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記紀神話で遊ぼ・・7回目の終了です(その6の27)・「日本は、朝鮮半島に「ゆかり」が有った」
http://www.asyura2.com/16/bd62/msg/400.html
投稿者 どう思われますか 日時 2018 年 5 月 21 日 09:47:26: Qy4l4lPG05pBg gseCpI52gu2C6oLcgreCqQ
 

★ あらかじめ御断わりしておきますが、私の投稿文は記紀神話をベースにした発想から「とんでも論」を展開していますので、『おかしいのでは』と思われても、『そこは記紀神話の事ですから』ということで御理解ください。

★ また、私の投稿は、記紀神話を学術的に研究するためではなく、記紀神話の二重性とか多重性とか二元論的な反面性などを指摘して、掲示板でオカルト・スピリチュアル的な「お花畑」として遊ぶ事を目的としています。


@ ところで、「日本は、朝鮮半島に「ゆかり」が有った」に、ご興味をお持ちでしょうか。

 実は、縁(ゆかり)ということですが、今の日本人の大半の先祖のルーツが、揚子江の河口に発生した呉越系の倭人に突き当たり、頂点が呉王に繋がると、想像します。

 (その意味において、日本人は、周王朝の同族の「姫氏の国」であり、漢民族の本流であり、本来の中国人です。

      朝鮮半島には、「縁(ゆかり)」が有っただけです)。

  (平安時代の日本書記の講書に、『この国が姫氏国と呼ばれるのはなぜか』の問いに、『周呉の王姓は姫で、日本は姫氏の国と中国は認識している』との記録が、有るらしい。(真偽不明、要確認)。


A 多くの氏族が朝鮮半島から、日本に「帰化」したが、元々は同族だった。

ア) 「姓氏録」の渡来人。

 「姓氏録」には、「諸蕃」の渡来人で日本の豪族・貴族になった氏族が記載されています。

 (本家・分家の重複を含め、「未定・雑姓」も含めて)、「高麗」(高句麗)が50氏族くらい、「百済」が120氏族くらい、「新羅」が20氏族くらい、「任那」が10氏族くらいになります。

  (ただし、「姓氏録」の編纂以前に滅亡した氏族は含まれませんから、実際には、もっと多い氏族が渡来しています)。

  これで見ますと、百済からの渡来人が圧倒的に多いことが分かりますが、百済と日本は、同じ「扶余族」(あるいは「濊族」)の起源を持つ「兄弟国」だったことが、推測されます。

  また、日本と敵対していた「高麗」(高句麗)の氏族も多いのですが、668年に、高句麗が唐・新羅の連合軍に滅ぼされたときに渡来したのかも知れませんが、分かりません。
  ただ、高句麗の中には、百済と同族の「扶余族」が同化していたので、日本とも親戚関係になるので、百済の縁や、日本の縁を頼って、「高句麗系扶余族」が亡命して来たのかも、知れません。

 新羅系が少ないのは、新羅は朝鮮半島を統一して存続したので、日本に亡命する必要が無かったのかも、知れません。

 任那系が少ないのですが、これは「ウソ」だと思います。つまり、日本人は任那を基点にして渡来しましたので、任那=日本人であり、本来の任那人は「姓氏録」の「皇別・神別」に収まっており、その枠からこぼれた氏族が任那系に収まったと、思います。


(実は、「姓氏録」で、一番多かったのは「中国系」だった)

 私たちは、渡来人と云うと「朝鮮半島系」を想像しますが、実は、中国系が一番多くて、(本家・分家の重複を含め、「未定・雑姓」も含めて)、「諸蕃・漢」が160氏族くらい有り、「百済」の120氏族くらいよりも、遥かに多いのです。

  ここで、中国人といっても、中国から直接、日本に来た氏族は少ないと思います。

 呉の遺民や、秦の遺民や、漢の遺民などが渡来しましたが、彼らは、国の滅亡後は、直ちに朝鮮半島に逃亡したとか、「五胡十六国」時代の大動乱を逃れて、朝鮮半島で命脈を保った人々です。

 朝鮮半島が、2百年代の晩期から660年代の百済や高句麗の滅亡までの4百年間にわたり、高句麗・百済・新羅が「三つ巴」の戦乱に明け暮れると、亡命中国人は「朝鮮半島の安住の地」を失いました。

   そこで、日本人が「呉越系倭人」の子孫であることを知っていましたから、『先祖は黄帝であり、同じ中国人』という「ゆかり」を頼って、日本に亡命したのが、本当だろうと思います。

   (その当時の日本は、朝鮮半島より遅れた野蛮国だったと思いますが、文句を言っても仕方が有りません。「倭の五王」時代から、日本の拠点の有った「任那日本府」経由で博多に上陸して、続々と日本に亡命しました)。


B なぜ、渡来人が優遇され、領地を与えられ、多くが高位高官に上ったのかという、疑問。

 ここで、渡来人の多くが、領地を与えられ、(中には、昇殿を許される五位以上になった者が出るほどに)、高位高官に上った氏族が続出しました。

 今日、一般的に、政治難民とか、「ボート・ピープル」とかを、人道的に受け容れる国は、アメリカやヨーロッパに限らず、世界中に有りますが、広大な領地を与えたり、「外国人」を高位高官に処遇する国は、有りません。

  すると、なぜ、日本は、渡来人に広大な領地を与え、「子孫」というだけで高位高官を与えたのかという疑問が生じます。


ア) 彼らは、文明人だった。

 渡来人は、「一般大衆」ではなく、王族・貴族、あるいは領地を支配していた豪族でした。

 たとえば、「秦氏」を挙げますと、支配下に数十県とか百数十県とかの、数百名・数千名の一族郎党を率いて、日本に帰化したと云われています。

  (秦氏を朝鮮半島の貴族・豪族と考えますと、家庭教師を雇って文字を学び、学問を修め、農業や養蚕や病気の治療法など、あらゆる科学知識を習得していた文明人だったと、想像します)。

 大陸に遅れる古代日本にとって、科学や文化の輸入は、国の近代化に必要不可欠でした。

 
(漢字について)

 日本には文字(漢字)が有りませんでしたが、卑弥呼の時代から漢字を知っていたし、通訳・翻訳する者も居たと思いますが、使い勝手が悪くて、実用化できませんでした。

  つまり、(「古事記」にも有るように)、日本語の発音や言葉の意味と、漢字の発音と意味が一致しなかったためです。また、「行く・行こう・行け」などの活用変化に漢字では対応できなかったためです。


イ) 彼らは、土木技術に優れており、灌漑工事や治水工事に、必要だった。

 たとえば、「秦氏」を挙げますと、大阪府寝屋川市の「太秦(ウズマサ)」や「秦町(ハダチョウ)」の地名や、京都市右京区の「太秦」などの地名に足跡を残していますが、渡来人の高い土木技術で沼地や原野が開かれ、治水工事も行われました。

 遠くは関東平野の利根川水系の開発に携わるなど、各地の国土の開発に大きく貢献しました。

 「倭の五王」以降の日本は、外にあっては朝鮮半島に遠征して、高句麗の南下を食い止めたり、新羅の膨張を食い止めたりして、任那の滅亡を食い止めました。
 内にあっては、食料増産のために、田畑の開墾を進めて、国家の基盤を固めて行きました。


ウ) 彼らは、大王家や豪族の親類縁者だった。

 朝鮮半島系の渡来人の多くが王族や貴族であり、日本の大王家と出自を同じくする「扶余族」あるいは「濊族」でした。あるいは「呉越系の倭人」だったかも知れません。
 あるいは、「任那日本府」時代に縁戚関係を結んだ中国系氏族だったかも、知れません。

 いずれにしても、『血は水よりも濃い』であり、(古代中国人の考え方と同じく)、同姓・同族が固まるという「大家族主義」、「人治主義」の結果、日本の親戚筋を頼って、戦乱の朝鮮半島から日本に「安住の地」を求めたのだろうと、思います。

  (★ 雄略天皇を含めて「倭の五王」時代は、武内宿禰の子孫の葛城氏や蘇我氏や平群氏や紀氏などや、安曇氏・吉備氏・物部氏・大伴氏などの大豪族の力が強くて、政治は「豪族会議」で決められ、渡来人の受け容れや領地なども決定されたものと、思います。

   (「大化の改新」で天皇の軍隊(官軍)が創設されるまでは、天皇は豪族の軍隊に依存しました。雄略天皇の権勢も、それを支持する豪族の背景に成り立つものでした)。

  ですから、無関係な氏族の受け容れや、個人が「ボート・ピープル」で日本に渡来することは無かったと思います。(無関係な個人が来日しても、殺されたか、奴隷(奴婢)に売り飛ばされたと思います)。


C 洛東江は、母なる大河だった。

 古代日本にとって、「弁辰の鉄」を産出して日本に供給し、狗邪韓国(後の金官加羅)の臣民を育んだ(朝鮮半島南東岸の)洛東江は、母なる大河でした。


D 百済とは兄弟だった。

 百済と日本は、ルーツを同じくする兄弟国であり、(「広開土王碑」に)、396年の高句麗による百済攻撃で、百済は降伏しましたが、南部に逃げた敗残軍を日本は救済し、その後も支援を続けました。

 660年に後継百済が滅亡し、663年の白村江の大敗で完全に百済が消滅しましたが、前後して、(百済の王族・貴族に限定されますが)、百済の亡民を受け容れました。
 
 彼らに領地や官位も与えましたが、百済王族の子孫の中には、入内した娘も有りました。


E 日本を守るために、朝鮮半島で、多くの血が流れた。

 日本は、「倭の五王」以降は、日本の生命線である「弁辰の鉄」の輸入を死守するために、あるいは、(高句麗が朝鮮半島を統一すると、次は九州への侵攻が分かっていたので)高句麗の南下を防止するために、膨大な戦死者を出して、戦いました。


F 朝鮮半島を失っても、日本は、滅亡を免れた。

 中国で「ふいご」による製鉄方法が開発されたので、雄略天皇くらいの頃から、日本で始めて国産の製鉄が開始されたと云われます。(考古学的遺跡の発掘調査による)。
 
  (本格的な日本の製鉄は、5百年代以降で、出雲や吉備など各地で行われたと云います)。

 古代の戦争は、刀・槍・弓矢などの鉄製品を用いた戦いであり、人間同士の白兵戦ですから、必要なものは鉄と食料の米でしたが、天智天皇や大海人天皇のころには、朝鮮半島からの侵略を防御できる体制が整いました。


G 終わりに

 日本は、最終的に朝鮮半島を失いましたが、鉄を自給自足して武器や農具を自作し、国民を養うに足る米も自給できました。

 唐は、日本の守りが堅固なことを悟って、遠征軍の派遣を見送ったと云われています。(神のご加護が有りました)。

  (★ ちなみに、「元寇」のときの「神風」は、天則違反のインチキな「介入」だったらしい)。


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