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記紀神話で遊ぼ・・7回目の終了です(その6の58)・「雄略天皇は短命で、傀儡政権だった」
http://www.asyura2.com/16/bd62/msg/529.html
投稿者 どう思われますか 日時 2018 年 12 月 24 日 09:51:09: Qy4l4lPG05pBg gseCpI52gu2C6oLcgreCqQ
 

★ あらかじめ御断わりしておきますが、私の投稿文は記紀神話をベースにした発想から「とんでも論」を展開していますので、『おかしいのでは』と思われても、『そこは記紀神話の事ですから』ということで御理解ください。

★ また、私の投稿は、記紀神話を学術的に研究するためではなく、記紀神話の二重性とか多重性とか二元論的な反面性などを指摘して、掲示板でオカルト・スピリチュアル的な「お花畑」として遊ぶ事を目的としています。


@ ところで、「雄略天皇は短命で、傀儡政権だった」に、ご興味をお持ちでしょうか。

 今回は、何の根拠も無い、単なる「想像」に過ぎません。

 まあ、想像で物を言っているのは「学者の常」で有りまして、敗戦後には「騎馬民族渡来説」が猛威を振るった事も有りましたし、「九州王朝説」も脚光を浴びた事も有りました。


 誰が何を言おうと、それは「言論の自由」であり「表現の自由」です。大事な事は、科学的・論理的に思考し、シーケンサー的に判断し、「社会通念上の客観的合理性」で精査することです。


A 雄略天皇は短命だった。

 雄略天皇の名前は、古事記では「若健」(大長谷若健)です。「大長谷の宮」の伝承地は奈良県桜井市黒埼または岩坂あるいは初瀬(はせ)と言われています。長谷寺に行く途中の谷間です。

 「丹後国風土記・逸文・浦の島子」では、雄略天皇を「長谷の朝倉の宮に天が下を治めた天皇」と呼んでいます。朝倉は上記と同じく、長谷寺に行く途中の谷間です。

 「日本書紀」では、「大泊瀬幼武天皇」(オオハツセ・ワカタケル)と呼んでいます。伝承地は奈良県桜井市初瀬(はせ)で、上記と同じく、長谷寺に行く途中の谷間で、長谷寺の近くです。


 以上の総合から、雄略天皇は若かった。そして、天皇の名前は、記紀神話編集委員会が、生前の業績・エピソードなどを勘案して、ふさわしいニックネームを付けているのです。
 もちろん、天皇の実名では有りません。天皇が実名を公開しませんから、分りません。


B 雄略天皇は、478年に崩御した、らしい。

 日本書紀・雄略天皇・即位20年に『廿年冬、高麗王、大發軍兵、伐盡百濟。・・』とあり、「高句麗が大軍で百済を滅ぼした」、と書かれて有ります。
  その続きには『・・百濟記云「蓋鹵王乙卯年冬、狛大軍來、攻大城七日七夜、王城降陷、遂失尉禮、國王及大后、皆沒敵手。」とあり、「百済記によれば、蓋鹵王(カフロ・オウ)の乙卯年(475年)の冬に、狛(高句麗)が来て、云々」、とあり、475年に百済が滅亡したことに成ります。

 そして、雄略天皇・即位23年に『廿三年夏四月、・・・八月庚午朔丙子、天皇疾彌甚、・・・崩于大殿。』とあり、即位23年8月に崩御しています。(これは日本書紀・清寧天皇・即位前期にも『廿三年八月、大泊瀬天皇崩。』と有ります)。

 よって、即位20年が475年だから、即位23年は478年に成るわけです。また、継体天皇の即位が507年ですから、前後の関係から考えて、多くの研究家が「478年崩御説」を支持しています。

 (祖父の仁徳天皇が390年代の初めに生まれ、父親の允恭天皇が420年代に生まれ、雄略天皇が450年前後に生まれたと推理しますが、本当のところは、分かりません)。


C 雄略天皇は、ハプニングで天皇に成ったに過ぎない。

ア) 雄略天皇の父親の允恭天皇が崩御した後は、お決まりの「皇位争奪戦」が勃発しました。

 允恭天皇の次の天皇には、仁徳天皇と「日向の諸縣の君の牛の娘の髮長媛」の間に生まれた「大草香皇子」が筆頭候補に上がりました。これに対して、仁徳天皇の子供の「允恭天皇の遺族グループ」が反発しました。

 (雄略天皇の兄の安康天皇から見ると、大草香皇子は「叔父さん」に成る訳で、順序から見ると順当なのですが、政権を失うと、いつ殺されるか分りませんでした。
   つまり、
 「血を血で洗う」乱闘の時代でしたから、権力を失うと、「政敵」として抹殺される危険が有ったためです。それに、十分な収入源を断たれてしまうと「三度の飯」にも困ります)。


イ) このような背景から、「允恭天皇の遺族グループ」が、様々な謀略を使って、大草香皇子の排除に成功して、次の天皇には、允恭天皇の子供の安康天皇が即位する事に成りました。

 そのことによって、ほとんど場外に居た若健皇子(雄略天皇)が歴史の表舞台に登場する事に成った訳です。この時の若健皇子は未成年の子供だったと想像されます。


ウ) 雄略天皇の兄の安康天皇が、マヨワ王に殺害される、ハプニング。

 雄略天皇の兄の安康天皇が、先に蹴落とした大草香皇子の子供のマヨワ王に殺されるというハプニングが発生しました。

 この異常事態に対して、「允恭天皇の遺族グループ」が一斉に反発し、復讐戦を行い、マヨワ王を殺し、大草香皇子の一族をボコボコにし、マヨワ王を支持した葛城氏も滅ぼしてしまいました。


エ) 雄略天皇の即位の前に、市辺天皇が立ちふさがった。

 安康天皇の不名誉な崩御の後には、雄略天皇が即位した訳では有りません。

 仁徳天皇の子供で、雄略天皇の「伯父さん」に当たる)履中天皇の、その子供の市辺之忍歯王(イチヘノ、オシハオウ)が、市辺天皇として即位しました。
  (つまり、安康天皇・雄略天皇・マヨワ王・市辺天皇は、「いとこ」の関係です)。

 雄略天皇が即位できなかったのは、この時、未成年の子供だったから、天皇に成れなかったのです。(想像です)。
 (もしも、成人であったなら、「允恭天皇の遺族グループ」が推挙できたが、未成年では推挙が出来なかったと思うからです)。


オ) 謀略の末に、雄略天皇が即位して、オケ・ヲケの2人の幼子は刺客に怯えた。

 市辺天皇の短い乱闘の時代を経て、謀略によって、ついに、雄略天皇が即位しました。

 この時、市辺天皇と、弟の御馬皇子が殺されました。市辺天皇の幼いオケ・ヲケの2人の皇子は、舎人の日下部連に連れられて、着の身着のままで、逃げるだけ逃げて、日下部連の領地の有った丹後国与謝郡に隠れました(顕宗紀・穴穂天皇三年の条)。
 その後、忍海部の屯倉が有った兵庫県の山奥の播磨国シジミの代官の忍海部造に匿われて、隠れて生き延びました(顕宗紀・穴穂天皇三年の条)。
 やがて、時が移り、雄略天皇の遺児の清寧天皇が、妻子無く若くして崩御すると、(オケ・ヲケの叔母説と姉弟説のある)飯豊皇女(忍海郎女)が、忍海角刺宮でリリーフの女帝に立ちました。オケ・ヲケの2人の皇子は、奈良の都に復帰して、弟のヲケ皇子が顕宗天皇に、続いて兄のオケ皇子が仁賢天皇に即位しました。

 (飯豊皇女(忍海郎女)の忍海角刺宮と、忍海部の屯倉の播磨国シジミの忍海部造は、「忍海」で繋がっています。
 また、オケ・ヲケが政権に復帰すると、雄略天皇の支持母体だった平群氏は、ボコボコに復習されました。(古事記)。


 ★ 本当のところは、このオケ・ヲケの出自は謎です。兄弟の関係も分かりません。家族関係も信用できません。何もかもが、「闇の中」です。記紀神話の記述は信用できません。


D 葛城氏の滅亡と、マヨワ王の関係。

ア) 葛城氏は、いつから、マヨワ王を支持したのか。

 (古事記によると)、マヨワ王が安康天皇を殺害した後で、葛城氏の家に逃げ込んで、雄略天皇の軍隊に、マヨワ王と共に葛城氏も滅ぼされた事に成っていますが、実は、違うのではないか。

 本当は、葛城氏はマヨワ王を支持していた。あるいは、それ以前に、マヨワ王の父親の大草香皇子の天皇即位を支持していたのではないかと、疑うのです。

 だから、雄略天皇は、葛城氏が許せなかったので、葛城氏を攻め滅ぼした。

 (しかし、本当のところは、雄略天皇には力が無くて、「雄略天皇の支持グループ」が葛城氏を滅ぼそうと画策した。そして、葛城氏が持っていた権勢を奪い、領地や財産の全てを奪い去った。だからこそ、葛城氏を上回る大軍を動員できた)。


イ) 「反葛城氏のグループ」。

 葛城氏のルーツは、神功皇后時代に大臣として権勢を振るった「武内宿禰」ですが、武内宿禰には、葛城氏・羽田氏・許勢氏・蘇我氏・平群氏・紀氏・若子宿禰の7人の男子と2人の女子がいました(古事記の説)。

 仁徳天皇の孫の雄略天皇の頃には、葛城氏も、武内宿禰の孫の世代になっており、「武内宿禰ファミリー」も複雑な権力闘争が発生していました。

 つまり、(日本書紀の記述を読むと)、雄略天皇の支持母体には、平群真鳥が大臣に成り、その他には、近江の息長氏・越前の豪族・近江の豪族・奈良の三輪君・大伴氏・物部氏・吉備氏などが挙げられます。

 それから、武内宿禰の子供で葛城氏初代の「葛城襲津彦」の子供は、「葦田」「玉田」「的戸田」に分かれ、雄略天皇に滅ぼされた「円(ツブラ)」は「玉田」の子供との説が有ります。
 ですから、葛城氏の一つを取って見ても、複雑な内部事情・権力闘争が見られます。


ウ) 「武内宿禰ファミリー」は、神功皇后の時代には武内宿禰が隆盛し、仁徳天皇の時代には葛城氏が隆盛し、雄略天皇の時代には葛城氏に代わって平群氏が隆盛し、オケ・ヲケの天皇時代には平群氏が滅ぼされ、継体天皇の時代には許勢氏が隆盛しました。


E 雄略天皇の、人物像。

 記紀神話に残されたイメージでは、「若い」「幼い」「健」「武」「猛る」です。ここから連想されるのは、「ワンパク」であり「やんちゃ」であり「暴力的」であり「狂気」です。

 雄略天皇が生まれ育った時代は、朝鮮半島情勢が緊迫化し、度々の「朝鮮出兵」に豪族たちがヘトヘトに疲れ、ついには、吉備氏が朝鮮で任務をボイコットする事件も発生しました(日本書紀・雄略天皇即位7年の条)。また、百済の滅亡(日本書紀・雄略天皇即位20年の条)と復興の動乱の時代でも有りました。
 また、その他の豪族たちも、無茶苦茶な朝鮮経営を続けたと思います。

 国内では、皇位争奪戦で、皇子や豪族たちが、敵味方に分かれて乱闘を続けていました。そんな時代に、雄略天皇が生れ育った訳です。ある意味において、雄略天皇は「哀れ」でも有ります。


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