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よりカスタマーレビューの一部を引用:
冤罪と考えるしか無い袴田事件は、次のようなものである。昭和41年(1966年)6月30日 、
静岡県の 味噌製造会社専務の自宅が放火された。
焼跡から専務(41歳)、妻(38歳)、次女(17歳)、長男(14歳)の計4人の他殺死体が発見される。
静岡県警清水警察署は味噌製造工場および工場内従業員寮を捜索し、
当時味噌製造会社の従業員で元プロボクサーの袴田巖の部屋から極微量の血痕が付着したパジャマを押収、
同人を逮捕する。同人は自白起訴される。
ウィキの記事「熊本典道」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%9C%AC%E5%85%B8%E9%81%93
から引用:
1960年 - 司法試験最終合格。合格者334人中1位で、戦後の九州大学では初のトップ合格者として新聞社の取材を受けた[8]。後に先輩判事から「君はじっと余計なことをしないで淡々と仕事をしていたら最高裁判事になれる」と言われた[8]。
1963年 - 司法修習(第15期)を修了し東京地方裁判所刑事部判事補として刑事14部(通称、令状部)に勤務。当時、同部には彼と同じく人権派として知られた木谷明がいた[9]。検察からの勾留請求の却下率が通常1パーセントに満たないところ、3割の勾留請求を却下[10]。それを不満に思った者から脅迫電話を受けたこともある[10]。
1965年 - 司法修習時代の教官だった菅野勘助の紹介で静岡県沼津市の弁護士の娘と結婚。仲人は義父の知り合いの塚本重頼。
1966年 - 4月、福島地方・家庭裁判所白河支部判事補となるも、妻が鬱病で入水自殺未遂を起こす[11]。妻の療養のため退官して東京で弁護士になろうとしたが、最高裁係官に慰留され、妻の実家がある静岡に転勤。11月から静岡地方・家庭裁判所判事補。12月2日の第2回公判から袴田事件を担当。
ウィキの記事:福島第一原子力発電所
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E7%AC%AC%E4%B8%80%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E7%99%BA%E9%9B%BB%E6%89%80
1958年当時の福島県知事は佐藤善一郎(中通りの福島市出身)であり、天野光晴は福島県議から国会議員に転身し、後に福島県知事に転身する木村守江(浜通りの四倉出身)は当時国会議員であったが、浜通りの夜ノ森周辺の自治体より産業誘致の相談を受け、東京電力社長の木川田に話してみたところ、「原子力発電所が好いのではないか」との回答を得た。しかし、木村が誘致の姿勢を示すと木川田は曖昧な態度を取り、1961年になって木川田の側から用地についての取りまとめを依頼してきたという[18]。当時双葉町長であった田中清太郎によれば、当時、放射能に対するアレルギーは浜通りに無かったものの、発電所建設の下見のため木村や佐藤善一郎(木村守江の前任知事)が視察にやってきた際は目立つハイヤーではなく、ジープを用意してきた。当時の大熊町長・志賀秀正によれば、県の企画開発課から人が来た際にも、風体を山師のように装っていたという[19]
東京電力は1964年12月に調査事務所を現地に設置し、気象、海洋気象地質、地震発生率、資材運搬の地理的条件、地下資源の埋蔵状況等を調査し、安全性、経済性から原子力発電所の立地が可能と決定したのは1965年10月のことであった[34]。
1号機の設置許可申請書は1966年6月1日に提出され、6ヵ月後に許可された[82](7月1日とする資料もある)。
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1963年から東京地方裁判所刑事部判事補として刑事14部(通称、令状部)に勤務していて、検察からの勾留請求の却下率が通常1パーセントに満たないところ、3割の勾留請求を却下[10]。それを不満に思った者から脅迫電話を受けたこともある[10
ということで、この頃の日本は原発建設に向かって原爆の後遺症を振り払うことをやっていたはず。なお、1963年は60年安保の直後であり、東大安田講堂事件は1969年。だから、この時期は学生運動だけでなく、一般市民の政治参加というか関心が高かった時代。
その熊本裁判官を福島へ追いやった途端に、奥さんが鬱病で入水自殺未遂というのは、かなりタイミングが良すぎる。
更に、なぜその後、静岡なのか?奥さんの実家というが、静岡は浜岡原発がある。
浜岡原発1号機は
着工日 1971年3月1日
営業運転開始日 1976年3月17日
なので、袴田事件発生の1966年はまさに原発誘致に向けて地元がいろいろと動いていた時期。
熊本裁判官の退官は
1969年 - 判事補退官、東京都杉並区荻窪に転居、弁護士登録(東京弁護士会)。谷村唯一郎・塚本重頼法律事務所勤務。
ということで、その後弁護士として活躍できたはずが、
1970年 - 4月頃、最初の妻と離婚、同じころ何らかのトラブルにより谷村唯一郎・塚本重頼法律事務所を辞職。その詳細について熊本は「彼らに能力がないと判断したから辞めたまで」と語るが[12]、熊本の長男によると、熊本を谷村唯一郎・塚本重頼法律事務所に紹介した岳父は熊本を「あんな詐欺師は見たことがない」「恥をかかされた」と批判していたという[13]。熊本の最初の妻によると、離婚の原因は酒と浮気と養育費の不払いだったという[14]。熊本の最初の妻もまた極端で不安定な性格であると長男は語っている[15]。同じ4月、藤井英男法律事務所の客員として独立弁護士の修業を始める。
とか、
1976年 - 5月、袴田事件第2審で東京高裁が控訴棄却。「無実の男を獄中に放り込んでおきながら自分は仕事でも家庭でも恵まれた人生を送っている」という罪悪感から酒に溺れた、と熊本は説明する[16]。
ということ。
しかし、「罪悪感から酒に溺れた」ということは、ある意味、不自然。
熊本さんなら、十分に論陣を張り、刑事裁判がおかしいと主張できたはずであり、そういった方向に行かなかったことがおかしい。そもそも、最初の離婚自体がおかしく、本来、非常に大きな自制心を持っていたはずの熊本さんがこうなったのはいろいろな意味での誘導があったからではないだろうか。
つまり、反原発の判決を書いたり、反原発運動の中核弁護士となられては困るので、こうやって「始末」したということではないのだろうか。
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