>「南海トラフ巨大地震は、100年から150年周期で繰り返されています。前回、第2次大戦終戦前(1944年=昭和東南海地震)と終戦後(46年=昭和南海地震)に発生したものは小ぶりだったため、次回起きた場合は超巨大になると思われますが、私はその時期を30年先と見ています」 昭和の前が1854年の南海トラフ地震です。 安政東海地震 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%94%BF%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E5%9C%B0%E9%9C%87 安政南海地震 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%94%BF%E5%8D%97%E6%B5%B7%E5%9C%B0%E9%9C%87 この時は、1812年に文化神奈川地震が発生しています。東京湾が震源のM6程度の地震だとされています。この時は、関東での地震から南海トラフ地震まで32年が経過しています。 1923年に大正関東大震災が発生し、1944年に昭和東南海地震が発生したので、その間隔は21年です。約3分の2の期間で大地震が起こったわけで、しかも、昭和東海地震は発生していません。このことをどう解釈するかが問題です。 しかも、1855年に安政江戸地震 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%94%BF%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%9C%B0%E9%9C%87 が発生しています。南海トラフ地震の翌年に江戸で地震ですから、関東から南海トラフという順番が崩れたことになります。 明確な説明はできないと思いますが、仮説の一つとして次のような解釈は可能かと思います。 1.中央構造線の北側での地震活動が活発で、それが 1847年 善光寺地震 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E5%85%89%E5%AF%BA%E5%9C%B0%E9%9C%87 1854年7月9日 伊賀上野地震 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%B3%80%E4%B8%8A%E9%87%8E%E5%9C%B0%E9%9C%87 を発生させた。伊賀上野地震は安政東海地震の約半年前で、確実に関連性があるはず。 2.中央構造線の北側がある程度東側に動いたことで、ある程度、房総半島の北側、つまり、茨城県から福島県のあたりが東へ押され、それが、あたかも三陸沖での大地震で東北地方が東へ振れたかのような効果を持った。 3.ただ、これは太平洋プレートの沈み込みが日本海溝からあったわけではないので、房総半島の南側にはほとんど変化を及ぼさなかった。 4.南海から東海に渡り、中央構造線の北側が東へかなり動いたので、西日本の陸域の地下へ沈み込んでいるフィリピン海プレートが動きやすくなり、そのために、1854年の安政東海地震や安政南海地震がほぼ同時に発生した。 5.伊豆半島の西側のフィリピン海プレートが大きく沈み込んだので、伊豆半島の東側も沈み込みを起こし、それが安政江戸地震となった。 6.(7.以降で述べるように)安政江戸地震では、先に東海地震が発生し、その後関東平野での地震が起こったため、伊豆半島の東西両方でのフィリピン海プレートの沈み込みはほぼ100%歪みを解放してしまい、1944年の昭和東南海地震の時には東海地震が発生できるほどの歪みが伊豆半島の西側に蓄えられていなかった。 7.フィリピン海プレートの西日本の地下への沈み込みは、西へ行くほど伊豆・小笠原海溝の南側からの太平洋プレートの沈み込みを受けているはず。つまり、関東地方の地下へのフィリピン海プレートの沈み込み活動は、主に房総半島の東方沖の日本海溝からの太平洋プレートの沈み込み活動によって支配されているが、西日本の西へ行くに従って、房総半島から離れるので、伊豆・小笠原海溝のより南側からの太平洋プレートの沈み込み活動の影響を受けやすくなる。 8.フィリピン海プレート自体は房総半島南東沖の三重会合点から西へ台湾を超えて続いているので、伊豆半島によって区切られている東側(関東平野側)はごく一部に過ぎず、伊豆半島の西側がフィリピン海プレートの大部分を占めている。 9.関東平野の地下へ沈み込んでいるフィリピン海プレートは陸のプレートに蛇紋岩化した部分が固着していて、動きにくい。また、太平洋プレートがフィリピン海プレートの下へ沈み込んでいて、太平洋プレートの方が断然体積が大きいので基本的には関東平野の下の太平洋プレートによって動きが支配されている。 10.7.から9.で述べたことが原因で、安政江戸地震では関東平野の下のフィリピン海プレートや伊豆半島のすぐ西側(静岡県側)のフィリピン海プレートは完全に歪みを解放している。なぜなら、関東地震から東海地震の順番であると、関東地震発生後、関東平野の地下のフィリピン海プレートは動きを止めた太平洋プレートによって完全にロックされた状態になり、またそれによって陸のプレートとの固着も緩みにくくなるから。反対に、東海地震から関東地震の順番だと、伊豆半島よりも西側の体積的に大きなフィリピン海プレートによって、伊豆半島の東側(関東平野側)の体積的圧倒的に小さなフィリピン海プレートを動かすので、より大きく関東平野の地下でフィリピン海プレートを沈み込みさせやすい。そもそも、関東平野の下に沈み込んでいるフィリピン海プレートと伊豆半島より西のフィリピン海プレートは同一のプレートであり、太平洋プレートから力を受けての沈み込みではなく、同一のプレートが伊豆半島を挟んで沈み込むことになるため、力を及ぼしやすい。 11.10.の現象が発生したため、1855年安政江戸地震で伊豆半島の両脇部分にあるフィリピン海プレートは歪みをほぼ完全に解放した。 12.房総半島の東方沖の日本海溝からの太平洋プレートの沈み込みは1703年元禄地震以来かなり抑制されていて、関東平野の下に沈み込むフィリピン海プレートの沈み込み活動は不活発な状態が続いた。なぜなら、関東平野の東方沖の日本海溝付近には海山が多く存在し、幾つかは大陸棚の下へ沈み込んでいて、大きな噛み合いを構成しているはずで、これらの海山は火成岩であり、完全に破壊されるには非常に長い年月が必要で、一回の沈み込みでは噛み合いが完全には解消されないため。 13.1896年明治三陸地震で東北地方の沖合、日本海溝の東側(ハワイ側)で太平洋プレートがかなり大きく西進したため、房総半島よりも南側でも太平洋プレートの西への沈み込み活動が活発になった。また、房総半島の東側の日本海溝からの太平洋プレートの沈み込み圧力が、沈み込んだ海山によって陸のプレートに伝わり、それが蛇紋岩化された領域の北側の陸のプレートを動かした。これが1921年竜ヶ崎地震となった。 14.1921年竜ヶ崎地震によって関東平野の地下の太平洋プレートはかなり沈み込み圧力を大きくした。その結果、小田原付近で太平洋プレートが少し沈み込み、それが引き金となって伊豆半島の東側にあるフィリピン海プレートが関東平野の地下へ大きく沈み込んだ。これが1923年大正関東大震災。 15.1923年大正関東大震災が起こっても、伊豆半島の西側(関西側)の東海地震を起こす部分のフィリピン海プレートは既に1854年の東海地震や1855年の安政江戸地震でほぼ完全に歪みを解放していたので、東海地震を起こすことが出来なかった。 16.愛知県よりも西側の部分のフィリピン海プレートは静岡県部分のフィリピン海プレートよりも、関東平野から離れているため、太平洋プレートの沈み込み活動活発化の影響を受けやすい。1933年の昭和三陸地震が起こり、太平洋プレートの西進圧力が大きくなったため、1944年昭和東南海地震、1946年昭和南海地震発生へとつながった。なお、1933年の昭和三陸地震は1896年明治三陸地震の誘発地震のはずです。
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