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議員が口先で師と言う、公明党創立者達の権力に迎合しない革命精神の事実 !
1.日蓮大聖人の「立正安国」の闘争・誘惑の鎌倉幕府・権力の魔力を一蹴 !
有力宗教団体等と国家権力との連合による迫害の構図:
*鎌倉時代、小松原の法難:
日蓮大聖人一行10人に数百人で地頭達が襲撃した。
*竜の口の法難:
日蓮大聖人の小さな庵に数百人の武装兵士で襲撃した。
極く小さな教団でも、宗教界有力者と鎌倉幕府の権力者が結託した、大弾圧であった。
―省略―
2.公明党創立者の国家権力との闘争
公明党創立者・池田名誉会長の著作等から、国家権力との闘争体験・精神を抜粋する。
(1) 大阪事件:岸・自民党政権下、国家権力とマスコミから
創価学会への攻撃 !
岸信介(安倍晋三首相の祖父・戦犯)内閣時代
の創価学会への弾圧事件が大阪事件である。
私の逮捕は、全くの冤罪であった。参院大阪地方区の補欠選挙(1957年4月)
で、最高責任者の私が、買収等の選挙違反を指示したという容疑である。
熱心さのあまり、戸別訪問をしてしまい、逮捕された会員がいたことに、私は胸を痛めていたが、買収など、私とはまったく関係のないことであった。
だが、新聞各紙には、「池田渉外部長を逮捕」の見出しが躍り、「創価学会の“電撃作戦”といわれる選挙違反に重要な役割は果たしていた疑い」などと、盛んに書き立てられた。
当時、マスコミは、当局の意向をそのまま反映し、選挙違反は、学会の組織的犯行であり、学会は、反社会的団体であるかのようなイメージを流していったのである。
当局は、逮捕した会員たちを脅し上げ、選挙違反は、ことごとく、私の指示であったする「虚偽の供述」をさせ、罪を捏造していった。
私への取り調べは、過酷を極めた。夕食も抜きで、深夜まで責め立てられたこともあった。
手錠をかけられたまま、屋外に連れ出され、さらしもののようにされたこともあった。
すると検事は、遂に、罪を認めなければ、学会本部を手入れし、戸田会長を逮捕すると、言い出した。脅迫にも等しい言辞である。
私はよい。いかなる迫害にも耐える。
しかし、先生のお体は衰弱の極みにある。
再度の投獄ともなれば、死にも、つながりかねなかった。
私の苦悩が始まった。身に覚えのない罪など、認められるはずがない。
だが、わが師(戸田第二代会長)まで冤罪で逮捕され、
まして獄死するような事態は、絶対に避けなければならない。
“権力の魔性”の陰険さ、恐ろしさを肌身で感じつつ、眠れぬ夜を過ごした。
そして、決断した。“ひとたびは、罪を認めるしかない。
そして、裁判の場で、必ず、無実を証明して、正義を満天下に示すことが賢明かもしれない”と。
その日から私の、まことの人権闘争が、「正義は必ず勝つ」
との大逆転のドラマが開始されるのだ[1]。
(2) 自民党権力がつくった、冤罪事件を勝訴 !
仏法者にとって難こそ誉れ !
逮捕から約1670日後の、1962年(昭和37年)1月25日、裁判所は判決を下した。
「池田大作、無罪!」遂に、冤罪は晴れた。正義の太陽は、闇を破って、大空に赫々と昇った。
ともあれ、“いかなる時代になっても、わが創価学会に対する
迫害の構図は変わらない”。
しかし、仏法の鏡に照らせば、「難こそ誉れ」である。
邪悪と戦う大闘争心に「創価の魂」は、
「師弟の精神」は、脈打ち続けるのだ[2]
*日蓮大聖人は、全人類の未来のために、妥協なく「権力」と戦われました。
戦ったからこそ弾圧され、佐渡に流罪されたのです。
ところが、その姿を見て、多くの弟子達が、大聖人を守るどころか、非難した。
「師匠のやり方はまずい。あんなやり方だから、迫害されるのだ。
私たちは、もっとうまく柔らかに法華経を弘めよう」こういって批判した。
牧口先生の時も同じでありました。あからさまに「私は退転する」とは言わない。
しかし、実際には、大難を恐れた「心の退転」であった。
その臆病の姿を、大聖人は、悠々と見おろしておられました。牧口先生もそうであられた。
この「牧口先生の大確信」をそのまま受け継がれたのが、戸田先生です
(『池田名誉会長が語る恩師戸田城聖先生』、63〜64頁)。
(参考資料)
小説「新・人間革命」常楽の章
国家権力と有力宗教団体の連合からの迫害・弾圧に関する歴史的考察 !
(www.seikyoonline.jp:2016年1月より抜粋・転載)
常楽16:
「法華経を捨てよ」と迫る平左衛門尉頼綱に対して、熱原(あつわら)の農民信徒は、声も高らかに唱題を響かせた。それは、不惜身命の決意の表明であった。
激昂した頼綱は、次男である十三歳の飯沼判官資宗に、蟇目の矢で農民たちを射させた。この矢は、桐材を鏃とした鏑矢で、当たれば体内の悪魔が退散するとされていた。音を発して飛び、犬追物などにも使われた。
その矢が迫ってくる恐怖、打ち当てられた痛みは、いかばかりであったか。
農民信徒は、過酷な拷問に耐え抜いた。
遂に頼綱は、十月十五日、信徒の中心的な存在であった神四郎、弥五郎、弥六郎を斬首した。しかし、それでも農民たちは、一人として信仰を捨てようとはしなかった。毅然として唱題し続けたのだ。彼らの不屈の信仰に、頼綱は狼狽したにちがいない。
結局、処刑は、三人までで、あきらめざるをえなかった。残った十七人は、追放処分となっている。
一方、日秀は熱原郷から、一時、下総(千葉県北部など)に移るが、その後も、日興上人と共に弘教に奔走するのである。
日蓮大聖人の門下は、日昭などの僧、富木常忍や四条金吾などの武士、そして、武士の妻をはじめ家族へと広がってきた。
しかし、一閻浮提広宣流布を進め、万人成仏の教えを現実のものとしていくには、農民などの民衆が、法華経の教え通りに諸難を乗り越える、不退の信心を確立しなければならない。彼らの多くは、読み書きもできなかったであろう。その民衆が純真な信心で、横暴な権力の迫害にも屈せず、死身弘法の実践を貫き通したのである。つまり、法華経の肝心たる南無妙法蓮華経を受持し、大聖人と共に広宣流布に戦う偉大な民衆が出現したのだ。
大聖人は「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」(御書一三六〇ページ)と仰せである。
民衆を単に救済の対象とするのではなく、民衆が人びとを救済する主体者となる。ここにこそ、真実の民衆仏法がある。―以下省略―
常楽19:
初代会長・牧口常三郎は、宗門が軍部政府の弾圧を恐れて神札を祭り、日蓮大聖人の御精神に違背するなかで、正法正義を守り抜いて獄死した。この死身弘法、殉教の歴史こそが、創価学会の精神の原点である。
師の牧口と共に投獄され、後に第二代会長となる弟子の戸田城聖は、獄中での、われ地涌の菩薩なり≠ニの悟達を胸に、生きて獄門を出て、広宣流布に生涯を捧げた。
「なんのために死ぬか」とは、裏返せば、「なんのために生きるか」ということにほかならない。二つは表裏一体である。
正法正義を守り抜いて殉教した師と、その遺志を受け継いで、生涯を広宣流布に捧げて戦い抜いた弟子――この二人を貫くものは、「死身弘法」の大精神であり、実践である。
―前回投稿済みのため、以下省略―
常楽20:
信心に励むのは、「衆生所遊楽」すなわち、人生を楽しみ、悠々たる幸福境涯を築いていくためである。
ともすれば人は、富や名声などを得れば幸せになれると考えてしまう。しかし、心の外に幸せを追い求め、欲望に翻弄されていては、本当の生命の充足も、満足も得られない。望んでいたものを手に入れたとしても、その喜びは束の間であり、すぐに空しさを感じてしまう。しかも、人間の欲望はますます肥大化し、次に求めるものが得られなければ不満が募り、不安に苛まれることになる。
ここに、世間的な欲望の充足を求める「欲楽」の限界がある。それに対して仏の悟りを享受する最高絶対の幸福を「法楽」という。
これは、外から得るものではなく、自らの生命の中から込み上げてくるものである。
ゆえに、日蓮大聖人は、「一切衆生・南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり」(御書一一四三ページ)と言明されている。
南無妙法蓮華経の唱題のなかにこそ、「法楽」すなわち真の遊楽があるのだ。なかんずく、大聖人が「我もいたし人をも教化候へ」「力あらば一文一句なりともかた(談)らせ給うべし」(同一三六一ページ)と仰せのように、自行化他にわたる信心の実践のなかにこそ、本当の遊楽がある。
広宣流布に戦う人は、地涌の菩薩である。地涌の菩薩には「常楽我浄」の仏の四徳が具わっていると、大聖人は述べられている。
「常」とは、仏及び衆生に具わる仏の生命が、三世永遠に常住することをいう。「楽」とは、苦しみのない安らかな境地である。「我」は、仏の生命こそが真実の我であり、何ものにも壊されない、主体的な強靱さをもっていることだ。「浄」は、清浄で、どんなに濁りきった世にあっても、滾々と湧き出ずる泉のごとく、清らかな生命活動を行えることをいう。
この「常楽我浄」の境涯の確立があってこそ、真の「衆生所遊楽」があり、それは、死身弘法の決意と実践から生まれるのだ。
常楽21:
山本伸一(池田大作第三代会長)は、学会の発展も、戦後の広宣流布の大伸展も、軍部政府の弾圧と戦って獄死した初代会長・牧口先生の死身弘法の精神を、戸田先生が、そして、同志が受け継いできたからにほかならない≠ニ深く思った。
彼は、「源に水あれば流かはかず」(御書九〇〇n)の御文をかみ締めるのであった。
十月十一日夜、伸一(池田大作第三代会長)は、大阪・豊中市の関西戸田記念講堂で行われた、熱原法難七百年を記念する大阪・城東区の総会に出席した。
席上、彼は熱原法難に触れながら、現代における殉教の精神に言及していった。
「広布の前進も大河の時代に入った今日においては、一人の犠牲者もなく、一人も残らず、福運と長寿の人生を勝ち取っていくことが大切です。そして、それが、私の心からの祈りであり、願いであります。
信心への大確信をもって、何があっても強盛に唱題し抜く。皆に仏法を教え、励まし、広宣流布のために、生きて生きて生き抜いて、幸せの実証を示しきっていく――それが、殉教の精神に通じることを知っていただきたいのであります」
殉教とは、本来、死を礼讃するヒロイズムなどではない。広布こそ、わが人生!≠ニ定め、日々、現実社会で格闘しながら、忍耐強く信心に励み、幸福の王者となりゆくなかに、現代における仏法者の大道があるのだ。
伸一は、大阪、京都と指導旅を続け、静岡へ行き、熱原法難七百年記念の法要に臨んだ。
十四日夜、塔之原グラウンドで開かれた熱原法難記念の夕べ≠ナは、創作舞踊「熱原三烈士」が披露された。
三烈士が示した不屈の信仰姿勢を継承しようとする、創価の同志の心意気がほとばしる迫真の舞台であった。皆、仕事に励み、広宣流布の活動に邁進するなかで、懸命に練習を重ね、この日を迎えたのであろう。
伸一は、こう心で叫び、喝采していた。
三烈士の大精神は、わが学会にある。
学会ある限り、正法正義は、滅びはしない !
[1] 池田大作『随筆・桜の城』聖教新聞社2006年、90〜95頁。
[2] 池田大作『随筆・桜の城』聖教新聞社2006年、102〜104頁。
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