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戦争責任者の責任が、十分に問われることなく、現在を迎えている !
第二次大戦・日米戦争等の深層・真相は ?
(「植草一秀の『知られざる真実』」:2020/08/15より抜粋・転載)
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1)広島・長崎への原爆投下後、昭和天皇
・政府は、ポツダム宣言の受諾を決定した !
1945年8月15日正午、前日に公布された「大東亜戦争終結ノ詔書」を、昭和天皇が朗読した、レコードがラジオ放送された。「玉音放送」と呼ばれている。
この放送で国民と陸海軍に「ポツダム宣言の受諾」と「軍の降伏の決定」が伝えられた。
日本政府は、日ソ中立条約の締結国である、ソ連に和平講和の仲介を託していたが、8月6日の広島市への原子爆弾投下、8月8日のソ連対日宣戦布告、8月9日の長崎市への原子爆弾投下という事態に直面して、ポツダム宣言の受諾を決定した。
2)ポツダム宣言の受諾を、外交公電として、連合国に向けて通告した !
日本政府は、8月10日にポツダム宣言の受諾を、外交公電として、連合国に向けて通告した。
日本政府は、同時に中立国を通じて、「国体(天皇制)の変更を伴わないかどうか」を、連合国側に確認した。
しかし、確答を得られぬまま、8月14日の御前会議で、ポツダム宣言受諾が正式に決定され、終戦の詔勅が発せられた。
日本政府は、連合国に対し、ポツダム宣言の受諾を正式に通告した。
その詔書朗読のレコードが、8月15日正午に放送された。
3)1945 年9月2日、日本の降伏 文書が調印され、即日発効した !
ポツダム宣言受諾の通告を受けて、1945年9月2日に、東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリの甲板上において、日本の降伏文書(日本と連合国との間の停戦協定(休戦協定))が調印され、即日発効した。日本敗戦の日は、正しくは、9月2日である。
連合国側は、9月2日ないし3日を対日戦勝記念日としている。
調印式で日本側は、重光葵外務大臣、梅津美治郎参謀総長が署名した。
連合国側は、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが、4連合国(米、英、ソ、中)を代表するとともに、日本と戦争状態にある他の連合国のために署名した。
さらに、アメリカ合衆国代表チェスター・ニミッツ、中華民国代表徐永昌、イギリス代表ブルース・フレーザー、ソビエト連邦代表クズマ・デレヴャーンコ、オーストラリア代表トーマス・ブレイミー、カナダ代表ムーア・ゴスグローブ、フランス代表フィリップ・ルクレール、オランダ代表コンラート・ヘルフリッヒ、ニュージーランド代表レナード・イシットが署名した。
4)日本では、「終戦の日」と称するが、正確には、「敗戦の日」である !
日本敗戦の日は、9月2日とするのが正しい。
また、日本では「終戦の日」と称するが、正確には、「敗戦の日」である。
日本政府は、無謀な戦争に突入し、多くの犠牲者を生んだのである。
多くの国民が、兵隊として駆り出され、かけがえのない命を失った。
非戦闘員である市民も、戦争に巻き込まれて、多大な犠牲を強いられた。
5)戦争責任者の責任が、十分に問われることなく、現在を迎えている !
無謀な戦争に突入して、甚大な被害をもたらした、戦争責任者の責任が、十分に問われることなく、現在を迎えている。
戦犯容疑者は、連合軍によって逮捕、拘束されたが、一部の戦争責任者は、米国の対日支配戦略の一環として免責された。
その免責された戦争責任者が、敗戦後日本において、米国の指揮の下に、日本の指導層として列せられてきた。ここに、敗戦後日本の歪みの原因がある。
敗戦を契機に、日本は、根本的な路線修正を目指したが、1947年から1952年にかけて、重大な路線再修正が行われて、現在に至っている。
―この続きは次回投稿しますー
(参考資料)
T 第二次大戦・日中・日米戦争勃発の
真相は、世界大恐慌後、英米の謀略だった !
副島隆彦・船井幸雄の主張:国民党と中国共産党を和解させて、抗日統一戦線をつくらせ、日本を敗北させようとしたことは、世界大恐慌後、景気回復のため、世界大戦誘導を狙う、英国と米国の裏の戦略でもあった(日本を、戦争に駆り立てたのは、米国による、石油禁輸措置だった。
日本は、資源確保のために中国等東南アジアに侵攻した)。特に、米国は、英国を追い抜いて、世界覇権国になるという、英国に内密の戦略のため、大戦後・対ソ連との戦いのため、1930年代から、日本占領・支配・収奪を狙って、長期的に準備していた。
つまり、日本政府・陸海軍首脳は、英国・米国・ソ連・中国共産党の仕掛けたワナに嵌められて、無謀な大戦に突入したのだ。マッカーサー元帥は、この日本首脳を、12歳並と言った。自民党体制(官僚機構・財界・マスコミ・御用学者・御用評論家も含む)は、アメリカが裏から思い通りに支配するために、強力なアメリカ主導で作ったものである
(『昭和史からの警告』。
U 日本国民には知らせない、 第二次大戦・日米戦争の真相とは ?
(ヤコブ・モルガン著「山本五十六は生きていた」より抜粋)
○負けるべきして始まった太平洋戦争の真相 !
1.白人種は元来戦闘的、侵略的、謀略的
2. 平和に生きたい日本民族と略奪が日常の米英等民族
(1)王国滅亡の原因:外敵の侵入・悪政・売国奴の存在
(2)王国・帝国の崩壊過程でユダヤ金融財閥が子分を権力者に育成 !
17世紀におけるイギリスの清教徒革命、18世紀のアメリカ合衆国建国、フランス革命、19世紀の日本における明治維新、そして20世紀の辛亥革命、ロシア革命、さらにドイツ、オーストリア、トルコ、大日本帝国の崩壊である。世界中の王国、帝国を倒壊していく過程で新たな権力の座についた「世界支配層」ユダヤ・イルミナティ・フリーメーソンは、打ち続く戦乱で鍛えられた白人層を世界征服のための先兵として駆使してきた。
(3)この戦争指導者たちがユダヤ=国際金融財閥の手先である !
太平洋戦争の全容は実に膨大であり、その戦闘のひとつひとつを語ることは数十冊の本をしても不可能に違いない。(中略) それぞれの戦局で「日本軍を敗北に導く役割」を果たした主な人物たちは次の通りである。
● 米内光政 ………海軍大将、海軍大臣、首相。フリーメーソン
● 山本五十六 ……連合艦隊司令長官、海軍大将・元帥。フリーメーソン。
● 南雲忠一 ………真珠湾攻撃時の第一航空戦隊司令長官、海軍中将、
ミッドウェー海戦時の第一機動部隊指揮官。
● 源田実 …………第一航空艦隊参謀、海軍大佐。
● 井上成美 ………海軍軍務局長、第四艦隊司令長官、海軍中将。
● 原忠一 …………真珠湾攻撃時の第五航空隊司令官、海軍少将。
● 服部卓四郎 ……大本営参謀作戦課長、陸軍大佐。
● 辻正信 …………大本営参謀本部作戦課参謀、陸軍大佐。
● 瀬島龍三 ………大本営参謀本部作戦評参謀、陸軍中佐。
● 牟田口廉也 …支那駐屯歩兵第一連隊長・ビルマ方面第一五軍司令官・陸軍中将。
● 栗田健男 ………第二艦隊司令長官、海軍中将。
もちろん、彼らだけがすべてではない。日本の陸海軍の組織は複雑な派閥で形成されており、人脈は網の目のようにはりめぐらされていたから、日本軍が敗北していく過程には何百人、何千人という「多くの協力者が暗躍した」のである。
重要なことは、日本軍や政財界の中には、日本が天皇制軍事国家であることを望まず、米英(ユダヤ)やソ連(ユダヤ)と「通謀して日本の国体破壊にひたすら協力した者」(自民党体制の先祖たち)が大勢いたということである。
(4)米国のために重大な役割を果たした山本五十六、
骨の髄まで、親米派のフリーメーソン
山本五十六は明治17年4月4日、新潟県長岡の玉蔵院町に六男として生まれた。父・高野貞吉はすでに56歳に達していたので「五十六」と命名されたという。山本姓を名のるのは少佐時代の33歳のときに山本家の養子となってからである。
大正2年12月には巡洋艦「新高」の砲術長となるが、砲術学校時代には海兵29期で五十六より2期上の米内光政と交誼を深めた。米内も教官として赴任しており、五十六とは同じ部屋に起居している。二人はことごとく波長が合ったと言われるが、のちに米内海軍大臣、山本次官のコンビで、陸軍がすすめる三国同盟に真っ向から反対することになる。
大正5年海軍大学を卒業、第二艦隊参謀となるが病気で休職、続いて同6年、海軍省軍務局第二課を経て8年5月20日、米国駐在となって横浜を出港した。アメリカではボストンのハーバード大学に籍を置き英語力を身につけた。
大正末から昭和の初めにかけては再び渡米し、日本大使館付武官として2回目の米国在勤をしている。米国在留中に五十六は中佐に昇進、アメリカの産業やヤンキー精神に強く瞠目するが、五十六がフリーメーソンに入信したのもこの頃と思われる。五十六は在任中にアメリカで石油および航空軍備について強い影響を受けた。
大正7年に五十六は帰国、10年から12年半ばまで海軍大学の教官に任じた。その後9カ月の欧州視察旅行を終え、大正13年3月帰国。そして1年3カ月後、五十六は三たび渡米。アメリカの日本大使館付武官となった。戦前の海軍でこれほどアメリカと縁の深い軍人は他にいないのではないか。
山本五十六が骨の髄まで親米派となる過程は、このようにして造られたのである。
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