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2018年10月24日 / 12:30 / 3時間前更新
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高齢化の日本で「無縁遺骨」増加、失われる家族の絆
Kaori Kaneko
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[横須賀 19日 ロイター] - 身寄りがなく、引き取り手のいない「無縁遺骨」が日本各地で増加している。遺骨の安置スペース不足を引き起こす一方で、家族の絆が薄れ、経済的圧力にさらされる日本の高齢化社会を象徴する問題となっている。
身寄りのない死者は公費で火葬されるが、その身元は判明していることが多い。だがほとんど場合、遺族は引き取りを拒否するか、連絡しても返事がない。埋葬には費用も時間もかかることから、故人をほとんど知らない親戚には負担となる。
「私が死亡した時、15万円しかありませんが、火葬・無えん仏にしてもらえませんか。私を引き取る人がいません」──。神奈川県横須賀市で2015年、70代の男性がこのような内容の遺書を残して亡くなった。男性の遺骨はその後、地元の寺に埋葬された。
引き取り手のいない遺骨は、生活保護に頼って生活する高齢者が増え、核家族化が進む日本の、社会的、経済的、そして人口構造的な変化を浮き彫りにしている。現代の日本では、伝統的な家族の絆や役目は薄らいでいる。
こうした問題は今後、さらに深刻化すると専門家は指摘する。日本の人口は減少する中で、年間の死亡者数は現在の133万人から2040年には167万人に増加すると予想されている。
横須賀市では、300年の歴史のある納骨堂を去年閉鎖。そこに収められていた遺骨は、より少ない数の骨つぼに収め直され、市内にある別の保管場所に移された。それとは別に、市役所にも約50柱の引き取り手のない遺骨も安置されている。
「納骨スペースはなくなりそうで、ひっ迫している」と、さいたま市の生活福祉課で課長補佐を務める中村仁美さんは言う。同市では近年、引き取り手のいない遺骨が増加しており、その数は計1700柱あまりに達した。
「生活保護の人が多い。もともと親族とうまくいっていない人が多く、なかなか引き取りにつながらない」と中村さんは話す。
賃金がほとんど上昇せず、高齢者の子ども自身も年金で暮らしている中で、葬儀代など死亡時の費用は重荷になりかねない。
精進落としなどの飲食代や香典返しの費用、僧侶へのお布施代など伝統的な葬儀にかかる費用は計200万円程度になり得ると業界筋は言う。
最低限の葬儀を数十万円で行う新たなビジネスもある。
<増加する貧困高齢者>
近年、貧困高齢者の数は増えており、一部は自身の葬儀費用を出すことも難しい。政府統計によると、2015年、高齢者全体の3%近くが生活保護に頼っていたが、その割合は20年前と比べてほぼ倍増している。生活保護を受給している世帯の半数超が65歳以上だ。
「家族との関係性が希薄になる中で、孤独死した後、火葬した遺骨を引き取らないことも増えてくると思う」と、関西大学社会安全学部の槇村久子客員教授は言う。
かつて日本では、家族3世代が1つ屋根の下で暮らすことは珍しくなかった。だが日本経済が変貌を遂げて、少子化が進むにつれ、仕事などのために、実家から遠く離れた場所に住むようになった。
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65歳以上が国内人口に占める割合は、現在の28%から2040年には36%に増加する見通しだ、と国立社会保障・人口問題研究所は予想している。
「今まで家族や地域が(亡くなった人々を埋葬する)役割を担っていた」と槇村氏。だが、そうした役割を担う人が減少する中、「行政の負担が増えていくと思う」と同氏は語った。
https://fingfx.thomsonreuters.com/gfx/rngs/JAPAN-AGEING-ROBOTS-LJA/010061BM2SW/japan-population.png
<安堵>
横須賀市では、葬儀や親戚に関する情報を残さずに亡くなる人が増えている。
市当局者は親族に手紙などで遺骨の引き取りを依頼するが、返事がないことも多いという。
「(そのように亡くなった人たちは)ごく普通の一般市民だ。誰にでも起こり得る」と、福祉部の北見万幸次長は話す。「骨が、今生きているわれわれ人間たちに警告している。何の準備もしないと、これだけ引き取られなくなっていくんだよ、と」
引き取り手のいない遺骨の多くが貧困高齢者のものであることから、横須賀市は2015年、身寄りがない低所得の高齢者のために「エンディングプラン・サポート事業」を開始した。
火葬・埋葬費用上限25万円のうち、個人が少なくともその5分の1を支払い、残りは公費で負担する。これまで数十人が登録し、横須賀市は今年、墓の所在地などを登録する別のサービスを全ての市民に拡大した。
「すべてに安心感を持てるようになった」と語るのは、高齢者施設で暮らす堀口純孝さんだ。
堀口さんは未婚で、3人いる異母きょうだいとは何年も会っていない。もし自分が死んだら遺骨はどうなるのか心配だったという。「日々の暮らしは変わった。落ち着きがでてきた」と、堀口さんは語った。
(翻訳:伊藤典子 編集:下郡美紀)
https://jp.reuters.com/article/ageing-japan-urns-idJPKCN1MY08E
「2浪は無能?」 道草を許さない社会の絶望感
走り続けるより、自由気ままに休んだ方がいい
河合薫の新・リーダー術 上司と部下の力学
2018年10月23日(火)
河合 薫
東京都品川区の昭和大学病院(写真:PIXTA)
昭和大学医学部の一般入試で、2浪以上の受験生が不利になるような得点操作を行っていたことがわかった。
医学部の二次試験で、80点満点中、現役の受験生には10点、1浪の受験生には5点を加点。一方で、2浪以上には加点をしなかったほか、卒業生の親族を優先して補欠合格させ、その数は19人(2013年以降)。
昭和大学は入試操作を謝罪した上で、現役と1浪を優遇した理由について「(現役・1浪は)活力があるとか、アクティブに動ける可能性が高いと判断していた」と説明している。
……なるほど。
「活力」という名の「能力」。日常生活において私たちは一般的に、功利的原則に従って行動しているので、現役より2年も受験勉強期間を要した2浪は「最良の手段」を選択したとは言い難い。
コスパと言い換えてもいい。要した時間(労力)と結果という視点で捉えれば、現役生の方が上。流行りの言葉でいえば、「生産性が高い」ということなのだろう。
私が学生のとき、二浪は「若大将」と呼ばれていた。といってもこれは剣道部のローカルルールみたいなもの。なぜ、そう呼んでいたのかわからない。が、各学年に一人くらいは「若大将」がいて、彼らは明らかにオトナで、私は何度も「若大将」に救われてきた。
今まであまり書いたことはなかったが、私はインカレや日本選手権に出るほどの結構な選手で(ホントです……苦笑)、辛い稽古や試合で負けたりして落ち込む度に、若大将がさりげなく「傘」をさしだしてくれたのだ。
であるからして、「時にいやし、しばしば支え、常に慰む」という倫理観で、患者の「残された命」に光を与えてくれる存在でもある医師の卵が、功利的主義により選別されたのは極めて残念。
あくまでも「私世界」の、実に限られた世界の経験に基づいた考えではあるけど、病とともに生きる時代に、人生は思いどおりにならないという経験をした2浪医師の言葉が必要になるはずなのに。
人生100年といわれる時代に、たった2年くらい人より遅れたからといって、ちっちゃいこというな! という気持ちもある。
というわけで今回は「浪人の価値」について、あれこれ考えてみたい。
今から4年前、大手予備校「代々木ゼミナール」が、全国27校のうち20校の閉鎖を決定し、大きな話題となった。
その背景にあるのが、少子化に加え、学生の現役志向。推薦やAO入試など現役生に有利な選考方法が増えたのに加え、景気の悪化や若者の地元志向で、現役で入れる地元の国公立に行く方が親孝行という価値観が増大したことによる。
浪人がマイノリティーに
浪人生の減少は数字でみると、かなり衝撃的である。
アラフィフのバブル世代が学生だった1985年には、2.5人に1人が浪人生だった。
ところが、18歳人口がピークに達した1992年度の浪人率は約34.9%で、3人に1人。 2000年は5人に1人、14年には8人に1人まで激減している(参考記事はこちら)。
17年度は、地方の大学へ学生を誘導しようと文部科学省が進めている政策の結果、首都圏や関西の大規模私立大が入学定員を絞り込み、浪人生が増えたとの報道もある。
それでも30年前と比べると、浪人生はマイノリティー。
昔以上に「みんなと一緒」がベストで、「みんなより遅れる」=「みんなより劣る」という価値観が浸透し、「失敗=悪」と考える人が増えている今、浪人生の心情を考えただけでも息苦しくなる。
おそらくそれはオトナの私たちの想像よりはるかに大きく、実際、予備校などでは、浪人、特に2浪以上の若者を「自殺リスクの高い集団」と位置付け、対策をとることが多い。
つまり、そんな苦しい状況を乗り越え、受験の席までたどり着いた2浪生の「生きる力」は相当に高いと思われる。
「もう絶対に失敗はできない」というプレッシャー、失敗した時の不安、失敗した後に待ち受ける周りのまなざし……、無力感や悲壮感といった自尊心の低下など、とてつもないストレスへの対処に成功した若者なのだ。
生きる力とは、このコラムで何回も取り上げているSOC(Sense Of Coherence)。「どんな状況の中でも、半歩でも、4分の1歩でもいいから、前に進もうとする内的な力」だ。
SOCとは、“不安”の反対側に位置する力で、具体的に不安の原因を考え、ひとつひとつ対処し、対処に成功することで高まっていく。
ときには逃げるが勝ちということもあるし、先延ばしにすることもある。自分ひとりきりでがんばるのではなく、他人の力もうまく使う。
「自分1人でできることには限界がある」と素直に認め、先輩や先生に教えを請うたり、心細ければ友人と共に過ごしてもらうなど、徹底的に不安を打ち消すための作業に励み、一方で自分の軸足をしっかり見据え、最後は「これだけやったんだから、大丈夫だ。自分にはできる」と信じて本番に臨む。
ストレスの雨に耐えられた彼らは、「人生は決して自分の思い通りにはならないけれど、自分で納得するものにはできること」を学んでいくのだ。
つまり、「(現役・1浪は)活力があるとか、アクティブに動ける可能性が高い」かもしれないけど、「(2浪は)自分の足でふんばる力とか、周りといい関係を構築する可能性が高い」。
そもそも試験は力ある人が合格するのではなく、試験を受けるのがうまい人が合格するものだ。
個人的な話で恐縮だが、私が第一回の気象予報士試験で合格したとき、お天気キャスターのパイオニアである森田さんは落ちた。当時私が勤めていた民間の気象会社で、私に手取り足取り天気のいろはを教えてくれた、ベテランの予報官の人たちも全滅だった。
試験とは水もの。試験を受けさせる側が用意した設問に「うまく答えられるかどうか」を、測るもので、個人が秘める能力や、その先の職業生活で求められる能力が測れているとは限らないしろものなのだ。
浪人とは、人生の道草でもある
浪人する人の中には、「高校時代遊んでしまった人」「落ちてしまった大学に再チャレンジする人」「もう少し時間をかけてワンランク上を目指す人」など、理由はさまざまかもしれない。
だが、いかなる理由であれ、浪人とは、人生の道草でもある。
あの「でんじろう先生」が4年間の道草を経験したというのを、雑誌か何かに書いてあるのをみたことがあるが、それは道草の効用を痛感させるものだった。
高3のとき父親を亡くしたでんじろう先生は、国立を目指したが「力不足(本人談)」であえなく浪人。予備校も通わず自宅で勉強したが、2年目も浪人。
2浪中はメンタルが低下し、心配した母親の勧めで近くの工場で、大人たちに交じって働いたことで元気を取り戻し、受験勉強に復帰するも、3回目の受験にも失敗する。
「これ以上、母親に負担をかけられない」
そう考えたでんじろう先生は、牛乳配達をしながら受験勉強をし、4回目のチャレンジで晴れて国立大学に合格した。
でんじろう先生が、40歳になったときに高校の教師を辞めて、「フリーの理科の先生」にチャレンジできたのも「自分を信じてコツコツ頑張ればなんとかなる」と思えたからだという。
大学の教育実習のとき(私は教育学部だったので)、現場の先生がいつも言っていたことがある。
「先生になりたい人は、子供の時に逆上がりができなかったような人がいいのよ」と。
先生いわく、「最初から逆上がりができた人は、できない子供が『なぜ、できないか』を理解できない。でも、最初はできなくて、いろいろ試して、苦労してやっとできるようになった人は『なぜ、できないか』を理解できる。そういう人は、できない子供の目線で物事を教えられる」と。
でんじろう先生が子供に人気なのは、先生がまさに「逆上がり」ができず、道草をしてきたからではないか。勉強がわからない子供に寄り添い、「楽しい」という人間に根源的に宿る感情を引き出しているからだと思うのだ。
これまた個人的な話でもうしわけないのだが、かなり前に国連主催のイベントに呼ばれ、元国連事務次長だった明石康さんとご一緒させていただいたことがある。
当時、私は大学院の博士課程を修了したばかり。元スッチーで、お天気ねーさんだったことを知った明石さんに、「知的な道草を食ってきたんだね。もっともっと道草を食いなさい」と言われ、その言葉にえらくホッとしたのを記憶している。
「転職の女王ですね!」「今度は何にチャレンジするんですか?」といつも言われ、ときには「ずいぶん遠回りをしてますね」と皮肉られることもあった私にとって、明石さんの言葉は希望だった。
「結果的にこうなっただけで……その都度、一所懸命やってきただけなんだけど」 と居心地の悪さを感じていた私は、「ああ、今まで通り生きればいいんだ」と勇気づけられたのである。
日常生活ではあそびがどんどんと淘汰されている
人間には、要領よく短い時間で力を発揮できる人と、寄り道をしながら長い時間をかけて開花する力を持っている人がいる。同じ人間の中にも、前者と後者が入り混じっている。
功利的な社会とは、後者の力をとりこぼしていく社会。道草という、いわば遊びの中で、自分でも気づかなかった力が発揮できるように思う。
「人生にあそびは大切だよね」という言葉を私はこれまで幾度となく、聞いてきた。
「新しいことって、あれこれ遊んでいるうちに生まれるんですよ」といった経験談も、技術系の仕事についている何人もの人たちから聞かされてきた。
ここで使われる「あそび」とは、「レジャー」という意味合いではない。きっちりと接続されていない隙間や空間があるということだったり、決められた仕事ではない自発的にやってることだったり、「気持ちや時間の余裕」や「間」という意味で使われている。
が、日常生活では、なぜかきっちりと、隙間なくつながっていることが好まれ、あそび、がどんどんと淘汰されている。
学生たちに「楽しいとか、やりたいとか思ったら、誰からなんといわれようととことんやりなさい」と言うと、「ホントにいいんですか?」と答える。
「いいに決まってるじゃない」と返すと、
「でも、親にそれって就職にプラスになるの? って聞かれちゃうし……」
と戸惑う表情を浮かべる始末だ。
いったいなぜ、これほどまでに「功利的である」ことが求められ、評価される世の中になってしまったのだろう。そして、おそらく、あそび、を許容できない社会が、功利的な生き方が苦手な人たちに鈍い絶望感を抱かせているように思えてならないのである。
人間はホモ・サピエンス(知恵の人)ではなく、ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)であるとしたのは、歴史家のヨハン・ホイジンガだ。
遊びとは自由で、生産性や効率とは無関係で、自分が創り出す時間と空間のなかで、自分が決めた一定のルールに従って行われる活動である。
遊びから人間のクリエーティブな能力が生まれる
65歳のときに「遊び」に関する論考を一冊の本にまとめたホイジンガは、遊びという一見非合理的な行動から人間のクリエーティブな能力が生まれる、と主張。ホイジンガは世界中の民族の遊びや遊具について文化人類学的に調べ上げ、人は何もないところから遊びを考え出し、その行為自体が極めてクリエーティブな作業となっていると結論づけた。
人生100年時代。2年くらい道草したところで、どうってことないはずである。
ただただ走り続けるより、自由気ままに寄り道した方がいい。周りより「上」とか、「下」とか分けたがるのも人間なら、上とか下とか関係なく、自分のものさしで生きることができるのも、人という生き物である。
おそらく、というかほぼ確実に、私がここで書いたことで、功利的な世の中がかわることもなければ、浪人生の立場が変わることもないかもしれない。
だから、「余計に踏ん張れ、浪人生!」と言いたい。この地球上で、24時間365日雨が降り続いている場所はない。必ず雨は止む。人生の道草を、自分の選んだ道を、自分を信じて、ときに落ち込み、ときに迷いながらも、踏ん張って欲しい。
「自分を信じてコツコツ頑張ればなんとかなる」と、私も自分に言い聞かせつつ……。
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(内容)
・ショートスリーパーは脳の故障だった!
・一般的に言われている「女性の特徴」にエビデンスはない!
・職場より家庭の方がストレスを感じる!
・人生を邪魔しない職場とは?
このコラムについて
河合薫の新・リーダー術 上司と部下の力学
上司と部下が、職場でいい人間関係を築けるかどうか。それは、日常のコミュニケーションにかかっている。このコラムでは、上司の立場、部下の立場をふまえて、真のリーダーとは何かについて考えてみたい。
https://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/200475/102200186/
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