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今回の総選挙で特に感じたのは、「討論・討議するための(政治論議をするための言語としての)日本語が充分発達(Develop)していないのではないか?」ということだ。政治家のあいさつでは、冒頭から紋切り型のレトリックが長々と続く。さらに最後にはまた紋切り型の締めの言葉が長い。支持政党を持たない有権者は、この頭と尻の紋切型の言辞の良し悪しで投票する人を決めているようだ。有権者にとって、肝心の中身の政治テーマを思考したり、考察したりするための語彙が不足しているのではないのだろうか。
日本語は論点をぼかしたり、はぐらかしたりする言葉はよく発達しているが、論点をどんどん絞って論議を深めていく言葉(語彙)が充分発達していないようだ。感情に訴える湿った情緒的な表現は発達したが、社会科学を論じる乾いた論理的な表現は、まだ育っていないのではないのか。政治的に発言する時に使われる用語は、日本の慣習と文化に基づく。この社会では、言葉を積み上げ、議論を重ねることで物事を決めていく姿勢はいままでほとんどなかった。あるいは意図的に育てようとしなかった、教育制度の問題なのかもしれない。
日本では議論を戦わせて勝つより、権威や権力で相手を黙らせたり、押さえつけたりすることで、従わせる傾向が強い。議論をしてお互い見識を高めるというより、従わせることの方が先にくる。特に、新しい提案には、自分は何も提案できないくせに、その提案を否定することで議論を避けたり、封じ込めたりすることができると信じているようだ。
おとな社会の一員としての経験を積めばこういうことをいやというほど感じる。同程度の職位や階級があれば、新参者や年少者の発言に対しては否定から始まる。特に重要であればある程、この傾向が強い。どうでもいい玉虫色の提案は多くの人が反対しないから、最終的に支持されることが多い。議論に積極的に加わらない人の判断基準は、「誰が」利益を得るかの中身よりも、自分が大勢から外れることがないようにすることを優先する。
日本のメディアの劣化ははなはだしいと言われる。今も昔も新聞・雑誌の社説や政治記事は、「社会科学」的用語(論点を明確にする)を使わずに、感性や感情の「情」の表現を多く使っている。本来、記述する内容はどんなに短くても、客観的証拠や裏付けの取れる事実に基づいて書かねばならない筈なのに、そんなのは無視して「情」を動かすようなものが主流だ。
テレビでは、解説者やコメンテーターが高みの見物の無責任な発言を繰り返す。MCなども大きな勘違いをして、政治家を見下す態度が透けて見える。政治記者に至っては、政策の話はそっちのけで、政局の裏話ばかりを喜々として語る。こういう「日本の識者」といわれる人たちに限って、特定の政治家に対しては、政策がなく政局ばかりの人だと批判する。
大臣の就任と芸能人の受賞が同じレベルで語られてしまう、日本の大手メディアの惨憺たる状態である。政治を語る時、「社会科学」など全く無視で、何の方向性も論理性も示さない。オピニオンリーダーとして多くの人に論議を呼ぶような、論理をもって政治の方向性を示すべきが、芸能人の追っかけ報道と同レベルであることが情けない。どうすればまともになるのであろうか。
矢津陌生ブログ http://yazumichio.blog.fc2.com/blog-entry-274.html より転載
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