http://www.asyura2.com/11/genpatu13/msg/171.html
Tweet |
----------
鈍行列車が郡山駅を越えると安達太良山が見えてきた。
わたしは高村光太郎の詩による「智恵子抄」というコロンビアローズの歌謡曲を心の中で口ずさんでいた。
湘南の大船観音様が近くにある駅から早朝の始発にのり、東京駅から上野駅へ、鈍行の宇都宮駅行きに乗る。宇都宮駅から黒磯行きの列車へ。
鈍行列車は宇都宮駅から栃木県北への路線を滑走していく。
わたしは胸がしめつけられた。栃木県北とはわたしを育ててくれた故郷である。
「故郷の駅を降りる、故郷は思想だった」という言葉がガリ版印刷で発行されたミニコミ誌を1996年頃、読んだことがある。今市(いまいち)市の文芸サークルが発刊していたB5版のわら半紙による小冊子だった。
東北本線の路線から見える栃木県北の情景は、その原型が30年前と変わりはなかった。重奏の旋律がわたしの身体に流れる。
1971年の早春、卒業延期という処分が終わり、わたしは3月末に矢板高校を卒業した。就職担当の先生のおかげで、すぐ宇都宮にある印刷会社に就職できた。しかしすぐさま、反戦高校生から反戦労働者になることはできなかった。退学処分という大きな犠牲を1970年の栃木県下の高校生運動は強いられたからである。印刷工となったわたしは重い沈黙の春を通過していった。反抗者が背負う敗北の過程である。
「社会に出れば、おまえたちはどうせ、活動をやめるのだろう?」という
学友からの批判の声が骨としてわたしの身体に突き刺さっていた。
わたしは4月ごろから反戦労働者の活動家となっていた。
自主上映運動にもとりくみ、1972年8月に「原爆記録映画」を地元の矢板市や栃木県北各地で上映したことがある。しかし原発に関しては無知だった。
ふるさとでの運動に敗北し、わたしは1973年1月、東京へと逃亡した。
1982年、<反核−私たちは読み訴える 核戦争の危機を訴える文学者の声明>によって日本の反核運動は高揚していったが、原発批判までは深化していかなかったと思う。トマホーク配備阻止闘争が全国で展開された。
1980年代末、ヨーロッパで反核運動が大高揚していった。その運動が東欧民衆にまで波及し、東ドイツの民衆が動き出した。1989年の冬、東欧スターリン社会主義体制が崩壊する。ポーランドの労働組合<連帯>はその下地を形成していた。
鈍行列車の窓に頭をこすりつけ、ふるさとである栃木県北の情景に心を奪われていた。
心のなかで泣いていた。
黒磯駅から郡山行きに乗り換える。今度は国境を越えるのである。大船駅から黒磯駅まで4時間が経過していた。
黒磯駅から郡山駅へ、そこで乗り換え、福島駅をめざす。福島駅に到着するのは2時間後だった。
郡山駅から福島行きの鈍行列車に乗った。
安達太良山が遠くに見える。東北へと北上していくのだ。
わたしは高村光太郎の詩による「智恵子抄」というコロンビアローズの歌謡曲を心の中で歌っていた。
わたしは動物であったが人間の記憶は残っていた。
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
- 6・19 すべての原発とめよう 怒りのフクシマ大行動 記録映画 (2) 愚民党 2011/6/21 03:31:33
(1)
- 6・19 すべての原発とめよう 怒りのフクシマ大行動 記録映画 (3) 愚民党 2011/6/21 06:24:08
(0)
- 6・19 すべての原発とめよう 怒りのフクシマ大行動 記録映画 (3) 愚民党 2011/6/21 06:24:08
(0)
▲このページのTOPへ ★阿修羅♪ > 原発・フッ素13掲示板
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。