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(回答先: アラブの春5周年(上)強権の崩壊は大卒失業者の反乱で始まった〜強権支配で民衆を黙らせることで国が安定する時代が終わった… 投稿者 仁王像 日時 2016 年 2 月 15 日 21:40:25)
アラブの春5周年(下)イスラム国は「アラブの春」の続きである/川上泰徳
2016年02月17日(水)16時20分
http://www.newsweekjapan.jp/kawakami/2016/02/post-11.php
ムスリム同胞団の政治的な誤りは
「アラブの春」が混乱の中に沈んだことを考える時、一時はエジプト政治の主役となった穏健派イスラム組織のムスリム同胞団の責任は重いと言わざるを得ない。同胞団がつくった自由公正党はエジプト革命後に行われた議会選挙で第1党になり、その翌年の大統領選挙の決選投票でも同胞団幹部だったムルシ氏が軍出身候補を破って、大統領になった。
同胞団の組織票は、いくつかの選挙の結果から、有権者が5000万人強のエジプトで800万票程度と私は推測している。同胞団は強固な団員組織と、貧困救済などの草の根的な社会運動の受益者の支持を得ていたが、長年、公安警察の取り締まりを受け弾圧されていたために、組織は閉鎖的で、組織的な支持が中心だった。
ムルシ氏は2012年6月の大統領選挙の決選投票で1300万票を集め、100万票差で軍出身候補を破った。組織票を800万票とすれば、残りの500万票は本来の支持者ではないことになる。軍出身候補が当選することで軍政が復活することを恐れた若者たちやリベラル派の支持者が、ムルシ支持に回ったということである。
ところが、ムルシ政権は最大の課題だった憲法草案起草で、第2政党のイスラム厳格派サラフィー主義のヌール党と協力して、イスラム色の強い憲法草案をつくった。最後にはリベラル派の委員たちが憲法起草委員会から抗議の離脱をする事態になった。政府系新聞の編集長の任命や政府高官や知事の任命でも、同胞団人脈で政治を切り盛りしようとした。
民主主義の形骸化に自覚がない政権
同胞団の強さはその団結力と組織力だが、弱点はその強さの裏返しであり、同胞団の身内や支持者しか信用できないという閉鎖性だった。同胞団には80年代、90年代に医師組合、工学士組合、薬剤師組合などの有力な職能組合の活動を担い、同胞団の枠を超えて活動し、リベラル派の信頼を得ているリーダーもいたが、そうした人物はエジプト革命後に次々と同胞団を離れた。革命が起こった時に同胞団の指導部を押さえていたのは団長のバディウを始めとする組織防衛派で、ムルシ大統領もその一人だった。
ムルシ政権で起草されたイスラム色の強い憲法案は2012年12月に国民投票にかけられたが、投票率は33%で、賛成は64%だった。賛成票は約1000万票。実数としては全有権者の2割しか新憲法に賛成の意思表示をしていないことになる。同胞団は最大限に組織の動員をかけたが、いかに国民の支持が限定的だったかが分かる。いくら民主主義的な手続きをとったとはいえ、憲法が国民の2割の支持しか得られないことは政権にとっては危機的だった。しかし、政権の正統性の源である民主主義が形骸化していることに政権は自覚がなかった。
国民投票の結果を受けて、当時、私は朝日新聞のデジタルサイトで主宰していた「中東マガジン」で次のような分析を書いた。
多くのエジプト人の中には、ムルシ大統領の目標は、「同胞団国家」をつくることだという見方が強い。国民の利益を達成するのではなく、同胞団の利益を達成することが目標だという強い疑念である。指導部の号令一下で動く同胞団という組織が、それだけ閉鎖的ということも、一般のエジプト人の中の同胞団への不信感を生み出している。もし、ムルシ大統領が同胞団を大動員して力で民衆を抑えこむことができると錯覚すれば、次に打倒されるのは「同胞団支配」ということになるだろう。(2013年2月1日、中東マガジン)
この時に書いた同胞団に対する「民衆の反乱」は半年後の2013年6月に現実のものとなった。
強権体制のもとで生まれた閉鎖的な組織
「アラブの春」の後に選挙で政権をとったムスリム同胞団の組織の在り方や行動パターンには、半世紀以上続いた強権体制が深く影を落としていた。強権体制の弾圧の下で政府批判勢力として活動するには、秘密主義で閉鎖的な組織をつくらざるを得なかったという事情があった。
2013年6月30日に若者たちによる大規模な反ムルシ・デモが起こり、それが軍のクーデターを招いた。若者たちの不満が噴出したことはムルシ政権の閉鎖的な政治手法や政権運営に責任がある。同胞団が克服しなければならなかったのは、強権体制時代に育まれた組織の閉鎖的体質であり、強権体制がとった国民動員の手法と同様な組織動員の手法だった。
軍を率いたシーシ国防相(現大統領)はムルシ大統領に「48時間以内に国民の要求に応えなければ、秩序回復のために(軍が)介入する」と最後通告を突きつけた。その直後にムルシ大統領は、テレビで演説を行い、「我々にはサラフィーヤ(正統性)がある」と、正統性という言葉を何度も繰り返した。
【参考記事】軍の弾圧でムスリム同胞団は大ピンチ
ムルシ大統領が強調したのは選挙で選ばれたという意味での正統性だが、軍の介入を阻止し、民主主義を危機から守るためには、辞任して再選挙に訴えて、政治を民意に委ねるという選択肢もあったはずだ。しかし同胞団は支持者を動員し、軍政反対デモを続けただけだった。最後は、軍と治安部隊によるデモ隊の武力制圧で、おびただしい血が流れた。
「アラブの春」を挫折させたミリタリズムの論理
エジプト革命は「若者の反乱」として始まったが、革命後の民主化を担ったのは、若者たちではなく、穏健派イスラム政治組織のムスリム同胞団であり、それをつぶしたのは軍だった。若者たちも、同胞団も、国民の支持を得るという意味での民主主義を軽視し、自分たちの「動員力」「組織力」に頼ったが、「組織力」というならば軍には対抗できない。若者たちとイスラム政治組織の、それぞれの政治的な未熟さが、政治に対する軍の介入を許したということである。
隣国のリビアではカダフィ体制が倒れた後、イスラム勢力も加わって選挙が実施され、議会が創設されて、民主化プロセスが進んでいた。それを崩して国を分裂させたのは、「アラブの春」を担い内戦を戦った若者たちがつくる民兵組織だった。
シリア内戦から生まれた「イスラム国(IS)」にアラブ世界の各地から若者たちが集まるのは、「アラブの春」の続きと考えるべきである。ISの特徴であるインターネットを使った情報発信はもちろん、イスラムを掲げて過激な行動主義を見せるのも、やはり「アラブの春」のつながりに見える。さらにISの特徴は、黒旗を揚げた武装車両の長い列を見せたり、黒覆面の戦士がナイフを持って整列する映像を誇示したりするような、過剰なミリタリズム(武断主義)の演出である。ISではイスラムを掲げる若者たちが武闘化し、「イスラム国」というよりも「イスラム"軍事"国家」になっている。
【参考記事】「イスラム国」を支える影の存在
このように見ていくと、中東民主化の期待を抱かせた「アラブの春」を挫折させたのは、軍とミリタリズムの論理である。エジプトの軍であり、リビアの民兵であり、シリアの政権とISということになる。強権支配に対抗して政治を担った若者たちや穏健派イスラム勢力の政治的な未熟さのために、エジプトでは若者たちが軍の介入に喝采をあげ、リビアでは若者たち自身が民兵として軍の論理に走り、シリアでは若者たちがイスラム過激派のISに参画することになった。
民主化による若者たちの要求とイスラムの実現
中東の混乱を終わらせるためには、軍とミリタリズムの暴走を止めて、文民主体の民主化を進めるしかない。そのためには、強権支配や格差の拡大、腐敗などに抗議して革命を求めた若者たちが、平和的に政治に参加して、民主的なプロセスで役割を担うよう促す必要がある。さらに国民の支持と理解を得るためには、強権に代わって秩序や治安を担うイスラムの役割は重要で、政治の分野では、武装闘争やテロを手段とするイスラム過激派ではなく、選挙参加でイスラムを実現するイスラム穏健派の役割は重要である。
「アラブの春」の際にチュニジアとエジプトで、平和的なデモによって強権体制が倒れた時、アルカイダなど武装闘争を続けてきたイスラム過激派の影響力は低下すると言われた。しかし、実際には政治を担った若者やイスラム穏健派が民主化プロセスに失敗したために、軍や過激派が息を吹き返し、混乱に拍車をかけている。
若者たちとイスラム穏健派がこれまでの失敗の教訓を学んで、改めて民主化プロセスを担えるように、欧米や日本が働きかける必要がある。「アラブの春」後の混乱が民主化によって引き起こされたかのようなとらえ方があるのは事実誤認であり、民主化の失敗によって引き起こされたものである。混乱を収拾するには、民主的プロセスによって、若者たちの要求と、イスラムの実施という2つの要素が噛み合う政治を実現する必要がある。
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