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(回答先: 試驗投稿 投稿者 不動明 日時 2011 年 8 月 10 日 12:28:12)
またたきの間に天地引繰り返る樣な大騒動が出來るから、くどう氣つけてゐるのざ、
さあといふ時になりてからでは間に合はんぞ、用意なされよ。
戰の手傳ひ位なら、どんなbでも出來るのざが、
この世の大洗濯は、われよしのbではよう出來んぞ。
この方は元のままの身體(からだ)持ちてゐるのざから、
いざとなれば何んなことでもして見せるぞ。
仮名ばかりのb示と申して馬鹿にする臣民も出て來るが、
仕まひにはその仮名に頭下げて來ねばならんぞ、
かなとは (カミ)の七(ナ)ぞ、bの言葉ぞ。
今の上の臣民、自分で世の中のことやりてゐるように思うてゐるが、
みなbがばかして使つてゐるのに氣づかんか、
氣の毒なお役も出て來るから、早う改心して呉れよ。
年寄や女や盲、聾ばかりになりても、まだ戰やめず、
bの國の人だねの無くなるところまで、やりぬく惡の仕組もう見て居れんから、
bはいよいよ奧の手出すから、奧の手出したら、
今の臣民ではようこたえんから、身魂くもりてゐるから、
それでは虻蜂取らずざから、早う改心せよと申してゐるのぞ、
このことよく心得て下されよ、
bせけるぞ。
八月二日、ひつ九のか三。
ひふみb示 下つ卷 第二十八帖 (七〇)
自分達の敵對・反對勢力を「白村江の戰い」に據つて壞滅させ、
唐に據る軍事占領體制を誘發せしめ、
倭國(蝦夷[エミシ])勢力を抹殺、解體・改造した。
其れはまさに
陸軍皇道派青年將校を嗾して暴發せしめ、
2.26クーデーターを決起せしめ此れを速やかに鎭壓、
戰爭擴大最大の障壁であつた陸軍皇道派を粛清、
計劃的自滅戰、滿洲事變、上海事變から支那事變へ、
そして大東亞戰爭へを開戰せしめ、
敗戰に據るGHQ軍事占領下での敗戰革命へと驀進して行つたやうに。
藤原不比等編纂『日本書紀』曰く
「蛇(をろち)と犬(いぬ)と相交(つる)めり。
俄(しばらく)ありて倶(とも)に死ぬ」
近衞は首相に就任した時點で捨て駒として處理される事は決まつてゐた。
ゆゑに計劃の核心部分は本當に知らされてゐなかつたのだらう。
此のやうに五攝家の筆頭であらうとも、必要と有らば躊躇無く切り捨てる。
現代日本の閏閥(けいばつ)を牛耳る藤原氏
『日本書紀』は、蘇我入鹿こそが、天皇家をないがしろにした、という。しかし、中
臣鎌足が天皇家のために身を粉にしたかというと、大きな疑問符がつきまとう。
藤原氏は中臣鎌足以来、つねに日本の頂点に君臨しつづけた。しかもそれは、一貫
して、「天皇家のため」ではなく、自家の繁栄のためだったように思えてならない。
それは、この一族の生まれつきの習性であったようにも思えるのだ。
その習性、伝統は、古代から近代、現代にいたっても、まったく変わっていないの
である。そして、藤原氏にとって「天皇」とは、自家の繁栄を継続するための道具に
すぎなかったのではなかったか。
じっさい、現代に至っても、藤原氏は「天皇にもっとも近い一族」という立場を利
用し、目に見えない閨閥を作り上げてしまっているのである。
そこでこのあたりの事情を、現代史に焦点を移してすこし説明しよう。
太平洋戦争の戦前戦中、三度総理大臣の座に就いた近衞文麿は、昭和天皇に政務を
上奏するとき、椅子に座り、足を組んだままで、涼しい顔をしていたという。
もちろん周囲の顰蹙(ひんしゅく)を買ったが、このような不謹慎が許されたのにはわけがある。
近衞氏が藤原五摂家の筆頭だったからにほかならない。
五摂家は七世紀の大物政治家・藤原不比等の四人の男子、武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、
麻呂(まろ)のなかの、房前の末裔、藤原北家(ほっけ)が五つの家に別れ(近衞、九条、二条、一条、
鷹司[たかつかさ])、平安時代以来、明治にいたるまで、代々摂政と関白を輩出する一族として、
貴族社会の頂点に君臨してきたのである。
これは余談ながら、藤原五摂家の末裔は、現代社会にも、大きな影響力をもってい
る。
例えば、近衞文麿は戦時中、陸軍の暴走をおさえようと東条英機暗殺計画を練り、
これを「大化改新」になぞらえ、悦に入っていたという。計画は未遂に終わったが、
藤原の末裔であることを、文麿はつよく意識していたわけである。
この近衞文麿の祖父・忠熙(ただひろ)は左大臣として朝廷の頂点にあって公武合体を推進した
人物だった。この忠熙の夫人は島津藩主の娘で、さらに忠煕の子・篤麿(あつまろ)の夫人は加賀
藩前田家の女人と、近衞家は当時の有力氏族との間に、さかんに門閥(もんばつ)を形成していた
のである。
文麿の夫人は豊後佐伯(ぶんごさいき)藩主家の千代子で、千代子との間の二女・温子(よしこ)が細川護貞(もりさだ)に
嫁いだ。細川は、熊本藩主の流れであり、細川ガラシャで名高い。護貞と温子の間に
生まれた子が、元首相・細川護熙(もりひろ)で、さらにその弟の護輝(もりてる)が、近衞家に養子に入って
いる。
このように、近衞家の織りなした閨閥は、旧華族を中心にくり広げられ、華麗なる
一族を形成する。
藤原氏の末裔氏族の中で、近衞家以上に幅広い閨閥を作り上げたのは、西園寺(さいおんじ)家で
ある。
西園寺家は五摂家の一ランク下の清華(せいか)家に当たる。それにもかかわらず西園寺家が
名を馳せたのは、公望(きんもち)の活躍に負うところが大きい。
西園寺公望は勤王公卿(くぎょう)として華々しくデビューし、その後自由民権運動を展開、さ
らには、最後の元老として名高く、軍部の暴走、ファシズム化に最後まで抵抗した人
物として知られる。
西園寺公望には一人娘の新がいて、毛利家の八郎が婿入りした。
二人の間に六人の子が生まれ、西園寺家の閨閥を形づくっていくこととなる。
代表的なのは二女春子が住友財閥家に嫁いだもので、それ以前、住友家は徳大寺(とくだいじ)家
とも姻戚関係を結んでおり、藤原の血をつよく引き入れたのである。この住友財閥家
と西園寺の間の子たちが広く閨閥を形成していき、
西園寺家はまさに、我が国の代表的支配階層の家系を横断的に綱羅している(『門
閥』佐藤朝泰 立風書房)
というほどの、強固な網の目を、現代社会に張り巡らしていったのである。
昭和天皇の前で足を組んだ近衞文麿
それにしても、藤原氏という存在は、いかにして古代から現代にいたるまで、日本
のエスタブリッシュメントの地位を占めつづけてこられたのであろう。
彼らの「権威・権力」は、天皇に女(むすめ)を入れ、皇后とすることによって保たれてきた
ものだ。奈良時代よりこのかた、皇后のほとんどは藤原系に牛耳られ、天皇家の血は、
藤原で塗りつぶされたといっても過言ではないほどなのである。したがって、近衞文
麿の胸中に、「天皇」は「藤原の子」に過ぎないという意識がなかったといえば嘘に
なろう。
じっさい、「天皇」は、藤原氏の権勢を保持するための道具であった時代が、長く
続いたのだ。
ちなみに、なぜ権力を持たない「天皇」が政争の道具になり得たかといえば、八世
紀に整備された律令という法制度の元で、「天皇」から超法規的な命令を引き出すこ
とによって(正確には引き出すのではなく、言わせるのだが)、政敵を倒すことがで
きたからである。
すなわち藤原氏にとって、法治国家にありながら、法を曲解、無視することのでき
る魔法が、「天皇」の存在だったわけである。
その魔法の杖を支配するための手段が、「姻戚」である。
「この世をば我が世とそ思ふ望月の……」と詠った道長は、娘の三人を皇后にするこ
とに成功している。皇后の生んだ子がもっとも有力な皇位継承候補になるのであって、
その皇子たちを、藤原は「我が子」として飼い慣らしていったのである。そして、藤
原氏の意に背く天皇は強引に退位させられた。こうしておけば、藤原権力は安泰であ
る。
このように、奈良時代から平安時代にかけて、藤原氏は律令(法律)と天皇を支配
することに奔走した。律令を自家の都合のいいように解釈し、それでもだめなら、
「天皇の命令」という魔法を用意し、朝堂を独占したのである。
近衛文麿は、こういう歴史を背負っていたからこそ、昭和天皇の前で足を組んだの
であろう。
関裕二氏著「藤原氏の正体」
第一章「積善の藤家」の謎
現代日本の閏閥(けいばつ)を牛耳る藤原氏
昭和天皇の前で足を組んだ近衞文麿
五十六頁據り
NHKテレビで西園寺が「あの戰爭は俺達がやつたんだ」とニヤニヤし乍ら語つてゐた事は、今も腦裏から離れない
http://www.asyura2.com/10/bd59/msg/365.html
投稿者 不動明 日時 2011 年 2 月 27 日 16:28:05: yX4.ILg8Nhnko
イルミナテイーカードの一枚にある「Japanカード」 眞珠灣奇襲攻撃 あんたらのやらうとしてゐる事は解つてゐる
http://www.asyura2.com/10/warb6/msg/388.html
投稿者 不動明 日時 2010 年 11 月 13 日 03:05:17: yX4.ILg8Nhnko
あんたらが自作自演核テロと尖閣諸島周邊海域での偶發を裝つた武力衝突、第二の盧溝橋事件を再び企ててゐる事は既にバレてゐる
http://www.asyura2.com/10/warb6/msg/741.html
投稿者 不動明 日時 2010 年 12 月 03 日 01:23:40: yX4.ILg8Nhnko
中共の核武裝に全面協力したのは佛魔百濟勢力藤原五攝家だつた
http://www.asyura2.com/10/bd59/msg/363.html
投稿者 不動明 日時 2011 年 2 月 27 日 02:05:04: yX4.ILg8Nhnko
藤原五攝家に據る日本核武裝論中共側最大の功勞者 江沢民の知られざる?事実・経歴 出身大学、実は…… [サーチナ]
http://www.asyura2.com/10/bd59/msg/753.html
投稿者 不動明 日時 2011 年 7 月 12 日 01:58:09: yX4.ILg8Nhnko
常識で考える日本古代史
5.3 白村江前夜
http://www1.rurbannet.ne.jp/~papas/joshiki-nihonshi/story/sec5_3.htm
5.4 白村江の戦い
http://www1.rurbannet.ne.jp/~papas/joshiki-nihonshi/story/sec5_4.htm
5.5 実像の天智天皇
http://www1.rurbannet.ne.jp/~papas/joshiki-nihonshi/story/sec5_5.htm
5.6 壬申の乱再考
http://www1.rurbannet.ne.jp/~papas/joshiki-nihonshi/story/sec5_6.htm
日本古代史の真相
http://www1.rurbannet.ne.jp/~papas/joshiki-nihonshi/story/sec6_1.htm
5.3 白村江前夜
5.3.1 白村江と倭国の百済支援
この時期の朝鮮半島情勢を知る一級資料は、日本書紀である。
これまで日本書紀には信用できない部分が多いと書いているが、これは中国・朝鮮半島から検証することのできない日本国内の記事についてであって、対外的な記事については信用していいのではないかと思う。なぜなら、そこに明らかな間違いが書いてあれば、日本書紀そのものが信用されないからである。
現在みることのできる日本書紀は、漢字かな交じり文で書かれている。これは、現代の日本の読者にはそうでないと読めない(それをさらに現代文に訳すことも多い)からで、もともと日本書紀は漢文(中国語)で書かれている。当時の朝鮮半島や日本は中国語文化圏であった。(ひらがなができたのは平安時代。ハングルはもっとずっと後)
つまり中国・朝鮮半島の人々にとって、同時代に自国語で書かれている文書であるから、日本書紀を入手すればその内容をすぐに精査することができる。だから日本書紀の作者としては、特に中国・朝鮮半島の記事については、可能な限り正確な記事を書く必要があった。そうでないと、日本書紀そのものの信憑性が問われることになるからである。
唐が滅亡してから後に編纂された国書「旧唐書」「新唐書」において、日本についての記事の中に日本書紀から引用されたと思われる部分がある(歴代天皇など)。これは、中国側が日本書紀に一応は信用を置いている、ということであり、この点からみても当時の中国・朝鮮半島の記事について信用することができる、とみる。
従って以下では、日本書紀の記事から白村江前後の状況を検討してみたい。念のため付け加えると、信用できるのは中国・朝鮮半島から検証可能な対外的な部分であって、そうでない国内の動きについては後の政権(日本)にとって有利なことしか書いていない、という前提は変わらない。
さて、朝鮮半島情勢が風雲急を告げたのは、西暦661年である。この年の7月、斉明天皇が崩御されたのと同時期に、唐軍が高句麗城下に進軍したとある。
そして日本書紀によると、皇太子である中大兄皇子は即位せず、天皇とならずに戦争を指揮したことになっている。これが本当だとすると、この時期、日本は国家元首がいないまま戦争状態に突入したことになる。そして中大兄皇子はこのまま、白村江の戦後処理が終わるまで天皇とはならない。
このことが何を意味するかについては諸説ある。中大兄皇子が実の妹であり先代・孝徳天皇の皇后でもある間人大后(はしひとのおおきさき)を妻としていたから、という説もある。しかしどのような理由があろうとも、勝戦国が、敗戦国の元首の責任を問わない、などということは考えられない(特に古代)。
ということは、中大兄皇子は当時唐と交戦した倭国の責任者ではなく、白村江の戦後処理に伴って、日本列島の主(唐からみると日本国王)として認知された、と考えるのが自然ではないだろうか。この問題は後でまた検討することとして、この時代、斉明天皇が崩御してから天智天皇が即位するまでの7年間を「天智称制」と呼ぶ。
朝鮮半島に話を戻すと、唐軍の進軍に伴う対策として、翌月から翌々月(8月〜9月)にかけて倭国から百済に武器、食料の援護、そして援軍五千が送られている。唐が高句麗を攻撃する一方で、新羅が百済に攻勢を強めたからである。
さて、この五千という数、当時の倭(日本)の国力から見て、どの程度の負担となったのだろうか。
5.3.2 倭国の支援はどの程度の規模だったのか
百済支援にあたり、倭国は最終的に二万七千の援軍を送ることになる。この数が累計なのかその時点での追加支援なのか不明であるが、少なめにみて累計と考えることにする。
われわれが同時代の戦争として、TV番組等で知識を持っているのは太平洋戦争(第二次世界大戦)である。最終的に日本軍の総兵力としては800万人前後(陸軍550万人、海軍250万人)とされるが、よく指摘される「員数主義」(形式的に数だけ合わせておく)や国内に残存する軍備等から考えて、外地に展開されていたのは200万人前後と考えられる。
さて、昭和20年の人口は国勢調査で分かっていて、約8200万人。これに戦没者300万人を加えると8500万人。この総数に対して800万人が兵力で、うち200万人が外地に展開されているということである。
さて、白村江当時の日本列島の人口はというと、おそらく200〜300万人前後ではなかったかと推定される。
現在の日本の人口は約1億2千万。江戸時代の人口はほぼ2千万人で安定しており、これが100年間でほぼ6倍になったのは、工業化によりより多くの食料が確保できるようになったことと、医療水準の向上により死亡率が下がったことによる。
江戸時代の人口2千万人にまで増えた要因は、金属製農具の普及と牛馬による生産力(および輸送力)の向上であり、具体的には武装農民(=武士)による新田の開発によって増産が可能となったことによる。それ以前(平安時代前半)の日本列島の人口は、おそらく5〜6百万人前後であったと推定される。
白村江はさらにそれ以前である。金属製農具が普及していない以上農業生産はそれほど大きくはなく、魏志や隋書の記事にあるように、半農半漁の生活をしていたと思われる。人口として維持できたのは多く見積もって3百万人前後であろう。
さて、人口3百万人のうち2万7千人を海外派兵するという規模は、割合とすれば太平洋戦争の3分の1程度であるが、相当に高い比率ということはお分かりいただけると思う。さらに、当時は道も輸送手段も整備されておらず、太平洋戦争と違って工業が発達していないので、船さえ十分なものは作れなかったはずである。
そうした中でとりあえず5千人を派兵するというだけで現代の数十万人にあたるだろうし、最終的な2万7千人は太平洋戦争の2百万人に匹敵する負担、と考えることは、それほど的を外れているとは思われない。
5.3.3 太平洋戦争クラスの派兵に、県の部長クラスが指揮?
国力の相当部分を傾けた戦争を指揮するのに、どのような人物が現地司令官であるのが自然だろうか。特に考えなくてはならないのは、7世紀には無線も電話もなく、指揮命令は人力に頼らなくてはならないことである。それなりの格を持った人物、最高司令官ないし少なくともその次のクラスでなくてはならないだろう。
さて、斉明天皇七年(661年)の唐軍の攻勢を、高句麗は再びしのいだ。これは日本書紀には、「厳寒で河川が凍結したため」と書かれているが、通常の場合河川の凍結は輸送を容易にするので攻め手(この場合は唐)に有利なはずである。とりあえず、寒地装備が十分でなかったため退却した、と読んでおくことにしよう。
翌、天智称制元年(662年)、気候が暖かくなると再び唐軍が来襲する。百済にも、新羅の攻勢がある。この年の12月、百済首都の州柔(ツヌ)城で重要な会議が持たれる。議題は、百済首都の移転についてである。
豊璋王をはじめとする百済の意見は、「山城であるツヌにいつまでも篭城していては、食べるものがなくなってしまう。平地の避城(ヘサシ)に都を移すべきである」というものであった。これに対し倭国の意見は、「ここ(ツヌ)にいるから新羅が攻めてこれないのであり、ヘサシに陣をひいて守ることは困難である。腹が減ることよりも、滅亡しないことが大切である」というものであった。
この意見を述べたとされるのが、朴市多来津(エチノ・タクツ)という人物である。詳しい素性は不明で、近江の豪族だという。日本書紀の中では、この百済滅亡〜白村江のくだりにしか登場しない。位階は小山下(しょうせんげ)というから、後の官位でいうと従七位下、司令官でもなければ高官とすら呼べない。
しかし、考えてみてほしい。例えば今日の六ヵ国会議で北朝鮮問題を議論している中で、県の部長クラスが会議のメンバーとして発言し、他国の首脳に意見するなどということがありうるだろうか。仮に意見があったとしても、それをしかるべき立場の者に伝え、その人の意見として会議において表明するというのが普通ではないのだろうか。
今と違って昔はそういうことにうるさくなかった、という説明は困難である。昔の方が、身分上下による差別は比較にならないほど大きい。さらに、このエチノタクツ、後段の白村江における奮戦でも記事になっているのである。
ここから考えられることは、おそらくこういうことである。エチノタクツという人物がいたことは確かであろうが(記載のとおり派遣軍の中級役人として)、ここに書いてあることは彼がしたことではない。本当は白村江の戦いの重要人物であるのに、日本書紀としては「いなかったことにした」人物がしたことなのではなかろうか。
ずばり、その人物とは倭国王である、と考えている。この時点まで、日本列島を代表する政権の責任者として認知されていた人物(大和朝廷の天皇ではない)がいて、その人物が百済滅亡から白村江においても重要な役割を果たしていた。しかし、天皇家が万世一系で日本列島を治めていたというのが日本書紀の建て前であるので、その人物の実名は書けなかった。
このエチノタクツに仮託された人物が、隋書のアマ・タリシヒコの後継者(子供か孫)であり、この時点でオオキミと呼ばれていたのではないか。そう仮定すると前後の事実と非常によくつじつまが合うのである。
5.3.4 百済滅亡の3つの要因
さて、結論からいうと翌、天智称制2年(669年)に百済は滅亡することになるのだが、その大きな要因となった3つの失敗がある。それ以前に、「唐に味方しなかったこと」が最大の失敗なのだが、これは民族の自立という理由もありやむを得ない面もある。
第一の失敗は、エチノ・タクツ(実際には、同盟軍である倭国王とみる)の意見にもかかわらず、遷都を強行したことである。百済王の思惑通り収穫の時期まで持ちこたえられればまた違ったかもしれないが、実際には平地のヘサシに遷都して早々の2月には、新羅の攻勢の前に首都の確保が困難となってしまった。
都を移すということは、物資と人員という資源を移動するということである。そして、相手の攻勢を受けて首都を放棄するということは、物資(特に食糧と兵器)の多くを置いたまま逃げ出すということである。ただでさえ食糧を心配していた百済王は、余計な遷都をすることによってさらに物資が乏しくなったものと考えられる。
第二の失敗は、むしろ唐・新羅の諜報活動を誉めるべきかもしれないが、百済内部で対立を起こしてしまったことである。この時代の百済は正確には復興・百済であり、原・百済は斉明天皇七年(660年)、義慈王が唐に降伏していったん滅びている。復興・百済はもともと倭国にいた豊璋王と重臣・鬼室福信(きしつ・ふくしん)のいわばレジスタンス政権である。
この政権において、豊璋王と鬼室福信が対立し、鬼室福信は謀反の疑いで斬首されたのだから、攻める側にとっては相手の守備力が半減したということである。福信が処刑されたのが6月、それを知って新羅が山城であるツヌにまで迫ってきたのが8月。電話もインターネットもない時代に、おそろしく早く情報が流れている。やはり、何らかの工作があったとみるべきであろう。
第三の失敗は、戦力を分断されたことである。この年、倭国から百済に派遣されたとされる兵力は2万7千。この時代の人口を考えると、国力を傾けた派兵であることはすでに述べた。そして、日本書紀の記載をみると、山城であるツヌを守る兵力と、倭国の主力とみられる兵力が、どうやら分断されているのである。
ツヌを包囲しているのは新羅軍であり、ツヌへの入口にあたる白村江の河口で待ち伏せているのが唐の水軍である。そして倭軍はツヌを支援するため、まず唐の包囲網を突破して、ようやくツヌの支援ができるという状況なのである。百済と倭国本軍との間に、いつの間にか唐と新羅が割り込んでしまっている。
前年12月の段階で、百済王とエチノ・タクツが作戦会議を行っているくらいだから、この時点では倭国と百済は分断されていない。しかし、翌夏にはこういう状況となっている。やはり、戦術的なミスがあったというべきであろう。あるいは、倭国の反対にもかかわらず百済が遷都を強行したことで、倭国王がへそを曲げていったん国へ戻ってしまったというのが真相かもしれない。
5.4 白村江の戦い
5.4.1 白村江当時の状況
天智称制2年、西暦663年8月。百済最後の拠点である州柔(ツヌ)城に新羅の軍勢が迫る。百済・豊璋王は城兵を前にこう言った。「もうすぐ、倭国の援軍1万が到着する。それまでの辛抱である。私は、白村江まで援軍を迎えに行く」
百済が食糧の確保をめざして、平野部のヘサシに一時首都を移転したことはさきに述べた。しかし、移転からわずか2ヵ月、新羅の攻勢の前にヘサシを放棄、豊璋王以下はツヌに戻っている。そして6月、百済内部の内輪もめにより重臣であり武将でもある鬼室福信が処刑されたのを知り、新羅は城を包囲したのである。
ここで当時の状況について再度整理してみたい。
唐と新羅が同盟し、百済は高句麗・倭国と組んでこれに対抗している。国力としては圧倒的に上位にある唐が攻勢を強め、663年秋の時点で、高句麗は朝鮮半島北部(現・北朝鮮)に釘付けとなっている。その間、新羅が朝鮮半島南部(現・韓国)を勢力下におき、百済は白村江上流のツヌ城に包囲されている。唐は新羅応援のため、白村江河口に軍団を集結させた。
白村江は現在の錦江であり、その下流域は現在の韓国でいうと全羅北道と忠清南道の境界を流れている。朝鮮半島南端から200kmほど北上した地点である。対馬対岸の釜山から朝鮮半島南西端の木浦(モクホ)あたりまで300km、九州北岸から釜山までさらに200km、倭国の軍団が九州北岸から出発したとしても700kmにわたる遠征である。
そして、百済を支援しようとする倭国がしなければいけないことは、孤立しているツヌ城に物資−食糧と武器−を補給することである。そのためには、まず白村江河口に展開している唐の包囲網を突破し、さらにツヌ城を包囲している新羅を撃破して、ようやく戦争目的を達することができる。単に、白村江河口の海戦に勝てばいいというものではないのだ。
さて、その軍事目的を達成するだけの装備を、倭国は有していたのだろうか。まず最初に輸送力を考えてみると、約500年後の源平・壇ノ浦の戦いにおいて潮の流れが戦局を一変させたように、この時代の船には動力はない。風力、潮力、人力で動かさなければならない。義経が八艘飛びしたくらいだから、大きさも大したことはない。おそらく漁に使っていた船、中国沿岸でジャンク船と呼ばれるものと大きく違ってはいなかっただろう。
その動力がない小さな船で、仮に倭国からの出発地点が九州北部だったとしても、壱岐、対馬を経て釜山、さらに朝鮮半島南岸から西岸を白村江まで、700kmにわたる航行をしなくてはならない。潮の流れにもよるが移動日数の単位は「日」ではなく「週」、場合によっては二〜三ヵ月を要したとしてもおかしくない。
さらに作戦目的が物資の補給であるから、最終目的地のツヌに届けるための食糧や兵器という積荷がある。目的地に着くまでには戦争をする訳だから、兵士も空腹という訳にはいかずその分の食糧も兵器も必要である。となると、朝鮮半島のどこかに補給基地がないと作戦目的を達成するのは難しい。しかし、白村江までの道のりは663年秋の時点で、すべて敵国・新羅の勢力圏なのである。
5.4.2 戦力の差は顕著
補給基地については、日本書紀に将軍・上毛野君稚子(かみつけぬのきみ・わかこ)が6月に新羅の城を2つ落としたとあるので、もしかするとこれなのかもしれない。ただし、周りがすべて新羅の勢力圏だとすれば、水の補給や兵の野営などは可能であったとしても、本来の意味での補給−食糧や武器の補充−には限界があったと思われる。
いずれにしても、ジャンク船程度の輸送手段で、倭国を出てから十分な休息や補給ができなかったと思われる倭国軍に対し、唐はどうだったろうか。中国における大規模な海戦というと、赤壁の戦い、つまりレッド・クリフがあるが、これは白村江より400年前。この時代すでに、唐はある程度の規模を持った軍船を有しているのである。
日本書紀によると、唐軍の軍船は170艘。一方倭国の軍船は400艘(旧唐書)とも1000艘(三国史記)ともされる。日本書紀の記述からみる限り、兵の人数的には倭国の方が少なかったと思われるので、いかに倭軍の軍船が小規模であったかということである。
輸送力においてそのような差があった上に、武器の性能という点でも倭国は唐に劣っていたと考えられる。白村江に先立つ百済支援においても、矢、糸、綿、布、皮革、コメを送っている(天智称制元年・正月)ように、攻撃においては矢、守備においては皮革が倭国の主要装備であった。金属製品が含まれていない。
古墳から鉄剣が出土するように、2〜3世紀以降倭国にも鉄製品があった。しかし、原料となる鉄鉱石はこの時代まだ中国・朝鮮半島からの輸入に頼っており、砂鉄は産出したけれども量的にはそれほど多くは望めない。中国・朝鮮半島からの輸入は、百済が衰えて高句麗は自国の守備に手一杯という状況では、当然難しいということになる。
一方、唐・新羅は自前で鉄製品を用意できる。木製品・皮革製品・繊維製品で武装する倭国・百済と、金属製品を含む武装が可能な唐・新羅とでは、攻撃力・守備力の点でも相当の差があったといわざるを得ない。
このように、輸送力・装備に差があるということは、作戦・用兵上でかなり上回らなくては勝ち目はないということである。しかし、倭国は作戦的にも、かなり拙いやり方をしたようなのである。
5.4.3 やみくもに突撃して壊滅した作戦面の拙さ
輸送力と兵の装備のいずれの面でも不利な倭国が、白村江河口の唐軍の包囲網を突破するには、少なくとも作戦面で上回っていなければならなかったが、どうやらこの点においても倭国は失敗したようである。その経緯は、日本書紀によると以下のとおりであった。
八月二十七日、先着した倭軍と唐軍との間に交戦があり、倭軍は負けて退いた。唐軍は深追いせず、陣形を整えて待機した。翌二十八日、倭軍の本隊が到着した。百済王と倭軍の諸将はこう相談した。「われわれが先を争って突撃すれば、敵は後退するに違いない」
軍船の性能でも、攻守の武器の性能でも劣る倭軍が、いたずらに正面から攻撃しても勝つことは難しい。それも、奇襲するとか全軍が一斉攻撃するならともかく、到着した部隊から順に突撃するのは、戦力の逐次導入といって戦略的にはたいへん拙劣な方法である。
倭軍は乱れた隊列で、唐軍の堅陣に対し正面突破を図った。唐軍は倭の軍船を左右から挟み撃ちにして戦った。あっという間に、倭軍は敗れた。
戦力が劣っていても精神力(気合)で勝てると考えるのは、日本にとって伝統ともいえる考え方である。きわめて愚かな作戦とは思うけれども、倭軍であればそういう考えで突撃するのはある意味当り前なのかもしれない。同様のメンタリティは、白村江から1300年後の太平洋戦争でも、根強く残っているくらいである。
その上、倭軍は風向きや潮の流れもほとんど考慮していなかった。下の「気象」という単語は書紀でも使われている。今日の意味と、ほぼ同じであると考えられる。
気象を考えずに戦ったため、船の向きを変えることすらできず、海中に落ちて溺れ死ぬ者は数知れなかった。エチノタクツは、天を仰ぎ、歯を食いしばって戦い、数十人を殺したが、遂に戦死した。百済王は、数人の部下とともに、高句麗方面へと逃げた。
ここで再び、エチノタクツの登場である。日本書紀の白村江の戦いに関する記事は、ほとんど以上の内容で終わる。登場人物は、百済王、諸将(ひとまとめ)、エチノタクツだけ。これでタクツが書紀の紹介どおり、将軍でも副将でもない地方の豪族、今日でいう県の部長クラスというのであれば、なぜ彼の名前だけが特筆されるのか意味が分からない。
5.4.4 日本書紀の作者は敗戦があまり悔しくない?
白村江で倭軍の船団が全滅してから八日後の九月七日、ツヌ城は降伏した。頼みの綱である倭国の援軍が来ない以上、やむを得ない降伏であった。このあたりの経緯について、日本書紀の記事は淡々としている。
百済の人々はこう話し合った。「ツヌ城は降伏し、百済の名前は絶えてしまった。事ここに至っては、どうしようもない。先祖の墓所にも、再び行くことはできないだろう。テレ城まで逃れて、後のことは倭の将軍達と相談するしかない」そして、妻子に、百済を去る決意を示したのであった。
テレ城とはどこなのか、百済が滅亡してしまったので確かなことは分からない。おそらく朝鮮半島南岸で、対馬に渡ることができるどこかの海岸近くではなかったかと思われる。ちなみに、朝鮮半島南岸からは、晴れた日には対馬を望むことができる。
いまも昔も、戦争に敗れて他国に逃れることができるのはある程度の財産を持った上流階級の人々であって、一般庶民は新たな支配者の下で耐えるしかない。ベトナム戦争終結時の難民もそうだし、今日脱北して中国の日本・韓国大使館に逃げ込む人と同様である。
百済を逃れた人の多くも、旧支配者層であったり、先端技術者であったりした。彼らはこの後日本に渡り、奈良時代以降急速に進められた技術革新に大きく寄与することとなる。
こうして日本書紀の記事をみてくると、全体の印象として、書紀の作者達は白村江の敗戦をあまり悔しく思っていないということがよく分かる。二万数千の大部隊を派遣し、逃げた者はいたにせよ相当の戦死者が出たにもかかわらず、個人名であげられている戦死者はエチノタクツのみということにも、そのことは現れている。
もっというと、白村江以前の記事の中にも、「これは百済滅亡の予兆ではないか」「占ったところ、高句麗・百済が日本を頼ってくるという結果が出た」など、縁起でもないことが何ヵ所かに書かれている。もしも白村江以前にそんなことを公言していたとしたら、当時そんな言葉はないが「非国民」と言われても仕方がないであろう。
ましてや敗戦後に、「負けることは分かっていた」ようなことを書いて、当時の指導者や戦死者の遺族が面白いはずがない。にもかかわらずそういうことが書かれていて、しかも敗戦の記事がきわめて簡単に、たいして感情移入もされていないということは、どういうことなのだろうか。
おそらくそれは、書紀の作者たちにとって、白村江の敗戦が他人事ということなのである。つまり、近畿・大和朝廷の人々は直接白村江に関わっていない。さらに、白村江の敗戦によって、近畿・大和朝廷の日本列島における相対的な地位が上がったとすれば、日本書紀でこのような書き方がなされていることもうなづける。
ということは、以前に書いた結論、「日本列島における代表的な政権が、白村江以前は倭国、白村江以降はじめて日本=近畿・大和朝廷になった」ということである。教科書にはそう書いていないが、常識で考えるとそうなる。そしてそう考えると、天智天皇に関するいくつかの疑問点にも、納得のいく回答が得られるのである。
5.5 実像の天智天皇
5.5.1 天智天皇が戦争責任を追及されなかったのはなぜか
西暦663年、白村江河口の海戦において倭軍は壊滅的な敗戦を喫し、支援していた百済は滅亡した。この結果、朝鮮半島南部(現在の韓国)は新羅の支配するところとなり、新羅と唐の同盟軍に挟み撃ちされる形となった高句麗も、5年後に滅亡することとなる。
前節で説明したように、この時代の東アジア、特に朝鮮半島の情勢は、「唐・新羅連合」対「高句麗・百済・倭国連合」の勢力争いであった。この争いが唐・新羅連合軍の完勝に終わったということである。
だから、敗戦国である百済・高句麗は国として滅亡することとなった。問題はなぜ、日本だけが国として存続し、かつ、戦争時点で国家元首であり軍最高司令官でもあるはずの天智天皇が敗戦後も国家元首であり続けることができたのか、ということである。日本書紀には、この点について納得できる説明がなされていない。
天智天皇については、もう一つの疑問がある。この章の初め(5.1.)に書いたように、日本書紀に書かれている内容をよく読んでみると、天智天皇の業績は決して特筆すべきものではない。大化の改新はあってもなくても大勢に影響はなく、国力を傾けた百済支援は白村江の大敗によって投下した兵力・武器・兵糧、つまり人材と資本をすべて失ったのである。
にもかかわらず、平安時代以降の天皇はすべて天智天皇の子孫であり、藤原氏も天智天皇の血筋である、という記事もあるくらい、後の世において天智天皇は特別視されているのである。
本来であれば、天智天皇を「戦争責任者」として連行してもおかしくない唐・新羅も、日本書紀を見る限り丁重な態度であるし、実際に戦争責任を問題にしていないことは、遣唐使がほどなく復活し、それ以前にも唐・日本間の交流(捕虜の返還など)があったことからも明らかである。
以上の状況、つまり、日本国内において特別視されていること、かつて戦争した国から責任を問われていないこと、これを合理的に説明するためには、日本書紀に書かれている内容を一度白紙に戻して考えてみる必要があると思っている。
日本書紀の記事をないものとすれば、これらの事実を最も合理的に説明できる事実は以下のようになるはずである。
1.唐・新羅と敵対した倭国の国家元首は、戦争責任をとらされている。つまり、天智天皇とは別人である。
2.天智天皇の最大の業績は、「倭国」から「日本」へ、日本列島を代表する政権を移したことにある。
3.唐・新羅が天智天皇の「日本」を優遇したのは、白村江の戦いに参加しなかったからである。つまり、白村江以前から、唐・新羅と内通していた。
以下では、これらの仮定が前後の事実関係と矛盾するかしないかを考察してみたい。
5.5.2 白村江以前の日本列島を代表したのは、九州倭国
倭国から日本への政権の移動が起こったと仮定すると、まず解決するのが旧唐書(くとうじょ)の記載である。
唐の国書である旧唐書には、倭国に関する記事と日本国に関する記事が並立している。倭国は、かつての邪馬台国であり、さらに遡って後漢の時代に朝貢した倭奴国である、とされており、一方日本国は、「倭国の別種」とはっきり書かれている。別種の意味は明確でないが、常識的に考えれば、日本列島の中にある別の国ということになるだろう。
さらに、一説として、「日本はもともと小国であったが、倭国を併合した」とある。一説とはいえ、国書に書かれている以上は単なるうわさ話ということは考えにくく、それに類する事実の裏付けがあったと考えるのが自然である。
そして、さきの仮定(白村江の戦いの事後処理により、倭国から日本国に代表政権が移った)を置くと、まさにこの旧唐書の記事はそのまま事実ということになる。そして、敗戦国は国の滅亡という形で戦争責任をとらされることが多いという国際関係の常識にも、非常によく合致するのである。
これらの仮定を否定する材料は一つだけである。それは、「日本書紀にそう書いていない」ということである。逆に言うと、日本書紀(及び日本書紀をベースとして書かれた六国史等)がなければ、旧唐書をもとにこの仮定の方が通説となっているべき、前後の事実関係と非常につじつまの合った仮定なのである。
逆に、日本書紀の制作者の側の事情を考察すると、そもそも書紀の大前提は、「万世一系の天皇家が、日本列島を代表する唯一無二の政権である」ということだから、天皇家以外の政権があったとしても「なかった」と書かなければならない。中国の史書を読めば天皇家ではない政権が歴代王朝に朝貢しているのは明らかなのに、それらの政権については書くことができないのである。
そして、天皇家以外の政権はなかったという前後のつじつまを合わせるためには、前世代の政権(具体的には九州の倭国)から日本列島の支配を奪った天智天皇の最大の業績を、そのまま書くことはできなかった。だから、大化の改新については過大評価するし、後の時代にも特別視されているということではないだろうか。
日本書紀に関してもう一つ不自然なのは、なぜ政治的実権が天武天皇の血統に移ったにもかかわらず、それでもあえて天智天皇の業績が強調されているのかということである。
天武天皇は天智天皇の実弟であると日本書紀には書かれているが、これはきわめて疑わしいとされている。天武天皇の年齢があえて不明とされているどころか、後代の記録によると天武天皇の方が年上なのである。いまでもなく、年齢が上の実弟などということはありえない。
なぜわざわざ、天武天皇を天智天皇の実弟と書かなければならなかったのか。このことも、さきの仮定を置くと、合理的な説明が可能なのである。
5.5.3 「日本」の代表は、なぜ天智天皇の血筋である必要があるのか
天智天皇と天武天皇は実の兄弟ではないとすると、なぜ日本書紀はわざわざ「嘘の系図」を示さなければならなかったのか。このことを考える上で参考になるのは、およそ900年後、琉球王国が明国に対して行った政権移動後の説明である。
琉球を統一した尚巴志(しょう・はし)に始まる第一尚氏の血統は、もともと家臣であった内間金丸(うちま・かなまる)によって滅ぼされる。その際、すでに「中山王(ちゅうざんおう)」として第一尚氏を認めていた明国との摩擦を避けるため、金丸はわざわざ尚円と名乗り、第一尚氏の血縁者として琉球王と認められたのである。
900年後でさえそうなのだから、白村江の時代にはそうした操作がさらに必要とされたであろうという推定が成り立つ。つまり、唐・新羅にとって天智天皇こそが同盟者であるので、その後継者は天智天皇から正当に譲位された王でなければならない。天武天皇もそう思ったから、あえて天智天皇の同母弟で後継者というストーリーにしたのではないか。
そして、なぜ唐・新羅にとって天智天皇が同盟者なのかというと、それはまさに軍事的激突となった白村江以前から、天智天皇が同盟者であったと考えなければ説明がつかない。はっきりいうと、百済・高句麗と同盟して唐・新羅と対抗するという当時の倭国全体の方針に反して、天智天皇が唐・新羅と内通していたということである。
もし、天智天皇が白村江当時の国家元首で最高司令官であるとすれば、その後に壬申の乱で天武天皇系に実権が移動した際、天智天皇の業績を過大に評価する必要はない。なぜなら、唐・新羅にとって、かつて敵対した政権が崩壊したことは喜ぶべきことであって、あえて疑問をさしはさむ必要など一つもないからである。
実は、天武天皇が天智天皇の正当な後継者と主張している日本書紀にも、言わずもがなの記事が書かれている。671年に天智天皇が崩御、翌672年に壬申の乱が起こり、天武天皇が勝って皇位を継承するが、その際、九州まで来た高句麗・亡命政権(高句麗は668年に滅亡している)の使者に対し、天武天皇は変なことを言っている。
大宰府長官より、高句麗の使者に対しこのように伝えた。「天皇は新たに天下を平定された。祝賀使の他にはお会いにならない。このまま、お帰りいただきたい。」(日本書紀・天武天皇 下)
新たに政権を取った天武天皇に対し、祝賀の他に何の目的があって、高句麗の使者はわざわざやって来たのだろう。これも、唐・新羅と親しい天智天皇の政権が倒れたので、新政権に対して高句麗復活に向けた協力の打診を目的としていたと考える以外に、納得できる理由が見当たらないのである。
5.5.4 天皇という称号は、天智天皇以前にはなかった
そもそも、白村江以前に、日本列島の国家元首が「天皇」と名乗ったという証拠は、日本書紀以外に何もない。かつては「倭王」であり、本来なら当然そう名乗っているはずの遣隋使の時点でも、国王アマ・タリシヒコの名乗りは「オオキミ(王)」である。万葉集に載せられている和歌を見ても、天皇と書いてあるのは添え書き(説明文)だけなのである。
鎌倉時代に編纂された「釈日本紀」には、神武天皇から始まる漢風諡号は、淡海三船(おおみのみふね)によるものと書かれている。これには異論もあるが、三船は天智天皇のひ孫だから、少なくとも天智天皇の時代には天皇という名乗りはされていなかったということである。
これらのことから、白村江前後の真相を推理する。まず最初に、百済・高句麗と同盟し、白村江に大軍を派遣した倭国は、九州・倭国(遣隋使のアマ・タリシヒコの国)と関東・毛野国が中心で、大和政権はあまり協力的でなかったということである。
大和朝廷の立場からすると、これは内通というよりも、朝鮮半島の情勢を唐・新羅有利と考えて、白村江以前からそれに向けた対応をしていたということであろう。唐・新羅サイドからみるとこれは願ったり叶ったりである。白村江に進軍した倭国にとって、前も後も敵になるからだ。
当然、新羅を通じて唐にその意向は伝えられていて、唐が朝鮮半島を制圧した後は、半島には新羅、日本列島には大和朝廷という親・唐政権が樹立され、いわば唐の属国となるはずであった。実際にそうならなかったのは、白村江の戦い直後から、唐の内乱が始まったという要因によるところが大きい。
さて、白村江の敗戦により百済は滅亡し、倭国も壊滅的な打撃を受けた。九州に本拠が置かれていた倭国支配層の多くは、戦死したり捕虜になったりしたのではないか。
そして、唐の後ろ盾により全権を把握した天智天皇がまず行ったことは、旧・九州倭国に対しては防衛拠点の整備という大規模な土木工事、旧・関東毛野国に対しては、国境警備という名目の軍隊派遣を命令することであった。
ただでさえ、白村江への人材・物資の派遣(経済的負担)と敗戦による打撃(軍隊の壊滅)により疲弊していた九州・関東は、この追加負担により致命的な打撃を受けることとなる。天智天皇側から言わせれば、「あなた方が進めた戦争なのだから、後始末までちゃんとやってください」ということだったと思われるが、命令される側はたまったものではない。
そしてこのことが、壬申の乱の大きな原因になったのではないかと思っている。結局のところ、天智天皇はやり過ぎたのである。
5.5.5 水城と防人はなぜ九州・関東の負担なのか
いうまでもなく、九州に命じた土木工事とは水城(みずき)など防衛拠点の整備であり、関東に命じた軍隊派遣とは防人(さきもり)である。天智天皇サイドからすると、九州まで唐・新羅が攻めてくる可能性はほとんどないと分かっていたはずだが、国内的にも内通していたことを明らかにできなかったということもあるだろう。
そして、もう一つの戦後処理として、旧百済、高句麗の難民の問題がある。百済・高句麗は敗戦により国土を失ったので、支配層の多くは倭国に逃亡を余儀なくされた。そして、日本書紀にも記載されているし、現代にも高麗川という地名が残っているように、多くは東国、つまり旧・関東毛野国に入植させたのである。
もともと白村江で軍隊が壊滅し、組織的に大和朝廷と対抗することが難しかった九州倭国と関東毛野国は、これ以降歴史の表舞台からは姿を消すことになる。こうして天智天皇は、日本列島を唐の軍事的侵略から守るとともに、近畿の一勢力にすぎなかった大和朝廷を日本唯一の政権として確立することができた。
そして、このことが天智天皇にとって、表向きには書くことのできない大偉業となったのではないか。なぜ書くことができないかったかというと、「万世一系」、つまり天皇家が唯一無二の政権だという建前が一つ、もう一つには本当のことを書けば、白村江の敗戦により多くの犠牲を出した側からみれば「裏切り者」と映ることは避けられないからである。
もちろん当時はマスコミもインターネットもないので、そうしたことを一般庶民が知ることはできなかった。そして、後に日本書紀が編さんされると、これだけが公式かつ記録された事実ということになるのである。
とはいえ、支配層にとっては、そうした事実のあらましは分かっていたと思われる。特に、大和朝廷の中でも旧・倭国に近い人達、つまり九州、関東、さらに百済・高句麗の人脈につながるグループにとって、親しい人達を白村江で見殺しにした上に、戦後処理の名目で多大な人的・物的負担を強制する天智天皇への反感は高まっていたのではないか。
それは次の問題として、これらの事実を暗示的に示しているとみられることがある。天智天皇が都とした大津京は、後継者である大友皇子(弘文天皇)の陵墓があるように、天智天皇とゆかりが深い土地柄である。平安時代になって、ここには三井寺が置かれた。そして、この三井寺に秘仏として祀られているのが、新羅明神(しんらみょうじん)なのである。
新羅明神の新羅は「しんら」と発音するが、これは朝鮮半島における発音(シルラ)を反映したものとされる。もちろん新羅明神を祀ったのは後世のことであり(最澄の弟子の円珍)、唐での修行から帰る円珍を守護したという伝説が残されているが、天智天皇と唐・新羅との関係を暗に示しているのではないか。少なくとも、白村江当時に天智天皇が国家元首であったとすれば、新羅は同盟国百済を滅ぼした敵国のはずなのである。
一方、聖徳太子・蘇我氏と縁の深い法隆寺に祀られているのが、百済観音である。大和の旧支配者層にとっても、より身近だったのは百済であることを示している。そして、大化の改新といわれる政変の最大の意義とは、これを境として、大和朝廷の方針が百済支援から新羅との同盟に舵を切られたことにある、という推定も可能となるのである。
5.5.6 遠の朝廷・九州大宰府
さて、教科書的な歴史では天皇家が万世一系で日本列島の統治者であったはずであるが、これまで説明してきたように、中国の史書や白村江の敗戦処理を常識的に分析すると、天智天皇以前には九州倭国が日本列島を代表する政権であったということになる。改めてその論拠をまとめると以下のようになる。
1.国力を傾けた戦争の時点での国家元首であるはずの天智天皇が、そのままの地位で権力を維持できたというのは疑問である。同盟国の百済・高句麗も、この前後に滅亡している。
2.中国の正史である旧唐書には、唐が成立していた時点で日本列島に「倭国」と「日本国」が並存したと書かれている。しかも、日本国はもともと小国であったが、倭国を併合したとされる。
3.日本書紀には神武天皇以来、「天皇」号が付せられているが、こうした漢風諡号が作られたのは奈良時代で、後の記録では天智天皇の子孫が考えたという。日本書紀以外に、天智天皇以前の大和朝廷支配者が「天皇」を名乗ったという証拠はない。
4.白村江の交戦国である唐・新羅との間で、戦後かなり早くから関係修復がなされている。そして、天智天皇とゆかりの深い大津・三井寺の秘仏は新羅明神である。
さて、これらの論拠は、大和朝廷が白村江以前から日本列島を代表する政権ではなかったことを暗示しているとはいっても、九州に代表政権があったことの直接の証拠とはいえないという反論がありうる。確かに、日本書紀以外の古代史の文献はないので証拠はない(個人的には、中国の史書が九州を示しているのは明らかであると考えるが)。
ただ、奈良平城京以前に、九州大宰府に唐の長安を模した都市があったことは一つの根拠といえるかもしれない。この大宰府は平城京より規模は小さいとはいえ、飛鳥板葺宮(天武天皇の都)より相当大きな都市であった(現在の天満宮・観世音寺から二日市あたりまでを含む)。
そして大宰府政庁は、万葉集で「とおのみかど(遠の朝廷)」と呼ばれているのである。通説では「遠方(九州)にある朝廷」と解するが、「みかど」とはもともと御門、権力者の住まいを示す言葉である。大宰府になってからここに天皇が住んだことはなく、ここを「みかど」と言うかどうかは疑問である。むしろ「かつて(倭国と称していた時代)の朝廷」と理解する方が自然ではないかと考えている。
5.6 壬申の乱再考
5.6.1 壬申の乱の真相
前回まで、白村江の戦い(西暦663年)以前に日本列島を代表する政権は九州に本拠を置く倭国であること、そして、白村江の際に唐・新羅と内通し、戦いに直接参加しなかった天智天皇の大和朝廷=日本が、それ以降、唐・新羅の支援の下で日本列島を代表する政権となったのではないかという仮説を述べてきたところである。
この仮説の裏付けとなるのは、唐の国書である「旧唐書」の記載、それと、古代の国際関係からみて、戦争に敗れた政権がそのまま権力を維持することを敵国が認めるはずがないという常識的な判断である。しかし、これは教科書で教えている日本の古代史とは全く異なる。
ただ、この仮説を採ると、白村江前後の政治的問題以外にも、飛鳥時代から奈良時代にかけての古代史の疑問点がいくつか解決されることも確かである。
例えば、西暦592年に起こった祟峻天皇暗殺事件。これは、ときの最高権力者であるはずの天皇を、臣下である蘇我馬子が首謀者となって暗殺した事件である。そして、なんと暗殺事件の後、馬子は推古天皇、摂政・聖徳太子の下、大臣(おおおみ)として実権を掌握するのである(ちなみに、馬子が首謀者であることは日本書紀に書かれており、この点には争いがない)。
この時点で大和朝廷が代表政権であり、祟峻天皇が最高権力者であったならば、これは「国家の転覆」を図るものであり、暗殺の首謀者が次の政権で重用されることは考えられない。ところが、地方政権の内輪もめであると考えれば、感覚としてはしばらく後に平将門が関東で国司を追放したのとよく似ていることになる。
将門は最終的に新皇を名乗り中央に反抗したので討伐されたが、その時点では現状追認の動きもあったのである。同様に、地方政権の内輪もめと周りが認めてくれて、実際に混乱なく治まっているのであれば、「中央政権」が現状追認したとしてもおかしくはない。少なくとも、国家の代表者を暗殺した犯人がそのまま権力中枢に居座るというよりもかなり現実的である。
そして、その仮説が正しいとすれば、その性格が相当に違ってきてしまうのが壬申の乱である。教科書が教える壬申の乱とは以下のとおりとなる。
西暦671年、天智天皇の崩御により、大津宮の大友皇子と吉野宮の大海人皇子の対立が深まった。大友皇子は吉野に進撃を試みるが、大海人皇子はこれを逃れ、軍を整備して逆に大津宮へ攻め上り、両軍は尾張・近江国境付近で交戦した。これに大海人皇子は勝利し、天武天皇として即位した。大友皇子は敗死した。
日本書紀には概略このように書かれているが、天智天皇が亡くなってから天武天皇が即位するまでの間、誰も天皇でないのはおかしいということになり、千数百年後の明治時代になって大友皇子が弘文天皇と呼ばれることになったのはご存知のとおり。ただ、真相としてはおそらく天皇位の空白など、当時は誰も気にしていなかったはずである。
そもそも大和朝廷が権力を掌握したのがつい7、8年前のことであるならば、そのままの形で1400年続くことなど、現代ならば結果として分かっているものの、当時は誰も想像すらしていなかったと考える方がずっと常識的である。
では、実際には壬申の乱の真相はどういうものだったのだろうか。次回以降考えてみることにしたい。
5.6.2 日本書紀における壬申の乱直前の状況説明は信用できない
壬申の乱について書かれているほとんど唯一の史料は、日本書紀の天武天皇紀(上)である。何度も繰り返すが、日本書紀は大和朝廷以外に日本列島には政権はなかったという建て前で一貫して書かれているので、どこが本当のことでどこが創作なのかを区別して読む必要がある。正直なところ、過去の日本書紀論はこの点の踏み込みが不十分なのである。
さて、そうした観点から日本書紀を再検討すると、その背景を書紀では説明していないか、説明してあっても全く納得できない(おそらく一部は事実であり、一部は事実でない)事柄として、例えば以下の点を上げることができる。
ア. 天智天皇は、前代の斉明天皇が亡くなった西暦662年以降即位せずに政務をとり(天智称制)、668年1月に即位した。
太平洋戦争に匹敵するヒト・モノ・カネを掛けた国家の一大事である白村江の戦い(663年)時点で、正式な国家元首も軍最高司令官もいないことなどありえない。少なくとも、敵国(戦勝国)はそれでは許してくれない。この事実を常識的に説明できる理由は、天智天皇は白村江の敗戦を受けて、この時点で国家元首となったということ以外に考えられない。
イ. 天武天皇は天智天皇の同母弟で、天智天皇即位とともに東宮(次期天皇)となった。
天武天皇は、正妃の莵野皇女(うののひめみこ、後に持統天皇となる。神田うのの名前の出典であることでも有名)はじめ、天智天皇の娘を4人も妻に迎えており、同母兄弟とは考えにくい。また、天智天皇自身に大友皇子(弘文天皇)はじめ何人も男子がいるのに、わざわざ弟を後継者に指名するのも疑問である。
従って、日本書紀の以上の記事は、建て前を守るための創作である可能性がきわめて大きい。だから、壬申の乱直前の状況として、確からしいと認められるのは以下の点くらいである。
@ 西暦668年の時点で、天智天皇が大和朝廷の代表となった。
(この年、高句麗が滅亡して新羅が朝鮮半島を統一。また、この時点で唐軍が九州に駐留していることを勘案すると、ここで大和朝廷が対外的に日本列島を代表する政権となったと考えられる。)
A 政権内部で天智天皇に次ぐ実力者としては、天皇の子である大友皇子(弘文天皇)と、弟とされる大海人皇子(天武天皇)がいた。
(天智天皇と大海人皇子が実際にどのような血縁関係であったかは不明。ただし、いくつかのヒントがあるので後で考察する。いずれにしても、この2勢力は、婚姻関係で何重にも関係を強化しており、政権内の実力者であったことは間違いない。)
B 国力のすべてを注ぎ込んだ白村江の敗戦と、唐軍の進駐、土木工事(水城)や軍役の強制(防人)が重なり、日本列島の人々は相当な負担にさらされていた。
(これは、書紀の記事を読むだけでも確かだし、戦争に負けたらこうなることは避けられない。)
こうした中、正式に即位してからわずか4年、天智天皇が崩御される。後の史料に暗殺説も出ているくらいで、不穏な情勢の下での死去であったことは間違いない(これも何度もくり返すが、天智天皇の在位中に特筆すべき業績はない)。間髪を入れず、近江の大友皇子と吉野の大海人皇子の対立が激化する。
普通に考えれば、これは後継者争いということになる。
5.6.3 大海人皇子の進路は、家康の本能寺直後とほとんど同じ
天智天皇の死後、激しく対立することとなった大友皇子と大海人皇子。結果として大海人皇子が勝利することになるのだが、争いの当初はむしろ大友皇子が優勢だったとみられる。というのは、大友皇子が吉野を攻撃する際に、大海人皇子が吉野から伊賀を経由して尾張へ逃れたことが記録されているからである。
672年5月、近江の大友皇子が挙兵の気配を示し、吉野に向けての街道筋に斥候を配しているのを確認した大海人皇子は、このように号令した。「近江方は、我々を攻撃しようとしている。黙って滅ぼされる訳にはいかない。早急に美濃へ向かい、挙兵して不破関を封鎖せよ」そして、自らも東国へ入ることを決断した。日本書紀・天武天皇紀上
大友皇子は今でいえば、東海道線で大津から京都、さらに近鉄で奈良方面への進出を図ったことになる。一方の大海人皇子は大友皇子が奈良県に入る前に、大和八木から近鉄名古屋線で逃げたということである。不破関は近畿から東国への出入り口に当たり、ちょうど関が原付近になる。
この大海人皇子の進路は、およそ900年後の本能寺の変に際し、徳川家康が堺から三河へと少人数で命からがら逃亡した経路とほとんど同じである。つまり、大海人皇子の状況分析としては、後の徳川家康と同様、畿内は敵側の勢力範囲であり、ひとまず安全な東国に向かう以外に方法はない、ということであったと思われる。
壬申の乱の経過をきわめて大雑把にまとめると、奈良方面へ進出した大友軍を大海人軍が持ちこたえている間に、大海人軍の本隊が名古屋から大津へと反転攻勢をかけて大友軍を撃破し、大友皇子は敗れて自殺することになる。つまり大海人軍の主力は、東国にいたということである。この点も、後の家康と重なる。
つまり、天智天皇の死後、その路線をそのまま継承するはずであった大友皇子に、東国は味方しなかった。政治的には、東国は大海人皇子を支援していたということである。
この時代、九州の防備に防人(さきもり)を派遣している一大勢力は関東であり、これまで述べてきたように、関東毛野国は白村江以前には九州倭国に次ぐ勢力であったと思われる。その関東を含む東国を、大海人皇子は安全圏とみなしていたということになる。もちろん、天智天皇が政権を持っていた時代から、より関東に近い政治的立場にいたということであろう。
一方、近畿より西はどうなっていたかというと、こちらについても日本書紀に興味深い記事が書かれている。大友皇子が大海人皇子挙兵の一報を受けて、中国・九州に向けて使者を派遣するのだが、その際の経緯について以下のように述べられているのである。
5.6.4 中国と九州も大友皇子=天智後継政権に味方しなかった
大海人皇子が吉野から尾張へと近鉄名古屋線に乗って逃れたことを知った大津の大友皇子は、奈良方面に加えて東国への攻勢を強めるとともに、背後の吉備(中国)、筑紫(九州)に向けて援軍を命令した。その際、伝令として吉備に向かった樟使主磐手(くすのおみ・いわて)と筑紫に向かった佐伯連男(さへきのむらじ・をとこ)に、皇子はこのように命じたと日本書紀に書かれている。
「吉備・筑紫はもともと大海人皇子と親しい。もし命令を聞かないのであれば、その場で討ち果たせ。」日本書紀・天武天皇紀上
そして実際に、援軍を渋った吉備は討たれてしまう。しかし筑紫の栗隈王(くるくまのおおきみ)は、護衛を従えて不意打ちに十分に注意するとともに、このように回答して援軍を断ったのである。
「この筑紫の軍隊は、外敵に備えるために置かれているのであって、内乱に備えるためではありません。もしここで私が軍を動かした結果、国の防備ができず外敵の侵入を許したとしたら、その時になって私が何回死罪となったとしても取り返しがつきません。援軍要請には従うことはできません。」出典同じ
この栗隈王は、白村江敗戦後に筑紫率(ちくしのかみ)に任命されているので、大和朝廷が台頭した後の新勢力ということになる。また、この王は奈良時代の重臣である橘諸兄の祖父にあたる。もちろん、この援軍拒否(間接的に、大海人皇子の応援)の功績が認められたものである。
余談であるが、この栗隈王をはじめ、飛鳥時代から奈良時代前期にかけての登場人物の系図は、あまりはっきりしないものがいくつかある。栗隈王の出自も、日本書紀そのものには書かれていない(後の記録に敏達天皇の子孫とある)。おそらく、そうした人物は、表立って日本書紀に書くことができなかった九州、関東系統に連なる有力者ではなかっただろうか。
もし栗隈王が敏達天皇の子孫だとすれば、天智天皇〜大友皇子とはかなり近い血縁関係になるので、最初から、「彼らは大海人と親しいので逆らうなら殺せ」と言われてしまうような間柄ではないはずなのである(推古天皇の死後、敏達天皇系統と用命天皇系統の間で、皇位継承の争いがあった)。
壬申の乱に話を戻すと、近畿圏を押さえていた大友皇子に対し、大海人皇子は東国(主として関東)の軍事により対抗することを意図して東国に逃れ、中国・九州も大海人皇子支援の意思を明確にしたということである。そして次の段階では、大海人軍が関が原を越えて近江に進軍し、大友軍が敗北するという結果となる。
このあたりの経緯を最も常識的に判断するならば、白村江の敗戦を契機に、唐・新羅の後ろ盾の下に成立した大和朝廷=天智天皇系の覇権に対し、旧勢力である関東及び九州が“NO”の意思表示をしたということではないだろうか。その直接の要因は水城・防人といった敗戦による負担の増大であるが、心情的には白村江で多くの人々を見殺しにしたことへの反感があったのではないかと思われる。
そうした背景を考えると、栗隈王の援軍拒否の理由は意味深長である。表向きの意味の他に、「国境警備を命じたのはあなた方ではないか」「われわれの真の敵は海の向こうにいるのであって、こちら側ではない」という裏の意味が窺える言い分ではないか。そして、この言葉を発した栗隈王〜天武天皇の出自もある程度推察できる。旧宗主国である九州倭国にきわめて近い勢力であると考えられる。
5.6.5 宇佐八幡の重視からみる天武皇統と九州の関係
大海人皇子が天智天皇直系の大友皇子を自殺に追い込むことによって、壬申の乱は決着することになったが、対外的にはそのまま公表することは難しかったはずである。というのは、唐の後ろ盾のもとすでに新羅による朝鮮半島統一が確立しており、今となっては反新羅・百済復興を主張したところで何も得るものはないからである。
そこで大海人皇子サイドとしては、対外的にはこれまでの路線を継承するとしたのではないだろうか。具体的には、「私は天智天皇の実弟であり、以前から後継者に指名されておりました」「天智天皇の死後、後継者を巡る争いがありましたが、従来決められていたとおりに決着いたしました」と、外向けには公表したのである。
つまりこれが、日本書紀にそう書かなければならなかった真相であろう。実際には、天智天皇後継には大友皇子が指名されていたはずだし(だから明治時代になって弘文天皇として歴代に加えられた)、大海人皇子は正式な後継者ではなかった。まさに、後の時代になって、琉球第二尚氏が明に報告したのと同じやり方なのである。
だから、天武天皇(大海人皇子)が天智天皇の同母弟であるというのは日本書紀の建て前であって、事実とは考えにくい。後の時代の史書に天武天皇の方が年上という記録がある上、天智天皇が4人もの娘を天武天皇の妃としていることからも、そのことは推定できる。
それでは、天武天皇とはどういう背景を持つ人物だったのだろうか。そのことを考察する上で重要であるのは、壬申の乱から約100年経過した、奈良時代末の混乱の際の対応である。
天武天皇の皇統は、聖武天皇の時代に絶頂期を迎える(この時代に、東大寺の大仏が完成)。しかし、その娘である高野天皇(たかののすめらみこと、孝謙・称徳天皇)をもってこの皇統は断絶する。その際、天皇は全く血縁関係のない道鏡法王を後継者に指名しようとするが、ここで舞台となったのが宇佐八幡宮である。
八幡神とは、応神天皇(ホムダ王)のご神霊であるとされる。応神天皇自身、その子である仁徳天皇(オオサザキ王)に比べると、畿内政権に親しい天皇ではない(古事記における記事の量が全然違う)。
確かに、天智天皇も天武天皇も、応神天皇の子孫ではあっても、仁徳天皇の直系の子孫ではないという理由付けは可能である(仁徳皇統は武烈天皇までで断絶)。しかし、この事件の後、宇佐八幡宮が歴史の表舞台に登場しないのはなぜなのか。平安時代以降は、八幡宮といえば、平安京近郊の石清水八幡宮か、鎌倉の鶴岡八幡宮なのである。
つまり、天武皇統にとって九州宇佐というのはきわめて重要な八幡宮であるけれども、天智皇統にとってはそうではない、ということになるのではないか。
5.6.6 天皇位とはそもそも何だったか
現代のわれわれにとって、天皇位を考える上で暗黙の前提となっているのは、「少なくとも千数百年以上にわたり、父系相続により受け継がれてきた由緒ある位である」ということである。しかし考えてみれば、奈良時代末にこの前提が同様に受け入れられていたかどうかは定かではない。
天武天皇の時代からは約100年、仁徳天皇(オオサザキ王)の時代からとしても約300年、いずれにせよ現代から考えるほど天皇の位は絶対不可侵ではなかった可能性がある。いわば、鎌倉幕府から江戸幕府くらいのスパンであり、そう考えれば血縁のない道鏡に譲位しようとした高野天皇の構想そのものは、坂本竜馬による新政府構想と大して変わらないものだったのかもしれない。
そもそも天皇位は、「畿内政権における最大資産家の財産承継者」であったのではないかと考えている。それに、天智天皇以来、日本列島を代表する政権として「全国から租税を収納する権利」が加わった。この2つの要素はそもそも別物で、後者を声高に主張するのは東大寺建設にあたっての聖武天皇の詔くらいからである。
だから、高野天皇(このときは孝謙天皇)も、恵美押勝(藤原仲麻呂)に後者の権利を与えた。それは、天皇位の本質(皇室財産の継承者)とは別だったからではないか。そう考えると、推古天皇以来女帝が相次いだ理由もある程度推測できる。実際に戦争したり政治的判断を下したりする必要があればともかく、そうでないならば財産継承者が必ずしも男性である必要はないのである。
財産をマネージメントするのが女性であっても、あまり不都合は生じない。というよりは、夫が亡くなった場合の財産の継承は、最初から子供世代に行くのではなく、ひとまず妻に行われるのが現代でも普通である。飛鳥時代〜奈良時代の皇位継承は、そうした要素が大きかったのではないかと考える。
そうした皇位継承の背景にあったのは、もともと畿内政権の支配者には「租税収納権」がなかったということではないだろうか。
この連載で述べてきたように、天智天皇以前には大和朝廷は代表政権ではなく(代表は九州倭国)、それが大和朝廷となったのは奈良時代以降であると考えれば、そういう結論に達する。地方からの納税について、直接の証拠が残っているのは奈良時代からである。地方からの物資が集積するため、初めて平城京のような巨大都市が必要となったのである。
そして、「天皇位」の根拠となる継承財産のそもそものいわれは、九州倭国が近畿に遠征した際の、現地司令部(いわば傀儡政権)であったことにあるのではないか。そう考えれば、現地政権の初代である仁徳天皇(オオサザキ王)の伝説が多いのも納得できるし、何かあれば九州の父・応神天皇(宇佐八幡!)にお伺いを立てるというのも、畿内政権から大和朝廷に伝わるDNAだったとも考えられるのである。
日本古代史の真相
6.1. 古代日本史へのアプローチ 〜経済的側面から考える
これまで、8世紀初めまでの日本古代史の各論について検討してきた。教科書の教える歴史は、まず大和朝廷が列島を統一して、それから中国・朝鮮半島との交渉があり、大化の改新から壬申の乱を経て、奈良平城京の完成をもって律令国家が完成したというものであるが、この展開にはかなりの無理がある。
何度も繰り返しになるが、当時の中国史書の内容と一致しないし、根拠とされる日本書紀の記載にも矛盾がある。古事記・日本書紀以前の史料は、大化の改新の際に蘇我氏滅亡とともに焼失したとされるが、それほど大事なものにコピー(写本)もなかったというのは考えてみれば妙な話である。
したがって、日本古代の真相は、そうした教科書的ストーリーとは違ったアプローチから構築されるべきであると考えている。
その出発点となるのは、まず古代における日本列島の経済的背景ではないかと思う。大和朝廷が何世紀に列島を統一したという証拠はないけれども、仮に6〜7世紀の日本列島の人口が2百万人であったとすれば、2百万人が食べていけるだけの生産高があったこと、すなわち、農業と水産業で2百万人分のGDPを稼いでいたことだけは間違いないのである。
さて、現代日本の人口は約1億2千万人であり、江戸時代の全人口は約2千万人とされている。明治以降約100年で人口は6倍増となったことになるが、この人口急増を支えたのは、明治以降の工業化である。当初は繊維工業、次に鉄鋼業、さらに電気・電子機器、自動車産業が日本のGDPを増大させ、多くの人口を養うことを可能にした。
それ以前、明治以降に匹敵する人口急増期は、弥生時代〜古墳時代であった。この時期、大陸からの稲作技術の導入により農業生産が拡大し、日本列島の人口は数十万人から約2百万人へ、100〜200年の間に4〜5倍増となったと考えられる。工業と農業の違いはあるものの、やはりGDPの増大が、人口の増加に結びついたのである。
そして、この人口急増期の狭間、弥生時代から江戸時代にかけては、千数百年間で2百万人から2千万人まで人口が増加している(10倍は大きく見えるが、100年あたりにすると平均1.2〜1.3倍の増加)。この要因は、金属器の普及=農具の改善による生産性の向上と、新田の開発である。
その担い手となったのが武装農民であり、後に武士へと成長していく階層である。武士が貴族(荘園領主)を凌駕していくこの時代は、いわば2百万人を食べさせていた産業を、新興産業が徐々に追い越して行き、最後には2百万対1千8百万になっていく過程と考えると分かりやすい。
話を戻してまず古代である。わが国に人口が数十万から2百万人に増えた弥生時代、日本列島の状況は統一国家に向かうものであったのかどうか。
6.2. 国家を形成するモチベーション
この連載のはじめで述べたように、統一国家は「他の国を征服したい」という動機だけで作られるものではない。もちろん、そういう動機で征服活動を始めた王はいただろうが、少なくとも1年以上の長期にわたり占領を続けるためには、収穫物の収奪(納税)システムと、物資の輸送・軍隊の派遣のための交通網がなければならない。
常識的に考えれば分かるが、余剰生産物のない所を征服したとしても、得るものはほとんどない。奴隷(労働力)として収奪したとしても、彼らに食べさせるものがなければ労働力として機能しないのである。そして、余剰生産物がなければ、貯蓄もない。強奪すべき収穫物も、占拠する建造物もないのである。
だから、一人の王のもとに、国として一定規模の版図が成立するためには、そこにある程度の余剰収穫物があって、その余剰部分を集中し再分配するシステムが必要である。ということは、弥生時代以前の日本列島には統一国家が成立する可能性はほとんどないということになる。
すべての人がぎりぎり食べていくだけの経済力しかなければ、人口も増えないし、軍隊も整備できない。仮に軍隊を組織して他国の占領を目指したところで、どこに攻めて行ったところでみんな「食うや食わず」の経済水準であれば、その国はぎりぎり生活できるだけの人だけで構成されることになる。征服者にとって、あまり魅力的とはいえない。
弥生時代に入り、中国・朝鮮半島を経由して大規模な稲作農業が日本列島でも行われるようになった。同時に、金属器(鉄製品、銅製品)と製作技術、すなわち鉱工業が始まった。金属器の使用は農業生産力を大きく拡大したので、ここでGDPが飛躍的に増大したと考えられる。
このGDPの拡大により、日本列島ではようやく余剰生産物を安定的に確保することが可能となった。具体的には、10人の労働により10人分以上の、20人30人分の生産を行うことが可能となったということである。余剰生産物は貯えられたり、他の地域の特産物(水産業、鉱工業生産物)と交換されたりして、中長期的には人口の増加を可能としたであろう。
弥生人の生活はこうして豊かになったが、逆にこの時点で、他国からすると征服するメリットができてしまったことになる。隣の村に貯えがあれば、征服することにより自分たちの貯えを増やすことができるし、余剰生産物を食べさせることにより、奴隷として使役することも、軍隊を組織することも可能となる。
つまり、弥生時代に続く古墳時代というのは、そういう時代だったと考えられるのである。
6.3. 2世紀の日本列島で最大勢力は出雲
西暦57年に倭奴国が後漢に朝貢し金印を下賜されたのは、逆に考えればその時代まで日本列島には、先進国である中国に使節を派遣できるような国力がなかったということである。その倭奴国が九州北部であるのは、九州が日本列島で最も早く、大陸の先進文化を吸収できたという地理的要因で説明できる。
その後2世紀になると、「倭国は大きく乱れた」と中国の史書にある。折りしも、弥生時代のさなかである。各地域において余剰生産物を巡って、征服〜支配の関係が生じてきたと考えられる。1世紀には九州北部に限られていた金属器の普及地域が徐々に広がり、生産性が向上し余剰生産できる地域が多くなったということである。
この時代、きちんとした道路を作るだけの余力はどこの地域にもなかったはずで、主な輸送手段は海路であった。ということは、九州北部にまず伝わった大陸文化が、ここから日本海沿岸、九州西岸・東岸、そして瀬戸内海と、船による輸送によって日本列島に広まったと考えられる。
イメージとしてはペルシャ湾沿岸からアラビア半島にかけて、油田のある海岸部に沿ってクウェート、サウジアラビア、バーレーン、UAE、オマーン、イエメンと各国が並んでいるように、古代日本列島においても物資の輸送が容易である海岸部に沿って、小国家が並存していたのではないか。繰り返しになるが、余剰生産力のない地域(内陸部)に領土を拡大しても、あまり意味がないのである。
そして2世紀の日本列島において、最大の勢力を持っていた地域は出雲だったのではないか。
というのは日本神話において、オオクニヌシの出雲が治めていた日本列島を、アマテラスの孫であるニニギノミコトが降臨して「国譲り」を受けたことになっており、これはおそらく歴史的な事実を背景としたものと思われるからである。3世紀の邪馬台国から7世紀初めのアマ・タリシヒコまで、中国側では同じ国が朝貢したとみなしており、それ以前で有力国家が成立しうる時期となると、2世紀が最も有力である。
山陰地方は現在、東京から行くのに最も不便な地域の一つであり、先進地域というイメージはないかもしれないが、中国・朝鮮半島から海路ということになれば、九州北部に次いで日本列島の中では便のいい地域である。
そして、弥生時代最大の遺跡の一つである出雲・荒神谷遺跡からは358本もの銅剣がまとまって出土している。銅剣が実際に武器として使用されたかどうかはともかく、この時代に銅は輸入品しかなかったはずなので、弥生時代の出雲が相当の経済力を有していたことは間違いない。
その経済力の背景となったのは、おそらく鉄製品と考えられる。鉄製品は錆びてしまうので、古代のものがそのまま出土することはほとんどないが、この地域では砂鉄が産出されることから、かなり古い時代から鉄製品を製造していたと考えられている。鉄製品は武器にもなれば、農具にもなる。
おそらく、最初は輸入鉄製品の模倣から始まり、徐々に国産化が可能となったのであろう。鉄鉱石から鉄製品にするのはそれなりに技術が必要だが、砂鉄を鉄製品にするのは比較的容易である。鉄製品の国産化は、さらに農業生産性を向上させ、日本列島のGDPを増大させたと考えられる。
出雲は鉄製品というベンチャー産業によって、日本列島の最先端地域となったのである。
6.4 神無月はなぜ10月か 〜 出雲が日本列島の中心であった時代
陰暦の10月を神無月(かんなづき)と言うが、出雲ではこの月を「神有月(かみありつき)」と呼ぶ。全国の神様がみんな出雲に集ってしまうので、出雲以外では神「無」月と称するという説があるが、「な」は現代の「の」に当たる助詞で「神の月」を意味するという説もある。陰暦6月は水無月(みなつき)と呼ぶけれど雨量が少ない訳ではないことからすると、おそらく後者の方が正しいようだ。
神無月の意味が「神の月」であったとしても、神様が出雲に集まった月であるという伝承を否定するものではない。そして、そういう歴史的事実は、実際にあったのではないかと考えている。つまり、収穫が終わり寒くなる前に、日本全国から出雲へ、鉄製品を求める人々が集まってきたのではないだろうか。
鉄製農具を使うことにより農業生産性が格段に向上したことは間違いないので、余剰収穫物が生じた地域は、それにより生産設備としての鉄製品を求めただろう。また、購買力を持った人が集まる地域には、他にも地域の特産物(織物や海産物、黒曜石などが当時でも広く交易されたらしい)を交換しようとする人々が集まってきたはずである。
自らは鉄製品という先端工業品を持ち、商取引の中心地にもなった出雲は、日本列島でも随一の経済力を持つ地域となったのである。荒神谷から出土した銅剣は、武器と考えると意味がよく分からないが、これを貨幣と考えると、当時の権力者が鉄製品の製造販売や、市場の提供(特産物交換の“場所代”)により蓄積した財産ではないかという推定が可能となる。
このことは古墳時代の他の銅製品、関西圏の銅鐸や九州圏の銅矛についても同様であるが、これらは後の時代の貨幣、つまり交換可能な購買力と考えるのが妥当ではないか。
つまり、後の時代には個人個人が銅銭を持って市場で商品を購入することになるが、2〜3世紀にそれができるのは「国」単位である。だとすれば、銅銭よりも大きな銅製品「銅剣」「銅鐸」「銅矛」が貨幣であったと考えてもおかしくない。銅は当時最も価値の高い金属であったし、「銅剣」「銅鐸」等にすれば秤量も容易になる(見た目で重さの見当がつく)メリットもあったと思われる。
さて、話は戻るがこの時代に、多くの国々にとって収穫は年一回だから、その収穫後の陰暦10月あたりに、出雲で大規模な交易が行われた。そうした伝承が、出雲に年一回神々が集まるという神話となって後の時代に受け継がれたのではなかろうか。
いまでも出雲大社の正殿の周囲には、全国の神々が集まってきて滞在するとされる建物がある。はるか昔の2世紀に、全国から人々が集まってきた名残りだと考えると、壮大なロマンである(当時の「国」は海岸に沿って展開していたと考えられるので、おそらく船を使って移動したものと思われる)。
ちなみに、古代の製鉄法とされるたたら製鉄は、砂鉄や鉄を多く含む鉱石(磁鉄鉱など)を原料として、高温に熱して叩き、不純物を除いた後に成形したらしい。このたたら製鉄が伝承されていたのは、出雲近郊の島根県安来地区である。日本列島最初のベンチャーである製鉄業が出雲でスタートしたという仮説と、非常にリンクしているのである。
そして、いったん入手した鉄製品を違う形に成型したり、壊れたものを修理するのは、最初に原料から作るのに比べて低い温度で可能だし、技術的にも難しくはない。だから、そうした二次加工は日本全国で行われたと考えられる(吉野ヶ里遺跡にもそうした施設と思われるものがある)。
そうした二次加工で製作されたものは、おそらく農機具や生活用品だけではなく、鉄剣や鉄の鏃(やじり)、つまり武器としての鉄製品が含まれていただろう。出雲のベンチャー産業であった鉄製品が全国に広まり、これが武器として成型し直されたことによって、近隣国への侵略、つまり「倭国大乱」につながったのではないか。
6.5 国譲り神話の元となった事件とは
日本神話が伝えるところ、古代出雲の覇権を大和朝廷が奪ったのは「国譲り」による平和裏な政権移行であったという。天上のアマテラスの孫にあたるニニギが、日本列島を治めよとの命をうけて地上に降り立ち(天孫降臨)、部下であるタケミカヅチが稲佐浜(いなさはま)において国譲りの折衝をしたと伝えられる(「いなさ」はYes or Noの意味である)。
この際、出雲の王であるオオクニヌシは、子であるコトシロヌシとタケミナカタが応じるのであれば自分は異存はない、と回答した。コトシロヌシとタケミナカタは紆余曲折あったがこれに同意したので、オオクニヌシは自分のために大きな社(出雲大社)を建てることを条件に、ニニギに統治権を譲って身を引いたとされる。
さて、以上が日本神話の伝えるところであるが、中国史書の中で、日本列島において話し合いで政権が移行したことを暗示する記事は一つしかない。魏志倭人伝の示す、次の事件である。
倭国乱相攻伐歴年、乃共立一女子為王。名曰卑弥呼。
倭国は乱れ、互いに攻撃し合うこと長きにおよび、共に一人の女王を立てることとした。その名を卑弥呼という。
卑弥呼擁立に際し、戦いに疲れた各国は、「共に一女子を立て」王とすることとした。つまり、武力による決着ではなく、話し合いで決めたのである。古代日本において、話し合いによる政権移行が図られたとみなせるのは、この事件だけである。
後の時代の倭の五王は、「祖先は自ら甲冑をまとい休む間もなく」他国を侵略したと誇らかに宣言している。また、隋に使者を送ったアマ・タリシヒコは、天子すなわち先祖代々の王者であると名乗っている。いずれも、話し合いにより権力を握った訳ではない。それ以降も、日本列島の権力者が、武力ではなく話し合いで決まった例など、明治時代まで下らなければ見出すことはできない。
むしろ、近代以前においては、話し合いで権力者を決めることの方が異例といっていい。そして、その事例が、中国の史書と日本の神話のいずれにも登場しており、しかも年代的にも近い。だとすれば、話し合いによる卑弥呼擁立が、オオクニヌシからニニギへの国譲り神話の元になった事件と考えるのは、決して突飛な発想ではない。
6.6 九州の覇権
2世紀末に卑弥呼が擁立されてから、7世紀の白村江まで、日本列島の覇権はずっと九州にあったと考える。
以前述べたように、魏志倭人伝の「郡至女王国万二千余里」(帯方郡から女王国まで一万二千里余りである)という記載を否定しない限り、陸行だろうが海行だろうが、邪馬台国は九州北部にしかならない。その後の倭の五王、アマ・タリシヒコいずれも邪馬台国の後継というのが中国側の認識であり、だいいちアマ・タリシヒコの国には阿蘇山があるのだ。
それでは、倭の五王が主張するところの侵略した他国とはどこなのだろうか。これは、おそらく農業生産力の向上(金属器の普及)により3世紀以降に国力を増した「卑弥呼連合」以外の国ではなかったかと考える。その中のいくつかは武力で対抗しようとしたが、その代表格が近畿であり、関東だったのではないだろうか。
イワレヒコ=神武天皇の東征は、常識的に考えると九州政権による近畿への派兵である。イワレヒコが、近畿政権の防衛線である速吸の門(はやすいのと:豊予海峡といわれているが、私は鳴戸海峡か来島海峡だと考えている。海流が急で船団の展開が困難な場所だからである)を突破し、大和盆地を攻略した。そのやり方も「撃ちてし止まん」(皆殺し)である。
まさに、倭の五王が高らかに宣言した、「毛人を制すること五十五国」の世界である。平安時代になっても、後の大和朝廷の人々は東北アイヌの棟梁であるアテルイを講和のふりをして殺しているし、さらに下って江戸時代には北海道アイヌのシャクシャインが松前藩にだまし討ちにされている。イワレヒコ=神武天皇の東征と、かなりの共通点がある。
ただし、この五十五という国数は、西の六十六、北の九十五と比べると少ない。これは、日本列島東部が当時それほど開けてはおらず、人口密度も低かったことを示していると考えられる。関東・毛野国あたりになると、狩猟を主な産業とする蝦夷=アイヌの国とそれほど差はなかったのではないだろうか。
さて、いったんは派兵して占領し現地司令官を置いた近畿地区だが、そのうちに現地勢力の巻き返しがある。統治する側にも後継者争いや内輪もめがあって、次第に本国=九州とは疎遠になっていく。そのあたりは鎌倉幕府が、最初は源氏将軍だったはずなのに、藤原将軍になり宮将軍になり、結局は執権の北条氏が実権を握ったようなイメージであろう。
九州から近畿への派兵と占領、現地司令官の派遣は、イワレヒコ=神武天皇の時と、ホムダ=応神天皇の時と、二度あったのではないかと思われる。おそらく、前者が3世紀、後者が4世紀頃のことと考えられる(これが、古事記の中巻と下巻の区分のもとになった)。その間、日本列島を代表して朝鮮半島にたびたび派兵し、中国と交渉していたのは九州倭国政権であった。
近畿=大和朝廷はこの時代まだ倭国の地方政権であり、後方支援の役割を担っていたと考えられるのである。
6.7 九州から大和へ
九州倭国は3世紀以降7世紀の白村江に至るまで、常に朝鮮半島への派兵を行ってきた。このことは広開土王碑文や、倭の五王から中国への依頼(新羅・百済等の将軍として任命するよう求めた)により裏付けられる。
この時代、巨大古墳のほとんどは大和・河内地区に集中しているが、このことを日本列島統一の証拠とする説が多い(歴史教科書もほぼこの論調で作られている)。だがおそらく実際には、九州倭国は国力のほとんどを朝鮮半島派兵に費やしてしまい、巨大古墳を作る余力がなかったというのが本当のところではないだろうか。
戦争と建設のどちらがよりGDPを必要とするかというと、それぞれの規模にもよるが、やはり戦争ではないかと思われる。この時代、古墳の建設はほとんどが土木工事であり、労働力とある程度の機材があれば可能なのに対し、戦争には輸送手段(船)、武器、食料および労働力が必要である。
そして戦争の場合、戦死という犠牲が生じる。これは単に戦力のマイナスというだけではなく、生産力のマイナスにもつながる。戦死者が増えれば、将来何年かのGDPは必ず減少する。言葉を変えると、再び新たな世代が生産年齢に達するまで、低成長を余儀なくされるということである。
だから、近畿に古墳が多いというのは、この地に中央集権的に権力が集中していたからというよりも、むしろ九州が朝鮮半島に進出を図っている間に、地方独自の財源(生産余力)によって建設されたとみるのが妥当である。日本列島の代表政権には、朝鮮半島の利権を奪還するという最優先課題があったはずなのに、古墳を作っているヒマがあったということは、逆にいうと中央とのつながりの薄い地方政権であったということである。
現代の感覚だと、九州と近畿は同じ政権が治めていて当然と考えがちであるが、源平の時代にも、南北朝・室町の時代にも、さらに戦国時代に至っても、近畿政権は九州を円満に治めていた訳ではない。ましてや古代に、近畿と九州が簡単に統一政権を作れたとは思われない。
これは、現代のわれわれが考えるよりはるかに、瀬戸内海の交通が安全・円滑なものではなかったことによるのではないだろうか。応神・仁徳時代の大遠征(私はこれが、倭王武による遠征ではないかと考えている)のような大規模なものを除けば、九州と近畿間のヒト・モノの交流というのはそれほど頻繁ではなく、九州軍団が引き上げた後、近畿の在来勢力が巻き返すことができたのではないかと考えるのである。
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