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八切日本史 7より:
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われらの幻影
なぜ蔭流か?
「日本刀こそ大和魂の発露」と大東亜戦争開始までの日本の有識階級の家には、ご真影と日本刀さもなくば刀剣銘の蔵書があったものである。テレビで、「日本刀は切先三寸しか匁[刃?]はついていまへん」とアラカンさんが堂々といえるのも今だからである。昔だったら刀剣で儲けている連中、史学者や歴史作家から徹底にうちのめされた筈だ。あくまで日本刀を神聖視しカミカゼ特攻隊まで昭和刀を持ってゆくのは宣伝の行過ぎだった。
小説は虚構だし芝居や講談と同じで見せ場がいるのだから、抜きあってさしている刀を斬り合いさせても構わない。
さて話は違うが、小学館の白土三平全集に、<忍者武芸帳論>を書くので、全巻の十七冊をもう一度見直していたら、「影丸」という存在と、その時代に始まったといわれる上泉伊勢守の神陰流、神道蔭流、柳生新蔭流、疋田陰流、天野破陰流といった刀技について、これまでは誰もいっていないが、改めて考えさせられた。
刀道に「陰」を流派に名のるのは多いが、「正」をつけたのはない。これは何故かというとところの疑問である。さて、さかのぼって、「刀」はいつ頃からの物かというと、その原形は朝鮮の鉾麻布刀らしいが、いわゆる記紀にも、刀なるものは出てこない。<景行紀>に「みはかせる十拳(とつか)剣を抜き」とか「八握(やつか)」と、みな剣の文字であって、悪魔退治の呪術に、(剣をふるって空中を斬る)のが、今も、「剣舞」として伝わっている。
八握とか十拳というのも、握り拳をもって寸法を計る単位としたもので、さしずめ80センチか1メートルの胴剣のことであろう。
さて、今でこそ刀が一般的になって、双刃(もろは)の剣は博物館物だが、かつては日本列島占領にこれが使われたのだろう。
かつて私は今から二十四年前に、北春日地区二千余名の婦女子をつれ引揚げてきた。
そして、ソ連軍八路軍国府軍の三つ巴の中を三ヶ月掛りで奉天から脱出してきた疲労困憊から、比較的食物のある滋賀県へ移った。
落着いた所が何処かというと、<忍者武芸帳>の中で影丸が、仇とも敵とも狙う織田信長が天正十年五月に造営し、白目像、つまり大理石像のアポロか何かをここに祀り、「われ神なり、汝らも来りひざまずけ」 と、天に一神しか認めないイエズス派の宣教師までかりだして跪(つまず)かさせ、その憎しみをかうに至った總[原書では左側は手偏]見社。今では寺とよばれているが、安土のそこの宿坊の厄介になり、毎日大きな樹のある池のところへ出ていると、
当時バタバタとよばれたモーター・バイクなどで登ってくるのが、本堂へは外から叩頭し決まって濡れ縁に何か紙包をおいて行く。
開けてみれば白米や、物資不足の当時としては眼をむくような肉の塊りだったりした。
そこで不審に想った私が追いかけ、迷惑がられながらもあれこれと問いつめてゆくと、「わしらは代々、他と宗旨が違う」くらいしか初めは洩らさなかったが、そのうちに、「もう前の世の中とは違って、なんでも本当の事が洗いざらい出てくる民主主義の世になったのだから、信心の違う自分らの歴史を教えてくれる本も、出てきてええんと違うか」といったような素朴を疑問を訴えてきた。(信長の時代に、はっきりした一大変動が起きて、かつては影のようだった存在の部族がここに陽のあたる場所へ出たが、間もなく信長の死によって蔭に追いやられる存在になった。ところが終戦で又しても再起できそうな機運になり、ヤミヤで儲けた彼らはここへ寄進にきている) とまで、次第に判ってきた。これが私の、『信長殺し、光秀ではない』を調べだし書き出す出発点になり、やがて、「戦時中の軍部は、ヤマト民族は単一人種だといっていたが、世界中どこへ行っても同じ人種で、別個の神をもっているのはいないにもかかわらず、神道仏教その他と日本にはありすぎる」
という視点からして、これは、「剣をもつ陽の部族に征服され、片刃をもたされ使われた蔭の部族がいたのだ」
と、はっきりしてきたのである。つまり、「天孫系とよばれる船舶民族にすぐ降服して、まず農奴化された者達もいるが、抵抗を続けた者達も七世紀あたりになると、やがて征服され俘囚として各地へ分散収容され、この末裔が十一世紀初頭の刀伊(刀一)族の来攻による国防軍に徴兵された歴史」が判ってきた。
ミナモトの頼光などといった人名や、坂田の山からの金時や渡辺の綱あたりが、史上に名を現すのはこの時点からであり、のち来攻はなくなったが、「せっかく集めたものを勿体ない」というので転用されたのが東北侵略用で、「前九年の役」「後三年の役」では、ミナモト族も、義家をもって、ついに、傭兵隊長としての武功をたてられるようになり、平和になった後は、白河上皇の、「失業軍人救済の思召し」により1095年には、「北面の武士」という、のちの皇宮警察官の誕生をみるようになった。しかし剣を彼らはもたされずに、片刃の刀をそのサーベルにされた。
そして信賞必罰というか、俘囚の子孫である武家(公家では地家とよび、地家侍の称はここから出る)は何か事があると、彼らは、「八」という蔑称があったから、すぐさま、八切りの目にあった。俗にいう切腹で、(八ラ切り)となっている。
古文献もある。これは片刃の日本刀だからこそ押さえて出来るのであって、もし双刃の剣なら、両面に刃がついているから切腹など出来はしない。
だから日本人はみな切腹するような錯覚もあるが、武家はやっても公家は古来一人の例もない。正親町帝が豊臣秀吉に御位を奪われかけたとき、みずから宝寿を絶たんとされたが、「初めは咽喉をつかんと遊され、のち食をやめてと変られし処」 と、当時の奈良興福寺の多聞院英俊は、その日記に書き残している程である。
刀というのが、日蔭の民である原住系の限定使用だったことは、切腹を例にもってきても、またその刀工の発生地が、「越前加賀」とか「美濃関」「相州鎌倉雪の下」といった旧別所。つまり七、八世紀頃の捕虜収容所の跡だった点でも判りうるものと想う。つまり被征服民となった原住系は、「追われてみたのはいつの日ぞ」と山の中や離島へ、赤とんぼと共に追いたてをくったから、(八)を、「や」とも発音し、「厄魔」の別名があったのは「名月記」にもあるが、YANMAと蜻蛉をよぶのも、これが訛ったためであろう。
そして赤トンボの唄が皆に好かれるのも、占領系に比べ原住系の子孫は多いから、伝統の血の流れが今でも多くの人の感銘をよぶせいだろう。
江戸は死して江戸っ子を残す
蔭も陰も、影丸の影も同じ意味だが、これを、八(鉢、蜂)とよぶ他に「え」という呼称の仕方もある。もちろん日蔭のことだから、女性の肉体でも一番かくされる部分には重ねて「エイン部」といわれる所もあるのである。
しかしこれを今は、会陰部と書き、「左右から会しあって陰となる」式に当て字されているからして、もっともらしくぴいんとこぬかも知れぬが、そこから出産のときに胎児が冠ってでてきて、すぐ棄てられてしまうのをも、「エナ」(胞衣)という。<続古今集>の中にも、「エぐ(影供)し侍りしに」と、えは影に用いている。今こそ、「ええ女を持つとってええな」といえば、(綺麗な彼女をなんして良いな)の意だが江戸時代の浄瑠璃ではまた、「えおんな」とは「隠し女」のことで、近松門左衛門の作品でも「身うけの銀さえ払うて下されますなら、え女になって囲われてもいとやせぬ」とある。
つまり、「え=陰」だから、大村崑と小さな娘が出てくるCMで、しきりに、「ええ事しやはる」と乱発するが、本来の意味は陰事を行なう、つまり淫事をなるの意味である。
何故かというと、出雲系日本人の神話に、「天の橋立に立っていた女神がよき相手とみられる男神を見つけ給うて、『えな男や』と寄っていかれ、衝動的に立ったままで行為を遊ばされ、その落ちた樹液の雫によって、樹氷のようなオオヤシマ列島が出来上がった」 というのが話の起こりで、やがて船舶をつらねて渡海してきた文化民族のために追われ、「えの民の逃げた島」ゆえ、「えだじま=江田島」「えのしま=江之島」といった地名や、東京みたいに、「えど」となって、えばらやえこだの地名すら今もある。
山岡荘八の小説などでは、徳川家康が「厭離穢土」の旗をたてて進むが、穢土を好こうが嫌おうが、江戸はエドでしかない。そして今でこそ、当て字だの間違い字だのと、会社の入社試験でもうるさいが、「珍文漢文わからない」と明治になっても、当時の団珍新聞が政府通達の漢文文字入りを批難したように、まだ大正までの漢字はみな発音の音標なみで、「edo」を発音できれば、穢土でも江戸でも構わなかった。だが江戸時代の江戸人は、こうした意味合いで、できるだけエドとはいいたがらなかったものらしく、「ご府内」「府内」で通し、このため東京都になる以前は東京府とよばれた程である。
つまり本当のことを書くと身も蓋もないが、「江戸ッ子だァ」などとタンカをきりだしたのは、江戸がなくなった明治以後の事であるらしい。
さて、おおよその見当はこれでつくらしいが、「西方の極楽浄土を望むもの」と、「東方のエドにしがみついている原住系」の二つ。
つまりカラ(韓)神を崇ぶのと、五、六世紀以降に、船連、津連といった天智八種の姓による仏教をもって渡海してきた船舶民族に大別される。
そして被占領民族であり被圧迫民族である原住民が、「陽の照る所へ出られぬ種族」となり、これが「陰」になり「影」となった。
これを判りやすく簡単に説明すると、「西暦十世紀」の頃に、「われこそはミナモト(原住系)だぞ」と、二千数百あったという捕虜収容所の院地、別所から、白旗を掲げて集まり文治革命を成功させた連中も、やがて足利時代に入ると、もはや彼らは公文書にさえ、「白旗党余類」としか書かれなくなった。
そして、なんとかまた陽の当る場所へでて、「立身出世」をと願うのなら、彼らが嫌った坊主スタイルになって、その上、ナンマイダナンマイダと唱えさせられ、「何とか阿弥」と名乗って洗礼をうけるしか他に、官公吏に採用される道はなかった。
それとても暴動でも起こされては大変との配慮から、茶湯、生花、能楽といった安全職種に限られていた。刀の手入れや鑑定が「本阿弥家」だったのもこのせいである。
日本ではヨーロッパ程に芸術が尊重されていないのも、その従事者が<蔭>の民族で、役者や講釈師などが、明治に入っても、「河原者」と扱われたのはこの為で、今でもタレントが近代ビルの放送局でも昔のやくざの慣習そのままに、あたりが真っ暗でも、「オハヨウゴザイマス」と挨拶し、すこしも働いていなくても、ねぎらって、「オツカレサマ」とやりあうのも賭場の慣習そのもので、博徒が、長脇差と称して、長刀をさしていられたのも、やくざの語源が、「蔭の民」であり、その流れで、戦国武者の末裔である俘囚の子孫だから、寺の人別帳にも入らぬフリーみたいなもので副業に興行をしていた連中だったからである。
大小捨て槍一筋に
天保五年版芝神明前和泉屋吉兵衛刊行の「武道初心集」の、従僕着具の部に、「小身の武士は不慮の変の時といえど、家来を沢山つれて行けるわけではないから、槍一本の他は持ってはならない。が多少でも供を連れてゆける者ならば、持槍が折れ損した時の用心に、槍の身の予備を袋に入れて持ってゆけば、いざという時は竹の先に縛りつけても使える。なお刀というのは相手が甲冑をつけていると、殆んど打ち折れてしまうものゆえ、これを持ってゆく者は差しかえを若党に持たせ、若党の刀は草履とりや馬の口取り仲間に、移動刀掛けのごとく差させてゆくべし」 とでている。つまり従来のように武士というのは必ず戦国期でも大小を腰にさして歩くというのは、あれは絵空事でしかない。
いざという時、腰にジュラルミン製ならぬ本身の大小などさしていては、重いし邪魔で走れもしない。だから[武?]士というのが、「槍一筋」といわれるのはこれによる。
では大小は差さなかったかというと、礼装用には用いていた。大刀を預けねばならぬ場所では換って小刀を腰にさしたのだが、幕末は物騒になったので一遍に二本ともぶちこむようになった。斎藤竹基の著では、「嘉永三年」つまり国定忠治が死刑にされた年あたりからだという。なのに一般に、「武士は二本差し」という観念を、何故与え始めたかというと、これは村方の八部衆の風俗によったものらしい。
というのは、「俘囚の裔」で武士になった者の他に、捕方や牢役人になった連中は、代官が田畑見廻りをする時や、神輿が出るとき、今でいえばガードマンとして先導役にたったが、差換えを持たせる若党や仲間を伴っていないから、重いのを二本さした上に六尺棒まで手にした。
そこで、「え」とよぶ連中の多い江戸以東ではそうでもなかったろうが、京阪以西の百姓は、中国語からとって、「両個(リャンコ)」と蔑み、また二は、三と一の中間ゆえ、これをサンピンとよんだ。さて、「江戸時代の武士の扶持の最低は三両一分だったから、それからとってサンピンという」 などと説明する「武家事典」もあるが、「江戸時代の士分の最低は、一人扶持つまり玄米一日五合」これは年にして一石八斗の扶持勘定で、「何両」というのなのは士分ではなく仲間小者の計算である。
そして云わずもがなかも知れないが、箱根の関をもって東は金本位で西は銀本位制ゆえ、江戸時代は一両といっても、小田原以西は(銀目一両)で、これは(金一両)に対して六掛か五掛だった。
つまり三両一分といっても、箱根の向こうでは一両二分か、一両二分一朱の勘定で、今でもこの為に間違わぬように領収書には、金か銀を上につけ、「一金何円」と書く習慣が残っている。だから武家事典はこじつけにすぎない。しか
し、「さんぴん(三一)とよばれた八部衆の連中(岡山から福山方面では三八とよぶ)は刀を二本もさして威張っていたが、明治七年に警察権を薩長閥に奪われると大変なことになり、「よくも今迄は威張りくさったな」百姓から苛められ、つまはじきにされて、これが、「村八部」今の「村八分」の起りになるのは前述した。
だからして、こうした匿された史実をおってゆくと、いまテレビや三文小説で、「刀は武士の魂」などといわせているのも、あれは廃刀令で刀の売物の山を抱えた刀剣商が、明治から大正にかけて、なんとか売ろうとして考えついたCMではなかろうかといった疑さえもてる。
というのは、刀は公刀とよばれ扶持を与える主人から、その防衛用にと腰に差すことを義務づけられているもので、時には折れたり曲がりやすい日本刀の性質上、スペアが必要だったから江戸中期の大道寺友山の説くように、「士は自分の主人の替え差料を、生きた刀架けとしておびて供をしていた」という実際談からすると、主人は刀のことを武士の魂といってもよかろうが、家臣は、「刀は武士の腰にさし運ぶもの」にすぎなくなる。
つまり一人一人の侍が自分の刀を己が腰にさしていたというのは嘘ということになる。友山の「岩淵夜話」にはさる大身の旗本が、刀自慢でいつも十握り程の刀を、自分は重たいから無刀だが、供の者に一本ずつささせて引きつれて歩いていた話がでている。
明治初年の「廃刀令」というのも、武士の扶持がなくなったので、もう公刀を重い思いをして差して歩かなくともよいというのであって、やくざのような私刀を差して歩き廻る連中には無関係だったのもこのためである。
では、武士の魂とは何かといえば、これは槍の穂先だったらしく、心得のある武士は己れの頭上の長押(なげし)に槍を掲げておき、これを日課に砥ぎ磨いたものだと、「武道用心集」には明白にでている。
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