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「私の20年より、拉致問題の20年を」蓮池薫さんの訴え !
毎日新聞:2022/9/17
日朝首脳会談から17日で20年。拉致問題は今も解決にはいたらず、02年当時のうねるような世論の盛り上がりもなくなったように見える。会談をきっかけに24年ぶりに故郷の土を踏んだ新潟県柏崎市の蓮池薫さん(64)は、こうした現状に危機感を抱く。帰国当初は講演する機会が多くなかったが、近年は壇上に立って強い口調で解決を訴えることが増えた。「拉致家族の再会が実現しなければ何も解決しない」。政治家や世論との拉致に対する温度差があるなか、蓮池さんは今も訴え続けている。
帰国後、柏崎市役所で臨時職員として働き始めた蓮池さん。仕事の合間に講演することはあったが頻度は「ポツポツという感じ」。帰国者の発言は日朝交渉に影響を及ぼすという懸念もあり、講演内容も「親元を離れた子どもとの絆や家族の情の話」など軟らかいテーマが大半だった。メディアへの取材にも慎重な姿勢を崩さなかった。
しかし、未帰国者の救出が進まないまま時が過ぎるにつれて考えは変わり、解決を求める気持ちが高まっていった。それは、拉致被害者として帰国を果たした自分にとって当然のことのように思えた。「何とかして事態を動かしたい。そのための議論の土台を提供したい」。蓮池さんは講演の頻度を増やし、依頼があれば各地を訪れるようになった。
こうした思いは、政府対応への不満もあって一層強くなった。横田めぐみさん(行方不明時13歳)の父滋さんや有本恵子さん(同23歳)の母嘉代子さんら拉致被害者家族が亡くなるたび、政治家は「断腸の思い」といったコメントを出す。そうした彼らの言葉に、蓮池さんはむなしさと憤りを感じた。「解決できなければ担当大臣を代えるなり給与を返納するなり、責任の取り方を示すべきではないか」
* 蓮池薫さんのプロフール
来歴[編集]
生い立ち[編集]
蓮池薫は、1957年、学校教員の父、市役所職員の母の次男として生まれた[4]。彼が通った柏崎市立日吉小学校は1学年1クラスの小規模校で、3学年上の兄透と釣りをすることが多かった[5]。透も薫も「おばあちゃん子」だった[6][7]。小学校1年生のとき、オート三輪にはねられ砂利道を10数メートルも引きずられる交通事故で大けがをし、一時は左足の切断も検討されたが、何度も手術と入院を繰り返して大事なきを得た[4][注釈 1]。市立西中通中学校では野球部に入部し、捕手として活躍、主将を務めた[5]。3年次には、新潟県大会で準優勝を果たし、ナゴヤ球場でおこなわれた中部日本大会に出場している[5]。県立柏崎高等学校では演劇部に所属した[5]。中央大学法学部には現役で合格している[5]。
拉致[編集]
1978年(昭和53年)7月31日、中央大学法学部3年在学中に、夏休みで実家に帰省していたところを拉致された[8]。その日の午後6時、蓮池薫はグループ交際を通じて知り合った奥土祐木子と柏崎市立図書館で待ち合わせをしていた[9][注釈 2]。奥土祐木子は当時22歳で、カネボウの美容指導員として働いていた[6][9]。図書館は海岸から250メートルしか離れておらず、海辺は2人がよく散歩する場所であった[11]。蓮池は母親に「ちょっと出かける。すぐ帰る」と言って、奥土祐木子は職場の上司に「コーヒーを一杯飲んで午後8時までには帰ります」といって出かけていた[11][10]。
海岸で散歩をしていた2人に3、4人組の男が近づき、そのうちの1人が「すいません、たばこの火を貸してくれませんか」と声をかけ、次の瞬間、蓮池の眉間を激しく殴って顔がはれあがるほどになった[10][12][13]。その後、蓮池は男の1人に「静かにしなさい」と言われ、頭から袋をかぶせられてボートに乗せられた[10][12][13][注釈 3]。やがて工作船に移され、薬を打たれ、意識が朦朧するなかで目隠しの隙間から柏崎の明かりが遠のくのを感じた[2][10]。船が着いたところは北朝鮮北東の港町、清津であった[2][13]。図書館の前には蓮池の乗ってきた自転車が放置されていた[10]。実家の机の上には大学に提出する書きかけのレポート、学生証、運転免許証が残されていた[10]。拉致実行犯はのちに、朝鮮民主主義人民共和国の工作員、通称チェ・スンチョル[注釈 4]、通称ハン・クムニョン、通称キム・ナムジンと判明した[15][注釈 5]。
清津の港にも、のちに移送された平壌郊外の招待所にも祐木子の姿はなかった[2]。しばらくの間、彼は現実を受け入れることができなかったという[16]。蓮池は「彼女はどうしたのか」「日本へ帰せ」と何度も抗議した[2]。係員は初めは冷笑する程度の反応だったが、次第に「いつまで言っているんだ」とでもいうような険しい態度へと変化し、彼は生命の危険を感じた[2]。絶望のなかにあった蓮池は、まずは状況を正確に理解するため朝鮮語を覚えることを決心した[2]。北朝鮮では、日本でいだいていた弁護士の夢は諦めざるを得なかった[2][注釈 6]。
希望の光がいくらか差し込んだのは、奥土祐木子の生存を知った時である[2]。北朝鮮に連れて来られて約2年後、互いに日本にいると思い込まされていた2人が引き合わされた[16]。溺れていた人間が助けられたような気持ち、蓮池はその時の心境をふりかえる[16]。1980年(昭和55年)5月、蓮池は祐木子と所帯を持ち、その後、2人は1年半後に長女、3年後に長男をもうけた[16]。拉致されてから3年間は、日本から助けが来ると信じていた[16]。しかし、その後は「プラス思考に転じた」と蓮池は語る[16]。彼が言う「プラス思考」とは、「日本に帰りたいなんて考えないこと」であった[16]。できもしないことを毎日考え、望んでも、狂死するしかない、それなら、日本人としての人生を捨てるしかない[16]。そのとき支えになるのは、子どもへの愛情であり、子どもの成長の喜びと将来への期待だけであった[16]。北朝鮮での生活における新しい夢、それは子どもであった[2][16]。2人は話し合い、反日国家の北朝鮮で人びとから差別されずに生きていくには「日本人」であることは不利だと考え、子どもたちには自分たちを「帰還事業で北朝鮮に来た在日朝鮮人」と思い込ませることにした[2]。そして、将来子どもが北朝鮮工作員として召喚されるリスクを減らそうとして、日本語はあえて教えないと決めたのである[2]。
1980年1月に初めて拉致事件の存在をスクープした産経新聞の阿部雅美は、1979年(昭和54年)に柏崎の蓮池家を取材で訪ねた際、彼の両親から「夫婦で柏崎近辺から新潟市あたりまでの100キロにもおよぶ長い海岸を棒で突きながら歩いたこと、東京や名古屋など遠方を訪ねたりして探し続けていたこと、いつ戻ってもいいように東京の下宿先の家賃を払い、大学には休学届を出したこと」などを聞いた[2][17][18] [注釈 7]。兄は就職したばかり、妹はまだ高校生だったので、影響も考えて警察の捜査は非公開だった[18]。阿部は「当時は非公開だったが、苦しい胸の内を聞いてほしかったのかもしれない。親心にふれ、不覚にも涙が出た」と当時を振り返っている[2][17][
帰国[編集]
2002年10月15日午後2時19分、蓮池薫ら5人を乗せた政府専用機が羽田空港に到着し、地村夫妻につづいて蓮池が妻の祐木子と腕を組んで現れ、最後に曽我ひとみが飛行機を降りた[24]。蓮池は最初に妹の姿を見つけ、兄と妹で会話をしたあと両親の前に立ち、父と抱き合い、母と抱き合った[24]。拉致された当時、妹はまだ高校生だった[25][注釈 11]。蓮池は帰国したものの、それは当初あくまでも「一時帰国」としてであった[2][26]。子どもたちは北朝鮮に置いてきた[26]。蓮池自身も北朝鮮に帰るつもりであった[21][26]。
滞在期間は3週間であった[26]。蓮池は「拉致は許した」「我々は朝鮮から国交正常化のために来た使節団だ」「俺がここに来たのは朝鮮公民としてだ」「朝鮮公民として祖国統一に尽くす」と話し、また、しきりに「北朝鮮に遊びに来い」と語った[26][27]。24年ぶりに再会を果たした家族の前で横田滋・早紀江にだけ執拗に会いたがり、朝鮮赤十字会の職員の電話番号をしきりに聞きたがった[26]。こうした薫の言動に家族は不審の念をいだき、苛立ち、怒り、ときには嫌悪感さえ感じることがあった[26]。「北朝鮮に帰ってしまったら、また24年間会えなくなる」「足に鎖をつけてでも北朝鮮には返さない」、家族は必死に北朝鮮への帰国を思いとどまるよう説得した[26]。しかし、そのようにすることは、彼と子どもたちを引き離すことになり、自分たちが24年間味わった苦しみの日々を拉致被害者である彼に味わわせることになる。この葛藤に家族も蓮池自身も苦悩した[28]。
帰国後、蓮池薫の柏崎の実家には連日のように友人たちが集い、思い出話をして24年の空白を埋めていった[28]。「ああ、やっぱり友達はいいなあ。ふるさとはいいなあ」、彼はこのような独り言を言うようになった[28]。10月21日、彼の小中学校時代からの親友丸田に夜中まで説得された[28][27]。丸田は帰り際に「俺にも親がいる。お前より親が大事だから俺は家に帰る。生涯俺は親を大事にする」と言い残した[27]。次の日も丸田は、蓮池家が当夜宿泊する赤倉温泉をおとずれ、涙ながらに彼を説得、家族もこんこんと説得した[28]。その2日後、薫は兄に「俺は腹をくくった。北朝鮮には戻らない。日本で子供を待つ」と打ち明けた[27][28]。2002年10月25日、蓮池薫と奥土祐木子は柏崎市役所に婚姻届を出した[29]。彼が日本永住の意思を公表したのは、11月5日のことであった[28]。
2004年(平成16年)5月22日、小泉純一郎首相が再訪朝して第2回日朝首脳会談が開かれ、蓮池夫婦の2人の子どもが日本に到着した[2]。蓮池は「北は経済援助を焦っていたので、われわれが粘れば子供を返すはず」と考え、1年半耐えて子供を取り戻したと当時を振り返っている[21]。蓮池夫妻は、実は、北朝鮮での監禁生活のなかで子どもが出生した際、朝鮮名と同時に内密に日本名もつけていた[2]。自然にその名を受け入れた子供たちに彼は言う、「日本には未来の目標を追う自由がある」と[2]。
蓮池薫は、2003年(平成15年)4月から柏崎市役所の非常勤職(広報担当)として働きはじめ[30]、2005年(平成17年)から学校法人柏専学院嘱託職員となり、新潟産業大学で韓国語の教育に従事するかたわら、2004年9月24日、除籍されていた中央大学法学部に復学した[8]。中央大学は、1976年の入学当時と同じ卒業単位数とし、蓮池には当時と同じ学籍番号を使用してもらうこととした[8]。学業のかたわら韓国語文献の翻訳者としての仕事をこなし、2005年に初の訳書である金薫の『孤将』を刊行した。2008年(平成20年)3月、蓮池は中央大学法学部法律学科を卒業した[8]。卒業にあたり、彼は一方では喜びながらも「やはり悔しい。拉致という悲惨さを感じずにはいられなかった」と複雑な心中を語った[31]。
彼はその後も学問の道をあゆみ、2010年、新潟大学大学院現代社会文化研究科社会文化論専攻(韓国・朝鮮史)博士前期課程に入学した。2013年3月に修了し、文学修士の学位を授与されている。新潟産業大学では、2008年4月から国際センター特任講師、2009年(平成21年)に同大学経済学部特任講師、2010年(平成22年)から専任講師を経て、2013年(平成25年)4月には准教授に昇任した[3]。また、2018年(平成30年)4月からは同大学の国際センター長を務めている[3]。帰国後は日本各地で講演を行い、自身の生々しい拉致体験や帰国後のできごとなどを語りながら、拉致によって「人生の夢、家族の絆、命以外のすべてを奪われた」と訴えている[21]。
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