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俳優・田村正和さん晩年ご近所秘話 !
最愛の80歳妻と仲良くツーショット散歩 !
田村正和さんのプロフィールとは ?
(www.nikkan-gendai.com:2021/05/28 09:26)
■田村正和さん:4月に心不全で亡くなった !
「もう、あのお姿を永遠に見られないと思うと、かなしい」
そう、ご近所のマダムは言っているという。4月に心不全で亡くなった故・田村正和さん(享年77)。田村さんは東京屈指の高級住宅街に暮らし、散歩を日課としていたが、そこでは徹底的に私生活を見せなかった田村さんが素顔を垣間見せる場面があったという。ベテラン芸能記者の青山佳裕氏が言う。
「いつも朝の8時ごろ、ゆっくりと、ひとり散歩に出る田村さんはご近所の皆さんに会うと『おはようございます』と、ご自分から挨拶されていたそうです。
野球帽をかぶっていても、あの格好よさは隠しようがなく、田村さんの散歩ルートには、田村さんに見惚れる女性が少なくなかったようですね。田村さんはそうしたご近所さんをも気さくに受け入れ、きれいな家庭菜園のあるお宅の近くで入念なストレッチをされたり、富士山の見える景色をとても愛されていました。家庭菜園のご主人には、農作業について質問され、『いつかやりたいと思っているんです』とも、お話しされていました」
いつもひとり、ペットを連れることもなかった田村さんだが、今年に入って、そうしたこだわりを変える様子があったという。
■いつもは必ずひとりだったが…
散歩する傍らに、個人事務所の取締役でもある妻の和枝さん(80)の姿が見られていたという。それは、「女性は結婚したら家庭に入るべき」が持論の田村さんに生涯寄り添い、つねに三歩下がって田村さんを支えた和枝さんとのツーショットで、田村さん夫妻を知る関係者には意外な光景でもあったそうだ。
「小柄でかわいらしく、ご近所ではとても気配りの方で知られる奥さまがうれしそうに話し掛けると、すこしうつむいたまま、田村さんは口元に笑みを浮かべて応じていたそうです。田村さんはご自身で死期をお感じになられていたのか、それまでかたくなに貫かれていた生き方、衣を脱いで、奥さまを大好きな散歩に誘われていたのかもしれませんね」(青山氏)
和枝さんは銀座の高級紳士服店の社長令嬢で、東洋英和女学院短大を卒業後、カナダの大学に留学した経験もある才女であった。
友人宅でのパーティーで出会い、恋に落ち、1970年9月に結婚した。
長女にめぐまれ、2001年に飲食業チェーンの御曹司との結婚式では目を潤ませる田村さんの姿があったという。
「家庭をもたれた娘さんは家を出て、いまは広い豪邸に奥さまがひとり。寂しくされているのではないかとご近所の皆さんが心配されています」と青山氏は続けた。
田村さんは「うちの奥さんは100点満点」と言い、和枝さんの誕生日には年齢の数だけバラの花束を贈っていたそうだ。天国から、そんな和枝さんを田村さんは優しく見守っているにちがいない。
(参考資料)
○俳優の田村正和さんのプロフィールとは ?
(ウィキペディアより抜粋・転載)
田村正和(たむら・まさかず、1943年〈昭和18年〉8月1日生まれ。77歳。2021年〈令和3年〉4月3日[2])は、日本の俳優。東京都世田谷区生まれ、京都府京都市右京区出身[3]。成城大学経済学部卒業[2]。所属は、自身の個人事務所である新和事務所[4]。
阪東妻三郎の三男で、長兄の田村高廣、弟の田村亮と共に、「田村三兄弟」と呼ばれる。異母弟に俳優の水上保広。家族は妻(一般人女性)と娘[4]。
◆経歴
☆幼少期から松竹時代:
京都から世田谷へ移住、9歳で父阪東妻三郎を亡くす[3]。1960年、兄・高廣主演の映画『旗本愚連隊』の撮影現場を見学に行った際に勧められて、同映画の端役として出演する[3]。その後、1961年松竹大船と専属契約[3]。9月、成城学園高校在学中に映画『永遠の人』で本格デビュー[3]。1965年『この声なき叫び』で初の単独主演、以降1966年に大学を卒業するまで学業と並行して映画、テレビドラマに出演した。この間1963年『花の生涯』からは5年連続でNHKの大河ドラマに出演した。
☆松竹退社から1970年代TV時代劇を中心に活躍
1966年にフリーとなる[3]も脇役ばかりが続く。当時は地味で暗い風貌であったことや、声があまり通らないことなどから成功には程遠かったものの、やがて1970年に出演したテレビドラマ『冬の旅』で改めて存在を認識され[5]、人気に火が付いた[6]。以降次第に繊細な二枚目青年役を中心にテレビドラマでの活躍が目立つようになる。 1972年『新・平家物語』では崇徳天皇を演じたがこれ以降大河ドラマには出演していない。同年テレビ時代劇『眠狂四郎』で茶の間の人気を得た[3]。『眠狂四郎』、1977年NHK時代劇『鳴門秘帖』、1979年『赤穂浪士』など、特に陰影の濃い哀愁ムードの風貌は女性ファンを引き付け[3]、「憂愁の貴公子」とさえ呼ばれることもあった[7]。
1978年のテレビ時代劇『若さま侍捕物帳』に出演、これまでと違う役どころに悩んだが[3]、これが一つの転機となり、以降は、軽やかで明るい役柄にも挑戦、これまでのイメージとは異なる作品に多く出演するようになった[3]。
1979年映画『日本の黒幕』に出演、以降1993年まで映画には出演せず、テレビと舞台のみに出演した。
☆1980年代:ホームドラマでのブレイク
1983年スペシャル時代劇版『乾いて候』が好評であったため[8]、1984年連続版『乾いて候』が製作され、田村三兄弟が共演して話題となった[3]。また同年『うちの子にかぎって…』(TBS系列)に出演し、それまでのイメージを完全に覆す三枚目の役[3]、田村にとってターニングポイントとなった[3]。ちょっと頼りない優柔不断で生徒に振り回される小学校の先生役が見事にはまり大ヒット。
続けて『子供が見てるでしょ!』『パパはニュースキャスター』『パパは年中苦労する』など数々のコメディドラマに主演した。以降はトレンディドラマやホームコメディに多く出演し成功をおさめている。
1988年には田村がとても気に入っているという『ニューヨーク恋物語』に出演、同じ役を長く演じるのを嫌う田村としては珍しく、田村の願いで[9]、2005年にはスペシャル版が製作された。
☆1990年代以降
恋愛ものでは元来のキャラクターである二枚目でダンディな男性を演じ、夫婦ものでは悩み多きコミカルな夫、55歳を過ぎてからは頑固で涙もろい父親役など、幅広い役柄で主演し、テレビドラマ界での主演スターとしての地位を築いた。
1990年年末時代劇スペシャル『勝海舟』(1990年、NTV) に主演するも、急病のため前半部と終盤のみの出演となり、代役は弟・亮となった[10]。
1993年映画『子連れ狼 その小さき手に』に出演し、1979年の日本の黒幕以来のスクリーン復帰を果たし、アクションよりも、親子愛にテーマを置いた拝一刃を演じた[3]。また同映画の写真を使用した自身初の写真集が発売された。
1994年から放送の刑事ドラマ『古畑任三郎』役では、和製刑事コロンボとも言える新境地を開き、10年以上にわたって演じる当たり役となった[5] 。古畑任三郎役で、ザテレビジョン主催のテレビアカデミー賞第1回主演男優賞を受賞したが、辞退していた。その後、『古畑任三郎』第2シーズンと『さよなら、小津先生』の小津南兵役でも同賞を受賞した。
2007年、中山プロデューサーから3年越しのラブコールを受け[11]、映画『ラストラブ』に出演、14年ぶりの映画出演となった[12]。
2009年『そうか、もう君はいないのか』で第49回モンテカルロ・テレビ祭 最優秀男優賞を受賞、「信じられません。私が参加いたしましたこの作品が東京を遠く離れたモンテカルロの地で皆様方のご高覧を拝しただけでも大変光栄なことでございますのに、このような賞を頂けるなんて・・・。実は私事ではありますが、この数年俳優業の難解さと私自身の能力の間で大変悩んでおりました。
したがってこのような賞をいただけることが私には全く信じられないことなのです。この度のこの栄えある賞が私のそう長くはない俳優人生においておおいなるエネルギーになってくれることを祈っている次第です」と受賞の喜びを語った[13]。
2018年、『眠狂四郎 The Final』に出演。「狂四郎というのは自分の出生に大変なコンプレックスを持っている男なんですけど、今回少しだけ明るい光が入ってくるような部分もあります」と述べた[14]。円月殺法のシーンだけで3日をかけて撮影され、「『眠狂四郎』は大事な作品です」とも語った[15]。しかし放送前に試写を見た田村は、これではダメだと痛感しオンエアを見る気にもならなかったと2018年4月発売の写真週刊誌『FRIDAY』の取材に語っている[16]。これが俳優業からの引退を示唆するかの様なコメントだったことから、一部のマスコミで引退宣言などと報道された。一方田村とは旧知の仲である八木康夫が、伴一彦らとの対談で田村について「確かにやり切ったとは感じている様だが、報道の内容は正確なものではなく、田村自身は一言も引退とは言っていない、また今後絶対に何かに出演しないと言っている訳でも無い。今の田村と何か新しい作品をやりたい。」と話していた[17]が、当作品が生前最後の出演となった[18]。
2021年4月3日16時20分、心不全のため、東京都港区の病院で死去[19][20]。77歳没。
◆人物
父、兄弟:田村は幼い頃、なんとなく父親のしている仕事をしたいと思っていた。そしてそれを知った父、阪東妻三郎が大変喜んだと語っている[21]。また「僕にあとを継がせたかったんでしょうね、丹下左膳の扮装などを教えてくれました」とも話していた[22]。
父とは普通の親子の様に手を繋いで町を歩いたり、散歩したり、映画を見に行くこともない関係であったが、丹後の宮津の定宿に毎年夏に行った時だけは一緒に遊んだり、海で泳いだりしたことがとても嬉しかったとも語り、演技の影響は特に受けていないが、母から聞いた父の役者としての生き方や姿勢は影響を受けたかもしれないとも語った[4]。兄弟の中で最も父親と性格が似ていて、字も似ているという[23]。
2003年1月14日にNHKで放送された、阪東妻三郎没後50年を偲ぶ番組『駆けよ! バンツマ』では、一般人の次男・俊磨も含めた田村4兄弟が勢ぞろいし、父の思い出について対談する貴重な映像が見られた。京都で撮影の際には、父阪東妻三郎と兄高廣の眠る墓を訪ねる[24]。
弟・亮は正和について「まじめ過ぎる、テレビではプライベートな部分は見せない」と分析、また兄弟で会っても仕事の話をすることはまず無いと明かしている[25]。
◆プライベート
1977年当時「月に何度か飲みに出かけるが、女の人が居る様な店には行きません」と対談で答えている[47]。
プライベートで、他人の前では決して食事をしないというエピソードがある[48]。
好きな酒はビール[38]、またソフトクリームが好きだと明かしている[49]。既に、自身の墓を建立している(いわゆる「寿陵」)[50]。
休日は家で部屋にこもり音楽を聴いたり、酒を飲んで過ごすことが多く、専属美容師を自宅に呼んでいる[51]。
子供は苦手であるが、犬は好きで、犬にはすごくなつかれるとも語っていた[4]。
ロバート・デ・ニーロの出演作品を好み、作品を借りてきてもらったりしていた[4]。
コンピューター音痴で、携帯電話も所有していたが、家に置いていた[38]。しかしiPadは活用している[52][51]。
運動のために自転車に乗っている[38]。また毎日30 - 60分ほど散歩をしている[53]。
時代小説を好んで読んでいる。とりわけ聖徳太子や織田信長が好みのようで、織田信長を演じてみたいと度々語っていた[38]。
NHKの『ブラタモリ』が好きだと、『徹子の部屋』に出演時に明かした[51]。
―以下省略―
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