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定着するマイナス金利、銀行再編の引き金となるか
滞留するマネーを刺激する劇薬の合理性
2012年8月8日(水) 倉都 康行
ここ1カ月、ユーロの債務危機や米国の「財政の崖」と並んで、がぜん国際金融市場の注目を集め始めたテーマが「マイナス金利」である。金利はゼロが下限であるというのが市場の常識であったが、実際にマイナス金利が存在し得ることが欧州で証明されたからだ。ほんの少し前まで、マイナス金利とは1970年代にスイス中銀が為替管理の一環として用いていた歴史上の遺物でしかなかった。
そんな異様な金利が、いま脚光を浴びている。ドイツをはじめとする欧州主要国の国債市場でマイナス金利が定着しているのである。債券には通常金利が付くので、この意味は分かりにくいかもしれない。例えば「1年債の利回りがマイナス0.1%」ということは、1年後の償還金10万円を確保するために10万100円支払う、ということだ。100円の損である。機関投資家ならば10億円投資で100万円損することになる。とても有り得ない話のように聞こえる。
だがそれが、ドイツだけでなくオランダやスイス、フランス、オーストリア、フィンランドそしてデンマークといった国々の短期国債で観察されている。これは従来の債券市場では考えられないことであり、一時的な異常現象だという人も少なくないが、なかなか修正される気配は出てこない。
もはや「一時的現象」「異常現象」では説明しきれない
最初に国債市場にマイナス金利が表れたのはドイツであった。同国が2012年1月初めに行った6カ月もの国債入札結果がマイナス0.0122%となったのである。流通市場ではまれにマイナス金利が生まれることがあったが、入札でのマイナス金利は初めてのことであり、市場では「ドイツがユーロを離脱してマルクに戻ることを先読みした買いではないか」といった声が聞こえた。
もっともそれはギリシヤ不安などを背景としたややパニック的な異常現象だという見方が強く、その後数カ月間は市場もそれほどマイナス金利を意識しなくなっていた。ところが6月以降、このマイナス金利が流通市場に定着し始め、はじめは6カ月や12カ月という短期債に限定されていたそんな「氷点下の金利」が、2年債にも見受けられるようになる。そして7月にはそれがオランダなど他国の2年債市場にも波及するようになったのだ。これはもはや「一時的現象」「異常現象」という言葉では説明しきれないのではないか。
スイス国債への投資は、一段のスイスフラン高を狙った投機的な思惑があると見ても良いだろうし、ドイツやオランダなど「ユーロ圏の勝ち組」への国債投資もユーロ崩壊リスクへのヘッジといった意味合いがあるのも事実だろう。だがより根本的に、ユーロ危機が「想定外の景気後退を引き起こす大惨事リスク」を市場が意識し始めたのだと捉えることもできる。想定外という言い訳は、いまや投資家にも許されない時代なのだ。
国際通貨基金(IMF)は先月世界経済見通しを下方修正し、ユーロ圏に関しては2012年見通しをマイナス0.3%に据え置いたものの、2013年は0.9%から0.7%へと予想を引き下げた。だが政治の混迷を痛感する市場の読みは、もっと悲観的である。独り勝ちしていたドイツ経済までもが景気鈍化の波を受け始めた以上、ユーロ圏の景気後退はもっと厳しくなるとの見方は日々増殖中である。
さらに、いつその悪循環から抜け出せるのか出口さえ見えない。そんな悪寒が、マイナス金利の定着の背景なのかもしれない。それは単なる市場現象というよりも、閉塞感極まった市場経済システムが、自ら発し始めた苦悩の軋みのようにも思える。そして日本国債市場でも、同じように短期債利回りがマイナス金利となるような事態が発生する可能性は、決してゼロではあるまい。
エンデの『モモ』の「時間貯蓄銀行」
マイナス金利というと、筆者はドイツの児童文学者ミヒャエル・エンデが描いた『モモ』のことを思い出す。1973年に発表され、日本でも3年後に翻訳されたこの作品を、小学生や中学生の時代にお読みになった方も多いのではないか。画期的だったのは「時間貯蓄銀行」という舞台設定である。
主人公のモモは、友人たちが利子につられて時間をその銀行に預けることで逆に時間に追いまくられ、結果的に人生の意味を失うことに気付いて、その銀行家たちを消滅させる、というストーリーである。
それだけ見ると、余裕なき現代社会へのありふれた警告メッセージのように聞こえるが、エンデの命題は、実は「時間泥棒」というコンセプトを通じて貨幣の胚胎する本質的問題を指摘することであった。この本は子供向けファンタジーの形式を借りた、手厳しい「反金利運動」の物語だったのである、モモが取り戻した「時間」は、「貨幣」のアナロジーだったのだ。
時間を取り戻すよう指示するマイスター・ホラの家に向かうモモは、前向きに歩くと近づけず、後ろ向きに歩くと近づけるという体験をする。これはマイナス金利を暗示したものだ。歩いても止まっている、というゼロ金利状態も出てくる。時間貯蓄銀行とは、利子だけで生活する人々のメタファーである。
エンデは、黙っていても増殖が可能になる貨幣の利子に対して強い疑義を唱えたのであった。その警告を『モモ』に託したのであるが、エンデがこの着想を得たのは、20世紀初頭の経済学者であるシルビオ・ゲゼルの「自由貨幣」と、同時代の思想家ルドルフ・シュタイナーの「老化貨幣」という二つのマネー論であった、と言われる。
ゲゼルについては、あのケインズが「我々は将来の人間がマルクスの思想よりもゲゼルの思想からいっそう多くのものを学ぶだろうと考えている」と述べているように、当時から独創的な経済思想の持ち主として知られていたが、現代ではすっかり忘れられてしまった。貨幣は国家の管轄下にあることが当然視されるようになったからだ。
ゲゼルは、1862年に現在のベルギーに生まれた。おカネだけが減価しないのはおかしいというその主張は、いわばマイナス金利を経済学的に解釈して見せたもの、とも言えよう。シュタイナーと同様に彼が提唱したマネーは、時間の経過とともに名目的に減価してしまうのである。世の中に存在する物質と同様に、エントロピーの法則に従う貨幣と言っても良い。
放っておくと消滅してしまう通貨
この「ゲゼル・マネー」は20世紀前半に実際にドイツやオーストリアの地方都市で地域通貨として導入が試みられたことがあり、日本でゲゼルは地域通貨の提唱者としても知られている。このマネーの保有者は、減価する前に使ってしまうか、価値を保持するために貼付用スタンプを買って税金を払うか、という選択に迫られるのだ。
これはいわば「放っておくと消滅してしまう通貨」である。仮に世界のマネーがすべてこうなると、経済観は一変する。一番困るのは銀行や大金持ち、そして小金持ちの高齢者らであろうが、ゲゼルやエンデが主張したようなマネー社会が一般化することは、現時点ではちょっと想定しにくい。
だが現在のように異様なまでにリスク資産へ資本が流れない経済では、滞留するマネーを刺激することが必要であり、マイナス金利はそのための劇薬だと考えることができるかもしれない。その意味で、欧州市場に定着しつつあるマイナス金利は、金融資本に再考を迫るための重要な触媒効果を果たそうとしているのではないか。
特にいま、おカネの使い方を考えねばならないのは銀行である。それは日本だけではなく欧米など先進国の共通意識となっている。日本は世界に先駆けて日銀当座預金残高を増額する量的緩和を開始し、「ダム論」と言われるような銀行融資増の効果を狙ったが、結局は空振りに終わった。
米国や英国でも2009年以降、中央銀行が国債やモーゲージ債を対象に買い入れる「量的緩和」を導入してきたが、デフレを食い止めるのが精一杯で、銀行融資も増えず景気も一向に上向かない。先般米連邦準備理事会(FRB)が追加の量的緩和を見送ったのも、その効果の限界を認識しつつあるからかもしれない。
もっとも、銀行融資が増えないのは資金需要が無いからでもあり、一概に銀行経営の所為とは言えない。銀行が預かる預金は100%返済が義務付けられており、とても無責任な評論家や経済学者が言うような「リスク・テイク」などできるはずもないからだ。不況時に威勢よく無担保融資拡大などの「リスク・テイク」を宣言する銀行に、預金する人はいないだろう。その結果、預金が集まり過ぎて行き場を無くして国債に流れるほかないという現代の問題が生じている。
この構造欠陥は、銀行が依然として多過ぎることの裏返しでもある。欧州ではスペインが最も銀行が多いと言われるが、淘汰が進んだように見える日本でもまだ銀行は多過ぎる。そもそも資金需要があるところに資金調達手段として現れたのが銀行であり、カネ余りの時代に銀行はそれほど必要ないのである。その歪みが、別の意味でのマイナス金利、つまり中央銀行が超過準備に課すマイナス金利に現れ始めている。
マイナス金利導入は銀行経営の限界を示唆
リーマンショックが発生した翌年の2009年7月に、スウェーデン中銀が政策金利の引き下げと同時に、預金ファシリティ金利のマイナス金利を導入して市場は驚いた。日本で言えば、日銀の当座預金にマイナス金利が適用されたようなものである。
銀行は、金融政策の一環として中央銀行に準備金を置くことが要求されている。現在のような超金融緩和時代には、むしろ使用使途のない資金が必要準備の水準を超えて中銀に置かれるようになる。その超過準備を業界では花札言葉を使って「ブタ積み」と呼ぶが、スウェーデン中銀の政策は、余計な準備を積むくらいであれば手数料を徴収する、といったメッセージに読めたのである。
実際には同国の銀行超過準備ほとんど中銀オペによって吸収されており、このマイナス金利で銀行にコストが掛かるような話ではない、との情報が伝わって、この政策への注目度は急速に低下したが、先月デンマーク中銀が同じように預金ファシリティ金利をマイナスにする、と発表して再び市場がこの政策に注目するようになった。
デンマークの場合は、スウェーデンと違って銀行に実損が出ると予想されている。銀行は損失を避けるためには、どうしてもおカネを使わねばならない。だが貸出先は限定的であり、国債を買ってもほとんど利鞘がない。これは銀行業の行き詰まりである。極論すれば廃業するしかない。だが金融システムの健全化や市場経済の円滑化のためには、不要な銀行は退場してもらった方が合理的だ、との考え方も有り得る。
デンマーク中銀がそこまで意図していたかどうかは別として、マイナス金利導入は銀行経営の限界を示唆するものだと言って良い。こうした動きが経済規模の比較的小さな地域に止まる限りはそれほど注目されないだろうが、7月に預金ファシリティ金利をゼロに引き下げた欧州中央銀行(ECB)も、次の一手として量的緩和よりもこのマイナス金利に注目している、と言われている。
いつかの時点で「劇薬」が使われる可能性も
これまで各国中銀首脳は「マイナス金利は現実的ではない」と斬り捨ててきた。日銀の白川総裁は2010年の国会答弁で「理論的には面白いが実務的には困難」と述べている。FRBのバーナンキ議長は、準備預金の付利を撤廃することは短期金融市場にマイナスの影響を与えるとして、否定的な立場を表明している。ましてマイナス金利など論外、ということだろう。だが実務レベルでは、恐らくそのメリット・デメリットに関する研究が行われていると見てよい。
現時点で日本の緩和策は資産購入、英米は量的緩和、ユーロ圏は政策金利引き下げといった具体策が採られているが、いつかの時点で大して効果のない現政策から軸足を準備預金へのマイナス金利に移し替える可能性が無いとは言えない。これは劇薬ではあるが、おカネの循環を刺激すると同時に、銀行業界に再編を促す契機にもなり得る。
実質的に「預金課税」を意味するマイナス金利は、銀行の経営判断をかなり刺激するはずだ。中央銀行に預けても損するし、国債を買っても損をするのでは、何とかして運用先を増やさねばならないが、超低空飛行の経済において全銀行がその目標を達成することは不可能に近い。結論めいたことを言えば、今後世界的に銀行業界が縮小することは避けられないだろう。国債のマイナス金利と中銀のマイナス金利が、金融システム修正の引き金を引くことになるかもしれない。
もちろんマイナス金利の下で皆がおカネの有効な使い道に知恵を絞るようになれば、実体経済が意外な方向へ動き出す可能性はある。それは危険な実験かもしれないが、金融業界にメリットが多く実体経済にデメリットを与えかねない通貨増刷の実験よりも、金融・実体経済双方への長期的なメリットが期待され、かつ迅速な政策修正が可能なマイナス金利の実験の方がわずかながらも合理性があると考えるのは、過激思想なのだろうか。
倉都 康行(くらつ・やすゆき)
1955年生まれ。東京大学経済学部卒業後、東京銀行入行。東京、香港、ロンドンで国際資本市場業務に携わった後、97年よりチュースマンハッタンのマネージングディレクターを務める。現在、RPテック代表取締役。日本金融学会会員。最新刊は『投資銀行バブルの終焉 サブプライム問題のメカニズム』(日経BP社)。主な著書に『金融史がわかれば世界がわかる』『金融VS.国家』(ちくま新書)、『金融市場は謎だらけ』(日経BP社)、『予見された経済危機 ルービニ教授が「読む」世界史の転換』(日経BP社)など
倉都康行の世界金融時評
日本、そして世界の金融を読み解くコラム。筆者はいわゆる金融商品の先駆けであるデリバティブズの日本導入と、世界での市場作りにいどんだ最初の世代の日本人。2008年7月に出版した『投資銀行バブルの終焉 サブプライム問題のメカニズム』で、サブプライムローン問題を予言した。理屈だけでない、現場を見た筆者ならではの金融時評。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20120806/235362/?ST=print
ボルカー議長によるインフレ退治とグレートモデレーションの到来
第2回講義:第2次大戦後のFRB その2
2012年8月8日(水) ベン・バーナンキ
ポール・ボルカー氏は(1979年8月に)、米連邦準備理事会(FRB)の議長に就任してから数カ月で、インフレ問題に対処するには強硬な政策が必要だとの判断に至りました。そして同年10月、ボルカー氏と米連邦公開市場委員会(FOMC)は、金融政策の運営方法を従来から一変させたのです。ここでどんな手法が用いられ、どう機能したか詳細に説明する必要はありません。基本的に、これによりFRBが金利を大幅に引き下げることが可能になったということを理解しておけば十分です。
ポール・ボルカー議長は就任から数カ月で金融政策の運営手法を一変させた
周知のように、金利を引き上げれば経済は減速し、インフレ圧力は弱まります。ボルカー議長が言ったように「インフレ・サイクルを断ち切るには、信頼するに足る断固たる金融政策を取らねばなりません」(スライドの写真下のカコミ)。ボルカー議長が政策を発動してから数年でインフレ率は急落しました。1980〜83年の間にインフレ率は約12〜13%から3%程度にまで低下したのです。
1980年代のインフレ率。ボルカーFRB議長が「信頼に足る断固たる金融政策」を取ったことで、12〜13%だったインフレ率は82年には3〜4%にまで下がった
金利を引き上げ、インフレは確かに退治したが
インフレ率がかなり急速に下がり、70年末の問題を解消したという点では、つまり「インフレ封じ込め」という目的からすると、80年代の政策は大成功でした。しかし、何事も“タダ”というわけにはいきません。ボルカー氏の政策の1つは、金利を急速に引き上げることでした。81〜82年当時、私は大学院を出たばかりで家を買うことを検討していました。はっきり覚えていませんが、30年物住宅ローンの金利が18.5%だと言われたのです。
つまり金利はかなり高かったわけで、経済活動は落ち込み、それに伴い実効インフレ率も低下しました。これは失業率のグラフですが、これを見れば、高金利はインフレ抑え込みには必要だったにせよ、その一方で急激な景気後退を招いたことが分かります。事実、82年には失業率は約11%にまで上昇しました。これは直近の金融危機後の水準をも上回っています。
1979〜87年の各第4四半期の失業率の推移。ボルカー議長による金利引き上げは深刻な景気後退を招き、1982年に失業率は11%と直近の金融危機後の不況の水準をも上回った
したがってボルカー氏の政策には、極めて大きな副作用が伴ったわけです。FRBやボルカー議長に厳しい政治圧力がかかったことは容易に想像できるでしょう。当時、FRBに投書を送ることは一般的で、2×4インチの小さな木片に「建築業を殺すのを止めろ」「農家を救え」といったメッセージを書いた投書が随分来たようで、このことからも高金利が経済にいかにマイナスの影響を及ぼしていたかが分かります。
インフレは憂慮すべき問題であり、私は常に物価安定に注意を払う必要があることを肝に銘じるため、これらの木片の投書を2〜3つ、今も机の上に置いています。ただ、この1件は中央銀行の独立性が何故重要なのかを示す一例でもあります。もしボルカー議長が再選されるために選挙を経る必要があったら、恐らくこの政策を持続することはできなかったでしょう。しかし、(FRB議長は選挙によってではなく、大統領の指名で決まることから)ボルカー議長は独立した金融政策を取り続けました。
ボルカー議長は、(1981年に大統領に就任した)ロナルド・レーガン大統領*と議会から少なくとも十分な支持を受け、政策を続行することができました。その結果、インフレを鎮圧できたのです。70年代に生産とインフレ率は大きく変動しました。先のグラフ(80年代のインフレ率)から、インフレ率がどれほど大幅に変動したかが読み取れます。この間の講義では触れませんでしたが、OPEC(石油輸出機構)が石油禁輸に踏み切ったことから米国経済は、1973〜75年にかなり厳しい景気後退に陥りました。さらに80年代初めには、ボルカー議長によるインフレ抑え込みが成功する一方で、景気後退に見舞われるなど経済は大きく揺れ動きました。
*1981〜89年まで第40代大統領として務めた
グリーンスパン議長の最大の功績は「グレートモデレーション」の達成
ボルカー議長は1987年に退任し、その後を継いだのがアラン・グリーンスパン議長です。グリーンスパン議長は87年からほぼ19年にわたり、FRB議長を務めました。
スライドにあるコメントが示しているように、グリーンスパン議長の在任中の重要な功績の1つは、経済の大きな安定性を達成したことでした。同議長が述べているように、米国ではより経済が安定したことが、米国の生活水準の大幅な上昇に大いに貢献したのです。事実、30年代の大恐慌や70年代のグレートスタグフレーションに対して、この時代は「グレートモデレーション(超安定化 The Great Moderation)」として知られるようになり、経済の安定性は大幅に高まりました。
アラン・グリーンスパンFRB議長は「グレートモデレーション(超安定化)」の時代を築いた。在任期間は1987〜2006年
グレートモデレーションは、重要かつ特筆すべき現象でした。次のグラフは、1950年からほぼ現在までの四半期ごとの実質GDP(国内総生産)成長率の推移を示しています。折れ線グラフで、直線が急上昇しているのはGDP成長率が急上昇したことを、マイナスに転じた時はGDP成長率がマイナス成長となったことを示しています。ご覧の通り、グラフは大幅な変動を示し、成長期の後には減速期が続いています。
黄色い帯の部分は、平均から±1標準偏差以内の範囲を示しています。基本的に1950年代から1985〜86年の平均的なGDP成長率の変動のいわば尺度で、この期間全体ではGDP成長率の変動幅がかなり大きかったことが分かるでしょう。当時は経済の振幅が大きく、この期間には何度か景気後退があり、73年や81年のような厳しい景気後退もありました。
1950年代から2007年までの四半期毎のGDP成長率の変動幅。50〜85年の成長率の変動幅に比べ、86〜2007年は変動幅が小さく、それだけ経済が安定していたことがうかがえる
しかし、驚くべきことに、1986年前後を境に状況は一変します。86年から2007年頃までの変動を見てください。四半期ごとのGDP成長率の変動は大幅に小さくなっています。水色の帯はこの後半の期間の平均から±1の標準偏差以内の範囲を示しています。この約20年間、経済の安定性がこれだけ大きく高まったのは驚異的と言えます。これは実質GDP成長率だけではなく、インフレ率についても同じことが言えます。
1950年から2007年の四半期毎のCPIで見た物価上昇率。86年以降、それまでに比べて変動率が大幅に低下し、経済がいかに安定していたかが分かる
このグラフは、消費者物価指数(CPI)で見た物価上昇率の前四半期比変動率を示しています。黄色の帯は86年以前のインフレの平均変動率の±1標準偏差の範囲を表しており、70年代にインフレ率が急速に進んだことがうかがえます。86年以降、変動率は大幅に低下し、安定した動きとなっています。つまり、86年以降、成長率もインフレ率も大幅に安定するという、まさに目覚ましい変貌を遂げたのです。この「グレートモデレーション」と呼ばれた時期については、エコノミストも盛んに言及しています。
では、なぜ80年代半ばから2000年半ばまで経済がこれほど安定したのでしょうか。
グレートモデレーションにはボルカー氏の貢献も大きかった
この点については数多くの調査が行われ、学術論文も多く書かれており、様々な議論がなされていますが、私は金融政策がこのように高い経済の安定性を達成するうえで一定の役割を果たした証拠がかなりあると考えています。特にボルカー氏の貢献が大きい。ボルカー氏が80年代初めにインフレを鎮静化させるため取った短期的な政策は大きな景気後退を招き、多くの苦痛をもたらしましたが、それだけの対価がありました。
対価とは、経済の安定性が高まり、インフレ率が大幅に低下し、金融政策も安定したということです。企業部門や家計部門の信頼感も高まり、このことが全般的な安定に重要な役割を果たしました。つまり、ミルトン・フリードマン氏が指摘した通り、インフレと失業率の間に「恒久的なトレードオフの関係」など存在しなかったわけです(第2次世界大戦後のFRBその1の4〜5ページを参照)。インフレ率を若干高止りさせることによって、失業率を永遠に低下させるなどということはできないのです。
長期的にインフレを低い水準で安定させることが、経済の安定に寄与し、健全な成長や生産性、経済活動をもたらすことは言うまでもありません。低インフレは明らかに素晴らしい現象で、しかも80年代のインフレ率の低下は世界的な現象でもありました。80年代には多くの国がインフレに苦しみましたが、80年代半ばには新興国を含め世界中のほとんどの国がインフレ率を大幅に引き下げることに成功し、経済成長と安定によい影響をもたらしました。
もっともグレートモデレーションは、すべて金融政策のおかげだったわけではありません。間違いなくそのほかの要因もありました。ここで指摘したいのは、経済構造変化がグレートモデレーションに寄与したということです。
「カンバン方式」など産業界の構造改革も寄与
例えば、企業は徐々に、どうすれば在庫を効率的に管理できるかを学んでいました。いわゆる「ジャストインタイム在庫管理(カンバン方式)」は、手元に大量の在庫を抱える代わりに、企業は生産に必要な時に、必要なだけの部品を入手するシステムです。手元に大量の在庫を抱えなくてよいというのは、経済変動の重要な要因も小さくなることを意味します。なぜなら、需要が減った時に大量の在庫を抱えていれば、その在庫がなくなるまで生産が行われなくなるからです。
在庫管理の改善は一例に過ぎません。このほか様々な経営手法や要因が、経済の安定に寄与しました。石油価格が急騰するといったショックがほぼ起きなかったという幸運もグレートモデレーションに寄与しました。ただ、80年代半ば以降、さきほどのグラフ(GDP成長率とインフレ率の推移)で見せたように、経済運営の方法が極めて顕著に変化したことを理解してもらえればと思います。
さて、いよいよ2000年代半ばまで来ました。ついに金融危機と最近の展開についての話を始めますが、グレートモデレーションについて最後に一言。この時期のもう1つの特筆すべきことは、米国においては深刻な影響を及ぼす金融危機が起きなかったという事実です。確かに1987年に株式市場の暴落はありましたが、経済にさほど打撃は与えませんでした。むしろ重要な出来事として90年代末のドット・コム・バブルの崩壊と、2001年の緩やかな景気後退の始まりが挙げられます。しかし、グレートモデレーション以降、人々は経済の安定性が増しただけでなく、金融システムの安定性も増したと考えるようになっていました。
その結果、この期間、金融を安定させる政策があまり重視されなくなったのです。これが金融危機の序章へとつながっていきます。まずは金融危機の端緒となった幾つかの事象、特に住宅バブルについて述べるにとどめ、第3回以降の講義において危機の中で何が起きたのか、FRBがどう対応したのかについて詳細に話します。
バーナンキ議長による講義の録画は下記でご覧頂けます。
第2回(3月20日) 第2次大戦後のFRB(The Federal Reserve after World War II)
なお、動画画面の左下にある「transcript」をクリックすると講義の英文おこしをダウンロードできます。
ベン・バーナンキ(Benjamin Shalom Bernanke)
薬剤師の父と学校教員の母の長男として、1953年12月13日に米ジョージア州オーガスタで誕生、サウスカロライナ州ディロンで育つ。高校時代、大学進学適性試験SATで1600満点注1590点というその年の州で一番の成績を収め、1972年ハーバード大学に進学、経済学を学ぶ。1979年、年米マサチューセッツ工科大学(MIT)で経済学博士号を取得し、同年以降、米スタンフォード経営大学院で教える一方、ニューヨーク大学で客員教授も務める。1985年プリンストン大学経済学部教授に就任、この時、日銀の政策がいかに間違っていたかを研究。デフレ史の研究でも知られ、友人でノーベル経済学賞受賞のポール・クルーグマン氏とともにインフレターゲットの研究者としても名声を高める。2002年にブッシュ政権下でFRBの理事に就任、2005年6月に同ブッシュ政権下で、米大統領経済諮問委員会(CEA)の委員長に就任したのに伴いFRB理事は退任、2006年1月までCEA委員長を務め、同2月1日にFRB議長に就任。2010年1月再任される。
さあ、バーナンキ議長の講義を聞こう!
この連載は、米連邦準備理事会(FRB)のベン・バーナンキ議長が今年3月下旬に、米ジョージワシントン大学ビジネススクール(同大学は学部としてビジネススクールを持つ)の大学生を対象に「米連邦準備理事会(FRB)と金融危機」と題して、4回にわたって行った講演の全文である。中央銀行が誕生した歴史的背景から、その使命、1930年代に恐慌が起きた際のFRBの対応、その後金融政策が発展した経緯、なぜ米住宅バブルが発生し、なぜその崩壊によって2008年秋の金融危機が発生したのか、何が問題だったのか、そして危機に対してバーナンキ議長を筆頭にFRBがいかに対応したのか――その全容を大学生を対象に分かりやすく説明している点がポイントで、金融危機の深層を明らかにしてくれる。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20120803/235308/?ST=print
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