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イスラム過激主義による殺戮(無差別殺人や内戦) が続いたことも一つの要因となって、アラブ・イスラム世界のイスラム教徒の間でも、先進的な知識人を中心に、棄教の動きが続いています。
確かに、公然と棄教することは身の危険を招くことであり、未だ極少数派ではあります。しかしソーシャルメディアを介して、着実にじわじわと広がりつつあります。
さて、棄教した元イスラム教徒や、イスラムに疑問を抱いている人々の間で、しばしば言及されている思想家がいます。
アブドゥッラー(フ)・アル-カシミ。
1907年、サウジアラビア生まれ。1996年、エジプト没。
カイロのアル-アズハル大学で学ぶも、サラフィズムの故に放校処分。一時期、欧州にも滞在。
その思想的軌跡は、イスラム原理主義のサラフィズムから、その批判へと移り、ついには無神論へと至ります。
故郷のサウジアラビアでは死刑の宣告を受け、エジプトやレバノンでは二度にわたり暗殺の企図に遭遇。隠れ住んでいたエジプトでも、イエメン政府の抗議を受けて投獄されます。(イエメン政府曰く「学生たちが影響を受けて困る」。)
アブドゥッラー(フ)・アル-カシミの著作は、アラブ・イスラム世界全域で発禁処分にされていました。
現在は米国で暮らすシリア人の女性医師ワファ・スルタンは、シリアにいた学生時代、レバノンから持ち込まれた彼の著作が、学生たちの間で密かに回し読みされていたことを書いています。まさに、地下出版物でした。
アブドゥッラー(フ)・アル-カシミの著作は、全てアラブ語にとどまっており、欧語に訳されていません。従って、Wiki 等に載った幾つかの抜粋のみしか、アラブ語の読めない者は目にすることができません。
フランス語版のWiki に載った幾つかの抜粋をここに訳します。(重訳なので多少の異同はあるかもしれません。アラブ語のリンクもありますので、アラブ語で読める方は、そちらをどうぞ。)
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・人間(pl.) は自分の宗教(pl.) を、自分の祖国、土地、家、父親を見るかのように見る。人間は宗教を見るだけである。宗教を追求することもなければ、理解することもない。選ぶこともしない。
・宗教(pl.) は、自分が避ける戦いにおいてしか勝利しない。理性に対しては戦わないし、理性という手段によっても戦わない。宗教は、理性に対する自由な喧嘩に入ることは決してない。そういうわけで、宗教は勝ったように振る舞っているのである。
・人間(sg.) は、自分の意思に試練を与える知識を望まない。人間は、知的だがみすぼらしくあるよりも、バカだが幸福である方を望む。
・思想の故にであれ思想なしにであれ自殺する者は、いかなる戦争であれ殉教者となる者よりも、高貴でありかつ勇敢である。
・我々は欲した。次に想像した。我々は信じた。そしてついには確信した。
・理性は変化する。強いからである。強いものは停滞せずに変化する。最も強いものは、弱いものや存在しないもの以上に、常に変化し続ける。常時不動というものは、存在しない。
・微笑むことをよく知らない者たちは、最後には涙を制度化し、それを崇拝とみなすよう要求する。
・自分の被造物(=人間) に不幸、汚染、悲しみ...を必要とするよう強いる、この創造者(=神) の性質とは、何であろうか。最後には幸福な被造物(=人間) となるために 。
・一つの宗教への、あるいは徳(pl.)への服従によって、自分の人生を禁忌(pl.) の中に閉じ込める傾向のある者たちは、自分の中に、人生から逃げるための準備のようなものを見出すであろう。
・後進性(低開発性) と無知の中にこれ以上長居することを望まず、無気力から抜け出したいのであれば、イスラム教徒は人類の科学的な遺産を享受すべきである。そして有害な知も、有用な無知もないことを理解すべきである。そして知識が善の源であり、悪は無知に由来することを理解すべきである。
・アラーによる我々の精神の占領は、(数ある)植民地化の中でも最悪のものである。
・女性を四方の壁の中に閉じ込めることは、一種の去勢である。仕事においても服装においても、女性と男性の間で区別をしないことは、正しく、かつ望ましい。
https://fr.wikipedia.org/wiki/Abdullah_al-Qasimi
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