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(回答先: 「刀は武士の魂」な〜んちゃって:) 投稿者 1984 日時 2011 年 12 月 10 日 18:47:35)
八切日本史 10より:
国辱的歴史学者
さて、こういう情勢下において、国士館高校の腕白坊主共が先制攻撃のためか、朝鮮人高校生徒をぶん殴っては問題を起こしているが、在日の朝鮮文化人達も今やしきりと、「日本の中の朝鮮文化」とか、「われらの中の朝鮮」をうたって、事前宣撫工作みたいな傾向を示しているやにも思われ、獄内の金嬉老でさえ、出刃包丁を写真にとらせて、「真相をあばくぞ」とすごみをきかせ、そのため気の毒にも看守さん一人が自殺にまで追いこまれている。国外的にも大島渚の、「絞首刑」は、日本で差別待遇をうけ絞首刑になった哀れな朝鮮少年の悲劇を、ひろく海外キャンペーンして効果をあげている。
つまり、われらの中のコマとは、コマスタジアムではなく朝鮮の古名コマであるが、これに対し金達寿は、はっきりと、「古代日本文化は帰化人を通じ朝鮮から多くのものを学んでいる‥‥と日本の歴史家たちはとく。が帰化人などというものは古代の、少なくとも七世紀以前の日本には一人もいなかった‥‥何故かなら、彼らこそ古代日本を作ったそのもの自身、だったからに他ならぬからである」
とまで言い切って発表している。確かに、「いにしえの奈良の都」のナラが、朝鮮語の国を意味する「ナラ」と同じであることも、私は認めるのに反対はしない。しかし、「日本の歴史家はデタラメである」とここまで中外に喝破されては立つ瀬がない。
私は戦国史専門で十五六世紀を主に勉学しているから古代史は埒外である。
とはいうものの、ロンドンデリーの囲み物連載にまで堂々と、「Korean culture induced Japan」(コリアによって日本は作られた)式のものを書かれて、日本の歴史家は阿呆や何も知りよらんと、銭もうけの本ばかり作っとる、とまでケイベツされては黙っていられぬ。
まことに不得手な古代史だが、義をみてせざるは勇なきなりで、これに反論を加えたい。
とは云うものの、しかし日本の歴史家も、もうすこし眼をさましてもらいたい。
なにしろ70年6月9日の読売新聞では、大きな見出しで、「わが国へきてまだ二年しかたっていない、二十六歳のハンガリー青年が、これまで日本歴史学会でも解明できなかった吾国最古の漢詩集「懐風藻」の編集者を研究中に
発見し、近く日本語で学会に発表する」 と報道されていたが、オハヨウ、コンニチワくらいしかいえぬ青年に、日本歴史学会でも手がつけられていなかったものを解明されたとは、これは国辱以外の何ものでもないというしかない。
もし英国あたりだったら、王立学士院会の大問題になって、その方面の研究者は詰問され学位まで剥奪されてしまうのである。なにしろ歴史学は天文学ではない。空の新星なら素人の青少年に発見されても恥ずかしくないが、「懐風藻」のように昔からの物を放っておいたのは困る。これは手がつけられなかったのではなく、手をつけても一文も儲からんものゆえ歴史学者は知らん顔をしていただけだろう。
とはいえ、こんなオサムイ話はない。だいたい日本の歴史家なるものは、「歴史学」そのものを知っているのだろうか?疑いたくなる。
十八世紀に入ってヴォルテールが、それまでのスーパーマンや神人や英雄たちの古い話を‥‥歴史とする考えをすてるよう提説し、「人間の群生形態が国家になってゆくのは、風土寒暖や民族の風習によって形成される」
と唱えたモンテスキューによって、「真実の歴史」こそ「歴史学」であると見直されてから、キゾーは階級制交替発展説。
ヘーゲルは弁証法による歴史証明論。
これがミシュレからトインビーに至る、郷土史学の徹底的解明による専門分野の集成。
という今日の「歴史学」となり、その実証的記述法としては、英国のスコットの歴史小説が、レシ(記録体)の元祖とされた。
だからして日本で発行される世界文学全集の類でも、ドキホーテしかり、赤と黒しかり、戦争と平和にしろ、小説が歴史そのものの観を呈し、歴史を扱っていない文学書はないような有様で、オーギュスタンも、「歴史、それは歴史小説家の書くもの。私共は彼らの記述に資す方法論を解明するのみ」
とまでいっている。しかし日本には、「時代小説作家」というのはいるが、歴史小説家があまりいないせいか、ハンガリーの二十六歳の青年に、とんだ赤恥をかかされるようなドンな目にもあったのだろう。
いじめたのは誰
さて、われらの中のコマは、馬を駒とよび、ポックリから駒下駄になり、彼らからの迫害が、「コマっちゃうな」として残っている。
金達寿のいうように朝鮮のクダラ人が、奈良朝だけでなく、朝鮮の新笠姫のうみ奉った御方が、開発された当時の平安京いまの京を都にした当初は、彼らクダラ人以外の原住日本人たちは、人間でないような扱いかたをされたのではないかとも想えるのは、なにしろ私らは今日ですら「くだらでない」の言葉を無心に、「クダラねえ」とかつて自分らの先祖が嘲られた罵言とも知らず、時たまはよく使用しているせいもある。
そして、かつて吾々が義務教育として強制的に学ばされた、「小学国史、尋常科用」に、「われら日本臣民は、つねに和気清麻呂のような心がけを持つことを忘れてはならない」
と書かれ、国民精神の手本とされた和気氏たるや戦後になって解明されたところでは、「百済人純蛇の裔」であるとされる。
お壕端の第一生命ビルを日本御座所にしていたマッカーサーが、いまダイジェスト社ビル前の和気清麻呂像だけを、他の像は撤去を命じたのに拘らず残しておいたのも、あれは、(先輩の占領軍司令官に敬意を表してか)と判ってくると、阿呆らしくてものもいえぬ。
このクダラ人たちが、「今来ノカミ」として日本へ持ち込んできたのが、平野四神で、「三代実録」によれば、「平野今来神正二位が、従一位」
それが「祝詞式」の記録では、その今来ノ神様が、「皇大御神(スメラノオオカミ)」になったという。「今来」というのは、のちの大和の国の高市郡のことだが、発音通り、「今来たばかり最新到来のクダラ人の神」のことであろう。だから、「日本神祇史」などをみると、「玉海」からの引用で、「宮内省に坐す神は園神一座、韓(カラ)神社二座の三座なり」と明記されている。
また金達寿は、中島利一郎著をひき、「大仏殿をこしらえた行基大僧正や、比叡山のてっぺんに延暦寺をたてた最澄上人。東大寺を建立した良弁和尚が、みな朝鮮人であったことを、いまだに知らぬ日本人が多いのは情けない」
責任は怠惰にして研究心に欠如したわが歴史家にこそ帰せられるべきなのに、氏は何も知らされずにきた日本人を、真っ向から責めるのである。
しかし、そんな事をいわれたところで、「どうもおみそれ申しまして、済みません」
とは私はいわない。云えはしないのだ。
今日の奈良の大仏は松永弾正に焼かれたあと、豊臣秀頼によって修復されまた江戸時代にも改築されたものだが、行基大僧正らによって鋳造された時点、 起重機も電気溶接もガスバーナーも何もなく、すべてを人間の二本の手でやらなければならなかった時、あれだけ見上げるばかり巨大な物を作る場合には、どれだけ多くの人間が溶鉱炉の業火の中へ落ちて死んだか‥‥。
行基やそのブレーンは朝鮮人であったとしても、そこで使役された労務者は誰だったか。
まさか当時の朝鮮に、いまの清水建設や大林組のような建設会社があったとは思えぬ。
といって行基たちが、朝鮮から徴用で人を集めてくる筈もなく、また半島の季節労務者が、当時のことゆえ出稼ぎにきたとも考えられぬ。
何万人と集められ鞭打たれ、赤々と燃えるルツボの中へ足ふみはずし、次々と、「ヒェイッ」と悲鳴をあげ、火中に生きながら呑みこまれていった何千人の者たち。もちろん労災保険もなかったこの人間共は、いったい何処の誰だったのであろうか?
二十世紀の今でさえケーブルカーにのらなければ、とても登ってゆけぬ比叡の山頂に、大きな石や材木を担わされ延々と蟻のような行列を作って、這い上がってゆき、すこしでももたつけば鞭や棒で乱打され、見せしめのため石で撲り殺された人々。
逃亡を防ぐために鎖をつけられていた故、あの比叡の山の崖で一人でも足を滑らせたら、何十人も一度に曳きずられるよう、「ワアッ」断末魔の悲鳴をあげて墜落し、粉々に谷底に死んでいったろう人々。
東大寺にしてからが、あれを建てるのに何万の奴隷が酷使され何千の人間が血を吐き虐殺されるみたいに死んでいったか。
‥‥さて、そうした奴隷の群は、誰であったかを金達寿に考えてもらいたいのである。
いくら氏でも、それらまで朝鮮人だとはいわないだろう。それら奴隷は、日本列島にそれまで平穏に暮らしていた何の罪もない、吾ら日本原住民に他ならないからである。
なにしろ日本人は、原爆を落としてよこしたトルーマンの手先が進駐してきても、レジスタンスどころか何の仕返しもできず、「過ちはくりかえしません」と自らの手で原爆記念碑をたてるようなまねをしたり、「ヘイ・ウェルカム・ユゥ」と、いまだに基地ちよぶスペシャル・ランドで、一回5ドルで日本ムスメを公然と彼らに抱かせているのは、みな行基や最澄らの時点において、「占領軍にさからったら、どんな目に逢わされるか、よぉ覚えておけ」と散々にしごかれ、徹底して恐怖をしみこませられたためではなかろうか。
つまり日本人の、体制べったり志向とか、「長い物にはまかれろ」といった、ご無理ごもっともの奴隷根性を、今や国民性になってしまうまで浸透させたのは、彼らのせいでなくてなんであろうかと、それをいいたい。「エエコーラ、エエコーラ、もう一つエエコーラ」といったヴォルガの舟唄が、かつての日本人に愛好されたり、アンクルトム達の、「黒人霊歌」が日本でもてはやされ、亡国流浪ジプシーの「フラメンコ」が流行する下地もそこにあるのではないだろうか。
福岡徹の『軍神』をみると、旅順戦の日本軍は、「私らは消耗品ですから踏んで通って下さいと応招達は、児玉大将が見廻りにくると反抗ではなく、動けぬ身体をその靴の下におこうとした」といった場面がある。
最近もイオウ島の洞窟で、手つかずの一升瓶の水をそのままに、かわきと飢えで死んでいった日本兵の白骨の山が、遺骨蒐集隊によって発見されたと報道され哀れ人々の涙を誘ったものである。
なんというべきか、この従順さ、そして命令されれば、「死んで帰れと励まされ」の唄通りに挺身するけなげさ。しかし一旦だめとなって無条件降服してしまうと、またしても、「アメリカさんのためならエンヤコラ」
と、火中の栗をひろうどころか、六分間で一億一心総火の玉となってしまおうとも、あの憎っくきかつての敵さんにさえ、お仕えしようというその忠義ぶり。これは涙なくしては語れもしない。
つまり、こうした家畜人ヤポンスキーに、吾々を仕込んでしまったことを考えてくれるなら、「加藤清正がきれいな女をもっていった」「島津豊久が陶工を薩摩へ伴っていった」「伊藤博文によって、日韓併合を強行された」「大震災のとき、町会自警団に撲殺された」
といった非難も勘弁してほしいものだ。
朝鮮征伐のときに此方が荒らしたことばかりを、しきりにいうが、秀吉の急死による引きあげで休戦協定もできずの撤兵だったから、取り残され虐待された日本人がいかに多かったかを、日本の歴史家は忙しいから、現地のそちらで、ぜひとも調べて頂きたいものである。「日韓併合」も、あの時ああしなければ、韓ソ併合だったのではあるまいかと思うし、日本の自警団や町会のオッサンが権力側の手先になるのは、かつてのクダラ人の教育というかシツケだったことも判ってほしいものである。
箱根権現神社も伊豆山神社も、コマのカラ神さまだというのならよくも参拝しよう。
だから安保継続で日本の青年が、アメリカさんの命令で行かねばならぬその節は、どうぞお手柔らかにと、今からせつに頼んでおきたい。
悲惨が人肉を呼ぶ
「アシュラ」という劇画で、人肉を食うのがいけないと、各地で批難されている。
しかし、げてもの食いで芋虫やゲジゲジを口にするのとは違う。作中の人物にそれを食させねばならぬ必然性があって書くのだろう。『魔女裁判』を書きにリスボンへ行っていて、又ぞろ私は十五六世紀の古い記録を見て廻っていたら、(生きた女の生肌をはがした皮製)というB4版程の大きさの物をみつけた。
しかし若い女にしろ老婆であったにせよ、なめし方が悪いのか、四五百年もたつと人間の皮はもろいもので、縮んだり裂け目ができていて、羊皮張りの方が遥かに堅牢だった。
だから人肉もいくらビールを連日のみマッサージしている人のでも、和田金や人形町日山の肉ほどは、食しても美味ではなかろうと想える。
ところが大気汚染や海洋公害のため、人口増加に比例して食料増加は望めぬから、近い将来には人間は食するものに事欠き、やがては、「完全人造肉」を口にするやも知れぬといわれる。
といってそれは石油製の人口肉ではないのである。
そうなると地球は、もはや大きな荒野にしかすぎなくなるが、その時のためにと、「家康は二人いた」を七百枚書くとき、十六世紀の駿河にはその風習があり、幼き日の家康も骨の間に残った生肉の残滓(ざんし)をしゃぶっていたのを書いたが,これは満州で終戦直後に私は自分の眼で見てきたから、抵抗なく書けたらしい。
というのはトルーマンが原爆を日本へ落とした二十六年前の、あの暑かった夏。
白い入道雲の浮かぶ満州の荒野へ、条約を無視した赤軍が怒涛のごとく侵攻してきた。「無敵関東軍」とそれまで豪語していたのが妻子を疎開させ、現地召集のシロウト兵に、「死して護国の鬼となれ」と命じ自分らも逃げてしまった。ひどいものである。おかげで彼らが口を酸っぱくして演説していた「武士道」なるものを、それからは信用できなくなったのだが、さて当時の関東軍は現地満人に衣料切符は与えたが、現物は殆どやらなかった。
そこで孫呉や興安からの引揚げ邦人婦女子は、着物やモンペどころか腰巻やショーツの類まで、途中で掠奪されみな丸裸だった。
ところが、そこへ襲ってきた赤軍の機甲軍団。
第一線はシベリアの囚人部隊であるときいたが、これが物凄いなんてものではなくて、荒野を逃げ惑う邦人婦女子は、彼らの波状攻撃により、性の迫害が生そのものにまで及んで、何とか致死でばたばた死んでしまった。
さて、山で遭難した遺骸を燃した経験者は御存じだろうが、人体というのは水分がその殆どのパーセンテージをしめているから、マッチと枯草位では焼けっこない。そこで引揚同胞は、遺体を放ってもこられず、といって焼くには手間がかかるので、よく燃えるように骨から水分の多い肉片をむしり取った。
が、それも棄ててくると山犬に後をつけられ、生きている方までが、ついでに餌食にされ食い殺される。
だから、骨からはずした部分を携帯しての逃避行となったが、さて次々襲ってくる連中は、「オーチン・ハラでショウ」とばかり、荒野の中で包囲した生きた日本女性の体を、寄ってたかってほしいままにしたあげくが、死んでる肉片まで、彼女らの携行食糧の鹿の乾肉かと勘違いしてもりもりかじって食した。
やがて性的に経験の浅い少女たちは、日に数十回の迫害に堪えかねて荒野で死んだが、辛うじて生きのびられた女性は、カナカ土人のように腰に草葉をまいたり、破れた麻袋を拾ってかぶり、獣のごとく奉天へ辿りついた。
そして、北春日小学校へ彼女らは収容されたが、赤軍包囲下のため初めは食料がなく、彼女らの中からも餓死者が一日おき位にはでていた。
やがて残った彼女らが白粉や口紅を手に入れ、やむなくロスケ相手の性行を始め出すまで、何人かは、いや全部の女達が窓硝子の割れた教室の中で「鹿肉」とよんでいたそれを食べ、悲惨な話だが飢えをしのいでいたのを私は眺めている。
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