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(回答先: 6・19 すべての原発とめよう 怒りのフクシマ大行動 記録映画 (1) 投稿者 愚民党 日時 2011 年 6 月 20 日 23:56:01)
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会津藩は、わたしの個人史にとってあまりにも重かった。
矢板小学5年のとき、会津白虎隊の話を習字の女先生から聞かされた。
その女先生は、わたしが豊田小学校に入学したときの先生だった。
豊田村に生まれ豊田で育ち、福島大学教育学部に入学し、豊田小学校に新人教師として赴任した情熱に燃えた塚原先生であった。塚原という家は豊田村に多数存在していた。
塚原先生は子供たちが家に帰る道を、学校が終わると一緒に途中まで歩いてくれた。
豊田小学校は沢村、成田村、西豊田村、東豊田村の子供たちが通学していた。クラスメートの誰もが塚原先生を好きになった。母よりも優しかったからである。特に男子児童は塚原先生が初恋の人となった。演劇という遊戯を授業で教えてくれたのも塚原先生だった。もしかしたら福島大学で演劇部を経験していたのかもしれない。
わたしは一行だけのせりふをもらい役をもらった。「それじゃぁ、さようなら」という一言を発して、手を振りながら舞台から去っていく役であったが、最高に嬉しかった。
その頃はまだ福島原発第一がつくられていなかった牧歌的な時代だった。「野菊の墓」や「一房の葡萄」という抒情が成立していた時代だった。原子力洗脳のための「鉄腕アトム」も放映されていなかった。村でテレビを買った農家は毎晩、遠くからも子供や大人が集まり映画館となっていた。
わたしが住む増録という異郷には東京電力の電気も通っていなかった。ゆえにランプ生活だった。
わたしたちクラスメートが小学2年に進級するとき、塚原先生は矢板小学校へと転任していった。1960年の4月10日だった。
わたしたち家族は猿田彦神が生息しているという山に囲まれた異郷の増録から、矢板の中心部である町に引っ越した。富田町にある長屋だった。小学3年の3月であった。そこには東京電力による電気があった。1962年の早春だったが高原山から山おろしの風がふき寒かった。
矢板小学校の廊下で塚原先生と出会い、わたしは緊張した。塚原先生は和気先生と名前を変えていた。結婚したのである。かつての太陽のような明るさはなかった。
小学5年に進級したとき、和気先生は習字の授業の先生であった。そのとき会津白虎隊の話を和気先生はしてくれたのである。わたしは小学校の図書館で、会津白虎隊物語の本をかりた。
会津藩はわたしのなかで重い複合意識となった。国境の北には巨大な会津藩があり巨大な歴史と文化をもっていた。
その会津藩が21世紀1年代の今、東京電力の福島原発第一によって死の恐怖に叩き落されている。
わたしは6時間20分をかけて、福島駅に到着した。
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- 6・19 すべての原発とめよう 怒りのフクシマ大行動 記録映画 (3) 愚民党 2011/6/21 06:24:08
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