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曽我ひとみさん,拉致被害者全員の帰国実現を訴えた !
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投稿者 岡本四郎 日時 2022 年 10 月 15 日 16:18:54: 0hvW10nKWDL6E iaqWe45smFk
 




曽我ひとみさん,拉致被害者全員の一刻も早い帰国実現を訴えた !
2022年8月19日
北朝鮮から帰国した拉致被害者のうち、一緒に拉致された母親の消息が分かっていない曽我ひとみさんが、地元の新潟県佐渡市で署名活動を行い、今月で拉致から44年がたった母親の救出と、被害者全員の一刻も早い帰国の実現を訴えました。
1978年に新潟県佐渡市で、母親のミヨシさんとともに北朝鮮に拉致された曽我ひとみさんは、20年前の日朝首脳会談のあと帰国を果たしましたが、母親の消息は分かっていません。

拉致から今月で44年がたつなか、曽我さんは19日、佐渡市で被害者の救出を求める署名活動を行い、多くの人が立ち止まって応じていました。

取材に応じた曽我さんは「帰国から20年という年月がすぎますが、大好きな母に一度も会うことができず、進展が何もないことに強い腹立たしさを覚えます。岸田総理大臣には、北朝鮮とトップ会談を実現し、拉致被害者全員が1日も早く帰って来られるよう努力していただきたい」と求めました。

また、ことし12月に91歳の誕生日を迎える母親のミヨシさんについて「あまりにも長い時間がたち、思い出したくても思い出せない記憶の中で、母を一生懸命さがしています。本当に苦しい気持ちでいっぱいです」と胸の内を語りました。

* 曽我ひとみのプロフールとは ?

人物・略歴[編集]
曽我ひとみは、1959年(昭和34年)5月17日、曽我茂・ミヨシの長女として新潟県佐渡郡真野町に生まれた[1][2]。63歳だ。真野中学校ではバドミントン部に所属した[2]。1975年(昭和50年)3月に中学を卒業し、4月には佐渡総合病院付属准看護学院(旧金井町)および新潟県立佐渡高等学校定時制課程沢根分校(旧佐和田町)に入学した[3][7]。准看護学院の教員は、ひとみはひたむきに頑張っていたと語っている[3][7]。病院勤務は1977年4月から始まり、夜間高校に通いながら准看護師として働いた[3][7][注釈 1]。子ども相手の仕事は特に好きで、上手にあやしながら手当てを施していたという[3]。1978年4月から、ひとみは外科外来に配属となった[3]。親しい友人だけには外科は苦手だと語ったが、遅刻や無断欠勤は一度もなかったという[3]。高校へは、仕事を終えると午後6時からの授業に間に合うように夕食もとらず、病院から約10キロメートルの距離をバスで通学した[9]。授業の後はバスケットボール部の練習があり、病院の寄宿舎に戻ると、だいたい午後11時を過ぎていた[9]。彼女はふだんは病院の寮で暮らし、週に一度、土曜日に真野町の実家に戻り、日曜日に寮に戻るという生活をしていた[2]。定時制高校の卒業証書を授与される前に彼女は拉致されてしまった[9]。

帰国[編集]
2002年9月17日、小泉純一郎首相が訪朝し、1日だけの日朝首脳会談を開き、それまで「事実無根」としてきた日本人拉致被害者の存在を北朝鮮政府が公式に認めた[29]。曽我ひとみの生存も明らかにされ、妹はそのとき初めて姉と母が北朝鮮に拉致されたことを知った[17]。ただし、母のミヨシについて、北朝鮮当局は「承知していない。特殊機関工作員が『現地請負業者』から引き渡しを受けたのは曽我ひとみ1人だけ」と発表した[11]。ジェンキンスは、日本政府が北朝鮮政府に提出したという、拉致被害者とみられる失踪者名簿のなかにひとみの名がなかったことに落ち込んだという[29][注釈 10]。しかし、ジェンキンスは密かにラジオをずっと聴いていて北朝鮮当局がひとみの拉致を認めたことを知り、「日本政府が会いに来るんだよ。やっと願いがかなうんだ。会いにいくべきだ」と彼女に声をかけた[21]。
帰国の10日前、蓮池夫婦や地村夫婦と初めて会ったが、ひとみは帰国メンバーには絶対横田めぐみがいるはずだと内心思っていた[21]。10月8日、警察庁は欧州で失踪した松木薫・石岡亨の両名とともに曽我ミヨシ・ひとみの母子を正式に拉致被害者に認定した[2]。そして10月15日、曽我ひとみは日本への帰国を果たした[30]。このとき、ジェンキンスもひとみ自身もすぐ北朝鮮に戻るような心持ちの方が強かった[30]。平壌国際空港への見送りには、ジェンキンス、美花、ブリンダのほか、横田めぐみの娘キム・ヘギョンのすがたもあった[30]。彼女は一目見るなり横田の娘であることを確信し、すぐに抱きしめて泣いたという[20]。しかし、「母は死んだ」というキム・ヘギョンの言葉には衝撃を受けた[20]。
2004年、日本政府がアメリカ政府との交渉によって穏当な判決を軍法会議で行う確約を取りつけたことから、同年7月9日、ジェンキンスは治療という名目で娘2人とインドネシアへ出国した[38]。ジャカルタ国際空港で家族を待っていた曽我ひとみはジェンキンスに抱きついていた[37][38][39]。ジャカルタでの家族会議では、彼女は自分ばかりではなくジェンキンスとジェンキンスの母親、そして、家族のためでもあると彼を説得した[38]。ジェンキンスは葛藤しながらも日本行きに同意し、娘たちも最終的には同意して、7月18日、日本に入国した。
彼女自身、拉致被害者であるが、いま彼女は「家族会」とともに、母である拉致被害者曽我ミヨシの救出活動に力を注いでいる[注釈 12]

 

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