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(回答先: 佐藤優こそは、2.26事件の青年将校である (uedam.com) 投稿者 五月晴郎 日時 2010 年 10 月 14 日 01:59:13)
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尖閣諸島衝突事件と、近代ナショナリズムの関係
投稿者:ウエダ 投稿日:2010年10月11日(月)15時19分9秒
こんにちは、皆さん、植田です。
佐藤優氏は2.26事件の青年将校のメンタリティーと同じである、と私は思うのですが、これが意味あることかどうか、まだわかりません。
それよりも、次の認識には、私は疑問を覚えました。
佐藤氏が、中国は今、近代ナショナリズムの途上にある、と指摘しました。
それに対して、日本は終了した、と。
この認識がどういう意味を持つか、といえば、今の中国と日本の関係は、あたかもポーランドがドイツに対して、アイルランドがイギリスに対してもつ関係と同じものとして扱う必要がある、という認識になります。
評論家、あるいは学者がこういう認識を持つ分には、政治的にはあまり実効性があるわけではないですが、外務省の官僚がこういう認識をもったらどうなるか。
それは別にして、私の疑問は2つ。
まず、日本が「近代ナショナリズム」を終了したのか?
もしそうなら戦後の日本国の「国家主権」の場所のあいまいさは何か?
そして近代ナショナリズムの定義そのものに疑問があります。
佐藤氏は、ゲルナーとアンダーソンの名前を上げて、近代ナショナリズムがいかに西洋諸国家の間で誕生したかを説明します。
それは、敵対国をみ見つけることによって。
具体的には、該当国と戦争をすることによって。
決定的なことは、敗北したことの共通体験を持つことにより(敗北感情)、そこに「近代ナショナリズムが誕生する、と。いや、正確には、「近代国家としてのアイデンティティー」が成立する、と。
これは別にゲルナーやアンダーソンでなくても、ヘーゲルの弁証法のプロセスでも同じです。
人間が自分を自己認識するのは、対他関係の中でだ、と。つまり、互いに自己承認をめぐっての闘争をするプロセスを経て、誰もが自己認識を獲得していく、と。
そのようにして、チェコという民族・国民はドイツに対してアイデンティティーを確立し、今、中国が日本に対して、近代中国人としてのアイデンティティーを確立しつつある、と。
この説自体は間違っていません。
しかし、では、〈近代国家としてのアイデンティティー〉という場合の、近代とは何か、です。
もし、戦争を通して、国家としてのアイデンティティーが確立される、というのであれば、ペルシア戦争を通して、確かに古代ギリシア人たちは自分を「ヘレネスの民族」だとして一体感を形成しました。
戦争は一体感を生む、と定義すれば、これはその通りでしょう。
では、その一体感に「近代」という冠詞がつくと、どうなるか。
「近代的一体感」とは何か?
そしてそれは、古代ギリシア人の「ヘレネスの民としての一体感」と、どう違うか?
そこで、西洋史において国家単位の局面で「近代」がいかに形成されてきたかを振り返ると、原点は、フランスとイギリスで行われた百年戦争です。それ以前は、イギリスもフランスも、貴族たちはごちゃまぜでした。つまり、国家意識はありませんでした。
貴族たちは地元の農民よりも、ドーバー海峡を隔てたところにいる相手領土の貴族に、より親近感を持っていました。
これが、百年戦争を通して、「私はフランス人だ」「私はイギリス人だ」という意識が形成されていきます。
決定的なのは、ジャンヌ・ダルクの登場です。
フランス人にとっての民族的アイデンティティーの創始者です。あるいは、近代的フランス国家のアイデンティティーがここからスタートします。
この場合は、フランス国家が王政であっても、共和制であっても、そこが問題なのではなく、イギリス人が一つの国家を形成するように、フランス人もイギリス人の集合体とは異なる一つの国家を形成する、という国家意識の誕生ということです。
フランス国家が王政か、共和制か、はフランス人の自由です。
これは、現在、中国が一党独裁を選択しているのは中国人の自由であることと同じです。
さて、そこで問題は、イギリスとフランスはまさに戦争を通して近代国家の意識を形成したわけですが、それだけで近代国家が形成されるのに十分なのか、です。
もしそうであれば、なぜ古代ギリシア国家は、ペルシア戦争に勝利した後、「近代国家」とはならなかったのか?
答え。
ヘーゲルの弁証法にもありますが、闘争は、あくまでもプロセスです。
最後は、自分自身の精神による自己認識に到達します。
すなわち、自己意識の問題になります。
古代ギリシア人と近代人の自己認識のあり方は、異なっています。
さて、そうすると、ここで問われるのが、戦後日本人の自己意識です。
この場合は、日本国家としての、戦後の日本人が各人の意識に置いてもつ自己意識です。
これはどうなっているのか? 自分は、何をもって日本人と自己認識するのか?
はたして戦後の日本は、佐藤氏が言うように、近代国家としてのナショナリズムの形成を終了し、「近代国家性」を確立したのか?
私の疑問は、律令理性では、それは不可能である、ということです。
その結果が、佐藤氏も糾弾する尖閣諸島事件の処置の拙劣さ、です。
戦後の日本国家は、国家としてのアイデンティティーに関して、国民の間に統一的なアイデンティティーがない、と。
これが戦後の日本問題の要点であり、核心です。
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