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第一章 福島第一原発事故をもたらしたもの
<いま、すべきこと>
飯田 日本の原子力分野において、原子炉内の核計算に使っているソフトウェアは、原子力専用のものだが、日本のメーカーのものは一つもない。それは、ソフトを作れるほどのデータの蓄積がない、ということ。
アメリカなどは、たとえば原子炉が暴走したらどうなるか、と実際に暴走させる実験までやって、内部事象のシミュレーションをしている(可否は別にして)。だから計算ソフトが作れる。
この原発事故は、世界で初めてのケースである。ここまで危機的状況を長引かせていながら、ここで述べたような世界の原子力業界における知の蓄積に頼ることなしに問題を解決できるわけがない。率直に早急に最大限の助力を求め、国際級のスーパーチームをつくって、さまざまなシミュレーションを重ねながら、収束をめざしすしかないのではないか。
【出典】「今こそ、エネルギーシフト〜原発と自然エネルギーと私達の暮らし」飯田哲也・鎌仲ひとみ/岩波ブックレット'11年5月
〔臭うぞう〜〕
飯田氏の指摘するところを敷衍すれば、過酷事故が起きた場合に、応用問題を解いて事故に的確に対処できる人員を配置しておくことは、そもそも不可能だったということだと思う。運転員は原発メーカーの作った運転マニュアルの範囲での教育訓練はできても、応用問題にすぐ対処できるような教育を東電はもちろん、原発メーカーでもできる技量がそもそもなかった(過去においても今後も)。「技術の底抜け」という寒々とした実態なのである。事故に的確に対応できる人員の配置は原理的に不可能であったと考えるべきではないか。
事故後の対応に限定しても、おそらく数えきれないほどの、人為ミスも重なり、事故の拡大につながったものも多くあると考えられるが、その大部分はおそらく原理的に避けられなかった。これは人為ミスを免罪する立場とは全く違う視点である。
原発はハード面では何に起因して過酷事故が起きるか予想もできない巨大時術である。また、ソフト面では事故処理に人為ミスが重なって事故が拡大していく危険性を”原理的に”内包しているお化けプラントである。こう捉えるべきである。であるから、原発という代物は”原理的に”廃止すべきものなのだ。
巨大地震に強い原発を造ったからと言って過酷事故が”原理的”に起こらないわけではない。また、仮に良く教育訓練された運転員を配置したからといって(そこには自ずから限界があり)事故拡大につながる人為ミスが原理的になくなるわけでもない。このように思考すべきであると思う。ならばオセロゲームを仕掛けられても、ひっくり返らない事故評価のスタンス(方法論)に立てると思う。
・安全審査が実質的ではなく空疎である:技術の本質が底抜けである(日本の原発)/飯田哲也
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