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(回答先: 報ステにみるジャーナリズムの光と影 古館氏が消えたあとのジャーナリズムにかける期待と思い 投稿者 Air−Real 日時 2016 年 4 月 20 日 17:09:04)
子供たちの通学路には、よくこんな標語の書かれた立て看板がある。
「悪いこと 強く断る 勇気もて」
こうしてそれをわざわざ取り上げること自体、誰に対しての皮肉なのか、といった、
うがった見方を先にされるかもしれない。だがそれは狙い通りだ。
こうした言葉は「自然の自浄機能(自然秩序)の枠組みから意図的に外れる人間社会に」とっては、
いつまでも金言としてなければならないはずのものである。
こうした言葉、また教えとは、子供時分から口うるさく教え込まれたものだ。
今ではうっとおしさだけを感じる大人も少なくないだろう。
たいてい社会に入ってまもなく、正論で反論を切り返す目だった社員は、先輩上司に呼ばれて、
「何事もただ”はいはい”と返事を返していればいいだけだ」と教えられる。
当たり前で正論を振りかざしていると、周囲に疎まれるだけで損するのはおまえだぞ、と諭される。
それが「大人社会のルールだ」と誰もが思っていることだろう。
だが、人々は周囲を常に警戒するようにして、裏で集まっては、
「みんな同じ事を考えている」と不安をあらわにする。
はっきり言いたい事を言ってはいけないということらしい。だが、そうして陰口は横行する。
私はそれが納得できない。それで結局損をするのは誰か。そこにいる全員じゃないか。
対して、そうした意見は「幼い」とののしりの対象になるのだろう。
だが品位をもって、はっきり言うべきことをいえない大人を擁護するだけの囲いに混ざる気持ちはない。
そして、それこそが、「同調圧力」というものだ。
内実は誰もが、自分たちの社会がほんの数パーセントの人間に動かされていることに不安と苛立ちを覚えている。
そうして、自分たちを乗せた船が、自分の望んでいない方向へと向けて着々と舵が取られていることに、ただただ嫌悪感を抱いているのである。
自分たちの世代は関係ない。次の世代が大変なだけだ。黙ってやり過ごそう。そう思っているのかもしれない。
でなければ、変えなきゃと思うだろう。すべてが依存、他人まかせなのである。
しかし、その気持ちはわからないでもない。板ばさみになっていることは理解できる。
だから誰かが動かなければならないのだ。
「鉄は熱いうち打て」とよく聞かされたが、ならばいつまでも情熱を持ち続けることはよいことであるだろう。
熱身を帯びて、世相に敏感であることはよいことだ。
それはある種、渡り鳥たちが自然と備える「ナビゲーションシステム」と同様のものともいえるし、
またそれは、幼いころに親や教師に真剣に叱られ、諭されてきたことによる、
「正しくありたい」とする素直な人の願望に起因するものかもしれない。
さて、今の社会をざっと見回して、あなたはどういった感想を持つのだろう。
さめた感想なのか。それともなんとかしたいがなんともならないと、考えあぐねているのか。
現況の社会の中では、人の社会における自浄作用の部分とは、きちんと機能しているといえるだろうか。
いまこうして声をあげないと、浄化を求めるわれわれの声は、
せまりつつある暗雲と雨音にかき消されていくのではないか?それも人工的な暴風雨に。
子供時分に理解してきた正論というものが、
いったいどこまで通用するのかを試してみようとする、
そんな気概すらもなくなりつつある現代に、
いったい、子供時代にうけてきた教育とはなんだったのかを改めて思う。
そして今ある子供たちの教育とはどんな人間を育てるためのものなのかと思う。
子供たちは、自分の親や、教師の言動、そして普段のあり方をことつぶさに観察している。そしてそれを真似る。
子供たちは打てば響く。しっかりと反発し、反論してくる。それも正論をぶつけてくる。
大人はそこにきちんと向き合っているのだろうか。
正しさだけでは飯は食えないというなら、それはもう盗賊の育成を正当視する社会とはいえないか。
そういえば、本日、メディアで流れていた話題で、
”国境なき記者団”が発表した日本の報道の自由度ランキングが72番に落ち込んだ、というものがあった。
そんな順位など普段は気にしないが、
「もっともな結果だ」という思いとともに、変な安心感を得た。
なぜなら、「世界は日本の現政府の政治体質をしっかり監視、注目している」という事実を知れたからである。
そして、「非常に厳しく危険視している」という第三者国からの客観的な検証は、
自国の現政権に不満を持つ国民の意見に正当性と後ろ盾を与えたからである。
「悪いこと」には法の抜け道があり、それを「合法だ」と明るく謳うものがいる。
だが、いまや世界はそうした悪辣なテロリストを匿いかねない考え方には、はっきりとノーを突きつける。
法の抜け道は、必ずわずか数パーセントのもの達がつくりあげた桃源郷へと通じている。
そしてそこには、えらく蓄えられた蜜があり、それらに目がくらむものを手玉に取る。
「強者の論理」にならってをそこに通ずるパスポートを手に入れたならば、
そこからの取りこぼしを拾い集め、また、奪い合うこともできて、
多大な生命環境をいたずらにもてあそぶだけの博打に延々と興じることができる。
そこにあるもの達の常識とは結局、全体のわずか数パーセントのものたちの特権を生む為だけに作られている。
「合法」を敢えて声高に謳う者がいるなら、それは当たり前の価値観において「脱法を意味する」と周囲に触れ回るも同じことであるが、
そこにある論理は、なぜそれが「悪いか」の根拠を示さない。
そうではなく、「必要だから必要だ」、「正しいと決められたから正しい」といった根拠なき理屈だけがまかり通る、とするのである。
つまり、なんら力を持たないも一緒なのである。
というよりそもそもそうした力など存在しないのである。
つまりそこにあるのは力の正義であり、それは武器と弾薬の破壊性そのものでしかない。
量数あるものが力を持つ、つまり正しいという論理である。
これは単純にいって、おぞましい。
人間の心を「いびつ」に組み替える原因はその強者の論理にある。
人類の魂の年齢が幼いというのはその点にある。
そこに生命の本質、正常な皮膚感覚を閉じ込めてしまうのである。
特権社会の中に席巻する学識で大人ぶることができると考える、
そうした意味のない大人の論理は果たして、ヒトの社会をこのまま正常に保つことができるだろうか。
何度も繰り返してきた破壊と戦争。振り下ろされてきた弱いものへの拳。
いじめやDVなどといったものは、社会から受けた心の痛みが、
そのままさらに弱いものへと振り下ろされるだけのものである。
実害を受けた子供は痛みを知る。
しかし子供は怒りより悲しみが勝るのだ。
そして、まさにそうした大人の世界を理解しようと勤めるのだが、
正論を学んでいこうとしても、それは果てしなく絶望へと繋がっている・・・。
「正論では誰も救えない」、そしてまたそうした子供たちも狂気へと走らせる。
そして、やがて順応性だけが迫られる場所にたどり着いて自問する。
「自分はここにいたいのか?」
「自分はここで何をしたいんだろう?」
自身に繰り返し、そこになじむかの資質があるか問い、そして次に勇気が問われ、ある者はこの場所を捨てていく。
その答えから目を逸らして、順応し生き残ることを決意したものは、自分の本当の価値を捨て去ることを選択する。
それも勇気だ。愛すべき家族とともにいつまでも居たいが為に。
もっともっと純粋な感覚からすれば、そんな大人の理屈なども屁理屈でしかない。
与えられたものでただ遊ぶだけで、何も作ることができないなんておかしい、と思うだろう。
魂とは、創造性の塊だ。
彼らの創造性と愛に比較して、この世界が如何につまらないかは誰だって想像できる。
そんなつまらない世界を延々続けようだなんてことは到底理解できない。
明るい未来をイメージできないものが増えている。
かしこぶることだけをまねして、自分の人生に何も見出せていない。
いまわれわれが率先して動かねば、全体はますます、迷いの中に、正常さを逸し、そして自浄機能を失っていくだろう。
私はそんなことは望んでいない。だからできることをやる。
望ましい自分を想像する。
望ましい世界を想像する。
人の喜ぶ顔を創造する。
ここにいてやりたいことをやる。
後悔等したくない。
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