03. 2014年11月02日 18:19:58
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大天使ミカエルとミカエルの仲間達 http://blogs.yahoo.co.jp/mikaeru0628/38200241.htmlより全文拝借731部隊 ロス疑惑 2014/2/28(金) http://blogs.yahoo.co.jp/mikaeru0628/38200241.html お腹いっぱいのところ、大変申し訳ないですが、 この恐ろしい佐々一族の話には、まだ続きがあります。 佐々淳行の義弟(佐々淳行の妹である佐々恭子の夫)の 山崎圭についても述べておきますね。 山崎圭は、薬害エイズで罪な無い人を殺害しまくった加害企業のバイエル薬品の会長でした。 薬害エイズ事件とは、1980年代に、主に、血友病の患者に対して、加熱などでウイルスを不活性化しなかった血液凝固因子製剤(非加熱製剤)を治療に使用したことにより、多数のHIV(最終的にエイズを発症させるウイルス)の感染者および、エイズの患者を生み出した事件です。 日本では、薬害エイズ事件によって、全血友病患者の約4割にあたる1800人がHIVに感染し、うち約600人以上が既に死亡しているといわれています。 そして、この薬害エイズ事件において、製造販売で民事で提訴された加害企業が、ミドリ十字(現在の田辺三菱製薬)、化学及血清療法研究所、輸入販売で民事で提訴された加害企業が、バクスター、そして、佐々淳行の義弟の山崎圭が会長を務めたバイエル薬品でした。 余談ですが、麻薬のヘロインを鎮咳薬として最初に発売したのが、このバイエル薬品のドイツ本社です。 さて、極左テロ組織の中核派が内ゲバで殺害した人数が、およそ50人ですから、佐々淳行の義弟は、その12倍の人間を殺害したことになります。佐々淳行の義弟は、殺人鬼なのです。 しかも、厚生省の薬務局長からの天下りして、甘い汁をすすっていた人間でもありました。 ミドリ十字やバイエル薬品が共謀して行った600人虐殺は、凄まじいものでした。 さて、薬害エイズ事件の加害企業であるバイエル薬品の会長が、公安警察の首領 である佐々淳行の義弟であったことは、記憶しておいてもらいたいです。 実は、もう1つの薬害エイズ事件の加害企業であるミドリ十字から、公安警察の 前身組織である特高警察の支配者人脈が、ゴロゴロと出てくるからです。 佐々淳行と言えば、佐々淳行の師匠であり直属の上司である後藤田正晴 (警察庁長官)が、真っ先に脳裏に浮かぶかと思いますが、この後藤田正晴が、 ミドリ十字の社長だった松下廉蔵と同じ、旧制水戸高等学校の出身であることは あまり知られていない事実ですが、この話には続きがありました。 後藤田正晴という男は、かなりの悪漢で、後藤田正晴は、フクニチ新聞と内外タイムスにオウム真理教(カルト宗教)の広告を載せるように手配していた朝堂院大覚から、5億円を超える献金を受け取り、さらに、後藤田正晴の後援会会長の息子は、 オウム真理教(カルト宗教)の大幹部の石川公一であったことは有名です。
また、後藤田正晴は、インタビューで、自身が、CIA(アメリカ諜報機関)と深い関係にあったことと、CIA(アメリカ諜報機関)の本部に行ったことを認めてもいますし、警察庁長官を辞めて政治家に転身した選挙のとき、自身の陣営から、大人数の選挙違反者を出し、山口組(ヤクザ組織)の顧問である尾崎彰春に対しては、「尾崎君は紳士だ」と評し、さらに、この後藤田正晴の大甥の後藤田正純が、統一教会(カルト宗教)の下部団体であるUPF主催の文顕進の昼食会に出席していたことも、記憶すべき事柄でしょう。 そんな佐々淳行の師匠の後藤田正晴ですが、後藤田正晴は、一時期、自治庁の 官僚でもありました。 1959年に、後藤田正晴を自治庁長官官房長に抜擢した自治事務次官(自治庁の事務方のトップ)の名を小林與三次(後の読売新聞社の名誉会長)と言い、正力松太郎(読売新聞社の社主)の娘婿でした。 正力松太郎と言えば、第二次世界大戦前には、内務省の警保局の直接指揮下の特高警察を指揮する立場にある警視庁官房主事を務め、関東大震災の際に、朝鮮人暴動の噂を流布させて、朝鮮人虐殺を煽動したことが最も有名でしょう。 正力松太郎が率いた特高警察が、平然と虐殺を行うような、恐怖の秘密警察であったことは覚えておきましょう。 要するに、後藤田正晴は、正力松太郎の子分だったというわけですが、正力松太郎もまた、ポダム(PODAM)というコードネームをCIAから貰ったCIAのエージェントでした。 その正力松太郎の腹心に、高橋雄豺という人物がいましたが、高橋雄豺もまた、第二次世界大戦前の警察官僚の1人として警視庁警務部長を務めた人間で、正力松太郎の手引きで読売新聞社に入社した後、正力松太郎の右腕として、読売新聞社の副社長を務めています。 さて、長い長い複線はここで終わりを告げます。 実は、この高橋雄豺の娘婿こそが、薬害エイズ加害企業であるミドリ十字の財団の理事を務めて薬害エイズ殺人容疑で告訴された安部英でした。 また、後藤田正晴は、ロッキード事件では、後に内閣総理大臣となる中曽根康弘(ホモの内閣総理大臣)と共に、ロッキード社の軍用P3C対潜哨戒機の導入疑惑がありますが、後藤田正晴が、ロッキード事件後に、中曽根康弘が内閣総理大臣になったとき、中曽根康弘内閣で内閣官房長官を務めたことを記憶して頂きたい。 要は、警察庁長官経験者の後藤田正晴は、中曽根康弘の右腕だったわけですが、その中曽根康弘も、政治家になる前の一時期、警視庁に勤務していた警察官僚であり、階級は警視でした。 ちなみに、中曽根康弘は、自分の回顧録『天地有情』の中で、「俺はCIAのテストを 受けた。英語もあった。論文も書いた。パスした。自分から進んでCIAのテストを受けた」と書いているそうなので、ここで、正力松太郎、中曽根康弘、後藤田正晴といった3大警察官僚OBが、全員、CIAのエージェントであったことが分かります。 また、後藤田正晴の腹心だった佐々淳行自身も、中曽根康弘内閣の下で、内閣官房内閣安全保障室長という役職を、中曽根康弘か与えられていたことも重要なので覚えておきましょう。 さて、中曽根康弘が(カルト宗教)に、何度も祝電を送ったことは有名ですが、後藤田正晴の大甥である後藤田正純が、統一教会のイベントに参加し、さらに、佐々淳行の義父(佐々淳行の妻である朝香幸子の父親)である朝香三郎が、日本窒素肥料 (チッソや旭化成の前身企業)の子会社である朝鮮窒素肥料の最高幹部として、咸鏡南道興南(現在の北朝鮮の咸興市)の工場で、恐怖の『核実験』をしていたことや、その工場の跡地に、若かりし日の文鮮明(統一教会の教祖)が働いていたこと、さらには、オウム真理教のナンバー2の大幹部である早川紀代秀が、統一教会の元信者であったことは、併せて記憶に入れて頂たいです。 何故なら、薬害エイズ加害企業であるミドリ十字の財団の理事を務めて薬害エイズ殺人容疑で告訴された安部英を、厚生省エイズ研究班班長に任命した黒幕が、中曽根康弘だったからです。 今度は、中曽根康弘、後藤田正晴、佐々淳行の3人の警察官僚OBが、オウム真理教の大幹部である早川紀代秀と共に、統一教会の関係者でしたが、その中曽根康弘の子分で中曽根康弘内閣で労働大臣を務めた山口敏夫が、オウム真理教(カルト宗教)に資金援助をしていたことや、山口敏夫に拳銃トカレフを渡した人物が、後藤田正晴のパトロンでオウム真理教の宣伝広告を請け負っていた朝堂院大覚であったことは重要です。 ここで、薬害エイズ事件の黒幕人脈と、オウム真理教事件の人脈が重複している ことに気づかれると思います。 さらなる恐怖は、1993年に、オウム真理教が起こしたとされている、炭疽菌による生物兵器テロ未遂事件の亀戸異臭事件です。 炭疽菌に限らず、ウィルス兵器という代物は、元のウィルスが無ければ、生成 することは出来ません。何故なら、人類の今の技術では、ウィルスであろうと、 無から生命を作ることが出来ないからです。 そういう意味では、無から作り出すことが可能なサリンなどの化学兵器と比べ、入手先の経路の特定が簡単なのがウィルス兵器です。何故なら、炭疽菌兵器の元の炭疽菌株を持っている組織は、地球上で限られているからです。 炭疽菌株を持っていると見られている組織は、アメリカ、イスラエル、そして、旧日本軍の満州第七三一部隊くらいだからです。 では、オウム真理教は、どこから炭疽菌を入手したのでしょうか? 1つ分かっていることは、松下廉蔵と安部英が在籍していたミドリ十字の前身組織が、 日本ブラッドバンクという医薬品メーカーであり、この日本ブラッドバンクの 設立メンバーのうち、北野政次、二木秀雄、野口圭一の3人が、石井四郎(大日本帝国陸軍軍医中将)が率いた旧日本軍の人体実験部隊として悪名高い、七三一部隊の出身でした。 七三一部隊が、日常的に、生体解剖や人体実験を行った恐怖の集団であったことは有名ですが、その一方で、七三一部隊は、炭疽菌などの生物兵器の開発を行っておりました。 ですから、炭疽菌兵器の開発を行っていた七三一部隊の残党たちが多数、流れ込んだ日本ブラッドバンクの後身企業であるミドリ十字が、炭疽菌株を隠し持っていても、何も不思議ではありません。 そこで、ミドリ十字とオウム真理教の両方と癒着していた中曽根康弘と 後藤田正晴が、ミドリ十字が隠し持っていたウィルス兵器の元となる炭疽菌株を、 オウム真理教に渡していたのではないか、という疑問も沸いて出ます。 また、二木秀雄は、政界ジープの発行者でもありましたが、政界ジープの発行元である政界ジープ通信社は、1956年に、一流会社や銀行、政治家などのスキャンダルや暴露記事をネタにした恐喝など、19件の犯行で摘発され、政界ジープ通信社の社長と、同社の大阪支局長などが検挙され、続いて、同社の14人を逮捕され ました。 政界ジープ通信社が起こした被害総額は6960万円の政界ジープ事件は、戦後最大の恐喝事件となりました。 この政界ジープ事件で逮捕された政界ジープ通信社の経営者が、日本出版協会に入り込み、その日本出版協会の理事長の石原萠記が、石原萠記は、若き頃、当時は日本共産党の党員だった後の読売新聞社の会長となる渡邉恒雄と共に、学生運動をしています。 渡邉恒雄が、その後、正力松太郎のお眼鏡にかない、読売新聞社内の出世レースに勝ち抜き、最終的に、読売新聞社の会長となったことは説明は必要無いでしょう。 さて、日本ブラッドバンクの発起人である川島忠についても述べておきましょう。川島忠は、あの『華麗なる一族』の万俵家のモデルともなった岡崎財閥に婿養子入りした人間であり、岡崎財閥の当主で神戸銀行(岡崎財閥の中枢企業)の会長である岡崎忠雄は義父。 で、川島忠の兄妹の川島正の夫の桑田一夫と、内務省警保局長(特別高等警察のボス猿)と警視総監を務めた町村金五の妻の桑田二葉が、兄妹という関係。 町村金五は、正力松太郎の後輩で、町村金五の息子が、統一教会と癒着している自民党の清和会の会長である町村信孝で、町村信孝は原子力委員会委員長も務めています。 要するに、薬害エイズ加害企業ミドリ十字は、731部隊と特高警察の相乗り企業だったということです。 佐々淳行の実父の佐々弘雄が、リヒャルト・ゾルゲ(ソ連の伝説的なスパイ)の右腕として、日本を大東亜戦争に導き、時の内閣総理大臣であった東條英機の暗殺を目論んでいたことにはついて述べてきましたが、では、他の佐々一族の人間は何をしたのでしょうか。それを言及しましょう。 始まりは、佐々淳行の祖父の佐々友房(熊本国権党の創設者)。まず、佐々友房は1877年10月に除族・懲役10年の刑を言い渡されて宮崎の監獄に収監されている『罪人』です。 宮崎の監獄から出獄した佐々友房は、1879年に現在の熊本県立済々黌高等学校の前身に当たる同心学舎を創立していますが、後にこの熊本県立済々黌高等学校からは、赤軍派のメンバーでよど号グループのメンバー・テロリストである田中義三(赤軍派のメンバー、よど号グループのメンバー・テロリスト)が卒業しています。 よど号グループの凶悪犯罪者は、よりによって、佐々淳行の祖父の佐々友房が創立した学校から誕生したわけですが、佐々淳行の父親の佐々弘雄と重信房子の父親の重信末夫の2人が、四元義隆(エセ右翼)を通して親友であったという驚愕の事実を踏まえて考えると、これは偶然ではないでしょう。 というか、先ほども書いたように、佐々淳行の率いる腐敗警察の幇助によってよど号のハイジャックを成功させ、北朝鮮へ渡った田中義三は、ちょくちょく東南アジア諸国に出没しては、偽ドル札であるスーパーKと北朝鮮産の覚醒剤を絡めた闇の 商取引を行っていましたが、田中義三が、タイのバンコクで、カルト宗教のオウム真理教の大幹部の早川紀代秀(オウム真理教の最高幹部、統一教会の信者)と頻繁と接触していました。 早川紀代秀は、オウム真理教に入会する前は、韓国のカルト宗教である統一教会の信者でした。 そう言えば、佐々淳行の直属の上司に当たる後藤田正晴(警察庁長官、内閣官房長官)の大甥である後藤田正純が、統一教会の下部団体であるUPF主催の文顕進(統一教会の教祖である文鮮明の息子)の昼食会に出席していますが、これも有名です。 また、後藤田正晴が内閣官房長官として仕えた中曽根康弘(ゲイの内閣総理大臣)は、統一教会のイベントに何度も祝電を送っています。 中曽根康弘の指南役は、佐々弘雄の親友の四元義隆(エセ右翼)でした。 佐々淳行(伝説の警視正)の祖父が創立した高等学校から、赤軍派のメンバーでよど号グループのメンバー・テロリストである田中義三が卒業生として名を連ねている事実は記憶すべきことでしょう。 さらに、佐々一族が支配する熊本県には、もう1人のよど号グループのメンバー・テロリストである岡本武(赤軍派のメンバー、よど号グループのメンバー・テロリスト)がいます。 岡本武の方は、熊本県立熊本高等学校を卒業後、左翼テロリストとして、佐々淳行が警察組織を指揮して鎮圧に乗り出したことになっている東大安田講堂事件に参加しています。 岡本武が熊本県立熊本高等学校に在籍していた頃の熊本県は、佐々一族が、熊本県の政界と教育界に君臨し、さらに、熊本県屈指の新聞社である熊本日日新聞社と、熊本県のテレビとラジオを放送する熊本放送を支配して、熊本県のメディアを牛耳っていました。 佐々家が支配し、佐々淳行の監視網が徹底していたであろう熊本県からたった9人しかいないよど号グループから、2人も輩出していることは注目すべき事実でしょう。 熊本県は43ある都道府県の内の1つです。 2005年5月1日時点で学校教育法に基づく高等学校は全日制・定時制合わせて全国に5418校あったそうですが、2005年での高等学校数で計算すると、分母が5418校、分子が9人ですから、これがどれだけすごい確率か分かると思いますが、この驚くべき確率に、佐々淳行の父親の佐々弘雄と重信房子(赤軍派の幹部で日本赤軍の女指導者)の父親の重信末夫の2人が、四元義隆(エセ右翼)を通して親友であったという事実を併せて考えてもらいたいです。 そもそも、東大安田講堂事件が起きた東京大学の元祖学生左翼グループの新人会に所属していた極左活動家は、佐々淳行の父親の佐々弘雄です。 熊本日日新聞社は、1987年には、かつて、熊本南警察署の庁舎があった敷地に、日本で初めてとなる新聞博物館を開設しているわけですが、これは、佐々家が熊本日日新聞社のオーナーであり、佐々家の御曹司である佐々淳行が公安警察の首領であったことから実現したことでありました。 話を戻します。 監獄から出獄した佐々友房は、同心学舎を創立して熊本県の教育界に進出し、さらに、1889年1月になると、極右団体である熊本国権党を創設して政界に進出して、熊本県の教育、政界、財界を支配する熊本エスタブリッシュメントの一画になりました。 佐々友房の後を引き継いで熊本国権党の党首となったのが、佐々家とは親戚関係(佐々淳行の伯父{佐々友房の長男}の佐々信一の妻の原冬子の兄妹の原董治{安達董治}の養父、ちなみに、原冬子と原董治には原義龍というもう1人兄弟がいますが原義龍の息子の原勇策は東芝の取締役として原発利権に食い込んでいる)にある安達謙蔵(乙未事変のテロリスト、熊本国権党の2代目党首、内務大臣、国民同盟の創設者)でした。 安達謙蔵は、三浦梧楼(奇兵隊のメンバー、熊本鎮台の司令長官、玄洋社の社員、浪人会の主要メンバー)と共に、1895年10月8日に、在朝鮮半島の熊本県出身者を率いて閔妃(李氏朝鮮の王妃)の暗殺を企て実行する乙未事変を引き起こし、投獄されて います。 安達謙蔵が閔妃を暗殺した乙未事変の背後には、当時の朝鮮王朝内部での事大党(清国への臣属を主張し反日グループ)と開化派(清国からの独立と近代化を目指した新日グループ)の対立と、日清戦争の後の大日本帝国とロシア帝国との朝鮮半島を巡る争いがありました。 閔妃は、実に頭の良い王妃であり、無能な朝鮮王であった夫の高宗(朝鮮王)に代わり、実質的に朝鮮王朝を動かしていた女性でした。そんなこともあり、高宗の実父である興宣大院君(李氏朝鮮の王族)と閔妃は犬猿の仲であり、常に対立をしていました。 実父と妻の間で板挟みになっている状況にて、閔妃の尻に敷かれていた高宗は、実父の興宣大院君を追放して、閔妃と閔妃の一族が実権を握って、朝鮮王朝を支配しました。 閔妃は、朝鮮半島の近代化を推し進めようと、開国政策をとり、大日本帝国と日朝修好条規を締結するなどして、積極的な開化政策を行い、日本から顧問を呼び寄せて、軍隊の近代化に着手しました。 しかし、閔妃が新たに設けた新式の軍隊に資金が投入される一方で、従来の旧式の軍隊は放置され、賃金未払い問題なども発生した結果、旧式の軍隊による閔妃への不満が高まっていきました。 そして、閔妃を逆恨みした興宣大院君は、閔妃が放置した旧式の軍隊と組んで、閔妃の暗殺を試み、壬午事変を起こすと、閔妃は、すかさず、清国の袁世凱(清朝の内閣総理大臣)にすり寄って、清国の助けを借りて反撃に出ます。そして、逆に、閔妃が興宣大院君を打ち負かし、興宣大院君を清国の軍隊に連行させて、天津に幽閉してしまいます。 この頃から、それまでは新日路線であった閔妃は、清国に頼る事大主義に路線に 変更していき、清国への臣属を主張するようになります。 閔妃が率いた事大党が行う清国への事大主義に対して、朝鮮半島の近代化が妨げられると懸念して、閔妃の排除を目論んでいたのが、開化派の金玉均(李氏朝鮮後期の 政治家)と朴泳孝(李氏朝鮮後期の政治家、日本名は山崎永春)でした。 そして、日清戦争で大日本帝国が清国を倒すと、大日本帝国は、清国サイドへ 寝返った閔妃を追い出すために、幽閉されていた興宣大院君を担ぎ上げ、 アンチ閔妃の金玉均と朴泳孝と手を結びます。 大日本帝国に推す興宣大院君の勢力は強くなり、一方で、閔妃の勢力は衰退していきました。 そして、閔妃は、大日本帝国が推す興宣大院君と張り合うために、今度は、南下政策を図っていたロシア帝国と手を組みます。 それを良しと思わなかった三浦梧楼と安達謙蔵は、開化派の金玉均や朴泳孝と組んで閔妃を暗殺したというわけです。それが、1895年に起こった乙未事変でした。 三浦梧楼や安達謙蔵と組んだ金玉均と朴泳孝は、玄洋社からも支援を受けていました。 玄洋社の社員には、ロシア革命でウラジーミル・イリイチ・レーニンに資金援助をした明石元二郎(陸軍大将、ロシア革命の黒幕、玄洋社の社員)や、佐々弘雄の上司だった緒方竹虎が所属しています。 そして、閔妃が暗殺された乙未事変が起こった1895年から、およそ9年後の1904年に、大日本帝国とロシア帝国とが、朝鮮半島と満洲南部を主戦場として、日露戦争を始めている歴史の流れは記憶すべきことでしょう。 ちなみに、乙未事変から15年後の1910年に、明石元二郎が、韓国統監を勤める 寺内正毅(後の初代朝鮮総督、内閣総理大臣)の下で、憲兵(大日本帝国陸軍直下の 警察)の司令官と警務総長を兼務して、韓国併合の過程で武断政治を推し進めて います。 閔妃を暗殺した乙未事変を引き起こした首謀者の1人として投獄されていた安達謙蔵ですが、出獄すると、熊本県に帰って、佐々友房の後を引き継いで、熊本国権党の党首となり、中央政界への進出を試みます。 安達謙蔵は、1902年の衆議院選挙で初当選を果たして、国会議事堂入りをし、濱口雄幸(内閣総理大臣)と若槻禮次郎(内閣総理大臣)の下で、2度に渡って、特別高等警察(戦後の公安警察の前身)を管掌する内務省を指揮監督する立場にある内務大臣を 歴任し、満州事変(1931年 〜 1932年)の時には、特別高等警察を強化しています。 安達謙蔵が内務大臣を務めた時代に、安達謙蔵の支配する内務省で部下として 動いていたのが、特別高等警察を指揮する警視庁官房主事を務めた正力松太郎 (警視庁官房主事、読売新聞社の社主、日本テレビの創設者、初代原子力委員会委員長)です。 正力松太郎が、後藤田正晴(警察庁長官、内閣官房長官)と中曽根康弘(ゲイの内閣総理大臣)と渡邉恒雄(読売新聞社の会長、日本共産党の党員)といった、3人の怪物達を顎で動かすボスであったことは有名です。 また、安達謙蔵は、古屋慶隆(鉄道省の参与官)や、中野正剛(朝日新聞社の幹部記者、玄洋社の社員、東方会の総裁)や風見章(司法大臣、朝日新聞社の幹部記者、信濃毎日新聞の主筆、昭和研究会の主要メンバー、朝食会の中心メンバー)や、富田幸次郎(衆議院議長)と共に、国民同盟を結党しています。 リヒャルト・ゾルゲ(ソ連の伝説的なスパイ)の右腕だった佐々弘雄が、朝日新聞社の論説主幹だったことを考えれば、佐々一族と朝日新聞社の関係の深さが見えます。 安達謙蔵のキー・ワードと言えば、『熊本県』と『朝鮮半島』と『警察人脈』の3つですが、安達謙蔵のこの3つキー・ワードを全て持つ人物が、他にもう1人いました。 麻原彰晃(オウム真理教の教祖、本名は松本智津夫)は、熊本県の八代市高植本町 (旧・八代郡金剛村)の畳職人の家庭の四男として産まれましたが、「週刊文春」2000年新年合併号によると、「松本の祖父は熊本県出身の警官で、戦前に朝鮮半島に渡り、その地で警察署長を務めた後、終戦後、熊本に引き揚げた」のだそうです。 この「週刊文春」の記事が事実だとすると、麻原彰晃の祖父に、佐々一族の安達謙蔵の直属の部下であった可能性が出てきます。 佐々友房も佐々一族の安達謙蔵も麻原彰晃の祖父も熊本県の出身です。安達謙蔵も麻原彰晃の祖父も朝鮮半島にいました。そして、安達謙蔵は、特別高等警察を管掌する内務省を指揮監督する内務大臣を歴任し、麻原彰晃祖父は、朝鮮半島で警察署長を務めています。朝鮮半島の警察のボスを明石元二郎が歴任していたことも気になります。 麻原彰晃の祖父は、熊本国権党や玄洋社と接点があったのではないか?佐々一族が松本家を育てたのではないか?実は、佐々一族と麻原彰晃には、先ほど挙げた3つの接点の他、もう1つ重要な接点がありました。 麻原彰晃は水俣病から視覚障害を持っていました。水俣病加害企業である日本窒素肥料の最高幹部と、その子会社である朝鮮窒素肥料の最高幹部と、その後身会社である旭化成の最高幹部を務めたのが、佐々淳行の義父(妻である朝香幸子の父親)の朝香三郎という世界です。 熊本県には何があるのでしょうか? ザ・プリンセス・オブ・ミナマタ 水俣病の問題を考える場合、天皇家の存在を忘れてはいけないでしょう。 1993年、平成の天皇の明仁(今上天皇)の嫡男である浩宮(皇太子徳仁親王)は、とんでもない家から妃を娶った。 浩宮(皇太子徳仁親王)の妻・妃となった雅子(皇太子妃、旧姓は小和田雅子)の母方の祖父は、水俣病加害企業であるチッソ(日本窒素肥料の後身企業の1つ)の社長の江頭豊(チッソの会長)でありました。 1972年1月、水俣病の患者と新聞記者たちが、千葉県にある水俣病加害企業であるチッソのチッソ五井工場へ、交渉をしに来た際、江頭豊は暴力団を雇い、雇った暴力団を、交渉に来た水俣病の被害者と記者たちに送り込んで、水俣病の患者と新聞記者たち約20名を、暴力団に襲わせて、暴行を加えています。 このとき、水俣病の被害者と同行していた写真家のウィリアム・ユージン・スミス(カメラマン、マグナム・フォトの正会員)は、江頭豊が送り込んだ暴力団員によって、脊椎を折られ、片目失明の重傷を負っています。 水俣病公害を引き起こして、罪のない無垢な人達に不治の病を背負わせ、その被害者たちの声を、暴力団を使って踏みにじった悪魔王が、皇太子妃の雅子の祖父である江頭豊なのです。 愛子 (敬宮内親王、浩宮と雅子の娘)には、悪魔王の血が流れています。この悪魔王、江頭豊の周辺には、何故か、大日本帝国海軍の関係者が多くいます。日露戦争で大本営参謀を務めた父の江頭安太郎(海軍中将)、海城学園の創設者である祖父の古賀喜三郎(海軍少佐)、連合艦隊司令長官を務めた義父の山屋他人(海軍大将)がいます。 大日本帝国海軍の関係者が熊本県の水俣湾を汚染したのです。海軍と言うより、 もはや、海賊と言った方が適切かもしれません。 大日本帝国海軍時代の海軍人脈と言うと、真っ先に、海軍時代に同性愛を覚えた中曽根康弘(ゲイの内閣総理大臣)が思い浮かぶことでしょう。戦時中の中曽根康弘が海軍主計少佐を勤めていたことは有名です。 チッソと同じく、日本窒素肥料を前身に持つ企業が、戦後になって、佐々淳行の義父である朝香三郎が最高幹部を務めた旭化成(日本窒素肥料の後身企業の1つ)であります。 実は、旭化成には、中曽根康弘の息子の中曽根弘文(外務大臣)が、若かりし頃、1968年から1983年の間、15年間も勤めています。 どうやら、日窒コンツェルンは海軍人脈を多く取り込んでいた模様です。 さて、ここからはおさらいになりますが、再度、貼り付けておきます。 このおさらいを読み上げた上で、今度はロス疑惑も見て行きましょう。 佐々淳行の正体
公安警察の指導者だった佐々淳行の父親の佐々弘雄と、 日本赤軍(赤軍派の2次組織の極左テロ組織)の女指導者である重信房子の父親の重信末夫が、血盟団(一人一殺の右翼テロ組織)に属したエセ右翼の巨頭である四元義隆を通して、同じサークル(ゾルゲ諜報団、リヒャルト・ゾルゲの一味)の 仲間であったことが詳しく書かれている本があります。 新潮社から出版されている金子淳一が書いた 「昭和激流 四元義隆の生涯」 という本です。「昭和激流 四元義隆の生涯」の重要な部分を 引用しておきます。 〜引用開始(P90〜P92)〜 池袋が病気で入院した後、しばらくして金鶏学院で事件が起こる。四元と日召が、 学院を取り締まる立場にある院生代表二人を殴るという暴力事件である。 当時、 学院に寄宿していた池袋の都城中学時代の友人、重信末夫(日本赤軍の 最高指導者として知られる重信房子の父)を侮辱したという理由である。だが、 とにかくこれで、四元は完全に学院と決別することになったのだ。 〜引用終り〜 *同書に書かれている池袋とは、地名ではなく、血盟団の団員の池袋正釟郎のこと *四元義隆が金鶏学院を止める直接の理由が、重信末夫を庇うことだったということ
四元義隆の物語の中で最大のミステリーは、血盟団事件で小管刑務所に 投獄していたテロリストの四元義隆が、その後、どのようにして、国家を 動かす程の権力を手に入れたか、ということでしょう。この謎に対する答も、 「昭和激流 四元義隆の生涯」に詳しく書かれています。 〜引用開始(P154〜P159)〜 さっそく、四元は朝日新聞の主筆、緒方竹虎に面会した。刑務所から出たばかりで、 随分大胆なことをするように思えるが、四元としては国のために何かをしたいという 情熱に駆られた、必死の行動だった。 ―中略― 当時は日々軍国主義体制が固められる中で、戦争に反対するだけで、当局に 睨まれる状況だった。そんな中で真剣に持論を語る四元の姿に感銘を受けた 緒方は、すぐ朝日新聞論説主幹の佐々弘雄(元九州大学教授)を紹介した。 さっそく、佐々に面会した四元はすぐに意気投合し、その後、二人は肝胆相照らす 仲になっていったのである。この出会いが、大きな転機となった。佐々弘雄は 昭和研究会のメンバーであり、近衛の側近の一人だった。 ―中略― 佐々は近衛に四元を丁寧に紹介した。 ―中略― それから、しばらくして四元のところへ佐々弘雄が来て、近衛からの伝言を 伝えた。四元に秘書になってもらえないかというのである。 〜引用終り〜 *佐々弘雄は、四元義隆を近衛文麿に紹介して国家の中枢に送り込んだ張本人 *佐々弘雄は、ゾルゲ諜報団の尾崎秀実も近衛文麿に紹介している
この本からも分かる通り、佐々淳行と重信房子は、歳の 離れた幼馴染です。 佐々淳行の父親である佐々弘雄と 重信房子の父親である重信末夫の2人は、エセ右翼の 黒幕である四元義隆を通して親友でした。
ついでに、佐々淳行と、オウム真理教第6サティアンのあった上九一色村への大がかりな家宅捜索の全面指揮を 執った警察官僚の寺尾正大の関係も、情報ソースの本を 載せておきます。 佐々淳行と寺尾正大の関係は、 佐々淳行本人が書いた「連合赤軍「あさま山荘」事件」に 書いてあります。 〜引用開始(P179)〜 かつて私の別室(副官)だった寺尾正大警部が ―中略― と電話してきたそうだ。 〜引用終り〜 ご存知の通り、佐々淳行は、2007年(平成19年)に行われた 東京都知事選挙では、石原慎太郎の選挙対策本部長を 務めていますが、石原慎太郎はオウム真理教と癒着して いましたし、佐々淳行の上司の後藤田正晴は、警察庁長官 から政治家に転身した人物で、中曽根康弘(内閣総理大臣)の 懐刀ですが、後藤田正晴の後援会会長の息子はオウム真理教の 最高幹部の石川公一でした。
上記の四元義隆も中曽根康弘の 側近の一人です。このように、佐々淳行の上司の後藤田正晴と 石原慎太郎の2人が、共に、オウム真理教と癒着していました。 そんな中で、オウム真理教第6サティアンのあった上九一色村 への大がかりな家宅捜索の全面指揮を執った警察官僚が 寺尾正大です。 これも佐々淳行本人が書いた本なのですが、「後藤田正晴と十二人の総理たち―もう鳴らない“ゴット・フォン”」 という本に、オウム事件時の佐々淳行と寺尾正大のやり取りが 詳しく記述されています。 〜引用開始(P207〜P209)〜
二月二十八日付で警視庁刑事部捜査第一課長になったばかりの寺尾正大 警視が深刻な顔つきでやってきた。ついこの間鑑識課長として年賀に来たばかり なのに、今日は何だろう? 「どうも一連の事件はオウム真理教の疑いが濃くなりました。サティアン周辺の 土壌からも化学合成物がでました。ガサ(押収捜索差押え許可状)をとって、 山梨県警と合同で上九一色村のサティアンを捜索することになりました。それが 捜査一課担当となって私が指揮して近く着手することになったんです。つきましては 『あさま山荘』の経験から心すべきことを御教示頂こうと……」 「なんで捜査一課なんだ。動員する兵力は?」 「私服三百名」 「バカいうな、敵はヘッドギアの狂信者二千名、サリンとカラシニコフ自動小銃つくってる 疑いがあるんだぞ。俺も関係当局に意見具申するが、これは三千名の機動隊動員を してライフル班も放水車も、毒ガスマスクも化学防護衣も準備してやる。“大警備実施”だ。 三百の私服でやって殉職者を出したら君も俺のように一生十字架背負うんだぞ。俺が 悪者になろう。佐々が私服三百ではダメだ、警備局がやれといったといって君はその 任務、断れ。俺が手配して制私服合同の警備実施、やらせる。殉職者、出してみろ、 辛いぞ。 自衛隊のガスマスク、秘かに保管転換する。サリンは水に弱い。加水分解 するというから放水車は絶対に必要。上九一色村の水源、調べろ」 ―中略― また嫌われるなあと思いつつ、警視庁、警視庁の関係幹部に電話をかけまくり、 ついでに大御所後藤田正晴氏にも意見具申した。 ―中略― その結果、予定されていた上九一色村のガサは延期され、兵力一千五百名、 自衛隊からの毒ガスマスクの保管転換、放水車、特型警備車も動員しての 「捜査第一課長指揮事件」となった。 〜引用終り〜 ポイント *寺尾正大は最初、オウム捜査に、私服300人だけで挑むつもりだったのを 佐々淳行がチャチャ入れて、最終的には、佐々淳行の意見が押し通り、 兵力1500名の大捜査となった。 *警察庁刑事局参事官を務めた警視正の佐々淳行は、警察を退官後、防衛庁に 出向して、防衛庁長官官房長を務めている。つまり、佐々淳行は、公安警察と 自衛隊の両方を動かすことができた人物だった。
*佐々淳行が意見具申した後藤田正晴の後援会会長の息子は、オウム真理教の 最高幹部の石川公一だった。 *後藤田正晴はオウム真理教の宣伝広告のすべてを請け負っていた朝堂院大覚 から5億円近い献金を受け取っていた。 *朝堂院大覚は山口組の傘下だった後藤組とも癒着していた。 *後藤田正晴の大甥の後藤田正純は統一教会のイベントに出席している。 *佐々淳行が2007年(平成19年)に選挙対策本部長を務めることとなる 石原慎太郎は、オウム真理教と癒着していた。 また、石原慎太郎の腹心は、中核派の元活動家である猪瀬直樹である。 猪瀬直樹は一水会を鼓舞する会を通して、赤軍派の議長である塩見孝也と繋がっている。 *9.11自作自演テロでも福島原発偽装パニックでも放水車は登場している。 *佐々淳行の姉の紀平悌子(旧姓:佐々悌子)の元カレは、楯の会を創設した 小説家の三島由紀夫である。 楯の会の後身組織が一水会。 また、同書「後藤田正晴と十二人の総理たち―もう鳴らない“ゴット・フォン”」 には、オウム事件のときの佐々淳行とCIAのやり取りも書いてあります。 〜引用開始(P209)〜 また電話が鳴った。ワシントンからの国際電話である。 「フウ・ディッド・イット?」 CIAのカニストラ氏だ。
〜引用終り〜 さらに、同書「後藤田正晴と十二人の総理たち―もう鳴らない“ゴット・フォン”」には、 オウム事件に連座した警察庁長官狙撃事件のとき、佐々淳行が、 アメリカで、ジャパン・ハンドラーズのジョゼフ・ナイとリチャード・アーミテージと 会っていたことも書いてあります。 〜引用開始(P210)〜 そして三月三十日、果敢に全国警察のオウム捜査を指揮していた國松孝次警察庁長官が何者かに狙撃され、瀕死の重傷を負うという前代未聞の大事件が 起きた。 折柄サンフランシスコで催された日米安全保障セミナー(日米OB防衛会議。 議長ジェームズ・ケリー、日本代表松永信雄元中米大使、米側ジョゼフ・ナイ 国防次官補)に出席していた私に、当時防衛庁審議官だった平沢勝栄氏 (現・衆議院議員)からメモが渡された。 ―中略― ジョゼフ・ナイ国防次官補、リチャード・アーミテージ大使らに激励されながら 私は直ちに帰国し 〜引用終り〜 *リチャード・アーミテージは、ミャンマーのアヘン王クン・サに、クン・サの 麻薬ビジネスの仲間だったと暴露されています。警察官僚だった佐々淳行が リチャード・アーミテージの正体を知らなかったはずはないです。
ロス疑惑
ロス疑惑の容疑者である三浦和義は、三浦和義の叔母の水の江瀧子が 石原裕次郎と共に石原プロモーションを設立した発起人であったこと から、石原裕次郎の兄である石原慎太郎とは親友関係にありました。 そして、2007年(平成19年)に行われた 東京都知事選挙で、 石原慎太郎の選挙対策本部長を務めたのが佐々淳行で、その
佐々淳行の腹心の部下である寺尾正大こそが、ロス疑惑を担当した 警察サイドの代表でした。 つまり、ロス疑惑とは、取調べを受ける側の三浦和義と、取調べをする側の 人間が、同じサークルの仲間だったということです。 そして、さらに、この三浦和義が、赤軍派の議長の塩見孝也や、関東連合の 最高幹部の中野ジローと共に、トーク・ライブをする仲であったことは 記憶しておきたいです。 ★塀の中の懲りちゃった面々 http://homepage2.nifty.com/patri/event/heinonaka_2006_09_17.html 場所:ロフトプロジェクトの新宿ロフトプラスワン 出席者:中野ジロー(関東連合の幹部)、塩見孝也(赤軍派の政治局議長)、 三浦和義(ロス疑惑の容疑者)、雨宮処凛(超国家主義『民族の意思』同盟のメンバー)、 木村三浩(一水会の会長)、安部譲二(安藤組の組員) 中野ジローは創価学会の男子部班長でありましたが、その創価学会の
男子部の人間29人が、オウム真理教に潜入していたことも重要です。 <貼り付け終了> 今回はあっさり、貼り付けておきます。 意外と、私が赤字で大きくしたりしない方が皆様には読みやすいかもしれませんねw で。先生!期末テストはいつですか?ww 覚えることがいっぱいで〜〜頭がパンクしそうですwww .
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