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宗教を信じる人は非理性的なのか キルケゴール 征服者ピサロとインカ帝国の末路
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投稿者 軽毛 日時 2016 年 10 月 31 日 23:36:13: pa/Xvdnb8K3Zc jHmW0Q
 

(回答先: 「あなたの体が燃やせない」 無葬社会――彷徨う遺体 変わる仏教 火葬場現地ルポ、迫り来る多死社会  投稿者 軽毛 日時 2016 年 10 月 31 日 23:20:32)

いま世界の哲学者が考えていること
【第16回】 2016年10月31日 岡本裕一朗
宗教を信じる人は非理性的なのか
世界の哲学者はいま何を考えているのか――21世紀において進行するIT革命、バイオテクノロジーの進展、宗教への回帰などに現代の哲学者がいかに応答しているのかを解説する、哲学者・岡本裕一朗氏による新連載です。9/9発売からたちまち重版出来(累計3万部突破)の新刊『いま世界の哲学者が考えていること』よりそのエッセンスを紹介していきます。第16回は現代における宗教の意義について議論した哲学者たちの考えを解説について解説します。


現代世界に「宗教」は必要なのか?

現代社会における「宗教」の意義を考えるために、今度は科学と宗教の関係に光を当ててみましょう。というのも、科学が発展すれば宗教は衰退していくと考えられたのに、科学が発展する現代においても、宗教はいっこうに衰退する気配がないからです。とすれば、科学と宗教の関係を、あらためて問い直さなくてはならないでしょう。

この問題に対して、20世紀末から興味深い議論が展開されてきました。発端となったのは、進化生物学者のハーバード大学教授スティーヴン・ジェイ・グールドが1999年に発表した『神と科学は共存できるか?』です。後にも触れますが、アメリカではキリスト教原理主義の活動が根強く、いまだに進化論よりも神の創造説が受け入れられることもあります。この状況で、グールドは科学者として、宗教にいかなる態度を取ればよいか明確に答えようとしています。

たとえばグールドによれば、科学と宗教とは、「まったく別の領域で機能している」ので、二つの活動を一つに統合したり、相互に対立させたりできません。また、一方を消し去って、他方だけを存続させることもできないのです。むしろ、それぞれの活動領域を守り、相手に対しては干渉しない態度が求められます。これを彼は、「NOMA原理」と呼んでいます。このようなグールドの「科学─宗教」関係は、一見したところ、現実的で穏当な議論のように思えるでしょう。宗教が科学の領域にまで口出しするのを防御するとともに、宗教の存在意義をも認めるという、ある意味で「大人の態度」を提唱しているからです。

ところが、同じ進化生物学を研究しているオックスフォード大学教授リチャード・ドーキンスは、こうしたグールドのNOMA原理を厳しく批判し、宗教そのものを「妄想」としてしりぞけました。ドーキンスといえば、1976年に出版した『利己的な遺伝子』で進化生物学の一大ブームを引き起こしましたが、今回は宗教に対して宣戦布告を行なったわけです。そのために、彼が2006年に発表した『神は妄想である』は、アメリカやイギリスだけでなく、世界中でベストセラーとなりました。

宗教批判を展開するため、ドーキンスはグールドのNOMA原理を取り上げて、「ひろく行きわたった誤謬」と批判しています。グールドとは違って、ドーキンスは宗教の主張を仮説と見なしたうえで、それが科学的に正しいのかを検討しようとするわけです。

無神論者ドーキンスの宗教批判

ドーキンスによると、宗教が主張していることは、二つに大別することができます。一つは神が存在するという「神仮説」であり、もう一つは道徳の根拠は宗教にあるという「道徳仮説」(この表現は筆者)です。そこでまず、「神仮説」と、それに対するドーキンスの結論を見てみましょう。

<<私は神仮説をもっと弁護のしようがある形で定義したいと思う。すなわち、宇宙と人間を含めてその内部にあるすべてのものを意識的に設計し、創造した超人間的、超自然的な知性が存在するという仮説である。(中略)宗教の事実上の根拠─神がいるという仮説─はもちこたえることができない。神はほぼまちがいなく存在しない。これが、本書のこれまでのところの結論である。>>

このように、神が存在するという宗教の原理的な仮説を科学的に反論した後、ドーキンスは「道徳仮説」について検討していきます。というのも、神が存在しないとしても、宗教は道徳にとって重要である、と主張できるからです。じっさい、グールドのNOMA原理でも、「道徳的な価値」の領域は宗教のマジステリウムとされていました。

ところが、ドーキンスによると、非道徳的で残虐な行為が宗教にもとづいて繰り返されてきたのです。ドーキンスは、聖書やコーランなどを具体的に引用しながら、宗教にもとづく非道徳的な行為を数多く提示し、そこから宗教が道徳的であることを強く否定するのです。それに反して、宗教がなくても、人間は道徳的な行動をするとドーキンスは考えています。

こうしたドーキンスの宗教批判が、キリスト教やイスラム教の原理主義的活動に触発されたことは、ドーキンス自身も明言しています。その意味では、ドーキンスの宗教批判は、「ポスト世俗化」する現代社会において、世俗化の意義をあらためて復権しようとする運動だと理解できるでしょう。彼の宗教批判がどこまで影響力をもつのか分かりませんが、『神は妄想である』が世界中で150万部も売れたことから考えると、科学と宗教の問題が、現代でさえも重要なテーマであることは間違いありません。

ドーキンスの『神は妄想である』と同じ年、世界的にも著名なアメリカの哲学者ダニエル・デネットが『解明される宗教』を出版しました。ドーキンスが、宗教と科学を対立させて、科学の立場から宗教を批判・解体したとすれば、デネットのやり方はまったく異なっています。デネットは、ドーキンスのように宗教を非難することはありません。

しかし、宗教が重要であると明言するにもかかわらず、デネットの書物は、ある意味でドーキンス以上に宗教批判の本である、と言えます。原題(Breaking the Spell)の中に登場する「呪縛(spell)」は、音楽などに熱狂したり、麻薬中毒やアルコール中毒、児童ポルノ中毒になった人が、はまり込んでいる陶酔感をも意味しています。したがって、「呪縛を解く」は「陶酔をさます」でもあるわけです。宗教に陶酔している人々に対して、酔いをさますように解き放つことが、デネットのねらいです。

では、どうすれば「宗教の陶酔からさます」ことができるのでしょうか。この書でデネットがとった方法は、宗教を多くの自然現象の一つと考えて、それを科学的に探究することにあります。つまり、宗教と科学を対立させるのではなく、宗教という「自然現象」を科学によって解明するわけです。デネットは、彼のやり方を次のように表現しています。

<<気をつけてほしいのは、たとえ神が現実に存在し、神が私たちの愛すべき創造者であり、知的で意識的な創造者であることが、たとえ真実であったとしても、それでもやはり、宗教それ自体は、諸現象の複雑な集合体として、完全に自然的な現象であるということである。>>

たしかに、宗教が自然現象であるとすれば、デネットの言うように、自然科学の方法にもとづいて完全に解明できるかもしれません。こうした解明を行なうために、デネットは進化生物学的視点に立ち、ドーキンスが提唱した文化的複製子「ミーム」という概念を利用しています。

しかしながら、こうした方法によって、キリスト教やイスラム教の原理主義者が、じっさいに宗教の呪縛(陶酔)を解く(さます)かどうかは疑問が残ります。というのも、宗教を自然現象として科学的に解明することができるのか、それ自体が問題だからです。デネットの意図は理解できるとしても、はたして宗教を自然科学的に解明できるのでしょうか。
http://diamond.jp/articles/-/106127


 

ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。
【第29回】 2016年10月31日 原田まりる [作家・コラムニスト・哲学ナビゲーター]
ああ、申し遅れました、僕キルケゴールと申します【『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』試読版 第20回】
17歳の女子高生・児嶋アリサはアルバイトの帰り道、「哲学の道」で哲学者・ニーチェと出会って、哲学のことを考え始めます。
ゴールデンウィークの最終日、ニーチェは「お前を超人にするため」と言い出し、キルケゴールを紹介してくれるのでした。
ニーチェ、キルケゴール、サルトル、ショーペンハウアー、ハイデガー、ヤスパースなど、哲学の偉人たちがぞくぞくと現代的風貌となって京都に現れ、アリサに、“哲学する“とは何か、を教えていく感動の哲学エンタメ小説『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』。今回は、先読み版の第20回めです。

やはり、ニーチェがちょっと変わっているというだけのことはあった。

 ニーチェとの出会いからはじまった、不可思議な出来事。私もニーチェに影響されて、少しはものごとを深く考えるようになったと思うが、正直まだ自分で考えるというよりも、ニーチェの考えに影響されているにすぎない。目の前の不思議な現実を受け入れることがやっとという段階だ。

「キルケゴール君が着いたようだ、おーいこっちだ、こっち」

 ニーチェは横断歩道を挟んだ向こう側に彼を見つけたようで、大きく手を振った。すると、横断歩道の向こう側に立つ明らかに一人だけ浮いた、異常な格好をした男性がこちらに向かって軽く会釈をした。

「ちょっと待って、ニーチェ。キルケゴール君ってあの……」

「そうだ、よくわかったな、あいつだ」

「えっ見るからにあの人怪しいよ。夏なのにロングコート着ているし、あんなマジシャンみたいな帽子かぶっている人、ティム・バートンの映画でしか見たことないよ。コスプレ?ハロウィン?」

 やはり、ニーチェがちょっと変わっているというだけのことはあった。

 気温が二十五度を超える夏日にもかかわらず、真っ黒のロングコート、真っ黒のタートルネック、真っ黒のパンツという全身黒ずくめのファッションに身を包み、マジシャン風の大きなシルクハットをかぶった男性が立っている。

 シルクハットを深くかぶっているので顔までははっきり見えないが、かもしだす雰囲気は「変人」そのものである。周囲の人もいかにも怪しいものを見る目つきでチラチラと見ている。

「ニーチェ、あの人やっぱやばそうだよ。周りの人もキョロキョロ見てるし」

「大丈夫だ、慌てる必要はない」

「けどほら、いまあの女子高生の集団に隠し撮りされてたよ」

「彼は人気者だからな……大目に見るのだ」

「もう、適当に答えないでよ」

 そうこうしているうちに信号が青に変わり、大きなシルクハットに真っ黒のロングコートを羽織った奇抜な格好の彼がこちらへと駆け足でやって来た。

「おーい、キルケゴール君、久しぶりだな」

「ニーチェさん、ちょっとここではあれなので、裏にある喫茶店に行きましょう。さっ急いで」

「おお、そうだな、早く移動しよう」

 二人はそのまま早足で、裏通りへと向かった。

 二人が何をそんなに急いでいるのか、意味がわからなかったが、私も早足で二人のあとを追い、男が指定した喫茶店へと向かった。

 たどり着いたカフェは、高瀬川が静かに流れる木屋町通にポツンと立っていた。昭和感溢れるレトロな木造のドアを引くと、中の様子は外観とうって変わり、海に沈んだ洋館を思わす幻想的な雰囲気であった。

 店の照明はブルー色で統一されており、魚こそいないものの、水の中にある洋館のようであった。店内はオルゴール調のBGMがかかっており、コーヒーを沸かす、コポコポという音と交わりメルヘンチックな雰囲気をかもしだしていた。その音は、まるで水中で息をしている音のようで、より幻想的な気分へと私たちを誘った。

 絵画やアンティークが、白で統一された壁一面に飾られており、それらを妖しいブルーの光が照らし出している。私たちは細い階段を上がり、二階のファー席に座った。

「へえ、素敵な喫茶店ですね」

「気にいってもらえたならよかった。ここはゼリーも素敵なんですよ」

「ゼリーが美味しいんですか?」

「美味しい、というより格段に美しいのです。ああ、申し遅れました、僕キルケゴールと申します」

 男は大きなシルクハットを右手で掴み、胸のあたりまで下げると軽く一礼し、微笑んだ。ムスクのいい香りがふわっと立ちこめる。

 なんということだろう。私は思わず息を飲んだ。

 シルクハットに隠れていて気がつかなかったが、細く通った鼻筋に無駄な贅肉のないスッとこけた頬、憂いある切れ長の瞳。キルケゴール、めちゃくちゃイケメンじゃないか!

「……惚れてしまったか」

 ニーチェが私を指さしながらクスリと笑った。

「変なこと吹きこむのやめて……」

 慌てて否定しながらも、心の中では、適当な格好で来てしまったことを後悔していたのは事実だ。

「フフッ。そうですよ、からかっちゃだめですよ」

 キルケゴールは恥ずかしそうに微笑んだ。やはり何度見ても、格段に美しい顔立ちをしている。

「あの、申し遅れました。私はアリサです」

「アリサさんか。God dag、アリサ」

「アリサ、キルケゴール君はデンマークのお坊ちゃんなのだ。誘惑者と呼ぶにふさわしい端正な顔立ちだろう」

「うん、たしかに綺麗ですね」

「いや、そんなことないです。ニーチェさん、大げさに言わないでください。それより何か、頼みませんか」

 彼はそう言うと、店員さんを呼びゼリーを三つ頼んだ。いつもこのゼリーを食べに来るらしい。

 しばらくしてテーブルに運ばれてきたゼリーはレモンイエロー、ピンク、エメラルド、水色とまるでカラフルな宝石がちりばめられたような見た目をしていて、ステンドグラスのような美しさがあった。

「わぁ、このゼリー本当に綺麗ですね」

「フフッ。気に入ってもらえて何よりです」

「レモンスカッシュみたいな味だな」

 ニーチェはどうやらこのゼリーをかなり気に入ったようで黙々と食べていた。

「キルケゴール君、綺麗なものが好きなのだ」

「そう……ですね、綺麗なものと、あと憂愁が好きですね」

 どうやらニーチェとキルケゴールは全然違うタイプのようだ。

 いままで“哲学者”と聞くと、真面目で頭が固く、なんとなく暗い人。というイメージを持っていたがいろんなタイプがいるようだ。

 皮肉屋で明るいニーチェに対して、キルケゴールはどこか寂しげな哀愁漂う性格のようだ。

「アリサさんは、好きですか?憂愁」

「憂愁?えっと憂愁って、哀しみに浸るみたいなことですか」

「そうですね、僕にとって憂愁は恋人みたいなものなんです。どこにいたとしても、憂愁に浸ると、目の前の世界が美しいもののように思えてきます」

「あんまり考えたことなかったな、明るいことやポジティブなことを考える方がいいとなんとなく思っているから」

「なんとなく、ですか」

 キルケゴールはそう言うと、手元にあるゼリーに目を向け、しばらく黙ってみせた。そして、しばらくして、静かに語りだした。

(つづく)


原田まりる(はらだ・まりる)
作家・コラムニスト・哲学ナビゲーター
1985年 京都府生まれ。哲学の道の側で育ち高校生時、哲学書に出会い感銘を受ける。京都女子大学中退。著書に、「私の体を鞭打つ言葉」(サンマーク出版)がある
http://diamond.jp/articles/-/106000


 


 
橘玲の世界投資見聞録
2016年10月31日 橘玲
今も「歴史問題」となっている
征服者ピサロとインカ帝国の末路
[橘玲の世界投資見聞録]
「百聞は一見に如かず」というが、ペルーを訪れるまでは、インカ帝国のことは「アンデス山脈の高地に栄えた文明」という程度の認識しかなかった。しかしなぜ、そんな山の上に都市をつくったのだろうか。海岸に近い平地の方がずっと快適だし、魚介類もたくさんとれるのに。

 インディオ(これはスペイン語で「インド人」のことで南米原住民の呼称としては問題があるが、ほかに適当な呼び方がないのでこれを使う)が平地に住まなかったのには、じつはちゃんと理由がある。

 地図を見るとわかるが、南米の地理は巨大なアンデス山脈によって3つに分かれている。東側(大西洋岸)は「セルバ(森林地帯)」と呼ばれるアマゾンの熱帯雨林、山岳部は「シエラ(山岳地帯)」で農耕が可能なケチュア(標高2500〜3500メートル)と不毛地帯のスニ(標高3500〜4500メートル)がある。西側(太平洋岸)は「コスタ(海岸地帯)」で、アンデス山脈が大きく西側に寄っているためその幅は30〜50キロしかない。さらに太平洋沖にはペルー海流(フンボルト海流)という寒流があり、これによって海面近くの空気が冷やされて上昇気流が起こらず、1年じゅう雨が降らない。アンデスから流れ出す川の周囲は農耕が可能だが、それ以外の海岸地帯はすべて砂漠なのだ(ただ湿気はあるため、冬のリマは海からの雲に覆われ1日じゅう霧雨が降っているという)。

 一方、アンデスのシエラ(山岳地帯)も日本の常識とはまったく異なる。そこは「山」ではなく、造山活動で海面がそのまま隆起した広大な平地なのだ。標高4000メートルを超えるプーナ草原はアルパカなどの家畜を飼うことはできても農耕には適さないが、湿気も少なく、ハエや蚊、ヘビがおらず、高山病に適応すれば快適に暮らせるのだという。そこで高地に都市を構え、標高の低い低地に段々畑をつくってトウモロコシなどを栽培するようになった。インカ帝国がマチュピチュのような「空中(天空)都市」を生んだのは旧大陸とは異なる宗教や文明観を持っていたからではなく、地形の制約からくるきわめて合理的な選択だったのだ。


アンデス山脈の広大なプーナ(草原)。ここは富士山より高い標高4000メートル(ボリビア)                         (Photo:©Alt Invest Com)

山の斜面を利用して整然と段々畑がつくられている(マチュピチュ)     (Photo:©Alt Invest Com)

一攫千金を夢見た征服者たち

 15世紀末に新大陸を発見したコロンブスはそこをインドだと信じ、「インディアス」と名づけた。最初にスペイン人が植民地にしたのがカリブ海の西インド諸島で、キューバやジャマイカ、プエルトリコ、イスパニョーラ島(ハイチ、ドミニカ共和国)の原住民がほとんど死に絶えてしまうと侵略の手を大陸に伸ばした。だが当初は南米大陸の北部(現在のベネズエラ、コロンビア)に張りついただけで、アマゾンの熱帯雨林やアンデスの険しい山々を越えて太平洋岸に達することはできなかった。だが1513年、スペインの探検家デ・バルボアがパナマ地峡を越えて「南の海」すなわち太平洋を「発見」すると、パナマ・シティを拠点として南米大陸の西側を探検できるようになった。

[参考記事]
●アイスランド首相を辞任に追いやった「パナマ文書」にアメリカの著名人の名前がなかった理由

 ここに登場するのが「征服者(コンキスタドール)」フランシスコ・ピサロだ。1470年頃スペイン中部(カスティーリャ王国)のトルヒージョで軍人の父と召使の母のもとに生まれ、イタリア戦争に参加したのち、一攫千金を夢見て1502年にイスパニョーラ島に渡った。その後、デ・バルボアの遠征に参加して太平洋に到達、海岸沿いを南に下ってそこに広大な領土を有する王国があることを発見した。

 当時、新大陸に渡ったスペイン人は誰もが「エル・ドラード(黄金郷)」にとりつかれていた。アンデスのどこかに黄金でつくられた都市があるという伝説で、ペルー北端のトゥンベスからやってきたバルサ(いかだ)船が金や銀を積んでいたことで、ピサロはこのまだ見ぬ国こそがエル・ドラードにちがいないと信じたのだ。――この王国は、のちに「インカ」と呼ばれることになる。ちなみに「インカ」は「王」の意味で、本来は国名ではない。原住民が自分たちの国をどのように呼んでいたのかもはやわからないため、スペイン人の呼称が使われている。

 インカ帝国を「発見」したピサロはいったんスペインに戻ると、王室(当時はカルロス1世。後に神聖ローマ皇帝カルロス5世となる)からペルー支配の権利証である「協約書」を手に入れ、故郷で120名の荒くれ男を募って征服行に乗り出した。

 1531年はじめ、ピサロ率いる二百数十名の歩兵・騎兵は3艘の船に分かれて出航し、2週間ほどでエクアドルのサン・マテオ湾付近に到着、翌年11月にはペルー北部のカハマルカ盆地に入った。

 その当時、インカ帝国はワイナ・カパック王の急死によって王位継承争いに揺れていた。インカ帝国ではまだ誰もスペイン人のことを知らなかったが、カパック王の死因は天然痘で、旧大陸から持ち込まれた病原菌に接触したインディオから感染したと考えられている。

 カパック王には母親の異なるワスカルとアタワルパの二人の王子がおり、まずは第12代王としてワスカルがクスコで即位した。それに対してエクアドルでカパック王と共に過ごしたアタワルパがキトを拠点に反乱を起こし、クスコに精鋭部隊を送ってワスカルの捕縛に成功する。その報を聞いたアタワルパは自らクスコに入城すべく大部隊を率いて南に向かったが、そこで「銀の足をした巨大な獣に威風堂々と跨り、黒や赤みがかった髭を生やし、イリャパ(雷鳴を放つもの)を手にした」不思議な男たちのことを知る。

 アタワルパは彼らを迎え撃つべくカハマルカ城に入城し、こうして1532年11月16日、インカ帝国の王とスペインの「征服者」が出会うことになる。


リマの旧市街の中心アルマス広場に面した大聖堂(カテドラル)       (Photo:©Alt Invest Com)   

カテドラルの内部。金をふんだんにつかった豪華な装飾  (Photo:©Alt Invest Com)

ピサロによるインカ帝国制圧の真実

 カハルマカでの出来事は、ピサロの秘書をつとめ、帰国後に『ペルーおよびクスコ地方征服に関する真実の報告』を出版したフランシスコ・デ・ヘレスなどによって詳細に伝えられている。

 それによると、ピサロは策を弄して使者を遣わし、アタワルパにカハマルカ広場での会見を申し込んだ。アタワルパはそれを受けて数万の軍勢を陣営から広場に動かすのだが、その様子は「チェス盤の升目にように色を使い分けたお仕着せを纏った一隊が、王の前の道を掃き清めながらやって来る。歌い踊るまた別の一隊が、そして金銀の冠を着けた兵士がそれに続く。その後を、多彩なオウムの羽毛で飾られ金銀の板を取り付けた輿に乗り、インディオの肩に高々と担がれた王、アタワルパが静かに進んできた」と描写されている。

 ピサロは銃を構えた兵士を広場の周辺に潜ませ、片手に十字架、片手に聖書を持った従軍司祭のドミニカ会士バルベルデがインディオの通訳をともなってアタワルパのもとに進んだ。

 バルベルデ司祭はスペイン人と友誼を結ぶことが神の御心であることをアタワルパに伝えて聖書を手渡すが、王はそれを地面に投げ捨て、キリスト教徒がこれまでインディオに対して行なった非道な振る舞いを糾弾した。

 バルベルデ司祭がピサロの許に戻ると、アタワルパは輿から立ち上がり、戦闘の準備を部下に促した。その瞬間、ピサロはインディオのあいだを突進してアタワルパの腕を鷲掴みにするや、「サンティアゴ」と叫んだ。サンティアゴ(聖ヤコブ)はレコンキスタ(国土回復運動)の際、イスラーム教徒と戦うスペイン人を守護した聖人で、ピサロはそれを攻撃合図にしたのだ。

 たちまち広場を囲んでいた火縄銃が火を噴き、馬にまたがった騎兵が突進してインカ兵は大混乱に陥った。そこに甲冑に鉄の剣を持ったスペイン人の歩兵が踊りかかり、広場にいたインディオ4000人のうち2000人を虐殺したという。インカ兵の武器では甲冑に歯が立たず、スペイン人たちは体力のつづくかぎり剣を振るえばよかったのだ。

 こうしてピサロは、わずかの手勢で4万ともいうアタワルパの軍を打ち破った。虜囚の身となったアタワルパ王は、ピサロに対し身代金として膨大な金と銀を約束し、インカ帝国各地からカハマルカに続々と財宝が送られてきた。ピサロはその一部をスペインのセビーリャに送ったが、金製・銀製の容器を除いて、荷下ろしされた金は70万8580ペソ、銀は4万908マルコと記載されており、じつに3トン以上もの金がスペインに送られたことになる。当時、財政が逼迫していたスペイン王室はこの貴重な工芸品をすべて融解し、貨幣に鋳造してしまった。

 だが約束の身代金を払っても、ピサロはアタワルパ王を解放しなかった。アタワルパが密かにクスコに使者を送り捕縛していたワスカルを処刑したことに立腹したからとも、秘密裡にインカの残兵を集結させスペイン人に対する謀反を企てているとの噂を信じたからともいわれている。

 けっきょく、ピサロはアタワルパ王を裁判にかけ、スペイン国王に対する反逆罪および兄弟殺しの罪で死罪が宣告された。異教徒の処刑は火刑と定められていたが、インカには伝統的な遺骸信仰があり、代々の王の遺骸は香を塗られて塑像(ミイラ)にされ、至高の「ワカ」として天空と地上を媒介するとされた。生前の王に仕えていた家臣たちは、あたかもそのミイラを生者のように敬いながら暮らすのだ。

 アタワルパ王は自らの遺骸が焼かれることだけはなんとか逃れようとしてカトリックに改宗し、フアンという洗礼名を受けて絞首刑に処せられた。遺骸はカハマルカ広場の教会に埋葬されたが、数日後に跡形もなく消え、その行方は杳として知れない。


リマの旧市街にあるサン・フランスシコ教会・修道院。地下には植民地時代の市民2万5000体もの遺骨が置かれている(見学可)       (Photo:©Alt Invest Com)

サン・フランシスコ教会の内部          (Photo:©Alt Invest Com)

「インカ」末裔たちの反乱

 フランシスコ・ピサロが奸計によってインカ帝国の王アタワルパを捕え、莫大な身代金を受け取ったにもかかわらず、スペイン国王に無断で裁判を開き処刑した経緯は当時から広く知られていた。現代の価値観からすれば恐るべき暴虐だが、ここで述べたことは「征服者」たちが自慢話として記したもので、スペインではずっと冒険譚として愛されてきた。「新世界発見」というと誰もがコロンブスを思い浮かべるが、スペイン王室が支援したものの彼自身はイタリア生まれだった。2002年のユーロ導入までスペインで発行されていた1000ペセタ紙幣は、表がメキシコのアステカ文明を滅ぼしたエルナン・コルテス、裏がピサロだったことからわるように、スペインではいまもこの2人は「英雄」なのだ。

 だがこのことは「歴史問題」として、スペインと中南米の旧植民地との関係に暗い影を落としている。キューバやジャマイカなどの島々は原住民が絶滅して人種そのものが完全に入れ替わってしまったが、大陸(中南米)ではいまも多くのインディオや、白人とインディオの混血であるメスティーソが暮らしている。ペルーにおいては、彼らのアイデンティティはスペインではなく「インカ」にあるのだ。

 1742年、アマゾンの密林セルバにフアン・サントス・アタワルパと名乗る男が現われた。真偽はともかくとして、インカ帝国最後の王アタワルパの末裔を名乗るサントス・アタワルパはセルバの民を率いて「インカ王国再興」を唱え、シエラ(山岳部)にも同調者を得て支配者であるスペイン人に反旗を翻した。

 その4年後の1746年、リマは未曾有の大地震に襲われ、多くの建物が全壊し街はほぼ破壊されつくされた。民衆はこの天変地異をインカ王の末裔サントス・アタワルパの異能によるものだと信じた。

 こうして反乱は燎原の火のように広がり、事態を憂慮したスペインの植民地当局は4回にわたって追討軍を派遣したが、アマゾンの密林のゲリラ戦に阻まれて撤退を余儀なくされるだけだった。サントス・アタワルパは不敗の存在として神格化されるが、シエラの村を2日間にわたって占拠したあと、セルバに戻るとその後の消息はわからなくなった。植民地権力に征圧されることはなかったものの、その反乱はいつの間にか終息してしまった。

 だが次いで1780年、新たな「インカ」の反乱に植民地は動揺する。首謀者は「トゥパク・アマル二世」を名乗るインディオの貴族で、母方の血統は1572年にクスコの広場で処刑されたトゥパク・アマル一世の系譜に直接結びついており、まぎれもなくインカの王族の末裔だった。

 イエズス会士の運営する学院で学んだトゥパク・アマルは、インディオの窮状を訴えるべく法廷闘争を行なうが、それでは埒があかないことを知ってスペイン人の地方官僚(コレヒドール)を処刑し、インディオの怨嗟の的になっていたレパルティミエント(商品強制分配制度)の廃止や物品税・税関の停止、黒人奴隷の解放を布告した。

「インカ王」の下に集った6000名と推定されるトゥパク・アマル軍は植民地政府の追討軍を壊滅させ、パニックに陥ったクスコ市では、市参事会がトゥパク・アマルの要求どおりにレパルティミエントとアルカバラ(物品税)を廃止した。クスコはリマからの援軍だけが頼りで、トゥパク・アマル軍の前にいつ陥落してもおかしくない状況に追い詰められ、窮余の策としてインディオを懐柔するほかなかったのだ。

 だがトゥパク・アマルはクスコ市を包囲したものの、攻撃を加えずに市参事会との交渉を選んだ。その間に強力な当局軍が到着しはじめ、トゥパク・アマルは包囲を解いて退却、わずか5カ月の抵抗ののち捕縛され国王反逆罪で極刑に処せられた。

 だが反乱が本格化するのはこれからで、全アンデスでインディオたちの蜂起が始まり、とりわけアンデス南部では終息までの2年間でインディオ側の死者10万人、スペイン人側も死者1万人とされる大きな被害を出すことになる。

 この大反乱において「インカ王」トゥパク・アマルはメシア化し、死者を蘇られせるちからを持ち、インカ再興の大義のために死んだ者は3日後に再生すると信じられた。

「貧者の恩人」「解放者」「贖い主」と呼ばれたトゥパク・アマルは悪徳コレヒドール(スペイン人)の放逐を唱えたが、ここで混乱を引き起こしたのがクリオーリョ(新大陸生まれの白人)やメスティーソ(スペイン人とインディオの混血)の扱いだった。

 インカ帝国再興運動の本来の趣旨は彼らをもインディオの大義に統合させることだが、インディオ大衆の怨恨は暴力化し、白人のみならず肌の白い者、スペイン風の衣装を着る混血、さらには裕福なインディオも憎悪と殺戮の対象とされた。コロンブスの到来から300年を経た18世紀末にはすでの人種の混交が進んでおり、「抑圧者のスペイン人」対「被抑圧者のインディオ」という単純な構図は成立しなくなっていたのだ。結果的に、トゥパク・アマルの反乱を失速させたのは植民地当局の武力制圧よりも、クリオーリョやメスティーソの離反だった。

 この「歴史問題」は1935年、リマ建都400周年を記念してピサロの故郷であるスペイン・エストレマドゥーラからリマ市にピサロの騎馬像が送られたことで再燃する。当初、この騎馬像はリマの一等地である大聖堂の前に置かれたが、市民の反発で1952年に大統領府前のアルマス広場の片隅に移された。その後、1990年代にふたたび反対運動が起こって、1998年ごろには「国民感情にそぐわない」との理由で撤去されることになった。


民族衣装を着るインディオアの女性(ラパス)   (Photo:©Alt Invest Com)

いまでもごくふつうに民族衣装を見かける(ラパス)  (Photo:©Alt Invest Com)

リマは美食の街

 現在のリマは大きく旧市街(セントロ)と新市街に分かれている。近代的なホテルは海岸に近い新市街のミラフローレス区にあり、旅行者の多くはこちらに宿泊する。新市街の海岸沿いにはレストランやブランドショップ、ディスコや映画館などが集まるラルコ・マールという再開発地区があり、ここがもっとも華やか。

 リマはいまや美食の都として知られ、イギリスの飲食専門誌『レストランマガジン』が選ぶ「世界のベストレストラン50」の最新リストでも、4位(CENTRAL)、13位(MAIDO)、30位(ASTRID Y GASTON)の3軒のペルー料理レストランが選ばれている(ちなみに日本のレストランの最高位は8位のNARISAWA)。どれも新鮮な魚介類を使ったガストロノミー(創作料理)の店だ。今回は創作日本料理のMAIDO(シェフは日系ペルー人)を訪ねたが、ワインを含め1人1万円程度で楽しめた(インターネットで予約可)。


創作和食の有名店MAIDO。予約客で満席        (Photo:©Alt Invest Com)

 ミラフローレス区から旧市街までは北に8キロほどで、タクシーで20ヌエボ・ソル(約600円)。かつては旧市街は治安が悪いといわれたが、現在はいたるところに警察官が配置され昼間であればなんの不安もない(新市街は夜でも若いカップルや女性グループがふつうに歩いている)。

 旧市街の北東にあるのがサン・クリストバルの丘で、頂上に巨大な十字架が掲げられ、夜はライトアップされる。リマの町が一望できる観光スポットだが、山麓が貧困地区なのでタクシーを利用することになる。タクシーは交渉制で、旧市街からサン・クリストバルの丘に登って、ミラフローレス区のホテルまで50ヌエボ・ソル(約1500円)だった。

 今回は残念ながら訪れることができなかったが、インカ帝国の発掘品などはペルー国立考古学・人類学・歴史博物館に陳列されている。

*ペルーの歴史については高橋均/網野徹哉『ラテンアメリカ文明の興亡』(中央公論新社)に依拠しました。


旧市街からサン・クリストバルの丘を望む        (Photo:©Alt Invest Com)

サン・クリストバルの丘の頂上に立てられた巨大な十字架 (Photo:©Alt Invest Com)

頂上からの眺望。全体に靄がかかっている     (Photo:©Alt Invest Com)

頂上に向かう途中は貧困地区。タクシーの運転手から、窓を閉めるよういわれた  (Photo:©Alt Invest Com)



橘 玲(たちばな あきら)

作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ヒット。著書に『日本の国家破産に備える資産防衛マニュアル』(ダイヤモンド社)など。中国人の考え方、反日、歴史問題、不動産バブルなど「中国という大問題」に切り込んだ『橘玲の中国私論』が絶賛発売中。近刊『「言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)が30万部のベストセラーに。

●橘玲『世の中の仕組みと人生のデザイン』を毎週木曜日に配信中!(20日間無料体験中)
http://diamond.jp/articles/-/106131
 

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