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つれづればなhttp://turezurebana2009.blog62.fc2.com/blog-entry-146.htmlより転載
血は体内を流れ、酸素と栄養素を体のすみずみまで運び、その帰り道に老廃物を拾って捨てる。生体が命を閉じるまで昼夜を問わずこれを繰りかえす。血流が鈍ると冷えや凝りがおこり、汚れが溜まって生体は力を失う。また、血の通り道たる血管が狭まるか詰まるかするとその先は補給を絶たれた戦場のようになる。血は流れているからこそ意味がある。
ただでさえ目に見えない血の働きであるが、さらに見えないところにまで旅をしよう。本稿では血にまつわる話を取り上げるものとする。
やまとことばの「ち」
やまとことばは大陸から漢字が伝来する以前、わが国の太古の祖先が意志の伝達そして祭祀にもちいた、また今日の日本語の礎石でもあることばである。表意文字の漢字とはもとより縁がなく語彙の音そのものが意味を持つ。「血―ち」の他に「ち」という音のあらわすやまとことばは幾つかある。
「乳―ち」「父―ち」「風―ち」「茅―ち」「千―ち」「個・箇―ち」「霊―ち」などがある。やまとことばでは、同音の語彙郡はその意味に必ずと言っていいほど共通点がある。では検証してみよう。
「乳―ち」つまり母乳、これは血液から造られる。今では常識だが古代人が乳と血をおなじ「ち」という音で呼んでいたことには驚かざるを得ない。しかし考えてみればわれらが先祖たちが血の濁りや淀みに驚くほど敏感であり、それに因んで乳の出が悪くなることなどは誰でも知っていたのかもしれない。乳とは命の源、そしてそれ以上の存在である。
古語における「父―ち」とは父親ではなく祖先、血筋といった意味で使われていた。血を媒体として受け継がれた系譜をさす。
現代日本語では「風」とかいて「ち」とは決して読ませない。しかし江戸時代までは暴風を「大山風―おほやまぢ」などと呼んで怖れていた。歌には道真により「東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ梅の花―」と詠まれている。風とは気の流れである。酸素をはこぶ。また風は雲を集めて大地に滋養の雨をもたらす。時に冷たく、時に暖かく、人に季節の流れをほのめかす。なにやら血の振る舞いによく似ている。
「茅―ち」とは「ちがや」という雑草をさす。萱の一種で恐ろしいまでの繁殖力があり古代からこの植物の穂を乾燥させて強壮剤、つまり血行促進剤として用いていた。「ち」の音の背景に子孫繁栄への思いが伺われる。ちなみに精子も母乳同様に血液から造られる。
数の多いさまを表すことばが「千―ち」である。「個・箇」を意味する助数詞「ち」を伴うと「千箇―ちぢ」になり千個、沢山、様々、となる。「千々」とも書かれる。「月見れば ちぢにものこそ悲しけれ―」など古歌にうたわれる。
「ち」の根底にある意識、それは「霊―ち」をおいては語れまい。
古代、その名に「ち」の音が含まれる語彙には霊力が認められていたといえる。たとえば「蛇―をろち(折曲がった霊)」、「雷―いかづち(怒れる霊)」、これだけでも「ち」の持つ恐ろしげな霊威が感じられる。さらに古事記などをひもとけば「大穴牟遅―おおなむち(多くの名を持つ霊)=大国主命」「火之迦 具土―ひのかぐつち(火の耀く霊)」、「久久能智―くくのち(木々の霊)」と、神々の名の中にも「霊―ち」が伺える。
つまり「血」には霊力があると、あるいは霊と同位のものとされていたのである。ただの物質でしかない躯(むくろ)という入れ物の中を駆け巡りそれに生気を与える。のみならず、思い、喜び、悲しむ魂を繋ぎとめる。精は子を成し、乳は子を育み、子々孫々に至るまで血を介して霊が伝わるのである。やがて魂が離れ血の流れがとどまると人は冷たい骸(むくろ) となる。
血液の進化
最初の人類が地中海一帯に現れた当初、その血液型はすべてO型であった。じつはこのOは「オー」ではなく「ゼロ(原初の意)」である。彼らの生活形態は動物の後を追って移動する狩猟型、つまり肉食を旨とした。それも火の扱いを習得するまでは獣肉を生で食べるのみ、無論それに適した消化機能が彼らには備わっていた。長い氷河期の間、大型動物を集団で狩猟しつつ生きていた。しかし気温が上昇すると大型動物が減る一方で人口は増え、肉に頼らず植物を採取して食料とする必要に迫られた。そしておよそ9千年前に採取が栽培へと移行して農耕がおこり定住化の契機となった。ここで大問題が起こる。この時点の人類の消化器は獣肉しか知らなかったのである。灌漑などの技術革新がもたらした豊かなみのり、つまり豆類や穀類が突然胃に詰め込まれるようになると人体のほうは窮地に立たされた。穀類は肉を消化する強力な胃酸で物理的に溶かされてはいても科学的には全く分解されず未処理のまま血液に取り込まれ、人はかつてない様々な病に悩まされたのである。いよいよ人類の存続が危ぶまれると、追い詰められた血液細胞が突然変異をおこした―A型の誕生である。これは農耕民族の血液型でありA型の血液細胞は穀類澱粉の組織を分解する酵素を生成し栄養とすることができる。農耕が人口の増加をもたらしたのであればそれはA型人口の増加を直接意味している。
その農業がおこるずっと以前にO型狩猟民族の一部の集団は獲物を追って中央アジアの高地に移動しそこで氷河期の終わりを迎えた。ここで見られたのは動物の小型化、羊の原種の発生で、彼らは単なる狩猟ではなくこれらの小形動物を捕獲し繁殖させることに成功する。牧畜の始まりである。すると生活形態は牧草を求めての移動型になるため農耕には向かず、足りない食料は動物の乳を加工したもの、つまり乳製品で賄われた。ここでまた大問題が起こる。O型狩猟民族は乳製品も消化できなかったのである。糖尿病その他の病に悩まされながらここでも突然変異によりB型が生まれた。B型の成立は獣肉と乳製品という準肉食の生活に起因する。AB型は後の世にA型とB型が出会い混血することで誕生する。
日本人の祖
上の説を日本古代史と重ね、やまとことばを手灯りにつらつらと考えてみた。筆者の推測も含まれているため一つの読み物として楽しんでいただければ幸いである。
氷河期、凍てつく海の水位は低かった。大陸と列島は陸続き同然か、小舟を使い島伝いに自由に行き来ができた。この頃に大陸から牧畜を経験せずに東進し日本南西部に到達したのが血液型O型の狩猟集団である。その後に日本の北側からやってきた集団はB型である。この両者こそ倭人、つまり縄文人である。これを単に捕食動物を追っての極東への旅とは考えにくい。その目的の中には当時の狩りに利用された細石器の材料(黒曜石)を求めてのことが考えられる。日本列島全域が硬度と劈開性に富んだ良質の黒曜石の産地である。また穀類以外の食料の確保のためよい漁場を求めて太平洋岸伝いにやってきたとも言える。魚肉は獣肉を主食とする民族にとっても無害であり、O型、B型双方にとって格好の栄養源であった。やがて氷河期は終わり海面が上昇すると海の道は途絶える。彼らは日本列島に腰を据えてのちに縄文時代と呼ばれる独自の時空を築く。
地中海一帯においてA型農耕民族の増え続けた人口は国家と権力者を生む。当然起こる戦乱は民族を四方に分散させた。東へと移動した集団はアジアで稲と出会い、約四千年前、ついにA型農耕民族が稲作と共に日本列島に至る。渡来人たちである。先住の縄文人との出会いと共存はいかなるものなりき。
果たして記紀にあるように稲作は天つ神からの授かり物とするほど有難い文明であったか、たしかに食料は生きるために不可欠であり、米はいろいろな意味で素晴らしい。そして実際に稲作の開始以降は人口も寿命も数字の上では増長した。結論は一言には収められないが、少なくとも縄文人にとっては大惨事だった。
先述のとおりO型とB型にとって穀類はそもそも天敵なのである。食べれば確かに腹は膨れるが滋養が得られずに活力を失い、そして病に陥る。各自が貴重な働き手である上に全体意識が重んじられた当時の社会では一人の病は集団全体に降りかかる災厄であり個人の問題では済まされなかった。
そこへ「旨いから食え」と言われ、「耕作しろ」と迫られ、挙句の果てに「天つ神を祀れ」と強いられた日には武器を取るのみ、しかし大規模な農業を運営するまでの組織力があり、ましてや鉄製農具と共に鉄製武器をも手にする渡来人たちに適うわけもない縄文人には彼らに従うか迫害されるかの道しかなかった。それが弥生時代である。
近畿・中部地方を中心に渡来人は農耕の地盤を築く。その一帯に先住していた縄文人にも耕作を伝え受け入れさせる。しかしそれにはそれなりの時間が必要であった。愛知県の朝日遺跡は農耕を核とした巨大な弥生遺跡として知られており、発見された人骨には結核や貧血などの痕跡が見られると言う。急激な人口過密化による栄養不足がその原因とされているが筆者は肉食から穀類食への転換期に起こった弊害と考える。やがて縄文人にA型農耕民族の血が混ざることで穀物の消化の問題は徐々に解消した。ここでA型とB型の婚姻によりかつて無かったAB型が誕生する。
迫害民の血
あまたの小国家の興亡を経て、やがてヤマト地方を中央に据えた大和朝廷の成立へと時代は向かう。その勢力圏を築くに当たって先住民たちに強いたのはヤマトへの恭順と外来の神々(天つ神=渡来人たちの先祖を神格化したもの)の信仰、そして穀物での納税であった。それに頑として従わぬ者たちは北へ、南へ、または人も通わぬ山奥へと押しやられた。
陸奥、出羽、蝦夷地、北日本に生きた縄文人たちは蝦夷との蔑称で呼ばれた。採取生活を頑なに守り、皮革、鉄製品を製造しながら朝廷と交易を行うまでの独自の生活圏を築くことに成功した。彼らこそ氷河期に日本列島の北側からやってきたB型狩猟民族の子孫たちである。A型の血が混ざらぬ以上はこの集団の血液はB型、そしてB型に内在するO型因子の覚醒により出生するO型から成る。
奈良時代に坂上田村麻呂の東国征伐をうけて朝廷支配に組み入れられた以降は国司が派遣され本格的に開墾がはじまる。しかし岩手県中部がその北限であり、その以北の地には縄文時代の生活形態を踏襲しつつ交易、生活具、装飾品、食、いずれをとっても躍動に満ちた華々しい時代が興った。これの実現にはある程度の寿命の延びが不可欠である。技とその精神を次世代に伝えるにはその共同体のなかに熟練者たちがいなければならない。子供を生んで育てるだけで寿命を迎えていたのでは彼らの技術的円熟は決して見られないのである。また老人たちの経験譚を子供たちが聞いて育つことでそれは民族の記憶として共同体に還元される。およそ文化と名のつくものはそれが具現化したに過ぎないのである。蝦夷たちは比較的長生きだったはずである。これが正しければ農業収穫による食料の安定確保だけが長寿の秘訣ではないことの裏づけとなるが、研究者諸氏の更なる調査が待たれるところである。
また、山岳地帯に篭りひたすら朝廷との争いを繰り返した縄文人そしてその子孫たちは土蜘蛛と呼ばれ恐れられた。彼らの血液型は農耕を拒んだ以上はO型かB型であることは確かである。彼らは蝦夷たちとは違って朝廷からの卑劣な迫害に対する恨みゆえに完全に敵対、孤立した。文芸・能・神楽・歌舞伎等の古典芸能に描かれた「酒呑童子」や「茨木童子」、「国栖(くず)」そして「土蜘蛛」とは彼らのことである。桃太郎などの鬼退治譚で悪役に描かれる鬼たちも然り、朝廷側から見た脅威は絶対悪として歴史に焼き付けられる。
A型の現代人が渡来系である、ましてやO型の現代人がすべて土蜘蛛の子孫であるなどという話は論外である。今の我々の血液型は先祖の血を確かに反映してはいるが、その先祖とは単一系統ではありえないのである。例えば大陸からの渡来人はヤマトの地で権力者となると縄文系の豪族の娘たちを次々に妃に迎え、その子孫たちはみな朝廷貴族となった。これは何代にも渡って繰り返される。天皇の家系から源頼光や渡辺綱などの猛き武人たちが現れたのもいにしえの母たちから託された血が甦ったのであろう。さらに近世以降、人の行き来が激しくなると血の邂逅は止まることなく進み今に至った。我々の血液型はいつの時代のどの先祖の血が濃く現れたにより、母の胎内に宿るその時に決まる。
さむらいの血
国際語にもなった「さむらい」とは誰か。一般的な語源は「さぶらふ―侍ふ」とされ、貴人のそばに仕えるという誤った意味で定義されている。そうではない。やまとことば動詞「もる―守る」にはじまる。その未然形に上代の助動詞「ふ(反復・継続をあらわす)」が膠着し「むらふ―守らふ」、常に守り続けるという意味の語彙がつくられ、さらに語意をつよめる接頭語「さ」を冠して「さむらふ」になる。その名詞形が「さむらひ」である。貴族が雅語を使って発音すると「さぶらひ」になる。ではさむらいたちは誰を守り続けたのか。
平安時代中盤、朝廷の貴族や寺が私地を拡大して荘園領主となり、その警護に東国から猛者たちが集められたことを侍(にんべんに寺、大陸から渡る漢語漢字ではなく和製漢字)の始まりと教科書はほざいている。しかし上で述べたように、「さむらひ」という言葉が確立したのは上代以前、遅くとも奈良時代である。朝廷からの武力による干渉から同胞を守るために太刀を佩き、馬に跨り弓を構えた蝦夷たちである。彼らが守ろうとしたのは遠い祖から受け継いだ血、生き方であって貴族どもではない。
血族を核とした武装集団が日本の南に現れる。水先案内や海運を生業とし、または海賊でもあり、有事には朝廷の軍事力として機能していた集団は水軍と呼ばれた。彼らの先祖は南日本海域に点在した縄文人、熊襲である。後に熊襲の出の武士団として活躍する渡辺氏、村上氏などが有名で、また物部氏はかなり早い段階で朝廷に仕え軍事警察部門を受け持った熊襲である。「もののふ(=さむらい)」とは物部の和様の読み方から来ており「もの」とは武器を意味する。荘園領主たちはすでに存在していた武士たちに警護を依頼しただけであり、それを武士の始まりとするのは悪意さえ潜む誤りである。
そして北日本、蝦夷の中から現れた武装集団は地域を護衛しつつ弓と馬術の鍛錬にいそしみ勇猛な戦人として自らを育てた。鎌倉以降、武士の家柄を「弓馬の家」と言うがじつはそれは東国のさむらいたる蝦夷の血筋に由来する。中央から遣わされた役人が東国に土着し、地域の開拓を行いながら蝦夷と共に成長した武士団が奥州藤原氏を筆頭に数多く現れた。であるからして武家の棟梁たちの家系をたどれば大抵は源氏や藤原氏に行き着く。しかし東国に土着した以降は何代にも渡りその地の娘を妻に娶り子孫を残している。西国、南国でも同様の土着により武士団が形成された。父系の家名に拘らず冷静に俯瞰すれば武士たちはB型蝦夷とO型熊襲の血がより優勢であると言える。彼らは後に戦国武士として活躍、わが国の歴史の表舞台に立つことになる。
農耕民の血
日本人の血液型で一番多いのはA型である。なぜか。
一昔まえの日本人の食生活だが、一言でいえば米が中心であり、その脇には常に味噌や豆腐や納豆といった豆製品があった。そして野菜の煮物、酢の物、漬物と少量の魚介類、これはA型農耕民にとって最も快適な食生活である。A型の消化機能ははでんぷん質を分解することに長けているが、動物性のたんぱく質を活力に代謝できないだけでなく血液中に病因として残してしまう。奈良時代から江戸時代にかけて時の政権は幾度も獣肉の禁令を出した。それは無類な殺生を戒める仏教に因るとも、働き手たる牛馬を保護するためとも、民衆の血の気を削いで従順にさせるためとも言われるが、結果として国家財政の基礎つまり稲作を担う農民層の胃腸を不向きな肉食から守りその繁栄を助けた。中世まで農村が搾取の対象とされながらもA型農耕民の人口は徐々に増え、そして江戸期に入り幕府の保護政策で豊かになった農村からは余剰した人口が都市に流れて大都市となった。それゆえ大都市の構成員もA型が優勢となり、するとそこでは米を中心に据えた食生活が展開する。今では喜ばれる中トロなどは敬遠されて猫の餌か畑の肥やしにされていたのも脂の強い魚肉が肉と同様にA型の敵であることと無関係ではない筈である。江戸時代に花開いた和食と名のつくわが国の食文化がA型の血になぞらえて構築されていたことは歴史学者からも栄養学者からも気付かれていない。
逆に地方の武士、また山間部で生活する樵や猟師その他もろもろの職種の日本人は獣肉をかなり口にしていた。狩と称して野鳥や兎を公然と捕食しており、太鼓や鼓の皮の材料となる皮革を剥いだあとの牛と馬も当然の如く食用にされるなど獣肉の食文化も細々とではあるが継続されていたのである。そうでなければO型とB型の日本人たちは萎えきっていたはずである。いちばん気の毒だったのは粥ばかり啜っていた大都市に暮らす下級武士たちかもしれない。
血液型別の食を
上に書き連ねたことは昔話のようであるが現実に我々に流れる血もおなじ四種類、AとBとO、そしてABであり、各々の血液細胞のかたちと働きは縄文時代から変わっていない。これらの事をあわせ考えてみるといろいろなことに気付く。
例えばある現代人の血液型がO型だとすれば、それは彼が歴代の祖先たちから受け継いだ血の中のO型因子が色濃く現れたことによる。このO型因子は人類が狩猟民族であった頃からの名残である。すると彼の体の組織は胎児の時代からO型の血液細胞によって構築され、生涯その血に見合った栄養補給をつづければより快適に、より健やかに、またより長く生きて行ける。逆も真なり、血が苦手とする食生活は人体を疲弊させ、より早く老化させる。
蝦夷や土蜘蛛たちが頑なにまで農耕を受け入れなかったのは穀物を口にすまいとする血の為せる業でもあった。ならば現代もO型とB型の血は依然として同じ性格を持ち続けていることを思い出すべきである。A型以外にとって和食は体によいとの思い込みは危険極まりない。
A型であれば和食は理想の食生活である。現代の肉と乳製品に偏った食卓は見直すべきである。
B型は穀類以外なら安心して食べられる。乳製品も肉類も消化できるが両方を同時に口にすると負担になり得る。
AB型はAとBの両方の特性、強味も弱味も併せ持つ。何を食べても消化できるがそのぶん上限が低く設定されている。穀類、肉類、乳製品を同時に摂取しないほうがよい。
O型の場合、肉ばかり食べていてもそれで病気になることはない。逆に肉と魚しか食べられないとまでは言わずとも近いものがある。O型とB型が間違ってベジタリアンを目指すと内臓や血管が劣化し死に至りかねない。
これでは何も食べられないではないか、と嘆いてはいけない。まず日本人にとって米だけは別格である。米を食べ続けた我々の体内に米を分解する酵素がいつのころからか住み着いている。我々には麦よも米のほうが消化しやすい。そして葉物と根物の野菜の多くは誰にも害はなく、漬物はとくに優れた食品と言える。
また両親のうちのどちらかが自分と異なる血液型を持つのであればその特性を多少は引き継ぐことができる。たとえばO型の母親をもつA型の子が肉類を食べても血の中のO因子が消化を助けてくれる。血とはやはり争えないものである。
血液型が全てではない。人の生き死にはよろずのことの重なり合いである。しかし食べることなしには誰ひとりとして生きられず、血の助けなしには食べても体に生かせない。血がうけつけぬ物は決して体に還元されないのである。血のことをあまりに知らなさすぎたため我々はいらぬ病に冒されるようになったのである。乳製品は背が伸びる、肉は太らない、日本人なら日本食、どれも嘘ではないが相手構わず薦めたのではひどい間違いになる。少なくとも血というものを知る努力をせねばならない。せねば次の突然変異を待つ間に多くの命が苦しみ喘いで尽きていくであろう、それでもよいのだろうか。
血液型と食生活の話は筆者にもこの辺りまでが限界である。あとは専門家の方々に是非とも研究していただきたい。血にまつわるほかのはなしは次号にて。
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