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けさ、自分がいつもひたされていた恐怖のことを意識できていました。
ささやかな恐怖。何十年もずっとひたされてきたものです。
身体全体で感じる、ちょっとすくんだような感じ。子どもが怯えて、物陰に隠れるような感じ。この恐怖があるから、いつも考え事をします。その考え事をするということが、物陰に隠れること。
他人から見てどうであるか
自分が承認されているかどうか
いまのままで自分ではだめだと考えたり
もっとほんとうの自分があると考えたり
あのときああすればよかったと悔やみ
こうなったらどうしよう、こうなったらどうしようと、いつも思いをめぐらす
この恐怖で、
つい、自分を自分以上に見せたり
よく知らないことを吹聴したり
逆に、ひどく卑下したり。
他人の欠点をいつも見つけ
なににつけても論評します。
言葉を頭の中で回転させているときは、他の事は全部忘れてしまえる。
間違えるのが怖いから、誰か権威者の言ったことだと注釈をつけるし。それも、誰もが認める権威より、ちょっとマイナーな権威を利用するし。
20代のときに、他人から見てどうであるかを気にするのがいやになって、気にしないと決意したら、他人に迷惑ばかりかけるKYになってしまったし。
★この恐怖、学校で植え付けられています。
家庭ではもっと自由だったし、親には言いたい放題が言えました。恐怖にはならないです。小学校に行きだしてから、恐怖に満ちた内面生活が始まったことを、よく覚えています。3年生くらいになったら適応でき、明るくしていましたが、この恐怖があったために、かえって明るかったのだと思います。
集団生活には、たしかにそれなりの取り決めや規律が必要です。
でも、先生たちは、それを、恐怖や辱めに訴えて植え付けようとしていた。
授業を成立させるためには、先生たちは、手段を選んでいなかった。
自分勝手で暴力的な子どもたちは、押さえつけられただけで、なにがまずいかの感受性を発達させてはいなかった。
私は、学校の雰囲気に怯えて、何をするとしかられるか敏感に察知している子どもでした。
★この恐怖は、ささやかではあるけれど、虚栄や、偽善の根源になってます。
こういう恐怖で自分が動いていることは、考えればわかることだし、他人を見れば一目瞭然です。でも、感じ取れないうちは解放されない。
それをやっと見つけた。説明ではなく、言葉に置き換えてしまうのではなく、身体の実感として。
とりとめがなくてすみません。思いつくままに。
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