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(回答先: 試驗投稿 投稿者 不動明 日時 2011 年 2 月 18 日 22:32:27)
「伯家に傳はる
”祝の~事”(はふりのしんじ)を授けられない
天皇の御世が百年續くと
日本の國體が滅亡する」
伯家~道に傳はる豫言的言ひ傳へ
關聯情報
http://www.asyura2.com/0601/idletalk20/msg/715.html
投稿者 石工の都仙臺市 日時 2006 年 11 月 05 日 07:46:50: Gsx84HOp6wiqQ
藤原鎌足が蘇我入鹿暗殺テロに據り~國日本を略奪、白村江の戰い・敗戰と、日本を滅亡へと追ひやつた。
此の流れは大陸での謀略から大東亞戰爭敗戰までの大日本帝國を滅亡へと追ひやつた流れとほぼ同じである。
(恐らく豐臣秀吉の文禄・慶長の役も、此の聯中からの強い働き掛けがあつたがゆゑ
あのやうな一見説明のつかない半島・大陸出兵と云ふ無謀な軍事作戰が起きたのだらう。
結果、大東亞戰爭敗戰から大日本帝國滅亡へと云ふ流れと同樣に豐臣家も滅亡した)
蘇我入鹿暗殺に據つて日本を簒奪する計略を企てた
朝鮮半島系若しくは支那大陸系の集團の存在が伺へる。
こいつ等は一體何所から來て何時來たのか。
こいつ等とは一體何者なのか。
其處で鍵と成るのが佛教傳來となる。
此の佛教傳來と共に日月~示に出て來る佛魔が~國日本に入つて來た。
此の佛魔こそが此の蘇我入鹿暗殺を企て~國日本を半島・大陸侵略へと唆し
~國日本を狂気に驅り立て今現在も尚、此の~國日本に取り憑き續けてゐる
謀略邪惡靈能集團だ。
磐戸しめの始めはナギ(伊邪那岐命)ナミ(伊邪那美命)の命の時であるぞ、
ナミの~が火の~を生んで黄泉國に入られたのが、そもそもであるぞ、
十の卵を八つ生んで二つ殘して行かれたのであるぞ、
十二の卵を十生んだことにもなるのであるぞ、
五つの卵を四つ生んだとも言へるのであるぞ、
總て~界のこと、靈界のことは、現界から見れば妙なことであるなれど、
それでちやんと道にはまつてゐるのであるぞ。
一ヒネリしてあるのぢや、
天と地との間に大きレンズがあると思へば段々に判りてくるぞ。
夫~、妻~、別れ別れになつたから、
一方的となつたから、磐戸がしめられたのである道理、判るであらうがな。
その後、獨り~となられた夫~が三~をはじめ、
色々なものをお生みになつたのであるが、
それが一方的であることは申す迄もないことであらう、
妻~も同樣、黄泉大~となられて、黄泉國の總てを生み育て給ふたのであるぞ、
この夫婦~が、時めぐり來て、
千引の磐戸をひらかれて相抱き給ふ時節來たのであるぞ、
うれしうれしの時代となつて來たのであるぞ。
同じ名の~が到るところに現はれて來るのざぞ、
名は同じでも、はたらきは逆なのであるぞ、
この二つがそろうて、三つとなるのぞ、
三が道ぞと知らせてあらうがな。
時來たりなば この千引の磐戸を倶にひらかんと申してあらうがな。
次の磐戸しめは天照大~の時ぞ、
大~はまだ磐戸の中にましますのぞ、
ダマシタ磐戸からはダマシタ~がお出ましぞと知らせてあらう。
いよいよとなつてマコトの天照大~、天照皇大~、日の大~、
揃ふてお出まし近うなつて來たぞ。
次の磐戸しめは素盞鳴命に總ての罪をきせてネの國に追ひやつた時であるぞ、
素盞鳴命は天下(あめがした)を治しめす御役(おんやく)の~であるぞ。
天ヶ下(あめがした)は重きもののつもりて固まりたものであるからツミと見へるのであつて、
よろづの天の~々が積もる(と言ふ)ツミ(積)をよく理解せずして罪~と誤つて了つたので、
これが正しく磐戸しめであつたぞ、
命(みこと)をアラブル~なりと申して傳へてゐるなれど、
アラブル~とは粗暴な~ではないぞ、
あばれ廻り、こわし廻る~ではないぞ、アラフル(現生る)~であるぞ、
天ヶ下、大國土を守り育て給ふ~であるぞ、取違ひしてゐて申しわけあるまいがな。
このことよく理解出來ねば、今度の大峠は越せんぞ。
絶對の御力を發揮し給ふ、ナギ、ナミ兩~が、
天ヶ下を治らす御役目を命じられてお生みなされた尊き御~であるぞ。
素盞鳴の命にも二通りあるぞ、
一~で生み給へる御~と、
夫婦呼吸を合せて生み給へる御~と二通りあるぞ、
間違へてはならんことぞ。
~武天皇の磐戸しめは、
御自ら人皇を名乘り給ふより他に道なき迄の御働きをなされたからであるぞ。
~の世から人の世への移り變りの事柄を、
一應、磐戸にかくして~ヤマトイハレ彦命として、
人皇として立たれたのであるから、
大きな磐戸しめの一つであるぞ。
佛教の渡來までは、わずかながらもマコトの~道の光がさしてゐたのであるなれど、
佛教と共に佛魔わたり來て完全に磐戸がしめられて、
クラヤミの世となつたのであるぞ、
その後はもう亂れほうだい、やりほうだいの世となつたのであるぞ、
これが五度目の大き磐戸しめであるぞ。
日月~示 五十默示祿 碧玉の卷 第十帖
日本に佛教を齎した存在は百濟。
佛魔は百濟から渡來した者の中にゐる。
恐らく百濟滅亡に據り
其の特權的地位を奪はれた者の中にゐる。
となると亡命百濟王族周邊と佛教高僧集團こそが
日月~示が知らせて呉れた佛魔の正體と成るだらう。
南北朝の對立の本質とは畢竟、百濟王族に乘つ取られた天皇家を~國日本の天皇として
百濟勢力から取り戻す鬪爭だつたのだ。
日本の權力中樞がなにゆゑかくも朝鮮に對し親和的なのか
だうしてもすつきりしない、明確な納得出來る答えを見出せずに
モヤモヤした状態だつたのだが、此れではつきりと理解出來た。
日本の支配勢力は悉く百濟王族の血統の聯中だからだつたのだ。
此の國は、鎌倉・足利・徳川幕府の武家政治時代の權力中樞から排除された
中斷期間を挾んで、百濟王族の聯中に乘つ取られてゐたのだ。
百濟が危機
百濟を危機から救はねば
其の爲には日本を利用する
日本の人・物・金を百濟の爲に動員せよ
中大兄皇子、後の天智天皇と
中臣鎌足(其の實體は百濟王子・豊璋〔ホウシヨウ〕)
後の藤原鎌足に據つて
女帝皇極天皇の御前で蘇我入鹿を弑逆せしめる
其の殘虐な所業は日本人の其れでは無い
此の時點で最高權力機關である皇室を乘つ取る事に成功する
そして入鹿慘殺の首謀者、中大兄皇子は天智天皇となり
百濟支援の爲、朝鮮半島に軍隊派遣
白村江の戰い
そして敗戰
百濟王族と其の高僧集團が大量亡命
公卿階級と佛教界に百濟人脈が大量流入し
以前にも増してより一段と百濟勢力の影響力が増す
其の過程で既存の日本の公卿・豪族・高僧勢力に對する粛清の嵐が吹き荒れる
既存の日本の勢力の不滿がとうとう臨界點に達し爆發、壬申の亂が勃發
一旦は百濟勢力を皇室の中心から排除する事に成功するも
此處から又徐々に百濟と云ふ衣を隱蔽して
既存の日本勢力に拒否反應が起き難い藤原姓を前面に打ち出し
日本勢力風に擬態した百濟勢力藤原家が
政略結婚や呪殺・毒殺等を驅使し
皇室と公卿勢力での影響力を再び擴大してゐく
此の百濟勢力藤原家に乘つ取られた危機的状況から~國日本を救はねば
遂に武家勢力が立ち上がり應仁の乱、南北朝の動亂が始まつた
そして北朝天皇を擁立して百濟勢力藤原家から~國日本を取り戻す
然し皇室・公卿勢力から百濟勢力藤原家を完全排除する事が出來ず
天下布武のもとに天下統一を間近に控えた織田信長を
自分達の存在・權威を脅かす存在と判斷し、本能寺にて自害に追いやり
成り上がりの田舎侍、豐臣秀吉に關白と云ふ地位・餌をちらつかせ
唆す事に成功し、文禄・慶長の役に引き摺り出される
徳川治世と成り、此の慘劇をつぶさに見てゐた天才政治家徳川家康は
同じ過ちを再び繰り返すまいと、イエズス會の日本侵略から
日本を防衞すると云ふ理由と合はせて日本を鎖國すると云ふ
驚天動地の大胆な政策をとり、管理貿易窓口を徳川幕府に
一元化・獨占する事に據り、他藩の勢力を削ぎ
徳川幕藩體制を磐石なものとしつつ
百濟勢力藤原家の野望をも封じ込める事に成功する
だが太平の世は長くは續かない
時代は再び動亂の時を迎える
幕末明治維新の動亂期に徳川家茂、皇女和宮を
藤原北家閑院流の嫡流三條實美と岩倉具視の手引きに據り
孝明天皇、睦仁親王を、長洲忍者黒手組上忍桂小五郎と
下忍伊藤俊輔等に據つて
立て續けに弑逆せしめ、睦仁親王を南朝系統大室寅之佑
(實際は大室家と縁もゆかりも無い養子〔海賊家系地家の息子〕)
にすり替へ明治天皇として践祚、南朝革命に據り
再び~國日本の簒奪に成功
王政復古の詔の下、大日本帝國を建國する
明治新政府と其の陰の支配者百濟勢力藤原家は
ブリテン世界權力と半島・大陸利權で利害が一致
日英同盟を締結してシテイの傭兵となり
清帝國と露西亞帝國の解體の爲
半島・大陸侵略に乘り出し
日清戰爭
朝鮮植民地化
日露戰爭
第一次世界大戰
一條家は南部家として靖國~社宮司として
二條家と九條家は西園寺家(元老西園寺公望や
太平洋問題調査會理事・外務省嘱託職員西園寺公一)を通じて
鷹司家は鷹司煕通・信輔・信熙の陸軍人脈を通じて
近衞家は近衞篤麿を中心とする大亞細亞主義を掲げる
東亞同文會を通じて
大陸侵略工作活動を活發化
大東亞共榮圏構想を國策とするに到り
遂に傀儡國家滿洲帝國建國を經て
大東亞戰爭開戰・敗北
そして現在
朝鮮總聯
大韓民國民潭
立正佼成會
創價學會
統一教會
日本會議
右翼團體
山口組等暴力團
電通等廣告代理店
マスメデイア各社
等々を通じて
工作活動繼續中
今に至る
何時の日か百濟再興を果たさん
其の爲には日本をとことん利用する
虎視淡々と其の機會を狙う
機會があれば何度でも同じやうな軍事侵攻を繰り返す
其れも此れも
百濟の爲に すべては百濟再興の爲に
百濟ぢやない
↓
百濟ない
↓
下らない
百濟に非ずんば人に非ず
平成の世
平ら成る
一八十成る
イワト成る
磐戸開きの時は來た
佛魔、百濟勢力藤原五攝家と邪惡靈能集團を 伐つべし
二人の兄弟王子を中心とする亡命・百済王族達数千人のその後: 成長するため、正しい地図を手にしよう
http://seiwagenjisinjituryu.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-ba87.html
彼ら二人の兄弟王子を中心とする百済王族達が、百済王族天皇家と藤原氏(つまり貴族)の集団となって、武士に似た性質を持つ、日本の天皇家を中心とする日本古来の「豪族」達を脇へ押しのけて、日本の新たなる支配者=「貴族」になっていったと思われる。「貴族」とは、豪族=土着日本人とは違って、自分達の血筋は尊い、という傲慢な考えから、百済王族自身が自分用に作った呼名であろう。
藤原氏つまり貴族が日本の支配層になってからしばらくして、百済王氏は日本の歴史上から名前がいつの間にか消え、天皇家は百済王氏の代わりに百済王家を密かに兼ねるようになったと、言われている。天皇家が百済王家を兼ねる必然性など全くないのに、である。そもそも、百済という国はなくなったので、ない国の王など天皇家が兼ねる必要はどこにもない。
百済王族天皇家の事実上の初代である桓武天皇は、歴代の百済王達を、まるで自身が百済王氏であるかのように、自分の家の先祖として公然と祀った。また、桓武天皇は、自分の体の中を流れる百済王族の血を誇る気持ちの非常に強い天皇であった。
また、百済王家に伝わっていた家宝の大刀契(だいとけい)は、百済の王統を継いだ百済王氏が持っているべきものであったが、桓武天皇の代から急に、三種の神器に次ぐ天皇家所有の家宝として、皇位継承に不可欠の王章の1つとして、践祚(せんそ:天皇の即位礼)の際に、新天皇に授受されるようになった。それは桓武天皇から平城天皇への受け渡しから始まった。
なぜ百済王氏が引いているべき血筋を桓武天皇が引いていて、百済王氏が持っているべき大刀契を、桓武の代から天皇家が所有するようになったのか。
百済王氏が新・天皇家になり、桓武がその事実上の初代であると考えると納得できる。桓武の父・光仁は、日本の天皇家に婿入りした形で天皇となり、実家の百済王氏は庶長子の桓武に継がせる予定だったのだろう。天皇家は、当然、日本の天皇家の血を引く皇后の井上皇女の子である皇太子が継ぐべき、と考えていたのだろう。しかし、それは果たせなかったのである。
また、百済王族天皇家の事実上の初代である桓武天皇も、桓武の次の天皇である息子の平城天皇も、父が亡くなったとき、「アイゴー(哀号)」と朝鮮語で泣いた話は有名である。それも、日本の天皇家が百済王族の藤原氏によって滅ぼされ、桓武天皇の代から朝鮮民族の天皇家になってしまっていると考えれば、納得できる話である。
また、現代の話では、「アイゴー(哀号)」と朝鮮語で泣いた平城天皇の「平城(へいぜい)」と名前の極めて良く似た「平成(へいせい)」の13年(2001年)12月18日、今上天皇が、翌年に予定されていたサッカーワールドカップ日韓共催に関する「おことば」の中で、桓武天皇に百済王の血が流れていることを指して、「韓国とのゆかりを感じています」との発言をしたことが有名である。
天皇の祖国の百済の都は、韓国の首都ソウルにあった。ソウルでの開会式に天皇が出席するよう韓国から要請され、天皇が出席するかどうかが取り沙汰されていた。結局、取りやめになったが、天皇は祖国百済の都のあったソウルへ、心惹かれる思いでいっぱいだったであろう。それが「ゆかり」発言に繋がったのであろう。
桓武天皇も、平城天皇も、平成の今上天皇も、心が揺さぶられ思いが極まったときに、自分が日本人ではなく、朝鮮人であるヒントを思わずポロリと出している。これは偶然だろうか。
特に、平城天皇と平成の今上天皇の「平城(へいぜい)」と「平成(へいせい)」は似過ぎている。これは洒落好きな日本人に対して、神から与えられたヒントではないだろうか。洒落―同音を利用した、気のきいた言い替え―である。同音、つまり、「平城(へいぜい)」と「平成(へいせい)」という「同音」を利用して、桓武以降の天皇家が朝鮮民族の血筋である証拠を、平城天皇の「アイゴー(哀号)」という朝鮮語の泣き声で表現し、次に、平成の天皇の「韓国とのゆかりを感じています」発言で言い替えているのではないだろうか。日本人が、今の天皇家の血筋が日本の本当の天皇家の血筋ではなく、朝鮮民族であることに気付いて欲しいと思って、神様は、平城天皇の発言と平成の天皇の発言という、同音を利用した、気のきいた言い替えをしたのであろう。神様は本当にすごいと思う。
バナナとかたばみの入った清和源氏心実流の家紋を我々に与えて下さった神様が、我々にこの三天皇のうっかり発言という形で、ヒントを下さったのであろう。これは、こじつけではなく、ドンピシャであろう。
桓武天皇、平城天皇、平成の今上天皇は、百済王族天皇家が日本の本当の天皇家の血筋ではなく、入れ替わって日本の天皇家のふりをしている、朝鮮王族の血筋であるヒントを思わず自白してしまった「朝鮮人自白三天皇」として、歴史に名を残すことになるのだろうか。
今上天皇が「ゆかり」発言によって、今の天皇家が朝鮮民族であることを思わず自白してしまったのは、神によって定められた運命だったのだろう。
なお、「ゆかり」発言については次のような意見もある。桓武天皇に百済王の血が流れていると言っても、桓武の母が百済の武寧王の十世孫位だと考えると、今上天皇は武寧王の五十五世孫位で遥か遠い子孫となり、今上天皇の血の中の百済王族の血の割合は極めて小さい。だから天皇家が朝鮮人なんてのは大袈裟だ、という意見である。計算するとおよそ(10の16.5566乗)分の1位しか百済王の血を引いていない。だが、そんな苦しい言い訳も、清和源氏の血を引く日本人である私には通用しない。
私は清和源氏だから、清和天皇、桓武天皇の子孫だ。だから、私にも百済王族の血が流れている。しかし、私は韓国にはゆかりは感じない。懐かしくもない。
なぜか。
それは、私の血の中の百済王族の血の割合が0に近く、ほとんど日本人の血だからである。私は日本人だから、日本の初代天皇家には惹かれる。日本にいた同じ日本人同士だから親しみがある。でも、桓武以降の百済王族天皇家、特に先祖の清和天皇から流れが離れて行ってしまってからは惹かれない。ああ、百済王族天皇家の初めの方の、清和天皇が私の先祖か、と少し思う位である。しかし、日本人の武家政権なら、別に清和源氏でなくても、同じ日本人同士としての親しみはある。だから、私は韓国にもゆかりを感じない。自分の体の中を流れる日本人と百済王族の血の割合を考えれば、当然の感想だ。
しかし、今の天皇は母系父系ともに百済王族の藤原氏と百済王族天皇家の血を貫いており、日本にいても、百済王族の血が極めて濃い。だから韓国にゆかりを感じるのだろう。631年に、二人の兄弟王子、豊璋と善光が百済から日本へ人質として出発する直前まで遡れば、今の天皇家や藤原氏の先祖の多くは朝鮮半島にいて、ほんの一部が日本にいた。清和源氏の私の先祖のほとんどは日本にいて、極めて、極めて、少数だけ、朝鮮半島にいた。先祖の割合の違いが、このような感想の違いになってくるのだろう。百済王族の血の割合が、百済王族である天皇家や藤原氏と、日本人の清和源氏とでは、全然違うから、このようになる。
「ゆかり」発言は、まさしく、自らに朝鮮王族の血が濃いことを充分意識して誇りに思っている人の発言であろう。百済王族天皇家の事実上の第1代、第2代である、桓武天皇、平城天皇が、父が亡くなったとき、「アイゴー(哀号)」と朝鮮語で泣いたのと全く同様に、自らが朝鮮民族であることをうっかり自白してしまったのだろう。だが、本当に、超僅かだけ百済王族の血を引いている日本人の清和源氏の目はごまかせないのである。
「ゆかり」発言は、日本人ならば言うはずのない、平成版の「アイゴー(哀号)」発言だと言えるだろう。
8:遅れて来た倭種、百済王族・藤原氏(4) | 八咫烏(ヤタガラス)陰陽道宗家賀茂一族の系譜
http://yatagarasu33.jugem.jp/?eid=89
2006.09.04 Monday
author : 大加茂真也
8:遅れて来た倭種、百済王族・藤原氏(4)
C藤原氏は百済王族だった!
7世紀以来、千数百年にわたって日本の最高の名門貴族の座を手にした藤原氏とは何者なのだろう。藤原氏最大の謎は、日本で最も高貴な一族でありながら、未だにその出自がはっきりしていない、ということである。
藤原氏は『日本書紀』神話の、天照大神が盤戸隠から出た時に、注連縄を引き渡して、磐戸を「封印した」、中臣・忌部神を祖とする。その子孫と言うことで、藤原氏の出自と正当性は、『日本書紀』神話・磐戸開きに求められる。
しかし、関裕二氏によると、疑問点として3点が挙がるという。
第一に、中臣(藤原)鎌足の登場(645年頃)まで、中臣氏の活躍がほとんど見られないこと。
第二に、その中臣(藤原)鎌足も、何の前触れも無く、唐突に歴史に登場する。しかも、正史・『記紀』にさえ、その父母の記載が確認できない。
第三に、中臣(藤原)鎌足の末裔・藤原氏はどういう理由か、常陸国(茨城県)の鹿嶋からやってきたと捉えていたと推定できる。正史・『日本書紀』の中で証明された正当性を、自ら疑ってかっかたのかが、証明できないという。
さらに、藤原氏の祖・中臣氏は、神事に仕えた氏族というのが定説である。しかし、歴史上、確認できる藤原氏の行動は、神道よりも、仏教の布教に力を入れている。実際、藤原氏による、蘇我氏の滅亡を機に、古墳は姿を消す。そして、神道は影を潜め、仏教が華を咲かせるのでる。『記紀』によると、蘇我氏は仏教派だったのではないのか。
実際に、天皇家が仏教を取り入れるようになったのはこの時期からである。事実、天智系天皇は天皇家の菩提寺に祀られるが、天武系の天皇は祀られていない。この件については後に詳しく触れる。
神道は天皇家の祖先を祀る宗教だったはずである。藤原氏登場以降、神道ではなく、仏教で、天皇の先祖を祀るように変更したという事実である。つまり、藤原氏以降・天皇は事実上、神ではなく仏として祀られていたということである。
これらの確認出来る事実だけを見ても、藤原氏の言動は不自然なモノである。
井上辰雄氏らも著書『日本古代史の謎』の中で、中臣(藤原)鎌足の実像は意外に掴めない、と次のように指摘する
その理由は、藤原鎌足像の主な典拠である『日本書紀』と『家伝』(鎌足伝)にある。そして前者は正史であるから鎌足個人のことが必要に応じて断片的に登場することは当然としても、後者は個人の伝記であるにも関わらず前者と同じような一種の時代史であるという。さらに両者は様々に異なった事柄をあげながらも、その時代史という点では同一の資料によったと思われる程、酷似する。しかも両者の鎌足に関する記述はともに大化改新以前の蘇我大臣家の滅亡に至る事件史の中での自画自賛的な記載に重点が置かれているように見えるという。その為、大化改新以前の鎌足象もよほど、文飾に気をつけなければならない。そして、大化改新以後に到っては、鎌足が特別に何をしたかがよくわからない。という。
このように最新の研究の結果、藤原氏の出自とその正当性に疑問が投げかけられるようになって来ているのである。
その中臣(藤原)鎌足は大化の改新の折、唐突に歴史に登場する。
『日本書紀』はいう。中臣(藤原)鎌足は、蘇我入鹿が君臣の秩序を乱し、国を傾けようとしていることを憎んでいた。この時、中臣鎌足は無位無冠の身であった。
そこで、皇族の中に入り込み、共に事を成す英傑を捜し求めていた。そして白羽の矢が立ったのが、中大兄皇子(後の天智天皇)であった。
無位無冠の中臣鎌足は、千載一遇の機を得る。飛鳥の中心・宝興寺(ホウコウジ)<元興寺・飛鳥寺>の槻の木の下で「蹴鞠(ケマリ)の会」が企された。
中臣鎌足はこの蹴鞠の輪の中に加わった。そして、中大兄皇子が鞠を蹴る拍子に靴を落とした時、すかさずこれを拾い上げて捧げた。中大兄皇子もこれに対し礼を述べた。こうして二人は出会い、意気投合していく。
『蹴鞠(ケマリ)』がきっかけで、無位無官の中臣鎌足は中大兄皇子の信任を得たということである。
そして、中大兄皇子と密かに、蘇我入鹿打倒を練り、準備を進めていったのだという。
だが、中臣(藤原)鎌足の他に、先の蘇我氏横行を非難する記録は全く見当たらないのである。つまり、蘇我氏の振る舞いに対し、横行だと主張したのは、中臣鎌足だけだったという事実である。
ちょうど同じ頃、百済王子・豊璋(ホウショウ)という人物が突如、日本古代史に登場する。
『日本書紀』によると、舒明3年(631年)3月、百済の義慈王の子・豊璋(ホウショウ)は人質として来日したのだという。
大化の改新・蘇我入鹿暗殺の14年前のことである。
大化の改新の記載が有る、『日本書記』皇極記には、中臣(藤原)鎌足とこの百済王子・豊璋(ホウショウ)、そして、上宮王家(山背皇子ら聖徳太子一族)の暗殺、大化の改新による蘇我一族の暗殺記事が会い混じって記載されている。
岩の上に 小猿米焼く 米だにも 食げて通らせ 山羊の老翁
時の人前の謡の応を説きて曰はく、「岩の上に」といふえお以ては、上宮(聖徳太子一族)に喩ふ。「小猿」といふ以ては、林臣(蘇我入鹿)に喩ふ。「米焼く」といふを以ては、上宮を焼くに喩ふ。「米だにも、食げて通らせ 山羊の老翁」といふを以ては、山背王の頭髪斑雑毛にして山羊に似たるに喩ふ。又其の宮を棄捨てて深き山に匿れし相なり」といふ。
是歳、百済の太子余豊、蜜蜂の房四枚を以て、三輪山に放ち養ふ。而して終に蕃息らず。
これによると、人質であったはずの百済皇子・豊璋(ホウショウ)が、聖地・三輪山で、蜜蜂を放して養蜂を試みたが、失敗したというのである。
『日本書紀』はこの記事に続き、3年の春正月1日、中臣(藤原)鎌足が神祇伯に拝さらるが、再三これを固持し、病と称して三嶋(大阪府三嶋郡)に侍ったと続くのである。
さらにこの歳の夏6月の記事として次のように記載する。
猿猶合眼りて歌して曰はく、
向つ嶺に 立てる夫らが 柔手こそ 我が手を取らめ 誰が裂手 裂手そもや 我が手取らすもや
これは、三輪山の猿が、数年後の上宮(山背皇子等・聖徳太子一族)暗殺の兆しについて噂し合ったと記載するのである。
そして、『日本書紀』皇極記は、蘇我氏の横行、中臣(藤原)鎌足や中大兄皇子らによるクーデター・大化の改新の計画と実行の記事が記載される。
さして『日本書記』皇極記は次のように結ぶ。
上宮の王等(山背皇子等・聖徳太子一族)の性順(ヒトトナルユル)くして、かくて罪有ること無くして害されたり。
上宮の王等(山背皇子等・聖徳太子一族)は「罪なくして殺された」と言う。
済明6年(660年)9月、百済は使者をヤマトに遣わした。そして、この年の7月に新羅と唐の連合軍が百済を攻め滅ぼした事、君臣は皆捕虜となったが、鬼室福信が百済王家再興の為、奮戦しているということを知らせた。
そして、10月。その鬼室福信が、人質として来日していた豊璋(ホウショウ)を召還し、新たに王に立てたいと申し出た。加えてヤマトに救援を求めてきたのである。
これに応じ、翌年9月、中大兄皇子は織冠を豊璋(ホウショウ)に与え、本国に送り返したのである。
人質であったはずの豊璋(ホウショウ)であるが、白村江の戦いの直前、百済に帰国し、国家の再興を目指す。
そして、中大兄皇子は、何とこの豊璋(ホウショウ)一人を救うため、大国・唐を敵に回す決断をするのである。そして自ら軍勢を率いて白村江に軍を進める。
だが、大和・百済連合軍はここで決定的な敗戦を記す。
百済皇子豊璋(ホウショウ)は、こうして志半ばにして頓挫し、行方をくらますのである。
そして、この人物が日本を離れたとき、実は中臣鎌足も忽然と歴史から姿を消しているのである。それも白村江の戦いという国家の一大事に中臣鎌足は行方不明になり、そして敗戦後、突然歴史に姿を現すのである。
衆知のように、中大兄皇子の側近中の側近であったと言う、中臣鎌足が、国家存亡の折、行方不明になったということ自体が理解できない。
関裕二氏は著書・『日本古代史の謎』・『藤原氏の正体』で、百済皇子・豊璋(ホウショウ)という人物と、中臣鎌足、つまり藤原鎌足は同一人物であるという。
確かに、そう考えると、中臣(藤原)鎌足の唐突な日本史への登場、百済救済の為の白村江への無謀な出兵、後述する壬申の乱での韓国軍の到来、さらに天皇家ご自身の神道・道教から、仏教への移行。それに伴う道教の象徴・古墳の消滅など、すべての謎が解けてくるのである。
『記紀』にもそれ以前の藤原氏(中臣氏)の記載が曖昧なのである。
つまりは、日本古代史は彼の登場以前が謎になっているのである。
大国主の「国譲り」神話のモデルはここにあったと推定できる。
いずれにしても、無位無官だった、中臣鎌足は、その死に臨んで「大織冠藤原内大臣」という前例のない栄誉の地位に登る。そして後の藤原氏の祖として、その繁栄の基礎を築く。百済皇子・豊璋(ホウショウ)も中大兄皇子(天智天皇)によって織冠をあたえられていたことには既に触れた。
米國にとつて最強の敵は、~國日本を寄生・支配し續ける藤原五攝家と其の背後にゐる世界最兇の邪惡な靈能集團だ
http://www.asyura2.com/10/bd59/msg/326.html
投稿者 不動明 日時 2011 年 2 月 12 日 23:49:08: yX4.ILg8Nhnko
おまけ
ネットゲリラ: ベトコン最強伝説
http://shadow-city.blogzine.jp/net/2010/07/post_893e.html
16 :グリーンファイヤーテトラ(愛知県):2010/07/04(日) 14:55:51.54
米軍に貧乏神が憑いたからだよ。
17 :クサフグ(空):2010/07/04(日) 14:55:55.51 ID:goj+L1mw
勝ち 負け
唐 vs 日本+百済 (白村江の戦い)
イスラム帝国 vs 唐+高句麗人の総大将 (タラス河畔の戦い)
日本 vs 元 +高麗 (元寇)
明 vs 日本 +朝鮮 (文禄の役)
日本 vs 明 +朝鮮 (慶長の役)
清 vs 明 +朝鮮 (明滅亡)
日本 vs 清 +朝鮮 (日清戦争)
日本 vs 露 +朝鮮 (日露戦争)
ソ連 vs 日本+朝鮮 (シベリア出兵)
アメリカ vs 日本+朝鮮 (大東亜戦争)
ベトナム vs アメリカ +韓国 (ベトナム戦争)
47 :マグロ(大分県):2010/07/04(日) 15:01:06.82 ID:hzESXSAq
>>17
見事に法則どおりだわw
51 :アブラボウズ(愛知県):2010/07/04(日) 15:01:27.98 ID:FeoJhY8M
>>17
あの半島の人って戦争に勝ったことあんの?
52 :アブラツノザメ(岐阜県):2010/07/04(日) 15:02:04.91 ID:IpcgO1vy
>>17
呪われすぎだろwwwww
71 :タイワンドジョウ(千葉県):2010/07/04(日) 15:05:28.80 ID:ZkC1ixNM
>>17
オチも入れて置けよ
引き分け
北朝鮮 vs 下朝鮮 (朝鮮戦争)
118 :ツムブリ(福岡県):2010/07/04(日) 15:16:42.99 ID:qqFBW568
>>17
これだけ負けまくってるのに民族が滅んでいないのは結構凄いことだと思う
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- 試驗投稿 不動明 2011/2/18 23:43:17 (14)
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