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(回答先: 試驗投稿 投稿者 不動明 日時 2011 年 8 月 10 日 16:14:16)
磐戸しめの始めはナギ(伊邪那岐命)ナミ(伊邪那美命)の命の時であるぞ、
ナミのbが火のbを生んで黄泉國に入られたのが、そもそもであるぞ、
十の卵を八つ生んで二つ殘して行かれたのであるぞ、
十二の卵を十生んだことにもなるのであるぞ、
五つの卵を四つ生んだとも言へるのであるぞ、
總てb界のこと、靈界のことは、現界から見れば妙なことであるなれど、
それでちやんと道にはまつてゐるのであるぞ。
一ヒネリしてあるのぢや、
天と地との間に大きレンズがあると思へば段々に判りてくるぞ。
夫b、妻b、別れ別れになつたから、
一方的となつたから、磐戸がしめられたのである道理、判るであらうがな。
その後、獨りbとなられた夫bが三bをはじめ、
色々なものをお生みになつたのであるが、
それが一方的であることは申す迄もないことであらう、
妻bも同樣、黄泉大bとなられて、黄泉國の總てを生み育て給ふたのであるぞ、
この夫婦bが、時めぐり來て、
千引の磐戸をひらかれて相抱き給ふ時節來たのであるぞ、
うれしうれしの時代となつて來たのであるぞ。
同じ名のbが到るところに現はれて來るのざぞ、
名は同じでも、はたらきは逆なのであるぞ、
この二つがそろうて、三つとなるのぞ、
三が道ぞと知らせてあらうがな。
時來たりなば この千引の磐戸を倶にひらかんと申してあらうがな。
次の磐戸しめは天照大bの時ぞ、
大bはまだ磐戸の中にましますのぞ、
ダマシタ磐戸からはダマシタbがお出ましぞと知らせてあらう。
いよいよとなつてマコトの天照大b、天照皇大b、日の大b、
揃ふてお出まし近うなつて來たぞ。
次の磐戸しめは素盞鳴命に總ての罪をきせてネの國に追ひやつた時であるぞ、
素盞鳴命は天下(あめがした)を治しめす御役(おんやく)のbであるぞ。
天ヶ下(あめがした)は重きもののつもりて固まりたものであるからツミと見へるのであつて、
よろづの天のb々が積もる(と言ふ)ツミ(積)をよく理解せずして罪bと誤つて了つたので、
これが正しく磐戸しめであつたぞ、
命(みこと)をアラブルbなりと申して傳へてゐるなれど、
アラブルbとは粗暴なbではないぞ、
あばれ廻り、こわし廻るbではないぞ、アラフル(現生る)bであるぞ、
天ヶ下、大國土を守り育て給ふbであるぞ、取違ひしてゐて申しわけあるまいがな。
このことよく理解出來ねば、今度の大峠は越せんぞ。
絶對の御力を發揮し給ふ、ナギ、ナミ兩bが、
天ヶ下を治らす御役目を命じられてお生みなされた尊き御bであるぞ。
素盞鳴の命にも二通りあるぞ、
一bで生み給へる御bと、
夫婦呼吸を合せて生み給へる御bと二通りあるぞ、
間違へてはならんことぞ。
b武天皇の磐戸しめは、
御自ら人皇を名乘り給ふより他に道なき迄の御働きをなされたからであるぞ。
bの世から人の世への移り變りの事柄を、
一應、磐戸にかくしてbヤマトイハレ彦命として、
人皇として立たれたのであるから、
大きな磐戸しめの一つであるぞ。
佛教の渡來までは、わずかながらもマコトのb道の光がさしてゐたのであるなれど、
佛教と共に佛魔わたり來て完全に磐戸がしめられて、
クラヤミの世となつたのであるぞ、
その後はもう亂れほうだい、やりほうだいの世となつたのであるぞ、
これが五度目の大き磐戸しめであるぞ。
日月b示 五十默示祿 碧玉の卷 第十帖
蘇我入鹿慘殺からb國日本は百濟に乘つ取られてゐた 藤原五攝家とは百濟亡命王族だつたのだ
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投稿者 不動明 日時 2011 年 2 月 19 日 02:15:38: yX4.ILg8Nhnko
『日本書紀』は天皇家や藤原氏の正当性・正統性を証明するための歴史書なのであっ
て、豪族の主張を通すための歴史書ではない。まして、七世紀に中臣鎌足によって滅
ぼされた蘇我本宗家が「正統ならざる系譜」を持っていたとすれば、当然『日本書
紀』は鬼の首を取ったように、それを高く掲げたに違いないのだ。
『日本書紀』がそれをせず、あえて大豪族の中で蘇我氏だけ、その祖の姿を消してし
まったのは、蘇我氏が公言できぬほど正統な一族であったからであろう。その系譜が
後世に伝わってしまったら、中臣鎌足のみならず、藤原氏の「傷」になりかねないほ
ど正統な家系だったからではあるまいか。
鬼の代名詞になった元興寺
蘇我が「正統な一族」であったことは、意外なところから明らかとなってくる。そ
れは、蘇我がどういう理由からか、「鬼」とつながってくることである。
そもそも太古の日本では「鬼」と「神」が同意語だった。多神教の「神」には二面
性があって、恵みをもたらすいっぽうで、災難や災害をもたらすもので、これは人智
のおよばない「大自然」そのものといっていい。これが「神」の本質であり、「神」
は基本的に恐ろしい存在なのである。
したがって、かつては「神」と「鬼」ははっきりと峻別されていなかったし、どち
らも畏敬されるべき存在だった。ところが、『日本書紀』が編纂され、「鬼」が忌むべ
きものと位置づけられて以降、「神」と「鬼」の差別が始まった。
中世に至ると、被差別民の中には自ら「鬼の末裔」を名乗り出る者が出現した。そ
れは、「神=鬼」という二面性が本来の姿であり、零落した「神」が「鬼」と呼ばれ
るようになったという歴史背景が隠されていたからなのである。
そして、突飛なことをいうようだが、誰も彼もが「鬼」扱いしてもらえたわけでは
ない。「鬼」の烙印を押された者たちには、相応の「資格」がなくてはならなかった
はずだ。それは、「神」に近い氏族であったことであり、だからこそ零落して「鬼」
になったということになる。
すなわち、「鬼」との接点を持っていた蘇我氏は、「神」に近い一族であった疑いが
強いのである。この一点は非常に大きな意味を持っている。
つまり、蘇我氏の出自を探る上で、これまで見過ごされてきたのは、「なぜ蘇我氏
は鬼とつながっていたのか」ということなのである。
多神教世界においては、神も鬼も同意語なのであって、鬼を退治する神は、鬼のよ
うに恐ろしい力を持っていなければならない。すなわち鬼のようにものすごい力を持
った神とは、ようするに鬼なのである。
元興寺が鎮守社に御霊社を選んだのは、その祭神が人びとを苦しめる疫病をもたら
すとしても、逆に言えば、それだけの強い力を持った「鬼」なのであり、これを丁重
に祀りあげ、「味方」にしてしまえば、この地を守る強力な神に変身する、というこ
となのである。
もっとも、だからといって誰もが好きこのんで崇り神を身近におきたがるわけでは
ない。とくに、「祟られる」と恐怖を感じている程、できるだけ遠ざけておいて祀
りたいというのが人情というものであろう。それにもかかわらず、なぜ元興寺はあえ
て強力な崇り神を選んだのだろう。
それは、元興寺が井上内親王たちを追いつめた側ではなく、反対側の位置にいたか
らではなかったか。すなわち、崇り神とはいっても、元興寺は、井上内親王に対しや
ましい気持ちを持っていない。恨まれる筋合いはないばかりか、かえって「反藤原」
という共通点を持っているのである。
ところで、言い忘れていたが、本来同一であった「神」と「鬼」だが、ある時期を
境に、両者の間に明確なラインが引かれていく。「鬼」には「悪」のイメージが付け
られ、「神」に対峙するかのような図式が成立していったのである。
これがいつなのかというと、はっきりとした形で残っているのは、西暦七二〇年に
編纂された『日本書紀』であった。そして、平安時代にいたると、それまで「モノ」
と呼ばれていた「鬼」は、「オニ」と呼ばれ、完璧に悪者扱いされ、零落していくの
である。
では、なぜ八世紀に神と鬼が分離されたのかと言えば、その理由はすでに触れたが、
もう少し説明を加えておこう。
つまりこういうことだ。ヤマトの神道祭祀の中心的存在であった物部氏らが、藤原
氏の台頭で衰弱させられ、藤原氏が「神道」そのものを乗っ取り、さらに神話を創作
することで、物部氏らの「大きさ」を抹殺してしまったということなのである。
そして、神にもっとも近く正統な氏族である物部氏らに、「モノ=鬼=邪」の烙印
を押すことで、藤原氏自身の正当性を捏造したのだ。
すなわち、中臣神道を創作した藤原氏が、神と鬼を峻別し、「聖」と「邪」に区別
してしまったのである。
法隆寺救世観音に打ち込まれた楔
法隆寺の鬼と聞けば、梅原猛氏の「法隆寺怨霊封じ込め説」を思い浮かべられる
方も多いだろう。上宮王家滅亡事件の主犯は蘇我入鹿だが、じっさいには中臣鎌足が
黒幕だったという推理で、蘇我氏の内部分裂を利用して、上宮王家を滅亡に追い込み、
さらには、蘇我氏を衰弱させることに成功したとする。そして、聖徳太子の一族の崇
りを恐れた中臣鎌足の末裔・藤原氏は、法隆寺に聖徳太子一族の怨霊を封じ込めたと
考えたのである。
一世を風靡したこの斬新なアイディアを無視することはできない。たとえば、梅原
氏が指摘するように、法隆寺東院伽藍(夢殿)の救世観音の光背は、直接仏像の後頭
部に打ち付けられている。さらに救世観音は、まるでミイラのような姿で眠らされて
いた。五百フィートの布でぐるぐる巻きにされたまま、秘仏として門外不出とされて
きたのである。
明治時代、フェノロサと岡倉天心が法隆寺を訪れ、救世観音を閉じこめた厨子の扉
を開こうとしたとき、寺僧たちは大災害に見舞われるという言い伝えを信じていたか
ら、恐怖に戦(おのの)いたのだという。
救世観音は、たんなる仏像ではない。聖徳太子等身像といわれている代物だ。よう
するに、聖徳太子そのものが厨子の中に眠っていたわけである。そして、眠りから覚
められては困る何かが法隆寺にはあった、ということになる。
このような伝承が残っていた事自体怪奇であり、オカルトじみていると考えるの
が当然であろう。そして、梅原氏の指摘するように、何かしらの歴史の「秘密」と
「裏」があったと考えられる。だが通説は、こういう発想を笑殺するだけだ。
もっとも、梅原氏が述べるように、上宮王家滅亡事件の黒幕が中臣鎌足だったから
藤原氏が聖徳太子を恐れたかというと、この考えには無理がある。もしこの図式通り
なら、藤原氏がまず恐れたのは聖徳太子ではなく、山背大兄王(やましろのおおえのみこ)の崇りであるはずなの
に、山背大兄王とその一族はいまだに墓域も定かではなく、法隆寺における影も異常
なほど薄い。
これまで述べてきたように、山背大兄王は『日本書紀』の仕掛けたカラクリの歯車
のひとつなのであって、一度この偶像を度外視して法隆寺を考えてみる必要があるだ
ろう。「山背大兄王」という要因がなければ、梅原説は成り立たなくなる。しかしい
っぽうで、法隆寺は「崇る何者か」を祀っていることは間違いないからだ。
いったい、法隆寺では何が祀られているのか。この謎をどのように解き明かせばい
いのだろう。
法隆寺を席巻する鬼
ここで問題にしたいのは、法隆寺が「鬼」であふれている、ということである。
なにしろ、法隆寺と言えば、日本の仏教美術の粋を集めた場所として知られるが、
仏像にはひとつの特徴があって、どうした理由からか、童顔童身のお姿が多いのであ
る。
たとえば、聖霊院(しょうりょういん)の内陣(ないじん)には、本尊聖徳太子像を中心に、麻呂子王像、恵慈法師像、
山背大兄王像、殖栗王(えぐりのみこ)像などが祀られるが、聖徳太子像を除いて、すべてが童顔童身
である。山背大兄王らは聖徳太子の子どもだから童顔としても、聖徳太子の仏教の師
にあたる恵慈法師まで子ども扱いされているのは、いかなる理由によるのか。
さらに、仏像の脇役で普段目につかない天蓋の木彫も、やはり童子であふれている。
「原色日本の美術 2 法隆寺」(小学館)の解説には、
天蓋についている天人の像はかわいらしい童顔である。
としてなんの疑問も寄せていないが、「かわいらしい童顔」は、食わせ者である。
なにしろその正体は、「鬼」なのだから……。
出雲神スサノオと蘇我のつながり
蘇我と鬼は、ほかの場所でもつながっている。それが出雲神・スサノオとの関係だ。
スサノオは高天原で天つ神の敵となった。だからスサノオの末裔の出雲神たちの多
くは、『日本書紀』の中で鬼扱いされている。ようするに、スサノオが鬼の親分なの
である。
そのスサノオと蘇我が、意外な場所で接点を持ってくる。それが、第一章で登場し
た入鹿神社である。
すでに触れたように、入鹿神社の祭神は、蘇我入鹿ともう一柱、出雲神・スサノオ
(素戔嗚尊[すさのおのみこと]、須佐之男[すさのお])がいる。
蘇我入鹿と出雲神スサノオの間に脈絡はない。それなのに、なぜ入鹿神社ではスサ
ノオと入鹿を並べて祀っているのだろう。
もっと謎めくのが、出雲神のふるさと、出雲大社だ。
スサノオは出雲建国の祖神なのだが、不思議なことに、出雲大社の主祭神は大己貴
命(おおなむちのみこと)(=大国主命[おおくにぬしのみこと])で、スサノオではない。スサノオは、大己貴命を祀る本殿真裏の
摂社に祀られている。
問題は、このスサノオを祀る社の名で、「素鵞社(そがのやしろ)」という。素鵞と書いて、「ソガ」
と読むところがミソで、ここでもスサノオと「ソガ」がつながってくる。
入鹿神社と出雲大社でつながった「スサノオ」と「ソガ」。二つの接点だけでは、
「偶然にすぎない」と笑殺されるだけだろう。しかし出雲と蘇我は、あらゆる場所で
つながってくる。そして蘇我のみならず「出雲」も、「鬼」と深いつながりを持って
いる。
蘇我も出雲も鬼とつながる
さて、出雲のスサノオとソガのつながりに、これだけこだわったのにはわけがある。
まず第一に、すでに触れたように、蘇我と出雲が強い因果でつながっていたとしか
思えないこと。そして第二に、「出雲」は「蘇我」同様、日本の歴史を代表する「鬼」
にほかならないからである。
そこでまず、出雲と蘇我の関係を探る前に、出雲と鬼のつながりを考えてみよう。
鬼を「荒ぶる神」と考えることができるならば、出雲神の祖であるスサノオはまさ
に鬼のような神であった。
スサノオは伊弉諾尊・伊弉冉尊の子で、太陽神・天照大神の弟にあたる。
有名な天の岩屋戸神話は、太陽神・天照大神が岩屋戸に籠もって、世界中が闇に包
まれてしまうという話だが、そのきっかけは、スサノオの狼籍にあった。
天児屋命や手力男命、さらには天鈿女命等の活躍によって天照大神は無事に表に
出されるが、スサノオは高天原を追放されてしまったわけである。
スサノオは地上界に降りて、出雲建国の活躍を見せるが、出雲の神々そのものが
「鬼」とみなされていたようなところがある。
スサノオが出雲から去ると彼の末裔(あるいは子ども)である大己貴命が出雲を完
成させた。すると、高天原の天照大神は、出雲を奪い、子どもを地上界に君臨させよ
うと画策する。
その時、葦原中国(地上界)には、「邪しき神」がいて、また彼らは「邪しき鬼」
でもあるといい、これを打ち払え、という言葉が出てくる。
このように、『日本書紀』は明らかに出雲の神々を「鬼」とみなしている。
それだけではない。
大己貴命の幸魂(おだやかで、人に幸を与える魂)は大物主神どいい、出雲からヤ
マトに移され三輪山(奈良県桜井市)で祀られるが、大物主神はヤマト朝廷がもっと
も丁重に祀った神であった。いわば、ヤマトにおける出雲神の代表格であり、その大
物主神の「物」が、「鬼」の「モノ」であるところが重要である(奈良時代以前、
「鬼」は「オニ」とは読まずに「モノ」と言っていた)。
『日本書紀』には、第十代崇神天皇の時代、次のような事件が起きていたと記録して
いる。崇神五年、ヤマトの地では、干魃や天変地異が相次ぎ、疫病がはやり、人口は
半分になろうとしていたという。このため翌年には、人びとは土地を手放し流浪し、
不穏な空気が漂っていたという。
この窮状に頭を悩ませた崇神天皇は、ためしに占いをしてみた。すると巫女に神が
憑依し、崇神天皇が神意を問うと、大物主神が名乗りを挙げ、大物主神の子・大田田
根子をもって自分を祀らせれば、世は平静を取り戻すだろうというので、そのとおり
にしたのだという。
このときの事件について、『古事記』にははっきりと「大物主神が崇ったのだ」と
記されている。
このように、出雲神大物主神は、ヤマトを代表する崇り神であり、だからこそ、
「大いなる物(神・鬼)の主の神」という尊称を与えられているわけである。「モノ」
の重要性が分かってくると、この「大物主神」の名は、非常に大きな意味を持ってい
たことがはっきりする。
くどいようだが、出雲神「大物主神」は、「モノの中のモノ」であり、「神の中の
神」「鬼の中の鬼」にほかならない。
関裕二氏著「蘇我氏の正体」
第三章 謎めく蘇我氏の出自
『日本書紀』が隠した蘇我氏の正統性
鬼の代名詞になった元興寺
神と鬼を峻別してしまった藤原氏
法隆寺救世観音に打ち込まれた楔
出雲神スサノオと蘇我のつながり
蘇我も出雲も鬼とつながる 據り
はじめに
日本の歴史にはアンタッチャブルな領域が厳然と存在する。
しかも、今では、それがアンタッチャブルであることさえ忘れ去られるほど、歴史
の奥深く、闇の闇に封印されてしまったのである。
普通、歴史のタブーと言えば、それは当然「天皇」にかけられているものと考える
だろう。だが、本当のタブーは、「天皇」そのものではなく、「天皇」を傀儡にして甘
い汁を吸ってきた一族にこそかけられていたのである。
もちろんそれが藤原氏であり、日本で最高の伝統と格式を誇る「華の貴族」の歴史
の暗部を、かつて拙著『藤原氏の正体』(新潮文庫)の中で暴いて見せたのである。
天皇家のタブーとは、ようするに天皇家そのものにかけられていたのではなく、天
皇家の「裏」にうごめく俗権力にかけられていたわけである。「聖なる帝」を操り、
欲望の限りを尽くした藤原氏の実像こそが、語ってはいけないタブーだったのである。
しかし、この話には、まだ裏がある。じつを言うと、藤原氏が日本史最大のタブー
であったわけではない。
では、「天皇」や「藤原氏」よりもアンタッチャブルな存在など、どこにいるとい
うのであろう。
八世紀の藤原氏は、『日本書紀』を編纂し、真実の歴史を闇に葬った。さらに政敵
の正体を抹殺することで、天皇家や藤原氏の正統性と正当性を証明して見せていたの
だ。すなわち、『日本書紀』が正体を抹殺し、悪役に仕立て上げたであろうかつての
政敵こそが、「神秘化された天皇よりも、華の貴族・藤原氏よりも、探ってはいけな
いタブーを抱えた重大な一族」だったのではないかと思いいたるのである。
そしてもちろん、それが誰かと言えば、蘇我氏ではないだろうか。その証拠に、藤
原不比等が編纂に大きな影響を及ぼしたはずの『日本書紀』の中で、蘇我氏の出自は
湮滅(いんめつ)されている。出自をおおやけにしなかったのは、「分からなかった」からではな
く、「分かっていた」からであり、だからこそ抹殺されたのだろう。歴史の敗者であ
る蘇我氏が、もし仮に「賤(いや)しい出自の者ども」だったのならば、必ずや『日本書紀』
はその正体を明かしたに違いないからだ。だが、『日本書紀』は、あえて「知らぬふ
り」を貫いて、蘇我氏の出自を隠匿した、ということになる。
では、蘇我氏とはいったい何者だったのだろう。
筆者はこれまで邪馬台国とヤマト建国の歴史を再現することに精力を注いできた。
そしてようやく、蘇我氏の恐るべき正体に行き着いたのである。彼らこそ、ヤマト建
国時の日本の大王家であった。そして、さらに、ヤマトの大王家の歴史には、「裏の
裏」が隠されていたことに気づいたのである。
蘇我氏の正体は、これまでまったく明らかにされてこなかった。なぜこれほど重要
な氏族の正体がはっきりしなかったのかと言えば、それは、藤原氏が全精力を注ぎこ
んで蘇我氏の正体を抹殺してしまったからだろう。蘇我氏の正体が露見すれば、藤原
氏の正当性は根底から否定されてしまうからである。
だが、二十一世紀にいたり、ようやく彼らの正体は、明らかになろうとしているの
である。
われわれは、われわれの誇るべき歴史と、「蘇我」という輝かしい氏族の活躍を、
今取り戻そうとしているのである。
蘇我氏の正体を、探っていこうと思う。
おわりに
毎日テレビのニュースを見て、毎朝新聞を読んでいれば、今この時、世の中で何が
起きているのか、なんとなく分かったような気分になれる。
訳知り顔の評論家のコメントを聞いていれば、それで世の中の仕組みが分かったよ
うに思えてくる。
しかしじっさいには、われわれは、何も分かっていないのだ。なぜ政府が理解に苦
しむ判断を下したのか、裏の裏で何が起きているのか、本当のところは、ほとんどが
闇の中である。
じつを言うと、われわれが新聞を読んでいるのは、「世の中で何が起きているのか、
その深層を知ることができる」からではない。本当は、「世の中で起きていることの
表層を、人びとはどのように認識しているのか」それを知るためでしかないのだ。
では、われわれは「真実や深層」をどうやって知ればいいのだろう。
ここに「歴史」を学ぶことの意味がある。
たとえば、明治維新で徳川幕府は瓦解した。そしてこの百四十年余、倒幕は革命的
な行為と絶賛されてきたのである。もちろんそれは、勝者が明治維新を称賛し、彼ら
の作り上げた体制が今日にまで続いているからこそ、倒幕軍の正当性は保障されてい
るわけである。
たしかに、旧態依然とした幕藩体制をあのまま続けるわけにはいかなかった。しか
し、もし勝海舟や徳川慶喜という「名プロデューサー」が、史上稀に見る潔い負けっ
ぷりを演出しなければ、日本は西欧列強の植民地になっていたであろう。これまでほ
とんど指摘されてこなかった歴史観だが、大切な事実である。
さらに言うならば、一度白旗を挙げた徳川幕府にさらに切先を突きつけた「官軍」
の横暴を糾弾する作業も、「歴史」に課せられた宿題である。
このように、われわれは「あのとき何が起きていたのか」という形でしか「社会の
現実」を知ることはできないのだ。だからこそ、歴史を知る努力を怠ってはならない
のである。
古代史も同様だろう。蘇我氏のように、歴史の勝者に手柄を横取りされてしまい滅
びていった者たちは、無数に存在するはずだ。彼らの無念の思いを発掘することこそ
が、今を生きる者に与えられたひとつの使命なのである。
なお、今回の文庫化にあたっては、新潮社常務取締役松田宏氏、新潮文庫編集部の
内田諭氏、(株)アイブックコミュニケーションズ代表取締役・的場康樹氏、歴史作
家の梅澤恵美子氏にお世話になりました。あらためてお礼申し上げます。
合掌
文庫版あとがき
版築(はんちく)という土木工法がある。すでに、古墳時代には日本でも普通に使われていた技
術だ。人海戦術で、土を突き固め、さらに土を幾度も重ね層を造っていく。原始的に
見えるが、想像以上に強固な土塁(どるい)や、築地塀(ついじべい)が出来上がる。現代科学の粋を集めたコ
ンクリートよりも、耐用年数は上まわるとされている。その証拠に、各地に残された
前方後円墳の封土(ほうど)は、ほとんど原形を留めたまま、今に残されている。
なぜ版築の話をしたのかというと、蘇我馬子の墓とされる飛鳥の石舞台が丸裸なの
は、「自然に流れ去ったからではない」ことを言いたいためだ。くどいようだが、古
墳や墳丘墓は、よほどのことがない限り崩れないのである。
では誰が、石舞台の封土を削り取ってしまったのだろう。それはおそらく、蘇我氏
の政敵の仕業にちがいない。
政敵の墓を暴くという行為は、実際に『日本書紀』の中に例がある。だとすれば、
封土のない石舞台は、歴史の勝者によって人為的に破壊された可能性が高く、悲劇的
な蘇我氏の墓標に見えてくるのであり、むき出しになった石室はまるで、「晒し者」
のようだ。
それにしても、なぜ蘇我氏は、後の政権に嫌われ、罵られる命運を担ったのだろう。
それは、『日本書紀』が言うように、彼らが専横をくり広げ、憎むべき大悪人だった
からなのだろうか。けれどもすでに述べてきたように、蘇我氏こそ改革派だったのな
らば、これほどの仕打ちを受ける必然性が見出せない。ここに、さらに深い、蘇我氏
の秘密が隠されていたのではないかと思えてならないのである。
そして唐突ながら、その理由は、蘇我氏が「東」と強くつながっていたからではな
いかと、筆者は勘ぐっている。
五世紀から六世紀にかけて、「東」は急速に力をつけ、ヤマトを揺り動かす大勢力
に成長したのだ。蘇我氏は、「東」という新興勢力のパワーを得て、権力基盤を築い
たのではあるまいか。
蘇我と「東」の接点は、いくつもあげることができる。
乙巳(いつし)の変の直前、緊迫する空気の中、蘇我氏は側近の東漢氏(やまとのあやし)だけではなく、東国の
屈強の兵士を身辺に配置している。「東」の人びとを信頼していた証である。また、
蘇我氏の父は蝦夷(えみし)で、蘇我日向(ひむか)の別名は武蔵(むさし)だ。「蝦夷」も「武蔵」も、「東」を意
識した名である。
飛鳥に都が置かれた時代、東国の蝦夷は飛鳥に招かれ、蘇我氏の拠点・甘樫丘(あまかしのおか)の東
側の槻(つき)の木の下で、饗応を受けている。これほど蝦夷と朝廷が緊密に交流した時代は
他に例をみない。やはり蘇我氏と「東」は、強くつながっている。
壬申(じんしん)の乱(六七二)に際し、大海人皇子(おおあまのみこ)(のちの天武天皇)を陰から支えたのは蘇
我氏だが、大海人皇子が東国の軍団を率いて近江の大友皇子(おおとものみこ)を圧倒できたのも、蘇我
氏と東国との深い縁ゆえだろう。乱を制した天武天皇は、都を近江から蘇我の地盤・
飛鳥に戻し、さらに信州の地(長野県松本市)に副都を建設しようと目論んだ。親蘇
我政権は、親東国政権でもあったのだ。
蘇我氏が頭角を現したのは、六世紀初頭の継体天皇の出現ののちのことだ。継体天
皇は越(北陸地方)からやってきた大王であり、その越と強くつながる阿倍氏が、や
はり六世紀に忽然(こつぜん)と中央政界に登場した事実を、軽視することはできない。継体天皇
は、史上初めて「東」からやってきた大王であり、ほぼ同時に蘇我氏が頭角を現した
のは、偶然ではあるまい。
『国造本紀(こくぞうほんぎ)』によれば、北陸地方に多くの蘇我系国造(くにのみやつこ)が任命されていたという。
蘇我氏はヒスイにこだわった氏族として知られるが、ヒスイは越の特産品であり、縄
文人の珍重した宝石だ。やはり蘇我と越(東)は、目に見えぬ糸でつながっている。
一方蘇我氏を打倒した八世紀の藤原政権は、なぜか「東」を極端に恐れた。都周辺
で不穏な空気が流れると、必ず東国に通じる三つの関を固く閉じた(三関固守(さんげんこしゅ))。天
皇家の故地・越に抜ける道も閉ざしてしまうほどの、異常な行動である。
さらに、『日本書紀』は「東」を、まつろわぬ野蛮人の住む場所と決めつけている。
この東国に対する「敵視」「蔑視」は、憎悪と偏見に満ちている。それはなぜかと言
えば、蘇我氏の残像を、「東」にみていたからではあるまいか。
ではなぜ、蘇我氏と「東」はつながっていたのだろう。
『日本書紀』や『古事記』、『風土記(ふどき)』には、敗れ去った出雲神(いずもしん)たちが東国に逃れてい
ったと記録されている。考古学的にも、ヤマト建国後の「東」に出雲的な文化が流入
していることが確かめられているし、武蔵国造は出雲国造家の流れをくんでいる。七
世紀の蘇我氏が画策した行政改革も、じっさいのところ、既得権益に捕らわれない東
国豪族のパワーを活用することによって、推進されていたと私はにらんでいる。
蘇我氏の祖・武内宿彌(たけのうちのすくね)(天日槍(あめのひぼこ))は、朝鮮半島から祖国に戻ってきたのに「外国
人」とみなされ、政権から追い出された。その後、末裔(まつえい)のだれかが、新天地東国に向
い、繁栄を勝ち取ったのだろう。そして六世紀、勇躍ヤマトに乗り込んでみたものの、
「ヤツらは蝦夷」と蔑(さげす)まれ、結局ヤマトから追い出されたのではなかったか。
飛鳥の石舞台の封土がきれいに削り取られてしまった理由も、このような「よそ者
の蘇我氏」「蝦夷としての蘇我氏」に対する差別感が、どこかに潜んでいたように思
えてならないのである。
これはあまり知られていないが、入鹿の首塚だけではなく、石舞台の石室の裏側に
も、欠かさず野の花が供えつづけられている。蘇我氏の栄光と悲劇を思うとき、この
ことだけが、唯一の救いなのである。
二〇〇九年三月
関 裕二
蘇我氏の正体 (新潮文庫)
関 裕二 (著)
http://www.amazon.co.jp/蘇我氏の正体-新潮文庫-関-裕二/dp/4101364729/ref=pd_sim_b_1
内容(「BOOK」データベースより)
大化改新での「入鹿誅殺」により、悪の象徴として記憶されてきた蘇我氏。以降、歴史の表舞台から姿を消した彼らは一体何者だったのか?最新の研究成果と、著者独自の調査で明らかになる衝撃の出自。その隠蔽工作に奔走する藤原氏の裏の顔。祟り、朝鮮半島、天皇、そして浦島太郎など古代史に散らばるキーワードから、悲劇の一族の全貌を大胆な解釈で捉え直す、渾身の本格論考。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
関 裕二
1959(昭和34)年、千葉県柏市生れ。歴史作家。仏教美術に魅了されて奈良に通いつめ、独学で古代史を学ぶ。1991(平成3)年に『聖徳太子は蘇我入鹿である』でデビュー。以後精力的に執筆活動を続けている(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
第一章 蘇我氏の「悪行」と乙巳の変
蘇我入鹿暗殺(乙巳の変)の現場
蘇我氏がくり広げた専横の数々
上宮王家滅亡の結末
蘇我氏の横暴と高まる反発
入鹿を称える入鹿神社の謎
見直されつつある蘇我氏の業績
律令制度の基礎を築いたのは蘇我氏?
なぜ蘇我氏が王家をもり立てたのか
『日本書紀』が蘇我氏の正体を抹殺するこれだけの動機
境遇が似ている蘇我入鹿と菅原道真
蘇我入鹿を大悪人に仕立て上げるための巧妙なカラクリ
頭脳明断な入鹿がなぜ無謀な行動に出たのか
山背大兄王は存在しなかった!?
第二章 蘇我氏と鬼
蘇我の正義を実証できるのか
蘇我は崇って出ていた
崇りが明かす蘇我氏の正義
奇跡の寺・山田寺の不思議
首だけが生き残った山田寺の本尊
蘇我倉山田石川麻呂の生首と山田寺仏頭の因縁
蘇我倉山田石川麻呂の悲劇的な最期
なぜ遠智娘は「塩」に発狂したのか
生首を「スシ」にした百済王豊璋
山田寺の廃墟にたむろする怨霊?
第三章 謎めく蘇我氏の出自
『日本書紀』は蘇我氏の何を隠匿してしまったのか
武内宿禰と蘇我氏を切り離した戦後の史学界
蘇我は「石川」から生まれた?
蘇我氏渡来人説
蘇我氏の出自を無視した『日本書紀』
『日本書紀』が隠した蘇我氏の正統性
鬼の代名詞になった元興寺
平城京遷都に抵抗した法興寺
鬼を退治した元興寺のガゴゼ
元興寺が鎮守社に選んだのは崇る御霊社
神と鬼を唆別してしまった藤原氏
鬼と深く縁を結ぶ蘇我氏
蘇我系皇族・聖徳太子が演じた童子(鬼)の鬼退治
法隆寺救世観音に打ち込まれた楔
法隆寺を席巻する鬼
法隆寺の謎と蘇莫者の謎
蘇莫者は聖徳太子なのか
蘇我だからこそ恐ろしいという共通の認識
出雲神スサノオと蘇我のつながり
なぜスサノオを祀る社がソガなのか
蘇我も出雲も鬼とつながる
崇る出雲神
蘇我氏は出雲に進出していたのか
言代主神とそっくりな武内宿禰
葛城の一言主神は出雲神の言代主神?
第四章 天日槍と武内宿禰の謎
『日本書紀』が必死になって隠してしまった蘇我氏の素性
ヤマト建国の秘密を握る纏向遺跡
考古学が示した出雲の実在性
出雲の国譲りと天孫降臨の真実
トヨと邪馬台国の男王の謎
仲哀天皇という歴史改竄のカラクリ
武内宿禰は天日槍? 唐突な梅澤氏のつぶやき
天日槍と神功皇后をつなげる系譜
天日槍が来日した理由
神と鬼という両面性を持った天日槍
天日槍は歴史時代の人なのか神話の神なのか
韓国岳と宇佐神宮
なぜ応神天皇が八幡神となったのか
日本の韓国(辛国)と天孫降臨伝承
伽耶王子ツヌガアラシトと応神天皇のつながり
天日槍とそっくりで正反対という不思議な神サルタヒコ
サルタヒコと天日槍と武内宿禰を結ぷ糸
伊勢と出雲二つの国譲りの秘密
天日槍とつながるサルタヒコと武内宿禰
天日槍を救ったトヨ(神功皇后)
死んだはずなのに生きていた武内宿禰
残された最後の謎
第五章 蘇我氏の正体
なぜ『日本書紀』は蘇我が渡来人と喧伝しなかったのか
スサノオと蘇我氏の奇妙な共通点
新羅王になった倭人・脱解王の謎
脱解王ともうひとりの倭人瓠公の活躍
スサノオと脱解王のつながり
脱解王とそっくりな浦島太郎
浦島太郎が間抜けだったのは日本にもどつてきたから?
脱解王と天日槍(武内宿彌)をつなぐ「鉄・鍛冶」
我れ蘇れり! と宣言した蘇我氏の正体
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- 試驗投稿 不動明 2011/8/11 21:57:04 (14)
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