ。
エチオピアでは、貧しい農村出身で教育水準が低い若いエチオピア人女性たちが仕事を求めて中東諸国に働きに出ることが多い。エチオピアの労働社会福祉省によると、2011年には約18万8000人、2012年には17万5000人もの女性たちが正規の移民労働者として中東諸国に渡っている。行き先で圧倒的に多いのはサウジアラビアで、その他クウェート、アラブ首長国連邦などである。
「中東諸国は国内の肉体労働をかなり移民に頼っている。以前はアジアからの移民が多かったが、最近はエチオピアを代表とする“アフリカの角”地域出身者が多くなっている。特に家庭内労働においてはそうだ。」と国際移住機関(IOM)エチオピア事務所のモリーン・ アチエン所長は話す。「“アフリカの角”は人材の供給地であり、そのすぐ近くの中東には(人材が必要な)大きなマーケットがある。結果として需要と供給が合うという状況になっている」
エチオピアは過去10年、約10%の経済成長を記録するなど近年目覚ましい経済発展を遂げているが、いまだに世界の中でも最貧国の1つだ。同国の専門家は経済発展の恩恵を受けているのはほんの一握りのビジネスに携わる人々で、一般のエチオピアの人々や農村部に住む人々はほとんどその恩恵を受けていないと指摘する。また、賃金も安く、エチオピアの繊維工場労働者の賃金はエントリーレベルで毎月40ドルほどだ。
人身売買が行われている
レバノンに渡ったアスマレの例のように、中東諸国で多くのエチオピア人女性たちを待っているのは劣悪な労働環境だ。逃げられないように雇い主にパスポートを取り上げられることや、休みなく長時間働かせられることなどは頻繁に起き、さらにひどいケースでは、言葉による暴力、身体的な暴力や性的虐待を受けたりするなどの例が国際機関や人権団体により多く報告されている。
そのような劣悪な環境に絶望し、中には自ら命を絶つ女性たちさえおり、中東諸国から遺体となって戻ってきたエチオピア人女性たちの例も報告されている。命からがらエチオピアに帰っても精神に異常をきたしてしまう女性たちも多い。
この “現代の奴隷”を可能にしているのが、カファラと呼ばれる中東諸国の制度だ。カファラとは、家庭内や建設現場などで働く移民労働者を管理するシステムで、単純労働者である移民労働者たちは出稼ぎ先の国でスポンサーを持つことが義務づけられている。スポンサーは通常雇用主であることが多く、雇用主が移民たちのビザや法的地位の責任を持つ。このカファラは、スポンサーである雇用主が移民たちを虐待しても法的に問われることがほとんどなく、労働者搾取をしやすくなるとして人権団体から批判されているシステムである。
移民の問題でもう1つ大きな問題になっているのが密航業者による人身売買や強制労働である。国際労働機関(ILO)が2013年に出した報告書によると、中東においては60万人もの移民労働者たちが人身売買により強制労働の犠牲になっているとしている。
アスマレさんが暮らす集落で遊ぶ子どもたち ©Kiyori Ueno
エチオピアでも多くの移民が就労ビザを持たずに非正規移民として中東諸国に渡る。その正確な数は不明だが、正規移民の数倍もの人数のエチオピア人が人身売買により、あるいは違法な斡旋業者の手引きで密入国させられ働かされていると言われている。
中東へ渡る移民の人身売買、強制労働が国際的な問題になるなか、エチオピア政府も人身売買を減らすための対策を取り始めている。同政府は2013年には人身売買を防ぐための措置として中東への就労を目的とした渡航を一時禁止し、2015年には密航業者や人身売買業者たちに対し厳しいペナルティを科す法律を成立させた。現在、同政府は中東各国政府との間でエチオピア移民労働者を保護するための2国間労働協定を結ぶために協議を行っているところだ。
「外国に行けば今よりいいお金がもらえる」
エチオピアでは、建設現場で多くの若い女性たちが泥まみれで男性に混じってセメント袋を運ぶなどの肉体労働をしているのを見かける。その多くが農村部から出てきた女性たちで、よりよい生活を目指して外国に出稼ぎに行くことを夢見ている人も多い。
アディス・アババの建設現場で働くアステル・アバテさん(右)。いつか外国で働いて家族に送金したいと述べた ©Kiyori Ueno
アディス市内の17階建てのアパートを建設中の工事現場で働いているエチオピア南部の町アルバミンチ出身の20歳のアステル・アバテは「今はこの工事現場で働く以外に生きて行くすべはない」と話す。
父親は農家で、既に亡くなっている。アバテが学校に通ったのは小学校3年生までで、何とか読み書きはできる。1年前にアディスに出てきたというアバテは週末もなく毎日働く。1日当たりの賃金は50ブル(約250円)だ。「外国に行けばよりいいお金がもらえる。生活を変えるため、家族のために、アラブの国々でもどこでも国外に行ってメイドとして働きたい」。外国に行けば貧困から逃れ、明るい将来があると信じているのだ。
国際移住機関(IOM)エチオピア事務所のアチエン所長は次のように言う。「当然ながら、自分の国に仕事があれば誰も自分の国を去ったりはしない。エチオピアのような移民輩出国内には非常に大きな経済格差がある。中東に渡るエチオピア人移民の数はこれからも確実に増え続けるだろう」。
われわれ日本人からみると、別世界の話に感じるかもしれない。しかし、これがアフリカの現実なのである。
(本文中敬称略)
http://toyokeizai.net/articles/-/130717
家庭養護が必要な子と里親の知られざる現実
児童養護施設などで暮らす子が4万6000人
大宮 冬洋 :ライター 2016年8月12日
養子縁組と違い、法的な親子関係はない「養育里親」。その現実とは?(写真:わたなべ りょう / PIXTA)
「私たちには子どもがいないけれど、自分たちの老後だけを考えるのはむなしい。未来のために何かしたい、子どもに関わりたい」
前回記事で登場してくれた晩婚さんの言葉が耳に残っている。夫婦とは何か、大人になるとはどういうことなのか。かつては結婚すれば子どもを産み育てるのが当たり前とされていたが、未婚化・晩婚化が進んだ現在では子どもを持たないまま年齢を重ねていく人は少なくない。筆者もその一人だ。
しかし、血のつながりはなくても、家族に子どもを迎えて、育てることはできる。その過程で結婚の意義が深まるかもしれない。上述の晩婚さん夫婦は「養育里親になる」という選択肢を模索している。
養育里親とは何か?
この連載の過去記事はこちら
養育里親(以下、里親)とは、さまざまな理由から家庭で暮らすことができず、乳児院や児童養護施設などで暮らす子どもたちを自宅に預かり、家族の一員として育てる人たちだ。養子縁組とは違い、子どもとの法的な親子関係はない。
正直に言えば、筆者は里親という言葉を「民生委員」と同じぐらい遠く感じていた。どこかの偉い人たちがやっている社会奉仕活動、という感覚だ。
筆者の知り合いに里親経験者はいない。本気で里親を目指し、研修を受けている人に会ったのも前回の晩婚さんインタビューが初めてだった。良い機会なので里親についてもう少し知っておきたいと思った。
東大阪市に本部を置くキーアセットは、2010年に設立され、現在は東京都、大阪府、川崎市、堺市の4つの自治体から里親支援機関事業を受託している。里親のリクルート、アセスメント(評価)、研修、そして里親家庭への訪問支援までを包括的に提供できる数少ないNPO法人だ。代表の渡邊守さん(45歳)に会いに行った。
キーアセット代表の渡邊守さん(撮影:ヒラオカスタジオ)
――渡邊さんご自身も里親としての経験があるそうですね。何がきっかけで里親になったのでしょうか。
私の両親は愛知県で長く里親をしていました。しかし、3歳から預かっていた男の子との関係が途中から悪くなってしまったのです。
母は心労が重なって体調を壊しながらも「自分の命を懸けてでもこの子を育て上げる」という意思を持っていましたが、子どものほうは高校に進学する頃には「1分1秒でも早くこの家から出たい」と希望していました。母が良かれと思ってやっていたことは彼にとってはすべてノーサンキューだったのです。母の味方になってくれる人は何人もいましたが、彼の声に耳を傾ける大人は誰もいませんでした。
その彼を一時保護という形で預かったのが最初です。私は30代半ば。当時、妻との間に子どもはいませんでした。預かったのは使命感ではありません。彼のお世話ができる人間は私と妻しかいませんでした。思春期を迎えた子どもに新たな里親をすぐに見つけるのは難しいのです。うちでは、ルールで縛らずに彼が安全に生活できることを最優先にしました。その後、彼は大学に進み、自分らしい生き方ができる準備ができたようです。
母は彼を手放した2年後に亡くなってしまいました。まさに命を懸けていたんですね。誰が悪いわけでもなく、関係者みんながそれぞれ努力していたのに、子どもも里親も不幸になってしまう。こんな悲劇はうちの母だけで十分だと痛感しました。重要な何かが欠けている。それを埋める仕事をしようと思ったのが、キーアセットを設立したきっかけです。
児童養護施設で暮らす子どもは約4万6000人
――里親に関して欠けているものとは何ですか?
ソーシャルワークです。私の理解では、本来は誰もが得るべきものを得られていない人のために、それを得られるようにする働きすべてを指す言葉です。
地域社会のなかには、さまざまな理由から自分が生まれた家庭で暮らすことができない子どもたちがいます。児童養護施設などで働く方々は一生懸命にそういった子どもたちを支えているのですが、本物の「家庭」で帰属感と安心感を持つことを必要とし、そこで育つことを希望する子どもたちもいるのです。
ならば、実現のために大人が動くべきだと思います。私たちはその実践者の1つとして、1ケースでも多くの里親家庭を増やしていきたい。そして、適切な研修や支援をする努力をしています。
しかし、道半ばにも達していません。いま、児童養護施設などで暮らしている子どもたちが日本で約4万6000人います。
私たちが法人を立ち上げた2010年にオギャーと生まれた子どもが今、小学生になっています。彼らのうちで家庭養護が必要な子どものすべてにその必要なものが行き届いているとはとても思えません。
特に障害を持った子どもは家庭養護が難しいとされています。しかし、難しければそれなりの予算を付けて解決するべきでしょう。
語弊を恐れずに言いますが、子どもたちを愛情深く育てたら、5年後10年後には立派な社会人になり、納税者にもなってくれる可能性が高まります。つまり、里親制度にちゃんとした予算を付けることは日本社会の将来への投資なのです。
――なるほど。子ども好きで気持ちにゆとりのある晩婚さんは里親に向いている気がしてきました。
当然のことですが、私たちは「誰もが養育里親になるべきだ」などとは考えていません。価値観は多様であり、いろんな人がいていいのだと思っています。「全員右にならえ」の社会では子どもたちも育ちにくいですからね。
私たちに問い合わせをいただき、研修を受けられた方の中でも、実際に里親になるのは数%に過ぎません。しかし、残りの9割以上の方々は「脱落」したわけではないのです。里親になるという生き方を選ばなかっただけで、「うちはやっぱり養子縁組をしたい」といった気づきを得る方もいます。
だから、「晩婚さんいらっしゃい!」読者の全員が里親になるのは多すぎます。子どもの数は全国で4万6000人なので里親が余ってしまいますよ(笑)。でも、読者のうち1000人に1人でも興味を持ってくれるとうれしいですね。
里親になるには体力も必要です。子どもたちが何かアクションしたときに、ぐっと我慢して冷静に対処するためには、こちらが元気でなければなりません。現状では50代60代の里親がほとんどですが、30代40代の若い方々が関心を持ってくれるのは大歓迎です。
大人社会へ飛び立つ瞬間
――晩婚さんの中には不妊で悩む夫婦も少なくありません。実子や養子ではなくても「親としての喜び」は得られるものなのでしょうか。
里親の目的は「親」になることではありません。「預かった子どもの将来にポジティブな変化をもたらす存在になること」です。適切な家庭養護をすれば、どの子どもにも必ずその変化の瞬間が訪れる。それは私たちが保証します。
子どもを預かるのは確かに大変です。特に、思春期を迎えた子どもは難しい。でも、もしも彼らを引き受けてくれる方がいるならば、私はこう言いたい。彼らが大人社会へ飛び立つ瞬間をS席で見る臨場感は何物にも代えがたいですよ、と。
子どもを育てたことは自分の人生にすごくプラスになります。私自身も実際に里親をやってみるまでは気づきませんでした。子どもたちの飛び立つ力に励まされるんですね。もちろん、リアルな社会貢献をしているという実感もあります。
さきほど申し上げた男の子は20カ月、次に高校生の女の子を30カ月預かりました。彼らは盆と正月には「ただいま」と言ってうちに帰ってきてくれます。たった数十カ月だけなのに、彼らの人生に意味ある存在として入り込むことができたんです。自分が生きている意味がモノクロからカラーに変わったぐらいの衝撃でした。
次の世代の人生にポジティブな何かを刻むことは、人間として本能的な喜びなのではないでしょうか。法的、生物学的な親でなくてもその喜びは得られます。
――家庭で育つこと、育てることは人間の成長にとってそれほど大事なのですね。
私たちは親からしてもらった「当たり前」のことをほとんど覚えていません。だから、家庭の中でも無意識で振る舞っています。でも、それが当たり前ではない子どもたちがいるんです。
たとえば、おねしょをするたびに母親の恋人から殴られて来た子どもがいます。大人の男性が近くで頭をかくだけでも、殴られると勘違いして怯えるのです。その子がおねしょをしてしまったとき、「大丈夫。心配すんな。大人になったら必ず止まるから」と声をかけてあげる。何でもないことですよね。でも、この繰り返しの経験が彼の未来を変えていくことになります。
子どもはいずれ大人になります。自分の家庭を持つ人もいるでしょう。そのときに、私たち里親がひとつのロールモデルとなるのです。
ある里親家庭ではこんな話を聞きました。預かった少年が、ごく普通のゆで卵に大感激をしたそうです。「おばちゃんのゆで卵は絶妙や!」と。聞けば、中途半端なぬくさに感動したようです。市販のゆで卵は冷たいか熱々かのどちらかですよね。普通のぬくさを自分のために温めてもらったように感じたのかもしれません。
自分の子ども期をきちんと振り返る
自分が子どものときにうれしかったことや傷ついたことを振り返ることが大事(撮影:ヒラオカスタジオ)
――どんな人が里親に向いているのでしょうか。自分の子どもを育てた経験がないとダメですか。
率直に言えば、実子の養育経験があるに越したことはありません。しかし、それを必須条件にはしていません。
いちばん大事なのは、自分の子ども期をきちんと振り返ること。人はもれなく子ども期を経験しています。自分が子どものとき、どんなことがうれしくて、何に支えられ、どんなときに傷ついたのか。すべての経験が里親を助けてくれるのです。その意味では、自らが親からの虐待経験のある大人でも里親になることは可能です。
興味はあるけど私には無理かも、と熟慮してくれる人こそ里親に向いています。完璧な子どもがいないのと同じく、完璧な里親などはいません。必要な部分は私たちがサポートします。
繰り返しになりますが、里親になるならないは生き方の問題です。すべての人に合った生き方とはいえません。他人の子ども、しかも親と離れて深く傷ついた経験を持つ子どもを自宅に預かるわけですからリスクも必ずあります。リスクを軽減するのが私たちの仕事ですが、それでもゼロにはなりません。
しかし、誰かが負ってくれなければ、そのリスクは子どもたちが一生をかけて払っていかねばなりません。貧困や犯罪などの形で社会に顕在化する場合もあるでしょう。
私たち自身の生い立ちを振り返ってみても、身近にいる大人の誰かが必ずリスクを負ってくれたのです。実の親だけでなく、親戚、学校の先生、先輩かもしれません。
かつては自分が大人にリスクを負ってもらった。愛情深く、辛抱強く育ててもらった。だから、今度は自分の番だ。そう感じる人からの問い合わせを私たちは待っています。
「よき大人」になるには
子どものいない筆者は、友人の子を前にしたとき、「大人としてどう振る舞えばいいのだろうか」と考え込み、戸惑うことが多かった。そのぎこちなさが子どもに伝わるのか、たいていの場合は懐いてもらえない。
しかし、渡邊さんは言う。大人が無意識のうちにやっていることは子どもにとっては当たり前ではないのだ、と。自分が子どもだった頃、大人にしてもらってうれしかったことは何なのか。風邪で寝込んでいたとき、家事全般が苦手な父親が一生懸命にむいてくれたりんごの味をなぜか思い出す。両親や親戚が仲良さそうにおしゃべりしている様子を見るのも好きだった。面と向かって真剣にしかってくれた学校の先生の顔も覚えている。
完璧な大人を演じる必要はない。当たり前のことを少し意識的に行うだけで、子どもにとってポジティブな存在になりうるのだ。実の親や里親になるかどうかは個人の選択だが、ほんの少しの心掛けで「よき大人」にはなれるかもしれない。
http://toyokeizai.net/articles/-/130147
伸びる子の親は日々「好奇心」で生きている
親の姿勢が子どもに伝播するという真実
石田 勝紀 :緑進学院 代表取締役 2016年8月11日
親自身、日々ワクワクしながら過ごしていますか?(写真: Choreograph / PIXTA)
小学校低学年から高学年、そして中学生へ……。周囲に私学を受験する子も増える中で、わが子の成績や先々の進路がまったく気にならない親はいないだろう。どうすれば少しでもいい点が取れ、より上位の学校に進学できるのか。そもそも子どもにやる気を起こさせるには?
約25年にわたり学習塾を運営し、3000人以上の子どもを指導、成績向上に導いてきた石田勝紀氏は「心・体・頭のしつけ」をすることが重要と語ります。この連載では石田先生の元に寄せられた親たちのお悩みに答えつつ、ぐんぐん伸びる子への育て方について考えていきます。
※石田勝紀先生へのご相談はこちらから
【質問】
小1の娘がいます。書き取りや単純な計算問題などにはすぐ飽きてしまって、あまり得意ではありません。学校には、一人ひとりの個性を見て、知的な好奇心を刺激するような授業を期待したいところですが、その部分は家庭などで補う必要があると感じています。
このままいけば、娘は単純作業的な勉強には飽き、学校での授業や学問全般を軽く見てしまい、要領よくやりはするけど、そこで成長を止めてしまい、本質的な知の追求の醍醐味を味わえる境地には行き着けないのではないか、と心配しております。
体験型の学習をするといいように言われますが、効果はあるでしょうか。例えば、博物館や科学館に連れて行ってその内容を話し合う、実験やワークショップを体験させる、植物や生物の観察など身近な自然に触れる時間を大事にする、ボードゲームなど頭を使うゲームをする、図書館などでやっている調べ学習コンテストに参加する、自分たちでイベントを企画してやってみる……などです。
また、偉人の伝記を読ませるとロールモデルが持ててよいということも聞きますがどうなのでしょうか。ワクワクした気持ちで「もっと知りたい!」と自ら学習していくような人間を育てるために、親はどんなことができるでしょうか。
(仮名:山根さん)
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【石田先生の回答】
山根さん、お便りありがとうございます。日本の教育の現状についてよくご存じで、しかも娘さんの学習環境についてもしっかり把握されようとしていらっしゃいますね。とても素晴らしいことだと思います。
文章を拝読すると、山根さんのご質問の核心は、「ワクワクした気持ちで『もっと知りたい!』と自ら学習していくような人間を育てるためには親はどうしたらよいか?」ということかと思いましたので、それについてお答えしていきたいと思います。
親が日々ワクワクする感覚を持とう
私が考える答えはこれです。ずばり、
「親が、日々ワクワクした気持ちで『もっと知りたい!』と自ら学習していくような人間であればいい」
ということです。
山根さんに挙げていただいた、好奇心を育めそうな取り組みの事例、私は、それらは有効的だと思いますが、ただやればいいというものでもないとも思っています。親が興味関心を持っておらず、好奇心の「種」がない状態で、ただ子どもの知的好奇心のためと思って実践させた場合、効果は半減するどころか、ほとんどなくなることもありえます。山根さんは、おそらくそうお感じになっているので、疑問に思っていらっしゃるのだと思います。
ではどうすれば、親が日々ワクワクする感覚を持ち、もっと知りたいという状態になれるでしょうか。
子育ては一大事業です。人ひとりを、時間をかけて育てていくことは、本当に大変なことです。忙しく、時間的ゆとりがない生活の中で「『ワクワクした気持ちで』『自ら学習していく』なんととんでもない!」と思われるかもしれません。しかし、そのような状況をいったん横において見つめなおしてみましょう。「自分がワクワクできることは何なのか?学びたい!知りたい!やりたい!と思うことは何なのか?」ということを親自身が考える必要があるのです。
ある保護者とのやり取り
私が以前、面談をした溝上さんというお母さんとのやりとりをご覧ください。
溝上さん:「私は、勉強というのは、好奇心を持って取り組んでいくことが大切と思っていますが、うちの子はなかなかそれがわからないようで、勉強しません」
私:「そうですよね。勉強に限らず、何でも好奇心が原動力になりますね」
溝上さん:「その好奇心、どのように持たせていったらよいのでしょうか」
私:「ところで、お母さんは勉強について学生時代いかがでしたか?成績が良かったかどうかではなくて、好奇心を持っておられたかという意味なんですが」
溝上さん:「比較的真面目にはやっていたと思いますが、好奇心はあまり持ってはいなかったですね〜」
私:「今はいかがですか?英数国といった勉強ではなくて、何か好奇心を持って学ばれていることはありますか?」
溝上さん:「いえ、特にありません。私は仕事を持っているので、子育て、家事もありそれどころではなくて……」
私:「そうですよね。余裕はないですよね。しかしですね、重要な事実があるんです。それは、親の思考や思い、さらに好奇心が子どもにコピーされるというものなんです」
溝上さん:「……(唖然としている。驚きと共に沈黙)」
私:「好奇心が人々の行動を促しているのですが、大人になると日々の忙しさの中でくたびれて、好奇心が封印されしまうことも多いですよね。ですから、溝上さんも、ワクワクすること、学びたいこと、知りたいことをやってみてはいかがでしょうか?」
何も数学や英語の勉強を親がもう一度する必要はないでしょう。そうではなくて、親が好奇心を持てることに対して「学ぶ姿勢」を日々の生活の中で表現できているかどうかということが重要なのです。
親の興味関心と子どものそれが異なることは当然のことです。ですから親が関心を示したことに子どもが関心を示す必要は必ずしもありません(ただ、同じ場合も結構多いですが)。
しかし、親が示す“好奇心”そのものの影響を子どもは受けるようになっていくのです。ここが重要な部分です。もう一度いいます。
「親の持つ“好奇心”そのものが子どもに伝播する」
ということです。
私はいつも口癖のように
「日々、楽しんでしまおう」
「一見つまらなくみえるものを、面白くしてしまおう」
と言っていますが、要するに、「好奇心」という原動力を動かすがためなのです。これが動きだすと、山根さんに挙げていただいた、博物館や美術館、ワークショップや図書館、偉人の伝記など、これらの活動がすべて生きてきます。
そしてその過程の中で、山根さんが心配されている、「単純作業的な勉強には飽き、学校での授業や学問全般を軽く見てしまい……」ということもなくなります。なぜなら、好奇心によって知的作業や知的内容に興味を持つと、その手段としての「書き取りや計算」が必要だということを実感するようになるからです。
もう少しわかりやすく説明しましょう。
こうすれば好循環が生まれる
確かに書き取り、単純計算は、それだけではつまらないものです。理由は簡単です。日々の生活とリンクしていないからです。しかし、例えば子どもがお菓子作りに興味をもった場合、作り方が書いてある文章を読むには「字」が読める必要があり、分量を知るには「数字」が必要になりますね。
「好奇心」→「興味関心分野」→それに達するための「読み書き計算といった“道具”」
という流れができるのです。
そして、読み書きや計算の練習をするにつれて、自分がワクワクすることや知りたいことを、もっと知ることができるという手応えが出てきます。こうして、
「読み書き計算といった“道具”」→「興味関心分野」→「好奇心」
というサイクルが生まれ、さらに好奇心が強化されていきます。
もちろん、この通りに全てうまくいくとは限りません。人には多様な個性がありますから、単純にこの仕組み通りにはいかないこともあります。しかし、大きく捉えてみると、私のこれまでの経験からは、このような構造になっていることが多いと感じています。
これを機会に、お母さん自身が自らを振り返って、自分がワクワクすることは何なのかということを見つけてみて、お母さんの好奇心を輝かせてみてはいかがでしょうか。
http://toyokeizai.net/articles/-/130931
50歳程度で「引き算」の人生をしてはならない
松下幸之助は「160歳まで生きる」と考えた
江口 克彦 :故・松下幸之助側近 2016年8月12日
松下幸之助は85歳のときに「松下政経塾」を創設した(撮影:高橋孫一郎)
松下が「160歳まで生きる」と言いだしたのは80歳のときであった。誕生日にある人からお祝いをもらったところ、その熨斗(のし)に「半寿」と書いてあった。「半」という字を分解すると「81」になる。満80歳は数えで81歳だから、それで半寿という。言葉の遊びにすぎないが、80歳が半分ならば「全寿」は160歳。それでは自分は全寿をまっとうしよう、と言いだしたのである。
松下がこのようなことを言いだしたのは、これが初めてではなかった
130歳まで生きると言い出したことも
その前には106歳まで生きるのだ、と言ったこともある。106歳まで生きると、19世紀から21世紀までの足かけ3世紀にわたって生きることになるからであった。あるいはそののち、130歳まで生きると言ったこともある。日本の長寿記録が124歳だから、その記録を破りたい。125歳まででもいいけれど、まあ、切りのいいところで130歳までにしようということであった。
130歳まで、と松下が言いだしたころ、私は京都・大徳寺の立花大亀老師に呼びだされたことがあった。「松下さんが130歳まで生きるとか言っておるようだが、もし生きれんかったらみっともない。ああいうことを言わないように伝えてくれ」ということであった。
しかし私はそれを松下に伝えることはしなかった。なぜなら、松下はたとえそれより早く死ぬことになったとしても、そのぎりぎりまで全力を尽くして生きぬくだろう。しかしもし、死ぬのが明日かもしれない、1年先かもしれないなどと考えていれば、その生き方も必然、力弱いものになってしまう、と思ったからだ。
実際、松下は満94歳で亡くなったが、そのぎりぎりまで全力を尽くして生きぬき、最後まではっきりとした意識でその人生をまっとうすることができた。
160歳まで生きるという強い気持ちがあるから、亡くなる直前であっても精神が前向きであった。だから松下は、息を引き取る寸前、松下病院の横尾院長が「これから管を入れます。ちょっと苦しいですが、どうぞ我慢してください。よろしくお願いします」と言ったところ、病床で横になりながら、「いやいや、お世話になるのは私のほうだ。私のほうこそお願いします」 と言った。
「まだまだ成功したとはいえん」
最後の瞬間まで、相手の気持ちを思いやる、はっきりとした意識を持っていた。最後まで人を思いやることができたのは、松下が「106歳まで生きる、いや130歳まで生きる、いやいや160歳までも生きるんだ」という気持ちを持っていたからだと思う。
たった3人で始めた事業が、最後には関係先まで含めると数十万人の大きな会社になったとき、人びとは松下を成功者、今太閤、経営の神様とほめたたえた。しかし松下自身は、決して成功とは考えていなかった。
「人間として生まれてきた以上は、人間としての成功が大事や。そういう意味ではまだまだ成功したとはいえん」と思い続けていた。松下は、人よりも高い山を極めた人であったが、しかし、その先にはもっと高い山を見ていた。
亡くなる年の正月のことだった。1月4日、私は伊勢神宮にお参りに行き、その夜、御札と御神酒を持って松下の自宅を訪問した。正月料理をすすめてくれた松下は、大学建設の夢について話しはじめた。それも、その大学の理事長になるということではなく、自分が第1号の学生になりたいという夢であった。
「まだまだ勉強せんといかんもんが、いっぱいあるわけや。勉強しようと思うんや。それでまず時間割な、あれを考えてみたらどうやろな」。学ぶ姿勢、そして熱意は最後までとどまることがなかった。
人は誰でも50歳を過ぎると、引き算の人生になりがちである。保身に走りやすくなる。70歳を越えると、桜の花をあと何回見ることができるだろう、もう最後も近い、と思う人が多いらしい。そう考えれば、生き方も消極的にならざるをえない。元気もなくなるし、弱気になる。
しかし、160歳まで生きるのだと思えば、引き算の人生どころではない。まだ80年も生きるのだと思えば、やりたいこと、やらなければならないことが、つぎつぎと湧き起こってくる。気力も出てくるし、ぼけている暇もない。実際、松下は晩年までたくさんの夢を抱き、その実現のために行動を起こし続けた。
「松下政経塾」を創ったのは、85歳のとき
松下が政治家を養成する「松下政経塾」を創ったのは、85歳のときであった。いままでにその政経塾から十数名の衆議院議員が誕生し、活躍している。また、結局は実現しなかったとはいえ、新政党の結成を最終的に意図したのはなんと90歳のときであった。多くの人びとが、そのように精力的かつ積極的な松下の提案と実行に驚嘆した。
松下が最後までいろいろな発想と実行ができたのは、ひとつには160歳まで生きるのだという強い意志があったからだということを、私は間近に見てきた。そして、目標を大きく設定することによって、松下は最後まで死にとらわれることがなかった。
だから、満80歳のときに160歳まで生きようと思った松下の決意は、さまざまな形で実を結んだと言っていいと思う。そして、人間としての成功も見事に果たした、と言っても、おそらく誰からも許していただけると思う。私もまた、同じようにありたいと思っている。
http://toyokeizai.net/articles/-/131388
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