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羽田元首相が死去、82歳 自民党政権打倒、細川政権では、副総理兼外相 !
羽田孜氏・小沢一郎氏等が結成した、新生党とは ?
細川政権とは ?
(news.yahoo.co.jp:2017年8/28(月) 13:14より抜粋・転載)
配信 時事通信:
◆1993年、小沢一郎氏等と、政治改革の実現を唱えて自民党を離党した !
羽田孜(はた・つとむ)元首相が、8月28日午前7時6分、老衰のため、東京都内の自宅で死去した。 82歳だった。東京都出身。政治改革の実現を唱えて自民党を離党し、1994年に非自民連立政権で首相を担ったが、在職日数は現行憲法下で最短の64日間だった。
葬儀は9月8日午後1時から東京都港区南青山2の33の20の青山葬儀所で。喪主は、妻綏子(やすこ)さん。
小田急バス勤務を経て、衆院議員だった、父武嗣郎氏の後を継ぎ、1969年の衆院選に、旧長野2区から自民党公認で出馬し、初当選した。連続当選14回。1993年に自民党を離れ、旧新生、新進、太陽、民政各党を経て、1998年に、民主党入りした。
◆羽田孜氏は、小沢一郎氏らとともに、竹下派「七奉行」と呼ばれた !
自民党では、旧田中、竹下両派に所属し、農林水産相や蔵相を歴任した。当選同期の小沢一郎氏らとともに竹下派「七奉行」と呼ばれた。竹下派継承をめぐる対立で小沢氏らと同派を離脱すると、宮沢内閣不信任決議案に賛成した。自民党を離党して新生党を旗揚げし、細川護熙首相の連立内閣に副総理兼外相として入閣した。
細川氏が退陣した94年4月、後継の第80代首相に就いた。
だが、政権内の対立で、旧社会党が、連立を離脱し、少数与党に転落した。
羽田内閣不信任決議案が提出されると、1994年6月に総辞職した。
◆羽田孜氏は、1998年の民主党結党に参画し、
幹事長の要職も務めた !
1996年の衆院選で、新進党が敗北した後、党首だった、小沢一郎氏との確執が生じ、離党して、太陽党を結成した。1998年の民主党結党に参画し、幹事長の要職も務めた。
2012年の衆院選に出馬せず、政界を引退した。2013年春の叙勲で桐花大綬章を受章した。
温厚な人柄で、自民党時代は、金丸信元副総理から「平時の羽田」と評された。オイルショックを機に、考案された半袖ジャケット「省エネルック」の着用を続け、夏場の軽装「クールビズ」の先鞭(せんべん)をつけたことでも知られる。
民進党の羽田雄一郎元国土交通相は、羽田孜氏の長男である。
(参考資料)
T 羽田孜氏・小沢一郎氏等が結成した、新生党 !
(ウイキペデァより抜粋・転載)
○日本の旗・日本の政党・新生党
Japan Renewal Party:Japan Renewal Party Logo.png
成立年月日 1993年6月23日
前身政党 自由民主党内、改革フォーラム21
解散年月日 1994年12月9日
解散理由 新党結成のため、後継政党 新進党
本部所在地 :〒102-0094:東京都千代田区紀尾井町1丁目11番地
政治的思想・立場 新保守主義
新生党(しんせいとう)は、1993年から1994年にかけて活動した日本の政党。自由民主党を離党した直後の国会議員を主体に結成された政党としては最大規模である。新生党の分離により衆議院議席の過半数を割った、自民党は、結党以来初めて下野した。新生党は、非自民連立政権に参加するが、自社さ連立政権成立により下野し、新進党に合流した。
◆概要[編集]
宮沢改造内閣不信任決議案に賛成し、可決させた羽田派(改革フォーラム21)所属の国会議員である羽田孜、小沢一郎らが1993年6月に自民党を離党して結成した。理念は「自立と共生」。政策は小沢の著書『日本改造計画』を踏襲したもので新保守主義的であり、結党宣言で「新しい保守主義」を標榜する。
非自民7党1会派による38年ぶりの政権交代を主導した。連立与党時代(細川護煕内閣・羽田孜内閣)は公明党と共同歩調を取り、「新生・公明グループ」・「一・一ライン」(小沢一郎・市川雄一の名に因む)と呼ばれた。
1994年12月に新進党の結党に伴い解散。
◆名称[編集]
当初は党名として「創新党」「自由新党」などが有力視されていた。前者は羽田が提案したが語呂が悪いなど評判が良くなく、後者は同じ名前の政治団体が自治省(現・総務省)に先に届けられていたため使えず、補欠候補だった「新生党」に決まった[1]。公式の英語名称はJapan Renewal Partyだが、ジャパンタイムズなどはShinseitoと表記していた。略称は新生、JRP。
基本綱領[編集]
一、わたしたちは、抜本的政治改革を速やかに実現し、国民の皆さんの参加、公開にもとづく新しい時代に即した民主政治を実現する新しい日本をつくります。
一、わたしたちは、不況からの脱出に全力を挙げ、諸制度を緩和し、社会的公正をはかりつつ、健全な市場経済を発展させる新しい日本をつくります。
一、わたしたちは、国際社会の責任と役割を自覚し、世界から信頼される新しい日本をつくります。
一、私たちは、地方中心で、活力ある政治、経済、文化などを発展させる新しい日本をつくります。
一、わたしたちは、かけがえのない地球を守る新しい日本をつくります。
一、わたしたちは、教育を国づくりの根本とし、生活者の視点に立ち思いやりのある諸政策を実行し、充実した人生が送れる新しい日本をつくります。
◆党史[編集]
1993年(平成5年)6月18日 - 自民党・羽田派の衆議院議員が宮沢改造内閣の不信任案に賛成し、可決。宮沢は解散・総選挙に打って出る(嘘つき解散)。
6月23日 - 羽田派の国会議員が自民党を離党し新生党を結成。党首は羽田孜。
6月27日 - 東京都議会議員選挙で獲得議席なし。[2]
7月18日 - 第40回総選挙で55議席を獲得、自民党223議席と社会党70議席に次ぎ、公明党51議席を上回って、衆院第三党となる。
8月9日 - 非自民・非共産8党派による細川内閣発足。新生党は閣僚5ポストを得る。
11月18日 - 参院会派「日本新党・民主改革連合」と統一会派「日本・新生・改革連合」結成。
1994年(平成6年)
1月29日 ‐ 選挙公約だった政治改革四法が成立。
2月4日 - 参院会派の「民社党・スポーツ・国民連合」と、統一会派「新緑風会」を結成。
4月8日 - 細川護熙が辞意を表明。
4月15日 - 新党さきがけが次期政権では閣外協力に回ると表明。
4月25日 - 細川内閣総辞職。日本新党・民社党・自由党の各党ならびに衆院会派の改革の会と、統一会派「改新」を結成。
4月26日 - 「改新」の結成に社会党が強く反発し、連立を離脱。
4月28日 - 羽田内閣が少数与党内閣として発足。新生党は総理+閣僚8ポストを得る。
6月25日 - 羽田内閣総辞職。
6月29日 - 首班指名選挙に海部俊樹を擁立するが、決選投票で社会党委員長の村山富市に敗れる。
6月30日 - 自社さ連立政権の村山内閣が発足、新生党は野党に転落。
9月28日 - 衆院会派「改革」を結成。
11月16日 - 全国代表者会議で新生党の解党と新党への参加を決定。
12月9日 - 新生党解党。12月10日 - 新進党結党。
U 細川内閣
(ウイキペデァより抜粋・転載)
細川内閣:内閣総理大臣 第79代 細川護煕
成立年月日 1993年(平成5年)8月9日、終了年月日 1994年(平成6年)4月28日
与党・支持基盤 非自民・非共産連立政権
日本新党、日本社会党、新生党、公明党、民社党、新党さきがけ、社会民主連合、
民主改革連合
細川内閣(ほそかわないかく)は、衆議院議員、元熊本県知事の細川護煕が第79代内閣総理大臣に任命され、1993年(平成5年)8月9日から1994年(平成6年)4月28日まで続いた日本の内閣である。 非自民・非共産連立政権のこの内閣の発足により、1955年(昭和30年)の結党以来38年間政権を維持し続けた、自由民主党は、初めて野党に移行した。
◆概要[編集]・発足[編集]
1993年(平成5年)7月18日に実施された第40回衆議院議員総選挙において、自民党の獲得議席数は選挙前の勢力をほぼ維持したものの、選挙前の党分裂の影響で単独過半数には達しなかった。
自民党を離党した羽田派が結成した新生党、同じく武村正義らのグループが結成した新党さきがけ、前熊本県知事の細川護煕が前年に結成した日本新党の3新党は計100議席余りを獲得。新党ブームのあおりを受けた日本社会党は70議席と、土井ブームで得た議席数を半減させた。
新生党が速やかに社会党・公明党・民社党・社会民主連合・民主改革連合の各党派と連立政権を樹立することで合意する一方、日本新党とさきがけは統一会派を結成し、自民・非自民双方と政治改革の実現を条件とする連立交渉に入った。
これは、自民党が過半数を割り込んだため、細川率いる日本新党と新党さきがけが新政権樹立のキャスティングボードを握ることとなったことによる。
日本新党とさきがけが「自民党政権」か「非自民政権」のどちらにつくか注目される中、さきがけの田中秀征は、「思想信条の違う政党の連立政権は臨時・緊急の事態にしか通用しない、経済対策など懸案事項を遅らせている政治改革を早期に処理する「特命政権」として、院内会派「さきがけ日本新党」が「政治改革政権の提唱による”この指とまれ”」という第三の選択肢を打ち出す。
7月23日に細川が提唱文を読み上げると、各党の対応が明確になり、新生党代表幹事・小沢一郎の動きとは別に、連立政権樹立の理論的構築を行った[1]。この提唱に、江田五月は、「よかった、これで野合と言われるに済む。」と感想を言ったという[2]。
双方とも条件の受け入れを表明したが、「細川首相」を提示した非自民側が結局取り込みに成功し、細川を首班とする新政権の発足が決まった。連立与党内における日本新党の議席数は、社会党、新生党、公明党に次ぐ第四勢力である。
しかも、細川は参議院議員を2期、熊本県知事を2期、その後日本新党を結成して再び参議院議員を1年間務めていたものの、衆議院議員は初当選だった。
これは、理念や政策、政治手法についての考えがバラバラな8党・会派をまとめていくためには、細川の政界再編・新党運動の先駆者としての立場、旧熊本藩主・侯爵細川家や元首相・公爵近衛文麿の孫という家系の威光、国民的人気等が有効と考えた新生党代表幹事小沢一郎の判断の結果である[注釈 1]。
閣僚には、新党さきがけの武村正義代表(内閣官房長官)、新生党の羽田孜党首(外務大臣兼副総理)、社会党の山花貞夫委員長(政治改革担当大臣)、公明党の石田幸四郎委員長(総務庁長官)、民社党の大内啓伍委員長(厚生大臣)、社民連の江田五月代表(科学技術庁長官)と連立与党各党首が顔を揃えた[注釈 2]。
ただし山花は総選挙敗北の責任を取って9月に社会党委員長を辞任し、替わって委員長に就いた村山富市は入閣しなかったため、政権と社会党執行部との間に距離感が生じることとなった。
また連立与党側の運営は各党書記長・代表幹事らの「与党代表者会議」によって行われたが、特に新生党代表幹事小沢一郎と公明党書記長市川雄一の「一・一ライン」が中心となった。
9月はじめの朝日新聞の世論調査では、内閣支持率は、空前の71%に達した。
☆小沢最側近の平野貞夫によると「(新党さきがけの)武村は官房長官就任したその日から(党籍離脱、無所属を余儀なくされたとはいえ)最大野党・自民党の最高実力者の竹下登と反小沢で内通し倒閣(自社さ連立政権)を企てていた」とのこと。
◆政治改革[編集]
当時の世論は、自民党長期政権の下での政官業の癒着構造、カネがかかり政権交代が行われない選挙システム、政治腐敗等に対する不満が高まっていた。自民党もまた数年来、カネがかからず政権交代を容易にする選挙制度改革や政治資金規制強化などのいわゆる政治改革に取り組んでいた。
しかし党内は守旧派と後の新生党・新党さきがけ・自由改革連合などにつながる改革派に分かれて激しく対立し、結局これを実現できなかった宮澤前内閣は内閣不信任決議を突きつけられ、新生党・さきがけの離党、衆議院における過半数割れによって下野することとなった。
本来理念や政策が異なる連立与党各党は、世論の最大の政治的関心事で自民党政権が成し遂げられなかった政治改革の実現という日本新党・さきがけの条件を受け入れ、これを一致点として政権を発足させたため、細川内閣はこれを唯一最大のテーマに掲げて年内の法案成立を目指した。細川は政治改革が年内に実現できなければ政治責任をとると明言した。
選挙制度改革について、連立政権側は、小選挙区・比例代表(全国単一)各250・2票制(小選挙区・比例各1票)の小選挙区比例代表並立制を主張。
これに対して自民党は、小選挙区300・比例代表(都道府県単位)177・1票制を主張した。
社会党の中には本音では現行制度の存続を望む議員も少なくなく、連立交渉の条件を呑んだはずの自民党もまた同様であり、審議拒否を繰り返した。
小選挙区274・比例代表(全国単一)226とする譲歩案を自民党が拒否したため、与党は10月18日に元の案を衆議院で通過させた。参議院での実質審議は11月24日にようやく始まったが、参議院は自民党と社会党の勢力が大きく、年内可決の目処は立たなかった。
連立与党各党は年明けの1994年(平成6年)1月4日にそれぞれ議員総会を開いて政治改革実現の決意を固めた。
5日からの参議院政治改革特別委員会は自民党の欠席戦術にもかかわらず連立与党の結束は固く、自民党も成立を前提とした修正論議に傾き始めた。1月21日、社会党からの造反があり参議院で法案が否決されるが、細川は自民党の改革推進派議員にも呼びかけて決起集会を開き、あらためて政治改革関連法案成立の機運を盛り上げた。
自民党総裁河野洋平も細川とのトップ会談に応じ、急転直下、小選挙区300・比例代表(全国11ブロック)200・2票制、企業団体献金は1団体50万円までとする妥協が成立。両者は1月29日の午前1時、共同記者会見を行った。
この合意に基づく改正公職選挙法や改正政治資金規正法、政党助成法などの政治改革四法は3月4日に成立、5年以上の年月を経てようやく政治改革は実現した。
結果的に見れば、この政治改革の実現が、細川政権のほとんど唯一の実績となったが、ここで導入された小選挙区制や政党助成金制度は、後の政治のあり方を大きく変えていくことになる。
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