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(回答先: 討論・討議するための日本語が発達していないのではないか?(仮説) 投稿者 矢津陌生 日時 2012 年 12 月 28 日 13:05:39)
第一、
日本語自身が「理屈」を説明することになじまないこと、物事を正確に定義するには難しい言葉だと私は思います。
そして、我々自身、その言葉の構造に甘えて物事を簡潔明瞭に説明し、そして責任を明確にする努力をしない。しなくてもとがめられない。(それを指摘すると、理屈っぽい人と煙たがれる?)
英語のように、自分を、I(アイ)と 大文字で書く文化の背景には、責任がある。
主語、動詞、
大事なものが、文頭に来る。
I WILL DO IT.
「俺がこうするんだ」「私がこうします」「こうさせていただきます」でもいいけど、
やはり、I WILL DO IT. だとおもう。
相手が子供であれ、大衆であれ、上司であれ、I WILL DO IT.
こうしたストレートな構造が日本語にない。この言葉の中では、行為者とその責任のもとに行われる行為が明確である。
長たらしい話に主語がなかったりする言葉は、時に無責任文化に通じるのだ。
日本語はその構造の中に上下関係が含まれている(受け売り)。
だから、客観性を問われるような議論と記述には不向きだと思う。
第二、
我々は、言葉は丁寧に、明確に、しかし断乎と冷静に議論する訓練を受けていない。
だから、一般的に自分の大きな名刺が使えない、タイマンの交渉事によわい。
やーさんとの交渉が難しいのは、暴力だけ問題ではなく、やーさんがその名刺なぞの価値を認めてない、つまりタイマン勝負を挑んでくるからだと思う。
声高に、感情的に話すことが、情熱的と勘違いされるときがある。「熱心な先生ね。。、あいつはやる気がある、」とかね。
ごまかすときに使う手であること多し。
第三、教育の問題、
偏差値なぞ能力の一部に過ぎないものを、それを過大評価させること(それによって自分たちの支配の正当化する)。そんなもの価値がないこと、今の政治、行政、司法、報道を見ればわかる。
セールスの能力、交渉力、議論の能力、手先の器用さの価値をこの国では過小評価されている。
第三、テレビの問題
昔のテレビでは、レスラーですら、「僕」という言葉使っていた。その社会的な影響力にふさわしい、言葉遣い、放送内容を提供する義務がある。
第四、日本人の能力
手先の器用さ、特に木工、昔の便所の木製のカギの仕掛けは芸術的だった。
何事に限らず、部分的なものを完璧化させる能力。
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- Re: 読んで、思ったこと 脳天気な 2012/12/30 10:57:58
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