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一般庶民は奴隷
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投稿者 1984 日時 2011 年 12 月 12 日 15:42:43: 3SipOypTxKjgk
 

(回答先: 源頼朝はつかいすて(もったいないオバケがでるぞ〜) 投稿者 1984 日時 2011 年 12 月 12 日 14:19:45)

古代史入門 12より:

義理と人情とは

----前人未到で、これまで何人もなしえなかった日本古代史への入門を、何の参考らしいものとてもなく、まったく自力で独特解明してこられたのは何故でしょう。まったく、これまでの日本史では例外ともいうべき納得できる真実で読めば合点でき、これが本当だなと判るのですが----民族の血の流れでしょう。誰もできなかったのは、日本という国は儲かることでなくてはしない。真実の歴史の解明なんか一銭にもならぬ。だから身銭をきってまで馬鹿なことをするようなのはなかっただけです。解明し後学のために書きあげた八切史観の初め五冊は、あんまり詳しく書くとわかりにくいから、占領軍の方が、黒染の黒。要するによく外国で、宣教師を先に送っておいて、それで人民を手なづけてから占領軍が入ったみたいに墨染の衣を着た坊主を先に入れました。今でも岡山へ行くと、黒住教という宗教が残っています。それに対するに被占領軍の方は白となして、黒と白で八切史観は入っていってます。
 
しかし、本当はそれよりも、古代海人族は赤でその方が多いんです。これは神社で言いますと、白木造りの神社って申しますね。あれは白木じゃなくて新羅造りなんです。日本において、新羅の方が多くて、高麗(こま)は九州の薩摩だとか肥後もっこすが高麗ですが上州の方も強いんです。埼玉県には高麗神社がありますけれども、彼らはその氏子なんです。同じ騎馬民族として共闘したのですが、勢力が今の慶尚道の新羅の方が強く、やがて、その下に入ったものだから白木造りの神社の前には、必ず狛犬が置いてあります。ガードマンみたいに、左右に二匹ならんでいるのがそれです。
 
古代海人族の方は、原住民の立場でいいますと、馬方は、民族カラーの白いフンドシです。ところが、カゴカキだとか、それから蓮台渡しだとか、馬を使わない方の人足は全部が赤フンドシです。要するに、生魚をかじりながら日本へ流れついた連中ですから、私たちの子どもの時には、海で水泳する時には先生がみんな赤フンしめさせたもんです。僕は白いフンドシだと汚れるから赤いのかと思ったら、そうじゃないんです。海へ入るのだからです。大体において、白と赤とは庶民の大半どころか殆どだということになるゆえ、紅白の水引とか紅白歌合戦だとか赤と白に限ってます。坊主相手のお葬式の時だけは白と黒になるわけです。郭ムソウこと藤原鎌足が最初二千人連れて白村江の戦いに663年勝って日本に入ってきて、その次の664年の五月には御所へ入っています。で、日本の歴史年表をみると、郭ムソウが表函を進む、要するに進物をプレゼントするということになっているんです。
 
ところが、マッカーサーの時を思い出してもらうとわかるけど、第一生命ビルですから目の前の二重橋を渡れば入れるのにマッカーサーが宮城まで行って表敬訪問はしてないわけです。おそれ多くも天皇陛下の方でマッカーサーのところへ行き、腰かけてでも写真をとればいいものを、占領軍は立って写真をとるもんだから、情けない変な写真になり、申訳けなさに私は関東軍若手将校と共に付合いで、もちろん浅く切って左右へ知らず助かりましたが腹を切ってしまったんです。
 
私なんかは子どもの頃から天皇陛下万歳で育ってきたし、紀元節の時にはちゃんと紅白のマンジュウもらっていたから、マンジュウを頂いたための義理です。義理と人情をハカリにかけりゃ、義理が重たい男の世界って高倉健さんが歌うとカッコウいいけどね、義理というのは全部、物もらうとか金もらうことであります。人情からいえば、田中某は評判が悪いし悪い奴だけれども、しかし田中某のお陰で道路工事の仕事が回ってくるとか、田中の側に投票をすると幾らになるとか‥‥
 
たとえば清水次郎長なら次郎長が悪い親分のところへ行きます。その時に、いまの若い人だったら、どっちがいいのか悪いのかなんて判断しますけれども、そんなこと絶対にしないものです。悪い親分のところの子分が一所懸命になってバッサリ斬られるような調子でもかかっていくのは、たとえば女房が病気の時に入院費出してくれたとか、子どもが学校へ行く時に祝ってくれたとか言った義理で掛ってゆくのです。これを義理がけっていうんですけどね。義理というのはお金ですよ。義理と人情をハカリにかけりゃ義理が重たい男の世界っていうのは、日本におきましては、金と人情をハカリにかけりゃ、感情なんてことよりも、ソロバンの勘定の方が大事であると、もうかる方につかなきゃいけないというのです。ですから昔から「一文にもならくことを、誰がするものか」といった格言さえも、堂々と昔から日本には七世紀からはあります。
 
つまり唯お金しか信ずるものがないのが、本当に信ずる対象をもたず、七曜神さえ宝船にのった七福神にされて、夷也が稲荷にされ訳けが判らなくされた私どもの悲しさでしょう。

 
丁度今から半世紀ぐらい前の大正時代は、日本軍部のシベリア出兵からインフレがひどく、米価が四倍にもなり富士焼津や越後の裏日本の騎馬民族の流れをくむ女たちが県庁や町村役場、米屋を襲って米騒動。これが日本全国に波及し各地で暴動が三百余ヵ所に勃発。軍隊が出動して斧やナタを振う女たちを鎮圧。そこで大正デモクラシーという日本では初めての自然発生的な民主主義的な世となった。なにしろ「おい、こら」とサーベルを振りまわすのを、おかみさん連中の薪割りのナタで叩き落し折ってしまって、やむなく軍隊がでて銃撃し、寺内内閣は解散。「明治密偵史」[日本シェル出版]にでてくる、税金を機密費に貰っていた原敬が、平民宰相を看板にして新内閣。そこで平民時代が日本にも、やっとのことでようやく生まれかけだしみたいになった。----昭和初期までの短期間だが、大正デモクラシーとよばれ、それまでの幕藩体制に対し反撥。その中で今も残っているのは柳田国男の民族学。ついで弟子である折口信夫なんかが現れて、オカミの歴史に対して常民史観というようなことを言いだしました。歴史は英雄史観じゃダメなんだと。常民の、平凡の庶民の、庶民という言葉は使わないんですが、平凡人、常民の日常の生活ですね、そういうものが本当の歴史なんだということで、いつの間にか、五十年以上たって、民衆の歴史は、柳田とか折口らの、そういう歴史観でいいんだということで、一応は学問的にはキチンと表現されてるんだと、いつの間にか、そんなふうになっているところがある。
 
そこに原住民の歴史という観点から、ひとつ大きな問題があるように思ったんです。しかし何といっても、柳田国男は大正天皇の即位式の時に、宮内庁の役人として、何か奉職をしたというくらいで、いわば天皇崇拝ですけれども、同時に今までの政治優先で体制べったり。
 
英雄豪傑とか権力者じゃなくて一般の民衆の生活に則した歴史ということで、大きな影響力をもつようなことになってしまってるんですけれども、だが柳田や折口の民衆史観の、非常なインチキ性というか、あるいは落とし穴といいますか、それをキチンと決着をつけるということです。非常に重要じゃないかというふうに思うんですけれども。柳田国男が『遠野物語』をいわば地元の佐々木さんのものをソックリそのまま出すという形で柳田民族学というのを引っ張ってきてると思うんですけれども、彼の常民はそういうエゾの話が出発点になっているというんですけれども、原住民の抵抗とか、天孫族によって日本列島の原住民がだんだん追い込められるわけです。そういう観点が巧みな手法でだんだんその姿が消えていくみたいに実は感じて痛感してるんです。あの人が集めた聞書きみたいなものの中にも、山の中で、農民が非常に落ちぶれた感じの、山の者と出会う場面です。
 
しかし、これはすごく落ちぶれて、みじめな形で現れてきて、だんだん、しかしその姿も消えていくみたいな書き方です。だから、彼らのそういう、だんだん消えて落ちぶれていく山林の貧困歌を自分は歌うようなあんばいなんだなぁなんてふうな形でできた原住民の話が出てくるわけ。それで体制側に非常に従順に暮らしている‥‥そういう具合な庶民ですね。それを日本民族という形でそういうカテゴリーに位置づけさせて、それを日本人そのものだと、そんなふうに辻褄合わせしている処があるような気がするんです。
 
しかし、折口さんはやや柳田さんとズレたところがあり、この人は敗戦後はある程度は、本音らしきものが出てくることになってるのかもしれませんけれども、折口さんの場合には、芸能論という形で発表されている。やっぱり日本の芸能は征服された奴隷から出てきたんだということが、かなりはっきり言われているようなところはあると思うんです。折口さんの場合、それでまぁ、ちょっとは程度の差があるというレベルの問題だと思うんです。---- それで柳田民俗学について何ヵ所か、ちょっと簡単に言及はされているところもあると思うんですけれども、そのへんはどうでしょうか。----仄聞しました処では、柳田さんは今ではゲイが市民権をもってますけど、当時は最大の悪徳だったんで、これをバラすぞというような圧力を受けまして、俺はいいけれども、折口が可哀そうだからといい、途端に民俗学の方へ行っちゃったわけだそうです。あれだけ頭のいい人ですから、あの人が原住民史をやってくだされば私ごときが生涯かけて前人未踏の途を手さぐり足さぐりでやらなくてもまだ当時なら資料も多く残っていたでしょう。
 
次にやはり手がけられてやめられた白柳秀湖先生の場合は、ひとり娘さんがやはり人質みたいなことになって、男親っていうのは娘がかわいいから、結局あの先生も、せっかくいいところまで行ったんだけれども、プレッシャーをうけ、やむあえず中止して右翼の評論家として歿られました。
 
さて芥川賞をとった作家の死んでるのが九割までが自殺なんだけども殆どが自殺ということをみんな遺族が伏せちゃうのです。たとえば火野葦平の場合だって、火野葦平がかわいがってたライオンの子どもが翌日は締め殺されゴミ箱にあったのは有名な話で、半田義之も、私は『作家群』という同人雑誌にいましたから一緒だったですけども、半田の場合でも、奥さんやお母さんが、自殺だというと、何か精神病者みたいに思われちゃいけないからっていうんで、伏せてしまった。
 
寒川光太郎の場合も同じですけども。‥‥遺族が結局、後のことを考えて日本では‥‥自殺は性格破綻者か気違いみたいに不名誉と扱われているようです。ですから遺族があると、せっかく自殺しても何にもならないことになる。川端さんぐらいになると、ガス管咥えて自殺しても、ちゃんと家族の理解があって本当のことを発表して自殺となって通るわけです。それとも、太宰治みたいに愛人に連れられて玉川上水に飛込むと、それは証人がいるんだから、生き証人じゃなくても、死に証人がいれば、まあ大丈夫です。----それでも、太宰に近い人たちは、女に殺されたんだという説も自殺じゃないと‥‥流しているようですね。自殺ということは何か‥‥吉村昭っていうのが、作家というのは異常な者だと思われているけれどもノーマルな者である、と東京新聞に書き「作家ノーマル説」というのは、それから三浦朱門とかの連中が言い出したことなんで。だけどノーマルだったら作家になるわけなんてないですよ。アブノーマルだからこそ作家であるべきではないでしょうか。私は自分がそうなるだろうと、八切止夫は破滅型で全財産を研究に投じているので、この点は真剣です。
 
さて原住民、原住民というとインディアンみたいですが、郭ムソウが最初は兵二千人軍夫四千を連れて、日本にきました。現代でしたらば、アメリカだったら奥さんのセックスのために慰安船をよこすでしょうが、当時は、まだディーゼル機関がなく西南の風が吹く年に一回しかこられないんですから、彼ら六千人は全部がチョンガーです。それから西暦668年「吾にまた二千の兵を送る」との記録ではなってますが、ここでの吾が、さも日本へと誤っているが、進駐軍の吾のことで意味がまったく違ってくるんですよ。日本には百済王朝の男たちは全部が将軍かまたは将校になって、全部マザーランドの百済の救援に二万七千の原住民を引っ張って白村江へ行ったんだから、そんなにすぐ帰ってこられるわけは、とても当時ではありえぬ。「今日も暮れゆく異国の丘に」という歌があったけど、あれは引揚げ船があったから、待てば八年か十年めに帰ってこられたが、当時は、そうは戻っては来られぬ、向こうで奴隷です。
 
さて進駐してきた郭将軍ら偉い人たちは百済系朝鮮美人を片っ端から現地ワイフ。かつて司葉子が代表的な朝鮮美人の典型だったのです。体がスラーッとしていて、毛の薄いのが特長。
 
まぁ軍人軍夫共で九千何百人、それから一旗組を入れると、約二万ぐらいの人間が、札チョンというという言葉があるが、原住民の日本人の女を全部現地妻にし、子どもを生ましたわけです。テレビの『ルーツ』で白人の旦那が奴隷の女に子どもを生まし半分は白人でも、やはり奴隷として売りにだす。あれと同じで生まれた子もその子も賎。つまり今の庶民の元祖となるのです。
 
さて海外旅行でもパック旅行なんかでは、みんな日本人から金もうけるかして非常に愛想がいい。ところが、われわれが個人で向こうへ行くと、面と向かってウップ、ウップと言う。ウップとは排泄物のこと。イエローです。ドイツでは面と向かって、スモールピープルだが、大体のところがウップ、ウップ。ところが、一番最大の蔑称は、バスタードつまり庶子と呼ばれること。
 
父親が認知するだけの子供、たとえばこの子は器量がいいから大きくなったら芸者に売れるとか、作男に使えるというのでタダで使うために庶子として認知するのゆえ、バスタードという言葉は最大の罵りなのに、日本人は平気で、われわれ庶民の生活はキツくなったなどと用いる。そして日本人の中に庶民と自称するのが八割五分から九割いるわけです。
 
それゆえに投票日がお天気ならば、自民党に投票すれば増税になるし、いつ徴兵制がしかれるかわからないのに、家族そろって全部がみな自民党に投票するケースが多い。まぁ義理を封筒に入れてもらっているせいがあるかもしれないけれど、まぁ伝統の奴隷根性です。
 
さて、ソ連だってソビエト連邦。なにしろ有色人種が人口の75パーセント占めてるからでありましょう。が、アメリカだって合衆国。超大国はみんな合衆国だとか連邦なのに、日本みたいに単一民俗だといって威張っているみたいなのは、なんだか時代遅れみたいで薄気味悪いです。
 
一般は弁髪人と、または百済人と原住日本人女性との間に生まれた子どもで、それがまた、ずーっと次々と続いてきてるわけだから、お上には絶対に服従です。『野史辞典』の中には、「八虐」という言葉が出てきますけれども、少しでも怠けると、田んぼへつるしたり、やりたい放題のことをやられても、お上に対しては絶対に忠実。オカミが自民党なら皆こぞって投票する。
 
だから、一般庶民は男は隔離され先住民ゆえセンズリで済まし、女は否応なく大陸系の子をうまされているから、今となっては、例外もありましょうが大半が混血の子孫なんです。ですから、おカミさまに対しては完全な奴隷です。だから世界歴史が始ってから異邦人に占領されて、アフガニスタンでさえも手製の銃でいまだ戦っているのに、一回のレジスタンスも起こさなかった。
 
とはいえ、日本も七世紀までは、一所懸命にレジスタンスをやった。ところが石の斧と貝の刀に鉄の刀ではかなわない。終われ追われて東北。例の岩手県みたいに一戸、二戸、三戸と九戸まで海岸近くまであるが「ノエ」というのはバリケードのこと。だから九戸まで追いつめられたから、あとは海に飛び込んで北海道に流れ着く。そうすると、アイヌの毒矢でやられ北方四島へ行くしかない。さて、この時日本原住民の女達は次々と、はじめのうちこそ捕えられ、彼らのリオ・グランデの砦みたいなタウンの中へ入れられていたものの、全国制覇してくると進駐軍は面倒臭いから、女たちの部落を城外に次々と設けた。これをカイトという。
 
開戸とか皆戸とか当字はいっぱいある。問屋街へ行くと、エトワール・カイトというのがあり婦人服専門店で、漢字は全部が当字だから海渡となっているが、そこでは女性に選ぶ権利がないわけです。今度きた下女は上総とおおよろこび、というのが江戸時代の『末摘花』にあります。要するに今度きた下女は千葉県の女だから、番頭から下は手代に至るまで、夜鷹なんか買いにいかなくても、順ぐりに押しかけて行けば、全部、誰でも致せるから大助かり、だという意味なんです。学校歴史屋さんは、千葉県は気候が温暖で女が早熟で好色なのは気候が温暖だから発育がはやいからだというのだが、日本で気候のあったかいところなど、いっぱいあって別に千葉県でなくてもよい。つまりは多賀城の勢力範囲内だからである。
 
かつてアルジェリアがフランス領だった時に、男はギヤルソン、女は全部が娼婦だったわけと同じです。反抗すれば、スカートを上げるのを嫌がったならば、殺されてもしょうがなかった時代が続いたのと同じです。関西では生駒がそうです。生駒は、昔は夷の字があてられ夷駒でして騎馬民族の女たちです。いまでも流行歌で、生駒は悲しき女まち、などの歌がある。最も極端なのは京の桂女。御所の公家専門で三十歳を越すと、お褥辞退でムコをとってもいいけど、三十まではオカミ御用専門、要するにはじめて生理があると、アゲマキをつくってごあいさつに顔見世に伺候。いつでもお役に立っておったわけで、よく言えばオカミ専属のコールガール組織だった。


庶民は占領下の混血児子孫奴隷

----さて、この時に日本人の中で本当の原住民の言葉を使うならば、女が進駐軍の自由にされるより前に男共に連れられて逃げた連中をさします。三角寛さんは朝日新聞のサツ廻りの記者で、警察情報をもとにし、後に内務省警保局の民族事業協和会の金で牛肉を馬車いっぱい持って行くのですが、シノガラといわれるサンカの連中は、絶対に彼らの方からは何にもいわないわけで、牛肉は腐るからと仕方なさそうに受取っても、渡した現金は返し、写真もうつさせません。
 
まぁ溶け込みになる前にセブリは目にみえて非常に減ったと、三角氏の本にはありますが、あの数は実数の十分の一以下です。いまサンカ「生活体験記」を書き出版したが、これ書くと自分の死んだ母親のこと書かなきゃならないので、だから書きにくくてしょうがなかった。
 
前述のごとく、散所奉行というのを、歴史屋さんは何を間違えたか、足利家の奥方さまが子どもをお産みになる時に、お産するところをつくる奉行と喜田貞吉もいうのだけれど、それだったらば、忙しい高名なエライ武将を使うことはない。それに昔から取上げ婆さんはあるが、取上げ爺さんなどは聞いたこともない。真実は、要するに明国から例のインドのカースト制度が入ってきて、最初には前体制の北条氏の人間を入れ次には足利創業の時に刃向かった南朝方。
 
『野史辞典』には出てないけど、次の『庶民日本史辞典』にはあるが、「楠木合戦注文」といって湊川で楠木側についた人間の名が明細に出ているもの。歴史書には、さすがの足利方も楠木方の忠勇に感心し、その名前を書き留めたものというのだが、本当は今いう処の札持ちで、全国的な指名手配だから、数多く筆写されて今でも残っているのです。
 
例の紀伊国屋文左衛門みたいに出身は湯浅です。湯浅というのは居付地で楠木正成に味方をした湯浅定仏の残党の子孫が収容されていた限定地。山口瞳のテレビの『血族』に出てくる脇屋というのは、ただ母の里が女郎屋だというだけを秘密にしているがそうじゃない。つまり脇屋というのは、脇屋義治の子孫が入れられていた居付地で、はっきり言えば特殊部落。新しく土地を開墾し新田だというけども、新しく土地を開墾するということは、旧幕時代は届け出ねば絶対に許されないこと。
 
荒地があるからとて、気侭に今みたいに勝手にできなかった。新田の名のつくのは全部が新田義貞の一族。だから尾張万歳なんかは、愛知県の今は名古屋市北区味ま町の楠木になるのです。つまり南朝方が足利の散所奉行によって、その子孫が次々と捕えられて特殊地へ入れられて非人とされたのが本当の処。つまり新田とか脇屋というのは幕末までは部落地名。
 
明治史学の目的は南朝を解明することであるといって、長慶天皇だけは引っ張り出しはしたが、その残党たちや子孫に対しては明治史学は解明も何もできなかった。徳川公爵家が華族会長となり学士会もその下に入ったから義理と人情をハカリにかけりゃ金を貰っていたせいか、それとも頭を押えられていたせいか‥‥徳川時代そのままの歴史となり今日になったといえる。
 
さて日本の高度成長というのは要するに、島国というのは黒潮が太平洋岸へ流れベーリング海流が裏日本へ突き当たるけれども、日本を起点にしては、どこにも流れていかないのを知らなかったらしい。日本列島は吹き溜りの土地なのです。アメリカみたいにカナダへ遁げるとかメキシコへ逃げるとか、そんなことはできはしません。それなのに当時の首相池田さんは全然この海流学の知識がなかったから悲劇だった。
 
ミシシッピーでビニール加工とか今の化学処理のものを始めてから、青少年が川で泳いだりなんかすると、非常に頭がおかしくなってしまいヒッピーになる。公害で、ヒッピーが生まれてきたわけですから、どうしようもなく、マリファナは今ミシシッピーの沿岸は全部解禁です。マリファナ喫ってる時の方が化学中毒はまともになるから、一種の治療薬としての解禁です。池田勇人さんはそういうことを知らなくて日本は島国だから海へ流せば全部流れていってしまうと公害産業の下請けをやったわけです。それがいわゆる日本の高度成長時代です。
 
現実においては水俣では全部がヘドロになって戻って固まっちゃうし、田子の浦だって、毎年毎年、流したヘドロが固まって流れていかないんだから、海の中でタンカーから石油が流出すれば、その石油は全部が日本の沿岸に流れてきてははりついてしまう。日本から海流はどこへも流れていかない。旅路の果ての人間です日本人という人種は。だから逃亡がきかぬからして、昔から反抗ということは全然あくまでもできないんです。
 
さて昔は新鮮な川だとか池だったが、公害になってから、水も飲めず魚も食えなくなったサンカは、どこで都会に溶け込み。が、表面では総人口の一割五分程度の存在。「四つ」の騎馬民族の方は昔は弾左衛門が人頭税を全部とっていた。それから、「八つ」の方は今では網元という言葉を使うが、昔は遠洋漁業もなければ、そんな大きな地曳網なんてのは江戸時代にもない。「アアモトさま」です。アワというのは、アラブ語の水のこと。フランス語だって、水はみんなアクバとか、アをつけますけど、アワモトさまに魚で人頭税を払っていたわけです。
 
ところが、サンカのシノガラの方は原始無政府主義っていうんですか、オオモトさまが集めたのは幕末まではミノ一つ、明治初年は二円五十銭、今は身分に応じて出します。だから、ある有名な上場一流会社の社長なんか、五百万とか一千万ぐらい出してますね。オオモトさまからこの金が交通遺児だとか母子家庭にまわるんです。そして明治の開化の世になりますと各大学の育英資金にもなるんです。私の親父が鵜沢総明博士の門下で、お陰で大正二年、東大の独法で銀時計をもらったんですけども、親父が俺の同級生で成績のいい奴は五、六人、どっからか知らんけども、局止めで学費がきて、当時は、アルバイトといわずに苦学というんですが、苦学しなくてもすむ、うらやましい、うらやましいと言っていたのは、あれはどうもシノガラ学資金です。これを真似て、現在の共産党の不破兄弟が各大学の成績優秀なのに共産党の金をまわしています。
 
だから名前を挙げると大変だけども、日本の有知識階級といわれる連中。それからよく日本の頭脳が流出といってアメリカとか外国に行ってしまう大学教授や研究者が多いのも、あれは本当に頭がいい有能者です。そういうのが、いつ日本がどこの国から原爆でやられるかわかるでしょうけども、その時の用心に全部あれはシノガラの金で待避させられ家族もろとも行ってるんです。
 
だって、スイスの銀行で日本御三家と呼んでるのがある。かつては、一位が岸信介、二位が宮内庁だったんだけど、いまシノガラの方が多いんです。なぜかというと、かつてニクソンの時に、ドルが下がってもなりふりかまわずに石油を買いあさったことがある。日本政府はアメリカさんの命令で、石油を買わずに下落のドルの買い支えをしたことがある。それが現在の赤字公債の初めの五兆円で。この時にサンカは逆にドルを売って利を得たのです。
 
シノガラは、もっとわかりやすいことを言いますと、大東亜戦争が始まる以前から日本の研究はアメリカの方が進んでおった。さてです。一般の向こうへ行ってる移民というのは、日本人の棄民でした。満蒙開拓団と同じように、いらない人間を向こうへやっていた。だから、例の石川達三の『蒼氓』みたいに悲惨なものですけど、シノガラの方は違うんです。つながりの金を旅費に行ってます。ちょっと時代錯誤の感になるけど、まだ「打倒藤原」がモットーなんです。藤原氏によって日本は奪われたから、これを藤原氏から取り返すんだと。藤原弘達あたりが聞いたら怒るだろうけど。‥‥彼らは必死になって純日本人の子孫を作っている。

----藤原というのは、結局、郭ムソウの流れということですね。

----そうです。唐です。軍人は前後ともで四千人です。これをみな「防」というんです。これの隊長が「坊主」なのです。それがいつの間にか坊主になっちゃったから‥‥判らなくなる。

----その藤原氏の流れが偽史シンジゲートといいますかね、日本の歴史偽造の‥‥

----偽造じゃなくて、彼らの都合のいいように創作しただけの話です。偽史というと、何か正史があって偽史があるみたいだけども、創作史ですよ。勧学院というものができましたのが西暦八百年頃です。いまでいうと各種学校で、英語の学校ができるみたに各地に設立。

----そうすると、藤原家の政権が確立されてから1300年ぐらいなりますか。この1300年間の日本の権力構造というのは、唐の占領軍ですね、大体多くみて二万人ぐらいですか‥‥

----兵隊は合計で四千人ですが、軍人軍属が倍の約八千人それにくっついてきた一旗組がいっぱいいるわけです。だから武力で御所を押えてしまい、危なくなると百済系の天皇をもってきたり、これは吉川弘文館から出てた『和気清麿』をみてもよく判るけれど、この桓武天皇の皇后から、御所全部の監督する女官までがみな百済人です。ずっと代々にわたって八十年程は続く。
 
やがて、足利中期になってからだが、当時、はっきり言って、日本には山金がゴロゴロあった。南部馬追唄に、田舎なれども南部の里は黄金の山が何とかとか、それから会津磐梯山は、黄金の山よ、など、他に何も特産物はないけど山金だけはゴロゴロしておったんです。言うなれば黄金咲くみちのくですね。だが金というものは、結局、軟らかいだけで刃物にもならなきゃ鍋にもならないんです。だから金売り吉次が当時の消費都市である京都へもってゆき、金を売りに行ったわけですけども、当時、金歯もなけりゃ金時計もないし、うっかり装具に儀礼用はいいけど、実戦用に刀なんかにつけたらピカピカ光って敵にすぐ目をつけられてしまうから、さっぱり金は売れない。だから代わりに歩き連れていける人間をかっぱらっていったわけ、奴隷商というのが一番、当時はいい商売になったからです。
 
さて、余った金はどうしようもないから、金色堂をつくったり金の瓶をつくっただけです。なにしろ日本では金と銀の価値を今も全然反対に間違えている。ひどい例が、沈黙は金、雄弁は銀という言葉。あれを言ったのは誰かといえばギリシャのセネカ。アテネの国会議事堂の前へ行くと、銅像がちゃんとあります。あの人は雄弁家という商売。沈黙は金で雄弁は銀だって、雄弁家がね、言うわけないです。自分の商売の反対だから、大いにしゃべれ、しゃべるために俺に月謝払えというんだから、金と銀との価値はこれでは全然反対です。それが日本へくると変わってしまって、沈黙は金、雄弁は銀で、物言えば唇寒し秋の風となるのです。昔の日本は銀の方が評価されていたことになる。「木の葉が沈み石が流れるのが世のならい」とか、「本当のことを言えばミもフタもない」とか、オカミの言いなりにみな奴隷根性です。マッカーサーに占領され一回もレジスタンスをやらなかった珍しいこんな国は、世界史上どこにもないので、その点はよく判ります。
 
だから各国で日本を占領したがってるわけです。日本だけが憲法9条で戦争放棄してますといったところで、他の国はどこも放棄してないんだから、まこと無理な仕方もない話。
 
学校で子どもが暴力反対だから、僕は絶対にケンカしませんという子がいたら、どうなるかといえば、よってたかっていじめられる。あいつは絶対に刃向かってこないんだといって、たかをくくって苛められるだけ。マージャンやる時だって、強い奴を誰が誘いますか、カモになる奴を誘うのと同じ。日本の国民は非常に危険な奴隷根性がこりかたまっていて、昨日までは親方日の丸でも、終戦となって、今度は星条旗となればその言い通りのままです。
 
さて、かつての執筆の禁止第一号は私です。北原白秋の弟の東方社が『現代ユーモア全集』を出して、ユーモア小説をその第14巻に書いたのが。陸軍報道部の西原少佐に密告されて、市ヶ谷に呼び出され木刀ピンタや本でぶん殴られて、お前は反戦主義の持主であると、以後の執筆発表を禁止すると命令され、東方社の方で紙型(しけい)はくれたが、行くとこないから満州へ行ったらば、これが大変。長谷川少将という関東軍の報道部部長の命令で、零下三十八度の夜から朝にかけ野外の営庭へ一晩中放っとかれた。立ってりゃ足からずうっと凍ってしまう。だから一晩中ずっと休みなしに駆けておった。朝になったら憲兵中尉が出てきて、「なんだ‥‥お前まだ生きとるのか」ということになった。虎の威をかりるというか。職業軍人が絶対的に威張りたがるのは、防人時代の昔の料良の感覚で、一般は賎扱いなのが身にしみたものです。

----日本へ進駐し支配した郭ムソウの軍隊がきた時、日本の人口というのは、まぁ六百万ぐらいいたんじゃないかしら‥‥何かの本に奈良時代六百万とか出てたんだけど。

----それはウソ八百です。学校歴史で教える奈良時代は違い本国百済が滅びるまでが本当の奈良時代で、せいぜい百万だと思います。それくらいでないと奈良王朝マザーランドへ救援に行くため、が必死になって狩り集めた防人とよばれていたのがそれでも二万七千しか集まらなかったんだから、壮丁に使える人数は全人口の50分の1が妥当。最高でも百三十五万です。まぁ、その二万七千は相当無理して連れて行っているから、四分の一とまでみて百万ぐらいとみるべきじゃないでしょうか。
 
有名な歌で、いにしえの奈良の都の八重桜きょう九重ににおいぬるかな‥‥みんなきれいな歌だと思っています。が桜のにおいをかいだことがありますか。桜には匂いはないです。いにしえの奈良の桜の八重桜、というのは‥‥YAEというのは女のことです。で、桜というのは、柴又のトラさんたちが使っている処の、人集め、群がるということです。奈良人の女たちを集めてきたことはいいけれども、彼女たちは、いままで食ってたものが粟でコウリャンは食ってなかったわけです。それが今度は、進駐軍の命によって、今はコウリャン食わされているゆえ、消化不良を起すから、その最中でもブウブウとやると‥‥いにしえの奈良の都の八重桜、きょう九重、九重というのは九重(きゅうじゅう)にもバリケードの張ってあるとこ、つまり厳重なところといったら御所だけです。
 
歌ってのは‥‥うれしくてつくるもんじゃないです。小学校の子どもは遠足に行ってああうれしかった、面白かった、というけれど、大体大人になって物をかいたり歌によむというのは、それは怨歌でしかありません。
 
郭ムソウの率いる先発軍は白村江大勝の翌年五月に御所に入ってくる。それで則天字使用令、後に漢学といわれる唐の文字のことです。つまり唐の字と書くと、非常にあたりさわりがあるから、さかのぼって漢字といいます。そして縄文時代が弥生時代に変わるんです。要するに石の斧と貝殻の刃物しかもってない日本原住民が鉄製の鉾とか青竜刀でアッサリやられちゃったからです。それで、これから鉄文化になるんです。岡山の方へ行くと、鉄がいくらかとれるというけど、いまだって戦前の八幡製鉄だって全部、大治鉱山から入れ、今の新日製鉄だってクズ鉄以外は全部が輸入でしょう。金はあったけれど昔から鉄資源はない。だから足利時代というのは、金を輸出して、向こうから鐚銭(ビタセン)を同量もらっていた。表向きは二百万枚ですけど、大正時代の僕等の子どもの頃まで、あの穴あき銭は使ったんだから、その十倍か百倍ぐらいじゃなかろうか。それだけの金がみな向こうへ行ったわけです。だけど、日本
では金はまったく使い道がなかったわけです。まだハングリーの時代だから金じゃ飾りだけで実用に何も作れなきゃ何も出来はしない。
 
さて、金がなくて倒産することがあるけど、金があって倒産するっておことはない。処が大坂城は落城の時には天守閣には、竿金とか分銅金は山ほど天守閣が傾ぐぐらいにまで積まれたままで、あっさりと大坂城は金があったのに落城してます。
 
足利期からの蜷川体制で、幕末まで箱根以西では金はカネではなかった。後には三島を境にして、西は三島から全部が銀本位体制だから、西鶴ものや近松ものはみな銀何匁とでている。
 
信長殺しにしても本当の原因は、マカオ貿易のため金本位体制に変えようとした為で、蜷川道斎の姪が、謀反随一の斎藤内蔵介の女房で、やがて、その末娘が於福で後の徳川家春日局になる。
 
さて浪人を集めたものの、金があっても蜷川の権勢でカネに使えず、大坂城三の丸まで、かしまから四条にかけての遊女を二万人ぐらい収容。というのは、金もって表へ出て行って、金では何も通用しないということがわかると、浪人たちがみんなやめていく気遣いがあるから、大坂城の中で金が使えるようにしたのが大遊郭を作った理由で、大坂城は広いから出来たわけです。が夏の陣では外濠内濠も埋められたから遊郭は廃止。それで落城。従来の日本史は肝心な貨幣制度をカネとは阿堵物とでも卑しめる精神からか無視してかかる。それゆえ判ってもよい事が、さっぱりわからない侭なのであります。

----下克上のいわばピークに立ったのが織田信長とみれば、かなり荒っぽく、その既成の体制を破壊してますね。だから、藤原体制とか、御所の権力の側もかなり恐怖に陥ったでしょう。

----信長は、天下布武を一つの旗印に富士王朝復活をイデオロギーに、近江王朝の昔に戻そうと安土城を建てたんでしょう。何も記録は残っていませんが、いまでも織田信長のことをみな前右府などとの言葉を使うけど、天正六年に内大臣をやめたあと、天正七年に右大臣にされたけれども、半年でこれもやめ、それ以降は藤原体制に反撥し無位無冠になっていたわけです。

----信長は、律令体制の根幹というか土台をひっくりかえそうとする意図はあったんでしょうか。

----これは『フロイス日本史』にも出ているように、安土から京都までは幅四間の12メートルの軍用道路をつくって、もし藤原体制が背反すれば三時間で京都へ入れるようにしていた。だから、山科言継の日記をみると、天正十年五月二十九日に京都へ信長が早駈してきて本能寺へ入ってくると、真っ先に疎開したのは、誰あろう御所の女御たちです。大変事が御所で起きるだろうと周章狼狽したのでしょう。女御たちが衣装を牛車に積んで次々と逃げだしたくらいだから、至上も遭難をなされる筈だったと想像できえます。
 
死ぬ前天正九年の馬くらべ、つまり今の観兵式が京で催された際、信長は鉄砲隊三百を率いて御所の門から入り、バンバン実砲を射ちまくって、御所の建物を穴だらけにしてしまった程の示威運動をやっているのです。
 
後に幕末の蛤御門の変の際、松平容保が御所を警備するために入ろうとした。彼は孝明天皇の非常に信任が厚い守護職。仙台というところは多賀城の後で中華系だから御所とは近い関係です。それでもなおかつ絶対に御所に実弾をもち込んじゃ困ると、公家衆はこぞって阻止したくらいです。当時の信長のデモは大変なものだったようです。

----僕は八切先生の歴史学というのは、やっぱり戦国時代ですね。ここに狙いをつけたというのが、僕はすごいことだと思っているんですけれども、やはり当時来日していたイエズス派史料の裏付けがあったからですか?

----日本史の裏づけになるものは魏史倭人伝に「契丹日本史」[日本シェル出版]と、戦国時代に日本へきていて本国へレポートを送りつづけていたイエズス派資料しかなく、「不可思議な国ジャポネ」で歴史学博士ケントの本を訳していますが、なにしろ錦県から引き上げてきた安土というところは当時は国鉄の駅があったけど、旅館がなかったんです。そこで總見寺に泊めてもらったんです。約一ヵ月おったんです。そうすると、夜の明け方か夜中に、ドカッと本堂の方じゃなくて、僕の寝てるところの縁側へ大きな肉の固まり、当時は貴重品です。同じように銀シャリと呼ばれた白米がドカッと置いてあるんです。食料不足の終戦時ですから薄気味悪くて、ある時、目ざとく追っかけていったら相手は何も言わないんですよ。それでも、次々と足音をききつけるたびに違った人だが、追いかけ五、六回めにやっとのことで何度も尋ねたら、信長さまがあんなお寺に祀られる筈はない。だから信長さまのお供えは、本堂へ出したくないから、彼処へみんなが置いてくるんだと、うつむいたまま早々に言い残して足早に立ち去った。物資不足の折柄、有難い話だが気味が悪くなったものの、今考えてみれば反仏派の居付き部落からの密殺した牛や馬の肉で、米もそれとの交換品らしかった。まぁ信長教といったものが彼らには根強く残っているようだ。
 
前の戦争中に、またも負けたか三師団という言葉があった。名古屋の兵隊というのはあまり強くはないんです。名古屋や京都の兵隊は昔から弱い兵隊で‥‥永禄四年から永禄六年まで三年間も戦争をやっても、美濃が落とせなくて、奥さんの奇蝶の実父の故まむしの道三のお陰で、謀略戦術で美濃三人衆を帳略買収し占領したぐらいです。

----近江の八田別所の出身で平氏であるから原住系であるとお書きになってる。あれはどういうことですか。普通われわれは越前の織田庄の出身だというふうに、普通の本には書いてありますけども。くい違っています。

----それは勝手に書いているので「上織田」と、斯波家に仕えていた前からの織田が本家です。信長の方は父信秀も勝幡城の城番に登用された時は八田信秀で、織田姓になったのは賜姓です。八田というのは弁天涯の、あの一帯をいまでもあのへんに住んでる人のことをヤッタモンっていうんです。安土城を作った弁天涯の絶壁八田なんです。越前から出るわけはなく下織田とよばれた信長は近江です。だから後に、信長が殺された後は、あそこの連中たちは追われて、近江乞食っていわれるんです。太田亮の『姓氏辞典』なんかみると、加賀に入った藤原氏が加藤であるとか大真面目に書いていますが、京をかためるのに精一杯の進駐軍が、わざわざ雪深い加賀へはゆきません。浄土宗が加賀に入って一向宗道場を作った時の作り話です。語源は簡単で仏教が浄土で上等なのに、反仏教徒のアウトローは下等の意味です。なにしろ漢字は郭の時代から、みな当て字で自由に勝手に付けているので、文字通りに読んでゆくと、日本の歴史は、まったく判らなくなってしまいます。

 

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コメント
 
01. 2011年12月12日 17:53:28: 5nPePzbV5g
1984様

八切先生にしろ、白土三平にしろ

史実を捻じ曲げて、801(やおい)腐女子受けする捏造描写で

売ってきた部分が多い人たちだから盲従してはいけませんよ。


名指しではないけれど、

堺屋太一先生が日本史の拷問と刑罰の問題で批判されておられます。


また、古代から近世の日本人はプロ家畜になんて洗脳されていませんよ。

洗脳された国民が多数派になったのは、中曽根康弘時代からでしょう。

「人間いいかげん史観」はネット検索されてただで閲覧出来る箇所が

多いですから、ご参考になされるとよろしいです。


02. 2011年12月12日 18:47:37: eumosV0oVA
おっと、太田竜氏との対談だったようだ。

古代史入門 13

※「同時代批評」5号誌による八切止夫氏インタビュー対談。岡庭昇、太田竜の両氏


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