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国会質疑: ”「記憶にない」繰り返し…山際大臣が辞任の意向 !
2022年10月24日
突然、辞任の意向を固めた山際経済再生担当大臣。辞表を提出に官邸を訪れるものとみられますが、舞台裏には何があったのでしょうか。
瀬戸際から一気に事態は動き出しました。山際経済再生担当大臣は辞任の意向を固めました。
岸田総理大臣は、これを受け入れる方針です。 街の人:「(Q.政権にはどんな影響?)大きいと思います。
岸田総理の側に立っていうならば、毅然(きぜん)とした態度で罷免(ひめん)していたら」
ジャーナリスト・後藤謙次氏:「(Q.辞任の意向の決めては?)答弁ぶりがあまりにも国民の受け止めと掛け離れていた」 経済再生担当・山際大志郎大臣:「一緒にいた同僚議員とも確認しましたが、その写真はその場で撮られたものと確認しています」 24日の国会でも旧統一教会との関係について野党から質問が集中しました。
立憲民主党・後藤祐一議員:「今の時点で覚えていますか?覚えていませんか?」 経済再生担当・山際大志郎大臣:「定かではありません」
立憲民主党・後藤祐一議員:「『定かではない』というのは覚えていないということでいい?」 経済再生担当・山際大志郎大臣:「明確に、そこの部分の場面を私が思い浮かべられることはありません」
立憲民主党・後藤祐一議員:「2018年の写真は覚えている。
記憶がよみがえった。2019年はもっと近くで、隣で撮っているのに覚えていない。どんな脳になっているんですか?」
新たな写真が決定打となったのでしょうか。旧統一教会の韓鶴子(ハン・ハクチャ)総裁の隣でほほ笑む山際大臣。
経済再生担当・山際大志郎大臣:「私は政治家として、写真を撮るという行為は、ごく普通に毎日、毎日行われているものだと。
何か特別なものではないということは、きちんと申し上げておかなくてはいけないと思います。毎日のように先生だってどこかの人に『一緒に写真撮りませんか』って撮ることいっぱいあるんじゃないですか?」
統一教会に関する問題が出て以降、苦しいとも思える答弁を繰り返してきました。
山際経済再生担当大臣:「報道を見る限り、出席したと考えるのが自然だと思う」「私自身はその(旧統一教会の)代表にどこかで会った記憶があった」「これから何か新しい事実等々が、様々なことで出てくる可能性はあるので、その都度しっかり説明責任を果たすことをしないといけないと思っています」
進退に関する意見も出てきた矢先の話です。 自民党幹部:「山際はもう限界だろう」
自民党・閣僚経験者:「あれだけ『記憶にございません』と言い続けて、更迭という判断になってもおかしくはない」 岸田総理は交代については否定していました。
立憲民主党・田島麻衣子議員:「(報道で)『山際大臣の交代も視野に検討に入ったこと分かった』と出ているが、これは事実でしょうか?」 岸田総理大臣:「昼、報道について聞きましたが、そういったことは全くありません」 街の人:「色々な疑惑の説明が足りなかった。
隠したり、言動はずいぶん国民を惑わしていたし、政治家としての資質を疑問に思っていました」
ジャーナリスト・後藤謙次氏:「かなり早い段階で岸田総理は決断していて、そのタイミングを探っていたと思います。10月の初めに自民党の長老とかなりの時間、会談をして、そのなかで予算を担当する大臣だから先週、衆・参の4日間の予算委員会の答弁ぶりを見たうえで、最終的に決断すべきだと。
そこで持たないということになれば、補正予算の編成を任せることはできない。そういう趣旨の見解で一致をしていた。集中審議が入ったので、きょうになったということだと思います。
岸田総理自体の政権の先行きにも影響が与えてくる。きょうがギリギリのタイミングだった」「たった今、取材したところ、自民党幹部には一晩考えさせてほしいと、きょうは結論は出さないみたいですね。
今のところ上がっている名前は全部で6人。閣僚経験者でいえば齋藤健、後藤茂之、古川禎久、梶山弘志、松本剛明、宮下一郎。
いずれも決定打を欠く。少なくとも旧統一教会関係ではないことが最低条件。経済に明るく国会答弁に不安がない、こういう要素がないと決めきれない。そういう意味で自民党幹部に一晩考えたいと言った」
* 岸田総理のプロフールとは ?
岸田 文雄(きしだ ふみお、1957年〈昭和32年〉7月29日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(10期)、内閣総理大臣(第100代・第101代)、自由民主党総裁(第27代)、宏池会会長(第9代)。
外務大臣(第143・144・150代)、防衛大臣(第16代)、内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策、規制改革、国民生活、科学技術政策)(第1次安倍改造内閣・福田康夫内閣)、消費者行政推進担当大臣(福田康夫内閣)、宇宙開発担当大臣(福田康夫内閣)、内閣府特命担当大臣(再チャレンジ)(第1次安倍改造内閣)、文部科学副大臣(第1次小泉内閣)、建設政務次官(小渕第2次改造内閣・第1次森内閣)、衆議院厚生労働委員長、自由民主党政務調査会長(第58代)、自由民主党国会対策委員長(第52代)、自由民主党経理局長、自由民主党広島県支部連合会会長を歴任[5][6][7]。
来歴/生い立ち
広島県出身の通商産業省(現:経済産業省)の官僚であった父・岸田文武の元に東京都渋谷区で生まれる[1][8]。親の教育方針もあり、文雄は東京で育てられた[9]。岸田家は広島の一族であるため、一家は毎年夏に広島に文雄を連れて帰省し、文雄は広島原爆の被爆者たちから当時の話を聞いた[10]。岸田一族も多くが被爆し、死に至った者たちもいた[10]。
1963年、父の仕事の関係でアメリカ合衆国ニューヨーク市に居住し、小学校1年生から3年生まで3年間、現地の公立小学校に通う[11]。 1963年秋から「PS 20」に通ったのち、1964年春からクイーンズ区の近隣住区エルムハーストに位置する「PS 13 Clement C Moore School」に通った[10]。
1964年春からクイーンズ区の近隣住区エルムハーストに位置する「PS 13 Clement C Moore School」に通った[10]。
1966年6月にパブリックスクール3年次を修了[注釈 1]して日本に帰国。7月に永田町小学校(現:麹町小学校)の3年次に転入。麹町中学校を経て、1973年に開成高等学校に入学[12]。野球部に入部し、高校生活を野球に捧げ、その傍らでロック/フォークの流行に影響を受けギターに打ち込む[12]。
同年10月4日、衆議院および参議院の本会議で行われた内閣総理大臣指名選挙にて指名し天皇による任命を経て第100代内閣総理大臣に就任。第1次岸田内閣が発足した。
岸田は64人目の総理大臣で[9][56]、広島出身の総理としては[56][57][58]、加藤友三郎、池田勇人、宮澤喜一に次ぐ4人目で[9][56]、広島県は山口県(8人)、東京都(5人)に次いで3番目に多い総理大臣輩出県となった[9][56][59]。太平洋戦争後に限れば、群馬県4人に次ぐ3人で[60]、2位[9][56][58]。大正以降は、昭和、平成、令和と全ての年号で総理大臣を生んでいる[61]。同じく1957年生まれの野田佳彦より誕生日が遅いため、存命中の内閣総理大臣経験者の中では最年少者となった(就任時の年齢は64歳で、39番目に若い)。
同年10月6日、アメリカ合衆国大統領ジョー・バイデンと総理就任後初となる電話会談を行った。
同年10月14日、第205回国会会期末を迎え衆議院を解散し[62]、31日の第49回衆議院議員総選挙では、圧勝で10選。自民党は重鎮の落選が相次ぎ、公示前の276議席から261議席に減らしたものの、「絶対安定多数」を単独で確保した。この時点で、公明党と合わせて与党は293議席となった[63]。
同年11月2日、イギリス・グラスゴーで開催されたCOP26に出席し、バイデン大統領とも短時間ながら初の対面による懇談を行った[64]。
同年11月4日、外相だった茂木敏充の自民党幹事長就任に伴い、新外相就任まで岸田自身が外務大臣を兼務した[65]。
同年11月10日、第206回国会が招集され、午前中に第1次岸田内閣は総辞職。午後の内閣総理大臣指名選挙の結果、天皇による任命を経て第101代内閣総理大臣に就任し、第2次岸田内閣が発足。
同年11月24日、国内で外国首脳と初めての会談となる日越首脳会談を行った。
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